工房主人のページ佐藤幹夫(さとう・みきお)
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【プロフィル】
1953年 秋田県生まれ。 1978年 國學院大学文学部文学科卒業。 1980年 千葉県にて養護学校(現・特別支援学校)教員とし勤務。 1987年 文学・批評を中心とした個人編集誌『飢餓陣営』を発行。 2001年 教職を辞し、文筆業に転じる。小浜逸郎氏と「人間学アカデミー」を共同開催。(2004年の第3期から、小浜氏の単独主催)。 2007年 「人間と発達を考える会」を始める。教育、地域福祉、行政、児童福祉、心理など各現場のメンバーに加え、滝川一廣氏、小林隆児氏、西研氏が参加。 2009年2月より更生保護法人「同歩会」評議員、非特定営利法人「自立支援センターふるさとの会」相談室顧問。 2010年1月より、更生保護施設「かりいほ」が主宰する「地域生活定着支援研究会」のメンバーとなる。
【著書】
【原稿更新】・『私が「中井久夫」を特集したわけ』『精神看護』(医学書院)7月号。 ・「日々、非文学なり」「路上」111号「現在、関心事」。 ・芹沢俊介『「いじめ」が終るとき』書評。東京新聞(07・9・30)クリック ○「ボロ酔い日記8」(クリック)
○「ボロ酔い日記7」(クリック) ○「ボロ酔い日記6」(クリック) ○「ボロ酔い日記5」(クリック) ○「ボロ酔い日記4」(クリック) ○「ボロ酔い日記3」(クリック) ○「ボロ酔い日記2」(クリック) ○「勝新太郎の世界」へ(クリック) <自己紹介エッセイ> *以下、自己紹介を兼ね、既発表のエッセイを陳列します。ぜひご賞味ください。(初出のものにいくらか手を加えてあることをお断りしておきます。) 「絵画の所有」という欲望と現代美術について 美術館や画廊を回ることが道楽になってしばらくたった頃、ある絵に感動する、強く感銘を受けるとはこういうことかと思い当たった。もう二十年以上も昔、貧乏学生だった時代のことである。その体験を手掛かりに、以下、現代美術に対する気ままな感想を述べさせていただく。 ご多分に漏れず印象派の作家たちが、私の美術事始めだった。しかし正直に記せば、それは、これもまたご多分に漏れず小林秀雄の美術論を齧り、『芸術新潮』を買い求めながらの、いわば知的好奇心と虚栄に端を発したものだった、と思う。ともあれ印象派から少しずつ時代を前後して関心を広げる中で、エル・グレコ、ロートレック、ゴヤなどそれなりに好き嫌いができてはいたが、小林のように「脳天を直撃」されることはなかった。 最初の一撃は、ある小さな画廊でやって来た。恥ずかしながらその名を明かせば、佐伯祐三である。そこにはレストランやカフェテラスの光景が、激しいばかりの躍動感で描かれていた。その絵に私が味わったのは、感動というよりももっと獰猛な所有欲、なんとしてでもこの一枚の絵を自分の手にしたいという衝動であり、その不謹慎さに我ながら驚いた記憶がある。この時以来、所有欲に猛烈に訴えてくる、という点が美術というものの魅力であるとともに恐ろしさである、そのように思いなした。 このことはまた他ジャンルとの決定的な相違でもあるだろう。モーツァルトにいくら感銘を受けたとしても、あるいはある作家の文学作品に入れ揚げたとしても、所有の欲望は喚起されない。全集を揃えたいという欲望を持つことはあるが、それは絵画の場合とは事情が異なっている。感動が、オリジナルのスコアや原稿を手にしたいという欲望のかたちには向わないのだ。 無論その昔、宮廷貴族は詩人や楽師たちを丸抱えにしていたから、芸術はもともと所有されるものではあった。享受者は、所有者であったわけだが、文字や音の複製技術が発達するにつれ、文学と音楽における純粋な所有という享受のかたちを変容させた。しかし科学技術がいかに高度になっても、絵画にあっては複製とオリジナルとの間に決して埋めることのできない差がある。いくら高価で、再現精度の高い画集を求めたとしても、不全感は消えない。あくまでも、思いは一枚のオリジナルを巡っているのだ。絵が売買されるものだからだ、という以上に、そこに美術という表現ジャンルの秘密のようなものがあるのではないか。私はそう考えていた。 それから数年して関心は現代美術に移った。美術に携わる友人知人が増え、公募展や企画展、個展などに顔を出すにつれ、「のんきな写実」に終始している作品は真っ先に私の中からふるい落された。「のんきな写実」が失礼な物言いであるなら、「批評性のカケラもない写実」といってもいい。そして私の関心は抽象画へと向い、さらに絵画そのものであること、美術作品そのものであることに異義を唱えているような、そのような作品へと広がっていった。 さて、彼らは何をしようとしているのだろうか。作品の創り手ではない私は、悲しいことにそのような問いを発することでしか現代美術とあいまみえることができないのだが、少しずつ、彼らは、作品と享受者との関係を巡って、つまり所有することとされることを巡って闘っているのではないかと思いなされてきた。