前から気になっていた作品。昨日の午後、妻がスポーツジムに行っている間に一人で観た。藤原竜也は真犯人ではないだろうということは、映画オンチの私にも予想できたけど、彼の素性や真犯人を巻き込んでいく後半のどんでん返しにはすっかり騙され驚かされた。
多勢の群衆や実在する書店(三省堂神保町店)でのロケ、テレビ局やニュース番組のセットなど、映画らしいスケールの大きな撮影がよかった。
俳優陣の演技もよかった。藤原竜也と伊藤英明は、いずれも複雑な背景を持つ人物を好演していた。
映画で描かれた真犯人の動機は現実にもあるのだろうか。家族を殺された遺族の消えない復讐心はわかる気がするけど、真犯人の犯行の動機についてはよくわからない。
毒親の子や虐待された子が意図せず、いや、強く抗っているつもりでも毒親や虐待する親になってしまうように、暴力の連鎖というものはあるのかもしれない。
私は暴力のない家庭で育ったけど、暴力に満ちた中学時代を過ごした。だから、子どもに暴力を振るう父親になるのではないかと自分自身に対して危惧していた。自分の暴力性を私は恐れている。だから、真犯人の動機にも強い恐怖を感じた。
自分が記憶するかぎり、子どもに手をあげたことはない。何が幸いしたかはわからない。運がよかったのかもしれない。
さくいん:体罰
台風10号に翻弄された週末だった。台風が接近する前から東京では豪雨が繰り返された。
木曜日、週末に家から出られなくなることを想定してワインと日本酒を買ってきた。ふだん平日に酒を買うことはない。家にあると呑んでしまうので、酒を呑んでもよいことにしている金曜日に買いに行く。
予想がはずれて土曜日は雨が降らなかった。おかげで久しぶりに洗濯ができた。夜になって屋根から雨漏りするのではないかと思うほど激しく降る音が聞こえた。
日曜日。雨が上がっていたので外へ出た。隣町の大きな図書館まで行き、雑誌を眺めたり専門書の棚を一回りしたりして、これから読む本を探した。最近、読書に熱が入っていない。先週、図書館で借りてきた本もパラパラめくっただけで読了しなかった。
これは最後まで読みたい、と思わせるような、いい出会いがない。私の方でも、読みたい作家や読みたいテーマがはっきりしていない。図書館で何冊か書名をメモした。来週、地元の図書館に予約する。
図書館を出ると雨が降っていた。駅の方へ歩いていくと次第に雨は激しくなり、仕舞いには歩道が冠水するほどの豪雨になった。防水のスニーカーを履いていても、足首まで水に浸かり中まで染み込んできた。
新しい店を探してランチにするつもりだったけれども、あきらめてちょうど目の前にあった日高屋に入り、いつも食べている野菜たっぷりタンメンと餃子を食べた。
たいした運動ではないのに、豪雨の中を歩いて疲れたのか、午後、珍しく1時間近く昼寝をしてしまった。それから、去年の夏に見た映画『運命じゃない人』を見た。二度目なので、構成の巧みさをよく味わえた。
それにしても、今回の台風は異常。1週間近く、列島に居座り、上陸した場所はもちろん、遠く離れたところにまで豪雨を降らせている。酷暑と豪雨の度合いが毎年増しているように感じる。
人類に未来はあるのか。そんなことまで考えてしまう。これも、ちょっと考えすぎか。
実家暮らしからそのまま結婚したので、私は一人暮らしをしたことがない。
なので、一人の日常というものを知らない。一人でいる日はむしろ特別な日。
そういう日は、酒を呑む、ジャンクフードを食べる、とにかく、だらける。
要するに、私は誰かが近くにいないと自分を律することができない。
