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      ボロ酔い日記<5/23〜6/4>13号


5/23(水) エーゴでしゃべらねえと!
●山口へ出張取材。12時のフライトのため、9時ごろ家を出るも、この時間帯は新鎌ヶ谷駅から羽田行き直通の電車がない。あちゃー、見込み違いだあ、と思い、どこでどう乗り換えるのか駅員に聞こうとする。しかし外人の女性が何のかんのと手間取っている。駅員の説明も覚束ない(というかやる気のない)。成田へ行きたいということは分かるのだから、ちゃんと説明しろよ、さっさとやれよ、とイライラしながら待っている。●とうとう頭にきたワタクシ。いきなりできもしない英語で話し始めた。「ヒア、イン、シンカマガヤ。トウー、ラストステーション、ケイセイツダヌマ。アン、チェンジ、レイン。トゥー、ナリタステーション」(笑)。一応通訳すると、ここは新鎌ヶ谷である。ここから終点の京成津田沼駅まで行きなさい。そこで乗り換え、成田駅にいきなさい。となる(はずである)。すると、オーケーだと。すごい! 通じてるぜ。当方を、英語が話せるオッサンと勘違いしたのか、いろいろ聞かれたけど、わからん。京成津田沼駅で乗り換えろ、とくり返す。駅員の手元に路線図があったので、地図を指差しながら「イン、シンカマガヤ・・・ケイセイツダヌマ。チェンジ。イッツ、ナリタ」と繰り返す。「オーケー。ワン、オア、トゥー?」と聞く。これは分った。「ワンライン(京成津田沼行きは1番線だ)」。●勢古浩爾著『まれに見る英語バカ』(三五館)は、一読して名著だと思っていたが、改めてなぜ名著か得心した。曰く。どうして6年間以上も英語教育を受けているのに、いっこうに英語を話せるようにならないのか。必要に迫られないからである。話したいこと、話さなければならないことがないからである。あるのは、英語を話せるようになりたい、かっこいいからという見栄だけである。・・・まったく正しい。●語学を身につけるというのは、結局、単純なところに行き着く。話さなければならないとき、片言でも身ぶりでも、なんでもありのコミュニケーションが始まる。なんでもありのコミュケーションが始まりさえすれば、それなりに語学は身についていく。シュミレーション(駅前留学)は鍛錬にはなるだろうが、所詮、机上の訓練。年齢は、案外関係ないかもしれない。流暢な語学ができるほど上達することはないかもしれないが、必要なことは必要な分だけ身につくのではないか。

5/23(水) ほらほら そこの文学セーネンよその1
●羽田で健保連のKさんと合流し、同じ飛行機で山口へ。山口宇部空港着が2時前。シャトルバスで新山口駅に行き、そのまま電車で宿泊ホテルのある湯田温泉へ。チェックインしたのち、中原中也記念館がすぐ側にあるのですぐに訪ねる。迂闊にも、この湯田のあたりが中也さんの生誕の地だとは知らなかった(と書いて、大岡昇平『中原中也』を開いてみると、冒頭の文章が「昭和二十二年の或る朝、私は山口線湯田の駅に降りた」とある。記憶が見事に消えている。)。ともあれ、中也さんの生原稿に久し振りに再会し、文学セーネン魂を一気に再燃させることとなった。
●小さな記念館だった。生原稿が少し。あとは小林秀雄や冨永太郎、大岡昇平などとの文学的交遊史、ランボオやボードレール、ヴェルレーヌなど、フランス象徴詩関係の資料が少し。長谷川泰子さんも写真つきで。2階にには中也さん関係の研究文献がそろえてあった。全集の棚そろえがイマイチだったのが、残念だった。Kさんはあっという間に見学を終えてしまう。草野心平さんが朗読しているテープを入手したかったのだという。●記念館の裏口に「生誕の地」の石碑がある。隣をみると、「中原・・・」という弟さんの表札がかかっている。門のすぐ前が50〜60坪ほど空き地になっていて、奥に小さな家が見える。縁故者がどなたか住んでいるのだろうか。
●「お墓と川が見たい」とKさん。タクシーを拾い、お墓へ行く。そうか、中也さんは故郷で葬られたのか。この事実も知らなかった(あるいは失念していた)。大岡昇平の『中原中也』をはじめ、小林秀雄の書いたもの他、いくつか中也論や評伝を読んだはずなのだが、すっかりと忘れている。「ああ おまへはなにをして来たのだと……」。川は水無川、中也さんの詩の一節で歌われている。(下の写真)●5時過ぎMさんも合流し、夕食へ。湯田ではもっとも老舗の料亭で会席料理をいただく。空揚げ、白子和え、吸い物、とふぐが調理されていた。あっさりとした味わいで、さすがに美味だった。

