新聞か書店か、どこかで「ナラティヴ」という言葉に目が止まった。前に『ナラエビ医療学講座』という本を読んだことがあったので。
行きつけの図書館には置いていないので、買って読むことにした。
内容は期待していたものとは少し違っていた。本書は「ナラティブ」について書いていて「エビデンス」については書かれていない。「アプローチ」や「努力」という言葉が書名に入っているように本書は完成された理論ではなく、一つの試みと言える。
著者は一般的な医療の範囲を越えて、夢の中やシャーマンを通じた故人との対話を模索している。遺族に真摯に寄り添う姿勢には心打たれる。
博士論文を元にしているので引照や論述が細かく容易に読める本ではない。何より主題が重いので、読み始めるにも、また読み終えるまでにもかなり時間がかかった。
これまでの考えを改めさせられた論点と、本書に頻出するキーワードから読後に考えさせられたことを書いておく。
一点目。本書に教えられたこと。
自死遺族への支援は早いほどよい。長い時間が経つと傷口は広がり、身を守るために硬いかさぶたができる。こうして長い年月をかけて固着してしまったかさぶたは、剥ぎとることも溶かすことも容易ではない。
トラウマの症状が出てからでは遅い。統合失調症やうつ病の症状が発症する前に、それを防止しなければならないし、早い対応はそれを可能にする。
体験がまだ生々しいうちに表は硬く裏地はやわらかい衣で心を包んでやれば外からの刺激から身を守ることができる。だから、内側で悲しみをゆっくりと自分なりの速度で和らげていくこともできる。
これまで死別体験のトラウマは、うつ病や統合失調症の症状が出てから対処すべきと思っていた。誰でもトラウマを持つとは限らないから。
本書を読んで考えを変えた。自死や突然の事故や事件で死別体験をした場合は、できるだけ早く「ケア」をする必要がある。
大切なことは、死別体験をしてからできるだけ早く、「上手に悲しむ方法」を身につけること。
私は、まだそれを知らない。自助グループに参加するには時間が経ち過ぎている。夢で再会することもないし、頼れるシャーマンも知らない。
二点目。本書のまとめに対して私自身のために補足すること。
本書では「納得」という言葉と「現実を変える力」という言葉が、著者の主張をささえるキーワードとして何度も使われている。
喪失体験を物語ることで少しずつ自死の事実を受け入れ、「納得」する。シャーマンとの交流や夢の中での再会は「癒し」となって「納得」を促す。そして「納得」することにより「現実を変える力」の萌芽を見出していく。
「納得」することは忘れることではもちろんないし、「これでよかった」と無理に合理化することではない。
自死遺族の心の傷が癒えることはない。時が経てば経つほど、懐かしくなればなるほど、悲しみも深くなる。
著者は遺族が自分なりに故人の自死の理由について「納得する」ことを一つの目標にしている。「納得すること」はいいことか。日常生活もままならないような病気になってしまうのは確かに困る。しかし、本人でもおそらくなぜそうなってしまったのかわからないことをこちらだけわかった風になるのは、遺族の心身を守るためとはいえ何かおかしい気がする。
著者もその点は注意深く説いている。それでも、「納得」という言葉の語感に引きずられて著者の意図を誤解する人もいるかもしれない。私自身、最初に読んだときは著者に反発する感想を持った。もう一度読み直して、著者の言う「納得」が忘れることや無理に辻褄を合わせることではないとわかった。
昔のことは忘れろ、という人がいる。もう長い時間が経つのだからいつまでも下を向いていないで元気を出しなさい、という人もいる。余計なお世話と言い返したい。
世の中には、何千年も前の墓や大昔の人々の暮らしを一生をかけて調べている人がいる。
会ったこともない、2000年以上前に生きた人の生き方や死んだ意味をまだ問い続けている人もたくさんいる。
それに比べれば、ごく最近亡くなった身近な人の生き方や死に方について悔やんだり考えたり悩んだりすることは全く特別なことではない。むしろ当然の心持ちと言えよう。
それは決して後ろ向きな生き方ではない。
だから問題は癒しや納得をどう得るかではない。
問いかけるべきは日常のなかで、どんな風に故人を思い出し、苦しみを分かち合いながら悲しみとともに暮らしていくか、ということにある。
「現実を変える力」という言い方もよくされている。
「納得」にしろ、「現実を変える力」にしろ、悲しみに沈んでいる遺族が「物語る」経験を経て「癒し」を得て獲得するもの。言葉にならないような体験を言語化することで客観的なものとして自分に言い聞かせ、心身が直接受け止める体験を森有正が「経験」と呼ぶような自分の心の糧とする。
私の理解では、著者の言う「現実を変える力」は、逆境を克服する「PTG」(心的外傷後成長)のような強いものではない。
著者は、自死遺族の悲嘆がどれほど深く重いものか、よくわかっている。「納得」して消失するものでもなければ、乗り越えるようなものでもない。「現実を変える力」も多くの場合「力の萌芽」とかなり控えめな意味で使われている。悲しみに暮れた生活を抜け出すという意味合いではないか。少なくともいきなり跳躍するような意味ではない。
だから著者は非常に慎重で、悲しみとともに生きていくことを目標としている。
生きている人と暮らしていれば、毎日の暮らしのなかで喜びを分かち合うこともあれば、すれ違いや衝突もある。もし死者が生者のなかで生きつづけるというのなら、それが単なる慰めの言葉ではなく本当にそうであるなら、大切な人を失くした悲しみだけでなく、大切な人とともに生きる喜びとともに憤りや悔しさがいつまでも残ってもいいのではないか。
それがむしろ自然な姿ではないか。
副題に「再会までの対話努力」とある。死者は生者の心にいても、なかなか出会うことはできない。悲しみに埋もれていても死者は見えないし、多忙な日常に溺れていては声も聴こえない。
辛い経験を語ることも失くした人を夢に見ることも、心が穏やかで落ち着いていなければできることではない。
悲しみを「克服」してしまい、新しいことに次々と関わっていく人もいるだろう。「レジリエンス」そのものを否定はしない。ただ、誰もがそう強く生きられるわけではないし、そうしなければいけないわけでもない、と私は思う。
穏やかな雰囲気のなかで死者とともに静かに暮らす。そういう生き方があってもいい。
死者とともに生きる。 悲しみを抱えたまま暮らす。言葉で言えてもどう言うことなのか、まだわからない。
ふと、聴いていた音楽に小さなヒントを見つけた。「雪の降るまちを」(内村直也作詞、中田喜直作曲、1952)にある「この悲しみをいつの日かほぐさん」という一節。
「悲しみをほぐす」ということ。死者を忘れず、過去から目をそらさず、悲嘆を固着させることなく、生々しい感情のまま持ち続ける。再び森有正の言葉を借りれば、「過去から目をそらさないこと」は「過去相に生きる」となるだろう。
簡単なことではない。それでも、放置した悲嘆に心身が覆われて現在を生きることもままならなくなるよりは、過去を見つめること、過去相に生きることが、逆説的にはるかに未来志向と言えるのではないだろうか。
「悲しみに終わりはない」。本書の読後感は、感想を書き終えたいまも変わらない。
写真は葉山夕照。