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人生は塞翁が馬
| 還暦を迎えたものとして、これを機にこれまでの生き方を振り返りながら、新たなる一歩を踏み出すべく、想うところを述べてみたいと思います。 人生の第一の転機は、思いもよらない父の突然の死でありました。いま思えば3度もの、くも膜下出血を繰り返しての死。いまから40数年前、頭痛がおさまると、くも膜下出血は治ったものとして家に帰された時代の出来事である。その後くも膜下出血は脳動脈瘤の破裂によるものであることを知り、40歳の若さで亡くなった父の無念、4人の子を抱えて途方にくれる母の後ろ姿、脳動脈瘤の手術をすると助かる可能性のあることを知ったとき、なんとしても脳神経外科医になりたいと思った。そのとき、初めて脳外科医になるためには、医師にならなければならないこと、医師になるためには医学部に入らなければならないことを理解したが、将来の夢などさして考えてもおらず漠然と高校に籍を置いているだけで、状況は最悪であった。既に高校2年の春になっていた。想像を絶する苛烈な勉強が始まった。ただ奇跡を信じて。昭和41年諦めかけていた者に最下位でやっと弘前大学医学部に入学を許された。 第二の転機はいざ卒業間近となって、弘前大には脳神経外科学講座が無いため、虎ノ門病院の脳外科研修医として進路を決めかけていた矢先、胸の病に冒されている事を知りやむなく入院、卒業式も国家試験も外出、外泊許可のもとに受けざるを得なかった。首席の通知がただただ虚しかった。目的は脳外科医になり、脳卒中と闘うことであり、医師になることは手段でしかないからだった。脳外への道は閉ざされ、何もかも諦めかけていたとき、6月頃になって、弘前大にも脳外科講座ができることを知り、一縷の望みが湧いてきた。ひたすら療養する傍ら、平山恵造先生の神経症候学1234Pに出会ったとき、今でもその鮮烈な感動をはっきりと覚えている。現在に至るも小生の神経学のバックボーンになっている。また、山岡荘八著の徳川家康全26巻を愛読、徳川家康を介して語る山岡荘八氏の人生哲学に共鳴し、以来小生の活きる手引書となっている。10ヶ月後、弘前大にも初代教授岩淵 隆先生が着任、入局を許され、戦場のような毎日が始まった。あまたの大学ではまだ一般外科講座の一部の脳手術グループとして産声を上げ始めた、脳外科黎明期の時代のことである。さしたる事もできないが、ただ『あたり』の患者と接しているだけで嬉しかった。25年間の大学生活を振り返ると、いつも臨床と研究のはざまで振り子のように揺れていた。今、想えば、脳動脈瘤の治療方法や神経内視鏡の開発、脳内出血の治療の研究などにより第1回、第6回、第12回中村賞、第2回鈴木二郎賞などを受けたものの、脳外総会での発表が終わると同時に、また次の年の演題のための研究に追われる異常な研究生活であったと思います。いつも何かに追いかけられているような、不完全燃焼のままに過ぎた25年間でありました。 この25年間、『あたり』は術前の状態が予後を左右する大きな因子であることに変わりは無く、『あたって』しまってからでは如何ともし難いのが現実でありました。無理をすれば植物状態も増え、やればやるほど虚しさもつのり、『あたりは予防に如かず』と真剣に考え始めたとき、第三の転機が訪れた。48歳にして開設だから遅咲きに加えて、脳外科の開業は県下では初めてのこととて、全てのことが五里霧中の中で、実に多くの方々のお世話になりました。改めて感謝申し上げます。 脳動脈瘤を破れる前に処置し、脳梗塞を発症する前に適切な治療方針を立てるべく、脳卒中の予防の切り札として取り組んで参りました、脳ドックの華を美しく大きく咲かせ、いつの日か父の墓前にその華を飾りたい。 |
道の果て 赤心にかへりて なほ 足るを知らず
街路樹のナナカマドは時には真白く、時には寒き中に燃えるがごとく赤く、熱き想いを奥に秘めたるごときナナカマドのたたずみに、激動の一年の想いを重ねるとき、きたる年こそは希望の年であって欲しいと望まずにはいられない、今日この頃ですが、皆様におかれましては、ご健勝にて、ご活躍のこととお慶び申し上げます。 昨年もたくさんの皆様のご厚情に接し、この上なく励まされる思いが致しました。心をこめて感謝申し上げます。 想えば、脳神経外科の黎明・発展期にこの道に起ち、実に多くの先達の諸先生やスタッフ、患者との出会いの中で、研鑽をさせていただいたことに、改めてその幸運と充実感に、感謝の念でいっぱいになります。弘前国立病院、青森県立中央病院、公立野辺地病院、青森労災病院、むつ総合病院、西北中央病院、三沢市立病院、秋田の北秋中央病院、盛岡のはらだ脳神経外科病院、青森市民病院などにおいて、脳神経外科の開設やトランク、非常勤いろいろな形で、県内外の多くの病院に、お世話になったことを昨日のことのように想われてなりません。県病からのトランクの後、青森市民病院での脳外科の開設の後、大学での講師時代など、卒業時を入れて、四たびも体調を崩し、長期入院を強いられ、そのたびに深い挫折感を味わいながらも、今日まで36年間、脳神経外科医としてやってこれたのは、やはり家族・友人の支えと理解、患者やスタッフからの篤い信頼と激励、先輩や同僚、他科の諸先生方の指導に感謝せずにはいられない。脳動脈瘤の治療方法や神経内視鏡の開発、脳内出血の治療の研究などにより第1回、第6回、第12回中村賞、第2回鈴木二郎賞など、身に余る光栄に浴することが出来たことも、この道を歩んできた者として、無上の幸せ者でした。 これからは、如何なる脳動脈瘤が破れるのか、脳梗塞を発症する前、如何なるシグナルを発しているのかを見極め、脳卒中の予防の切り札として、『脳ドック』の質の更なる向上のために研鑽を続けてゆきたい。 25MBから開設した、ホームページも現在は350MBに達するなど、更なる充実に心がけながら、石垣島から旭川まで日本各地からの、セカンドオピニオンの要請や悩みや質問に出来るだけお答えし、駆け込み寺のような、小さくとも希望の灯をともし続けたいと願っております。 開設の時の夢であります、脳卒中の予防へのゴールは遥かに遠く、未だ道は見えてきませんが、脳卒中の予防を天職とし、止むことなく、一歩一歩、進んで参りたいと思います。 これからも、自己に厳しく、常に病める心の視点を失わず、気軽に相談できる『心のこもった医療』を信条に、《脳卒中予防》の立場から、脳ドックの華を、美しく大きく咲かせて行くことに、夢とロマンを胸に、スタッフ一同、意気に燃えております。 近くにお出での節は、小さな小さなクリニックですが、是非、気軽にお立ち寄り下さい。
ホームページは当院で経験させていただいた症例を詳細に検討させていただいたものを、ベースにして、皆さんが日頃、疑問に思っていることに答えたく意を尽くしたつもりです。 どこからでも好きなところに自由に散歩できるように構成されております。 また、質問やセカンドオピニオンを希望する方、意見のある方は【メール】をクリックして、ご質問いただきますと、できるだけ速やかにお返事を差し上げたいと思っております。 それでは、ごゆっくりと脳ドックの真にあるべき【心】にふれていただければ幸いです。 |
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