5/25(金) ほらほら そこの文学セーネンよその2
●取材を無事に終え、帰宅。せっかくなので大岡昇平『中原中也』(角川書店1977年第10版)を少し読み返してみた。初読の際、傍線を引いてある箇所を抜いて見る。《中原は散文は最後まで上達しなかった。彼が時たま新聞や雑誌に発表した散文には、彼の詩の整然たる節度と比べて、考えられないくらいのたどたどしさがあって、むろんそこには彼の人柄の一種の味が出ていないことはなかったが、概して彼の抱懐した独創的な観念を、歪め傷つけ滑稽にするために筆をとっているとしか思えないもので
あった。明らかに彼は一生人と普通の交際ができなかったように、思想に最低限の一般的形態を与える技術ないし忍耐を持っていなかったのである。/しかし「詩なら来い」と彼はまたいうだろうと思う。》●この本の発行年月日は、ワタクシ20代半ばの頃。しかし読んだのはもう少し後のはずである。なぜこんなところにアンダーラインをしたのか、いまとなってはもうはっきりしない。生業の他、育児家事に追われ、ものを書く時間の確保に音をあげそうになっていた頃である。しかも、書けども書けども、いっこうにものになりそうにない。子育ての迫力は圧倒的である。職業人としては駆け出しもいいところ、社会的存在としてはほとんどゼロに等しい。そんな自分に対し、中也さんのこんなところを引き、夜な夜な励ましていたのだろうと推測する。●それにしても中原中也。周囲の人間はそうとうに困らされていたことが察せられる。特に故郷の家族はそうである。辟易を通り越している。しかしその事実を描いていく大岡の筆は愛情溢れるものだ。彼の批評は時に辛らつこの上ないが(例えば江藤淳の漱石論に対する批判など)、中也に関してはトーンが暖かい。(ここまで書いてきて思い出したことがある。小林秀雄の中也論より、大岡昇平のそれの方がずっと信頼が置ける、と当時強く感じたことだ。小林の書くものは文学的虚構や誇張が多い。小林の方文章のスタイルからしてレトリックとデフォルメの産物である(これは、小林の書くものがでたらめだ、ということを意味しないし、そんなことを言いたいでもない)。しかし大岡の小説技法は実証的リアリズムと呼んでよいもので、批評・評伝も然りである。当時、そのように感じたことを思い出した)。●そんな訳で、久方ぶりに取り出した文学セーネン的記憶である。

5/26(土) 靉光という天才画家
●国立近代美術館で開催中の「靉光展」へ行く。待望の靉光。これだけ一堂に集められることは、今後しばらくははないだろう。貴重な機会である。靉光、本名石村日郎。明治40(1907)年、広島県壬生町(現北広島町)に生まれる。大正13年に上京。招集を受け、わずか38歳の若さで戦病死をする。作風はシュールレアリストと呼ばれており、代表作の「眼のある風景」や「馬」など、たしかに幻想性の強い作品で、ルドンとの類似を感じさせもする。しかし、短い生涯ではあったが、その作品は驚くほど豊饒な世界を示していた。●今回、その生涯を展望できたことで最も強く感じたことがいくつかあった。一つは、画風の変化に何度となく挑んでおり、そして変わるたびにどんどん自分を追い詰めていく強い内省力を感じたことである。精密なデッサンやフォルムは、彼の精神性のなんであるかを告げているように思えた。
●ちなみに左は「編物をする処女」と題された1934年の作品。靉光は技法的な実験も絶えず試みていた作家で、これはロウを使った連作である(ご覧のとおり、すでにこの時代にあってポップアートの観を呈している)。そして右は1929年、「ゴミサ」と題された22歳の初期作品。初期の靉光は、ゴッホ、後期印象派、フォーヴィスムなどを吸収しようとしているが、この「ゴミサ」はルオーを思わせる色使いである。しかし単なる模写や模倣ではない。もっと基本的なこと、技法を学ぶことと、精神性を学ぶこと。●さて、ワタクシの最大の関心は、あの「眼のある風景」がどうやって描かれたか、そのプロセスをつかむことにある。シュールレアリスムへの傾斜、技法の洗練、モチーフの進化などがあいまって、「眼のある風景」へと結実していくプロセスに立ち合うことができた。ライオン連作、かりん連作、そして「馬」へといたるプロセス。それを確認できたことは大変な僥倖。これが二つ目である。●次の感想。精緻が極まれば抽象に至りつく。驚くべきことに、最も早期のデッサンにさえ、すでにそうした片鱗をうかがわせている。展覧してある最も最初のデッサンは「父の像」である。1917年、9歳のときの作品であるが、ただただ驚嘆するのみ。その他の作品をみても、靉光のデッサンは、非常に質が高いものだと思った。●しかし中也さんといい、靉光といい、「天才にはかなわん」のひと言です。

6/4(火)
●ゲラの校正を終え、岩波のYさんへ送付。相当赤が入った。●四方田犬彦『日本映画100年』(集英社新書)読む。面白かった。頭の中がずいぶんとすっきりとした。学究、四方田犬彦らしく、トーキー時代にページを多く割いているが、各年代の特徴がクリアにまとめられている。また日本映画はこれまで二つの黄金時代をもった。「最初は一九二〇年代後半から三〇年代にかけて、二度目は一九五〇年代からにかけて」と、いきなり書かれてあった。このときピンときた。●これから少し意識的に日本映画を観ていこう。日本映画といえば溝口、小津、黒澤、と並べるのが定番だが、映画評論家がこれまでやったことのない、もっと違うフォーマットを作ってみたらどうか。●二度目の黄金時代だった50〜60年代、京都の大映が大変な勢いで映画を量産していたこの50〜60年代に徹底してこだわってみる。これが一つ目。そのとき売り出していった一人が勝新太郎であり、もう一人が市川雷蔵である。この二人を一つの軸とする。もう一つの軸は監督。プログラムピクチャーと呼ばれた、大映のこの量産時代を支えたのが、三隅研次、森一生、田中徳三の三人の監督である。もう一つは京都という場所。このあたりをとっかりとして日本映画事始めとしたい。で、まずは勝新太郎から。