所有され、いかにも美術品顔をして展示されることを拒んでいる。「美術館」なるものを揶揄し、「美術品とは所有されるものだ」ということを疑わない享受者を揶揄しようとしている。 これがどこまで妥当性のある見解かは分からない。所有されることを拒んだ現代の作品たちが、どこに行きつくのか、行きつこうとしているのかも私には分からない。ただひとこと言えることは、そのような作品は、享受者である私に視覚のみならず、五感をフルに押し開いてその前に立つよう促してくることだ。情報も思考も棄て、五感の原始性を取り戻すこと。あるいは五感のカラクリが撹乱させられるのを怖れないこと。身体感覚と作品の関係を新たに作り出すこと。私の関心は、身体とイマジネーションを巡るそんな試みに挑んでいる作家たちに向けられ始めたらしいのである。 そして今や科学技術のおそるべき進行が、身体とイマジネーションに変容を迫っているのであり、してみると、ハイテクノロジーとの目に見えぬつばぜり合いも、彼ら現代作家たちのもう一つの闘いであるだろう。そのとき美術作品たちが、所有の対象として納まりがつくものではないことは言うまでもない。 ところで、激しく感銘を受けながら、ついに所有欲という衝動を呼び出されなかったものがある。それは法隆寺の百済観音、聖林寺の十一面観音、東大寺三月堂の不空羂索観音、同じく東大寺戒壇院の四天王像、新薬師寺や唐招提寺で見た、焼け爛れ、朽ち果てかけて「樹木」そのものに帰ろうとしている御仏たち…。 学生時代、私は金もないのに奈良に出かけては、これらあまたの古代仏像彫刻に撃たれ続けてきたのだが、なぜかそのときばかりは所有したいという欲望は喚起されなかった。ここには崇拝の対象という芸術のもう一つの起源があるのだが、現代の作家たちが所有されることを拒むことで、崇拝の対象を作り出そうとしているのでないことは明かである。そんなことは不可能なのだと、何よりも彼ら自身知り尽くしているだろう。 私たち享受者は、もはや彼らの作品を「所有」することはできない。そのような至福の時代はとうに終わっている。しかし私たちは作品の「所有」という関係を失った代わりに、身体とイマジネーションを巡るさまざまな可能性の現場へと立ち会っている。そしてそれがテクノロジーによってではなく、人間の想像力によってなされるところに、なくしてはならない意義を見つけて行かなくてはならないのだと思う。人間による、人間に向けられた営みであることだけは最後まで止めることができないのだから。 佐伯の絵と出会ったのは、暑い夏の銀座だった。その夏が、またやってくる。 (現代アーチストセンターNEWS No,15 2000・8) 【後記】 「樹が陣営」24号にも記しているが、目下の私の関心は、ヨーロッパの古典派に向かっている。ヨーロッパ絵画の伝統の厚みに圧倒されたこと、現代芸術の「さわがしさ」がやや鼻につくようになったことなどが理由と言える。むろん時代を問わず、見るべきものは見ていくつもりではいるが。(2003・1・20) スペシャリストになれない器用貧乏? 思うところを自由に、というお申し出である。せっかくの機会なので、心の向くままに書かせていただく。 本誌にも宣伝を寄せさせていただいたが、この春、精神科医の滝川一廣氏との対談集を編んだ。精神病理学に大きな関心を寄せてきたとはいえ、私はドシロウトに過ぎない。そして目下、何を血迷ったか、次の仕事として、ある哲学者へのインタビュー集を目論んでいる。その名を明かせば西研さんである。 哲学書など、手にとるたびに跳ね返されてきたのだが、西さんの著作に出会い、四十の手習いを始めたわけである。この二十年間、私は知的な遅れを持つ子どもたちの前に教師として立ち、発達論や症例論なるものにいくらか手を染めてきたから、精神医学や哲学という領域とまったくかかわりがないわけではない。しかし、たとえそうだとしても、インタビュー集を編むなど、我ながら、何と恐れを知らぬ所業であることか、と思う。 それだけではない。池田小の惨劇についてあれこれと考えているうちに、鬼のごとき容疑者は、「精神分裂病=精神鑑定=無罪」という図式を信じ、愚かにもそれを実行に移してしまったふしがあるが、私もまた、その程度の認識でしかなかった、と気がついた。なぜそのようなことになったのかと考えているうちに、「責任能力とは何か」という問いにぶつかり、刑法やら刑事訴訟法やらを紐解く羽目になった。無論この領域もまた、シロウトが簡単に太刀打ちできるようなヤワなものではないことがすぐに分かったが、乗りかかった船であると腹を決めた。 さらに白状すれば、求めに応じ、ある詩人について論ずることもある。ここでも名前を明かせば瀬尾育生さんである。瀬尾さんについては、なぜかその詩作に強く惹かれ、格別な思いを持って評論を書き継いできた。私の書くものが、詩の世界にあって何ほどかのものであるなどとは微塵も考えてはいない。これまた無謀な業であることに変わりはない。 さて私は何を言いたいのであるか。