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性格形成に与える母親の影響(摂食障害の症例を通して) H14.2.27

1.人格と性格
2.愛情の問題
3.内在する主体
4.自立と依存
5.見捨てられる恐怖
6.怒り
7.自我の形成
8.終章

性格形成に与える母親の影響−その3

■内在する主体

心には無意識の領域があります。人間の認識能力は,意識の届くかぎりという制約の下にありますから,無意識という意識の届かない領域のことが,なぜ認識可能なのかという疑問が起こるかもしれません。

たとえば私という人間が現に存在していることは事実問題です。これは否定のしようがありません。しかし私がなぜ存在するに至ったのかという疑問については,私は答えることができません。私は知り得ない理由によって存在しているとしか答えられません。この例によれば,私が存在していることは意識できるが,存在の根拠については無意識であるということになります。換言すると,私にはとうてい認識できない(意識できない)ものがあるということを,認識(意識)することができているということになると思います。

自分の心の世界について,むしろ知らないことがいくらでもあるのは,誰もが知っているとおりです。たとえば過食という本人にとっての深甚な苦しみは現実そのものですが,なぜそのような心の障害に見舞われたのか,さしあたり心的な理由が不明です。過食という事実は認める(意識する)しかないが,心の深部で起こっているに違いないなんらか心的な理由(何かが起こっているのは明らかです)は認識(意識)できません。それは意識の光が届かない無意識の領域があることを意味しています。

そして心理的な治療がうまくいって,その心的な理由を本人が認識(意識)できるときが来れば,おそらく過食地獄から解放されるでしょう。つまり無意識の領域に潜んでいる問題を意識が探り当てることは,ある程度可能なのです。そのことは意識と無意識との領域は,相互の境界が不明瞭で,従って相対的であることを示しています。

このように無意識の世界にも,意識化可能な領域がありますが,それが不可能な領域もあります。前者は個人的なある種の体験を,自我が自我組織に組み込むのを拒否し,無意識下に抑圧したものの集合体から成る領域です。

後者については,たとえば「私が存在していることは否定できないが,存在するに至ったいきさつについては認識不可能である」というとき,私には知り得ないが,何らかの根拠,プロセスが存在しているのは否定し難いという形で,その領域の存在を知ることができ,しかし存在の様態については認識することは不可能であるということになります。ここでは意識と無意識とのあいだに,絶対的な境界が存在しています。従って個人的な体験を超えた(理性的,合理的には説明ができない)ものの存在がここにはあると認められるのです。

C・Gユングは前者を個人的無意識,後者を集合的無意識と呼んでいます。

医学の基本には自然科学があります。あらゆる病気は何らかの身体因によるという理念が,現代医学を築き上げてきました。この思想は医学のみならず,現代文明そのものを築き上げてきたものでもあります。

精神医学にも医学一般の流れの中で,科学としての学問的な体裁を整えてきた歴史があります。その考えを敷衍すると,精神も自然科学的,合理的に理解されるのでなければ当てにならないことになります。事実,19世紀以降の精神医学の本流では,「精神疾患は脳の病気である」という志向が理念のようになっていたといえるでしょう。

しかしながら,そのような身体主義が身体医学では赫々たる成果を上げてきた一方で,精神医学の領域では見るべき成果が上がらないまま19世紀後半を向かえたといえます。精神医学の歴史はギリシア時代にまでさかのぼりますが,神や悪魔や迷信などの超自然的な解釈を排除して,自然的な疾病理解を追求したこの時代の観点は,それら超自然的なものに支配されがちだった当時としては,卓越した精神によって初めて可能だったといえるでしょう。事物の現象に忠実に即しようとするこの現象学的な姿勢は,現代でも尊重されている心理科学的な精神です。そしてその眼差しを歪ませたものは,かつては超自然的なものだったわけですが,現代では自然科学主義であるといっても過言ではないでしょう。「精神病は脳の病である」とする脳神話が,一時期ロボトミー手術を生み出して社会問題化したのはその一例です。これは,医学者たちが自然への忠実な僕という精神を投げ捨て,自然科学主義に囚われた忌むべき事態です。人間そのものをより,学問的な立場を盲目的に上位に置く姿勢は,専門家の陥りがちな愚かで傲慢な姿という他ありません。自然科学は人間が考え出した偉大な方法論であるのは確かであっても,自然を読み解く一つの方法であり,自然そのものはそれに従属するものではあり得ないという単純な事実が,奢った精神には見えなくなってしまうのでしょう。

それはともあれ,自然科学が精神医学領域では見るべき成果を生み出せなかったこともあり,18世紀後半までの100年間というもの,治療に関しては,はかばかしい進展がなかったということになります。精神病院に囚人のようにつながれていた病者ともども,打開策のない難問になす術がなかった精神科医たちも,希望も誇りも持てない囚人のような境遇にあったといえるようです。そういう境遇を自ら選んだ医師たちの多くが,患者たちと共に精神病院で寝起きして生活を共にしてきたのは歴史的事実です。有効な治療的方法を持たない医師たちは,そのようにして医師としての誠意や良心を示すしかなかったのかもしれません。

ギリシア時代に,医聖の誉れ高いヒポクラテスが活躍しましたが,彼の名声が世に知られたのは,むしろ死後のことです。学問の中心がエジプトのアレキサンドリア(プトレマイオス朝の首都)に移ってから,ヒポクラテスを中心とする諸家の医学思想が文書として編纂され,改めて脚光を浴びることになったのです。

ヒポクラテスの思想は,「ヒポクラテスの誓い」と呼ばれている文書に集約されていますが,医師の倫理的なあり方を説いたこの誓いは,神に向けて立てたられたものです。神々が人々の心に生きていたこの時代であるからこそ可能であったのですが,高度に人道的で,倫理的な姿勢が高らかに謳われております。

ヒポクラテスは「神聖病について」という一書で,てんかんを神の意向に基づく神聖な病気とするのが間違いであると断じております。この病気を現象に即してつぶさに診ていけば,自然現象のレベルで理解可能であるとして,神を持ち出すことを非難しております。この病気を神聖化したのは妖術師,祈祷師の類で,彼らは神を持ち出すことでいかにも神を崇めているようだが,その実,自分を優れた者に思い込ませ,祓い清めたり妖術を施したりするまやかしの施術に利用しているというのです。そして処置に窮したときには,神を隠れ蓑に利用しているといっております。それは敬虔な態度とは無縁の,むしろ涜神行為であると断じているのですが,神々が生きていたこの時代には,多くのいかがわしい者たちが,もっともらしく病人達を食い物にしていたことがうかがわれます。

ヒポクラテスが述べているように,神という正体不明の一者への信仰は,それを邪悪に利用しようとする不敬な輩もはびこる余地が大いにあるということですが,ヒポクラテス自身のように,高度に人間的,倫理的な拠り所でもあり得たといえるのでしょう。所詮は人間の所業です。神そのものがどうであれ,それを前にした人間の心が浅ましいものであれば,自分の都合のよいように利用するのも人間ですし,心根の優れた者であれば,高度に真摯に敬虔になれるのも人間です。神が心に生きている時代では,人の心は豊穣に満たされることが可能であり,一方では腐敗,堕落に傾くことも大いに起こりえたということのようです。

ドストエフスキーが,大きな善をなすことができる者は,それに相応して悪人でもあるといっております。ヒポクラテスのような高度な倫理性を持っていた医師たちが存在するためには,それに相応する堕落した精神の存在を必要とするということでしょうか。

ヒポクラテスの時代では,医師は神の前で特別な存在だったということです。

神の側から,「特別に悩みを持つ人たちのために,あなたの能力を使う意志があるか?」という呼びかけがあり,その啓示に感応した者が,それに応じ,誓約するという体裁があったようです。重要なのは,神の側に,人間の自由意志を尊重するという建前があったことです。それが前提であったので,それに応じた人間の側には,神に選ばれた者という意識がありましが,憑かれた者ではなかったわけです。ですから当時の医師たちには,通俗的な野心や名誉欲を超越した高い倫理性が備わっていたといえるのでしょう。

