神代植物公園のかきつばた
6/1/2024/SAT
OSクリーンインストール

iMacの動作が不安定なので、アップルのサポートセンターに問い合わせたところ、OSの再インストールをすすめられた。ところが再インストールしても症状はよくならない。

OS再インストールはOSだけを再導入するので、それ以外のユーザー領域で問題があっても解決しない。そこで、ストレージの中身を消去してから、OSを再インストールするクリーンインストールをしてみた。

OSの再インストールは首尾よくできた。ファイルはすべて外付けのストレージやiCloudにあるし、ウェブサイトのパスワードもApple IDやChromeが覚えているので、問題なく使用しはじめることができた。と思った矢先、問題が発生した。このウェブサイトのファイルが保存されているローカルのフォルダが見つからない。iCloudにあると思っていたけれど、どうやらiMacのSSDにあったらしい。

あれこれ調べたり、試したりして、ようやくTimeMachineからフォルダを復元することができた。OSを再インストールするときには、大事なファイルをバックアップしておくこと。基本動作ができていなかった。

もう一つ、困ったことは、ウェブサイトのファイルをアップロードするFTPの設定がわからなくなったこと。FTPクライエントはCyberduckを使っている。これをTimeMachineで前日から復元しても設定が復元されない。

日曜日の夜、0時近くなって試行錯誤の上に設定が完了し、ファイルがアップロードできるようになった。この設定もメモ帳に保存しておくことにした。

今のところ、動作に問題はない。残る問題はミュージック。ライブラリを外付ストレージから読み込みなおしたところ、これまでアルバムごとに貼り付けていたアートワークが反映されない。「アートワークを取得」のコマンドを使うと、自動的にアートワークが表示されるようになるものの、ときどき正しくないジャケットを表示する。

以前ならば、一枚ずつ画像検索して貼り付けなおしただろう。最近、そういう熱意を失ってしまったので間違ったジャケットのまま放置する。

近ごろは、音楽もラジオもあまり聴いていない。


さくいん:Apple


6/2/2024/SUN
悲しみに壊れた心はどこへ行くの? 死との和解の神学(Where Do Broken Hearts Go?: An Integrative, Participational Theology of Grief, 2016), William Ross Hastings、小山清孝訳、ヨベル、2024
『悲しみに壊れた心はどこへ行くの?』

銀座の教文館で見つけた。一度目は買わなかった。図書館には入りそうにないので、二度目に見たとき、購入した。

購入したきっかけは帯にある一文。

我々は、悲嘆を克服しない。悲嘆は決して我々を離れない。いつもそこにーーすぐそこにーー、存在している。そしてその傷は、最も予想しない時に、新しい裂け目として現れやすい。悲しむ人がその悲しみをそのまま悲しみ、また、悲しむ人を全ての慰め主である神の慰めへと導き、そして、その人が心の準備ができているなら、悲しみが新しい息吹を得て、それがほどける変化へと導かれることを願う。(序章)

ところが、読みはじめてみると、神学論が中心になっていて、とてもむずかしい。三位一体論は簡単には理解できない。副題にある「参加的進学」という概念もよくわからない。『旧約聖書がわかる本』に書かれていた「神との対話」という概念と関連があるのだろうか。

これまでも、キリスト教徒の書いたグリーフケアの本を読んでいる。山形孝夫土井健司自死遺族の聖書学者が書いた本も読んだことがある。そうした本はいずれも、キリスト教の「視点から」グリーフについて書いていた。

本書の場合は少し違う。キリスト教の「内部で」グリーフを論じている。言葉を換えれば、同じ信仰を持つ人に向けて書いている。著者が提案するグリーフケアの実践も、教会に通い、聖餐式にあずかることや聖書を読み込むことなので、この論述は意図的なものだろう。

キリスト教徒であることが本書を読む前提であるならば、私には本書を読む資格はない。

信仰を持つということが、本書に書いてることを受け入れることを意味するのであれば、私は、少なくとも当面のあいだは洗礼を受けることはないだろう。

一つ、参考になったことは、人間は、唯一無二の、かけがえのない存在であると同時に、環境や人間関係のなかに存在しているという人間観。アトミズム的な人間観を否定している点には共感できた。

