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性格形成に与える母親の影響(摂食障害の症例を通して) H14.2.27

1.人格と性格
2.愛情の問題
3.内在する主体
4.自立と依存
5.見捨てられる恐怖
6.怒り
7.自我の形成
8.終章

性格形成に与える母親の影響−その2

■愛情の問題

M子さんの母親がしたことは,娘への愛情なのでしょうか。これが問題です。母親は愛情と信じているかもしれません。「娘に素敵な体験をさせて上げたいと考えるのが,どうして愛情でないといえるのでしょう」と彼女はいうかもしれません。あるいはそうかもしれません。将来,娘が,母親がしてくれたことを感謝する場合だって考えられないわけではありません。

そうすると,この母親の行為が愛情に値するものかどうか,誰がどのようにして決めるのでしょう? また仮に,この母親の行為が愛情とはいえないということが判明すると,どういう問題が生じるのでしょう。M子さんの場合は,摂食障害や自傷行為という痛ましい問題が起こっているわけですが,それとどんな関係があるのでしょうか?

他人には,それぞれの意見があっても,誰であれ裁判官のような権限で判定する力はもちろんありません。ただ,誰か周囲の人が,母親の行為に危惧の念をいだき,M子さんの将来を心から心配して説得するということはあり得るでしょう。その人を母親が信頼していれば,説得が実を結ぶかもしれません。母親が,心の迷いを正してもらえたことを感謝するかもしれません。それはそれでいいことです。人間の関係としては,そのようでなければならないともいえると思います。しかし,そういう場合でも,母親の行為が迷妄であり,真の愛情ではないと言い切れるかどうかは別問題です。さらに母親が自分の正当性をあくまでも主張するとき,どちらが正しいかは,なおのこと一概には決められなくなると思います。

そうしてみると,M子さんの母親が愛情に基づいた行為であると主張することの当否を,誰か人間が判定するのは,煎じ詰めると不可能ということになると思います。

なぜこういうことが問題になるのか,それ自体も問題です。

親が子に愛情を注ぐのがしばしば難しいのはなぜでしょう。そうすることが当然であり,よいことであり,必要であり,仕合せな心でいられる理由になると誰もが容易に分かるはずのことなのに,実際には,その実践がむしろ難しいのは不思議なことです。 愛情を注ぐどころか,憎みさえするのも珍しいことではありません。憎むとまではいかなくても,愛情という観点からすると問題のあるしつけをしてしまうのは,残念ながら,普遍的な現象だといえるでしょう。

愛情に似て非なるものの典型は,親の考えや価値観の押しつけです。言葉を換えれば,愛情の名を借りた侵入です。それは乳児が,母親に全面的に依存する母子一体の時期を経験することとも関係があるでしょう。母子の蜜月時代の体験は,それ自体が母子双方にとって素晴らしいものであるでしょうが,乳児の成長の基盤の形成という観点からも大いに意味のある大切なことです。

自分が生んだ赤ん坊によって与えられたその素晴らしい体験は,母親のみに許された,余人には味わい得ない稀有なものであろうと思われます。赤ん坊は母親にとって,俗にいわれるように,天から授けられた宝物という趣きを持っているといえるのでしょう。

そうした体験もふまえて,生まれてきた赤ん坊の将来に,母親が一定の好ましい期待イメージを持つことはむしろ当然です。その仕合せが継続するように,豊かな未来が待っているようにと,心に願いを抱くのは,もちろん不思議なことではありません。

ただし,この体験に即して,母親には二通りの願望が生まれるのではないでしょうか。一つは,愛すべき我が子の将来の仕合せへの願いと,もう一つは,母親自身がこの稀有の仕合せを失いたくない願いと。これら二つの願いは,母親にとっては,分離して考えることが容易にはできないものであるように思われます。「あなたのためなのよ」といいながら,その実,母親自身の仕合せのために然々のようでありなさい,というメッセージが向けられるのは,ありがちなことだと思います。

二通りの願望のうちの後者が優っているとき,母親はなかば無意識的に子供を操作しようとします。ターゲットになるのは,子供たちの中でも母親思いの反抗心の少ない子です。子供も母親の言葉の矛盾になかば気がつきながらも,母親を怒らせたくない,悲しませたくないという恐れから同調することになるのです。

子供が成長するにつれ,母親の期待に即することが窮屈になり,不満にもなるのは必然です。それは成長の証でもあるのですが,それに対応できない母親(父親も無縁ではあり得ません)には,期待イメージどおりに育たない子供への愛情に曇りが生じ,憎しみの感情が賦活してきてもおかしくないのです。裏切り,忘恩といった感情も持つかもしれません。

このように,愛情というものの性格をはきちがえる母親は,子供を自分の支配下に置くために,意識的,無意識的に手段をつくすものです。母親によっては,自分自身が満たされない心のままで大人になり,母親になり,母子一体の蜜月時代の仕合せな感覚が,ほとんど唯一生きるに値した体験である場合もあるだろうと思います。そうであれば,それを永久に封印したいと無意識が考えることにもなるのです。極端な場合には,表層の意識はともかく,子供の幸福などはまるで念頭になくなってしまうのです。こうなるとほとんど犯罪的といえるほどの心的状況になってしまうといっても過言ではないでしょう。事実,いわゆる虐待は,この意識の延長線上で起こる問題です。

人はどうかすると幸福であるよりはむしろ不幸です。人が自分自身を愛しているかといえば,むしろ,しばしば愛していません。自己愛と他者愛とは一対の関係にあります。愛情と信頼も一対のものです。自分自身を愛し,信頼する心が希薄であれば,他人(子供も含めて)を愛し,信頼する心も希薄になります。逆に人に疑いの念を持ち易く,恐怖心をいだきやすく,怒りの感情が内向します。

また,愛は単独で愛であることはなく,憎しみと対をなし,背中合わせにつながっているのです。つまり愛があれば,その裏に必ずなんらかの形で憎しみがあります。人間の本性としてそのようなことがいえるので,親がかけがえのない我が子に対して,憎しみ,怒りの感情を持つとしても必ずしも不思議なことではありません。

