神代植物公園の花菖蒲

新聞広告で見つけた。「対談」と書いてあるので軽い本かと思いきや、二人の間の深い「対話」を通して多岐にわたる論点を語り合う、非常に示唆に富む本だった。斎藤によれば元は4時間x6日間の長丁場で本になった量の3〜4倍は喋ったという。

これほど濃密な「会話」を私はしたことがない。話の合う友人がまったくいないわけではないけれど、皆、忙しく、数ヶ月に一度会う程度。数時間、食事を共にして近況を報告するのがせいぜい。

だから、本書を読み終えて真先に感じたことは、羨ましい、という気持ちだった。

全体を通して二人の意見に賛同することが多くて、反論したいことはほとんどなかった。批判めいた感想はない。その代わり、「対話」から気づいたことや広げたい話題がたくさんあった。

以下、「対話」のオブザーバーになったつもりで各章ごとに思いついたことを書いてみる。


第一章 友達っていないといけないの?——ヤンキー論争その後

「日本教」や「人間教」と二人が口を揃えて指弾しているものは、日本社会に根強く残る「同調圧力」と言い換えることもできるだろう。

典型的なのは大企業。人間全体を受け入れ、人生=会社生活にしてしまう。反抗する者、落ちこぼれる者は排除する。

そういう環境下では信頼関係は打算的になる。競争も激しい。ほんとうの友だちは見つけにくい。

友人であれ夫婦であれ、「条件のない承認」、すなわち「共感」がほんとうの信頼関係という説明にも納得した。

疑うこともなく知り合う人々を/友だちと呼べた日々へ
松任谷由実「ずっとそばに」

そういう時期は確かにある。でも、大人になってからそういう人間関係を作るのはとても難しい。無理ではないか。この点について病気と秘密を抱えている私は悲観的。


第二章 家族ってそんなに大事なの?——毒親ブームの副作用

社会の再生について、家族が重要な鍵になると斎藤は『家族の痕跡』で書いていた。そのときはどんな集団が家族なのか、はっきりとは書かれていなかった。

本書では認知度も法整備も広がっている同性婚など、戦後、標準的とされてきた核家族とは違う家庭観が議論されている。

かつては日本でも、書生や女中や居候など、血縁関係のない人と暮らしを共にする形態もあった。今は血縁にこだわりすぎている

少子高齢化が進むと新しい形態の家族が生まれる。そういう希望には同意する。


第三章 お金で買えないものってあるの?——SNSと承認ビジネス

ネット社会になり、人間が人間であるための最低限の信頼関係や承認欲求さえも金で取引されている。そのカラクリに驚きを禁じ得ない。

自己承認を求めてオンラインサロンに人々は集まるが、主宰している方も「人を集められる自分」という自己承認欲を持っている。その上求められている「キャラ」に縛られてしまい、結局サロンは同じコンテンツを繰り返して硬直するか、出資者が飽きて離れていき瓦解するという指摘には納得。

ネット社会で恐ろしいと思うのは、検索履歴からお勧めの音楽や動画が紹介されること。

2002年以降、図書館に通うようになり、たくさんCDを借りてきた。コンピレーション・アルバムを借りる⇨そのなかで気に入ったアーティストのアルバムを借りる⇨そのアルバムに参加しているミュージシャンのアルバムを探す。そんな風にして音楽ライブラリを大きくしてきた。

こういうつながりから新しい音楽に出会うことが楽しい。

AIによる紹介には頼りたくない。音楽も動画も自分の感性で選びたい。


第四章 夢をあきらめたら負け組なの?——自己啓発本にだまされない

夢をあきらめた、とはまさに私のこと。ストックオプションで一儲けして、外資系企業の日本支社長になる。そういう俗物根性の塊のような夢。6年前それさえ儚く潰えて、いまはこの世界の片隅に身を縮めて細々と働いている。

夢をあきらめてよかったこともないわけではない。重圧はなくなり、自由に使える自分の時間も増えた。

それでも時々、「何とかならなかったかな」と自問自答することがある

「これでよかった」と言い切れるようになるまでには、まだまだ時間がかかりそう。


第五章 話でスベるのはイタいことなの?——発達障害バブルの功罪

障害者だけどある分野では天才、傷害を克服して大成功、大きな挫折を味わったのに、努力して大逆転、大成功を収めた。

テレビ番組も、電車で宣伝している本もそういう類のものが多い。こういう本が増えたのは『ビリギャル』あたりからだろうか。

「これだけで成功できる」という本も多い。斎藤は「ヤンキー」たちは手頃な幸せで満足していると説くけれど、「成功本」の流行をみると、多くの人が手っ取り早く金を儲けたいとも考えているようにみえる。上ばかり見ている人は少なくない。それはヤンキーが現状に満足していることと同様、将来がバラ色に見えないせいでもある。ハウツー本に群がる人とヤンキーは心根の部分では同じ、と言えるだろう。


