エッセイ集『風とともにゆとりぬ』が面白かったので、一度挫折した朝井リョウの小説に再挑戦した。直木賞受賞作『何者』を娘に借りた。今度は読み通すことができた。読後感もよかった。そこでついでに映画も見た。映画も面白かった。
まず原作の感想から。
自分のなかに隠していたドス黒いものを直視させられる恐怖。それをモチーフにした小説を前に読んだことがある気がした。
アガサ・クリスティー『春にして君を離れ』。読み終えてまずそれを思い出した。
二つの作品は似ているけど結末が正反対。『春にして』では主人公は自分のダークサイドを自ら発見して恐れ慄くものの、一面に伏せられたトランプのカードをひっくり返すように結局それを全肯定して何事もなかったかのように日常に戻る。心に寒風が吹くような、恐ろしい結末だった。
『何者』では、主人公、拓人は自分のダークサイドを友人に指弾され、激しい後悔のあと改悛する。ここが引っ掛かった。
「あれ、いい子になっちゃった」というのが率直な感想。冷徹な観察者はすっかり鳴りを潜めている。それでいいのか。
冷徹な観察者vs.カッコ悪い努力。これが作品のテーマ。拓人の仕業はけっして褒められたものではないが、「冷徹な観察者」であること自体は悪いことではない。むしろ、社会人になってからも必要ではないだろうか。
その一方で、理香が称揚する「カッコ悪い努力」には重大な落とし穴があるように思う。
手短に書くと、会社社会では「カッコ悪い努力」は容易に「一所懸命」に変換されて、いわゆる「やりがい搾取」(本田由紀)にすり替えられる恐れがある。そこへ、登場人物たちは疑いもなく飛び込んでいこうとしている。初めは就活を斜に構えて醒めた目で見ていた隆良でさえ、物語の最後では、態度を変えている。特に映画でははっきりそう描かれている。
独立独行なのはギンジだけ。ただ、その道のりは誰でもが進めるものではない。
「カッコ悪い努力」に馴染んでしまうと「やりがい搾取」に気づくことができない。会社は社員の「観察」を封じ、「抵抗」させなくする。そのために「努力」を全肯定するように仕向ける。
読後に引っ掛かっていたのは、小説の結末で「冷徹な観察者」が全否定され、「カッコ悪い努力」が全肯定されているように読めたから。
がむしゃらな努力も時には必要かもしれない。言葉を換えれば、「カッコ悪い努力」と「冷徹な観察者」は1/0ではない。社会人には両方が必要で、そのバランスが大事。
「観察」することを止めてはいけない。止めてしまったら、会社の論理の言いなりになり無限の残業さえも「カッコ悪い努力」に見えてきてしまう。
会社の敷いた道を進むだけではいけない。自分の時間を持ち、自分の生活を持ち、自分の心と身体を持たなければいけない。そのためには、会社社会から一歩引いて、冷静に会社の敷いた道を観察する必要がある。
エッセイを読んでから本書を読むと、登場人物のなかで、著者の性格に一番近いのは拓人であるように感じられる。
著者はどう考えているのだろうか。確かに友人を貶めるような姿勢は改めたほうがいい。それでは「冷徹な観察者」は捨てて「カッコ悪い努力」だけを肯定する意図で結末を書いたのか。
映画は就職情報企業がメインスポンサーになっている。小説を読んだときにうっすら感じていた危惧は映画を見て確固たるものになった。繰り返す。「カッコ悪い努力」だけを肯定して「冷徹な観察者」の視点を持たずに働くのは会社の論理に絡めとられる危険がある。
この小説は利用されている。拓人には「冷徹な観察者」を長所にして、同調圧力の高い日本企業の「がんばろう」文化に抗い、涼しい顔で働いてもらいたい。
著者もそれを望んでいると思いたい。
2020年6月8日追記。
さくいん:朝井リョウ、アガサ・クリスティー、ダークサイド、労働