「教養とは何か」「知識人とは何者か」ということは自覚的に本を読み、文章を書き始めたきっかけになった疑問だった。
2002年の秋、渋谷で小林秀雄が集めた美術品を見た。掲示してあった文章を読んで、小林秀雄を読んでみたいと思った。同時に、学者でも評論家でもない自分が小林秀雄を読んで何のためになるのだろう、という疑問がわいた。書きはじめていたブログについても同じ疑問があった。そこから『烏兎の庭』、第一部の読書と文章が始まった。
下のさくいんを見ればわかるように、「教養」と「知識人」について何冊もの本を読み、感想を書いた。その結果、得た結論の一つは大衆社会が世界を覆っている現代に「知識人はいない」ということだった。いるのはせいぜい「知識を持った大衆」。だから「知識人」は自称できるものではなく、知識を備えた優れた大衆に与えられる尊称。自称するのは大きな勘違いか自信過剰。
この点は丸山も心得ていたようで、政治的なメッセージを発信するとき、心の内では大学人である「知識人として」と思っていたようだけれど、姿勢としては「市民として」と前置きしていたと本書に書かれている。ただし、この学者としての態度と市民としての態度に矛盾や乖離があるという批判もある。水谷三公『丸山真男――ある時代の肖像』はその一例。
「教養とは何か」については、まだはっきりした答えは得られていない。だから本書には大きな期待を持って読みはじめた。
本書は丸山眞男の教養思想を解き明かすことを第一の目的としつつ、それが丸山の専門である学問や、同時代のジャーナリズムに向けた発信を時系列に沿って詳しく追いかけている。テーマが広くて論点も多く、参照される資料も膨大(丸山が残した資料がそもそも膨大)であるため、一読するだけでは論点が散発的に感じられてしまう。そこで、一度通読してから、これまでの自分の読書や思索と交差する点に絞り、読み返すことにした。
まず、教養思想とは何か。著者は大正教養主義にその原点を見る。
「教養」は古い儒教的「修養」と対立して、「型にはまったこと」「形式主義」を軽蔑し、自己の内面的な中心の確立、自己究明を古人の書物を媒介として果たそうとした。(はじめに)
教養主義は読書至上主義だった。これは竹内洋『教養主義の没落』にも書かれていた。
結論を先に書けば、丸山にとって教養とは「自分の頭で考えること」。読書はそれを支える糧にはなっても必要条件ではない。
読書よりも推奨されるのは会話や質疑応答、少人数でのディスカッション。こういう場で「自分の頭で考える」思考訓練が積極的になされるという。
確かに丸山には著作物の全集とは別に座談集だけでも9巻も出版されている。「だべる」と言って丸山は特に専門分野の異なる人との自由な「会話」を楽しんだ。ここには鶴見俊輔の影響があると思う。
丸山眞男の学問観について。
丸山は在野で学ぶ一般人と「在家出家者」と呼び、学者である自分を卑下して「坊主」と呼ぶ。そして、それぞれの学問に対して求めるものは異なっている。
学問を志す一般人、すなわち「在家出家者」には好奇心から「知の世界」を楽しむことを丸山は勧める。言葉を換えれば「教養としての学問」は「遊び」として学問に取り組むことを目指す。一方、丸山の本拠地である「職業としての学問」とは型と形式のなかで、知的遊戯を楽しむこと。こちらに対する丸山の要望は厳しい。
形式や型をそれ自身としてエンジョイするところに文化生活がはじまる(第五章 知識人から学者へ)
「型」は重要。丸山は現代を「型なし社会」と批判する。あるべき学者の姿もなければ、あるべき大人もいない。すべては大衆社会に呑み込まれ、皆、好き勝手に行動する。丸山は敗戦直後こそ実社会に対して発信していたものの、70年安保以降には社会から離れ「学問の型」の中で生きたいと望んでいた。
