1.人格と性格
2.愛情の問題
3.内在する主体
4.自立と依存
5.見捨てられる恐怖
6.怒り
7.自我の形成
8.終章
「院内通信」の当初の目的は,摂食障害の外国の症例に即して,私がこの問題をどう考えるかを提示することでした。そうすることで,診療を受けていただいている皆さまに少しでも益するものがあればよいと考えていました。ですから当初は,パンフレットの類の簡単な解説文のようなものを念頭に置いていたと思います。しかし始めてみると,簡単には済まないことになってしまいました。というのも,少し考えればいうまでもないことですが,改めて思い至ったのは,心の問題は大変に複雑で,奥が深く,我々のような専門的な立場にある者にとっても,容易に扱えるものではないことです。
心の問題は人間存在そのものに関わります。心の病気はそのことと無縁であるはずがありません。従って心の病気を考えるに当たっても,人間存在の全体を視野に置かなければ,「群盲象を評す」の喩えのとおりになってしまいます。
考えてみれば,いかなる場合でも「簡単な解説」というのはむしろ難しい作業です。その問題に精通している上位者でなければできないことです。
学問一般についてみると,問うものと問われるものとはひとまず分離しています。つまり研究者が,外在化されている何らかの対象について問いを立てます。どの研究分野であれ,学問的に解明されつくすという事態はほとんど考えられないことなので,誰が第一人者かというのはそう簡単な問題ではありません。しかし一般論でいえば人間の営為には違いないので,ある研究領域に最も精通している人といういい方は可能です。人間の営為というのは,問う者としての人は,問われている事象の外部に位置しているという体裁の下での行為という意味です。この体裁の下では,人は,問われている事象に対して,それらの全体を知ることが可能であるという原則の上に立っていることになります。
ところが人間が人間自身を問う場合,誰が上位者かという問いには,これとは別種の困難があります。
この場合は,問う者としての人は,問われているものの外部に位置していません。喩えていえば,自分の尻尾を噛んでいるウロポロスの蛇のように,問題に食らいついても,終わりのない円環から抜け出せないことになりかねません。つまりウロポロスの尻尾をつかもうとするのがウロポロスの頭であれば,出口のない迷路をさまようだけということにもなるのです。
かつて哲学者のソクラテスが,彼の信奉者が受けた「ソクラテスより賢い者はいない」という神託の真意を知りたいと考えました。彼は,人間が人間らしく生きるためには,その根本知が必要であるが,自分はそのことに関して無知であると自覚していました。当時のアテナイ市民は,成人はすべて立派な市民であるための徳を身につけていなければならないと考えていました。その徳は人間社会が作り出した規範的なもので,その意味ではソクラテスは,いうならば落ちこぼれでした。神託を受けてソクラテスは,当時の知者として名高い者を尋ね歩き,彼らの考える徳についての根拠である知を問い質しました。結論的には,ソクラテスの反問によって,彼らの全てが空虚な知にしがみついていたに過ぎないことが暴露されただけでした。それでソクラテスは,神託の意味する賢者とは,「無知であるのを自覚している者」ということであり,真の知者は神のみであるという結論を得ました。
この例は,人間の上位者は存在するかという問いに対する一つの答えを提示しています。つまり人間の問題を熟知している人間はあり得ない,人間の問題に関するかぎり,敢て上位者を名指しするなら神とでもいうしかないということになるかと思います。
ですから,心の問題を語ることは根本的に難解です。そういう事情を考えれば,心の病気についての「簡単な解説」などというのは初めから無謀なことでした。
とはいえ,心の病気の専門家はいますし,私もその端くれの一人です。この問題は難解すぎて何も分からないというのでは,笑い話になりかねません。ともかくもそういう仕事をしているのですから,責任もあります。それで,一旦始めた以上は止めるわけにはいかないのですが,私にできるのは,日ごろの診療を省みて,そこから意味がある(と思われる)糸筋を慎重に引き出してみることのように思われます。そういう思いで作業を試みているうちに,いつしか自己研鑽の場になっていきました。それを「院内通信」という形のままで敢えて残したのは,一つには私に関わりを持たれた方に私の考えをお伝えしたいということです。そしてもう一つには,どなたが読んだとしても読むに値するものでなければ意味がないので,公開という形で一定の緊張の持続が保たれるだろうと考えたことです。
気になるところを直し直ししているうちに,思いのほかに大きくなってしまいました。それどころか永遠の工事現場のような気配で,これでお終いということがないだろうという果てしもないことになっております。
また当初の’M子さんの症例’に即するつもりが,まったく変化してしまいました。自己研鑽ということですから,症例の検討が欠かせません。症例を通じて浮かび上がって来るものを,可能なかぎり論理の糸で繋いでいくのが生命線といえます。症例を記載するに当たっては,ご迷惑をお掛けしないように出来るだけの配慮をしているとはいえ,全くの作り物では客観性という観点からあやふやなものになると考えますので,どうしてもご本人の目に入れば自分のことだと分かると思います。そこで最も怖れたのは,不快感を持たれたり,抗議を受けたりすることです。いちいち予め了解をいただくのが筋ですが,それは大切とは承知していても,なにせ多数にわたり,全ての方のご了解をいただくのは現実的ではありませんでした。ご本人が読まれたとしてもご不快のないようにという姿勢には注意しました。ご本人から,「読んだ」といわれたことも少なくありませんが,幸いにして抗議の類はいまのところ一件もありません。
ここに上げる症例は,いうまでもなく興味本位ではなく,あくまでも問題を掘り下げて一般化していくための素材です。私自身の自己研鑽という意味があるものの,患者の皆さまに益するものと信じて作業を続けています。何かご不快があればお話いただきたくお願いいたしますが,趣旨をご理解いただけると有り難いことです。
いま述べたように,心の病気の問題は人間存在そのものと切り離すことができません。従って,問題の捉え方が人によって異なり,一様ではないのが当然といえます。
医学は自然科学の方法論で進歩,発展してきました。心の病気も医学の一分野ですが,自然科学をそのまま適用できるものではありません。自然科学は’物’を扱う方法論で,’生きている全体’から不透明なものを排除して,意識の光が隈なく行き渡るように物を純化していくことで成り立つものです。その方法は厳密で,科学であることの見本ではあります。心の科学も科学であるからは,それを手本にする必要があります。その際,取り分けて難点になるのは,心には無意識の世界があるという問題です。自然科学が隈なく意識の光を当てていくことであるという原理からすると,意識の光を当てることは不可能であればこその無意識に対して,自然科学は全く歯が立たないことになります。
それにしても無意識の世界があると分かる(意識できる)のは何故でしょうか?
その答えは,(自我に拠る)意識の世界が有限であるということです。つまり有限の世界があるということは,無限の世界があることが前提となって可能なのです。無意識の世界とは,自我の光が届かない心の領域があるということであり,その存在は自明であるといえます。
このことを定立化していえば,「無限の世界は存在する。心に関しては無意識の領域が無限の世界である。その存在は自明である。しかしその存在様態を意識が捉えるのは不可能である」ということになります。
あらゆる対象は意識に映じるかぎりで存在しています。つまりあらゆる対象は,現象として存在するのです。それが自我に拠って意識と共にある人間の実相です。たとえ物理学の対象が’純化された物’であるとしても,意識に映じているかぎりの存在(現象的存在)であることに変わりがありません。換言すると,「純粋の物とは何か」という類の問いは,人間にとっては何のことか分からないのです。そして客観性の保証は,我々が意識が正常であるかぎりは,誰もが同一の体験が可能であるというところにあります。物理学的に’純化された物’の純粋性は,意識が正常な者なら,万人がその対象についての体験を等しく共有できるのは勿論のこと,因果律という純粋論理として定式化が可能であるというところにあります。それは当の対象を見ている科学者の眼から,無意識的心を徹底排除することで成り立つものでもあります。対象に意識の光が隈なくおよぶというのは,そういう心の動きがあって可能なのです。
ところで心を自然科学者の真似をして捉えようとするとき,心のいたるところに無意識が入り込んでいるのが難点になります。
例えば100メートルの競争という単純な行為であっても,無意識が入り込んでいるのです。この競技の新記録の限界値をいい当てることができる科学者はいないでしょう。誰であれ5秒以内で走るのは無理だと思うでしょう。限界があるのは明らかなのです。しかし具体的な数字で予想するのは不可能です。現在の新記録は少しずつ破られていくに違いありません。つまり,意識の光が隈なくおよび,この問題に最終決着が与えられることはあり得ないでしょう。仮にそれが可能であるとすると,100メートルの新記録を狙う者などいなくなるでしょう。競争をすること自体がばかばかしいことになるに違いありません。無意識という無限定なものがあるからこそ,人間は絶えず目標を持ち,挑戦的に生きていけるのです。
このように自然科学者の思い通りにならないことが,この世を生きていく上で大切なことであるという皮肉が,学問的にはある意味では人間を悩ませます。この場合,「群盲象を評す」という喩えに即してみると,群盲は自然科学者であり,象は無限的なもの(無意識)ということになります。それで心を科学的に見ていく上で,自然科学の手法に見習いながらも,群盲であることから脱する試みが求められます。そのためには,心の全体を俯瞰する立場を求めなければなりません。それはどうしても心の上位者の措定という問題にならないわけにはいきません。
そういうことをふまえて,心の科学が自然科学者の真似をしようとすれば,意識が捉えることができたものを里程標のようにみなし,それらを繋ぎ合わせていくことになります。心の病気の場合,患者さんが苦痛な体験を語る言葉が里程標ということですが,さまざまな患者さんがさまざまな表現をするので,それらをどう解釈するかはそれぞれの治療者が自分の心に意識の光を当ててみる作業が不可欠です。確かなことがいえるとすれば,この作業を通じてです。そしてそれを再び患者さんの語るところとつき合わせて整合性を図るのです。それでも心の問題ですから不確かさが絶えず残るでしょう。継続的に患者さんの言葉に耳を傾けて訂正したり,確信したりすることになりますが,洞察が深ければ,そういう過程で旧来の確信がそのまま残ることになります。そして決定的に重要なのは,得られたものが治療の上に反映され,有効性が確かめられることです。
心についてのこうした作業を難しくもさせ,意味深くもさせているのは,心の内なる無意識の問題があればこそです。心という生きている人間の全体に関わるもののいたるところにあり,生きていることの源泉でもあるのが無意識です。これを避けて心を語ることはできません。その上に無意識の問題を語るとき,自然科学者の手法を借りて,可能なかぎりの科学的客観性を確保しなければなりません。科学的な説得性が内包されていなければ意味を持ちません。しかしながら無意識という海であるが故に,里程標はいたって不確かです。そういう状況でのこの作業では,人為的な里程標を打ち込んでいくしかありません。
