小金井公園

月曜日の夜、カルチャーセンターで講演会を聴いた。演者は斎藤環。題目は「中井久夫を読む」。講演会を聴くのはずいぶんと久しぶりのこと

講演会を知ったのはツイッター。盛況で100人教室がほぼ満席だった。定時に退社してから時間に余裕があったので、前から中央、3列目、講師の前を陣取ることができた。

申込完了の報せに事前にメールで質問を送ってもよいとあったので、質問を三つ、送った。講演の時間は1時間半。中井の文章の魅力を解きほぐす駆け足の講演だったにもかかわらず、最後に私が送った質問に答えてくれた。

手前味噌になるが、この質問は講演の肝に関わる的を射たものだった。そこで私の質問とそれに対する講師の回答、さらに講演での語りとの重なりを書きとめておく。

以下、引用文は配布された資料を元にした。後述するように中井久夫の文章は「箴言」のように短くて含蓄の多い表現が多く、引用しやすい。文庫化されている文章から斎藤自身が集めたもの。これだけでも十分に読みごたえがある。


1. 中井久夫はトラウマが寛解するとき、退屈な挿話になると言っています。その一方で、「心的外傷は「良心」あるいは「超自我」に通じる地下通路を持つのであるまいか」と述べてもいます。二つの見方は矛盾していませんか。矛盾していないとすれば、二つの見方はどのようにつながっているのでしょうか。

答:中井久夫は精神医学を軸に幅広い分野に造詣が深い。精神分析の知識も豊富。前者は精神医学的な見立てで後者は「超自我」という言葉からもわかるように精神分析的な見方をしている。従って両者は矛盾しない。

感想:幅広い知識を持つ中井の思想は精神医学の枠にとらわれない。それどころか「反精神医学」的な志向さえある、と斎藤は言う。

医学とは人の異常な部分を観察し、それを治療する学問と技術。中井の姿勢は少し違う。病気の人のなかにもある健康な面を重視する。そして治療の技能ではなく、患者が寛解する過程を重視する。あくまでも視点は患者の立場にある。

だから、中井にとっては医療は病気からの回復では終わらない。人間的に暮らす、そういうことが目標になり、それはいつまでも、どこまでも生きる目標となる。

中井久夫自身は「精神科医の目標」は「できるだけ豊かで無理のない人生をまっとうするように援助すること」と書いている(『「つながり」の精神病理」)。

ほかにも次のような言葉がある。

精神医学の目指す健康とは苦しみや脅えなしに、ゆとりを以て家常茶飯を営めることである。
(『精神科医がものを書くとき』)

2. 中井久夫は患者の気持ちを推し量ってもあえて患者の立場には立ちません。少なくともそういう言い方をしません。いい意味で患者に対して愛想よくしないとも言えます。

また、中井久夫は、どれほど患者の気持ちがわかったように思えても診る側にいることを自覚している、また斎藤先生もそうである、という見方は間違っているでしょうか。

答:この問いに直接の回答はなかった。代わりに斎藤は次のように応えた。

精神科医は患者の人間としての尊厳を大切にするのと同じくらい、自分のプライバシーを大切にする。私はそう心がけているし、おそらく中井先生もそうだっただろう。

感想:この回答は腑に落ちた。患者と医師のあいだには適度な距離がなければならない。中井は警告している。

治療者は、同情者(本人の過剰同一化)となるか、親の立場と同一化するか、「わけ知りオジサン」になるか、このいずれかになり果てる危険が多い。
(『「思春期を考える」ことについて』)

斎藤は中井が持つユニークな特性の一つとして高い共感能力(empathy)を挙げた。とはいえ、中井は患者に共感しつつも過度に同一化はしない、このバランス感覚は臨床医としての能力の高さを示しているだろう。

精神科医のなかには患者と「深い関係」になってしまう人もいる。ユングもそうだったと言われているし、ドラマ『刑事コロンボ』にも、そのような医師が何人か登場する。けっして珍しいことではないのではないか。

個人的にも、身近にそういう悪質な医師に振り回された人を知っている。40年くらい前はまだそういうヤブ医者がいた。

患者の尊厳を大切にすることについては、中井は明言している。

患者に対して尊敬の念をもてない場合は治療してはいけない
(『世に棲む患者』)