そこにイエスがどのように介在するのか。わからない。ましてや神や聖霊まで持ち出され、それらが別のものでありながら同じものでもあると言われると完全にお手上げ。

所詮、私はキリスト教の美術思想に興味があるだけで、宗教としては見ていないのかもしれない。理解したいとは思っていても理解できていない。

彼は門を通る人ではなかった。また門を通らないで済む人でもなかった。要するに、彼は門の下に立ち竦すくんで、日の暮れるのを待つべき不幸な人であった。

『門』(夏目漱石)の有名な一節。私には他人事に思えない。


さくいん:山形孝夫土井健司夏目漱石


6/3/2024/MON
あじさい祭、八景島、横浜市金沢区
薄紫のアジサイ 薄紅のアジサイ 青いアジサイ 青いアジサイの生垣 青いガクアジサイ 椎茸のガーリックバターソテー

土曜日。天気がよかったので、母を連れて八景島へ行った。

あじさい祭は始まったばかり。全体としてはまだ三分から五分咲程度。それでも、きれいな色で咲いているものもあった。気温が高く、日向では汗ばむほどだった。

八景島からシーサイドラインに乗り、鳥浜にあるアウトレットモールへ初めて行ってみた。

思っていた以上に広く、たくさんの店舗があった。そして思っていたほど安くはなかった。でも、大きな袋を抱えている人をたくさん見かけた。セール品に狙いを定めて上手に買い物をしているのだろう。

一回りしただけで何も買わず、金沢八景まで戻った。夕飯はなじみのワイン・ビストロ、Re:vini。椎茸のガーリックバターソテーがおいしい。まるでヴィーガン向けのエスカルゴといった感じの味だった。

夜、久しぶりに映画『君の膵臓をたべたい』の音声を流しながら目を閉じた。とてもよく眠れた。


さくいん:横浜


6/4/2024/TUE
完全在宅勤務月間

とうとう5月は一度も出社しなかった。一度も出社しなかった月は初めてではないか。

身体は楽だった。では、心はというと気楽ではあったものの、さびしい気持ちもなかったわけではない。

一日、自室にいて、誰とも話さず、たいした仕事もなく、ぼんやりと過ごす。日中、業務の会話はあっても、雑談はない。会話は朝夕の妻との会話だけという日も少なくない。

仕事以外に楽しみがないわけではない。読書、ギター、散歩。こうしたことで気が紛れることもあれば、うまくいかない日もある。退勤後、ベッドに寝転び、音楽を聴くこともなく天井を見上げたままでいることもある。

どんよりした気持ちに流されてはいけない。自分のQOLは自分で上げなければならない。わかってはいる。わかってはいるけど、うまくいかない日の方がいい。

オフィスに出社すれば解決する問題ではない。出社すればしたで、余計に疎外感がある

どうしたものか。

こんなことを書いていたら出社してする仕事の依頼が来た。


6/5/2024/WED
藤原先生のこと

今日は学部時代の恩師、藤原保信先生の命日ということを原武史さんのポストで知った。

藤原先生が亡くなったのは、ちょうど30年前の1994年。私は大学院の2年目だった。

メーカーへ入社することを決めた学部卒業時、先生から「労働者のために働きなさい」と餞の言葉をもらった。にもかかわらず、入社した会社は1年半で辞めてしまった。その理由は前に書いた

先生がカトリックであることを葬儀で知った。その少し前に、東京女子医大の病床で推薦状を書いてもらいミッション系の大学院へ入学した。

研究者になれず弟子を自称するのも恥ずかしいけど、今でもキリスト教に関心を持っているのは、先生の影を追いかけているからかもしれない。

でも、その道はいつまで経っても見えない


6/6/2024/THU
出社日

5月は出社なしで終えたと書いたその日に出社の依頼が来た。

9時半から4時までオフィスにいた。話し相手になってくれる唯一の人も出社していたので助かった。あやうく沈黙の一日を過ごすところだった。一言交わすだけでも少し楽になる。