その作業は以下のようになります。
現象世界に現れている心的事象を理解しようとするときに,無意識の世界の存在様態を知る必要がどうしても出てきます。しかし実際にはそれを確かめる手がかりが希薄なので,日常の現象的な実在になぞらえて,比喩的に,仮定的に命名し,仮に実在させる必要が生じます。それは我々が知りたいと考えている現象世界に生じている謎に,仮説を建てることで自然科学者に準じようとする作業と考えることができます。それらの仮説は,自然科学者がするようには実証する術がありません。それらは永遠に仮説の域を出ることはありませんが,是非とも知りたいと考えている現象的事実の謎に対して,それなりに首肯させる力を内包させていれば,ひとまずの収穫というべきです。そしてそれ以外には打つ手がないのです。
それらの仮定的な里程標の中で,最大のものが心の上位者の措定です。それを内在する主体と,ここでは呼んでおきます。内在する主体は,心的世界の,あるいは一切の現象的世界を統括するものです。また,自我がどのように自己を導けばよいのかを知っている唯一者です。自我は精神活動の中枢に位置します。換言すると精神活動の頭にあたります。そして精神活動が生じているかぎりは,いわば足となるものの力を借りなければなりません。それは主体が送り出してくる欲動といわれているものです。いわば神の子(白い子)を護りとおすことにより,自我は主体の意向を自ずから尊重し,実践する意味を持つと考えられます。
病的な心理現象を扱う上で,以上の仮説を掲げることの有効性は,心を悩ませている患者さんの大方に,いかに理解され,共感されるかにかかっています。そしてそれらの説明は,少なくはない患者さんの共感と理解とが得られており,自分を悩ませている問題への理解が進むことに伴って,かなりの治療的効果が認められています。
以上のことを前提として,私が描いている心の見取り図は,以下のようになります。
心には二つの中心があります。
C.Gユングは自我を意識の中心と呼び,自己(セルフ)をこころ全体(意識と無意識)の中心と呼んでいます。
自我は(人間的な)世界を切り開いていく拠り所であり,(現実的な)精神活動の一切の中心です。人間の活動には,いかに身体的なものであれ,精神性の関与をまったく欠いているものはないといえるでしょう。仮にあるとすれば,自我の機構に何らかの故障が生じたときです。このことは,裁判で責任能力が問われるのと関係があります。心神喪失と認定されるときには,自我機構の決定的な不具合が生じているのです。
摂食障害やアルコール依存など,依存症といわれるものが病的であるゆえんは,その行動に溺れながら精神性の欠落感に苦しむところにあります。苦しんでいるくらいですから,精神的に満たされることへの渇望があり,しかしそれが適えられる希望がまるで見えないのです。それは自我の機構的な不具合ではなく,自我が機能不全に陥っている姿です。
自我が超自我と無意識界にある分身たち(黒い子たち)から自由であり,自立しているかぎり,精神は健全です。そして自我が機能不全に陥っているときには,超自我が自我の上位に立ち,黒い子たちもそれに連動して自我の上位に立っています。それらの勢力の狭間に埋没する自我は,著しい苦境に置かれることになります。
このように自我が機能不全化するのは,次のような過程があってのことであろうと思われます。
幼い時代には,心にさまざまな欲求が生まれてきます。それらはすべて大切に扱わなければなりません。例えば2歳の子であれば,遊びに行った友達の家の玩具を黙って持ち帰ることもあるかもしれません。2歳の子がしたことであれば,それを泥棒と呼ぶ者はいないでしょう。しかし5歳の子が同じことをすると問題になります。だからといって2歳の子のそうした行動は咎められるべきではありません。むしろそうした行動は自然のことであると捉え,その上で事の善悪を教えていかなかればなりません。生まれてきた欲求自体は善悪の問題ではなく,自然のものです。その上で人が成長していくには,他人との関係を教える必要があります。善悪の問題は他者との関係が前提になって問題化するのです。他者との関係は,内なる他者として自我の機構に内在していると思われ,親が子に善悪の問題を教えるのは,そういう前提があってのことで,親の恣意による教育というわけにはいきません。
他者との関係を自我が課題化することにより,心は社会性と精神性を獲得していくことになります。それは人の心が豊かになっていくための要点になります。
他者との関係は決定的に重要な意味を持ちますが,無意識の自然から生起してくる白い子たちを,自我が護れなくなる理由になります。他者との関係において,白い子を自我がいかに護っていくかが問われることになり,そのことを教えてくれる立場の中心にあるのが,父親と母親です。しかし彼らは部分的に正しく,部分的に間違っているのが一般です。すべて正しい親はあり得ません。
親の指導が間違っているときに,子供の自我は白い子の扱いに失敗して,黒い子にしてしまいます。
親の指導は,正しいことも間違っていることもひっくるめて,子供の心に主観的に取り込まれ,一定のイメージとして内在化します。これが,超自我と呼ばれている自我の後見人ということになります。一方,自我が護ることができなかった黒い子たちも,心の一角を占めることになります。
心はこのように自我を中心として超自我と影の分身といえる黒い子たちによって,そして心の最奥に在る主体とによって構成されます。超自我と影の分身たちとは半ば無意識の世界にあり,主体は完全な無意識の世界のもので,我々にはその存在様態は知る術がありません。
そのような構成の中で,自我が自由と自立性とを保っているときには,主体との関係はうまくいっていると考えられます。このことを見方を換えて説明すると,以下のようになります。
自我が何かの行為を主導するときに(精神活動が営まれるときに),主体が行為の足となる白い子(神の子)を送り出してきます。その白い子を自我が護りとおせば,白い子が抱えていたエネルギーは自我に渡され,活力が高まります。それは主体のおめがねに叶ったことを意味するでしょう。
逆に親との関係で,幼い自我が白い子を護ることが出来なかったときに,白い子は怒りと共に黒い子に変化します。神の子は,一転して,いわば悪魔の手先に変わることになります。
白い子の中でも,取り分け甘える欲求が封じられる何らかの事情があるときに,この問題が重大化するでしょう。その欲求は強力なエネルギーをはらみ,諸欲求を満たす基礎ともなるものです。それだけに,それを封じる力を持つことができたのは,根源的な恐怖だけであろうと考えるべきです。
こういう状況では自我は怒りを抑圧しつづけることになります。抑圧された怒りは黒い子と共にあり,それは超自我とも連動します。いわば黒い子をおびただしく作るような自我に対しては,超自我も怒りを持つともいえます。怒りのエネルギーの蓄積が大きくなると,超自我は優しさを減じ,命令的で懲罰的になります。いわば怒れる後見人になります。自我は相対的に地盤の沈下を来たし,超自我と影の分身たちとが上位に立ちます。自我は物いえぬものとなり,絶えず超自我に威嚇され,責め立てられ,黒い子達の嘲りを受け,という事態になります。
(例えば強迫性障害といわれている病理的な現象では,とりわけ超自我は苛烈な懲罰者の姿を表しているように見えます。超自我は自我に,安全の完璧な確認を求めるかのごとくです。完全性を求められても応える術がないのが人間ですから,自我は確認行為という完璧の真似をしてみせることになります。それは内容を欠いた悲痛な演技のようであり,儀式以上の意味を持ちません。それは超自我の苛烈な要求に従って見せているようであり,懲罰を受けている姿のようでもあります)
自我に拠る世界は光の世界です。精神の活動には,無意識という暗闇のものの関与がさまざまにあるので,陰翳の彩りがありますが,自我の機能が活発なかぎりは光の強さは強力です。それは比喩的にいえば,無意識という暗黒は無限大の広がりがあると想像されるので,これを暗黒の宇宙とすると,自我はその宇宙に浮かぶ一片の星です。その星は,包囲している暗黒の無限からすると,いまにも呑み込まれてしまいそうな頼りない存在に見えます。しかし星が力強く光を放っているかぎり,圧倒的な闇は存在しないかのようです。そして闇の力をいずれ知らされることになります。一つには心の何らかの病のときに,そして決定的には死期が近づいたときに。
この光が満ちているとき,自我は一切の上に立つ勢いがあります。それは自然科学が大掛かりに実践してみせてくれました。自然科学の勝利は,自我に拠る人類の勝利です。人は光をもとめ,光の世界を切り開いて行くものなので,そのかぎりで自我は最上位のものです。そして心の内部の暗黒を探るのも,自我です。しかしこの世界を隈なく光で満たすのが不可能であるのは,最初から誰にも分かることです。自我には手に負えないものが確実にあると認めるしかありません。
自我の活動に限界があるのが明らかであるように,自我が存在している理由そのものも不可知の闇に包まれています。自我は自我自身を知ることはできません。
自我が我々が知ることができない事情によって,自らの存在を自らに与えるべく意志したのかもしれないと考える人があるでしょうか。あるいは自我が存在するのは単なる偶然だという人がいるでしょうか。あるいは自然のサイクルの中の説明できないいきさつがあってのことだという人があるでしょうか。そしていつか人間の科学する力が,それらの謎を解き明かす時が来ると信じている人があるでしょうか。
いっそのこと,人間が存在しているのは神の意志によるというふうに考える人はいないでしょうか。合理主義精神が隅々まで行き渡っている現代において,神の問題はどこかタブーの趣があります。信仰を持っている人たちは,仲間内ではともかく,どこか肩身が狭そうにしているように見えます。ですからこういうことを考える人がいるとしても,滅多には口に出せない時代的な雰囲気があると思います。実際,神が云々といい出せば,たいていは一笑にふされるだけでしょう。
しかし私にいわせれば,以上に挙げたどれもが五十歩百歩です。合理主義精神は自我の責任範囲に関しては有意味ですが,自我は無意識という海に浮かぶ小舟のような存在なので,無意識の世界のことを自我がどう捉えるかは手に余るとはいえ,そこを無視すると精神が干からびてしまいます。それなりに捉える工夫はむしろ欠かせないはずです。
そんな人はいるとも思えないのですが,人間の存在理由を科学的に証明できると信じている人がいるとすれば,それこそ笑いものという気がします。
自我が人間の心の最上位者ではあり得ないのは,厳然たる事実として認めるしかないはずです。言葉を換えれば,光のものである自我の力が及び得ないものがあるのは,改めていうのも気が引けるほどに明証的です。その最上位にあるものをどのように命名するかは,あまり問題ではありません。自我の存在が単なる偶然であるといってみたところで,それで何かを証明したことになるわけではありません。我々には何か分からない理由があるといっているのと同じことです。
我々には理解し得ないものがある,自我の存在理由もその一つであるというのは明証的なものであるにもかかわらず,それを敢えて認めようとしないことが,自然科学の影響に置かれている現代の迷妄というべきではないでしょうか。科学の言葉で捉えることができないという理由から,自我の上位にあるものの存在を認めないことに,どんな意味があるのでしょうか。
ここではこの最上位にあるものを,内在する主体と呼んでおきます。それは自我の光が届かない無意識の世界の最奥にあるものと,仮定的に里程標を打っておきます。
我々が知り得ない理由によって自我がもたらされ,人間の存在が可能になったと考えることに,何か重大な見当違いがあるでしょうか?
