それでもいつか すべてが崩れそうになっても
信じていて あなたのことを
信じていてほしい あなたのことを
今井美樹『Piece of My Wish』(岩里祐穂作詞、1991)
『中井久夫との対話』で村澤和多里を知り、Twitterもフォローしはじめたので、彼の他の著書を手にとってみた。本書は共著なので、村澤和多里が執筆した章に焦点を当てて読んだ。
読後感を一言で書けば、現代の若者たちが感じている「生きづらさ」がよくわかった。
私たちの時代、そこまで大上段に構えず、すくなくとも私自身について言えば、受験競争と管理教育が少年期から青年期にかけて大きな足かせだった。
具体的に言えば、内申書と校則・体罰。ここから抜け出すためには管理と暴力に耐えて、自由な校風の上位の高校に進学するしかなかった。
競争と管理は苛烈で厳しい一面、どんなに卑怯な手を使ってでも(たとえば、嫌いな教員にも媚びへつらうとか)、耐えて勝ち上がれば成功が見える面もあった。もちろん勝負は情け容赦なく、受験は成人してから属す社会階層が決まる決戦の場でもあった。
ただ、大学時代を過ごした80年代後半はバブル期であり、学生でもバブリーな消費を謳歌することができた。私について言えば、大学時代に4回、海外旅行をしている。私たちの世代には確かに「モラトリアム」があった。
この点では、「氷河期」とも「失われた」とも言われる低成長時代に半生を過ごしている現代の若者たちには「ずるい世代」(中島みゆき、1981)と見られているかもしれない。
いまの若者は不安が大きいという。コミュニティに馴染めるかという不安、自分を理解してもらえるかという不安、そうした不安のなかでは将来を見通すことはきっと難しいだろう。彼らの置かれている状況は、私が十代だった頃より不安の要素が多い。これも本書を読んでの感想。
本書にある「ポスト・フォーディズム」という言葉から、ずっと前に読んだ『魂の労働』(渋谷望)を思い出した。そこに描かれている現代の労働は悲惨なものだった。
以下は私のまとめ。
労働は「働きがい」や「生きがい」を求めて率先してするもの。だから努力も報酬も労働の対価として全面的に肯定される。働くことは自己実現や自己表現である、という言い方を最近よく聞く。それどころか、報酬がなくても、喜んで、進んで働くことさえ奨励されている。サービス残業やボランティアがその例。
そこでは、「働かざる者生きるべからず」が標語となる。以前のように全員が労働することは、もはや期待されていない。働かない者は切り捨てられる。スラムに追いやられ、生活保護は剥奪され、ただ死を待つだけの身に放置される。
若者を待つ労働社会はかように厳しく、残酷な様相を呈している。
では、労働社会に出ていく前に過ごす青年期、十代後半の時期はどうかというと、本書の分析によれば、それもきわめて厳しい。むしろ、それこそが厳しいと言うべきか。
本来、試行錯誤を繰り返して大人へ成長する「モラトリアム」(猶予期間)としての青年期にまで、上にまとめた「ポスト・フォーディズム」の弱肉強食社会が侵食しているから。社会階層は80年代よりも若い時期に、両親の経済・文化資本の多寡で決定される傾向が強まり、階級化が進んでいる。この見方には若者たちへの同情を込めて同意する。
そこから生じる現代社会における深刻な問題の一つが「ひきこもり」。「ひきこもり」の心理について、村澤は次のようにまとめている。
「スティグマ化」のプロセスにおいては、自己を何とか社会化して社会の内部に位置づけようとするのだが、他方で社会的規範を内面化すればするほど社会空間から排除されていくという悪循環に陥ってしまう。
もう一方で、ひきこもりの若者たちは、「トラウマ化」というプロセスにおいて「傷つけられた自己=傷さえなければ完全な自己」の物語を語ろうとするのだが、この物語りは自己を過去との関係でしか語れなくさせるものであり、「過去の亡霊」に呪縛されていくことを意味する。
(第三章 スティグマ化とトラウマ化 ― ひきこもる若者たち)
「スティグマ化」とは、コミュニティに馴染むことができない自分に「浮いている」というレッテルを自分で貼ってしまう心理。「トラウマ化」とは、過去の出来事を主観的に(自分の見方だけで)「失敗」とみなし深刻な心の傷ととらえてしまう心理。そのように言い換えることもできるだろう。
「ステイグマ化」にしても「トラウマ化」にしても、過剰な思い込みが重なり循環していき厚く自己を覆ってしまうところに問題がある。「自己を過去との関係でしか語れなくさせる」というプロセスは興味深い。自分で作るトラウマ。これまでこういう視点でトラウマを考えたことはなかった。思い込みで出来てしまうトラウマもあるらしい。それは本当の心的外傷と区別して偽トラウマと呼んだ方がいいように思う。
具体的には、スクール・カーストのようなコミュニティの不条理な仕組みや少子化で競争がさらに高くなった受験などが考えられる。低賃金での労働を若者の内面で正当化する、いわゆる「やりがい搾取」(本田由紀)もある。
要するに、多くの若者たちは「二進も三進も行かない」袋小路に追い詰められている。
このように若者は二重の矛盾に囚われているけれども、本書はそれを若者たちの責任にはしない。また、若者たちがそれを克服できないとも考えていない。
社会は改良できるし、若者たちは変われると著者たちは考えている。さらに踏み込んで著者たちの意図を汲めば、社会が変わらなければ、若者は変わらない。