医師と弁護士と僧侶とは,このように神との契約という意味を持つ特別な存在で,単なる職業人ではないという歴史的な由来があるようですが,自然科学の申し子である 現代の医師たちの倫理性はどうでしょうか。

ヒポクラテスがあやしげな施術師たちを,神を隠れ蓑にしているとして非難していますが,現代の隠れ蓑は自然科学といえるでしょう。現代では,医師は,生きるための方便としてその職業を選んだとしても,表立って非難するわけにはいきません。

ヒポクラテスの精神は,「神を拠り所にするが,これを隠れ蓑にするまやかしは排除する」ということでした。現代では,自然科学が拠り所になっていますが,この学問は精神的なものを排除することで成り立っているので,医師の倫理の問題は,まったく個々人の人間性に委ねられているといえます。人間性の怪しげな医師であっても,定められた方法的な手続きに基づいて仕事をしていれば問題はないことになります。医療事故が起きれば,定められた注意義務に怠りがなかったかが問題とされます。人間が人間の行為の是非を判定するのですから,それが公平というものでしょうが,良くも悪くも人間の精神の問題は不在です。

精神論を云々することは,神々が人の心に生きていない現代では,しばしば胡散臭くもあり,誤解を招き易いものでもありますが,現代の精神的な貧困を考えると,ヒポクラテスの時代の神の現代版はなにかという問いは切実なものがあるように思われます。その意味で,ヒポクラテスの精神が生きていた時代と較べると,現代の医師の倫理的な基盤は,文字通り地に落ちてしまっているといわざるを得ない状況にあるというべきでしょう。
現代において神の問題をどう考えるかは特別に難しいことですが,この問題は,神々が心に生きていた時代の精神の豊饒と,自然科学を金科玉条とする時代の精神の貧困とに,如実に反映されているように思われます。

現代においてヒポクラテスの精神をどのように回復できるのか,それは不可能なのかという問いは,医師の倫理問題を超えた人類的な課題であるように思われます。

精神医療が新たな発展を開始したのは,1900年に近づくころでした。しかしながら治療的な閉塞状況に風穴を開ける試みを始めたのは,残念ながら精神科医たちではありませんでした。精神病院の中で,重篤な病人ばかりを前になす術を知らなかった精神科医たちは,赫々たる成果を上げてきた身体医学的な手法が,精神医療に関しては何らの光明ももたらさないことで更に治療的なペシミズムに陥ったままでした。その一方で,神経内科医たちが別な角度から心の病を見つめていました。彼らの外来には,内科的な神経疾患とはいい難いおびただしい数の患者たちが訪れていました。彼らは現代でいうところの神経症者たちでした。内科医たちは,これらの人々のために,何かをしなければならない状況に置かれていたのです。医学の王道である生物学主義の呪縛にかかっていた精神科医たちとは対照的に,彼らは,目の前の神経症者たちを,自由な眼で診る立場にいたといえます。これらの病者の悩みの多くは,「了解不能」というほどのものではなく,健常人と較べても五十歩百歩と映ったでしょうから,一足飛びに「脳の障害」と考える事もなかったのです。

精神医療が生物学的根拠をもとめて,見るべき成果を上げられないでいたこの時代に,それと平行して,メスメリズム(動物磁気説)が一世を風靡していました。これは従来は,医学的本流からすると,いかがわしく,不真面目なものでした。しかし治療的な効果が広範に認められ,熱心な信奉者たちがいたのは否定し難い事実でした。そこに大学教授であったベルネームが注目し,心理療法として導入するにいたり,催眠療法が再認識されることになったのです。催眠療法はそれまでは軽視されていたのですが,ベルネームが学問的に評価したことによって,無意識の領域への扉を開く鍵を,いわば公的に手にすることができたといえます。そして,やがてはフロイトに代表される精神医療の本流への流れができたのです。フロイトの精神分析への発展は,無意識という自然科学の手法の及ばない心の領域に,心理的ー科学的な新たな観点をもたらしたことを意味します。これは精神医療の歴史にとって画期的なことです。

このように自然科学の呪縛から解き放たれたときに,精神医学は,新たな治療的な展開を大々的に開始する方法を得たのです。

そもそも人間は自我を持つ存在です。自我の機能の主要なものの一つが論理性です。自我は合理的精神の砦ともいえますが,その骨子となるものが因果律であり,自然科学においてそれが純粋化されたといえるでしょう。自然科学は自我の能力を模範的に,最も高度な形で示したので,現代人がこの合理的な精神に魅せられ,大きな価値を置くことになったのは,自然な成り行きでもあります。

人間の人間たる所以は自我にあるので,可能なかぎり自我による支配を確立したいと考えるのは,人間であれば当然の欲求といえます。

宇宙には無数の未発見の星体があると思われます。その存在が直接的には証明されていない段階で,科学的類推によって存在を確信する理由が与えられることがあります。これは自然科学の理にかなっていると認められたことを意味し,自我の支配が宇宙に向けて拡張されたことを意味します。

無意識の世界では,個人的無意識の領域に関するかぎり,原理的には自我の光が届くことができます。精神分析的精神療法では,治療者が患者さんの自我と協働して無意識の暗闇に向けて意識を操作するのですが,そのことを通じて,自我が自我組織に組み込むことを拒否していたものを,改めて回収し再統合することになります。

精神的な何らかの不調は,自我が無意識との相対的な関係で,有効に力を発揮できなくなっていることに起因するといえます。ですから自我が健全であれば,精神の不調は原則的には起こり難いといえるでしょう。あるいは起こったとしても,ダルマのように素早く姿勢を元通りに正すことができるといえるでしょう。

自我の機能が生来的に弱い人もあると思います。それは自我が生物的な基盤の上に成り立っていることを示唆しています。また繊細過ぎたり,気が弱かったり,父親や母親の養育姿勢の問題が大きかったりで,抑圧的な態度が習い性になっているなどすると,自我が持てる力を思うように発揮することが,多かれ少なかれ難しくなるかもしれません。

いずれにせよ,これらのことは相対的な問題で,だれにでもそれなりに起こって当然というようなことでもあります。
このように自我が好ましい状態にないことと,精神の不調とのあいだには密接な関連があります。心の治療は,方法的にはさまざまであっても,この関係を調整し,自我の姿勢を正すというところに行き着くといえるでしょう。自力でこの作業をするのが難しいときには,治療者によって自我を支えてもらう必要があるのです。そして両者の関係が十分に信頼の絆で結ばれて行くにつれ,治療という心理的作業を通じて,自我の成長,強化が果たされていくものです。

心の治療では,治療者が心の障害を取り除くのではありません。患者さんが治療者の協力によって自我の姿勢を正し,その能力を回復させることによって,おのずから自分の問題を克服していけるようになるのです。言葉を換えれば,無意識の領域にある問題(従来は受け止める能力を持てず,抑圧するしかなかった)に眼を向ける力を取り戻すことができるのです。このように心理的な治療がうまくいけば,自我の支配圏が拡張されたことになります。それはただちに人間として成長したことを意味します。

以上のように,心にとって内側と外側とに向けて自我の力がおよび,支配圏を拡張していきますが,どの範囲までと限定するのは不可能であっても,自ずから限界があるのも,また,明白です。意識の光が届き得ない絶対的境界が存在しているのは,経験的に自明のことといえると思います。

この絶対的境界で隔てられた無意識と宇宙の無限とは,自我の機能が及び得ない世界です。従ってそれらを科学的に証明するのは,等しく不可能です。言葉を換えれば,「人間には人間的な理性では,その存在の様態を理解することができないものがある,しかし,存在していること自体は認識できる」ということができると思います。更に言葉を換えれば次のようになります。「これら超越的なものの存在を,直感が捉え,自我に訴えかけることがあるが,その実態的な様相について自我が認識的に捉えることは不可能である」