愛と憎しみとが,一方が存在するためには他方の存在を必要とする関係にあるということは,人間の心の構造的な問題であり,人の心を考える際には重要なことです。

愛している心の裏に,必ずなんらかの憎しみがあります。かつては愛していた人に裏切られれば,陰に潜んでいた憎しみが表に出ます。そして,また,憎しみの情に苦しむとすれば,その裏切り者を愛する心がいまも失せていない証拠です。その人への愛がなくなったためではありません。愛する心が強いのに,その対象を所有することが不可能になってしまったからです。

怒り(憎しみ)は破壊的な力を持っています。愛していた人に裏切られて憎しみの情が長く続くと,怒りがなにものかを破壊するかもしれません。裏切った相手との関係を破壊する動きをするか,あるいは内向する怒りが心を破壊(心の何らかの不調となって表われます)するかということが考えられます。

こういうときに自我が主導的な動きをできるかどうかが,肝心です。憎しみを持っている相手との関係を修復する見込みが立たなければ,その関係は終わらせなければなりません。怒りは相手に向かうのですが,自我にも向けられています。怒りは自我に所属するものではありません。いわば自我の不始末に伴って生じるもので,無意識のものです。

怒りを向けられて自我が立ちすくみ,それを受け止めることができなければ,怒りが直接に相手に襲い掛かり,関係を破壊し,混乱に陥れます。怒りには,事態を収める能力はありません。それは自我の仕事です。破壊と混乱の後に怒りが鎮まると,改めて相手への恋慕の情が残っているのを知り,その感情を扱いかねることにもなります。また,本人の人格,品性が疑われることにもなります。怒りには,正当性があっても,分別がありません。

自我が怒りを受け止めることができれば,相手との関係を終わらせる心の作業に取り掛かることになり,やがては最終的な決着が図られるでしょう。

この問題の根本は,おそらく,出生に関連したものです。生まれたばかりの赤ん坊は,恐怖と驚愕と怒りの中にあると想像されます。母親の子宮の中で身体と心が形成されていく過程が,出生へのそれなりの心の準備期間ではあっても,いうならば’いきなり人間にさせられてしまった’驚きと怒りがあるに違いありません。そのように仮定的に考えるのが自然ではないでしょうか。それをなだめ,慰めて,人としての心構えのようなものを整えさせていく役割を担っている中心人物が母親です。赤ん坊は母親を頼りとする以外にありませんが,今度はその母親に置き去りにされる恐怖に耐えなければなりません。絶対依存の身では,そういう恐怖と無縁であるのは,ほぼ不可能です。母親の’愛’は絶対ではないからです。

赤ん坊の怒りは,人間以前のものに返せということかもしれません。ということは,既に人間の身である以上は,死の要求という意味を持ちます。赤ん坊は生を受けることにより,死をも生きなければならない身なのです。また,自我の活動が未分化である赤ん坊の代理自我は母親のそれなので,怒りは母親へも向けられます。それは空腹やおむつの汚れの不快なども含めた,情緒的に満たされていないことに伴うものではないでしょうか。拡大して考えれば,死をかけて情緒的に満たされたいと怒っているといえるのではないかと思います。

怒りを向けられたことによって,代理自我である母親がその意味を汲み取り,満たして上げることができれば,怒りは自我に解決を求め,自我がそれに応じたことになり,それは人間の心のあり方として望ましいことです。ところが母親が,何らかの事情で赤ん坊の怒りの意味を汲み取れなければ,赤ん坊の怒りは,母親との関係も自分自身の心も破壊することになるかもしれません。つまり母親との関係がいびつになり,赤ん坊自身の心もまたいびつになり,将来が案じられるということです。この場合怒りは,受け止める自我の不在によって,単なる破壊者になります。

こうした原初の事情があって,人は一般に,自分が他人に受け入れられないのではないかという不安を持ちますし,信じていた者が遠ざかろうとする気配を感じると,不安や悲しみや怒りを持つのです。特に乳幼児の段階で,いま述べたような意味で外傷体験といえるほどの傷を心に負うと,長じて,他人に受け入れられることに自信を持てず,関わりのある人に置き去りにされるのではないかという不安が耐え難いほどになります。そのために人に対して恐怖を持ち,回避的になったり,被害感情を持ちやすかったりということにもなるのです。

ある女性は,同棲している男性に,一時間に五回も六回も,「愛している?」と訊いてしまうといいます。

愛と憎しみとが一対のものであるというのは,自我に拠る人間の心の構造に基づくといえます。自己が存在することの原基は自我機構にあると思われます。そして自己の存在構造には,他者が組み込まれていると考えられます。愛と憎しみとは,このような原理に基づいており,他者の存在が前提となっています。

また,以上のことを前提に,自己愛と他者愛とは一対のものであり,自己および他者への不信も一対のものといえます。

自我は,愛を追求します。そして,憎しみが心を苦しめれば,それを受け止めるべきものです。自我が憎む心を受け止めることができれば,問題の解決の基盤ができたことになります。そして,苦しい体験を克服することによって,心の成長がはかられます。

例えていえば,次のようにいえます。

愛は主人公の自我と共にあります。自我が力強ければ,愛は健やかです。憎しみ(怒り)は主人公の無意識なる海の中にあります。憎しみは愛が憎いわけではありません。その証拠に愛が健やかであれば,海は穏やかです。海が荒れるとき,怒りが姿を現すのです。そして海が荒れるのは,愛が危殆に瀕したときです。怒りは愛の後見人であるかのようです。

自我が愛の世界を豊かに保持できるとき,無意識なる海は生の豊穣の源であるといえます。自我が愛の世界の貧困を招いたとき,海は怒りによって荒れることになります。無意識なる海は,愛の枯渇に比例するように,熱い怒りと,それにつづく凍りつく静寂の様相を濃くします。それは死の世界の様相です。

自我は生のものであり,自我の不首尾は,その影響を蒙ったものを無意識に葬り去る意味を持ち,その場合の無意識は死の性格を持ちます。

愛は生きる方向で発展します。憎しみは愛の破壊者です。前者の場合,自我は無意識との関係を尊重し,調和させることができていることによって,無意識は生の拠り所となります。そして,生を切り開く使命を持つ自我の働きによって,心が豊かになっていくでしょう。ところが自我が愚かにも無意識との協調を撹乱するように動いてしまえば,自我は生を切り開くよりは,無意識の恐るべき相貌である死の方向に引きずられる結果を生み出すことになるのです。自我の拙い介入によって,無意識の自然をいわば人為的に歪めるようなことになれば,心は貧困に傾くでしょう。これらの意味で,愛は自我と共に生の世界にあるものであり,憎しみは自我の不始末と共に死の世界に属するものです。