出社すると、自己肯定感が壊滅的になる。誰にも必要とされていないし、ほとんど誰とも交流がない。働きがいもないし、居場所さえない。まったくの透明人間

いや、透明ではない。皆、私を見ている。精神障害者のあの人。正社員じゃないあの人。特別な境遇なあの人。そんな風に見られていることが辛い。そう思ってしまうことが苦しい。

帰宅してホッとした。心身ともにすっかり在宅勤務に慣れてしまった。

このままあと9年、こういう働き方で暮らしたい。


さくいん:労働


6/7/2024/FRI
#私の推し作家の作品ベスト5(森有正)

Twitter(現X)のタグから。投稿時からは少し内容を変えた。

  1. 「バビロンの流れのほとりにて」(『森有正エッセー集成1』
  2. 「遠ざかるノートルダム」(『森有正エッセー集成3』
  3. 「霧の朝」(『思索と経験をめぐって』
  4. 「生きることと考えること」(講談社現代新書)
  5. 「いかに生きるか」(講談社現代新書)

昨年、全集を買った。今年は森有正を再読する年にするつもりだったけど、実際のところ読めてはいない。

『エッセー集成』を広げると、びっしりと蛍光ペンが引かれていて、書き込みもある。あの頃のような情熱ではなかなか読めない。本との出会いはタイミングが大切とつくづく思う。

これまでに書いた森有正に関する文章を一冊にまとめる計画も進んでいない。かといって、森有正を忘れたわけではない。

今年初めに遠藤周作との対談も読んだし、何かについて深く考えようとするときは、必ず森有正の言葉を思い出す。

森有正は私にとって思索の羅針盤であることに変わりはない。

森有正から学んだことは、内的生活、精神生活を大事にするということ。それ(森のいう経験)を深めることが思想を深めることであり、幸福に生きること。いま私には、金がない代わりに時間だけはある。では、精神生活は充実しているか。まだまだだろう。


さくいん:森有正遠藤周作


6/8/2024/SAT
「人生の一大事」か、それとも「一つの出来事」か

小学六年生の冬に突然に起きた姉の自死は、私にとって「人生の一大事」だった。

言葉を換えれば、私の人生は、姉の自死によって支配されてきたと言ってもいい。

昨年、悲しみや姉への想いを一冊の本にまとめた。想いを形にすることで、私の心境にも大きな変化があった。

姉の死は「人生の一大事」ではなくなった。長い人生のなかで起きた「一つの出来事」になった。トラウマが治癒したあとにトラウマを引き起こした出来事が「退屈なエピソードになる」と述べた中井久夫の言葉がわかったような気がした。

ここで、でも、私は立ち止まる。

姉と過ごした時間、彼女を失くした事実。それは人生のなかで起きるさまざまな出来事のうちの「一つの出来事」で済ませていいものだろうか。

一つの体験を、人生の中心に据えて生きる人たちがいる。被爆者や公害病の患者。犯罪や事故、災害の遺族のように、そうせざるを得ない人たちもいる。

『裏庭』(梨木香歩)に「傷に支配されてはいけない」という言葉があった。

傷に支配されることはなくなった。でも、ありきたりな逸話の一つにしてしまっていいとも思えない。

正直、姉のことをどう受け止めればいいのか、わからなくなった。


さくいん:自死遺族悲嘆中井久夫梨木香歩


6/9/2024/SUN
診察日
けやき並木

昨日は大型連休前以来の診察。いい天気だったので、病院まで歩いた。沿道にあじさいが咲くけやき並木が心地よかった。診察では、二つの相談をした。

一つ目。夕方、退勤から夕食までの自由時間。読書やギターで充実する日もあれば、何をする気にもなれず、ただぼんやり過ごす日もある。鬱とまでは行かないまでも、「何でこんなことになっちゃったのかな」と悪いことばかりを思い出すパターンに陥りやすい。どうしたらいいか。