そのように考えると,自我の最も大きな使命は,引き受ける精神です。
私は以上のことの恰好の実例をソクラテスに見ます。
ソクラテスは神の助手を自認し,公言していました。つまり神の意志を引き受けることに最大の使命感を持った人のようです。彼の時代のアテナイ市民は,合理主義精神に活路を見出し,活気づいていましたから,ソクラテスが奇妙な神(ソクラテス自身が,「子供のときから鬼人の類からの合図があった」といい,ぶつぶつ独り言をいいながら心内の声に聞き入っていたといいます)を信奉し,世を惑わすことは,為政者には看過し難いことでした。彼は為政者などの権力者に媚びないという点で,傲慢な人物と見られました。彼は誰が何といおうと,自ら信じていること(神の助手としての勤め)を実行しつづけました。
権力者たちの前では傲慢だった彼は,神の前では敬虔であり,あくまでも謙遜であったといえるようです。それは彼が人間である自分の上位者の存在を認めていたからです。彼は神の声に一心に聞き入り,その意志を引き受けようとした人のように思われます。
自分の上位者を持たない者は謙遜である根本理由を欠きます。そして謙遜とは,人間の最も崇高な精神の一つだと私は思います。
自我を最上位に置く自然科学は,干からびた威力をもたらします。それは大きな仕事を成し遂げてきた一方で,救い難い傲慢の罪を犯してきたともいわなければならないようです。
魂に潤いを与えるのは無意識の力です。その力を自然科学が,自分の上位に置くことができていれば,人類はまったく別様の文明を持ったに違いありません。
ソクラテスが心内の声に聞き入っていたといわれますが,その声の主こそが内在する主体であると,私には思われます。このことは,C.Gユングが述べていることとも符号します。
彼は次のように述べています。
「いま自分(の心)に起こっているのは何か教えてほしいと,心内のアニマに向けて問いかけた。問いかけるその姿勢が不確かであれば,反応はいい加減なものだった。しかし真剣になればなるほど,意味深い反応があった・・・」
自我の役割の最大のものは,引き受ける精神だと思います。引き受けるというのは,ソクラテス流にいえば,’神の意志’をです。ここでは主体の意志をということになります。ソクラテスやユングのように,心の内奥に在る主体の声に聞き入ることが必要です。自己を形成するというのは,主体の意志を実践することであると考えることができます。主体は,自我がどのように人生を切り開き,自己の達成に向けて導く働きをしているか,沈黙のうちに見守っていると考えられるのです。
実際にどうすればそれが可能かというのが問題です。
このことの仮定的な考えの一つは以下のようです。
自我のエネルギーは自我の位置を保つためのものと考えられます。自我は心の司令塔の役割を担っています。いわば心の頭であり,行動を実践する力は持っていません。何か行為(行動)をするときに,自我は計画(目標)を立てます。それを実践するためには自我のほかに,行為の足となるものの協力が必要になります。
日常の精神活動は,その眼で見てみると,個々に何らかの目的を持った行為(行動)群から成り立っているのが分かると思います。それらの個々の行為(行動)について,自我は自動的に無意識に呼びかけると考えることができます。それに応じて主体が行為の足となるものを送り出してきます。それはいわば神の子です。自然から生まれてきたばかりの無垢の子(白い子)です。自我は必要があって呼び出したのですし,行為の欠かせないパートナーであり,無垢であるが故に傷つき易くもある白い子をしっかりと護りとおすことが大切です。何せ神の子ですから丁重に扱わなければならないということでもあります。
スポーツ選手や囲碁などの勝負師,あるいは思索している人,研究に打ち込んでいる人などが,心の集中に極力努めているのは,自我が白い子との協働作業に没頭しようとしている姿です。
我々はすべての行為(行動)をまっとうできるわけではありません。言葉を換えれば常に神の子を護ることは不可能です。それは人間が,動物的な自然を生きるのではないことに伴うものです。そういう意味では,刻々と黒い子を生み出しているとも考えられます。しかし行為の価値には軽重があります。それぞれの分に応じて,現実的,かつ意味深い仕事を自我が成し遂げることができれば,それで十分といえます。
精神の充実は,つまるところ自我がどの程度の仕事をしたかということにかかっています。幸いにして大きな充実感の中にいることができているとき,自我は大筋で神の子を護ったことを意味すると考えられます。それは主体の意向に即することができたという意味です。
白い子を護るためには,行動の目的を敢えて確認してみるとよいと思います。そうすることで,白い子に意志を伝え,共に行動してくれるのを感謝するのです。首尾よく予定の行動が終われば,白い子は抱えてきたエネルギーを親である自我に渡したことになります。自我はエネルギーの補給を受けることになり,一定の満足感や充足感を得ることができます。
逆にいえば無為に過ごしていると,自我のエネルギーはしだいに枯渇していきます。
以上に述べたように,心の病は自我が機構的にか機能的にか,何らかの不具合が生じたときに起こるといえます。つまり自由と自立性が損なわれている自我は,与えられた状況的な課題を担えない,引き受けられないということが起こっているのです。
最初に提示したM子さんの過食と拒食,自傷行為は,いずれも臨床場面で日常的に見られる病態です。
過食にふけっているときの様子は,餓鬼道に落ちた亡者を連想させるものがあります。人目を避けて一心不乱に獲物に向かう悲しい姿がそこにあります。そのことに関して自我は機能せず,いわば無意識の仕事を無気力に傍観するばかりです。
摂食障害の治療は,依存症一般がそうであるように,易しくありません。
人は何かに依存しつつ生きています。人はまったくの自由,まったくの自立を生きることはできません。いうならば何かに掴っていなければ,押し流されてしまうのです。どこへかといえば,死へです。不安の根源には死があります。しっかりとした拠り所に掴っているのでなければ,不安に脅かされます。その度合いがひどければ,頼りないものにすがっていることの意味が分からなくなります。いっそのこと,当てもなく耐えるよりは,すがる手を放してしまった方が楽になれると考えることにもなります。
食べることにこだわる(すがる)のは,彼方に死の影が見えるからともいえ,それを見たくないばかりの必死の行動ともいえるように思います。見方を変えると,自我がこれほどまでに無気力なのは,おびただしく黒い子を作り出してきたいきさつがあるからです。黒い子は,神の子(欲求ー白い子)として主体から送り出されてきたものを,自我が護れなかったものたちです。それは主体の意向に即せなかったことになります。引き受けるべきである自我がそれを拒否したことになり,白い子,あるいは主体の側からすると不当,不埒という意味を持ちます。
自我が引き受けず,見捨てることになった産物である黒い子は,怒りのエネルギーを抱えることになります。そのエネルギーは,元は白い子が抱えていた生きるためのものです。自我はそれを受け取らなければ,エネルギーの補給を受けることができないのです。
神の子であった白い子が,一転して怒れる黒い子に変じて,悪魔の手先になったと考えることが可能です。
とはいえ,黒い子もまた,自我の子です。その関係は非行少年と親とのそれに似ていると思います。黒い子はいつか親である自我によって,改めて引き受けられる時が来るのを待っています。
(全(無限)と無とは正反対のようですが,それは有限性を生きる人間にはそう思えるということです。全とは限りない広がりのイメージから来るものであり,無とは限りなくゼロに近づくというイメージから来るものです。そして全そのもの,無そのものは,現象的実在として捉えることは不可能です。それらは有限性を超えたものであるがために,人間の意識の光が遠く及ばないものです。そういうことから全が良きものの最高のもので,無が悪しきものの最悪のものというイメージを持つことになります。最高のものとは,例えば神であり,最悪のものとは,例えば悪魔というわけです。全(無限)と無との分離は,人間の能力を超えたものについての人間的な把握の仕方といえます。
自我は心に関して二分化して捉えるのが特徴です。心には内なる他者,内なる異性などがあり,それは外なる他者,外なる異性と合体して完全な一者ということの内的な意味のように思われます。有限性を生きる人間は,この意味で二分の一以下の不完全な存在です。実際には起こり得ない他者との合体は,永遠なる一者,完全な自立など,無限なるものへの憧憬としてあるのだと思われます。そのようなことが前提になって,現実世界の人間は,他者を深く愛するときに至福の感情に浸ることができるのではないでしょうか)
黒い子を作り出すのは,人間には避けられないことです。
たとえばこの黒い子の存在がなければ,芸術活動は成り立ちません。白い子たちのエネルギーを受け取ることができた証である心の表舞台を,芸術家が表現する意味はまったくありません。そんなことは下らない自慢話の域を出ないからです。芸術家が意欲を掻き立てられるのは,黒い子たちの要求があってのことなのです。心には人に見せられない裏舞台があります。そこは黒い子たちの世界です。黒い子の勢力が大きくなると人の目が気になるのは,自我が,それらの存在を人に気づかれるのは恥と捉えるからです。それはいわば自我の不始末(お粗末でもあります)の証拠であり,黒い子をたくさん作ってしまった自我は,怒れる超自我をも意図せずに作り出してしまっているからです。
芸術家が一般の人と違うのは,欺瞞を潔しとしない自我を持っていることでしょう。彼らは黒い子たちの存在主張から眼をそむけずに,それを取り上げようと意志する心を持っています。芸術家が黒い子の存在に眼を向け,自らを暴き立てようと意志したときに,黒い子は自我によって引き受けれらたことになります。それは自我が知らずに犯した不始末を,自ら意志して取り返したことを意味します。
このように意図して,あるいは意図せずに,黒い子を引き受ける自我が,独自の人生を創っていくのです。黒い子はそれぞれの人生の起爆剤でもあります。つまり黒い子たちをたくさん作り出してしまった自我は,それに押しつぶされるか,それともそれを起爆剤に変える力があるかということになります。