信と不信についてもおなじことがいえます。愛と信とは一対のものです。

ある中年男性が,次のような内容の夢を報告してくれました。

一つは「底なし沼に落ちて,もがいている。水面には無数のあぶくが泡立っている」
もう一つは「仔犬と遊んでいる。急に仔犬が怒り出し,足に噛みついてくる。犬に引きずりまわされる」

二つとも恐怖夢です。

この男性は,人との関係をなによりも大切にし,争いを嫌います。人には明るくて,協調性があり,気の置けない人という印象を与えていると思うといいます。そのように見られたいとも思っています。争いは嫌いなので,昇進は望んでいません。しかし,旧友と会って,管理職になったとか,会社を立ち上げたなどという話を聞くと,自分は結婚もしていない,これでいいのかなと動揺します。秋口には,退社時間が憂鬱です。外はちょうど日暮れ時で,寂しくなるのです。夏はまだ日が高く,冬は日が既に落ちているので,平気でいられます。

この男性は長男で,唯一の同胞である妹は結婚しています。父親は無口で,いつも機嫌が悪かったそうです。酒が好きですが,飲んで帰ると,すぐに寝てしまうそうです。母親には,いつも怒られていたといいます。

二つの夢は,無意識の領域に大きな問題があることを示しているようです。他人への配慮がいき過ぎたためでしょうか,情緒的な欲求が満たされることが少なかったようです。おそらく両親との関係に発端があったと思われますが,そうした欲求は,抑圧する習慣ができてしまっているのだろうと思わせます。

仔犬が噛みつくというのは,そのあたりのことが夢に現れているのだろうと思います。この男性は情緒的なものを求めている(子犬と遊ぶ)のですが,抑圧されつづけてきた情緒的なものは怒りと共にあるのです。怒りは,本来あるべき望ましい働きをしてこなかった自我に向けられています。

泡立つ底なし沼は,怒りによって荒れる無意識です。怒りは,自分自身のために生きようとするところが少なかった自我に向けられ,自我は沼に引きずり込まれそうになっているのです。

他人との協調に気を遣い過ぎて,その分,無意識との協調を怠った様子が,この夢からうかがわれます。

愛情に満ちていると信じていた人の顔の裏に,それとは似ても似つかない憎しみの心が潜んでいるかもしれないと考えるのは恐ろしいことです。(そういう疑念に取りつかれると,神経的な病気になってしまう危険もあります。妄想は,信と不信,愛と非愛といった心の二極構造が,何らかの理由で固化してしまい,信頼の極が機能しなくなった様相と考えることができます)

M子さんには,母親との関係で,幼いころにそういうことが起こっていると考えることが可能です。もっとも自覚的ではないだろうと思われます。むしろ,母親の愛情を信じようとしているのではないかと思います。M子さんが母親に逆らわない様子があり,一方で心を病んでいる様子があるところから,このようなことがいえるのです。心の表と裏には,甚だしい矛盾,乖離があるだろうということが窺われます。

こういう問題は,年齢が進んでから起こり始めるということは,ほぼ考えられません。心の障害が表面化しているということは,自我が受け入れようとしない,あるいは受け入れる力がない,そういうものを自我に代わって,あるいは自我を無視して,無意識の心がなにものかをアピールしようとする試みであると考えることができます。そういうものの中で,いわゆる外傷体験といわれるものであれば,自我が事の大きさに衝撃を受けて,受け止めることができなかった体験ということになります。自我は,そのとき大急ぎで抑圧機能を行使したのです。あたかも機能麻痺に陥ったかのような事態でも,自我はそのような働きをして,自分のキャパシティを護ったのです。そして時間が立てば,自我はおもむろに回復して,記憶の空白となっているそのことを想起することができるようになります。つまり,原則的に想起可能なのです。ところが摂食障害のような問題については,その意味での外傷体験が原因であるとは,およそ考えられません。それは食に関わる人間の本能的,原始的な行動異常であり,著しい退行現象という側面があるからです。そして,それが極めて激しい欲求であり,それが世界の一切であることを示そうとしているかのようであり,生きるエネルギーの激しさでありながら死を賭してでもやめるわけにはいかないという死の色が表われていることでもあり,大人である病者が,必死に訴えようとしているのは,乳児の渇望と捉えることで,なんとか納得がいくことのように思われます。そして,そうであれば,情緒的な満足への激しい渇望ということなるのです。そういうところからどうしても生まれて間もなく,母親との関係で,何らかの恐怖体験をしたに違いないということだと思われてくるのです。そのために幼い自我は,自分を抑制(情緒的なものを抑制するのと同じことです)するのが習慣になり,要するによい子となって母親との関係を保とうとしたのではないでしょうか。ですから,母親が大好きと信じてしまうのが安全でもあるのです。それは,先に上げた男性の例のように,他に配慮しすぎて,自が疎かになるということです。

母親への怒り,憎しみもあるはずです。自傷行為や摂食障害には,内向する怒りが関与するものであるからです。それらは無意識の世界に収めてしまい,自覚的には母親を信じ,愛しているつもりになっているということではないでしょうか。

そのように見ていくと,M子さんが幼いころから病弱だったのも,同様に内向する怒りと,それを招いただろうと思われる情緒的な欲求の抑圧がからんでいると考えるのが自然ではないかと思います。そして,M子さんは,それらの病気を利用していたようです。病気というのは辛いものです。それをよしとする心は尋常ではありませんから,そういうことが起こっているということは,病気以上に辛い現実があったということだと思います。