第六章 人間はAIに追い抜かれるの?——ダメな未来像と教育の失敗

AI時代だからこそ、人文系教育が必要という意見に同意。これまでに何度か引用している荒川洋治の「文学は実学」という主張と軌を一にする。

ネットも検索もAIもない時代に、文学者たちは人間を観察することで今では医学によって解明されつつある「うつ」をはじめとする精神疾患を描写し、思索を深めてきた

そういう努力はいまも必要。専門家がわかっているから一般人は知らなくていい、というわけではない。たとえ専門家のレベルでなくても、自分の頭と心で考察し、理解する努力が求められている。それがリベラルアーツというものではないか。

リベラルアーツとはニュース解説を聞くことはではない。クイズ番組で博識を披露することでもない。


第七章 不快にさせたらセクハラなの?——息苦しくない公正さを

セクハラ、人種差別、パワハラ、LGBT差別、学校でのいじめ⋯⋯。なぜ、何度も大事件が起きて、そのたびに反対の運動が発生するのに、結局、元の木阿弥になり、解消されないのだろう。

社会に多様性がなく、閉鎖的で、硬直しているとハラスメントが起きやすいという見方には同意。セクハラ容認に職場に一人白人の外国人が入っただけでハラスメントがなくなったという。硬直した社会に風穴が開くとハラスメントは起きにくくなる。では、アメリカのように巨大社会での差別はどうすればなくなるのか。

キング牧師らが活躍した公民権運動からすでに50年以上経つ。それでも解決されないアメリカの人種差別の根は深い。


第八章 辞めたら人生終わりなの?——働きすぎの治し方

新入社員が過労から自死した「電通事件」で、「うつ」がパワハラなど外的要因でも発症することがはじめて裁判で認められたという。これは知らなかった。

電通は1991年にもパワハラによる自死事件を起こしている。にもかかわらず、2015年にも同様の事件が起きた。企業風土がまったく変わっていない証拠。

そして、同じ電通が巨額の公共事業を次々と請け負っている。何の反省もなく、何の改善もない。電通は最近、政府・経産省との癒着も指摘されている。諸悪の根源としか言いようのない企業である電通は解体されるべきではないか。

この章でもリベラルアーツの復権が唱えられている。経済成長一辺倒でない頭脳は人文系の学問でこそ学ぶことができる。與那覇はそう主張している。一方、斎藤はやや悲観的。

ただ現在の人文系の学部教育は、そうした本質的な問いかけからどんどん遠ざかっているような印象もあります。

斎藤の悲観的な見方に同意しつつも、本書のような本が出版されていることに私は光明を見る。


終章 他人は他人なの?——オープンダイアローグとコミュニズム

多様な他者とのあいだに生まれる「条件なしの承認」の上に成り立つ「対話」が社会の再生を促す

二人の「対話」はそうした結論へ向かっている。

それ方向性に異論はない。

ただ、懸念することもある。現実に「対話」をする相手と時間を持てる人はけっして多くない。誰もがすでに過労状態で、硬直した会社社会に縛り付けられている。独法化と学校間競争を進めることを強制させられている大学についても同じ

さらに言えば、本書を読み進めてわかってくることがある。それは二人が称える「対話」は非常に知的なハードルが高いということ。そのレベルの対話ができる人はそう多いとは思えない。特に斎藤の読書案内は本書が想定している読者と乖離しているように思えてならない。

斎藤環にはときどき高踏を気取るところあまり好ましくない癖がある。

もちろん、その点は読者の努力次第、と言われたら、無学で努力もしない私に返す言葉はない。

また、「対話」する相手も時間もないのは、もともと友人が少なく、その誰もが忙しくて会う暇さえない私の場合に限ってなのかもしれない。

世の中には勉強会や読書会を熱心に開いている人が多勢いることを私も知らないわけではない。


会社社会から落ちこぼれたので金はないが、時間だけは普通の会社員より余裕がある。

私は一人で読み、一人で書いている。そこには「対話」もないし、「往復書簡」もない。

そこで感想の冒頭に戻る。

仕事とはいえ、6時間を4日間、「対話」に費やすことができる人がうらやましい。


さくいん:斎藤環松任谷由実荒川洋治キング牧師