先週の金曜日。妻は残業で「先に食べていてくれ」とメッセージがあった。
スーパーのタイムセールで買った刺身を肴に日本酒を四合呑んだ。
その前に缶ビールをななチキレッドと一緒に呑んでいる。
疲れた顔で妻が帰宅したときには、ちょっと酩酊していた。
一人の時間は長くは続かないから、その後の収拾がたいへん。
さくいん:ひとり(孤独)
月曜日のこと。
台風一過。といっても翌日もまた雨の予報。
束の間の晴れ間。夕方、久しぶりに大きな公園まで散歩した。
気温も少し低いのか、歩いていると気持ちがいいくらい。
西の空は、もう夏の終わりを告げているようだった。
ビールは呑まず、カスタードクリームの入った菓子パンを一つ食べて帰った。
Twitter(現X)でつぶやいた愚痴を再録しておく。
以前、M先生のことという文章に書いたことを、最近、考え返している。
小学六年生のときに担任だったM先生は、高校合格を伝えに行ったとき、私にこう言った。
あなたの考えていることを理解してくれる人とあなたの心を癒してくれる人は同じ人ではないかもしれないわね
この指摘は当たっていた。私の心を慰め、和ませてくれる人は幸いにして見つかり、いまもそばにいてくれている。
でも、私の考えていること、例えば、ここに書き続けていることを理解してくれる人は今も見つからない。
信頼できると思った人に心の内に隠していた秘密を打ち明けても、拒絶されるか、冷淡に無視されるばかり。
なぜだろう。私の伝え方がよくないのだろうか。
いつだって真剣に僕は生きてきたはずだけど
でもいつもそこには孤独だけが残されていた
——「夕陽を追いかけて」(チューリップ、財津和夫作詞作曲)
つい先日も、「これは私のこと」と自分に言い聞かせながら、心をこめて歌った。
さくいん:秘密、孤独、チューリップ
昨日は、32回目の結婚記念日だった。珍しく、妻が木曜日に出勤しなかったので、夕方、吉祥寺へ出た。出かけた先は、タイ料理のアムリタ食堂。
吉祥寺近郊に長いこと住んでいるのに、この有名店には来たことがなかった。まず、シンハビールと豆乳マンゴーで乾杯。
鰆を巻いた生春巻き、空芯菜の炒め物、グリーンカレー、それから平日限定の釜炊きカオマンガイを頼んだ。量も辛さもちょうどよかった。
32年を経て話したこと。
家族4人、大病、大怪我をせずにここまで来られてよかった
行きたいところへは行けるときに行っておくべきだ
結論として合意したのは、「健康に気をつけよう」「少しずつでもお金を貯めよう」だった。
帰宅すると、子どもたちから」お祝いのメッセージが届いていた。
テレビをつけると、サッカー日本代表はW杯最終予選の初戦を大勝。
とても気分のいい一夜だった。
よく考えてみれば、一番大きな病気をしたのは、そのせいで失職した夫で父親の私だったということを忘れていた。
実家で愛用している猪口。全日空のビジネスクラスに乗ったときに記念にもらったもの。
もう、いつ乗ったときのものか、覚えていない。昔、全日空のビジネスクラスはCLUB ANAと呼ばれていた。今はその呼称は使っていないらしい。
日本酒はいつもこれで呑む。最近は宮城の浦霞を呑むことが多い。
仕事によって生活は激変する。3ヶ月に一度、ビジネスクラスで海外出張をしていた時期もあれば、毎週、国内便で羽田から伊丹に飛んで、関西を一回りしていた時期もある。それから毎日、新幹線に乗っていた時期もあった。そして、今は、ずっと自室にこもる暮らしを送っている。
そのときどきで、いつでも「この暮らしはいつまで続くのだろう」と自問していた。永遠に続くことはないと知っていたから。