先に述べたように、マスプロ教育には否定的でも、少人数の勉強会は好んでいたという。この点は、竹内洋が現代に活かせる教養を生み出す場として提示した「対面的人格関係」につながる。
しかし、多忙で性急な現代社会で「対面的人格関係」を実現するのはとても難しい。丸山眞男のような著名人と少人数の勉強会をしたい人は数え切れないほどいるだろう。希望者のすべてを相手にすることはできない。
また「対面的人格関係」で良い影響力を持っている人をマス・メディアは放っておかない。テレビへの出演や講演の依頼がひっきりなしで多忙を極めることだろう。彼らはまた「いい人」なので、仕事を断らない。1950年代の丸山がそうであったように、断り切れない要望に応えているうちにいつの間にかメディア文化人になってしまう。
学者と知識人とジャーナリズム。この本来方向性の異なる三点にそれぞれ丸山が力を発揮できた本人の資質に加えて、時代に恵まれていたと竹内はまとめている。
丸山のジャーナリズム的な活動は総合雑誌に論文を発表する程度だった。それでも研究が疎かになりかねないほどに多忙を極めたと述べている。テレビや講演会をこなしていては、少人数を相手に「対面的人格関係」を発揮する機会も、「学問の型」のなかで研究に勤しむこともままならないだろう。
実際、すぐれた若手研究者がメディアで引っ張りだこになり、あっという間に専門分野から離れてしまい、安っぽい新書を書いたり、テレビで芸能ゴシップにまで口出しをするコメンテーターに成り下がる光景は今も繰り返し起きている。
実は、丸山はそのような現状を予言するかのような言葉を友人への私信で吐露していた。
昔の「職人」という言葉のもつせまさをとりはらって、"職人文化の徹底化"するよりほかには、この国がサラリーマンと"何でも屋評論家——つまり"専門バカ"の反対物——の二種類の人種によって満たされる日もそう遠くないと思います。(""はすべて原文傍点)(安田武への私信)(第五章 知識人から学者へ)
心配なことは、若手研究者が堕落することだけではない。在家出家者、すなわち学びたい大衆は僧侶(学者、丸山は卑下して坊主と呼ぶ)がしっかりしていないと路頭に迷ってしまうということ。寺が廃れば檀家も困る。
やはり「学問の型」はしっかりしていてもらいたい。
現在、研究者が置かれている多忙と困窮の状況をみると「学問の型」を守ることの困難を感じないではいられない。
丸山眞男の教養観と学問観についてはとりあえず理解できた。ここで一つ、疑問がある。批評やエッセイについて丸山はどう考えていたのだろうか。学問や教養とは、どういう関係にあるのか。
『思想の科学』が学問の民衆化から始まりながらも、やがてメディア・タレントの登竜門になったことを丸山が批判したことが本書にも書かれている。
それでは、批評という表現を貫いた小林秀雄や、エッセイを通じて思索を深め、世に発信を続けた森有正は、丸山の教養観から見るとどう映るのだろうか。
少なくとも学問としては認めないだろう。丸山は自分を「思想史的」で森を「思想的」と評したことがある。優れた批評やエッセイを「思想」とは考えていたかもしれない。
思考や表現の方法は異なっていても、森有正とは深い議論の対談や木下順二を交えた鼎談を行っている。
丸山のよく知られた「タコツボ型対ササラ型」の知識観に対して、森は次のように批判的に応答している。
私の感想では、その「タコツボ」内の一人一人の人間が自分の「タコツボ」をもっていないことが、こういう一種の共同体的「タコツボ」を形成させる原因の一つになっているかと思われた。自分だけの「タコツボ」があれば、こういう共棲的「タコツボ」は自然不可能となり、かえって、一人一人が広い共同の場で他と交渉せざるをえなくなるのではないかと思われた(後略)。
(「ひかりとノートルダム」(1966)『エッセー集成3』ちくま学芸文庫、1999)