その辛い現実を,母親に向かって言葉で訴えることができなかったのは,M子さんの気の弱さからでしょうか,それとも母親への恐怖が強すぎたからでしょうか。もしかすると,自分でも辛い現実であるとは思っていないかもしれません。そういう思いを持ちつづけるのは苦しいことですし,エネルギーを必要とします。そういう本音のようなものは,すっかり無意識に預けてしまって(自我の不始末),意識的には,母親の愛情を信じ,自分も母親を愛していると思っているかもしれません。その方が気が楽のはずですし,また,実際にそのようなものへの憧れがあるはずでもありますので,いうならば嘘であっても信じていたいというふうに,心が動いてもおかしくはありません。しかし無意識に溜め込まれた不満は増大していることは明らかで,それを考えれば意識の欺瞞というものがあるのも明らかでしょう。そして,それらの無意識の反攻が身体の病気という形を取っていると考えられるのです。

M子さんの自我が恐怖にめげずに,勇気を奮い起こして母親に立ち向かうことができていれば,それは自我が立派に役割を果たしたことになり,無意識との調和を保つことができただろうと思います。そういう姿勢で臨んでいれば,母親の対応の仕方も違っていたかもしれません。

ともあれそのようなことが起こり得るのが,人間の心の真実です。信じていた人に,あるとき不信の念が生じるとしても不思議はないのです。むしろそういうふうに,信と不信が交錯するのが人間です。いずれにしても,”ほどほどの満足”というのが人間の分ですから,信頼もほどほどのものであるしかないのです。誰か重要と考えている人に絶対的な信を置いているとすると,そこには何らかの無理,自己への虚偽,背信が隠れているかもしれないと考えてみる必要があります。

カエサルが暗殺されたときに,「ブルータス,お前もか」と叫んだという有名な逸話があります。信頼している人にひどい裏切られ方をすると,受けた心の衝撃は,その人の人格を変えてしまうほどのものでしょう。カエサルのブルータスへの信頼が絶大なものであった分,裏切られた絶望の大きさも察しられるわけです。

しかしこのエピソードには,信頼しきることの心根の美しさというよりは,権力者の驕りがうかがえるのではないでしょうか。ブルータスは裏切り者であったかもしれませんが,絶対の忠心という隷属を拒否したと考えることも可能です。ここにはカエサルの自己過信と,傲慢とが招いた悲劇の様相が現れているように思います。

権力者は,周囲の者に高い要求を持ちやすいものだと思います。人への高い要求は,一般的には恋人同士や夫婦や親子などに見られますが,要求を高くする背景には怒りがあります。そして他人(そして自己自身への)一般への不信と恐怖があります。

カエザルのブルータスに対する絶対的な信頼は,心の裏面に,不信と恐怖と怒りが強いエネルギーと共にあったことを示していると思います。

母子の関係にも,これに類似するものが見られることがあります。それは決して珍しいことでもありません。子供を自分に隷属させておきたいと考える母親は,無意識レベルをも含めると,普遍的とさえいえるほどおびただしく存在しているでしょう。一見すると仲がいい親子であることも多いので,母親も子供も無自覚になりがちな問題でもあります。しかしそういう関係に無力に依存する子供は,生涯にわたり,自分らしく生きることが難しくならざるを得ないでしょう。無力な依存よりは,ブルータスのように隷属を拒否する反抗心が,むしろ人間としての心を育てるのです。

ある青年は母親が100パーセント好きだといいます。母親は君のことをどう思っているだろうと訊くと,恐らく100パーセント好きだというと思うと,自信たっぷりにいうのです。家で下着でくつろいでいると,母親は,性器のことをしばしば口にするそうです。青年もそれを不快に思うことがありません。二人はほとんど近親相姦の関係にあるようで,青年もそれを認めています。しかしそれが問題だという実感はないのです。

彼の問題は社会性が育っていないこと,自分が社会人としてなにをすればいいのか見当がつかないことなどですが,母親との関係で自足している面があり,いまのままでも特には困らないのです。単に母親が長生きしてくれればいいと思うだけです。

「どうしたら友達を作れますか?」と質問しておきながら,「別に欲しくはないんですけど」とつけ足します。せっかく入った大学を,合わないような気がすると,あっさりやめてしまいました。万事に切実感がありません。

母親が息子との赤ちゃん時代の蜜月関係を手放したくなかったのかと思われます。息子の成長を阻止し,自分に隷属させることに成功したというふうに見られなくもありません。本人が問題視しないかぎり,他人がとやかくいう筋合いのものではないともいえるのでしょうが,青年が母親の身勝手な愛玩物に仕立て上げられてしまっているのは明らかなように思われます。母親の愛情のあり方に,ブルータスのような怒りを向けることができていれば,彼の人生への悩みは,もっと実のあるものではなかったでしょうか。彼の人間としての自尊心も,より高度なものではなかったかと思います。

愛する者を愛しつづけるためにも,憎しみの心が正当に扱われなければなりません。あってはならない関係を断ち切るために,怒りを向けることも必要です。母親がどんな魔術を使って息子の怒りを封じ,いつまでも幼子のように母親の許にとどまることを可能にしたのかは分かりません。しかし,そこに性的なものが介在しただろうことは,容易に察せられることです。性のエネルギーは強力であるだけに,それをほどよく満たしつづければ,息子をいつまでも自分の許にとどめて置くことも可能になるのでしょう。残酷さをはらんだこのような愛も,愛の形態の一つです。しかしながら,子供の心を思うように支配しようとする欲求は,表面はどんなに優しく見えても,子供自身がある種の満足をしているとしても,自分本位で残酷な心に基づくものといわざるを得ません。

”ほどほどの”というのが人間の分としては大切なところです。愛に関しても,それを徹底させようとすると,いつしか憎しみに変貌しかねません。憎しみの心は,それを反省する余裕がなければ,力づくで相手を支配しつくそうとする心の動きにつながるでしょう。自分が望むように相手を支配することができなければ,自分自身が限りなく不幸で,可哀想なのです。その要求を押し通すために,愛の仮面を躊躇なく身につけることも力の行使の有力な手段です。反省する心がなければ,それを相手への愛情と信じこませてしまう欺瞞化する意識が,いわば無垢の心のように,手つかずにとどめ置かせることになるのは必至です。
先にも述べたように,母親は赤ん坊に対して,特別の位置にあります。それは,時によっては特権的な立場と錯覚させるものです。母親が心に満たされないものがあり,依存欲求が強いときに,夫の理解と協力が足りなかったり,あるいは夫を見下すような夫婦関係であったりすると,赤ん坊は危険な状況にあるといえるでしょう。母親の恰好の依存の対象とされるという意味でです。そういう心的状況にある母親は,自分でも意識していないレベルで,怒り,不信の感情を強く持っている可能性があります。場合によっては怒りを振りかざし,あるいは愛情の仮面で怒りを巧妙に隠蔽し,子供を支配しようと,あの手この手と策を弄するとしても不思議はありません。もちろん,自分に悪意があるという自覚はないでしょう。子供のために努力していると思うのではないでしょうか。子供に対して,特権的な立場にあると感じているとすれば,子供が服従するのは理の当然で,なんの疑問もないのです。母親自身が子供時代にその母親からおなじような扱いを受けてきたとすれば,ますます,それは気分的に正当化され易いと思います。母親が自分の間違いに気づく機会は,ほぼ絶望的にないのと同様に,子供も母親の自分への支配的な依存の片棒をかつぐ関係から脱することも絶望的に困難になるでしょう。それを脱する唯一の可能性は,子供が怒りを持ってそういう母子関係を切断する力を持つときです。