心の病気は自我の不全化と密接な関係がありますが,自我が黒い子をたくさん作り出す不始末を働くことになった根本には,人間の誕生の問題(出産外傷といわれることがあります)と,それを補う立場にある母親との関係(取り分け,生まれて間もない最早期の関係)があると考えなければなりません。
出産という人間の誕生は,「自我に拠って,限られた時空間を思うように生きてみよ」という意味を持っているように思われます。自我を付与したのは,当然,自我の上位者です。
限られた時空間を生きるということには,死の問題が必然的に付帯しています。元気に生きるというのは分かりますが,一歩踏み込むと死に向って元気に生きよという設問になります。死という巨大な壁に阻まれて,元気に生きるという設問は,難解極まりありません。
(誕生という)人生の出発点でも,死の問題は立ちはだかります。
生まれるということは,喩えていえば,無のまどろみから起こされて,1000メートルの高みに立たされるに等しいことのように見えます。原初の段階にある自我機構には,「大きな安心と大きな満足がもらえるから何も心配は要らない」という幻想をかもし出す装置が取り付けられているかのようです。それは無であった世界に準じるものを保証しようとするものであるように思われます。その幻想に基づいて,赤ん坊は完璧な安心と満足とを要求します。要求する相手は母親以外にはありません。
有限の時空間を生きる人間にとっては,全とか無とかは現象的実在ではありません。しかし生まれて間もない赤ん坊には,直接的に全と無とが問題になっているように思われます。というのは,赤ん坊が自我に拠って有の存在になったということは,全または無の存在があることを間接的に示していることになるからです。そして有の存在としてはあまりにも頼りない赤ん坊は,母親に全面的に依存するしかありません。つまり母親は,赤ん坊にとって全の存在に等しいのです。その対比において,赤ん坊は無の存在に等しいといえるでしょう。赤ん坊は無の感覚において全にすがるといえるでしょう。
赤ん坊が人間として存在する出発点の段階で,1000メートルの高みの恐怖に耐えて,いわば無事に着地するためには,心の緩衝装置が不可欠です。満足と安心との十全な供与を約束されている幻想は,そういう意味を持ちます。母親にはそんな大それた力はないという意味では,それはまやかしです。そもそも人間は,その存在理由が永遠の闇の中にあるという点からして,壮大なまやかしの中にいるといえなくもありません。赤ん坊が,巧妙なまやかしを甘受することから人間としての第一歩を踏み出すことになるのは,人間存在の宿命的な何かを暗示しているようでもあります。
このように,いわば全,あるいは無限,または無の世界から,有限の世界に降りる甚だしい不条理のドラマが開始されるのが,赤ん坊の誕生です。
不条理劇の存在理由は,永遠の謎です。しかしともかくも幕は上がったのです。赤ん坊は不承不承であれ何であれ,与えられた運命を引き受けるしかありません。およそ3年ほどの歳月をかけて,1000メートルの降下を,母親に助けられながら果たさなければなりません。3年ほど経てば,自分と人生とを引き受ける役目を帯びた自我のひとまずの基盤ができるのです。赤ん坊はこの間に,完璧な要求の旗を降ろし,ほどほどのもので我慢できるようにならなければなりません。ほどほどの満足,ほどほどの安心で妥協する気にさせるには,母親の愛情が鍵になります。それができたときに,ようやく,この世を生きていくのも満更ではないという喜びを知る基礎を手に入れたことになるのでしょう。
過食は意志と判断が働いて起こっている行動ではありません。つまり自我の仕事ではありません。自我が機能できなくなった原初的な理由があってのことです。自我が機能できなくなった裏には,黒い子たちがおびただしく作り出されてしまった事情があるはずです。黒い子は,自我が受け入れるのを拒否したために,精神性と社会性とから無縁となった存在です。黒い子をおびただしく作り出す自我は,幼いころの母親との関係に問題があったと考える理由があります。そのような自我は白い子を護ることができた満足が得られず,白い子が抱えているエネルギーの補給も受けられず衰弱します。一方で黒い子たちが自我を支配するほどに勢いを増すと,いわば黒い満足を取りにいきます。その黒い満足の一つが過食です。
人は,あるいは心は,何らかの満足を追求します。そこに自我の関与がないかぎり,満足の追求に精神性も社会性も望めません。それらが欠落したものが黒い満足で,それは決して心を満たすことはありません。
拒食と過食とを繰り返してきたある患者さんに,自我(親)と超自我(後見人)と(黒い)子とから成る心の見取り図を示してみました。その図では自我が上位に立たなければなりません。上位にある自我は自由と自立性とを確保できているのです。ところが黒い子たちをおびただしく作り出した自我の下では,抑圧された怒りが超自我を大きくさせます。怒りをはらんだ超自我は,命令的,支配的,懲罰的になります。これら超自我と黒い子たちとは,パラレルの関係にあり,一方が増大すると他方も増大するのです。そしてこれら二つの山に囲まれて埋没した自我は,自由と自立性とを失います。
そのような自我の下で,超自我が活発なときには拒食に走ります。懲罰的な超自我の支配下での食行動は,それが極端になると身体性が否定され,精神性のみの追求が要求される観があります。この患者さんは,瘠せの極限で,死んでも構わないと思いました。身体性の全否定は,当然,死につながります。しかしやがて生きたいという意志が発動して,食事を摂りはじめ,元気を回復しました。そしてひとしきり経って,今度は過食にふけるようになりました。それは黒い子の仕業です。
超自我の勢いが収まると,一旦は自我が力を回復したものの,やがて黒い子たちが勢いを増し,自我を支配したといえるようです。このとき自我は,黒い子の動きを傍観するばかりです。
この患者さんの例から窺えるように,自我の機能は固定されたものではなく,あるときは自由を得,あるときは超自我の支配を受け,あるときは影の分身である黒い子の支配を受けるといえるようです。
患者さんは,以上の仮定的な説明に,まったくの同意を示しています。
乳児の精神的な満足は,授乳を通じて得られます。
フロイトは生の本能と死の本能とに言及していますが,生の本能はエロスともいわれます。一方プラトンは,愛の形態には肉欲から始まってしだいに上昇していく諸段階があり,その最高位にあるのが純粋な愛,つまり美のイデアへの希求であるとしました。そして真善美に到達しようとする哲学的衝動を,エロスと呼びました。
このように,生きる喜び,満足には,高度に精神的なものも含めて,その機軸となるエネルギーが性的であるというニュアンスが多分にあります。そして精神分析では,このエロス的な満足の身体的根拠がいくつかあり,心の成長に伴ってそれらの発達段階をたどるとしています。そのプロセスを精神性的発達と呼び,その最初の拠点は口唇にあるといわれています。これらの身体的個所は,erogenousuzoneと呼ばれていますが,日本語では「性的に敏感な」という意味です。
つまり生後間もなくからおよそ1歳半までの口唇期は,最初の性本能が満たされる時期ということになります。欲求一般を受け止めて,護る,あるいは満たすという心の作業は,自我の重要な役目ですが,とりわけ性本能(広義の)は強い欲求で,それをどのように満たしたかということは,精神的発達に大きな影響を与えます。
母親による授乳には,赤ん坊に口唇によるエロス的な満足とそれに伴う安心とをもたらす特別な意味があります。それは栄養の補給に勝るとも劣らない意味を持つでしょう。
自我に拠って有限化され,二分の一以下の存在となって個々に孤立している自己なるものに,エロス的な満足は,他者との完全な結合によって一者となる幻想をもたらすもののように見えます(自己と他者とが一体化して一者となるのは,人間の情念的な理念であるように見えます)。それだけに,エロス的なエネルギーには強大なものが秘められているのです。
そうした意味を持つ授乳は,信頼と愛情とを保証する基になります。それらは相互的なので,授乳によって満足と安心とを保証された赤ん坊は,愛されている,信頼されていると感じると共に,母親を愛し,信頼する基盤を得ます。
逆に,強大なエネルギーを秘めたエロス的な満足であるがために,授乳による継続的な満足が欠落する何らかの事情があれば,赤ん坊の心は不満足と共に,不信,不安,恐怖,怒りなどによって脅かされることになるでしょう。それは愛されていないと感じる大きな理由になります。そして愛されていなければ,信頼されていないと感じるでしょう。そうであれば母親を愛し,信頼するのも難しくなります。
摂食障害は,この時期のそうした心が意識下に潜行していたのが,あるとき病理現象という装いで浮上したもののように思われます。
なぜ意識下に潜行することになったかといえば,見捨てられる恐怖からです。そして摂食障害の患者さんたちは総じて’良い子’なのです。つまり内心のネガティブな心を,自我が笑顔でカムフラージュするのです。その葛藤は容易に解けないほどに,自我は笑顔の欺瞞性を,滅多には自ら認めようとはしません。
これは自我が母親への強い恐怖心から,自分を捨てて母親の自我にしがみついた,あるいは傀儡化してしまったともいえます。
こうした人生を賭けた心の欺瞞化構造を招いた根本にあるのが,人間に根源的な見捨てられる恐怖です。それは以下のように考えることができます。
先ほど述べた1000メートルの降下は,有の存在となったがために無に怯える赤ん坊の心を,比喩的に描いたイメージです。この降下を助けるのが母親です。母親の助けは,絶対不可欠です。絶対というのは,有の存在が無に帰する怖れに遭遇したときに意味を持ちます。赤ん坊にとって母親は全に等しい存在です。赤ん坊は無に怯えるものであるがために,全なるものを必要とします。
つまり全なる母親は,場合によっては無をもたらすかもしれず,その可能性を否定する術はないのです。1000メートルの降下中に,母親が赤ん坊を支える手を放せば,それでお仕舞いです。
無論,それは身体的な虐待の話ではありません。心理的に見放されることへの恐怖の話です。乳児にとって母親から見放される感覚を覚えるのは,死に等しい恐怖につながるといえるでしょう。それが見捨てられる恐怖であり,この心性が根源的な恐怖である所以です。