問題は若者にあるのではなく、大人社会にある。だから大人社会を変革しなければ若者は変わらない、という主張は、前に読んだ社会学者小谷敏の諸研究、『モラトリアム・若者・社会――エリクソンと青年論・若者論』『子どもたちは変わったか』と共通している。
共通しているのは、大人社会への厳しい目と若者たちへの優しく暖かい眼差し。
余談。
コミュニティからは疎外され、自己のなかでは矛盾を抱える現代の若者たち。
上にまとめてきた現代の若者の置かれた状況は、西田幾多郎の言葉をもじって「絶対矛盾的自己疎外」と表現できないか。
閑話休題。
本書が上梓されたのは2012年。8年後の現在、事態は悪化しているように見える。コロナ禍の下、大学には入学できても教室で講義を受けられず、サークル活動も楽しめず、見通しも立たない。不安は、不満とともにさらに増しているだろう。園児から大学生まで、一度しかない一学年を奪われてしまうのは気の毒でしかたない。
若者たちが作る新しい未来を応援するという宣言で本書は終わる。楽観的過ぎるようにも思われるが、そうするより他にないとも思う。どの時代でも、誰にとっても、真っ直ぐに続く安全な道などないのだから。せめて彼らが悩みながら進む道を頭ごなしに否定したり邪魔をしないようにしたい。本書のそういう助言を大切にしたい。
実際、本書にも書かれているように、現代の若者たちは彼らなりに試行錯誤をしているし、それを楽しんでいる面もある。現状は厳しいけれども、本書に一貫している若者たちに期待をする姿勢は優しい。そのおかげで、深刻な問題を取り扱いながらも、後味の悪い読後感にはならない。むしろ、若者たちへの期待と共感を共有しようという気にさせられる。
いま、若者たちに必要なのは、また若者たちが求めているのは「メンター」ではないか。本書に書かれている「若者ミーティング」のファシリテーターのような立場の人。指導者でなく、ロールモデルともすこし違う。彼らの不安と多様性と未熟さを受け入れ、自分の殻を破るチャレンジを促すような人や出来事。
そう、若者たちに必要なのは「指導」や「模範」ではなく「促し」。
ここから本書を読んでから、自分の周囲を観察して気づいたことを書く。
私の子を見るかぎり、十代後半の私よりも屈託なく、ずっとスマートに暮らしているようにみえる。帰属するグループがあり、信頼できる友人もいる。もちろん、彼らに悩みがないわけではない。私が知らないだけで、それぞれに工夫して格闘しているのだろう。
幸い、私が十代だった頃のように自暴自棄になったり、内にこもることもない。
その点はとてもありがたく、恵まれているとも思う。
そこで、残る疑問もいつも同じ。
同じ屋根の下で暮らして、数年しか年齢が違わない兄弟姉妹が異なる道をたどっていくのはなぜだろう。それは産業化や情報化が一年ごとに劇的に変化しているからだろうか。
それとも、違う道をたどることが個性の現れなのだろうか。他人の目には些細な出来事に見えることが人生の大きな転機になっているのか。
それでは、大人へと成長していく期間に、ある者は挫け、ある者は立ち去るのは、なぜか。どこに理由があるのだろうか。
過去の出来事を詳しく探ろうとする心理は「トラウマ化」を助長するから、避けたほうがよい行為なのだろうか。
私自身は自分の家族史と育成史を明らかにしなければ、私が内面に隠している矛盾は解決することはないと考えている。新しい自分を生きはじめるためには、「トラウマ化」の呪縛から解放されなければならない。中井久夫はトラウマからの回復を「その出来事についての記憶が「一つの挿話」になり、「無意味で退屈なもの」になること」と説いている。
こんな風に書くのは、「スティグマ化」と「トラウマ化」という用語を一読したときに、「これは私のことではないか」と思ったから。
「障害者」というレッテルを気にしすぎて、会社という集団にいつまでも溶け込めずにいる一方、過去の出来事にいつまでも執着している。「ひきこもり」にはなっていないけれども、どこにも帰属していない孤立した感覚は拭えない。
私から見た若者としての我が子。
死別の悲壮と恋愛の妄想と野心の暴走で半生を過ごした私には彼らに伝える教訓はない。ただ、彼らが挫けたとき「世の中を甘く見たから」と叱責するような真似はすまいと思う。むしろ「世の中を甘く」見ていたのは私の方だから。
そのせいで、会社社会で落ちぶれた私には彼らに示す道もないし助言もない。私のようになるな、と伝えたいものの、いまはその顛末さえ、恥ずかしくて情けなくて、伝えることはできていない。
また、私が十代から抱えている秘密についても、何も語っていない。
彼らから問いかけてこないかぎり、おそらくこの先も語ることはないだろう。最近はそう考えている。
最後に本書に戻る。
見方を広げれば、「ひきこもり」のプロセスは多くの現代人が、多かれ少なかれ、抱えているものではないだろうか。集団に馴染みきれず、過去の失敗に囚われ、でも、その孤立感を共有できる友人もいない。そういう大人も案外多いのではないか。
若者たちへの処方箋が「自分で試行錯誤すること」ならば、大人に対する処方箋も同じ。もちろん、社会的福祉的な制度や支援は必要。それでも、最後に鍵を開けて外へ出る選択は自分でするしかない。本書は「ひきこもりたい」大人を激励する栄養剤にもなる。
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