「深い関係」になってしまうのは、患者を尊敬していない証拠。自分の「飼い犬」のように思っているからそいう関係になる。

最近では、「深い関係」にまで関わることはむしろ稀で、うつ病患者が増え診察の時間も治療の期間も短くなったので、患者と治療者は必要な距離さえ持てなくなっている。精神疾患関連の報道を見聞きするとそんな風に感じる。

幸い、今、うつ病患者である私は主治医と適度な距離を保ちながら、話したいときは話したいだけ話せる環境にある。

ところで、統合失調症の専門医であった中井はうつに関しては苦手意識を持っていたという話を聞いて意外だった。というのも、うつについても「わかってくれている」と膝を打ちたくなるような文章をいくつも読んでいたから。

例えば、「中年の課題が硬直的ないし過度の社会化に抗して自分を維持することであって、その失調をうつ病に見ることができる」といった言葉はまさに自分のことを言い当てられた気がする。


3. 中井久夫を読んだとき、松田道雄岡本夏木と共通するものを感じました。医師であることはもちろん、マイナー言語の得手であること、関西人であることも彼らの温かくリズミカルな文章に現れていると思います。中井久夫は昭和10年生まれなので戦前戦中を成人記憶として持つ最後の世代です。言うなれば戦後知識人最後の世代です。

また、戦後知識人のなかには医師を本業とする人も少なくない。斎藤茂太、なだいなだ、土居健郎、。戦後の医師系知識人という系譜のなかでみるとき、中井久夫はどのように位置づけられるでしょうか。その独自点は何でしょうか。

答:中井久夫はその思想において、また文体においても、何らかの系譜に位置づけることができない、非常にユニークな存在。専門用語がほとんどない文章でありながら、精神医学のエッセンスを伝える。かといって新書ほど手軽で易しい本は書いていない。

中井の文章の特長は文が小気味よく短い、という点にもある。短い文は「箴言」のような短くて含蓄のある珠玉のような言葉となり読み手を引き込んでいく。

感想:「箴言」は中井の文章の特徴をよく言い当てている。私自身、『徴候・記憶・外傷(sign, memory, trauma)』の感想に「箴言」と書きとめている。

中井の文章には、独特のリズムがある。短い文で具体的な事例を重ねたあと、すこし長い文で抽象論をまとめる。また、ときおり本筋から離れて箴言めいた一文を差し込む。

「箴言的」とは「非体系性」と斎藤は言い換える。さらに続けて体系性を持たないことは党派性を持たないことであり、カルト化しないという利点がある、と斎藤はまとめた。

カルト的な党派性はない。医師だけでなく人文社会科学系の研究者にも中井「ファン」は多い。ただし、聖典のごとく祀り上げる「マニア」もいないわけでもないらしい。

斎藤は講演の冒頭で、自分は私淑する一ファンであり、マニアではないし、そういう方の細かすぎるツッコミは受けません、と言い切っていた。


まとめとして、一言で中井久夫の文章を言い表そうとすれば、「人間観察」、と言える。

この言葉は斎藤も使っていた。患者の健康な面と回復する過程の観察にはじまり、そこから普遍的な意味で「人間」を観察し、被災者患者へ細やかな配慮をしながら深い含蓄のある言葉で表現する。思索を試みる文章、という意味では"エッセイ"の好例とも言える。

90分間聴いた斎藤環の中井久夫観を私なりにまとめると以上のようなものになる。

平日はいつも早寝をしているので夜に出かけただけでとても疲れた。このままでは一週間持たないような気がしたので水曜日の夕方、S医院へ行った。

月曜日に出かけようと思っただけでも大きな進歩じゃないですか。

週の半ばで挫けそうになっていた心をそう言ってS先生は励ましてくれた。私はS先生の「観察」に救われている。願わくば「観察」の対象は「寛解の過程」であらんことを。


さくいん:中井久夫斎藤環S先生


付記。

質問の手紙には次のようなことも書いた。この部分についてのコメントは聞けなかった。

   本題とは離れますが、これは斎藤先生の『この世界の片隅に』への絶賛にも感じられます。すずさんと似たような体験をもち、作品のエピローグのような救いをまだもち得てない人にとって、「歪んどる」の台詞以降は映画も原作も二度とは読めないほど辛い気持ちにさせます。
   自分の気持ちを言い当てられたように感じた人にとって『この世界』は簡単には賞賛できない作品です。