愛の真実についてあまりに理想を求めるとき,それは,愛の欠乏に耐えてきたことの反面の姿といえるでしょう。その心の裏には,強い不満や怒りが潜んでいるものです。母親が子供を相手に愛情についての錯覚に陥るのは,真実の愛情というものにこだわる心が災いしたと,場合によってはいえるのかもしれません。そういうものを求める心の根については,同情されるものがあるに違いありません。しかし,それは必ず新たな災いの火種を作り出さずにはおかないでしょう。ほどほどの愛に自足できなければ,ある程度以上のことは笑って許せるほどの寛容と遊びの精神がなければ,この世はどうしても地獄化することになるようです。

心の病理的な問題を扱う立場にある治療者は,患者さんの心の形成過程を見ていかなければなりません。その際の中心的な問題は親子関係です。親の子に対する愛情が,適切かつ豊かであることが仮に証明できれば,目の前にいる患者さんの心の障害がなぜ生じたのか,ほとんど手がかりを失うに等しいといえます。ですから一般的に,問題がないかのように見えても,なにかが隠蔽されていると考えないわけにはいきません。そして,事実,治療の進展に伴って問題が語られ,明らかにされていくのがふつうです。その場合,親の子に対する養育姿勢の理想が,適切かつ豊かな愛情にあるとするのが前提とすると,自ずから親の子に対する愛情の希薄,歪み,悪意,憎しみが問題になることになります。

親のあからさまな子供への攻撃が見られることは,稀にはあるにしても,一般には少ないと思います。しかし,表面に現われている様子がおおむね穏やかであっても,愛情とは別種のものが裏面で暗躍していることは珍しくはありません。それは子供の心に暗い影響を与えることになるでしょうが,子供自身もそれを深く隠蔽して問題視しようとしないことが少なくありません。問題があるのが明らかなのに,子供本人は心を語ろうとしないとき,治療上の進展が得られようがありません。その様子を見ていると,人間の不思議を思います。それはもしかすると,「治りたくなんかない」という表現かもしれません。いずれにしても,怒りがエネルギーを蓄えて潜在しているのは確かだと思います。怒りに言葉を与えるとすれば,「治ってなんかやるものか」ということになるのかもしれません。その種の恨みを自我が取り扱う気がなければ,それは自爆に向かうか,周囲を攻撃するか,どちらかになるしかない危険があります。

ここで注意を要するのは,いうまでもないことでもありますが,親の養育姿勢に関する客観的事実と,子供のイメージとして生じている主観的な現実とのあいだには,一般的にかなりの隔たりがあるということです。

本人の心に,自分のために,自分らしく生きるための基盤がそれなりに形成されているかどうかが問題です。それが現に形成されているのであれば,そもそも受診の必要がなかったでしょう。

ある患者さんは自分でも認める”いい子”で,母親に過度に依存的でした。あるとき,「母親とは価値観が違うと分かった。もう相談しても仕方がないと思っている」というのと同時に,「私の中に中心ができてきたような気がする」と自分から述べています。この感覚が大切です。そういうことが地に足が着くように確かなものとなっていくのが,治療的な目標です。

この方の場合,母親の現実は,「口では分かったようなことをいっていて,実際はまったく変わっていない。今も,昔も,私を支配しようとしている」と本人がいうように,以前と何ら変わっていないようです。そういう母親に見切りをつけることができた本人が,母親イメージを変容させることができつつあるということのようです。このようにイメージが変容していくことが心理治療の要点になりますが,母親なり他の家族なりが協力的に姿勢を変容させていくことが,治療環境を整えることになります。周囲の人は直接的に手を貸すことはできませんが(そういうことは余計なお節介,干渉になるのがおちです),望ましい姿勢で見守ることにより,患者さん本人が自己の回復に向けた心の作業を行い易くなることが期待できます。

家族という関係の中で心理力動が働き,家族成員個々の性格形成に影響を与えます。

家族の中で影響力が強い立場の者(ふつうは父親,母親ということになります)は,権力者に特有の盲点がある場合があります。常識があれば容易に分かりそうなことが,本人には不思議なほどに意識できない心があり,子供たちに被害的な影響を与えていることがあります。時には,特定のスケープゴートを作り出したりもします。

個々人の心は,家族という関係の中で良くも悪くも変容しますので,心理的な治療とはいえ,本人一個の問題ではなく,家族(更に学校や会社などの生活状況の全体も問題になります)という単位で考えなければならないものでもあります。

ある男性は,両親の愛情が一心に兄に傾いていると信じています。そして彼自身も,兄は学業でもスポーツでも,あるいは人に愛される好ましい性格においても,あらゆる点で自分より優れていると思っていたのです。ですから両親が兄を評価し,自分を評価しないのは仕方のないことと考えてきました。それで兄のような人間であること,兄のように生きることが両親の願いであり,意志であると信じてきました。それで不承不承ながらもその願いに沿うように努力してきました。ある程度は彼の努力は成功しました。兄とおなじ大学,おなじ学部になんとか入ることができたのです。大学を出て一流企業に就職しました。世間的な常識では彼はエリートということになるのですが,彼自身は人生になんの希望も持てず,自分には何ひとつ取り柄がないと感じ,虚しく無気力な日常を送ってきたのです。