摂食障害という心の病理の形成過程の端緒には,以上のような,本人も知り得ない人生の最早期の問題が潜んでいると思います。
この時代の乳児の要求は,大人の想像を絶した激しいものであるようです。生きるか死ぬか,そのぐらいの大きなものがかかっていると思います。心の成長の原初の段階で,生きるために欠けてはならないエロス的な強力な満足の要求が適えられなかったとすれば,その理由は,それを上回る恐怖があったからに違いありません。それが適えられなかったことへの不満と怒りとは,それだけに極めて大きなもののはずですが,それを上回る(見捨てられる)恐怖のために抑圧され,意識の上にのぼることはなかったと考えられます。問題は欺瞞化されたまま,一応は収められた形になります。しかし消えたわけではなく,ほとんど生涯にわたって心に影響をおよぼします。表面の明るい笑顔とは裏腹に,真の生きる喜びが欠けたまま年齢が重ねられていることも多いのです。
親子の関係は重要で,精神医療ではことあるごとに問題視されます。それだけのことがあるのは間違いないところですが,その他に,自然と人類という更に大きな問題があります。
胎児の段階までは,人間が自然の一部でいられた特別のものです。そして出生という新たな段階を向かえるのですが,おめでたいはずのこの出来事が,どこか楽園追放という趣もないではありません。誕生という形で胎児は自然から切り離されて,なんのためとも知れず,人として人生の難路を旅する宿命を負わされます。その際,自然が授けた人間への武器が,自我といわれるものです。自然から乖離され,胎児は人間として独自の道を切り開くことになります。その営為の中心的な役割は自我に委ねられています。そのように自我は人間になくてはならない特有のものですが,自我自体はいうまでもなく人間が自らの意志で手に入れたものではなく,授けられたものです。換言すると,それを授けたものの存在があるのが明白だということです。ですから人間は自然から独立した存在とはいえ,自然のしもべの立場でもあり,自然の支配を受けています。
比喩的にいえば,自我は海に浮かぶ小舟の船頭です。海はもちろん無意識の世界です。
心に障害といえるほどの問題が生じれば,しばしば激しい感情が自我を翻弄します。その様子は荒れる海に浮かぶ小舟のように危うく,時には,立ちすくむ自我を後目に,怒りに駆られた阿修羅のような行動に駆り立てます。
高校時代に不登校の経験を持ち,中途退学をしたK子さんは,難関の大学に入りました。失恋がきっかけで発病しました。診断は境界性人格障害です。ふとしたことで怒り,憎しみがこみ上げてくると,行動を抑制できません。時間かまわず相手の男性に電話をかけたり,直接押しかけたりしてしまいます。自殺衝動が強く,相手を殺すか,自殺するかしなければ収まらないという気持ちになります。過呼吸発作が頻繁に現われます。何日か気分が落ち着いている日もあります。しかし急に別人のように激しい感情が心を席巻します。自分から求めて入院となりました。
無意識の海が荒れると,小舟の船頭である自我はなす術がありません。エネルギーの中心には怒りがあります。阿修羅のようなその激しさが分別を打ち砕き,行動に駆り立てます。なぜ人生のこの時期に,この激しさで,怒り狂う感情が心を席巻するのか,共感を持って理解するのは困難です。人の心理としては共感も理解もできないという異常な事態は,心理的理解を越えた出生に伴うなんらかの障害ということになるのかもしれません。
せめて海が荒れてひどい事態にならないように,我々ができることは,子供に正しい操船術を教えることです。どうしてみても難しい場合もあると思いますが,できることをするしかありません。
ふつうは,親が子に正しい指導をすることで,心の海が不自然に荒れるのを防げるでしょう。自我がそれなりにしっかりとした操船術を身につけていれば,困難極まりない航海も,満更でもないものになります。
自我の操船術は,主に両親から教えられます。危険や困難を乗り切るための有能な先達が身近にいるのは,心強いものです。しかしそれでも遭難の危険はなくなりません。海が荒れれば,やはり自分の力で切り抜けるしかありません。人はどうしても孤独な存在なのです。
この比喩のついでにいえば,小舟には船長のほかに,その親(実際の親ではありません。内的な親です。超自我と呼ばれることがあります)と(黒い)子が同船しています。無難な航海をしている舟は,船長が中心的な役割を保っています。それでも黒い子(幼い自我が親との関係で引き受けることができなかった諸欲求=内在する主体が送り出してきた神の子=)たちは必ず同船しています。それは船長が自然の要求を完璧に護りとおすことが不可能なためです。同船している内的な親は何かと口を出し,それが船長を助けるよりは足を引っ張ることも少なくないからです。黒い子をたくさん作り出した船長は,内的な親との相対関係で,間違った操船を何かとしてしまったことになります。どこかで船長が反発して自由と責任とを取り戻す力を示さないかぎり,いつか内的な親が事実上の船長になってしまいます。そして扱いの厄介な黒い子たちがとかく騒ぎ立てます。小舟はあくまでも船長が責任を負うべきものなので,内的な親と黒い子たちとに主権が移ってしまった舟は,迷走し,大海の只中で目標を見失ってしまいます。それは死への漂流になりかねません。
操船術の本当の教師は,自然の摂理です。信頼できる人生の先達から受け取るべきものは,技術ではありません。精神です。自然の摂理を読み取る謙遜な無私の精神です。処世の技術は世俗的な意味があっても,人生の航海の目をくらまし,しばしば有害です。それは無私ではなく,謙遜でもないからです。目先の利得になにほどの意味があるでしょうか。処世の楽しみに飽き足らず,虚しさを覚える人があって当然です。生きる理由について,確かな手ごたえのある何事かを会得したいと考えるのであれば,海なる無意識そのものの力に注目する以外にありません。
乳児は,母親に全面的に依存する形で,人間としての第一歩を踏み出します。目標は母親からの自立です。
自立を妨げる要因は二つあります。怒りと恐怖です。これら二つの感情は,主に原初の他者である母親との関係で生じ,一種の外傷体験になります。そして黒い子を生み出す理由になります。母親との関係は原初の人間関係であり,そこで生じた外傷体験は,抑圧されて意識下に潜行することになります。それはいわばアキレス腱となって,後々,人間関係一般でそれに類似する体験状況の下で,新たに怒りと恐怖とを惹き起こしがちになります。そしてその都度,黒い子を生み出すことになります。
激しい怒りは,完璧な保全の要求をする乳児に特有のものと思われます。いわば人間であることを強いられたものが持つ,その要求と怒りは,自己を保存しようとするもので,本能に基づきます。それはその反面に,人間であることの拒否を含むといえます。自己保存の要求が本能に基づくように,その要求の裏面には死の本能があると考えるのが自然です。文字通り,生死を賭けた要求といえるほどの激しいものが,乳児にはあるのではないかと想像されます。
怒りと恐怖は双子のきょうだいです。
「人間として生きよ」と命じられたものが,生の反面に死があるのを意識せざるを得ず,それを大きな脅威と感じないわけにはいきません。その解き難く,超え難い矛盾は,怒りを持つ十分な理由になると思います。生きるという光の世界の温かさは,死の極風にさらされ,凍りつく裏面を持ちます。生へのエネルギーはエロス的な満足と共にありますが,死へのエネルギーは,その満足が剥奪される怖れと怒りです。
しかしいま述べたように,自己保存と死という形での二分法となっていることが,既に人間の特徴です。つまり,自我に拠って生を切り開くのが人間である一方には,その挫折もまた含まれており,それは死への斜傾ということになります。
人間が生まれる前の存在形態は永遠の謎です。それは人間の目には,現象的には実在しない無または全の性格を持つもの,とでもいうしかないようです。それは死後の存在についても同様です。
人は無から生じたのか,全から生じたのかという議論は意味をなしません。しかし自我に拠って有限の時空間を生きる人間には,自我を授与したものは無であるというのは,何だか妙な感じを受けます。やはり全によって授けられたという方がしっくりします。どこか偉い人に認められた,選別されたというような気分にもなります。人間には,赤ん坊の誕生はおめでたいことでもありますし,生まれるというのは喜ばしいことに間違いはありません。だからこそ死はかぎりなく不吉なものです。死によって人間の存在はどんなふうになるのかは闇の中ですが,人間の語感では全より無の方が死にはふさわしいようです。つまり人は全によって生を受け,やがては無に帰するということになるようですが,実際のところ,全と無との区別は人間にはつけられません。
貪婪な欲求の持ち主である乳児がひとしきり騒ぎ立てるのは仕方がありませんが,母親の愛情に支えられて,自我がしだいに人生を引き受ける力をつけていかなければなりません。
しかしながら自我は幾重にも自立を阻まれていると考えなければなりません。母親の愛情が鍵を握るといっても,母親を取り巻く内外の事情や,赤ん坊の側の過敏さなど,一様には論じられません。結果として幼い自我がどのように怒りを扱ったかが問題ですが,それは個々に複雑な心のプロセスとでもいうしかありません。
怒りを母親の助けによって鎮めることができず,母親への恐怖から抑圧するしかななかった幼い自我は,黒い子をたくさん作ってしまうことになります。そして黒い子をたくさん作ってしまった自我は,それに応じて依存的であらざるを得ないといえます。親にあからさまな怒りを持ち,家出同然に独立した生活をはじめたとしても,心が依存から脱したとはいえません。依存から脱した証は,心が親からどの程度自由になったかによるでしょう。それなりに自由である自我は,黒い子たちを引き受け,その怒りのエネルギーを回収すろことに成功しているはずです。ですから激しい怒りが潜在しているあいだは,自立に似て非なるものといえます。
依存に関して,問題は黒い子たちにあります。それが大きな勢力を持っているかぎり,自我はその支配を受けます。怒りに駆られて家出同然の独立をはかるのは,とりあえずは黒い子たちに促された行動と考えるべきです。黒い子に取り囲まれて,親から離れることができない依存する自我とは別種の,依存する自我の下での行動です。怒りを抑圧し,内向させている後者よりは,怒りを前面に出している前者の方が本格的な自立への可能性が高いかもしれません。しかしその後のことは本人しだいであり,予断は許されません。
