著者の本は前著『ジェラシーの国』ほか、いくつか読んでいる。前著は日本社会の現状を「ジェラシー」というキーワードで読み解く「社会分析」だった。
本書は、さらに踏み込んで問題に満ちた現実を打破するために「怠ける権利」というキーワードを用いる。
ところが、この「怠ける権利」は本書の主題でありながら、あまり顔を出さない。本書は多くの部分を戦後史を当てて、政治、労働、教育、家族など多面的な視点で詳しく論じる。その分量はほとんど戦後史の本ではないかと思わせるほど。
その理由は二つある、と思われる。
一つは、想定している読者が平成生まれの若者であること。
もう一つは、現代の日本社会について論じるためには、どうしても敗戦まで遡らなければならないこと。
一つ目について言えば、平成生まれの親たちである、いわゆる団塊ジュニアも読者として想定されている。平成生まれも団塊ジュニアも、戦前の歴史までは学校で学んでも、自分が生まれて生きてきた同時代について「歴史」として学ぶ機会はあまりない。
しかし、おそらく現代の日本社会が抱える諸問題は戦前から引きずっているものと戦後に生じたものがあり、戦後史を理解しないでは現代の日本社会を理解することはできない、と著者は考えている。
著者が列挙する戦前から現代まで残るもの
総動員体制、集団への帰属意識や同調性の高さ、エネルギーと国富優先の政策。これらは第二次安倍内閣の政策のなかに明に暗に盛り込まれている。
一方で、戦後に始まったもの
新中間層の勃興と没落、経済格差の拡大、学校社会から企業社会まで続く競争、そして、自発的な隷従。「自発的隷従」は「怠ける権利」の対極に位置する本書で第二に重要なキーワード。
競争社会のなかで、人は気づかぬうちに学校や会社に自分の生命まで預けるような「自発的隷従」に陥る。その行く先にあるのは「過労死」。
怠けることは遊ぶこと、余暇を楽しむことではない。たくさん働いて、たくさん消費することは、「怠ける」こととは違う。それは「消費」であり、実は自発的隷従の一種。自分がしたくないことはせず、自分が好きなことを「好きなように」にすることが「怠ける権利」を行使すること。
そこまで考えて、夏目漱石の言う「閑人」という言葉を思い出した。
私はただ寝ているのではない、えらい事を考えようと思って寝ているのである。不幸にしてまだ考えつかないだけである。なかなかもって閑人ではない。諸君も閑人ではない。閑人と思うのは、思う方が閑人である、でなければ愚人である。文芸家は閑が必要かも知れませんが、閑人じゃありません。ひま人と云うのは世の中に貢献する事のできない人を云うのです。いかに生きてしかるべきかの解釈を与えて、平民に生存の意義を教える事のできない人を云うのです。こう云う人は肩で呼吸(いき)をして働いていたって閑人です。文芸家はいくら縁側に昼寝をしていたって閑人じゃない。
「怠ける権利」を行使する人は、これくらいの気概があっていいと思う。
私自身について言えば、幸いなことに競争社会から脱落したので、「怠ける権利」を行使せざるを得ない状況に陥った。結果的に怠けながら生きている。「えらい事」は、まだ思いついていない。
本書は現代社会を俯瞰的に見ている。だから、多勢に当てはまることが書かれていても、すべての人が当てはまるわけではない。
階層間移動の少ない社会でも移動する人はいる。文化資本の相続にあずかれなかった人、たとえば、両親ともに高学歴であるのに大学へ進学しなかった、あるいはできなかった人。引きこもりや不登校になった人。悩み苦しみ自ら生命を落としてしまった人。反対に、両親ともに学歴がなく、相対的貧困の家庭から努力して新中間層へ登った人もいるだろう。
そういう大局観では見落としてしまう人の人生ドラマのなかに「怠ける権利」のヒントが落ちているような気がする。
私がそうだったように、世の中の本流から別れた細い支流に「怠ける権利」にたどり着く流れがあるのではないか。
それが書かれていないのは、本書の欠陥ではもちろんない。現代社会の俯瞰することで、自分を振り返ると自分の中に「自発的隷従」に陥っている部分もあれば、「怠ける権利」を行使しようとしている部分もあることに気づかされるのだから。
巨視的な理論がしっかりしているから、身の回りの小さな事例に気がつくことができる。
この点については著者も何度か引用している丸山眞男の言葉を引用しておく。
従って、理論家の眼は、一方厳密な抽象の操作に注がれながら、他方自己の対象の外辺に無限の曠野をなし、その涯は薄明の中に消えてゆく現実に対する「断念」(原文傍点)と、操作の過程からこぼれ落ちてゆく素材に対する「いとおしみ」がそこに絶えず伴っている。
(「理論における無限責任と無責任」「日本の思想」『日本の思想』(岩波新書、1961)
本書の帯に「「自発的隷従」を克服する”処方箋"」を提示する」と書かれている。確かに「処方箋」は提示されている。しかし、その「処方箋」は白紙で何も書かれていない。
「処方箋」の中身、すなわち「怠ける権利」の条文は自分で書かなければならない。誰にでも当てはまる「処方箋」はない。
「処方箋」には大きく、厳しい言葉が書かれている。
21世紀にお前はどう生きるか。自発的隷従の道を進むのか、それとも「怠ける権利」を行使するのか。
処方箋の中身は自ら探さなければならない。その意味では、本書は平成版『君たちはどう生きるか』と呼びたい。