彼の心の中には怒りが充満していると,私にははじめから感じられていましたが,彼自身はそういう感情の存在にほとんど無自覚でした。しかし,ある時期から両親への怒りを口にするようになりました。

自分はずっと叱られてばかりいた,両親はそんなことはないというかもしれないが,少なくても自分の記憶では愛されたということはまったくない,一方,兄が叱られるのは見たことがない,私が生まれたときに両親が望んだのは,私ではなくもう一人の兄だったのに違いないと思う,なぜ私を生んだのか,なぜ中絶してくれなかったのか,云々と激しい怒りの表明がある時期ひとしきりつづきました。そして自分の人生を歪めたのは両親だというのです。

そういうある時,彼はそうした認識が間違っていたと,ふと気がついたのです。兄そのものになりたいと考えていたのは自分だった,両親がそんなことを強制したわけではなかったと思う,なれるわけがない馬鹿げた考えに取りつかれていたものだと思う,そういうことに気がついてみると,両親が自分を思っていってくれたこともいくつか思い出した,それに伴って両親への怒りも静まった,なぜ生んだかということも考えなくなった・・・というのです。そして心が軽くなり,力が湧いて来るのが感じられたそうで,仕事に向かう気力が出てきたのです。

重要な要素は怒りの感情でした。幼少期から長年にわたり,両親の愛情が自分に向けられていないと感じ,怒りを持ったのは明らかです。そういうものがあるのは,言葉の端はしからうかがわれ,ある時期には直接的に言葉で表現しました。しかし,彼は怒りをむしろ打ち消しながら成長してきました。兄と比較して自分が劣った人間という認識が強固にありました。そうであれば,怒りを持つことは不当なことであり,許されないことになるのです。それは彼のイメージにある両親の考えと符号するものです。客観的にどうであったかはともかく,彼が両親が考えるだろうように自分を否定し,兄を肯定的に評価してきたのは疑いありません。

しかし,自然な心が自己否定に陥るということはあり得るでしょうか? それぞれの自己が自然なものであれば,良いも悪いもなく,価値に順位をつける気になるとは考え難いことです。誰が好んで自己を否定し,他を肯定するでしょうか? 

そういうことが起こるのは,必ず他者,それも最も頼りとする他者の評価に影響されてのことに決まっているといって間違いはないでしょう。自分の価値を他者によって決められて怒りを覚えない者はないでしょうが,その評価に本人自身が同調してしまえば,誰に向かって怒りを向ければいいのでしょう? 自己が独立して自己であれば,自己評価に怒りを持つ理由がなく,怒りがあるとすれば,自己が強く依存する他者による有無を言わせないものにであり,怒りが向かう先はその他者と,その他者に同調している自我以外にありません。怒りのあるところ必ず依存があり,そして人間は依存から自由になることができない存在です。

怒りは他者への依存の目印です。自分が自分のために何をしなければならないか,その手がかりを与えてくれるのです。

彼は怒りの感情を抑圧しました。それに伴って,劣った自分という自己イメージを受け入れました。それは,イメージとしてある両親の考えと同一のもので,彼自身のものと区別がつかなくなっています。つまり,そこには両親に迎合する心があり,彼自身がどこに存在するのか分からないほどに支配されている様子があるのです。それをしているのはイメージとしての両親であり,それを許しているのは彼自身です。彼は怒るに怒れない状況にあるといえます。

恐らく両親は,彼にとって権威的,権力的な逆らい得ない存在だったのでしょう。両親に迎合し,支配を受け入れる自我によって,怒りが封じられ,怒りによって生じる親子関係の危機を回避したということであったと思います。それに伴って,愛されない自分,価値のない自分という強固な自己イメージが,固定的に形成されたということでもあります。

そして抑圧された怒りを意識がとらえはじめたときに,彼の自己イメージは変容の兆しを見せはじめたのです。それは自我が活性化し,機能を回復しかけている様子でもあります。それに伴って,自分を愛さず,無価値な存在と決めつけている性格を持つ両親のイメージに対抗し,怒りを覚えるという動きがありましたが,イメージの変容が進むにつれ,それは両親の考えそのものではなく,両親の態度への過剰反応だったことに気がついてきました。つまり,怒りを捉えた自我は自分自身の問題を問題とする気配を見せ始めたのです。そして,また,人生そのものを否定するほどの怒りを両親に対して持つたことの行き過ぎを,訂正する自由な心を得たのです。

M子さんの美人コンテストの問題について,愛情という観点から見てどうかというのがこの一文の最初の設問でした。それはいま述べた事例についても共通していえることですが,親が子の立場をどのように尊重したかということになるようです。親が自分の気分的な価値意識で,事実上子供に強制したのであれば,いうまでもなくそれは子供を個として尊重したことにはなりません。いくら将来のためといってみたところで,子供の領域に侵入し,強制したのであれば,それは愛に値しません。芸術やスポーツの領域では,親のスパルタ訓練が子供の才能を開花させるということはあると思います。子供は親のおかげで今日の自分があると思うかもしれません。親も成功した我が子の姿に,感無量の涙を流すかもしれません。確かに親が子供の立場を尊重して自由に任せていたとすれば,才能の開花はなかったかもしれません。しかしながら,親の冷酷や身勝手が子供の才能を開花させる場合があるとしても,親が賞賛されるわけにはいきません。子供の才能によって,親がむしろ助けられたのです。子供の才能がなければ,子供は押しつぶされて心の荒廃を招いたかもしれず,親は非難されるところでした。そして,実際には子供の才能は開花せずに終わることがどれほど多いことでしょうか。大多数は荒涼たる精神の破れた姿が残ることになるのです。その荒野に咲く徒花が,心の障害であるとっても過言ではありません。

M子さんの自傷行為や摂食障害は,なにを表現しようとするものでしょうか? 自我が心の中軸として指導性と統合力を保っていることができていれば,心の障害といえるようなことは決して起こらないことです。自我は,自己を形作り,自己を護るべきものであるからです。自己を破壊してまで,他人に何事かを伝えなければならないのは尋常なことではありません。いかなる行為にも,他人へのメッセージ性があります。自分を表現するということは,何に向けてかといえば,他人に向けてに決まっているのです。日記は自分だけのものです。他人が見ることを前提としておりません。しかし,それは他人に見られるかもしれないということを排除できません。他人には見られたくないものを自分は持っているということは,眼差しの彼方に他人があるということです。人にはいえない秘密も同様で,彼方に他人の眼差しがあるからこその秘密です。見られる(知られる)ことを拒否するというのも,他人へのメッセージです。