仕事では辛いことが多かったけど、その時その時を、自分なりに楽しんでいたと思う。
今の暮らしも終わる時が来るかもしれない。いや、きっと来るだろう。永遠に続く日常はない。
今は、今の暮らしを精一杯、楽しもう。ゆっくりと猪口で日本酒を楽しむように。
今夜は焼き鳥をお供に浦霞をいただいた。
さくいん:日常
私は大雑把、というよりガサツな性格。部屋も机の上もいつも散らかっているし、旅行に行けば出発前こそきれいに服をたたんでしまっても、帰るときにはスーツケースの中はぐちゃぐちゃになってしまう。
そんな私でも、なぜか、デジタル機器の扱いについてはいつも整理整頓、几帳面でいる。
具体的にいえば、スマホの画面に並ぶアイコンの右上にある未読のメッセージやアプリのアップデート更新の知らせ。まず、残っていることがない。メールはすぐに読むし、アプリは知らせがあればすぐに更新する。アイコンの右肩に赤い文字があることが我慢できない。
電車でほかの人のスマホ画面を見るとどのアイコンの右肩にも数字があったり、なかにはメールアプリの右肩に3桁の数字が並んでいる人もいる。私にはとても考えられない。
リアルな机の上は散らかっていてもパソコンのデスクトップ画面が整理されている。余計なアイコンは一つも表示されていない。
音楽アプリでも、すべての曲にふりがなをつけているし、アートワークもネットで検索してCDジャケットと同じものを表示させている。
なぜか、デジタルの世界では、几帳面にならずにいられない。リアルな世界とのギャップは大きい。自分でもなぜかはわからない。
ところが、最近、困ったことが起きている。Macのミュージックのアプリが勝手にアートワークを書き換えている。おそらく、アップル・ミュージックと連動しているためだろう。
アップル・ミュージックはサブスクリプションしていない。それでも、アプリは勝手に連動している。これが許せない。CDジャケットと違うアートワークが表示されたアルバムを見ているとイライラする。
図書館に通い20年以上かけて集めてきた何万枚もの音楽。あらためてアートワークを貼り付け直すか。いま、悩んでいる。
時間はいくらでもある。暇を持て余したときの手遊びにするか。
さくいん:Apple
土曜日。横浜市助成のもの忘れ検診を母に受けてもらった。結果は認知症と診断。
来月、より精密に検査するために頭のCTスキャンを撮る。インプラントで歯の治療をしている場合など、体内に金属がある人はMRIを撮ることはできないそう。
予想はしていたのでショックはない。これで公的な支援が得られるようになるのなら、そのほうがいいだろう。
日曜日。実家からの帰り、三田で三田線に乗り換えて、千石にある東洋文庫ミュージアムへ行った。
今回の展示は創立100周年記念とあって、これまでに見た東洋文庫の至宝が勢揃い。
永楽大典、文選集注、殿試策。いずれも再会できてうれしい。特に殿試策の見事な楷書は見ていてほれぼれしてしまう。
最近、一部の博物館や史料館で、資料をデジタル化して現物を廃棄する動きがあると聞く。間違っている。
現物を残しておくから歴史が感じられる、見えてくる。そういうものではないか。
東洋文庫へ行くと、専門外の私には資料の解読はできなくても、現物を残しておく意義はよくわかる。
さくいん:東洋文庫ミュージアム
森有正の作品にはフランス語で書かれて、日本語に翻訳されたものも少なくない。日記はほとんどフランス語で書かれていて、二宮正之が翻訳している。
原文が発表されていないのは残念だけれど、彼の作品はフランス文学、翻訳文学と呼んでもいいのではないか?
