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ボロ酔い日記
  <4/20〜5/31>08年第2号


4/20(土)
●6時より、Yさんの退職慰労会。「しょ〜と・ぴ〜すの会」のメンバーが10人ほど集う。滝川さん、小浜さんはじめ、初期「クレヨンの会」の主要メンバー、久々に集合。Yさん、さすがにご機嫌麗しいが、だんだんと「大トラ」に変身す。帰りの電車で大きな花束を手にし、熟睡。ワタクシも寝たふりをして千葉あたりまで乗って行ってもらおうかと意地悪ごころを起こさなくもなかったが、さすが控え、「着きましたよ」とやさしくひと言。だけど無事にご帰還できたんだろうか。●出かける前、書き直しをつづけていた自閉症論(原稿)を洋泉社のOさんに送る。『「自閉症」の子どもたちと考えてきたこと』というタイトルを考えていたが、キザではないか、と少し心配になる。これしかない、と感じたり、これじゃあキザだろうと感じたり。

4/28(月)
●連休の合間。元の同僚、8人ほどで柏に集う。久々の懐かしい顔も見える。柏の路地裏を週一のペースで飲み歩いていたのは20年も前のこと。元気のいいときはそのままタクシーで松戸市の五香という繁華街に流れ、さらに明け方まで騒ぎまくっていた。ときにはU先生やN先生までまきこんで(お二人とも今や大家になられて…)。無茶苦茶だったが、体力・気力ともに充実し、無茶が楽しかった時代だ。●二次会で、柏で飲むときは必ず立ち寄っていたスナックを皆で訪ねたところ、さすがにもうなかった。ママはまだ生きているんだろうか。20年という歳月はひとの心も生活も変える。しかし20年なんてあっという間だな。人生、夢まぼろしのごとくなり。(とはいっても、これからまだ20年も生きなければならない。ゾッとする。もう十分なんだけど)

5/1(木)
「ふらふら東京文学散歩」次回は森鴎外をめぐる散歩。その下見のため、NさんYさんと千駄木から歩き始め、鴎外に所縁の地を散策。途中、立原道造記念館に立ち寄る。立原なんて懐かしい名だ。高校時代、田舎の先進的文学ショーネンだったころ、立原の詩は格別だった。

「とほくあれ 限り知らない悲しみよ にくしみよ……
 ああ 帰つて来た 私の横たはるほとりには 
 花のみ 白く咲いてあれ! 幼かつた日のように」(「ふるさとの夜に寄す」最終連)

という詩を一生懸命暗記し、こんな詩が書けるようになれば、もっとモテルようになるかもしれないなどと愚かしくもバカなことをシンケンに考え、ノートにいっぱいトンチンカンな言葉を書き付けていた。40年も昔の話だ。1度だけ、何を勘違いしたか、ダチの1人に秘蔵のノートを見せたことがある。ヤツはざっと目を通すと、見てはならないものを見てしまったような表情になって顔をそむけると、そっとノートを返してよこした。当然だな。●道造さんは、建築家としても早熟で、優秀だったのだのだな。知らなかった。道造記念館を出た後、上野界隈に出る。上野公園内にある韻松亭なる料理屋で遅めの昼食とビール。一休みの後、アメ横を少しうろつき、屋台にてビール。味の方はどうかと少し心配だったが、煮込み、焼き鳥など、絶品だった。

5/10(土)
●久しぶりに自宅でのんびり。取りためてあった日本映画のビデオをまとめて観る。●マキノ雅弘監督、黒澤明脚本『殺陣師段平』。歌舞伎に対抗する新国劇。その草創の時期、新しい殺陣の「型」を模索する澤田正二郎(市川歌右衛門)。旧い型から抜けられず、澤田とぶつかる殺陣師段平(月形龍之介)。二人の交流を軸に、段平の家族模様を描く。養女として、妻の内弟子として、同居しながら髪結いをしている女性が、じつは団平の実の娘だったというサブストーリも。(1950年)。市川雷蔵によってリメイクされている。●「大阪の女」。監督衣笠貞之助と、若き京マチ子を注目した。中村鴈二郎他、大阪のお笑い芸人が脇を固めている。(1958年)八住利雄原作の連続TVドラマ『女神誕生』を衣笠貞之助監督が映画化したものだが、織田作之助の匂いがした。芸人たちの集まる長屋、上方落語や漫才芸人たち。世界の巨匠衣笠監督がこんなにも職人肌だったとは。