ところが,以上のようなことは自明ではなく,人間の理性はあらゆることを解決可能だと信じる人もあるようです。こうした自我万能の信奉者にかかると,結局,人間自身が神になるしかなくなるのです。そして地球規模で危機的な状況におかれてしまっている現代のもろもろの問題は,実際に人間が神に取って代わろうとした結果であるという趣を持っています。神を放逐した人間的な偉業は,一方ではとんでもない愚行に直結する性格を,元々はらんでいました。

人間がそのまま神になってしまうのは,必ずしも珍しいことではありません。現人神,天子などはそういう趣きを持っていますし,独裁者は,「朕は国家なり」という言葉で代表されるように,それに類する者といえるでしょう。神に匹敵する力を持っていると,事実上意識している人間は,恐ろしい存在です。傲慢は常に罪ですが,その中でも特別な罪だと思います。独裁者とはいえなくても,強力な武力を持つ国の最高権力者が,自分に敵対的な国に実質的な侵略戦争をしかけるのは,文字通り神を恐れぬ所業です。たった一人の人間を殺すのさえ大それたことです。侵略戦争という大量殺戮行為をしかけることができる人間が,どうして存在し得るのでしょう。彼は正義という光り輝く名分を求めて,殺戮者の黒い凶悪な精神を覆い隠そうとします。その程度には,狡猾ながら恐れを知っているといえるのかもしれません。そして彼が最高権力者であるがために,それはほとんど必ず成功し,国民によって支持されるという体裁が出来上がるのです。人間が人間を殺戮してよい理由は,どんな人間も持っていません。それは,いついかなるときでも憚られることです。それを,堂々と遂行する権利を主張できる者は,もはや人間ではありません。彼はある意味で神になってしまっているのです。そして国民はそれを承認するのです。侵略戦争を仕掛けようとして国民の反発にあい,思いとどまった例は,歴史上のどこにもないのではないでしょうか。

人間は一切のものの最上位者ではあり得ません。そんなことは自明だと思います。人間より上位にあるもの,それは自我の力の及ばないものです。そういうものは経験的にいくらでも存在していることで,こと改めて証明してみせるなどということは必要もないことです。自我の力の及ばない超越的な存在を神と呼ぶかどうかは,あまり問題ではありません。さまざまな信仰が活発に生きている時代では,神と呼んだ歴史的過程はあるのでしょう。そして実態のあいまいな,非科学的なその種のことを,ことごとく剥ぎ取って来た歴史的過程もあるのでしょう。

宇宙の無限は存在するというのとおなじ次元で,神が,意識にとって外的に存在するとはいえません。しかし信仰というものは,人間があるところいたるところに存在してきました。科学万能の現代でも例外ではありません。現代では現代の信仰である科学的な風潮のおかげで,信仰の形態は随分いびつになることもあるようです。極端になるとカルト的,反社会的という性格を持つものもあると思います。しかしどんなにいびつなものに見えようと,それらの集団がなくなることは考え難いことです。それは奇怪な心の持ち主がたくさん居るということを証明するものでしょうか。しかし,彼らにいわせれば,逆に,現代社会こそが歪んでいるというに違いありません。それら両者の関係は,自我と無意識のそれに似通っているようでもあります。つまり時代を主導する自然科学的なものの見方を自我とみなせば,カルト的な宗教団体は無意識に相当します。自我が歪めば,相対的に無意識も歪んで,悪しき様相を帯びるものです。それらは相対的で,相互に関連し合うのです。

現代の大問題は心の砂漠化が進んでいることです。その影響は思春期にある者たちに,特に先鋭に表われていると思われます。彼らの心を支える精神的な拠り所が不在なのです。そういうものは思春期にあるものには,特に必要です。親離れがはじまる年頃になって,飛び立てない子たち,逆に早々と親に見切りをつけてしまった子たちの姿が,精神医療を求める子供たち,あるいは親たちの様子から,現代的な様相としてうかがえるようです。

とりわけ早々と親に見切りをつけ,精神の漂流を始めてしまっている子供たちは,世の大人達を右往左往させる悪のにおいのする行為に快感を覚えるようになるようです。彼らには親たちは,単に”うざったい”存在でしかなく,その許を離れることの恐れよりは,解放される心地よさの方に魅かれるのかもしれません。子供に見切りをつけられそうになっても,親自身が自分が畏れを持って助力をあおぐような心の上位者を持たないのです。

自由というものは魅力的なものです。そして大いに不安なものです。真に自由を享受するためには,高度な精神性が必要です。早々と精神の漂流を始めた者は,自由を求めたつもりかもしれませんが,この意味で自由の享受者とは到底いえません。畏れるに値しない上位者の束縛が意味を持たないので,その絆を破ることに,ためらいや罪悪感を持てなかったというのはありそうなことです。将来が不安でないかといえば,大いに不安なのだと思います。しかしその不安をなにかによって繋ぎ止められる不自由に敵意を持つ者が,束縛を破って漂流を始めるのだと思います。それは親子関係の反映という側面はあるでしょうが,時代そのものが精神的な支柱を持っていないことが,更に大きな理由になっていると思います。精神的に満たされることの少なかった子供時代を経験すると,拠って立つ心の基盤を,人的なものを含めて社会的な資産に求めることが難しく,自分自身の幼い心に求めるしかなくなる場合も珍しくはないでしょう。頼りにするのは自分だけ,自分の気分だけということになるのではないでしょうか。自由とは似て非なる身勝手な行動に走って何がいけないのか,気分に従って行動しようとする者たちには,答えを知りたいとさえ思わないかもしれません。

生きたいように生きて何が悪いかのという反問になんと答えればいいのでしょう。極端になれば,人を殺してなにが悪いのかということにもなりかねません。彼らを納得させるような答えは,さしあたりは難しいように思います。彼らの自我は既に自由を失っているように思われるからです。自我が健全でなければ(健全な自我は,必ず無意識の力に対して一定の自由を保持しています),無意識の勢力は反社会的な,あるいは非社会的な色合いを活発化させます。もともと無意識は社会的な存在ではありません。自我がその役割を担っているので,自我が無意識を指導的に従える必要があるのです。自我を騎手に,無意識を馬に例えてみると,人間にとってのこの馬は全てを見通す叡智を持っていますが,人生という障害物レースを戦うにあたっては,一切を自我に委ね,沈黙したまま,しかし一切を知り,一切を見抜きながら,自我の指揮ぶりを見ているのです。騎手が自分の役割に責任を持って,目の前の障害物にどう対処するべきかを機敏に判断するとき,馬は騎手を評価して,それに従って行動するエネルギーの源泉となります。しかし指揮を取る騎手の能力が不満足なものでしかなければ,馬は騎手のために働く気にはならないでしょう。いわば騎手を見捨てるのです。その代わりに,評価するに値しない騎手に対して,社会的な存在として滅亡するのをお構いなしに,あれやこれやの気分的な満足を与えようとします。それは既に悪の彩のある動きなのです。社会的な存在として,いわばやる気をなくし,無責任化した自我に相応して,無意識は悪のたくらみをはじめ,滅びの誘いを始めるように思われます。自我はそういう無意識に盲従してしまうのです。そうなると自我は自由と主体性を失い,事の是非を判断するのが難しくなるのです。
心の砂漠化が進行して,精神の漂流を始めてしまった者たちも,時代の被害者です。彼らに,彼らが生きてきた社会の規範的な価値意識を説いても,それによって犠牲を強いられてきたと感じているだろう彼らは耳を貸そうとしないでしょうが,彼らも何かを求めてはいるのです。そういう彼らに,たとえばカルト集団が一つの答えを出しているということは,大いにありそうに思います。

人が生き生きと人であるためには,精神的な拠り所が不可欠です。自我は無意識によって成り立ちます。自我の機能が及び得ないものが自我の上位者である資格を持ち,自我に力をもたらす源泉である理由を持ち得ます。その上位者が無意識の世界であり,自我との有機的連関があって心が存在するのです。
自我が一切の理由であるとするのは,根拠を持たない張りぼてを不当に高く評価するようなものです。自我への信仰が時代の主調となり,自然科学が一世を風靡しました。それが物質文明の隆盛をもたらし,そして一方では,おそるべき心の貧困,心の病気,犯罪を招き寄せてきたといわなければなりません。