S先生の回答は「そういうときは朝夕食後に処方されているレキソタンを早めに服用してもいい」。

二つ目。姉のことについて、心の整理がついたように思う一方、想いが軽くなってしまったようにも思う。執着でもなく、忘却でもない、バランスのよい記憶の仕方はないか。

S先生の回答。「心の整理がついたことはいいこと。いまは右足を踏み出し、左足を挙げて浮いている状態。だから不安定に感じる。いずれ左足も着地するから心配しないでいい」。

片足が浮いているというたとえはしっくりきた。そういう見方があったかと膝を打った。

薬の処方は変わらず。S先生の精神療法にはいつも安心をもらっている。


さくいん:S先生うつ病


6/10/2024/MON
アジア人物伝-歴史を織りなす人々-、東洋文庫ミュージアム、東京都文京区
モリソン書庫 小右記 四庫全書 オムライス

土曜日。病院のあと、千石まで電車に乗り、東洋文庫ミュージアムへ行った。今回の企画展はアジア人物伝。文字中心で肖像画は少なかったのが少し残念。

それでも興味を引いた展示もあった。2枚目の写真は『小右記』。藤原道長の有名な和歌「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも 無しと思へば」が書かれている。ただ感じが並んでいる漢文の古文書でも、藤原実資が書いたという説明を読むと、大河ドラマで実資を演じているロバート秋山の声が聴こえてくるからドラマの影響力はすごい。

もう一点、じっくり見たのは、乾隆帝が編纂を命じた四庫全書の一冊。中国皇帝の逸話はどれもスケールが大きくて面白い。

いつものようにモリソン書庫でしばらくマインドフルネスな時間を過ごしてから、併設しているレストランで昼食をとった。東洋文庫は元は岩崎家の私有財産だったので、レストランも小岩井農場の経営。卵がとろとろのオムライス、別名マルコポーロ・セットを食べた。

天気がよかったので庭園でも休憩した。東洋文庫は小ぢんまりとした博物館だけど、いつ来ても楽しく、勉強になる。知のオアシス。


さくいん:東洋文庫ミュージアム


6/11/2024/TUE
六義園のあじさい
青いガクアジサイ 青いアジサイ 薄水色のアジサイ 赤いガクアジサイ 六義園全景 六義園の池

東洋文庫ミュージアムを見てから、通りを渡ってそばにある六義園へ。

期待していたあじさいはまだ5分咲き程度。まだ梅雨入りもしていないから仕方ない。

咲いている花を選んで写真を撮った。左上から深山八重紫、オタクサ、本紫陽花、紅額。

初めて峠と呼ばれる小山に登った。庭園全体の見晴らしがいい。ただ、写真を撮ってみると背景にビルが映り込んでいて少々無粋。庭園の保全維持には周囲の景色も組み込んでほしい。

峠を下りて庭園の奥まで歩くと林に入り、クルマの音も聞こえなくなる。東洋文庫が知のオアシスなら、六義園はまさに心のオアシス。ここも、いつ来ても心が洗われる。

庭園を出て、都営バスに乗り継いで高田馬場へ向かった。行き先はカラオケ。

一人で3時間、歌った。


6/12/2024/WED
梅雨前のF会
前菜盛り合わせ ルッコラとモツァレラチーズのペペロンチーノ ステーキ パエリア

1月以来の大学の同級生4人の集会。場所はいつもの高田馬場、La Cepa

美味しいものをたくさん食べて、たくさん呑んで、たくさんおしゃべりできて楽しかった。ガザ侵略から教育格差、アメリカ大統領選挙、ケアの倫理まで、話題はあちこち飛んだ。

私たちを指導してくれた教授が亡くなって30年。還暦になる前に亡くなった教授に指導を受けた当時の教授の年齢に私たちも近づいている。

あれだけの情熱を持って毎日暮らしていると胸を張って言えるか、と自問すると心許ない。

真面目で情熱的な先生だった。

高田馬場は多様な文化が混在する街になった。中国、台湾、タイ、ベトナム、ミャンマー。スペイン・バルの方が珍しい。何を食べても美味しいので、誰も店を変えようとは言わない。