乳児は,母親に向けて完璧な自己保存を求める,いわば生死を賭けた激しい戦いを挑むと考えることができると思います。言葉を換えれば,母親を支配しつくそうとする戦いということになるのでしょう。それが激しいものであればあるほど,母親の態度に過敏に反応し,反転して著しい恐怖に陥ることがあるのではないでしょうか。恐怖は死を垣間見るときに起こります。それが現れたときに,乳児は怒りの鉾を収めて沈黙するのでしょう。
まだ人間らしい中庸の精神が発達していない段階では,エロス的満足を求めて,あるときは天使の笑顔になり,あるときは悪鬼の相を顕わにし,至福と怒りの両極の間で激しく揺れるのです。そしてあるときに死の恐怖を垣間見たときに,幼い自我が怒りを強力に制して沈黙し,時によっては親の自我に取りすがるようにしてよい子の路線を取ることで,身を守ることになるのでしょう。
そのように母親を支配しつくそうとして,反転して母親の支配を受けることになったときに,依存の病理的な一つの形ができるのではないかと思われます。
(怒りは関係を破壊しようとする力であり,死と関係します。動物の怒りは専ら外へ向かい,何らかの脅威となるものを攻撃する力になります。人間の場合は外へ向うこともあれば,内へ向うこともあります。外へ向えば他者との関係を破壊しようとする動きになりますし,内へ向えば自己自身との関係が破壊される動きになります。赤ん坊の怒りは,不快を快に転換するように求める適応的なものでしょうが,その怒りには,それが適えられないのであれば相手の破壊をも辞さないという構えもあると思います。であればこそ,反転して相手(母親)に恐怖を抱き,沈黙することにもなるのでしょう。それは自分の怒りが,いわば逆照射された恐怖といえるでしょう。他に死をもたらす力を持つものは,自分にも死をもたらす力を持っています。
相手に向う怒りが相手への恐れによって撤収されるのは,自己保存の本能が発動してのことですが,収められた怒りは逆照射して自分自身に向けられ,相手への恐怖が更に強められます。それを自我が持ちこたえられないときは,強力に抑圧して表面上は問題が収められます。しかし問題は内向する怒りとなって,今度は自分自身との関係を破壊する力となります。それはそのまま拡大してしまえば,精神的に滅びてしまうことにもなりかねないものです。
そういう事情の下で何が必要かといえば,自我の介入です。怒りを引き受けて,適切に扱うのは自我の役目です。それがあれば怒りの持つ死をももたらすエネルギーは,いつか自我によって鎮められて,生へのエネルギーに転換されることになることが可能です)
完璧な自己保存の要求は,具体的には,愛情と信頼とで満たされることを求める欲球に基づくものだと思います。そしてそれを要求したばかりに味わわされた恐怖があまりに大きいと,一転してそれは撤収され,今度は母親の気分を損ねないことに全神経を使うことになるのです。そのときに支払わされる代償が,寂しさ,不安,孤独などの程度の強い感情です。そしてそれらの感情の奥には強い恐怖と怒りが潜んでいます。それでも母親によい子と認められるのが嬉しいので,子供である間はそれで満足できてもいるのだと思います。しかし支払わされた代償は,大人の年齢になりつつある過程で,しだいに制御し難いものになります。それにもかかわらず早期に経験した恐怖が著しいと,抑制の手が緩められることはありません。その内面の激しいドラマとは裏腹に,あくまでも明るく優しげな仮面は強固であるとすれば,それは人に見捨てられたくない恐怖が強いためといえるでしょう。そして,その一方では自我によって解放される見込みが立たない怒りのエネルギーが,内側から心を破壊することになります。もっとも,外傷体験のように外部からダメージを受ける経験をしたとしても,心が破壊されるのは内側からであるといえるのですが。いずれにせよ強力な見捨てられる恐怖のために,その仮面を取り去って素顔を面に出すのは,容易なことではありません。そのことに伴う潜行する恐怖と怒りとは,人の理解を越えた激しいものだと思われます。それらの強い感情の下では,自我はほとんど機能不全に陥ることになるでしょう。凍える自我の下での理性は,自分の心の問題を形式的に理解はできても,洞察といえるほどの能力を発揮することはほとんど望めません。本心を知るくらいなら死を望みさえするほどに慄く自我は,恐怖と怒りとを抑圧する手を緩めようとしないのです。
この慄く自我は,母親との授乳を媒介とした心の会話がうまくいかず,好ましい形の依存が封じられたままでいるあいだに,いつしか懲罰的な怒れる超自我と,受け入れを拒否された怒れる黒い子たちとの狭間で,無力化しているともいえます。
このように無力化した自我は,自由と自立性とを欠いているので,さまざまに依存する自我であることが避けられません。
拒食症者である女性(Aさん)が,妹さん(Bさん)を診てほしいと連れてきたことがあります。妹があまり食べなくなったというのです。Aさんは自分のことは心配しないのに,妹であるBさんの心配はするのです。Bさんは,「いまはいらいらし易く,食べたくないのは事実だが,そのうちに食べ出すと思っている。私は姉と違って,明るく,社交性があり,物をはっきりいう。割り切りもいいので,姉のようにはならないと思う」といいます。また,「両親と暮らしているあいだは気分が常に不安定で,しょっちゅう吐いていた。2年ほど前に家を出て,同棲をはじめた。それから吐かなくなった」といいます。Aさんの話では,酒乱だった父親によって,家の中の物が壊されて目茶目茶だったということですが,Bさんによれば父親の暴力は更に激しいものでした。Bさんは以下のように語ります。
「幼いころから殴る,蹴るという目に遭ってきた。姉は我慢してよい子でいようとするが,私は口ごたえするからだと思う。父親は酔っているときに暴力的になったが,素面のときでもあった。中学生のときに,父と二人になった。包丁で刺されそうになったが,理由がいまでも分からない。その他にも,包丁を持った父に追い回されたことがある。いつ殺されてもおかしくないと思っていた。父は勿論,庇おうとしなかった母も決して許せないと思う。その一方で,許さないと・・・という葛藤がある。姉と違うのは,私は両親とのあいだに境を置いたことと思う。私が両親に怒りを持つのを許し,その一方で,私と両親とは人格が別だと考えた。そうすると気が楽になった。姉は両親の前でよい子でいつづけたと思う。いつか両親の面倒を見ないといけないと思っている。どうしてもその心を変えられないでいる・・・」
ずっとよい子で,いずれ両親の世話をやかなければならないと考えているAさんは,Bさんより度の強い拒食症者です。Bさんは甚だしい暴力を受けながら成長しましたが,自分の心にある度の強い怒りをしっかりと受け止めています。その上で,怒りの扱いに腐心した様子がうかがえます。それは自由な自我にでなければできない仕事です。一方,Aさんは,暴力をふるいつづけてきた父親と,無力だった母親とを,ある意味ではあくまでも庇おうとしています。Bさんは,それはよくないことだという認識を持っていますが,Aさんの心には届きません。姉妹を較べると,Bさんの自我はかなり自由のようですが,Aさんの自我はまったくそうではありません。
Bさんは重要なことを自ら会得しています。
一つは度の強い怒りに自我が支配されず,介入する自由を保つことができたことです。もう一つは,心の境界を敢えて意識したことです。母子一体の関係の中にある母親と乳幼児とのあいだでは,心の境界が曖昧です。母親は,必要であれば自分自身にするように幼い子の心に介入できます。そして幼い子にはその助けが不可欠です。そして心(自我)の成長と共に,親子のあいだに心理的な境界が形成されていきます。それは幼い子が母親から自立していくために必要なことです。幼い心が成長していくことと,心の境界が明確に備わっていくこととは,パラレルな関係にあります。それによって心の自由と自立とが得られるのです。
人格障害の患者さんの中には,他者に完璧な助けを求める場合があることが珍しくありません。このことは境界機能の発達が不十分であることを示しています。乳児と母親との関係では,母親の心にも乳児のそれに対応して心の境界が取り払われていると考えられます。ところが大人の年齢になってしまえば,本人の心の境界が曖昧であっても,周囲の人の心には明確に境界があります。そのために,母親が乳児にするようには助けられないのです。比喩的にいえば,相手が乳児の場合は,母親は家の中に入って助けることができますが,大人になってしまえば,母親(あるいはそれに準じる立場の人)といえども,家の外から助けることができても,子供の家の中に入って助けるのは不可能です。
このように完璧な助けを求めるのは,得られないものを得ようとすることで,周囲の者も疲れ果ててしまいます。自我がこのことを理解する力を回復したときに,自分の問題として自ら引き受ける気になることが可能になります。そのときに問題は収束に向うのです。
Aさんは,自分のことより妹を心配する優しい心の持ち主です。Aさんの心の優しさ,穢れのなさには疑問の余地はありません。しかし両親の世話をやかなければならないと思っていることについては,姉思いのBさんが疑問を投げかけています。何よりもAさんの拒食の心には,死への志向が色濃く紛れ込んでいるのが問題です。これは親孝行というより,苛烈な要求をつきつけ,懲罰的な超自我の下で機能を破壊されかけている自我が,必死に両親に取りすがるのをやめられない(依存している)様相というべきものです。これらの心の深部には,内向する強い怒りがあるはずですが,Aさんは強力に抑圧してその存在に気がついていません。あるいは気がつくのを徹底して避けているともいえるでしょう。それはもしかすると,抑圧する手を放すと,制御し難い怒りが両親に襲い掛かると,意識できないレベルの心で感じているからかもしれません。それよりも,自己の死を選ぼうとしている無意識的な心の動きがあるのかもしれません。Aさんが妹さんのように,両親とのあいだに心の境界を置くことができれば,超自我に屈しない自我の自由があると思われます。そしてそのときに,必要であれば親孝行が可能になるのです。