実際、トドロフやシオランのように、non-nativeでもフランス語で書いた人はいる。
森有正は、日本人であること、日本社会に向けて発信することにこだわりを持っていた。それゆえ、フランス語で書いても、フランスでは発表せず、日本語に翻訳してもらって日本で発表していた。
原文がフランス語であるということは、その思考はフランス語的であり、フランス文学といっても差し支えないのではないか。
最近では、多和田葉子のように現地で高い評価を得るnon-native作家もいる。日本にも、リービ英雄のようにnon-nativeでも日本語で作品を発表している人もいる。
日本人だから日本語、フランス人だからフランス語と決まっているわけではない。もはやそういう時代ではない。多和田葉子の言葉を借りれば、現代は多言語が混淆するエクソフォニーの時代。
森有正は、フランス語で発表こそしなかったけれど、エクソフォニー作家の先駆者と言えるだろう。
さくいん:森有正、トドロフ、シオラン、多和田葉子、リービ英雄
昨日は用事を頼まれて出社した。
いつもの通り、誰とも話すことなく業務をこなすだけ。
ランチは、メルヘンのサンドイッチが買えなかったのでシウマイ弁当。
午後4時まで我慢して、フレックスタイムを利用して退勤、急いで会社を出た。いまの私は「出社嫌い」。「不登校」ならぬ「不出社」社員。
小中学生の頃、真面目で権力と体制に従順だった私は、学校に通うことに疑問を持つことなどなかった。不合理な校則があっても、理不尽な暴力を受けても、毎日、疑うこともなく通学していた。
だから、当時、「登校拒否」をしている生徒の心情が理解できなかった。「学校へ行くのは当たり前のことなのだから、来なきゃダメだろう」くらいに思っていた。
いま50歳を過ぎて、「会社に行きたくない病」にかかって、ようやく「不登校」する生徒の心情がわかってきた気がする。
集団に溶け込めない。周囲の視線が怖い。行ったこところで話し相手もいない。
そういう状況に人生で初めて置かれている。
さくいん:体罰
昨日、小中学生時代は真面目に登校していたと書いた。その頃は絵に描いたような優等生だった。
変化があったのは高校に入ってから。きっかけは最初の実力テスト。入学試験の出来はそれほどでもなかったのに、なぜかクラスでトップの成績だった。
このとき、うれしさよりも不安を感じた。このまま中学時代のように、また教員の指導に従順で、ガリ勉で過ごしていくのか。それでいいのか。疑問が湧き上がってきた。
中学時代は、怖くて教員に反抗することなどできなかった。今度は、そういう態度はやめよう。自分の意見をはっきり態度で示していこう。高校に入学するとき、そう考えていた。
その頃、『戦う高校生』と題した三一書房の新書や、奥浩平や高野悦子を読んでいた影響もあったかもしれない。毎日聴いていた浜田省吾の影響もあっただろう。これまで見えていなかった世の中の不正義や不公平に気づきはじめた年齢でもあった。
とにかく、従順であることを止めて、反抗することを決めた。
それから完全にドロップアウトした。予習復習はしないし、授業はサボるし、無断で欠席することもあった。
当時、スクーターで駅まで行っていた。駅の駐輪場に止めずにそのまま逗子海岸まで行ったこともある。逆方向の電車に乗り、相模線から根岸線を大回りして登校したこともあった。行き場のない怒りや虚しさが身体中に充満していた。
その結果、高校二年時には下から数えたほうが早い成績にまで落ちこぼれた。「この成績で過去に大学に合格した生徒はいない」と担任に宣告されたのはこの時期のこと、
いま思うことは、あの「不登校」の時期は私に必要だったということ。あのまま優等生を続けていたら、もっといい大学に入れたかもしれない。でも、それ以上に大切なことをあの時期に得られたと思う。
もっと言えば、あのドロップアウトの時期がなかったら、私は自分自身でもつまらないと思うような人間しかなれなかっただろう。
私のストレス・コーピングの一つ、汐風療法の原点は、高校時代の無断欠席にある。