殺陣師段平(’50) 大阪の女(’58)(C)角川映画 不知火検校(’60)(C)角川映画


●「不知火検校」、監督・森一生、脚本・宇野信夫(1960)。勝新太郎の出世作。白塗りの二枚目役がいっこうにぱっとしなかった勝新が、この『不知火検校』で役者として開眼したといわれていて、どんなものかと確かめたかったが、まさにその通り。悪党ぶりは勝さんにピッタシはまっていた。座頭市シリーズの先駆けをなす記念碑的作品。

5/23(金)
●自閉症論のゲラ校と取っ組み合いをつづけていたが、きりがないので校了とした。全ページが真っ赤で、赤ボールペンのインクが丸々1本なくなっていた。というのはちょっとオーバーだが、3分の2くらいは使うほどだっった。あれこれと考えれば考えるほど募るのは不安と不満。ひと月ほど手元を放し、もう一度読み直して手を入れたいが、それは無理。どこかで手を放さなければならない。●気合が入ったのも当然。この日は、ちえのわのOさんたち数名と、松戸で飲む約束があったため。気持ちよく飲みたいばかりに、ギリギリまで粘った次第。二次会で「関宿」へ。日本酒を飲み始めたら、さらにノリノリになってしまったのはワタクシだけか。看板が10時と早く、大将に頼んで少しだけ粘らせてもらった。(翌日はさすがにすごい二日酔いだった)

5/28(水)
●大失敗も大失敗。Sさん、Mさんに頭が上がらなくなってしまった。食事を済ませて下にもどると、留守電が「有楽町で飲んでいるが、どうした」と繰り返している。真っ青。飲む約束をしていたのは29日、明日ではなかったのか? ワタクシはすっかり29日だと思い込んでいたのだ。カレンダーにもしっかり書き込んでいるし、岩波書店に行って打ち合わせする日を、東京に出る日だからとわざわざ29日にあわせたくらいだった。Sさん、Mさん、本当にゴメンナサイ。素面でもボロボロ。寄る年並みだな。

6/2(月)

●京都へ。明日の朝より嵯峨野にある清水先生の嵯峨野病院の取材。宿は東寺のそば。4時前に京都についたので、小雨が降っていたが、東寺まで歩く。何か落ち着かず、前回のように空海のワンダーランドにすっと入っていくことができない。どこかサメザメとしている。外人さんの家族連れが多くて、ついそちらに目がいくせいもあったかもしれない(でも、なぜ?)。6時過ぎにKさん、Nさんと落ち合い、烏丸に出て食事。その後、先斗町のバーに行き、水割りを少し。久しぶりにバーボンを飲んだが、うまかった。


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 ボロ酔い日記
  <3/1〜3/31>08年1号
3/1(土)
●飢餓陣営33号の版下つくりを終えて送付したのが9時過ぎ。「やっとできた、腹が空いたア」と思いながら二階に上がると、誰もいない。??? 聞いてねえぞ! と思うも、仕方がないのでいつもの駅前の寿司屋へ。●ここの大将、ワタクシの愚痴の聞き役になってくれるため、頻繁に足を運ぶようになった。帰ったのは1時過ぎか。結構、大酔っ払いしていた。

3/3(月)
●六本木のサントリー美術館へ。念願していたロートレック展を観る。油彩が5点ほどでそれ以外はポスター作品。油絵がこれほど薄塗りだとは思っても見なかった。厚い紙をキャンバスにして描いている(こうしたことは、画集からではなかなか分からないが、しかし重要なことだ)。●ポスターはさすがに構図の斬新さが際立つ。すごくいい(ただしあまりの個性的な構成に、モデルの踊り子からは嫌がられることもあったほどだと言う)。人物の位置の取り方が、絶妙にいいと思う。●ロートレックの復習。19世紀末のパリ、モンマルトルに過ごし、劇場、ダンスホールのポスターを数多く手がけたが、1901年、36歳の若さで短い生涯を閉じた。遺伝性の骨格異常と度重なる骨折の為、両脚の成長が止まってしまうなど、虚弱な体質だった。●月曜なのに人が多かったが、いい絵を見ることができた。帰路、船橋のスタンドでビールを飲みながら、購入したカタログをめくった。

3/5(水)
●大学院の修士に通っている昔の同僚(女)と、同僚の友人(男)と、三人で船橋の寿司屋へ。ただの寿司屋ではない。この辺りではぴか一ではないか、とワタクシがひそかに思っている寿司屋である。●はたして、同僚は「うまい」と絶叫しながら、食うわ、食うわ。あれやこれやと単品を注文しながら、2人前は軽く食っていた。友人とワタクシの方はは、ぬるい燗酒をひたすら呑みつづける。●帰りの記憶が怪しいのだが、同僚の食べっぷりのよさに、店の二番目の職人に気に入られたみたい。このお姉さんは独身かとか、今度はいつ食べに来てくれるのかとか、いろいろと聞かれ記憶がある。ところがちゃんと金を支払ったのかが曖昧。確かめると、払っていたみたいだった。が、せっかくだからもっと握りを食べればよかったと後悔。