あっちにもこっちにも手を染め、というこの性癖は一体何なのだろう、という問いに、ときに激しく襲われるのである。もとより気の多い性格ではあった。どうもそうした気質が、自分で雑誌を発行するようになり、さらに拍車がかかったようなのである。そして拍車がかかったついでに教職を辞し、「あっちにもこっちにも」の性癖を、それなら生業としようではないかと考えるに至ったのである。 インタビューのお相手をしてくださった滝川さんも、それは知的好奇心の賜物であり、雑誌の発行者としてまたとない資質ではないか、とおっしゃって下さってはいる。確かに雑誌というメディアを維持するために重要な資質であることは、本誌のご主人、佐藤通雅さんの活動ぶりを見ても言えそうではある。だからそれでいいではないかと、自分に言い聞かせてはいるのだが、しかしときに、お前は何者であるのか、という問いが押し寄せ、何をやってもしょせん「器用貧乏」のアマチュアでしかないのではないかと、私を落ち込ませるのである。 * さて、愚痴を書き連ねて終わるわけにはいかないので、ここで話をシフトさせていただく。 しょせんアマチュア、と私は書いた。教師なる職業を続けながらも、実は同様の思いを抱き続けてきた。私はしょせん、教師としてはアマチュアなのかもしれない、と。しかしここでの「アマチュア」には説明がいるだろう。 私はまず、あの「共に学び共に育ちあう健やかな心を」なる類の、教師業界特有の独善めいた物言いには、最後まで鳥肌が立ってならなかった。現場用語の並んだ「指導案」や「実践記録」なるものにも慣れることができなかった。また、うまく言えないが、子どもを「指導の対象」として、割り切って自分のなかに位置付けることにも抵抗を感じていた。ハンディギャップを持つ子どもたちだからなおさらである。彼らの過半は、高等部卒業後、作業所や施設でその人生を過ごす。そんな彼らにとって、私と過ごす一年にはどのような意味があるのか、と考えていたフシがあり、そのこだわりが、「割り切り」をよしとさせなかったのだと思う。それは甘い、と言われることは甘受してもいいが、教師がときに傾きがちな独善性に対し、むしろアマチュアであることを選ぶことでひそかな抵抗を試みてきた、と書けば、これももう一つの独善だろうか。 教師としてスペシャリストになる、プロフェッショナルとして立つ、ということを、私は斥けているのではない。「特殊教育」と呼ばれる世界において、プロとしての、いくらかの責任と誇りを持って臨もうとすれば、発達の理論や発達障害の何であるか、また身体の神経生理学的機構がどのようなものであるかについて関心を持たざるを得なくなる。お前は何様であるかと言われることを承知で書くが、私の知る限り、スペシャリストとして畏敬の念を寄せることができたのは十人にも満たない。私がスペシャリストだったと言いたいのではない。その十人にも満たない彼らを、ひそかな目標とはしていたのだ。 さて、困ったことに、私は矛盾したことを言い始めている。スペシャリストにしてアマチュア。アマチュアにしてスペシャリスト。そんなことは可能なのか。 * 「専門バカ」なる言葉がある。スペシャリストは「専門バカ」とおそらく紙一重である。私の見るところ、アマチュアリズム的感性、つまり業界用語やしきたりや、そこでの人間関係に浸りきらない感性や構えをどこまで保存できるか。そこが「専門バカ」となるかどうかの境目ではないか、と思うがいかがだろうか(現に、先の滝川さんも西さんも、精神医学や哲学の領域でのスペシャリストではあるが、普通の言葉で、きわめてスペシャルなことを語ることのできる稀有な方々である)。 つまり私は、スペシャリストであることと、アマチュアリズム的感性とは決して互いを斥けあうものではないと言いたいのである。いや、我が田に水を引く物言いになるが、もっと積極的にアマチュアリズムを考えてもよいのではないか、と思っている。人よりも資格が優先される、あやしげな「スペシャリスト」全盛の昨今であれば尚更であるだろう。 (「路上」90 2001・10) 【後記】 言論界というところは、「専門家」の名刺は必要なようで、いろんなことに手を出す人間は軽んじられる傾向がある(というのは私のひがみか)。現在の私は、もっと開き直ってしまった。やりたいことをやりたいようにやって、くたばるだけである。やりたいことをやってゼニコを稼げるなら、これに越したことはないではないか。 ともあれ、西さんへの私の無謀な企ては、インタビュー集から、「対話集」という形を取ろうとしている。西研という哲学のスペシャリストと共にさせていただく仕事なのだから、本来なら「インタビュー集」となるのが妥当なところである。けれども思うところあって、「対話集」という形にしていただけないか、と西さんにお願いし、承諾していただいた次第である。どこまでも厚かましい工房主人であった。 トップペ−ジに戻る |
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