人間が自我の能力を絶対的に超越しているものの存在を認めることは,好みの問題ではありません。人間が置かれている心の様態を素朴に捉えるかぎり,それ以外に選択の余地がないといえます。それを考えると,自我にとっての超越的なものを現代において捉えることは不可能であるとは思えません。

これらの自我の能力を超えたものについて,人間がその存在様態を知ることは不可能です。しかし存在自体は,自我に直感として訴えかけるなにものかという形で,察知できますし,認めないわけにはいきません。

その存在は自我には所属しません。自我を超えたなにものかであるそれは,無意識界,それも絶対的な境界を超えた領域にあるもの,ユングのいう集合的無意識の世界に存在すると考えるしかありません。この領域は自我の上位にあります。自我は自我の支配し得ない上位のものに依存しつつ存在可能なのです。人間の意識活動が存在するためには,無意識の存在を前提とするといえると思います。

自然科学は,その対象となるものを,完璧に人間の能力のコントロールの下に置こうとする志向性を持ちます。

自我は社会的な存在としての人間の心の中核の位置にある組織体ですが,先にも述べたように,自我の主要な機能の一つは論理性です。その骨子となる因果律を,最も洗練された形で方法化されたのが自然科学です。

自然科学においては,対象となっているものに隈なく光を当てるように自我が機能し,意識が操作されます。そのようにして,対象をまったくの自我の支配下に置く試みが純粋化された学問が自然科学です。ここでは対象を見つめている主観が問題にされることはありません。たとえば感染症のように,原因菌と病症との因果律が明快であるときは,主観性を排除した観点は有効であり,なんら問題はないように見えます。これは鍵と鍵穴の関係,機械の修理の問題といえるでしょう。

しかし,感染症の征服は可能かといえば,そうはいかないようです。原因菌やウイルスは姿を変え,抵抗力を高め,改めて人間を攻撃する力をとめどなく蓄えているようです。新手の感染症が続出するのは,どうやら人間が自然の生態系を破壊したことにもよるようです。自然との調和を無視して,人知が自然に破壊的な手を加えると,自然の側からの手ごわい反撃を覚悟しなければならないように思われます。そういうことを考え合わせると,一見すると単純な感染症の問題も,人間と自然との調和,ないしは闘いの様相があり,この戦いに人類が究極的に勝利する可能性はないように思われます。そう考えると感染症の問題も,単に原因菌を確定するという自然科学的営為に,なにか重大な問題が残されていると考えなければならないようです。たとえば森林破壊が新たな感染症を招き寄せたということがあるのなら,感染症対策はしかるべき抗菌剤の開発だけでは解決しないでしょう。むしろ自然との調和を問題にするほうが,より根本的な解決策になるのではないでしょうか。輝かしい自然科学の勝利は,個々の感染症を征服したという限定的なものにとどまっているといわなければなりません。

ましてや精神疾患となると,更に問題は複雑です。E・クレペリンは,現代でいう統合失調症を分類整備した人ですが,厳密な現象学的姿勢で,観察者の立場の偏見を慎重に排除したはずでした。ところが彼が観察した精神病者たちは,劣悪な環境に長期的に入院していた人たちで,それは大いに人為的な影響を受けた病像であり,病気の自然な姿ではなかったといわれています。こうなると病気あるいは病人というものは,見る立場の主観を排除して観察し,実態を把握することは不可能になります。このことを考慮に入れないと,クレペリン自身が陥ったように,「精神疾患は,観察する立場の反映から独立したなんらかの純粋に客観的な疾病プロセスに起因する」という科学的な偏見を生む出すことになります。それは「精神疾患は脳の病気である」ということにほかならず,病を病む者という自然な現実に対して,本来は仮説であるべきものが,いつのまにか科学的な真実となってその上位に据えられることになるのです。科学が自然現象の上位に位置するのは本末転倒であり,危険な事態です。

たとえば原子爆弾には自然科学の功罪が示されています。

核爆弾の親物質である天然ウランは,地球上に広範囲に見られるものです。それらは分子的に安定しており,そのままではエネルギー源にはなりません。そこに膨大なエネルギーがはらまれているのを発見したのは科学者です。それを純粋化し,巨大なエネルギーを取り出す手続きを発見したのも科学者です。これは科学者としては胸を躍らせるような発見だったに違いありません。ここまで来れば,そのエネルギーが類を見ない巨大兵器の開発に行き着くのは時間の問題です。当時,アメリカを中心とした科学者たちは,ナチスドイツがこの兵器を開発しつつあるということで,それに先んじようと力を合わせたのです。これを作り出した科学者の能力は,大きな戦争の渦中にあった当時としては,大いに賞賛される事情があったといえます。兵器として類を見ないものを完成させるという行為は,携わった科学者を興奮させたに違いありません。

兵器が完成された段階で,その使用が検討された相手国は日本でした。そのころ日本国は,既に戦争の相手としては恐れるに値しなくなっていました。この新型兵器を使用する意味を知っていた多くの科学者が,熱心に反対運動を展開しましたが,抑止する力にはなりませんでした。

自然界にある石油を採掘してエネルギー源とするのと,天然ウランから純粋ウランを取り出してエネルギー源とするのと,どこが違うのでしょう。それは単にエネルギーとしての規模の違いなのでしょうか? 

石油タンクが燃え始めたとしても,問題とされるのは責任者の不注意です。それらタンクが存在すること自体に疑問を持ち,反対する人はあまりいないでしょう。しかし原子力施設で故障が起きると,人は単に責任者の不注意に対してにとどまらず,そういうものが存在していること自体に素朴に疑問を覚えるのではないでしょうか。

両者の違いはどこにあるのでしょうか。原子力の場合は,どこか禁断の火といった趣があるということかもしれません。天然ウランは,そのままにしておけばおとなしく人間と共存しているが,それに人間が手を加えたばかりに,人間の手に負えない性情がむき出しになるという恐れが人にはないでしょうか。

科学者の好奇心は,天然ウランから巨大なエネルギーを取り出せるかもしれないという見込みが立てば,どうしてもその可能性を確かめたくなるでしょう。こうした知的好奇心は,科学者であればなくてはならないものでしょう。しかし人間としての立場を離れて,純粋に科学者であることはできません。それはどうしても一体のものです。

この研究に危険なものを感じて,消極的な姿勢に終始した科学者は,むしろ大勢いたようです。そうすると時代の風にも影響されたとはいえ,積極的な姿勢を貫いた科学者たちは,人間としてやはり特殊な人たちだったといえるのかもしれません。 破壊や暴力は人間の悪に由来するものです。人間であれば,誰にでもこういう性情はあると考えなければなりません。人を分けるのは,この種の悪を悪として退ける精神が確かであるか,悪と認めつつも,無意識の領域に巣食うこの勢力に密かに魅かれているかの違いではないでしょうか。一介の庶民であれば,悪をなすことへの恐れに敏感です。そうでなければ自分自身が危険な状況に置かれることになるからです。しかし権力者になればなるほど,こうした恐れを持たなくなるようです。彼らにつきものの支配欲求が,彼らを高い立場に押し上げるためではないでしょうか。自我肥大を起こすと,人は必ず傲慢になります。自分が一切の価値の中心になります。正義は常に自分にあり,敵対者は不埒な者として退けられるのが当然になります。人間は権力に近づくことにより,ほとんど必ず悪に傾くといっても過言ではないように思います。

人間のこうした悪魔性と関連するのが,原子力の兵器への応用です。そういう魔力をこのエネルギー源は秘めているように思います。そのにおいがあるからこそ,人は原子力発電に,特別な危険を感じるのではないでしょうか。しかし本当は人が密かに恐れるのは,原子のエネルギーを含んだ物質へというよりは,むしろ人間の持つ悪の影に対してではないでしょうか。