さくいん:奥浩平、高野悦子、浜田省吾、逗子
今週火曜日の『クローズアップ現代』で、気候変動による温暖化は、これから毎夏、酷暑を常態化させるという話を聞いた。
それだけでも怖い話ではあるけど、番組ではさらに猛暑・酷暑がメンタルヘルスにも悪い影響を及ぼすと指摘していて怖くなった。うつ病や、それを引き金にした自死が増える恐れがあるという。
猛暑が精神面に悪影響を及ぼすという点には実感がある。
東京でも猛暑日が続いた今夏、夏前まではできていた読書やギターの練習がほとんどできなかった。ぼんやり寝転がっている時間が長かった。
耐えられそうだからとエアコンをつけず、窓を開けて扇風機を回すだけで過ごしたのがよくなかった。暑さを甘くみていた。
ちょうど火曜日のこと。日中、エアコンをつけずに扇風機だけで在宅勤務をしていた。昼過ぎあたりから気分が悪くなり、頭がクラクラしてきた。横になるとしばらくのあいだ眠ってしまった。これは熱中症の始まりだったかもしれない。正気を失う前にエアコンをつけて事なきを得た。
これから先、エアコンなしの夏は考えられない。屋外での活動もむずかしくなるだろう。そうなると経済への悪影響も大きい。
番組では専門家が、「猛暑をただの天気と思わず、地球規模の気候変動と想像力を伸ばして考えてほしい」と訴えていた。
確かに。もう今日明日の天気の問題ではない。目の前にある問題から「地球」をイメージできる想像力が必要。
さくいん:NHK(テレビ)、うつ病、自死
昨日は月一回の診察日。朝、図書館で受け取ったばかりの『日本の名随筆 生命』を持って行ったところ、待合室には誰もおらず、すぐに名前が呼ばれた。
「待ち時間に備えて本を持っていくと待たされない」。この法則はやはり正しい。
S先生にはこのところ、心配していることを二つ、話した。
相談ではない。結論はもう自分で出した。確認のために話した。先生は私が出した結論に合意してくれた。
あれこれ工夫しているけど体重が減らないことも相談した。先生の回答。
BMIが25以下なら、まあ、いいでしょう
在宅勤務は運動不足になりがちだから、涼しくなったら運動を少し増やすといい
とくに水泳を始めたのはいいことなので続けるように
食べる量を減らすだけでは痩せられない。運動量を増やさなければ。
このところ、診察日には必ずハンバーガーを食べていた。今月はなぜか、そういう気分にならなかった。何を食べたいか、自問してみたところ、先週の旅行のあいだ、麺類を食べていなかったと思いついたので、つけ麺を食べることにした。
お店は三田製麺所。「全部のせ」を選んだので、野菜も少しは摂れた。
とても暑かったので、帰りのバスで眠ってしまい、停留所を一つ乗り越してしまった。
さくいん:S先生
誕生日会
昨日は妻の誕生日会で家族4人で食事をした。場所は、吉祥寺聘珍楼。この店も、葡萄屋のように家族のハレの日によく利用する店。葡萄屋が閉店してからはこの店を利用することが多い。
聘珍楼は、横浜中華街の本店がコロナ禍で経営難に陥り、最終的には閉店になった。本店外の店はそれぞれ営業を続けている。
昨夜、給仕してくれた男性は、本店が閉店になってから異動してきたと話していた。ほかの店舗に通勤できる人は異動した一方、横浜以外に通勤できない人はやむなく退職となったという。コロナ禍が飲食業へ及ぼした影響の大きさをあらためて知った。
娘からは盆休みに話していた「お試し同棲」の物件が決まったと報告があった。息子は相変わらず独身生活を楽しんでいて、音楽フェスや旅行へ行っている。
彼は家族のなかでもコロナ禍の一番の被害者だった。大学生活の半分は、リモート講義とアルバイトだけをこなしていた。就職して自由に使えるお金も増えて、失われてしまった青春時代を取り戻しているように見える。
私からは、次に家族旅行するとしたらどこがいいか、尋ねてみた。すると、子ども時代に頻繁に行っていた義父の会社の保養所の名前が挙がった。プールで遊んだり、小さな体育館を走り回ったり、シアタールームで映画を見たり、確かによく通っていた。