次回も同じ場所で。暑気払いか。


6/13/2024/THU
日比谷音楽祭、Love Music Day at ケネディハウス銀座
Love Music Dayのバナー

日比谷音楽祭というフェスに連動した企画でケネディハウス銀座がミュージックチャージ無料で日曜日に営業した。せっかくの機会なので、行ってみた。

2/3くらいは常連。残り1/3は初めて来店した人たちだった。

演奏したのは、"You Can't Hurry Love," "Have You Ever Seen the Rain," "Top of the World"、「何も言えなくて、夏」など。

今回は「君は天然色」(大滝詠一)がよかった。こんなに明るい挽歌はほかに聴いたことがない。さわやかでいて、とても悲しい気持ちになる。松本隆作品のなかでも傑出した名作。

1回目のステージ、最後は創設者、加瀬邦彦の作品「想い出の渚」。この曲でも司さんを思い出してちょっと泣いた。最近、この店に来るとよく泣く。

ステージは2回あったけど、土曜日、一日中出歩いて疲れたので、2回目は聴かずに帰ってきた。

次回は7月かな。


さくいん:ケネディハウス銀座大滝詠一松本隆


6/14/2024/FRI
膵臓忌

今週の火曜日、6月11日は山内桜良の命日だった。映画『君の膵臓をたべたい』の設定での話。

以前は、Twitter(現X)に山内咲良botがあり、作中の台詞を定期的に読むことができた。そのbotも、ほかのbotとともにXから一掃された。

この作品を最初から最後まで見返すことは最近はしていない。でも、寝るときや移動中に音声だけを聴くことがある。

一番好きな場面は、DVDで「約束」という名前のチャプター。

私は君のことをどう思っていると思う?

これが、浜辺美波の台詞のなかで一番好きな言葉。この場面の表情もいい。当時、高校生だった浜辺も大人になり、初々しさやあどけなさは亡くなった代わりに、俳優として大きく成長している。朝ドラ『らんまん』や『ゴジラ-1.0』でも好演していた。

映像は見なくてもサウンドトラックは、移動するときに繰り返し聴いている。

この作品で月川翔監督を知り、『君は月夜に光り輝く』も見た。『キミスイ』と同様、命をテーマにした作品だった。

今日、劇場公開された月川監督の新作、『ディア・ファミリー』も命をテーマにしている。これは映画館で観るつもり。


さくいん:『君の膵臓をたべたい』浜辺美波月川翔


6/15/2024/SAT
「価値0円」

昨年11月に紙の本を作ってから、著者割引で何冊か作り、読んでもらいと思う友人数人に配った。半年経つけど、感想はおろか読んだという声も聞かない。

著者割引で作った本が余ったので、赤字でもいいから売ってもらおうと古書店に持っていたところ、「価値0円」と言われてしまった。がっかりした。持って帰るか、尋ねられたけど、そのまま置いてきた。

いまごろ、仕入れ値0円の私の本は古書店の店頭に並んでいるだろうか。

やはり内容が重すぎるのだろうか。文章が下手なのだろうか。

内容の水準が中途半端なのかもしれない。自死遺族について、哲学書を駆使して論じているわけではないし、日々思うことを繊細な表現で描いているわけでもない。大きな市場で受け入れられる作品ではないのだろう。

99円の電子書籍はサブスクで読み放題の読者を含めて数十冊読まれている。書いた以上は多くの人に読んでもらいたい。

「価値0円」だったことをつぶやいたポストもほとんど読まれず、「いいね」もつかない。私の言葉には人を引き寄せる力がない。


さくいん:自死遺族


6/17/2024/MON
出光佐三、美の交感─波山・放菴・ルオー、出光美術館、東京都千代田区
『出光佐三、美の交感』

先週は、もともと金曜日の夕方に実家へ行く予定だった。ところが風邪を引いてしまい、帰省は一日延期した。土曜日には回復していたので、日曜日の午後、母を連れて日比谷の出光美術館へ行った。

今回の展示は、美術館の創立者、出光佐三がコレクションした作品を集めて見せている。個人コレクションは、コレクターの個性が如実にわかるので面白い。ずっと前に、小林秀雄のコレクションを見たとき、そう思った。