Rさんは40代の主婦です。
20歳で結婚し,共働きをしていましたが,30歳のころに動悸と全身倦怠感などがあり,某クリニックを受診しました。強迫神経症とうつ状態と診断され,仕事を辞めるようにいわれました。その3ヵ月後に勧められて入院しました。家事から解放されて落ち着きましたが,家に帰ると’旧の木阿弥夫’で,入退院を4,5回繰り返しました。
私のところの初診は45歳のときです。その当時は不安が強く,家事をする意欲がなく,強迫行動(観念も)があり,過食と買い物依存がありました。「鍵があいて誰かが入ってくる」という夢を繰り返し見るといいます。「自由な身(お金に困らず,子供に束縛されず,何人かの友人がいるなど)なのに,ひどく不自由・・・」と述べています。
強迫行動は,手洗い,洗顔,歯磨き,入浴,洗濯物の取り込み,調理,食器洗い,火の元,鍵など多岐にわたります。買い物は,高価の衣類にかぎられ,「昨日は5万円,一昨日は12万円・・・」などと,欲しいと思うと我慢が効かないのです。家中に衣類があふれ,お金がなくなると万引きをするかもしれないともいいます。夫によれば,スーパーに入ると様子が変わる,駄々をこねる子供とおなじになるということです。
夫は高校時代に身の上相談をしていた人で,父親的な優しさと包容力のある方です。Rさんと夫とは一回り以上歳が離れています。子供はいません。Rさんは,初診のときに夫を評して,「こういう私と長年連れ添ったのだから,優しくて,辛抱強い,120点あげます」と述べております。
毎朝,夫が家を出るとき,「帰ってくるのかしら」と不安になります。夫は笑って,「他に行くところがないよ」といいます。分かっていても不安は取れず,繰り返しおなじことを夫にいってしまいます。
夫は専門の分野で幅広く活動をしています。それが羨ましくもあり,自分の虚しさを教えられる理由にもなります。それに較べると自分には価値がないと思えてしまいます。十分に夫を信じ,尊敬しているのですが,夫に置き去りにされる不安が根深くあります。
初診から間もないころに,パジャマのまま夜中に外へ飛び出したことがあります。車道に出てはねられて死のうと思ったといいます。その後,夜中に薬の過量服用をして救急入院しましたが,胃洗浄を拒みました。その際,夫が,「数ヶ月前から,私が出かけたあとに,人の気配があって刃物で追い回される,刃物で切れと命令する声が聞こえるといっていた」といいます。本人から離婚話が出たこともあるといいます。しかし夫は,「見捨てるつもりはありません」といっています。この時期は,統合失調症と区別がつかない状態でした。
父親が自分本位の人のようです。母親は仕事を持っていて,いつも忙しそうにしている人でした。日記を覗き見られたり,鞄の中を調べられたりしました。両親はいつも喧嘩ばかりしていたといいます。
母親と共に出かけたとき,「置いて行っちゃうよ」としばしばいわれました。あるとき,幼いRさんのはるか前(母親と出かけるときは,いつも母親が速足で,先へ,先へと行ってしまいます)を速足で歩いていた母親が,本当にバスに乗って行ってしまいました。置き去りにされたRさんは,「ああ,やっぱり」と思いました。
子供は欲しいとは決して思わないそうですが,母親のような母親には絶対にならないと思ってきました。母親は交通事故で亡くなりましたが,涙が出ませんでした。
父親も母親も,いまでもどうしても受け入れることができません。そして,寂しさ,虚しさ,孤独,怒りの感情が常に心を支配しています。
母親の行動は恐怖をもたらしました。幼いRさんは,叱られないように,見捨てられないように,認めてもらえるように,ひたすら母親に注意を奪われつつ成長しました。自分が存在する価値がなく,両親に必要とされていないという意識が,いつか心の支配原理になりました。自己本来のさまざまな欲求は,強い見捨てられる恐怖の下にある自我によって抑圧されつづけたと思われます。母親の傀儡となっている自我によって抑圧されたものは,無意識の世界で黒い子となって勢力を蓄えることになります。黒い子たちが大きな勢力になると,破壊的で悪魔的な力になっていきます。Rさんの買い物依存や過食はその現れの一つです。
また黒い子をおびただしく作り出した自我は,強い怒りを強力に抑圧することになり,内向する怒りが,超自我を支配的で威嚇的,懲罰的なものにしてしまいます。それが強迫行動を生み出します。
Rさんはふだんは怒りを面に出す人ではありません。しかし妄想の渦中で夜中に外へ飛び出し,追いかけてきた夫に激しい怒りを向けたことがあります。冷静になれば,Rさんにとって夫はほとんど非の打ち所がない人です。その夫にさえ,毎朝出かけるたびに,もう帰ってこない(見捨てられる)のではないかと,いわば不信を持つのです。
Rさんの結婚は,何としても家を出たいという気持ちに端を発し,夫がそれを理解し協力したという形だったようです。単なる愛情からの結婚ではなく,たぶんに同情心が働いてのことでした。愛情は相互的ですが,同情は上下の関係での一方向的な行為になるでしょう。それは同情される側から僻みを受ける可能性を,そもそも持っています。そこにも怒りが介在する余地があるのです。Rさんは夫を尊敬していますし,悲惨な境遇から救い出されて感謝もしていますが,負い目がどうしても残ります。
自我が比較的自由である状態のときは,Rさんは夫に感謝と尊敬の念を持つのですが,自我が力を弱めた状態のときに,夫に対する羨望の念に苦しみます。
羨望は,そもそもは幼いころに,母親などから当然もらえるはずの愛情と信頼とがもらえていないと感じる不満と怒りに端を発するのでしょう。乳幼児期の満足と安心とを求める心には,強いエネルギーが込められているので,これを更に強いエネルギーで抑圧する理由があるとすれば,それは見捨てられる恐怖以外には考えられません。この激しい不満と怒りとが,親代理でもある夫に向けられても不思議はありません。
羨望は激しく傷ついた自己愛の問題でもあります。自己への愛情と信頼とは,健全な自己愛の下に育まれます。それは人格形成の最早期に,母親との関係でその基礎が築かれなければならないものです。健全な自己愛と健全な他者愛とのあいだには,相関関係があります。Rさんの夫は,安定した自己愛の持ち主のように思われます。Rさんに対する父親的な愛情に,不信の眼を向ける余地がない人のように見えます。Rさんの夫としては,これ以上に望めない人のように思われ,Rさんもそのように考えております。それだけにその夫を怒りを込めて羨むことの葛藤,苦痛には深甚なものがあるでしょう。
自殺衝動,妄想などのことは,超自我と黒い子たちとの狭間で苦しみつづけた自我が,ついに機能麻痺に陥り,黒い子達が心を主導している様相といえるでしょう。
Rさんが夫に救いを求めて家を出た主要な理由の一部に,内向する怒りがあったと思われます。その怒りは自我が受け止めたのではなく,依存の対象を親から夫へと移し変える動力になっていたと思われるので,恩を受けた負い目の下に,怒りは相変わらず内向しつづけたのです。夫の助けは貴重なものではあっても,それに支えられてRさんの自我が自らを助ける仕事をして,夫と対等の立場に立たないかぎり解決できないものでした。最近は家事をこなしていますし,夫と旅行をしたり,生活をそれなりに楽しめるようになっていますが,寝る前の薬をのんだあとに過食にふけり,その記憶がまったくないなどのことは今もあります。人生の最早期に傷ついた病理的な自己愛の修復は,理想的なパートナーによっても容易なことではないのです。
このことには,先に述べた自我の境界機能が関係しているように思われます。
母親と赤ん坊との関係では,自我の境界機能は特殊な様相になるように思われます。つまり,繰り返しになりますが,赤ん坊の自我の境界が未成熟であることに相応して,赤ん坊との関係における母親の自我の境界機能もいわば撤去されると考えられます。それによって,赤ん坊と母親とは,いわば特殊な二人組みの関係になるように思われます。それがあって,母親が自分にするように直接的に赤ん坊の心の世話をやくことが可能になるのです。そして赤ん坊が成長すると,この境界が明確になっていくために,他者(母親も含めて)は母親が赤ん坊にするようにして直接に助けることはできないのです。
人格障害の患者さんの中には,幼い子が助けを求めるような激しい情動を示す人があります。このことからは,自我の境界の機能がしっかりしていないということが暗示されます。
冒頭に上げたM子さんの症例は,美人コンテストで成功する夢を母親に託された娘の問題でした。日本には子供のこうしたコンテストがないので,馬鹿げた,グロテスクな話に見えます。しかし,日本の現実には受験の問題があります。それが母親の理性をどれほどおかしくさせているか(父親も同列です),実例に事欠きません。そこにはM子さんの母親がしたことと,さほどの相違がないように思えます。
そもそも親が子を信じ,愛情にも確かなものがあるとき,幼い子を受験などに駆り立てるものでしょうか。
親の側に,自分の不安が強く,そのために子供の将来も不安になるのだという正直な認識があれば,害は少ないと思います。そうであれば,自分の心に潜む,悪辣なもののへとつながりかねない心の傾向を知っていることになるからです。そこに嘘が介在していないからです。辛く,苦しい気持ちを持つことはなんら罪ではありませんが,自分の問題を子供の問題に転嫁するときに,子供の領域への無反省な侵入が始まると思います。それは,国境を越えて侵入すると紛争になるのとおなじく,親子の間で紛争が始まったと考えなければなりません。
強い自我(境界機能がしっかりしている)を持った子であれば,親も無闇と子の領域に侵入できません。弱い自我(境界機能が不確か)の子がその種の被害を蒙ることになります。それを考えると,おかしなことをしようとしているのが,親自身もどこかで分かっているというべきなのでしょう。子の領域に侵入すれば,強い自我の子であれば親子のあいだでの紛争になります。しかし侵入しようとする自我は,本来的には弱い自我なので,そういう紛争は回避して,弱い子に向うのです。これは卑劣というものです。
元はといえば,親の心の中が紛争状態なのです。それを自分で解決するほどの強さがないので,弱い立場の子の心を支配する形で問題を収めようとするのだろうと思われます。弱い自我の子が,親に対してしっかりとした態度を取れないために,表立った問題が起きていないだけなのです。そして,親の心の内紛が転嫁された子供の心は,表面はともかく,内面での葛藤に苦しむことになるとしても不思議はありません。