実際に核兵器の研究開発に携わった科学者は,光に満たされた兵器が完成に向かうにつれ,彼らの心もまた光に満ちたことでしょう。対象に関わっている科学者の心から,影の領域に属するものが排除されなければ,仕事を進めるのは困難だと思います。兵器を使用する側は敵国を殲滅させる覚悟です。相手国は悪なる影の集団という意識が働かなければできない覚悟です。そして使用する側は,対照的に正義の見方,光につつまれた恥じることのない集団という意識にならないわけにはいかないと思います。巨大殺戮兵器で勝利する側の意識は,光につつまれていることでしょう。攻撃をする側は,攻撃を正当化するために,心から影を排除しなければならないだろうからです。そして攻撃される側は,この切り離された影によって殲滅されようとするのです。しかしいうまでもなく,攻撃をする側もされる側も,等しくおなじ人間です。一人の人間の心とおなじように,一つの国という単位にも光と影との二つの領域があります。二つの国のあいだで光と影の分離と対立が際立ったときに,戦争が避けられなくなるのです。

このように自然科学は一方で物質文明の隆盛をもたらし,他方で人類に被害をもたらす可能性を持っています。人間の心には光と影との両面があり,影の領域への敬意を忘れると,自然科学者はおのれの分をわきまえない傲慢さを露呈することになるでしょう。言葉を換えると,自然への畏敬の念を失ったときに,人類は危険な挑戦を始めていると考えなければならないと思います。

自然は,本来,人間が自由に扱えるものではあり得ません。心についても同様です。それらのことはいうまでもないことですが,換言すると自然や心は,意識の光が届かない影の領域を持っているということです。意識は対象を捉える人間的な武器で,人間の偉大な力を示しますが,とうてい手には負えないものがあります。

その意識にとっての越え難い存在は,心の外側と内側とに存在します。意識の領域は先にも述べたように,人間の知性的な理解が可能な範疇にあるので,当然有限の世界です。これに対して影の領域にあるものは無限の世界です。光の世界のものである意識は,その世界についてはすべてにわたって操作することが,原則的に可能です。しかし意識が存在する理由については,自我に与えられている能力の範疇を越えており,知ることができません。言葉を換えると,意識はその存在の根拠をそれ自体の内に持っていず,自己完結的な存在ではありません。 そのことは,自我はその基盤を,自我ではないもの,つまり無意識の世界に拠っているということを意味します。

人間の意識活動は,その能力を超越した無意識的な心の存在を前提として,はじめて理解可能になるのです。

無意識の世界は,自我の拠り所ですが,自我に与えられている能力ではうかがい知れない超越的上位者です。従ってそれは,まるごと認め,受け入れる以外にはなく,自我に固有の能力である疑いの眼を向ける余地がない存在です。これが,人間があくまでも謙遜でなければならない根本理由です。ですから謙遜であることは,人間に対する根源的な要請であると,私は思います。卑屈は精神の堕落ですが,謙遜は精神の崇高な姿です。このことの実践は,いうまでもなく容易いことではまったくありません。人は力を持てば,謙遜どころか,むしろ傲慢になりがちです。力を失えば,卑屈になり,狡猾になり,妬み,恨みの虜になります。いずれにしてもそれらは精神の堕落した姿です。

人が心の救済を真に求めたければ,唯一の可能性は謙遜に徹することでしょうが,これを人に勧めること自体が傲慢の謗りを免れないでしょう。人類の中でも類まれな人だけが,そういう精神を求めて自分を厳しく律することにより,可能的な彼方が眼差されるということなのでしょうから。

それを考えると,多くの心の病も,また,謙遜の精神からの転落という側面があるのは確かでしょう。

それらの意味で,人間には大きなものがあるといえると思います。そこへの道を妨げるのは実に人間自身です。この大きなものの前では,この人間自身は,実に矮小です。そして,この人間自身の中で人は迷子になるのです。それを脱して大きなものへ近づくには,心の,ある澄んだものが必要なようです。

このような自我と無意識の関係は,信仰を持つ人と神の関係とほとんど区別がつけ難いと思います。ただし前者の場合は,経験的な事実の上に立って自然に見えてくることなので,信仰ではありません。自我の超越的上位者の存在は,その実相を知ることは不可能とはいえ,ほとんど事実問題です。そして,また,信仰という人類に根深い問題も,それぞれの心の内部に,このような超越的上位者が存在するために成立することができるのです。人がしばしば思うように,信仰が馬鹿げた空疎なものへの胡散臭い信奉というのは,人間の心の実態に即して公平な見方ではないと思います。

自我の超越的上位者の存在は事実問題といえると思いますが,それは,はるか遠くに望見される形態の不確かな山のようなものと例えていえるでしょうか。幻にも似て形状が不確かとはいえ,幻が人間が作り出した幻影であるのに対して,このものは人間の存在に関わる一切の根拠であり,死と共に消滅するという意味で人間の存在に関わる一切の現象という幻影を作り出しているものです。この不確かな形状のものを確かめるために,もっと近づいて観察しようとしても近づくことは不可能です。幻は不意に消滅しますが,このものは決して消滅することはありません。従って,このものの存在は事実問題であるとはいえ,超人間的な世界のことなので,あくまでも自我を拠り所とする人間的な推理,解釈をすればという前提があってのことになると思います。人間的な世界は,完全に意識と共に存在します。睡眠によって自我の活動が休止したときに,人は意識と共に人としての存在を休止させます。休止しているあいだは無と区別がつけ難く,死と区別がつけ難いといえます。そして再び覚醒したときに,再び意識活動が開始され,自分が昨日までの自分と連続したものであることに疑いを持ちません。意識を中断させ,それはしかし死ではなく,意識の休止である,一つの人格としては一連のものであり,統合されたものであるという安心保証は,意識に拠るものではなく,従って無意識に拠るものです。

意識が捉えた様相が人間的な世界の一切です。従って人間的な世界は,終始,現象として存在します。その存在は意識の消滅と共に消滅するのですが,睡眠あるいは意識障害という意識の休止(意識が直接は捉えられない世界への陥没),それらをも含み一個の人格の存在を保証しているものは,無意識の世界以外には考えられません。それは同時に,現象として存在する人間的な世界に秩序を与えているものでもあります。
このように,現象として存在する人間的な世界に秩序をもたらしていると想定される超越的上位者を,内在する主体と呼んでおきたいと思います。

Fさんは企業人の妻です。夫が某国の支店に駐在することになり,Fさんのその国での生活がはじまりました。Fさんは夫人達の親睦会の人々が開いてくれた歓迎会に招かれ,会の一員となりました。しばらく経って,すっかり信じていた何人かの人たちが,いつのまにか誹謗,中傷の噂を撒き散らしていることに気がつきました。Fさんばかりでなく,夫もおなじような噂にさらされました。そういう目にあう人は他にもいて,嫉妬がからんだ独特の陰湿なものがあったようです。

Fさんは気が弱い人ではありませんが,人と対立的にならないように気を使う抑制的な性格です。反撃や詰問をせずに黙って耐えているうちに,激しい動悸,呼吸困難の発作に悩まされるようになりました。日本に帰国してからも,それらの症状はつづき,受診しました。