次回の旅行は御殿場に決まったところで、誕生日会はお開きになった。
さくいん:HOME(家族)
五連休は楽しかった。旅行にも行けたし、離れて暮らす子どもにも会うことができた。
連休明けはいつも緊張する。窓際族のような私でもメールは溜まっている。大きなミスこそなかったものの、簡単なデータ入力を終えるまでに何度も見返してようやく完了できた。
いまの暮らしは「楽」ではあるけど、「楽しい」わけではない。自室で一人、データ入力をするだけの毎日。
恵まれている、と人は言うだろう。でも、精神障害者で非正規雇用、この身分は65歳まで変わらない。それを心苦しく思うこともある。
テレビや新聞で同じくらいの年齢の人が活躍している姿を見ると、不甲斐ない自分が情けなく、恥ずかしく思うこともある。よく知っている友人のことを思えばなおさら。
近頃は外で人に会うのが億劫になっている。うつ病から治るために障害者手帳を取得して、非正規雇用で働いているのに、そのことが憂うつな気持ちを強くさせている。奇妙な矛盾。
この矛盾から脱出する方法はないものか。こうして言葉にすること。いまはそれくらいしか思いつかない。
昨日、「クローズアップ現代」で、中年層が人生に悩むミッドライフクライシスを特集していた。苦しんでいるのは私だけではない。誰もが通る道、ということを知った。
写真は、昨夜撮影した中秋の名月。
さくいん:うつ病、NHKテレビ
ようやく酷暑がおさまり、とりあえずふつうの暑さになってきた。
毎年、夏の終わりに聴いている曲をリストアップしてみた。
なかでも「晩夏」は一番のお気に入り。この曲を聴くと「いよいよ夏も終わりか」としみじみ思う。今年はまだ暑い日が続いていて「終わり」の実感はまだない。
仕事終わりの夕方、ベッドに寝転んで聴いている。
写真は、日曜日に散歩の途中で見かけた白彼岸花。秋は着実に近づいている。
さくいん:オフコース、大滝詠一、稲垣潤一、菊池桃子、相曽晴日、皆谷尚美、太田裕美、荒井由実
「気を遣う」「気を配る」。そういう行為は相手を思いやる気持ちからすることだろう。
私の場合はちょっと違う。気を遣うということは、「相手に攻撃されないように」「相手をキレさせないように」すること。
私の行動の動機は「恐怖」や「防衛」にあることが多い。このことは前にも書いたことがある。
しばらく前にこんなことがあった。あるバス停で列を作り待っているところへほぼ満員のバスが来た。私は先頭に並んでいたので一番に乗ろうと扉に近づいた。すると、列の後方にいた一人の女性が扉に近づいてきた。私が怒って発した言葉。
順番に乗りましょうよ
自分でも苦笑するくらい、弱々しい非難だった。この話を妻や子どもにしたところ、「よく言えたね」と皆に言われた。私はやはり「押し」が弱いと思われているし、実際そう。
遠慮がちで、いつも怒られないように立ち振る舞い、不正にも力強く抗議できない。
この性分はなかなか治せない。
先週の日曜日。スポーツジムの一回無料券をもらったので行ってきた。ジムへは会社の福利厚生で都度利用を何度かしたことがある。そのときによくしていた体組成測定を久しぶりにしてみた。健康診断のときとは違い、今回は事前の断食なし。
BMIは25を少し上回り、体脂肪率も高い。やや肥満。1割体重を減らすことを提案された。
筋肉量はふつう。体水分、タンパク質、ミネラルも標準範囲内。
このジムで、過去に測定した結果を見ると、よくもなっていないし、悪くもなっていない。やや肥満のまま。
そのあと20分、マシンで早歩きしただけで息が切れ、Tシャツが汗びっしょりになった。それからプールで30分泳いで、もうヘロヘロ。
やはり運動不足か。
多忙な土曜日
先週の土曜日。昼前に家を出て、横浜で今度、母が受けるMRI検査の事務手続きをした。
それから銀座へ戻り。百貨店で秋冬の在宅勤務用の服を下見。教文館3階にあるキリスト教関連本売り場で立ち読み。読みたい本の書名をメモしておく。