不安に悩む母親が,子供を信じるという善を施せずに,不信という悪にかられるときに侵入が始まります。子供を信じることができている母親が,子供の領域に侵入する理由はありません。子供を信じられない母親は,自分自身も信じられないのです。
侵入する心には,常に怒りが護衛のように従えられているように思われます。「あなたのために良いことをしている」という思いが単なる正当化に過ぎないのは,’良い子’がそれに従わなかったときに,親の心が穏やかではないことがそれを証明しているでしょう。
親が自分本位の毒念を持ち,しかし無神経な心がそれをカムフラージュしたとき,子供は厄介な状況に置かれます。親の心の奥に潜む悪意を子は敏感に感じ取ると思います。怒りを覚えるだろうと思います。しかし(弱い自我の)子も親に似て,その心を隠して親を信じた気になります。そういう親子の関係ができているとき,子の固有の意志は,怒りとともに意識の奥深くに潜行し,心の破壊活動がやがて始まることになりかねません。
一児の母であるSさんが,子供が可愛いと思ったことがないと口を滑らせたようにいったことがあります。ふだん子供の受験問題にことさら熱心な人なのですが,そうならざるを得ない子供の側の問題を常々述べておりました。子供が受験勉強に不熱心なので口やかましくなることはあるが,それを別にすると親子の仲はとてもよいということでもありました。しかしそれはにわかには信じ難い思いがありました。そういう折に,冷酷な心が一瞬だけ表に現われてしまったように感じられ,それは注目に値することでした。というのは,心が本音を隠蔽したままでいるかぎり,Sさんの本格的な治療が望めないからです。
残念ながら,この折角の話は深められないままになってしまいました。私も瞬間的に息を呑み,タイミングを逸したということですが,いずれ問題にできると思っていました。しかしその周辺のことに話が及んでも,再びその心が語られることはないままです。
母親自身が幼いころは勉強一筋の人でした。そうすることで両親に取り入ってきました。裏を返すと,両親に認められない怯えを持つ子でした。自分の子供時代の不毛をしきりと悔やみながら,子供が望むので応援しているという口実で勉強を強いているのです。意識の表面では子供への愛情からということであっても,影に冷酷な心が潜んでいます。幼い娘が,母親であるSさん自身がかつて夢見たように,学校生活でも,社会人としても,誰にも自慢できるような赫々たる成功者になり,母親を助けなさい(それはSさんが,内的な親によって命じられていたことでもあります)という暗黙の意志が働いてのことであるのはほとんど明白です。母と子の関係が良好であるという認識に裏があるのと同様に,娘としての自分と母親との関係が良好であるという認識にも,裏があるのも明白です。つまりは自分がされたのとおなじことを(世の成功者にならないと娘として認められないという強迫的な観念),まるで復讐でもするように一人娘にしていながら,その自覚を持たないのです。
Sさんの場合,野心とその影に潜む冷酷さは一体のものです。野心が自分の力を当てにするのではなく,子供の力を当てにする形を取っているからです。だから子供を独立した人格と認めていません。それは冷酷な心です。そこには子供じみた強制が働いていると考えなければなりません。いうことをきかなければ,おかあさんは承知しないよというメッセージが込められているに違いないと思います。
冷酷な心は,自我が認知しないことによって,無意識の中で毒素となって暗躍します。しかし認知する気になったときに,もはや冷酷な心ではなくなる第一歩を踏み出しています。それが容易なことではないSさんは,内向する強い怒りを恐れていると思います。
悪意が善意に変われば,みんなが仕合せです。そういう自明のことが難しく,秘めた悪意を捨てようとしない心は奇妙なものですが,それはどこにでも見られるありふれた心の出来事です。その理由は,それだけ内向する怒りが強いからだと思います。強い怒りを秘めた心はしばしば怨念となります。場合によっては,無力な主人公である自我を傀儡化して,第二の人格を無意識の領域に仕立て上げようとします。それがさまざまな依存症を引き起こします。場合によっては周囲を驚かせるような危険な行動をも引き起こします。
自我が,自分の盲点となっていることに眼を向けていくのは,二重に困難な作業です。それはそもそも自我が引き受けることができなかった体験に発しています。いわば幼い心の外傷体験ともいえるものがあり,それに類似する体験に直面するたびに,自我は抑圧,排除する傾向を持ちます。いわば自我が最も苦手としている問題に,改めて眼を向け,立ち向かっていこうとするには,大きなエネルギーを必要とします。
自我はそういう認識姿勢を持つこと自体を,できれば避けようとするでしょう。そうであればこその盲点なのです。しかしそれを克服して自分の仕事という自覚を持つのが,本来の自我の使命です。
そういう事情がありますので,黒い子たちの勢力に悩む自我が,改めて黒い子たちを引き受ける力を回復させられるまでのあいだ,その自我を補助するのが,我々,心の治療者の役目です。
外科の病気のように,自分はベッドに横たわっているあいだに治れるものなら治してもらいたいでしょうが,心の病気はそうはいきません。治すための主役は本人自身であり,治療者の存在は重要ですが,協力者以上であることはできません。
このことは先に述べた自我の境界機能に関係します。つまり心を病む人の自我と治療者の自我との領域は,境界機能によって画然と隔てられています。治療者は病者の心の内部に入り込むことはできません。いわば境界の外から,患者さんの自助努力に協力するのが心の治療者の役目です。ですから患者さん本人が,自分に立ち向かっていく意志の強さが鍵を握っています。
「あなたは病気を治したいと思いますか?」というと,馬鹿な質問と思うかも知れません。しかし,心の治療に関しては馬鹿な質問とはいえません。
幼い時代に抑圧,排除されたものである黒い子たちは,心の深部で,凍りつくほどにおびえている幼い弟,あるいは妹(つまり過去の自分自身)と見なすことができます。
というのは,主体から送り出されて来た白い子を,幼い自我が護ることができた(母親の協力が不可欠です)ときに,自我がエネルギーを得,満足感と安心感とを心にもたらすことができるのです。そのとき,白い子は心の表舞台に上げられたといえます。そして心は力を得て,その分の成長を果たすことになります。
しかし自我がそうした仕事が出来ずに,白い子を黒い子にしてしまったときに,自我はエネルギーを受け取ることに失敗し,心は不満足と怒りと恐怖とを抱え持つものを心の裏舞台に留め置くことになると考えることができます。つまり黒い子たちは,その時々の年齢のレベルに,凍結されるように留め置かれるのです。
心の治療は,それらの分身たちを救出する作業という意味合いを持ちます。具体的にその仕事ができるのは自我ですが,治療者の補助を受けて,その意味での弟(妹)の存在に眼を向ける勇気を持ち,それらの分身たちの心を言葉で捉えるということです。現実にも,そういう弟(妹)がいれば,兄あるいは姉が,弟の心をよく分かってあげるのが,何よりの励みになると思ます。それとおなじことです。これは自己の回復のためには,是非とも必要なことですが,自我の仕事としては最大級の難作業です。
他人との関係は重要ではあっても,一般には周辺的な問題です。他人との関係も依存的なそれであり,関係に無理が生じると壊れます。心もそれなりのダメージを受けます。しかしそのときは大きな問題であっても,やがては癒されます。切れてしまえば,他人の場合は,多かれ少なかれそれで問題は終結するのです。
なかなか終結しないとすると,その背後で,より核心的ななにかが連動していると思います。それを探って行くと,心の形成の歴史をはるかに遡った親との関係にたどりつくことになるでしょう。
勇気を持って自分の本心に立ち向かおうとすると,必然的に(母親との)旧来の依存関係に波及するのは避けられません。自我のその仕事は,威嚇的な超自我に支配されている心の体制を破壊し,再構築する一種の革命です。心の体制が覆るのは恐ろしいことです。統合失調症の中に,世界没落体験という深刻な病的現象がありますが,それに見舞われるときは,恐怖に満ちた体験になると想像されます。いま述べた心の再編も,それに準ずるような恐怖を伴うと思います。そういう勇気を持てない理由は,幼児のときに母親を恐れたのと同じ心で恐れるからといえるでしょう。幼いときに大きな否定的感情を体験すると,自我は無力なままで,いつまでも成長できなくなることがあるのです。恐怖心の底にある怒りが激発するような事態には,自我はとうてい耐えられないと感じるのです。鍵を握るのは自我の強さです。治療者に助けられて,自我が徐々に力をつけていくことができるかどうかです。
人は何ものかに依存しつつ存在しています。
中には死に依存する人さえあります。いざとなれば死ねばいいと思いつつ現実に耐えている人は,決して珍しくはありません。このタイプの人は,自分自身を引き受ける覚悟を持てないのです。誰かの助けは欲しいと思っても,自分の力で生きていくのは途方もないことのように感じられるのです。
一部のうつ病は薬が奏効して比較的短期間に治癒にいたります。この場合は外科医のような治療ということになります。しかし,うつ病といっても個々に背景が違います。単純なうつ病は,薬によっていわば体質が改善され,治癒にいたるのですが,心の病気は,一般に性格の傾向と切り離して考えることはできません。そしてそれに関連して,人生問題を抜きにして考えることはできません。
生きるということの反面に,死の問題があります。治療者に,’治してほしい’と思い,自分の問題として捉えることができない人の場合には,背景にこの問題があるかもしれません。何故なら,引き受ける精神がそもそも薄弱であるとすれば,それは幼児的な依存する自我の下にあるといえるだろうからです。自己と人生とを自ら引き受ける意志を持つことができなかったのは,無意識的にであれ死の恐怖にさらされているために,他に取りすがるのを止められないのでしょう。そういうときは,治療は難航します。