心の障害ー症状というものにも,同様に何らかのメッセージ性があります。

自傷行為は,秘め事の行為ですが,それをを知って欲しいという心が,むしろ働いている行為でもあると思います。無人島に長年のあいだ一人で暮らしている人が,自傷行為をするかどうかは疑問です。おそらくしないように思います。自殺もないのではないでしょうか。身体の美に神経を使う若い女性が,腕に隠しようもなく残っている傷痕を,夏場などの軽装のときに,隠そうとしない人が少なくありません。どこか誇らしげに,これ見よがしというふうにも見えます。夫に「隠せ」といわれて,「私は別に気にしないんですけどね」と不満そうにいっていた女性がありました。この心理は,「普通の人」への挑戦的な気分の反映だろうと思います。

身体を切りたいという衝動は不可解なほどに強い欲求です。苦痛を恐れるとか,苦痛に耐えるとかという意識はないかのごとくです。本人にも,「どうしても切りたいから」としか説明できない強い要求のようです。そこには悪魔的な力が働いているように思われます。切ったときに流れる血を見て,血肉が踊るという感覚になる人が少なからずあります。殺人鬼の快感に似ているという印象を受けます。それはすさまじい怒りが介在した悪魔的な行為であるようです。その怒りを他人に向ければ凶悪犯罪になりますが,自分自身に向けるので,命までは奪おうとはしません。「久しぶりに切ったので,加減が分からなかった」と,血を滴らせながら外来に来た人がありました。「他の人が怖がるから,これからは切ってしまったときは遠慮してね」といったところ,「え? 怖がりますか」といっていました。そして,その後は約束を守ってくれています。

自傷行為というのは,実は行為ではないと思います。行為というのは意志が働き,判断が働きます。つまり自我の営為です。自傷というものは,自我の営為とはいえません。つまり本人には責任が取り難い問題です。

では,誰の意志による行動なのでしょうか? 私はその意志の主体を,裏の自我と呼びたいと考えています。

裏の自我というのは,以下のようなことです。

自我は,生物学的な基礎を持つ自我機構の上に機能するものであると考えられます。それは植物の種の内部に,将来のその植物の形態が,既に,あらかじめ仕組まれているのに似ていると思います。その自我構造の中に,構造的に他者や境界機能などが内属していると考えられます。自我は自己を形成していく上での中核といえますが,とりわけ生まれて間もない人生の最早期の自我は未発達で,他者(母親)に絶対的に依存します。他者の存在を抜きにしては自己の存在はあり得ないのが人間です。その原型的他者は母親です。

他者は,人生での不可欠のパートナーですが,それは他者が常に有益な存在であることを意味しません。逆に,なにかとそれぞれの自我を混乱させ,人生を迷走させる最大の理由ともいえるのです。原型的他者である母親といえども例外ではありません。むしろ母親が他者の原型であるだけに,それぞれの自我を混乱させる原点にあるといえます。

絶対依存という赤ん坊の身を考えれば,他者なる母親の保護は,生死に関わる意味を持ちます。母親は常に有り難く,優しい存在と単純に考えるわけにはいきません。絶対的なものを必要とするということは,そもそも危険な状況といえるのです。絶対を保証することなど,人間にはできないことだからです。そのようなことから,他でもなく,最も頼りとする母親によって,恐怖(赤ん坊にとっては死につながるものだと思います)する瞬間は,どんな赤ん坊でも避けられないだろうと思います。赤ん坊にとっては母親との関係を保つことは,生死に関わる重要なことですから,場合によっては母親を怒らせたり,困らせたりしないようにすることの必要を,半ば本能で感じ取るのではないでしょうか。具体的には,甘える心を母親に向けることに神経質になる場合があると思います。甘えるということは,赤ん坊にとっては自己の主張であり,それが主張であるからには,相手の拒絶にあう可能性があるのです。拒絶には怒りが含まれます。赤ん坊の未熟な自我は,母親の怒りをおそれて自己主張を控えることになると思います。そのときに発動するのが,境界機能です。境界機能というのは,自己と他者とのあいだ,意識と無意識とのあいだにおいて,相互の関係を画然とさせる役割を持ちます。そして他者との関係で,境界機能を強化して,自我の混乱,破壊を護ろうとするのが,抑圧と呼ばれている心的過程です。

甘える欲求を満たすことは自我の役割であり,心の成長のためには重要なことなのですが,他者なる母親との関係に危険なものを感じれば,そちらを優先させて身を守ろうとするのです。生きるために必要なことであっても,生死をかけた問題の方が優先されるということです。

赤ん坊という頼りない身を考えればやむを得ないことが起こるのですが,抑圧された甘えたい心からすると,理不尽な,認め難いことを自我がしていることになります。その角度からいえば自我の不始末といえ,自己の形成の過程で,自我は自己に対していわば借りを作ってしまうことになります。そういうことが繰り返されることになるとすれば,気弱な自我ということになり,多難な人生を切り開くには問題が大きいといえるでしょう。

自我の強さは,生まれつきの素質によるところが大きいと思いますが,幼い子の自我は両親によって守り育てられなければなりません。自我の機能の中でも重要なものが自律機能と思われます。それが心が成長するための拠り所になります。植物の種を蒔いたあとに,注意深く手をかけて大地に根が下りるのを助けるように,傷つき易く,混乱し易い自律機能の根を,母親と父親が大切に護り育てるのが,つまり愛情というものです。

心の病気には,自我の自律機能の混乱と境界機能の不全化という側面があります。われわれ治療者の目標は,これらの機能を回復させることにあり,話をしっかりと聞く(受け止める),落ち着かせる(混乱を鎮める)ということが欠かせません。一般的にも,混乱し,不全化しているこれらの機能を鎮めることができるのは,人の優しさ,愛情です。誰であれ,人の優しさに触れることがあれば,心が落ち着き,癒されるものです。そういう手助けによって,病者の自我が受け止める力を回復することができれば,即ち自己の回復ということになります。 