夕方、有楽町のイタリアン居酒屋で腹ごしらえをしてからライブハウスへ。
ハウスバンドのSuper Wonderland。ボーカル、岡部ともみちゃんが11月末で卒業するという知らせを聞いてから初めての来店。
竹内まりや、カレン・カーペンター、ユーミン。彼女の歌声を忘れないように、記憶に録音するつもりでじっくり聴いた。
ステージが終わり、新橋から京急に乗り、実家へ向かった。バスはもうない。久しぶりに駅から歩いた。ずいぶん不便なところに住んでいたと思う。
いま住んでいるところでは、電車もバスも深夜1時近くまである。そういう暮らしに慣れてしまったので、同じ首都圏でも、横浜の郊外を不便に感じてしまう。
家に着くと、母はまだ起きていて小津安二郎を特集したテレビ番組を見ていた。
さくいん:ケネディハウス銀座、竹内まりや、ザ・カーペンターズ、松任谷由実
日曜日。母を連れて映画を観に行った。映画は7月の『九十歳、何がめでたい』以来。
長澤まさみは気になる俳優の一人。『海街diary』や『コンフィデンスマンJP』シリーズで見ている。とくにコメディである『コンフィデンスマンJP』での演技がよかったので、今回、新作を映画館で観ることにした。
三谷幸喜は、『ザ・マジックアワー』と『記憶にございません』を観ている。大河ドラマ『鎌倉殿の13人』や舞台を日本に置き換えた『オリエント急行殺人事件』も観た。
映画は期待通り。豪華な俳優陣が演じるドタバタ、長澤まさみの七変化を楽しんだ。『コンフィデンマンJP』の長澤まさみを好きな人なら楽しめるだろう。
ネットでの評価はあまり高くない。傑作というほどの作品では確かにない。演者に好みがいなければ、面白くは感じないかもしれない。
さくいん:『海街diary』、松坂桃李
振替休日だった月曜日。実家からの帰り、日本橋三越に立ち寄り日本伝統工芸展を観た。この展覧会を観るのは去年に続いて2回目。今回も、注目作品はEテレ『日曜美術館』で予習しておいた。
この展覧会のいいところは、たくさんの作品を見られること。一度にたくさんの美術品を見ると、自分の好みがよくわかる。つい立ち止まってしまうのは、青磁、白磁、象嵌。
作品名と作者は左上から次のとおり。
- 銀泥彩磁鬼灯文鉢、井戸川豊
- 螺鈿堆錦箱「汽水域」、松崎森平
- 青瓷壺「水天彷彿」、津金日人夢
- 青瓷花器、多賀井正夫
- 青白磁潮流文鉢、樋口邦春
- 青瓷掛分光彩文鉢、坂本章
いつか、一つでいいから、心から気に入った作品を家に飾りたい。
さくいん:NHK(テレビ)
昨日の『虎に翼』。
人を殺めた罪責感が残っていると告白する執行猶予判決が出た被告女性に対して、寅子は「過去のことは忘れていい」というように諭していた。
確かに、このおぞましい暴力への正当防衛であった尊属殺人は忘れてもいい過去かもしれない。
しかし、「なぜ人を殺してはいけないか」と問う少女に寅子はこう答えていた。
亡くなった人は戻らない。だから、人間は人を殺してはいけないと本能で知っている。
この言葉は女性への慰めと矛盾していないか。
たとえ無罪でも、執行猶予がついても、罪を犯した人間には罪責感が残るかもしれない。その苦しみに寄り添えるのは法律ではないのかもしれない。
もっとも、無罪や執行猶予となれば、犯した罪をきれいさっぱり忘れられるような傲慢な人も、少なくないかもしれない。
実際、起訴されなければ法を破ってはいないと居直る政治家は数えきれないほどいる。
さくいん:NHKテレビ
40代から50代にかけて誰もが直面するというミッドライフクライシス。
私の場合、39歳でうつ病を発症したことが始まりだった。
46歳で病気退職したことで苦悩は深まり、48歳で障害者手帳を取得して、再就職はできたものの、非正規雇用でやりがいもなく収入も激減し、苦しい気持ちが続いた。
コロナ禍以降、この数年は、災い転じてと言っていいのか、在宅勤務が常態化したために、経済的にはけっして楽とは言えないけれども、気持ちの上ではどん底の状態からかなり回復して落ち着いた暮らしを送っている。