3/8(土)
●岩波より、『裁かれた罪 裁けなかった「こころ」』の台湾語訳の契約書が届く。全文が英語で書かれており、チンプンカンプン。まあまちがいないだろうとサインと捺印してすぐに返送する。いつ頃、どんな本になって仕上がってくるのか、印税率がいくらか、全く分からん。●夜、八柱の炉辺焼きに集合。昨日、Nさん、Kさん、Yさんに急遽声をかけて集まってもらった。Nさんが、かねてよりYさんに会ってみたいということで、設定した次第(オッサンとオバサンの合コンじゃあねえんだから)。Nさん、「明日が早いから今日は軽く」、などと言いながら、けっこう盛り上がっていたゾ。

3/11(火)
●『健保連』連載の原稿を仕上げ、取材先へ送る。●夕方、NHK教育テレビで福祉番組のディレクターをしているNさんと船橋で合う。栃木の入所更生施設「かりいほ」を取材しており、番組を一本作るのだとのこと。ついてはどんな構成や内容にするか、内容に関して協力してほしいという依頼があった。Nさんは、施設に行き、こんな問題があったのかと驚き、触法の知的障害者の問題に強く関心をもち始めたのだと言う。●先日の朝日の記者もそうだが、大手メディアのディレクターや記者たちが、やっとこうした陽の当りにくいテーマに関心をもってくれるようになった、と感慨深い。

3/14(金)
北川透さんの詩集『溶ける、目覚まし時計』が高見順賞を授賞し、その式に出席のため飯田橋へ。詩人にはあんまりお友達はいないし、いなくとも別に困らないのではあるが、昔、北川さんが主宰していた「あんかるわ」のかつてのメンバーにお会いできるはず、という期待はあった。瀬尾育生さんはもとより、新井豊美さん、倉田比羽子さん、福間健二さんなどにお目にかかることができた(当然、宗近、添田の二人も)。●他にご挨拶を申し上げたのは、藤井貞和さん。その姿を拝見したとき、ただちに、今度の飢餓陣営にご登場を願えないか、というセンサーが作動していた。2次会へご一緒しようか、とも考えたが、受賞者は北川さんだけではない。いろいろありそうなのでご遠慮申し上げた。●今週はスケジュールが立て込んでいる。12日(水)、北海道砂川市へ取材の為、羽田発午後の便で。砂川は旭川の手前で、千歳から電車で1時間半ほど。砂川到着は夕方6時少し前だった。まだ雪がたくさん残っていた。翌13日は、病院とデイサービスのふたつを午後まで取材し、帰宅は夜。・・・というわけで14日は結構へばっていたことも、二次会参加をご遠慮申し上げた理由。

3/25(火)
●Sさん、Yさんと五香にて。二次会、60年代70年代のフォークソングで盛り上がったりして。●ノンフィクション、森達也著『放送禁止歌』『A』『下山事件』などいくつか読む。なるほど、こういうノンフィクションの書き手なんだ、と得心が行った。面白く読ませる。

●森達也『下山事件(シモヤマ・ケース)』(新潮社)

 森達也はオウム真理教を題材とした『A』や『A2』というドキュメンタリーフィルムを撮った映像作家として知られている。ここでの取材でも、途中からにキャメラが回されているのだが、それはオウムのときと同じ事情で挫折する。そしてこの事態が、本書のもう一つの主題となる。

 第一のテーマである下山事件について。著者がこの「戦後最大の謀略事件」とも言われる下山事件に足を踏み入れていくきっかけは、ほとんど偶然に近い。関係者の多くが鬼籍に入った50年も昔のこの事件になぜ惹かれるのか。「惹かれること」そのものが、ノンフィクション作品としての核心をつくっている。(この手法は森の常套である)。

 一つは下山事件がもつ「謎」の特異さが、あるタイプのジャーナリストたちを惹きつけてやまないという事情がある。例えば斎藤茂男は「下山病」と言い、「とにかく真実を知りたいのだ」と言い残して、著者と同行を続けるさ中に急死する。なぜ惹きつけられるのか。この事件がどんな背景をもっているゆえなのか。もう一つ、著者が「現代」という時代への抜きがたい違和感を抱えており、事件のディテールが錯綜して現れれば現れるほど、「現代」への違和が増幅し、戦後すぐという「あの時代」への関心がさらに募っていく。