受診後,それら症状的なものは速やかに収まりましたが,しばしば当時の生活が夢に出ます。常に悪夢です。外国での外傷体験がいかに深刻なものであったかがうかがわれますが,単に当時のことが夢の上で再現されているだけではないらしいということに,Fさんもしだいに気がつくようになりました。外傷となった体験は隅々まで想起可能なのです。ということは自我はそれらの体験のあらかたは受け止めることができているので,それらが悪夢となって自我をおびやかす要因にはならないと考えていいのです。Fさんを悩ませている悪夢の内容は某国での体験なのですが,悪夢という形でFさんの自我をおびやかしているのは,自我がまだ気がつかずにいるなんらかの問題が無意識界に横たわり,解決を迫っていると考えていいと思います。ですからそれらの夢の内容は,某国の体験そのものではなく,それに関連する,より根深いものの所在を暗示しているのです。自我がそれを捉えることに成功すれば,夢の役割は果たされることになります。自我にとって受け止め難かったものを受け止める力を得たのですから,端的に自我のキャパシティが大きくなったことを意味します。それは一応の解決が図られたことになります。そういうことを前提にして考えると,某国の体験が繰り返し夢に現れる理由は,それらの体験そのものではないことになるのです。事実Fさんが母親との関係その他について,夢が何を伝えようとしているのか,芋ずる式に推理を重ねていくにつれ,悪夢は消失しました。それはそれらの推理が,大筋で的を射ていたことを意味すると考えていいと思います。

気分がよい日がつづいているある日,Fさんは封印していたCDを取り出しました。それは,その某国の英雄的な作曲家の名前を冠したコンクールの決勝の演奏を収録したものでした。Fさん自身や誹謗,中傷の噂を撒き散らした夫人たちも,コンサート会場にいました。国民的な英雄である作曲家のその曲は,町中にいつも流されているものでもありました。Fさんは当時を思い出したくないので,曲を聴かないようにしていたのです。
演奏が始まる前に拍手の音が鳴り響きます。自分のもあれば,許し難い仕打ちをしていた者達のものも混じっているはずです。演奏を聴いているうちに,動悸とともに全身から汗が吹き出してきました。Fさんは,問題の根の深さに暗然となりました。

外界からの,あるいは無意識界からの刺激を受け止め,それに対応するのが自我の機能です。

Fさんの自我は,某国での生活の証である音楽を聴くことに耐えられなかったのです。その理由は,一つにはいうまでもなく外傷体験によるものです。しかし先にも述べたことですが,Fさんはその体験の隅々までを把握しているのです。それは過ぎ去ったことでいまさら仕方がないことでもあります。Fさんもそう思っています。自我としてはそれに関しては隠し持つ何物もないはずなので,Fさんを震撼させるほどの大きな理由になるとは考え難いことです。どうしても他に理由があるはずです。なぜ自我が凍りついてしまうほどのことが起こったのかが問題です。それは自我がまだ知らないでいる体験群があることを示しています。それらはできれば知りたくない理由があり,従来は意識の地下に封印することで問題がなかったのですが,いまや件の外傷的体験によって一撃され,活性化されてしまったのです。外傷体験に何らかの意味で連関するような性格を持っているそれらの体験群は,いまとなっては自我が知らないふりをして済ませることを許さないほど活力を帯びてしまっているのです。

Fさんは聡明な人で,果敢な精神の持ち主でもあったので,以上のような意味合いを理解し,臆せずに自分に立ち向かっていきました。そうすることで,彼女を苦しめ,脅かしているものをむしろ手がかりにすることができたのです。つまり自我に圧力を加えてきていたものに対して,立ち往生することがなく,いわば心の扉を開くことができたのです。それに伴って意識の地下に封じ込めることに費やしていたエネルギーを回収することに成功したのです。それは自我の勝利です。同時にFさんの人間としての成長を意味するものです。

このように述べると簡単なことのように思えるかもしれませんが,自我が抑圧していたものの存在は,自我にとって脅威の素なのです。いわば自分を犠牲にして,自分以外の誰か(親といってもいいでしょう)との関係を重視したといういきさつがあるはずなので,いわば人生を左右するほどの無意識的な選択だったといえるだろうからです。比喩的にいえば,自分の国を守るために,強い隣国に助けを求め,その代償に主権をそれなりに放棄してしまっていたものを,今になって取り戻そうとするようなものです。当然,隣国は,少なくても主観的には恐ろしい存在なのです。

Fさんの恐慌発作に伴って明らかになったのは,一見すると原因となっているように思われる外傷的な体験が,実は根本的な要因ではなく,きっかけになっているに過ぎないということです。むしろ容易には把握し難い意識の深部に潜む問題があり,それは直接のきっかけをなした出来事と心的に関連する一連の過去の体験群であると考えられるのです。それらは,自我によって負の烙印を押され,受容するのを拒まれたものたちです。その結果,無意識下の負の集積場に蓄えられ,平生はその存在が忘れられているという性格のものです。それだけに,怒りや怨念の感情を伴い,自我をおびやかす潜在的な勢力となっているのです。またいつかは自我に認められたいと願ってもいるのです。このようにいうと,いわば隠し子のような趣がありますが,実際それに類似することが無意識の世界で起こっているのです。。

このような無意識的な自我の選択的抑圧は,多かれ少なかれ誰にでも起こることです。否,むしろ起こらないわけにはいかないというべきでしょう。人は他人との関係で生きることが,人間が人間であることの条件となっているからです。他者の中でも,特に両親との関係が人間関係の基本です。そういうことがあり,抑圧は一般に他者との関係を重視し,その分,自己犠牲を強いるという意味合いがあるといえるでしょう。社会的な存在を免れるわけにはいかないのが人間ですから,良くも悪くも抑圧は人間に必須の心的機能です。

自我が十分に強力になっていれば,抑圧は,いわば自我の責任において自我の価値規範に反するという心的形態の下に起こります。それは自己にとってなんら問題はないといえるでしょう。問題が生じるのは,自我が十分には強くないときです。それは相対的に他者への恐れが強いことの反映といえるでしょう。そのために人格形成の上で好ましくはない選択を無意識的にしてしまうのです。いわば他人に気兼ねして自己を抑圧してしまいがちになるのです。
抑圧されるのはその都度の個々の体験ですが,それは単なる記憶の封入というレベルを超えて,臆病になっている自我(他人との関係で)が受け入れるのを拒否している一連のものであり,一定の傾向の自己を自我が受け入れるのを拒否しているのと等しくなります。

自我(ここで問題になっているのは,他人に気兼ねをして,選択的に抑圧する自我)が受け入れている自己を表のそれと考えると,受け入れを拒まれているそれらは,裏の(あるいは影の)自己ということになりなります。ですからそれらは,自分の分身ともいえるものです。それら分身は,自我によって認知を拒まれ,意識の地下牢に幽閉されている弟(妹)分ともいえるのです。

これは比喩的な表現を超えて,現実の事実問題といえるほどのことです。いわゆる多重人格という病的な現象がありますが,これは人格の分裂を意味しており,無意識下に別様の人格が潜んでいることを示しています。そのような病的な現象にとどまらず,そもそも人格というものは,強固に統一されたものではなく,いわば複合的な諸人格が統合された姿といっていいでしょう。いわゆる自我といわれているものは,それらの中の公的な人格の形態といえるでしょう。人格とはそういう性格のものなので,時によっては,自分がばらばらに砕けそうだという恐怖を持つこともあるのです。

このような事情の下にあるのが人間といえますので,自我がほどほどに強固であり,健全であることは大変重要です。そうでなければ,場合によっては病的な自己に陥る危険も出てきます。

人生には何度も節目となる出来事がありますが,そのときに自我の強さが試されます。自我が問題を克服していかなければ,更に自我の衰弱を招くことになります。それらの問題が解決されずに長く放置されていると,いつか自我が機能不全に陥りかねません。あえて病的といえないまでも,生きる目標を見失い,活力を失ってしまうことになるかもしれません。

