紅葉に突き刺す日差し

シオランを知ったのは2006年のこと。『自殺した子どもの親たち』(若林一美)』で引用されていた文章に目が止まった。

   ある経験をなめたあとでは生きつづけることはできない――そんな経験というものがある。その経験のあとでは、もう何ものもどんな意味すらもちえないように思われるのだ。生の限界に達し、この危険な極限のあらゆる可能性を激烈に生きたあとでは、日常の行為や仕草は、一切の魅力を、一切の魅惑を失ってしまう。それでもなお私たちが生きつづけるとすれば、それはもっぱら、この限界なき緊張を客観化によって軽減してくれる書くことの恩恵によるのだ。創造とは、死の爪の一時的な予防である。(「もう生きられぬ」『絶望のきわみで』)

この文章に惹かれはしたものの、すぐには手に取らなかった。代わりに、同じように引用されていた『死者と生者のラスト・サパー』(山形孝夫)を読んだ。その理由は絶望の渦中にある人が書いたものより、そこから這い上がった人の文章を読みたかったから。当時の心境ではシオランを受け止めることはできなかっただろう。本には出会うべき「時」がある。

失意のどん底にいるときは本を開く気さえない。元気なときや躁状態のときには厭世的な本は必要ない。絶望の書は読む「時」を選ぶ。いまは低調ながらも安定していて躁状態でもない。シオランを開くには最適の時期かもしれない。

最近、誰かのツィートでシオランを思い出して、図書館で借りてきた。読んでみて、16年前の第一印象と今の感想に大きな違いはない。絶望の渦中にある22歳の文章は重過ぎて読みするめることが辛い。また、50歳を過ぎた私から見ると、22歳の苦悩の叙述は、いわゆる「若書き」に思えるところもないわけではない。一方、アフォリズムで構成された『生誕の災厄』は、鋭敏な洞察に溢れていて読み応えがある。

『絶望のきわみで』を読了することを断念した理由はもう一つある。

絶望の渦中にある人が手書きでつづったノートを私は持っている。一度通読した。辛く、悲しい体験だった。その人は、シオランとは違い、絶望の淵から戻ってくることはなかった。だから、もう一度、読み返す勇気はいまの私にはない。一度読んだ記憶だけで十分に重い。「絶望の書」をもう一冊読む力はうつ病からの寛解過程にある私にはまだない。

シオランは「書くこと」で絶望の淵に爪をかけて力強く這い上がった。その気持ちはよくわかる。私も、漠然とした不安や、耐えきれそうにない悲しみを書くことで和らげてきた。ありていに言えば、「書くこと」で憂さを晴らしてきた。そして、「書くこと」を始めて20年が経ち、自分が向き合うべき絶望——悲しみや病——のありかがようやくわかってきた

『生誕の災厄』は22歳で書いた絶望の書と同じようにペシミスティックではあるけれど、文章は研ぎ澄まされてより明瞭になっている。世界を見渡す余裕も感じられる。含蓄に溢れる断章を満載している本書は手元に置いてときどき開きたい。

原題は「生まれたことの不都合について」と訳者が書いている。確かに生まれてきたことは自分で選んだことではないから、それを不都合に考える人もいるかもしれない。たとえば、太宰治の文学には「生まれたことの不都合」が満ちている。誕生が即幸福ではない、という考え方は、「生まれたばかりの赤子にさえ原罪はある」としたアウグスティヌスとの関連を読み取ることができるのではないか。

シオランとは真逆で「生まれてきた、それだけで幸せ」。そう思う人がいても不思議ではない。一般的には世間ではそう考えるように仕向けられている。

不幸や逆境に見舞われたとき、「なぜ生まれてきたのか」「なぜ私だけが苦しむのか」と悩むことのない人も少ないだろう。そんなとき、シオランを読むと同伴者を得たようで安堵できる。シオランは絶望を言語化してくれる。それだけでも慰められる。間違いなく「絶望の文学の一冊と言える。

引用しておきたい断章は数えきれない。一つだけ、心に刺さった言葉を書き写しておく。

   前を見るな。後ろも見るな。恐れず悔いずに、おまえ自身の内部を見よ。過去や未来の奴隷となっているかぎり、誰にも自己のなかへ降りてゆくことはできない。(V)

新装版が出るくらいだからシオランは現在でも人気があるのだろう。ペシミスティックな文章を渇望している人はいつの時代にもいる。絶望の淵に立っている人はいつの世でも少なくない。そういう人たちにとってシオランの言葉はお守りになるだろう。

まったく個人的な感想を書けば、同じように厭世的な文章ならば、私は石原吉郎を好む。そこには、単なる趣味の問題以外の理由があるように思う。

シオランはうつ的で石原は心的外傷的、という比較は可能だろうか。シオランは徹底的に内向的で、彼の思索に他者の存在は見えない。一方、石原の場合は、仲間の屍を踏みつけて生き延びたという自責の念がある。被害者であると同時に加害者でもある、いわゆる複雑性PTSDの気配が石原には感じられる。石原吉郎の言葉に共感、いや尊敬の念を抱くのは、他者との共生を模索しつつも、生き残るために良心を捨てた自責の念を苦悩しながらも真直ぐに見つめる勇気があるから。

「それでも、人生にYesと言えない」。石原吉郎の思想をそう書いたことがある。シオランならば、「初めから人生にNoと言う」だろう。生まれてきたこと自体が災厄なのだから。

シオランに対しては、絶望的な心境を言語化するというところに共感はするものの、その思考にどっぷり浸かるということはない。徹底的に内向的でうつ的という気質に対して近親憎悪の感情があるのかもしれない。


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