それでも、これでよかったのか、ほかの道はなかったのか、毎日自問している。
どういうわけか、この投稿はよく読まれた。ミッドライフクライシスにへの関心の高さがうかがえる。
さくいん:うつ病
最近の若い人は結婚する前に「お試し同棲」をする人が多いらしい。我が娘もその一人。ネットで調べたところ、期間は半年から一年という人が多いらしい。
初めて「お試し同棲」という言葉を聞いたとき、不思議に思った。いずれ結婚するつもりならば、なぜ、「お試し」期間を設けるのか。
私の場合、大学時代から交際していた相手は都内に住んでいて、横浜市の南端に住んでいた私とは、首都圏内でも遠距離恋愛のような状態だった。いずれ結婚するつもりだったから、それなら早い方がいいだろうということになり、大学を出て二年後に結婚した。
お金や将来のことなどあまり深く考えておらず、言ってみれば、「勢い」で結婚したようなものだった。
最近の若者にはそういう「勢い」のようなものはあまりないらしい。少なくとも、本書で調査対象になっている高学歴高収入の人たちは結婚に対してかなり慎重に見える。
学生時代こそ、自由に「好き」な人と交際しても、就職してからは結婚を見据えて、相手の収入やキャリアプラン(転勤の有無)などの諸条件と自分の希望をすり合わせてから交際を深めていくと言う。
「傷つきたくない」「傷つけたくない」「悪者になりたくない」。現代の若者たちはそういう心理からリスクをできるだけ回避する恋愛行動をとる傾向がある。
他人の顔色ばかり気にする私にもその心理はわからないわけではない。その一方で、ただ勢いで恋に落ちたり結婚まで進むことはなく、慎重に進む態度は過剰に合理的にも見える。
その理由は、結婚をパートナーの選択だけでなく、家族を作る行為と強く意識しているかららしい。
「愛ー性ー結婚の三位一体」のロマンティック・ラブ・イデオロギーはすでに解体したといえる。しかし、最終的に生殖によって恋愛が結びつけられる点は、近代家族が成立した1970年代からなんら変化してはいない。(終章 新たな「恋愛」の局面へ)
若者の恋愛観は変わっても結婚観は変わっていない。結婚は、パートナーの選択ではなく、家族の始まり。いまの若者も結婚をそうとらえているということらしい。
結婚に慎重で過度に合理的なのは、結婚観が保守的なままだから。
娘を含めて多くの人が「お試し同棲」をする理由が少しわかった気がする。
さくいん:70年代
いま、私が毎日書いている文章は、ほとんど自分のことしか書いていない。まるで日記。
最初はそうでなかった。少なくとも、そういうつもりで始めたのではなかった。
文章を書きはじめた22年前にはっきり書いている。
文章の目的は原則として内面の吐露ではない。日常生活や社会事象の観察や分析を自分の言葉で表現していきたい。最近読んでいる日経新聞夕刊一面のコラム、とくに鷲田清一や宿澤広朗のような文章を書いてみたい。
上に引用した通り、新聞のコラムのような文章を書きたいと思って始めた。ところが、少しずつ、自分の内面や過去の出来事について書くようになり、いつの間にか、日常生活の中で思いついたことを書いた、ただの日記のようになってしまった。
どうやら私は、客観的な視点で文章を書くのは苦手らしい。書こうとしても書けない。
本の感想を書くときも、その本について書くというより、読んで自分がどう思ったか、本のテーマを自分の視点で見たらどうなるか、という書き方ばかりしている。
そういう文章しか書けないことを悔しく思ったこともある。最近は少し開き直っている。自分の身辺ばかりを書いている随筆家や私小説作家はたくさんいる。それでいいではないか。
私的エッセイしか書けないのならば、徹底的に自分のことだけを書こう。そう思うようになった。何の専門家にもなれなかったけれども、自分のことは誰よりも知っている、自分の専門家を目指したい。これが最近の心境。
さくいん:鷲田清一、宿澤広朗、日常、エッセイ