子供が反抗的で,親に怒りをぶつけてくるとき,親はそれを受け止めることが必要です。怒っているという事実はまず受け止めることです。親のその姿勢を確かめることができれば,怒っている子供は,心の裏で求めていた愛情欲求について語り始めるかもしれません。怒りは認められなかった愛情の裏面だったということが明らかになってくるに違いありません。

親に逆らわない子は,何か不自然なものがあってのことと考えてみる必要があります。親の側に,何らか怒りを封じるものがある可能性があるからです。よい子というのは,自己犠牲なしには済まないのです。いわば自分を殺して,親の気持ちを優先させる強固な癖がついてしまったのです。その大元は,赤ん坊のころにあります。親への恐怖があり,生きる本能が親に取り入る手段を教えたのです。それが強固なものであるので,自我が親の自我を内在化させ,両者はほとんど区別がつかなくなっています。そのために,四六時中親の監視と支配の下にあるのと同然になっているのです。よい子というのは,親にとっては有り難いことなので,自分の子に問題があるとは考えにくくもあります。ですから,親たる立場の者は,この問題に関心を持つべきであると,特に強調しなければなりません。よい子というのは,いわば心が発育不全なのですから。

良い子の穏やかなたたずまいの中には,実は心の奥底に親への恐怖が潜んでいると考えなければなりませんが,もしかするとこの二層性の心は,母親の無意識(半ばは意識的と思います)的な操作によるものです。母親は子供を愛しているというメッセージをたえず送っていると思いますが,子供の様子をうかがうもう一つの目があると考えてみるべきである理由があります。子供がおとなしいのを良いことに,そのまま放置しておけば,後々,子供がさまざまな逸脱行為をはじめたり,心の何らかの障害に陥ったりということで,親のこれまでの操作的な干渉が攻撃されるということにもなるのです。

子供を愛していると思っているとき,怒り,憎しみがどういう形で心の奥に存在しているのか,一応は内省してみるのが賢明です。愛があるところ,必ず裏面に憎しみがあるのです。それが見つかれば幸いです。ないわけがないのですから。そして愛と怒りが対決するとすれば,結構なことです。それは新たな心の統合の動きの始まりなのですから。きっと更に深い愛情が生まれ出ることになると思います。

光と闇,白と黒,愛と憎しみなどのように,対立する二つが,一方が存在するためには,他方の存在を絶対的に必要とするのが人間の心の特徴です。自己と他者,男と女の関係についても,おなじことがいえます。古来,男女が合体して完全になるという元型的思想があります。

このように互いに相容れない対立する二つのものが,相互に他を必要とする絶対的な依存関係にあること,従って,心の出来事はおしはなべて相対的関係にあること,それが人間の心に固有なあり方です。そして人間にとって存在するものは,あらゆることが心の出来事という様態で存在します。

人間には白そのものは存在しません。黒そのものも存在しません。限りなく白に近い黒,限りなく黒に近い白という様態で,白と黒があります。光と闇も,愛と憎しみ,善と悪も同様です。 それらはすべて人間固有の二極構造をなしています。善人は全身的に善人であることはなく,悪人の自覚があるときに本物の善人に近づきます。僧侶は人の心を善導する立場にあります。だからこそ,坊主憎けりゃ袈裟まで憎いだの,生臭坊主だのと揶揄されるのです。本当に偉い僧侶があるとすれば,自分の心に潜む悪について知っている僧侶です。善と悪とはシャム双生児の関係にあり,切り離せないからです。それらのことは自然から乖離して,人として生きることを運命づけられていることに関連していると思われます。つまり絶対というものは,自然ならぬ人間の心の世界にはないということです。その意味で人間は不完全で,完全(自然)を目指すべく宿命づけられた存在です。

人が経験するのは,おしなべて有限で,従って相対的なことに限られます。絶対,無限,無というものを自我が具体的に捉えることは原理的に不可能ですが,宇宙に思いをはせているときに感じるめまいは,宇宙の無限あるいは無に触れたということではないかと思います。

自然はそれ自体で完結し,充足する完全なものに見えます。完全,絶対,無限,無というものは,自然の属性であり,人間が直接体験できる範疇を越えています。

愛は生きようとする力です。憎しみは滅びようとする力です。愛と憎しみとが心の内部で,あるいは人と人との間で激突し,愛が勝利を収めるか,憎しみが勝利を収めるか,それによって方向が定まっていきます。しだいに愛が優勢になれば,心の光がまします。しだいに憎しみが優勢になれば,心の闇がまします。人はしばしば地獄を生き,時に天国を垣間見ます。

人は対立するものを止揚することでより高次の段階にいたるか,あるいはその闘争に敗れて低次の段階に転落するかです。

いずれにしても,人はやがて闇そのものに覆われ,人としての終焉を向かえ,自然に帰ります。もともと生まれ出てきたところへ戻るのです。終焉を向かえるまでのそれぞれの個の心の様態の軌跡には,光りの方向に上昇しているのか,闇の方向に下降しているのか,あるいは気晴らしをしながら待機しているのか,それぞれです。

先に上げた,母親に小児的に依存している青年の場合,母親が人生の終焉を向かえたあと,どういう人生が待っているのでしょう。彼を支えるものが彼自身の心の内部になければ,彼は人生の拠り所を失うでしょう。母親との密着した関係が青年の心の発達を阻止している要因である可能性は,小さくはありません。そうであれば母親の息子への愛情は,彼を本当の意味で助けるものではなかったどころか,大変残酷なことをしていることになるといわざるを得ません。

愛情の当否を判定する能力と権限は人間にはないといいましたが,母親の愛情が本物であれば,愛を受けた子供の心の内部に心の中心が生起するのを助けると思います(母親だけがこの鍵を握っているわけではありませんが)。自分の心の中に,自分を支える拠り所が確かなものとして感得されていることは,人生を地獄化させないための要件です。それがあれば,ダルマのように,何かのストレスでぐらりと傾いても,ほどなく起き上がれるのです。人生の難所でつぶれるか,たくましく乗り越えるかを分けるものが,いま述べた意味での心の中心です。

依存心が度外れに強ければ,その子の親は,愛情において欠けるものがあるかもしれません。


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