森の没後、丸山は「比喩の不適切なことを指摘された」と述懐している。
小林秀雄と丸山眞男の対談はない。ただ『日本の思想』のあとがきで文学と小林について言及している。
文学的実感は(中略)絶対的な自我が時空を超えて瞬間的にきらめく真実の光を『自由』な直感で掴むときだけに満足される。
上のように述べた後さらに、「小林氏は思想の抽象性ということの意味を文学者の立場で理解した数少ない一人」と評価している。
小林秀雄に対しても、学者としてではなく、あくまでも文学者として高い評価をしていたと考えられる。
森にしろ小林にしろ、「自分の頭で考えている」という意味では、丸山の基準に照らせば教養人とみなされるだろう。
ただし、丸山と小林の間には「日本の伝統」をめぐって大きな溝があると私は考えている。
現在、最も求心力のあるメディアであるSNSは、現代の教養にとって、どういう意味があるだろうか。
Twitterが始まった頃は、参加者が相互に均等に交信することが期待されていて、実際そうだった。しかし現在ではひとにぎりの人が大勢のフォロワーを抱えた発信源となっている。言葉を換えれば、Twitterもマスのメディアになっている。わずか一部の発信者が多勢に発信しているYouTuberの世界はさらにその傾向が強い。人気が出た人が初心から逸脱して文化人気取りするようになるところはテレビと同じ。
それでも、私個人はTwitterにまだ期待をしているし、実際恩恵を受けている。ほかの人のツィートに意見を加えたり、議論をすることはほとんどないけれど、専門家ではない人から絵画の魅力を教わったり、本を紹介してもらったりすることは少なくない。
多くのフォロワーはいなくても、鋭い指摘を社会や政治に突きつける「在野の知識人」と称したくなるような人もいる。Twitter上ではプロとアマの境目はない。
以上のような状況からみて、鶴見俊輔が夢見た「大衆の教養化」はある程度、成功したと言えるのではないか。
心配なのは「学問」の方。「教養の大衆化」は丸山がジャーナリズムで活躍していた時代からはるかに加速している。専門書の顔をしたテキトーな本が書店に平積みになっているし、大学教授の肩書きで何から何まで口出しするコメンテーターも後を絶たない。
その一方で、真剣に学問に向き合っている博士課程や、いわゆるポスドクの人たちは困窮に喘いでいる。僧侶がいなければ在家出家者も育たない。
この問題は早く手を打たないと日本全体の教養度が下がってしまう。
一つ、注意しておきたいこと。丸山は体力の許すかぎり、一般人の勉強会や大学生が主催する講演会にも出かけていった。積極的に野に出ていった。
現在も専門の異なる人のあいだの対談や大学の外での講演会はあり、出版もされている。しかし、多くは出版社が企画した対談や講演であり、真に在野でなされているものとは言い難い。
私が知らないだけで、自主的な勉強会のような会合もあちこちで行われているのだろう。残念ながら「会話」ができるそういう場を私は見つけられていない。
最後に、私見を述べる。「教養」というとき、そこに「人格」という一面が必要と考える。どんなに知識が豊富で頭脳が明晰でも、人間的な魅力と敬いたくなるような強い信念のない人は「教養がある」とは呼べない。これが本書を読み終えて得た私の教養観。
私は自分のことを教養人とは思っていない。「教養のある人」になりたいとは思っている。それだけでも私は古いタイプの人間だろう。たとえ道連れのない一人旅であっても、自分の好奇心にまかせて学ぶことは続けていきたいと考えている。
自分の頭で考える
それを目指して、ここ、『烏兎の庭』で私は修練する。
しかし、非正規雇用の病者にとって教養とは一体何だろう。
必要なものか、獲得できるもなのか。その疑問は解けないまま残っている。
さくいん:丸山眞男、竹内洋、教養、知識人、エッセイ、森有正、小林秀雄