自我が受容できないものがあるということが,そもそも自我の脆弱なところです。つきつけられた問題には,自我は何らかの解答を出さなければなりません。たとえそれが自分の手には負えないというのが解答であるとしても,そこに客観的な根拠があれば立派な解答です。しかし自我が然るべき態度を取れず,問題を回避しつづけていると,そういう自我に業を煮やし,意識の地下牢に幽閉されていた分身たちが力を蓄えはじめる危険があります。自我は生きるという方向性を担っていますが,生きることの対極にある死への方向性を担った破壊的な力が無意識界に潜在しています。人の心には一般に対立する二極があるのです。自我が衰弱すると,この力が活性化し,意識の地下で日の目を見る機会を奪われつづけている分身たちと結託する危険があるのです。いわば母屋を乗っ取り,自我を傀儡化しようとする動きが出て来ることになるのです。そうなると,いうならば自我の根っ子が腐り始めたようなもので,人間として,人格として問題が生じてきます。具体的には無気力になったり,卑屈になったり,さまざまですが,場合によっては目先のことには抜け目がなく,狡猾になったりもするかもしれません。いずれにしても,自我が無意識との相対的な関係で指導力を発揮できず,持てる力を極めて不十分にしか活用できていないという心的状況に陥ります。基本的に能力がないというのではなく,持っている力がありながら宝の持ち腐れ状態になってしまうのです。こうなると将来について,なんの希望も持てなくなってしまいます。そして指導力に不満を募らせた無意識の諸勢力が跳梁し始めるのです。

これらの意識の地下にある勢力は,比喩的にいえば,人里離れたところにある不気味で,近づくのがためらわれるような雰囲気を持つ沼に潜む魑魅魍魎という趣があります。そういう意味を込めて,意識下に収束されている負の意味を帯びた体験群の棲息する様相を,私は個人的に”心の沼”と呼んでみています。

”心の沼”と私が呼んでいるのは,自我にとっての弁慶の泣き所のようなものです。それはおそらくは生まれて間もないころの人生の最早期に端を発していると思います。つまりおそらくは母子の関係で恐怖する何らかの体験があり,それが核となっていると想像されます。そういうことは単なる想像ではなく,児童心理の研究者の蓄積や,日常の臨床からうかがわれるものです。直接確かめることはできないけれど,そのように考えないと理解が難しいということです。そうしたものが核となって,そのことに近似する新たな体験をすると,幼い自我は受け止める力を持てないのです。それは改めて無意識の領域に抑圧されることになると思います。人生の道程でその種のことが繰り返されて,無意識下で一つの勢力となります。

それら一連の体験に関しては,自我は機能できず,いつまでも未熟なままでいるしかなくなります。この”沼”の存在と,相対的に脆弱な自我との関係が,外傷体験といわれるものを生じ易くさせる素地となります。

自我は固有の問題に弱点を持っています。もともとその種の問題は,意識が回避的な態度を取ってきたものです。自我は責任を回避しつづけてきたそれらの問題をつきつけられると,臆病に立ちすくんでしまうのです。そういういきさつがあるので,自己の回復をはかるためには,無意識の領域にある”沼”に立ち向かう勇気を必要としているのですが,自我としてはそもそも気が重い課題なのです。いわゆる抵抗といわれる形で,自我が自分の作業を妨害するという一見不可解なことが起こる所以でもあります。

しかしながら,そういうことではあっても自我の役目は,心の内側と外側の問題を捉えて受け止め,自己に取り込み,新たな統合を図るということです。困難であっても本来あるべき自分でありたいと考えれば,勇気を出して立ち向かっていくしかありません。

自我は,人間が社会的な存在として生きることに関わる中枢的な機能を担っています。しかしこのような作業が円滑に行われているのか,見当違いのことをしているのか,それを決める基準は自我自身にはありません。なにかの問題に直面して,それを解決して充足感を味わったり,逆に自分の無力に悩んだり,落ち込んだりするのは,自我が拠り所としている何かがあることを間接的に証明しています。それは無意識以外にはあり得ないことでもあり,この領域にある自我の拠り所を内在する主体と呼ぶことが許されるのではないかと思います。

母親の胎内で卵子と精子とが合体し,人間の身体の諸器官が形作られていく過程の胎生期にあっては,意識と自我の機能はまだ開始されていず,活動への準備期間にあります。その時代は自然と一体の人間以前の特別な生命体として存在しています。人間存在へと向けた生命の始まりと成長は,自然のプロセスの中にあります。そこにどういう意志が働いているのか,人間の知恵のおよぶところではありません。しかし我々人間には永遠に解明不能であるにしても,現にしかじかの特徴を持った驚嘆に値する合理的な機能を備えた身体と精神とが存在しているのは,厳然とした事実です。そこに何らかの意志が働いたと考え,それを自然の摂理と呼ぶのは,不当とはいえないでしょう。

複雑極まりなく,かつ精妙な身体と精神を持ち,しかし存在する目的と理由を明らかにされていない人間は,自然の摂理とでも呼ぶ以外にないものによって存在していると考えるしかありません。人間は自然から乖離される形で存在を得,いずれ自然の懐に帰還するのです。

自然の中にあり,自然をつかさどり,運行するものの意志によって統率されていると考えるしかない人間が,自らの内部にその意志がこめられている具体的な領域は,無意識のそれです。この領域に現われている自然を統率する意志を,特に内在する主体と呼んで区別したいと思います。そのように呼ぶことによって,精神のさまざまな病理現象について理解を深めることができ,かつ治療上の重要な手がかりが得られるのです。

会社の人間関係などの重圧に負けてうつ病を発症し,休職している30代の男性Hさんの例です。Hさんの目は専ら会社に向けられており,家族,両親との関係で問題を深めるのが難しい経過がありました。

会社への拒否感が強く,転職も考えますが,それも具体的には進展しません。そういうことを考えると不安になり,抑うつ感が深まるのです。いたずらに休職期間が長引いてしまっていました。

あるとき他人との関係は重要だが,それ以上に自分自身との関係が重要だという話をしました。

その内容は以下のようです。
他人から見離されるのも辛いものだが,自分自身に見離されると,比較にならないほど深刻な事態になる。心にとっての生命の拠り所は,他者をはじめとした外的な状況にではなく,それぞれの自分自身の内部にある。つまり無意識の世界に心が拠り所としているものがあると考えていいと思う。それとの関係が断絶すると人生は地獄になる。例えば小学生が3人のいじめっ子の標的にされていると仮定して,その子が不登校になるときは,その子自身が4番目のいじめっ子になるときである。そのように自分で自分を攻撃し,見離したときに問題は決定的になる。本当は自分を助ける考えを探し出さなければならない肝心のときに,逆に自分を見捨てるようなことをすると,役にも立たない他人であるいじめっ子に心を寄せ,何よりも頼りとするべきである自分自身の中にある拠り所をないがしろにすることになる。それは自分から求めてその重要な関係を断ってしまうのと同然である。

そのようなことにならないための方法は,気分まかせの生活ではなく,頭を使って考えること,つまり判断することである。たとえば無気力感から横になるとしても,気分まかせでそうするのはよくない。それが必要なことか,考えて判断をしてそうするべきである。結果としてはおなじことでも,前者と後者とでは全く違う。判断をすれば自我が仕事をしたことになる。その判断が不適切なこともあるだろう。しかし自分が考えてしたことであれば,責任を取ることができる。それを生かすことができる。なによりも自分のためになるように,自我が仕事をする姿勢が大切である。そういうふうに自分の問題に責任を持って生活することが継続されれば,無意識的に拠り所としているはずのものに接触し,支持を受けることが出来てくるだろう。

そういう話をしましたが,聞いているHさんの様子に手ごたえのようなものを感じました。その後,彼はどこか腰の座った人に見えるようになり,目に見えて頼もしげな雰囲気に変わっていきました。会社のことも前向きに考えはじめるようになりました。ともかくも復帰しよう,その上で転職するかを検討したいといい,同僚から会社のよからぬ情報をもらっても動揺しなくなりました。

内在する主体は,無意識の領域にある人知を超えた存在です。たとえば発見,発明,創作などのインスピレーションはここから発せられる叡智です。夢を通じてベンゼン核が発見されたという逸話は有名ですが,行き詰まりを感じて悩んでいるとき,不意にアイデアがひらめいて解決してしまうという経験はだれもがすると思います。そういうときの一気にみなぎる力も,主体の叡智と接触したためと考えられます。いわゆる火事場の馬鹿力,危急時にみなぎる力もおなじです。夢には補償作用があるといわれていますが,意識の偏った志向性を本来あるべき方向に導こうとするのも,ここに由来していると考えられます。この内在する主体は,表には顔を出さないものの,意識がする仕事を黙って見つめているもののようです。