今回は、私の好きな板谷波山の葆光彩の作品をたくさん観ることができたのでとても満足した。葆光彩以外にも、白磁、氷菓磁、淡黄磁など、白色でも少しずつ色味の異なる作品があり、興味深く鑑賞した。

葆光彩はほんとうに美しい。いつまでも見ていたい。とりわけ、「葆光彩磁草花文花瓶」は色だけでなく形も美しい。

美術館のあとは丸の内のカフェで一休み。60年前にここで働いていた母はいつもの通り、丸の内に来ると機嫌がいい。

帰りに東京駅グランスタで今半の弁当を買い、帰宅してから夕飯にした。グランスタはデパ地下のような賑わいだった。

美術館がある帝国劇場が建て替えられるため、出光美術館もしばらくのあいだ休館するという。休館する前に秘蔵品を見ることができてよかった。


さくいん:出光美術館板谷波山


6/19/2024/WED
原稿用紙
原稿用紙の表紙 原稿用紙に書いた文字

先々週の土曜日。高田馬場へ行ったとき、文具店の竹宝堂をのぞいてみた。前から友人に品揃えが豊富な面白い文具店と勧められていた。

確かに面白い店だった。筆記具やノートだけでなく、いろいろな文具が品数豊富に揃っている。何か買おうと思い、店内を歩いていて原稿用紙を見つけた。

今年の目標に「手書きすること」と宣言しておきながら、筆記具を持つ機会はすくない。たまに書くと字が前よりも下手になっていて、ますます書く気が削がれる。下手なこともさることながら、そもそも字の大きさもバラバラ。

原稿用紙に書いて、まず字の大きさを揃えるところから始めることにした。このままでは漢字を忘れそうなので、少しずつでも手書きをする。

大河ドラマで平安時代の貴族の暮らしを見ていると、たくさん手で書いている。本を読むときも、人から借りて自分で書き写し、それを読んでいる。写経も盛んにしている。

平安貴族にならって、自分の気に入った文章を書写するのもいいかもしれない。


6/20/2024/THU
自己肯定感と承認欲求
下書き

不安定な精神状態が続いている。原因はわかっている。

自己肯定感が低いので承認欲求が人一倍強い。それが満たされないと、ひどく落ち込む。

承認欲求に応えない相手は悪くない。認めてもらうこと、あわよくばほめられること、高評価を得られることを勝手に期待している自分が悪い。

そこまでわかっていても、失望感、ひいては絶望感がぬぐえない。

理解してもらえると一番期待していた人たちから冷ややかな無関心を突きつけられ、とても苦しい気持ちでいる。悪意のない無関心ほど心に刺さる刃はない。仕事も読書も運動も手につかない。

もう彼らには会わないほうがいいかもしれない。

この気持ちはうつとは違う。肥大化した承認欲求が自己を食い破ろうとしている。

このまま崩壊していく自己を見届けるか。それとも自力で食い止められるか。

いま、自己崩壊寸前の瀬戸際に立っている。


6/21/2024/FRI
梅雨のせい?

昨日は苦しい胸の内を言葉にしてみた。言葉にしてみて、ふと思いついた。これは梅雨時の不安定な機構のせいではないだろうか。

うつ病と診断される前から6月は苦手な月だった。連休もあり、誕生日もある5月はとても好きな季節で調子もいい。それが、6月に入り、梅雨になると、なんとなく、どんよりとした気持ちになる。

