烏兎の箱庭――烏兎の庭 第二部 日誌
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2005年7月


7/3/2005/SUN

書評「近代日本のカトリシズム」ほかを剪定

書評「近代日本のカトリシズム」「遠藤周作文学全集13 評論・エッセイⅡ」「小林秀雄全集 別巻Ⅰ」を剪定。4ページに以下を挿入。

   遠藤周作の文学では、「神の沈黙」と棄教が一貫した主題となっている。それは、言うまでもなく、彼にとって、「なぜ神は沈黙しているのか」「沈黙している神をなぜ信じるのか」ということが一大事だったから。棄てるものをもっていなければ、棄てられるかということは問題にならない。
  「神の沈黙」と棄教が、誰にとっても大問題となるわけではないように、Xを自分の言葉で名づけることも、誰にでも重要なわけではない。誰もがはじめから名のついたXを与えられているわけではないから。

あわせて、雑評「DVDウルトラセブン」にも、以下の段落を追記。

   怪獣という言葉は、新しい言葉ではない。漢和辞典にも載っているから、古くからあるらしい。怪しい獣、という意味に過ぎなかった言葉を、凶暴なものと不可解なものと畏怖すべきものを併せもった存在に定義しなおしたのは、ウルトラマンの創造者、金城哲夫ではない。
  怪獣という言葉を、いま使われている意味に育てたのは、円谷英二。彼が怪獣という言葉に何を込めようとしていたかは、ゴジラの英語表記、“Godzilla”を見ればわかる。

遠藤周作が「人間のなかのX」と呼んだものを“the wild things”と名づけたのはセンダック。それを「かいじゅうたち」と訳したのは神宮輝夫。

「かいじゅう」を“GODZILLA”と名づけたのは円谷英二。その意味は、遠藤がXを通じて表わそうとしたものと同じだった。

それは、どこで誰から生まれたかも知らなかった浦上の少年、仙吉が長い旅の末に見つけたものとも同じ。

この本、今西祐行『浦上の旅人たち』(実業之日本社、1985)が岩波少年文庫から再刊されていることをつい最近知った。

今西が、昨年亡くなっていることも、今になって知った。


7/7/2005/THU

シベリア超特急、監督:Mike Mizno、製作、原作、脚本:水野晴朗、出演:水野晴朗、かたせ梨乃、菊池孝典、西田和晃、占野しげる他、ウィズダム、1996

本文にはあえて書かなかったけど、どういう表し方であれ、自分の気に入った作品を徹底的に語りまくるみうらじゅん発信力に驚く。「命の恩人」と水野が感謝するのも本心だろう。みうらがいなければ、ここまで連作が続くことはおそらくなかった。

みうらと水野の対談は『みうらじゅん大図鑑』(宣伝会議、2003)で読める。物語の表でも裏でもない、自分だけの視点から見るみうらの映画の見方は、我田引水をどこまでも強行すると学会の読み方や、絵本のすみずみまで楽しむポストモダン絵本の読み方に通じる。

誰もが少なからず感じていることなのに、口に出せる人は少ない。恥ずかしいというよりそれを口に出すことを思いつかないから。

『大図鑑』で面白いのは、横尾忠則との対談。みうらも型破りの人間ではあるけれど、彼が心の師と仰ぐ横尾は、さらに懐広く、エネルギーも強大


さくいん:みうらじゅん


7/14/2005/THU

THE WORLD RECORD PAPER AIR PLANE BOOK 16 Models 100 Planes (1994), KEN BLACKBURN & JEFF LAMMERS, KONEMANN, 1998

引用文を確かめるため辻邦生の随筆集「海峡の霧」(新潮社、2001)を借りてきた。あわせて書評を剪定。辻が幼いころに失くした兄のことを書いた随筆を「赤坂慕情」としていた。これは「西片町と兄」の間違い。おそらく、図書館へ返してから記憶で書いていたのだろう。

文学人生をふりかえる晩年のエッセイを読みなおしてみると、辻邦生は元々は非常に強い政治意識をもっていたことがわかる。非政治的な領域からの、非政治的な表現による政治的な思想。私が好んで読む文章には共通してそういう性質がある。

反政治的ではない。それは、政治的であることの陰画にすぎない。非政治的であることを突き詰めていくことで、政治的なものを突き崩し新しい意味を政治に与えることができる。そんな気がする。

辻邦生の小説は短編「夏の海の色」以外、まだ手をつけられていない。小説を読み出すのはいつになるかはわからないけど、彼のエッセイはそれまでに何度も繰り返し読む文章になると思う。

今日書いたことは、昨年5月14日に書いたことと同じ。書いた目的も、書いた気持ちも同じ。


7/22/2005/FRI

星に帰った少女(1977)、末吉暁子、こみねゆら絵、偕成社、2003

レヴィナス 何のために生きるのか シリーズ・哲学のエッセンス、小泉義之、日本放送出版協会、2003

未完の菜園 フランスにおける人間主義の思想(Le jardin imparfait: la
penseé humaniste en France, 1998)、Tzvetan Todorov、内藤雅文訳、法政
大学出版局、2002

二冊の本の感想ともう一冊の本からの短い引用を一つの文章にして植栽。

「この世に一つだけの存在である私」という言葉は、坂本真綾が歌っている、アニメ『カードキャプターさくら』(さくらカード編)の主題歌「プラチナ」にある一節。作詞は岩里祐穂、作曲・編曲は菅野よう子

「クロウ・カード編」の再放映を見てからというもの、ウルトラマンと同様、音楽を聴いたりビデオを借りたり、すでにどっぷり漬かっている

岩里祐穂の名前は、これまで気にとめてはいなかった。今井美樹の「Piece of My Wish」など、作詞家の名前を知らないでいて好きな曲もある。

最近では、「Go Fight! マジマジマジレンジャー」ではじまる『魔法戦隊』の主題歌も彼女の作詞。

「私自身は家庭と書いて、Homeとルビをふっておく。」と書いてから、概念索引にある“Home”を見なおす。

“Home”の項目には、帰る、離れる、遠ざかりながら近づく、といった内容の文章をいれてあった。その一方で「家族、家庭は、重要な主題」と断りをいれておきながら、家族や家庭は索引語にしていなかった。

家族とは何か、ということは、繰り返して考えている。

鷲田清一「『聴く』ことの力」は家族のあり方を考え直すきっかけをくれた。感想を書いたあとで、家族とは「人間であれ、動物であれ、たとえ機械であれ、人が取替えのきかない存在という意味での生命と出会い、別れる場所」、と付け加えてもいる

私にとって“Home”は「家庭」ということがわかったので、家庭について書いた文章を索引の“Home”に入れておく。


7/23/2005/SAT

武蔵野市が生んだ風景画の名匠 手代木克信回顧展、手代木克信回顧展実行委員会、武蔵野市民文化会館

期間中に三度見に行った。その間に箱根にあるポーラ美術館で、「開館3周年記念展 ポーラ美術館の印象派 モネ、ルノワール、セザンヌと仲間たち」展も見た。この美術館は木々の間から光が燦々と降りこんで来て気持ちがいい。

理屈を抜きにして言えば、一番に好きな画家はジョルジュ・スーラ。海でも川でも水の色がいい。あらためてそう気づいたことを記録しておくために点描画のことを書き入れておいた。

近づいたり遠くから見たり、絵を見ることを単純に楽しむことを覚えはじめた幼い目と過ごしたことも忘れない。


さくいん:ジョルジュ・スーラ



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