我々は,自分のことは自分が一番よく知っているなどといいますが,それはちょっとあやしいと思います。自分や他人を意識的にか無意識的にか,しばしば騙し,欺くのが人間です。しかし内在する主体だけは,絶対に騙せません。

他人との関係は大変重要です。両親,配偶者,親友など,大切な人と良好な関係にあるか否かで,人生そのものが大きく変わるといっても過言ではないでしょう。ですから精神医学は,対人関係を大変重要なものと考えています。

しかしながら,他人との関係以上に重要で,難しくもあるのが,自分との関係なのです。言葉を変えれば,主体との関係です。

内在する主体は,無意識界にある特別な超越的な独立体というようなものではないと思います。人間は自然から乖離,独立した特別の存在といえるかもしれませんが,自然の一部を構成しているものでもあります。

人間がこのような身体,このような心として存在しているのは,いかなる意志によってであるのか不可知です。隈なく身体や心を調べても,その謎を解くのは不可能です。そのような形で自然の摂理が働いているとしかいいようがありません。我々はそういう事実を受け入れるばかりです。

人間には自由があります。しかしまったくの自由は無と区別がつきません。拠り所がなにもない自由!それは空恐ろしいことです。無人の荒野に一人放り出された幼児にしても,まだしも生きる方法を見つけることができるかもしれません。それ以上に途方もないことです。自由を勝手気ままにやってよいという意味と考え違いをして,人生を地獄化させてしまうのは,むしろありふれたことです。といって親が子の自由に足枷をはめるのは越権行為というもので,これもまた子供をだめにしてしまう典型でさえあります。

自由は自我にともなって授けられたもののようです。「お前に任せるから,思うように人生を生きてみなさい」というのが,人間に与えられた命題のようです。それが自由ということです。そして授けられたものが人間なら,授けたものがあるということです。授けたものがなにか,それは不可知です。人知を超えた意志です。自然の摂理です。その自然の摂理が,人間を無言のうちに,しかし絶対的に支配しています。自由を生きる生き方で,人生が満ち足りたものとして終わるか,地獄化してしまうかが左右されます。

自由は,この主体の無言の制約を受けていると思います。主体から見離されると,他人に見離されるのとは比較にならない深刻な事態を招きます。人生の地獄化は,常にそういう事態です。

自我と自由という特権を与えられた人間は,実にしばしば傲慢の罪に陥ります。大小の専制君主は,いたるところにいると思います。人間にとっての最大の敵は人間かもしれません。敵と身方もまた裏と面の関係で,相互に切り離せないものの一つです。人がにわかには信じ難いのも無理からぬ所以です。

これらに関連がある例を二つ上げてみます。第二の例はある時期,新聞等で話題になった話です。

過呼吸発作を起こして緊急で受診された方がありました。仮にMさんとしておきます。Mさんは30代の主婦で,子供はありません。結婚して数年になります。受診の前々日,夫が浮気を告白しました。それも一人や二人ではないというのです。寝耳に水でパニックになりました。ところが夫は,翌日,あれは嘘だったといい(それはMさんも信じられるそうです),しかし寝室を別にしたいといいました。どうやらMさんが夫の世話をこまめに焼きすぎたのが負担になっていたようだといいます。その後ももめごとがつづき,家を飛び出しました。三日目に帰宅する途中,二度目の受診をしました。実は,初回のときに,状態が悪いにもかかわらず服薬も診療の継続もしぶる気配がありましたので,心配していました。

事態は急展開となり,一ヶ月ほどのあいだに別居の話が決まってしまいました。夫は自分が依存的で妻に頼りすぎていたと自覚し反省していて,このままでは互いによくないので分かれようというのだそうです。Mさんも自分の性格が依存的なのは分かっていますが,別居しなくても改善できるのではないかと思っています。しかし夫の意志は固いそうです。

Mさんはこういう経過について話をしたついでに,「それに,私以外の女性とつき合ってみたいらしいですよ」と,くったくなく笑っていたのが印象的です。ふつうはこういう話は深刻になるものです。ましてMさんは依存的な性格ですし,考えるいとまもないほどの急転直下という展開でもあるので,落ちついている様子は不思議なほどのことです。

この過程で,実母と電話で連絡をとりました。夫のいい分を伝え,自分がずっとよい子で,自分のいいたいことをいえない性格だったという話もしました。母親は,「そうね,あんたはいい子だったわね」とあっさりといい,「そう,そんなに我慢していたとは知らんかったわ」といったそうです。母親のあっけらかんとした様子で,Mさんは肩の力がぬけ,急に気分が軽くなったといいます。自分で思っていたほど母親がこだわっていたわけではないと分かったからです。

M子さんはふっ切れたように明るくなりました。初診のときは,見る影もなく打ちしおれていたので,別人のようです。

転機は初診のときにあったそうです。そのとき服薬にも診療にも積極的になれないでいました。その気持ちを訊かれ,夫がいやがると思うと返事をしたところ,あなたの気持ちはどうなのかと問い返されました。更につづけて,それはご主人に依存しているということでしょうかといわれて,ハッとしたということでした。

依存の問題に思い当たり,それは目から鱗が落ちるような体験だったそうです。そして母親と夫とそれぞれのあいだの依存の関係を,自分の立場で問題にできたといいます。それに伴っていろいろとしたいことが見えてきたというのです。かつてなかったことです。通常は深刻な悩みになる別居,離婚という問題が,Mさんの場合はむしろ自分を回復する方向で心が動きました。

ある人(A氏と呼んでおきます)は,某有名企業で,安定した会社員生活を送っていました。中年期にさしかかり,会社でも中堅の役どころを無難にこなしていたA氏が,ある日,突然申し出て,会社を辞めました。彼の意志は強固でした。辞めてどうするつもりかというと,北極まで一人で橇を引き,走破する計画ということでした。真意を測りかねている周囲の者を後目に,計画を実行に移しました。人生に嫌気がさして,あとは野となれ山となれというやけくそ半分の行動であれば,なんといえばいいのか分かりません。しかし,A氏の場合は内面からの要請で,やむにやまれぬ静かな熱情に駆られてのことであったようです。彼には,日常の生活があきたらなかったのかもしれません。昨日までの友人,大切に思っていただろう妻や子,それらの人々の心配や反対を押し切って命がけの孤独な難行に立ち向かいました。A氏の冒険行に要するエネルギーは,並大抵のものでないことは容易に想像できます。一体どういう熱情がA氏を駆り立てたのか,おそらく言葉で説明するのは難しいのではないでしょうか。

この情熱は,純粋で,妥協の余地がないように思われます。頑固で,協調性がない者とか,傲慢で,強圧的な権力者とかの場合とは,いうまでもありませんが,正反対といっていいぐらい意味が違います。A氏のそれは何事にも代えがたい,ゆるぎない価値として妥協できないものだっただろうと思います。彼にはなによりも自分自身との関係が大切だったのではないでしょうか。それは,ガリレイが宗教裁判にかけられたときに,「それでも地球はまわっている」とつぶやいたことにも通じるでしょう。 

内なる主体としっかりとした関係ができているとき,A氏のように命をかけることができるのだと思います。分からず屋たちの中で孤立したときなどに,平然とおのれを保つことができるでしょう。

これに対して単に頑固なだけの者は,心を凝固させることで身を守っているように見えます。何から身を守るのかといえば,第一に無意識界に潜む抑え難いほどの怒りからだと思います。強権的で容易に人の意見に耳を貸さない者は,しばしば,権力という鎧で身を守らなければならない弱さを秘めているように見えます。

前者と後者とを決定的に分けるのは,謙遜の精神です。自然の摂理の前に,人は畏敬の念に打たれないわけにはいきません。自然に頭を垂れ,謙遜であるしかありません。それが人に品性や節操を与えます。

頑固者や権力者に最も望まれるのは,これらの精神です。


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