1991年の7月に大学の同級生が亡くなってから、6月は悲しみを予感する季節になった。

うつ病を発症したのも、前任者の失態で出入り禁止になっていた取引先へ日参していた2007年の6月だった。

2008年には、大きな納期遅延を、原因は自社システムの瑕疵にあったのに、幹部の一存で私個人のミスにさせられ、社内外で苦境に立たされた。

6月には、気持ちを不安定にさせる記憶がある。それが季節の変わり目と合わさり、さらに精神を不安定にする。

どうしたものか。梅雨が明ければ気分も変わるとわかってはいるけど。

こういうとき「筋トレをしろ」と説く人がいる。実際には身体を動かすことでさえ面倒でしんどい。今週は酒量も多い。よくない兆候。

何とかして自分が自分に耐えられなくなる自己崩壊を食い止めなければならない。


さくいん:うつ病


6/22/2024/SAT
借りただけ

前から読みたかった本が図書館に届いたので、先週の火曜日に受け取ってきた。

ブクログの読みたいリストから選んで予約したら、分厚い専門書ばかりになってしまった。

『明治革命・性・文明』(渡辺浩)を読んで福沢諭吉に興味を持ったので、専門書を2冊、借りてきた。福沢諭吉については、『福翁自伝』を読んだことがあるし、『福沢諭吉の哲学』(丸山眞男)も読んで持っている。だから専門書でも理解できるだろうとたかを括っていた。ところが、これが想定以上に難しい本だった。学部時代に政治学を専攻したとはいえ、主に履修したのは西洋の政治史や思想史で日本の思想史はほとんど勉強しなかった。基本知識がまず不足していた。

折下、先週から調子が悪く、読書に集中できる状態ではなかった。結局、どれもほとんど読むことができず、今日、返却した。

自分の知的水準に合う本を選ぶのはむずかしい。やさしすぎてもつまらないし、むずかし過ぎても面白くない。

いまの自分に必要な本を探し出すことはもっと難しい。だから、本からの呼びかけを待つしかない。


さくいん:丸山眞男松沢弘陽バッハ


6/23/2024/SUN
イン・ザ・メガチャーチ、朝井リョウ、日経新聞夕刊、2024

日経新聞夕刊の連載小説が終わった。毎日、欠かさず読んでいたのに、最後までよくわからなかった。

小説には時代を活写する機能がある。この小説も現代社会の一面を垣間見せてくれる。

タレントの自死を信じない熱狂的なファン。「推し」にいくらでも金を注ぎ込む「信者」とそれを仕掛けるプロダクション。そこに孤立した個人と崩壊した家族の話が交差する。

このように理解したつもりで本作を読んできた。最終回は意味がよくわからなかったので、ネットで調べてようやくわかった。搾り取る側にいた父と注ぎ込む側にいた娘が遭遇するという結末だった。

これで終わりでいいのか、というのが正直な感想。倫太郎の死の真実も、道哉の病状も、わからないまま話は終わった。それは読み手がそれぞれ想像すればいいということなのか。物語が広がりすぎているように私には感じられた。

我が子も30歳に近づいているので、いわゆるZ世代のことはほとんど何も知らない。日経新聞の連載ということは、中年ビジネスパーソンに、イマドキを啓蒙する目的もあったかもしれない。私自身、物語に没入するというより、現代の若者文化を知るという目的で読んできた節がある。

小説を読解する能力が不足している。朝井リョウのエッセイはいつも楽しく読める。今回の小説は残念ながら楽しめなかった。


さくいん:朝井リョウ


6/24/2024/MON
『ディア・ファミリー』、3回目
『ディア・ファミリー』ポスター

妻にも観てもらいたかったので、土曜日に誘って映画館へ出かけた。一人で、母と、そして妻と見て、都合3回見たことになる。

3回、観てわかったこと。病室で多くの友人の死を見たことが佳美に強い影響を与えていたこと。余命を宣告されたあと、末妹(新井美羽)だけは不安を隠すことができず、佳美(福本莉子)がその表情から感じ取ってしまうこと。視線だけで妹の不安と自分の余命を読み取ってしまう福本の演技がよかった。

福本莉子は視線に表情がある。『思い、思われ、ふり、ふられ』で理央に告白されたときもそうだった。目の動きで細やかな感情を表現している。

旅行、ドラゴンズの観戦、父の会社での勤務。いずれの場面でも佳美は幸せそうだった。亡くなっていった友人を思う気持ちと優しい家族に囲まれた幸福感が、彼女にあの利他的な言葉を言わせたのだろう。この場面のあの台詞はほんとうに心に刺さる。