 事件当時、GHQの容共政策とともに日本は岐路にあった。共産主義化への傾斜を一気に揺り戻したのは、この時期の、謀略とも称されるさまざまな事件だったという。それがいまの繁栄につながっている、現在と地続きなのだ、と著者はいう。そして「事情」は何一つとして変わっていない、とも書くが、オウム狂乱のときの世情が、このとき著者のなかで反芻されている。

 本書のもう一つのテーマ。本書はまた、斎藤茂男というジャーナリストへのオマージュという性格を強くもつが、斎藤とコントラスト描くように登場する現代の「週刊朝日」の記者たちの言動。ここから浮かんでくることは、本書がジャーナリズム論でもあり、著者自身のノンフィクションの方法論でもあるということである。

 この事件そのものがどう現れ、どんな展開を見せるかは読者自らが確かめていただきたい。本書の醍醐味が「謎解き」の展開そのものにあり、それを明かしてしまうことは推理小説のネタを明かすようなふるまいだと思う。すぐれたノンフィクション作品は勧善懲悪や、単純な「犯人探し」とは対極にあり、極めて多層的で複雑な回路をもつものであることを示す好例である。

3月30日(日)
●「人間と発達を考える会」兼、二次会はMさんの送別会。昨年の暮れから書いては手元を放し、また手にし、と繰り返していた「自閉症論」、なんとかとりあえずかたちにして滝川さんに送っていた。滝川さんより二次会で少し感想をいただく。ありがたかった。

3月31日(月)
●東京駅にて、山本譲司さん、赤平守さん、ポプラ社の山本さん付きの編集者のYさんと、3名で飲む。『獄窓記 続』の出版のお祝い(のつもりだったが、かえってYさんに迷惑をかけてしまった)。●佐藤優の本、あまりに皆が誉めるので食わず嫌い状態だったが、『獄中記』を読み始めると、面白くて止められなくなった。「獄中」での書き物だから、ということもあるかもしれないが、ややハッタリ気味のところもあるが、外交の修羅場のなかに日常的にいると、ああいう生きる「構え」になるのだろうと推測する。それにしても『獄中記』は分厚い本だが、2日で一気に読んでしまった。


佐藤優『獄中記』(岩波書店)
 本書は、拘置中の身辺日記、外務省後輩へのメッセージ、弁護団への手紙、保釈後による自註によって構成されている。内容は大きく二つ。一つには、なぜ逮捕されるにいたったのか、自分なりの理解の筋道をつくること。(このことを明らかにすることによって、特捜の取り調べにどう臨むか、裁判をどう闘うか、その戦略が明確になる、と知著者自身が考えている)。もう一つは神学や哲学(とくにへーゲルの『精神現象学』には何度も言及される)、政治哲学などの読書の記録、思索の記録という側面である。

 きわめて興味深いことは、神と実存、そして国家という一見、相容れない二つの主題が、著者のなかでまさに弁証法的に統一されていること。統一を見出そうとしていることである。神学的、実存的な思索を深めることが、国策捜査(と、著者は自身の逮捕を規定している)にどう向かっていくのかという現実的戦略において必須であり、国家というものの本質が何であるかについての認識は、神学的実存の主題を明確にすることを不可欠とする、というダイナミズムが一貫している。

 「『従来の国策』に基づき忠実に任務を遂行していた私たちが『新たな国策』の故に徹底的に潰されていく過程が進行している」というのが、逮捕直後の著者の現状認識である。そのことを明らかにするという目的で、本書は「検閲」をかいくぐりながら、そのメッセージを「思考する世論」に訴えようとして描かれた。

 興味を惹かれる記述がいくつもある。獄中体験により思索のパターンは二極化する、一つはそれまでの自己を否定し、神に帰依する(ドストエフスキー、亀井勝一郎など)。その二。自己を絶対化する(戦前の共産党の非転向者、現在の過激派、永山則夫など)。しかし自身はどちらにもならず、ほとんど変化はないという。なぜ変化がないか。先に述べた主題に対し、著者が自覚的だからである。

 あるいは「汝の敵を愛せ」というキリストの言葉ほど誤解されてきたものはない、と著者は言う。誰でも愛せ、ということではない。敵と味方をきちんと区別し、その上で敵を愛せ、ということである。なぜなら「憎しみ」は眼を曇らせ、闘いの構造を見失い、対応を誤る。これはそのような言葉なのだ、この神学的確信が、国策捜査に対する認識なのだ、と。

 政治や外交とは闘いである。しかしまたその渦中にある当事者にとっては自己との闘いでもある。著者が闘っていたのは、特捜検察とだけではない。本書の最後に拘置所内の遵守規定に触れ、「いかに雑居房生活を恐れていたか」とさりげなく記述され、自身のなかから湧き起こる恐怖心ともまた闘っていたのだと明かされる。
 ここに至って、新たな光が本書に差し込まれることになる。


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