幸福度は寿命と一致するものではない。短くても、充実して幸福な人生もある。そう教えてくれたのは月川監督の『君は月夜に光り輝く』だった。

そして、もう一つ、感じたこと。作品全体を通じて「昭和」であることが強調されている。

なぜ、「昭和」であることをここまで強調したのだろうか。実話ベースだから、時代背景を揃えたかったというだけの理由だろうか。

『ALWAYS〜三丁目の夕日』のように、こうした家族の絆じたいが「昭和」的というメッセージも込められているのだろうか。それは読み込みすぎだろうか。

現代社会では家族は多様化している。血縁関係だけが家族ではない。そこにはそれぞれの家族がそれぞれに持つ多様な絆があって当然。家族の絆とは、誰かから教えられたり押しつけられたりするものではない。それぞれの家族が試行錯誤を繰り返しながら見出していくものだろう。家族の絆は家族の数だけある。


さくいん:福本莉子月川翔HOME(家族)


6/25/2024/TUE
記憶の上書き(餃子について)

先週の土曜日。息子が久しぶりに帰ってきた。仕事は順調で、働きすぎることもなく、日々楽しく過ごしているようで安心した。

最近、キーボードを買ってビリー・ジョエルを日夜練習しているという。難曲の"Summer, Highland Falls"を楽譜も見ずに上手に弾いて見せたので驚いた。

お返しに「あの素晴らしい愛をもう一度」をギターの弾き語りで聴かせた。ギターを弾かない人にはスリーフィンガー奏法をちょっと見せるだけでも上手に見えるらしい。

ビールを呑み、録画してあったビリー・ジョエルのニューヨーク、シェイ・スタジアムでのライブを見て楽しい時間を過ごした。

ほかに手料理がないので、前に娘が帰省したときと同じように餃子をふるまった。今回は「トリセツショー」(NHK)で見た方法にレシピを改良したところおいしくできた。

作り方も違えば作る環境も少し違った。作っているときはなつかしい曲ではなく、『庭』を始めてからよく聴くようになったアール・クルーの"My Best Playlist"を流した。

ポイントは、肉をよくこねる、蒸し焼きにするためのお湯は少量で、長めに焼いてしっかり焼き目をつける。外はカリッと中はジューシーに出来上がった。

私が生まれ育った家庭では、餃子に悲しい思い出があった。姉が亡くなる前の夜に一緒に作った。大人になっても、餃子を作る時間は「心から悲しむ」時間だった。

それが、最近少しずつ変わってきた。私が生み出し、育んでいた家庭では、餃子はオヤジの料理。家族で囲む楽しい食事の思い出。

悲しみの色は消えていないけれど、楽しい思い出が上書きされていき、餃子の味は、これまでとは一味違ったものになってきた。

過去の事実は変えられない。でも、過去の記憶は変えていくことができる。

それにしても息子のビリー・ジョエル熱はすごい。種をまいたのは私だけど、あそこまで深く根づくとは思わなかった。


さくいん:ビリー・ジョエル餃子アール・クルーHOME(家族)


6/26/2024/WED
公認された死/されない死

映画『ディア・ファミリー』を観てから、あれこれ思い返している。

佳美(福本莉子)の死は、まさに「公認された死」だった。彼女自身が何か大きな仕事を成し遂げたわけではない。でも、家族や周囲に愛され、守られ、そして看取られた。そして、彼女の言葉に父親(大泉洋)は励まされ、大きな仕事を成し遂げた。

短くはあったけど、生きている時間は幸福だった。少なくとも映画のなかの佳美はとても幸せそうにしていた。「認められた生」で「認められた死」だった。

もちろん失った悲しみがないわけではない。末妹が「映画を観て、初めて姉の死を客観視することができた」と話していた。家族は、今回映画化されたことで、佳美の死が世の中に広く「公認された」ことをかみしめると同時に、悲しみもあらたにしたことだろう。

「公認された死」があるように「公認されない死」というものもある。

その人柄が語られることもなく、積極的に忘れられ、名前を呼ぶ人もいなくなる。

病院で亡くなった佳美の友人の母親も「あの子のことを忘れないで」と切に訴えていた。

映画『ディア・ファミリー』には、「公認されない死」の対極にある死のあり方を見た気がしている。

私は一人の「公認されない死」を知っている。何とかして彼女の人生を佳美のように「公認された人生」に変えたい。


さくいん:福本莉子