トップページへ(クリック
ボロ酔い日記
  <6/8〜8/31>08年第3号

6/8(日)秋葉原で連続通り魔事件発生
●人間と発達を考える会。会場のルノアールに着くと、メンバーの一人が「いま秋葉原で通り魔事件が起きている、何人も亡くなったようだ」といいながら携帯サイトを見ている。会場の飯田橋と秋葉原は目と鼻の先ではないか。あれほどの大惨事が起きているとも知らず、研究会をつづける。飛び入りゲスト2名を加え、発達や発達障害をめぐる話が進んでいく。いかに大事件だったか、と知るのは帰宅後のことだ。●【後日】そしてなんと、宮崎勤死刑囚の刑執行がなされた、という報道が翌日の新聞に。あまりに姑息なやり方である。こんな姑息な執行は、法務大臣自らが自らの手で、(あるとされる)死刑執行の「正義と大義」をないがしろにする以外のなにものでもない。●【さらに後日】「秋田さきがけ」紙に、大塚英志が宮崎事件についてエッセイを書いていた。一読。”回顧談”から一歩も出ていないという印象を受けた。そして「特権的」だった。この印象には根拠を尋ねてみると、大塚も「大人」の側の人間になったということ。かつて大塚が「Mの世代」の当事者として論陣を張っていたころ、大人や「体制」や世間に対して明確な「攻め」の姿勢をもっていた。内容はともあれ、そのとんがり方にワタクシなどは賛同した。●しかしいまやそのような姿勢は失せ、自分たちの立場を特権化して「守ろう」とする姿勢ばかりが明瞭である。あるタイプの全共闘世代にときに見られる、60年代、70年代の垂れ流し的な回顧が愚劣きわまりないと感じるるように、宮崎事件を特権化して「回顧」するやり方は、およそスマートではない。ワタクシなどはそのように思うがいかに。当時の大塚らの言説も、しっかりと相対化される必要がある。かつて当事者だった人間だけが発言の権利を持つわけではない。

6/22(月)日本映画練習帖(人生、夢幻のごとくなり)
●『巨人と玩具』。ご存知、開高健の同名の原作を増村保三が監督した作品。増村さんは、本当にいろいろなことを試みをつづけた監督だとつくづく思う。ここではセリフのテンポ。全編、俳優たちによって射撃砲のようなセリフが交わされ、ストーリーも息着く間もなく展開していく。この演出は、作品のテーマそのものに深く関連している。今では常套的手法と見えてしまう嫌いもあるが、監督の意気込みと野心ははっきりと伝わってくる。●『女と三悪人』。監督は井上梅次。文句なしに面白い。凶状持ちでさすらいものの雷蔵。けっこうな悪党で、贋金を作っている生臭坊主の勝新。用心棒で結構”純”な小林。この3人に山本富士子が絡む。3人3様のの面白さ。こ難しいことをいう必要はまったくない。お富士さんの濡れ場のシーンもある。映像の隅々までが活気に溢れていて、しあわせなしあわせな時代の日本映画だということがよく分かる。●『若親分』。これまた海軍士官学校の制服に身をまとった市川雷蔵のほれぼれするかっこよさ。そして若親分としての気風のよさ。市川雷蔵というのは、たいした役者だと改めて思う。市川に惚れる朝丘雪路もなかなかツボに入ってる。監督は池広一夫。

6月25日(水)"世代"をキーワードに犯罪を語る
●洋泉社ムックの編集部より、秋葉原の事件についての原稿依頼を受ける。スケジュール的には厳しいが、承諾する。犯罪の「世代論」が成り立たないか、世代に共通する「親子関係」の特徴といったものはないか、と算段していたところだった。●アキバの加藤容疑者はワタクシの子どもと同世代。神戸や佐賀バスジャック事件の少年とも同世代。そして両親たちはワタクシと同世代。ここからなにか引っ張ってくることができないか。そんな目論みがあった。ただし6枚でとのこと。6枚じゃ無理だ。20枚くらい書かせてもらえないと。●聞けば小浜逸郎さんや勢古浩爾さんも執筆するとか。締め切りまで時間がないが、8月いっぱいまで仕上げる予定の『レポート・高齢者医療問題』が控えている。できるだけ早く仕上げればなんとかなるだろうと腹を決め、引き受けた。

7/6(日)東京ふらふら文学散歩。
NさんMさんほか、おっさん、オバサン総勢6名で、どこかアヤシイ「東京ふらふら文学散歩」。お茶の水駅に集合し、地下鉄で千駄木駅で降り、団子坂を登って鴎外記念館(鴎外の住まいだった観潮楼)にまずは到着。現在休館中だが、裏門が空いていて中に入ることができた。職員が3,4名ほど、なにか仕事をしている。鴎外関係の資料を整理して1日を過ごしているんだろう。いいなー、ああやって一日を送って給料をもらえるなんてうらやましいなア、などと、つい下品な空想をしてしまった。(学生時代、文学の真っ只中にいたけれど、文学記念館の学芸員をやって一生を過ごすことなど考えてみたこともなかったが・・・)●記念館を出て藪下通りを行き、太田の原(太田道灌の屋敷あと)をすこしくぐり抜けて遊ぶ。さらに歩き、漱石が『吾輩は猫である』を書いたという住居跡(千朶山房)へ向い、そこでなぜかMさんが行方不明に。涼を求めて建物のなかにまぎれこんだところ、非常用の警報が警備室に届いたらしい。猫も笑っていた。そこから根津神社へ。ツツジの時期に来たときは参拝客があふれていたが、この日は少なめ。正面鳥居を出てS坂(ここは鴎外の『青年』に出てくる)を上り、東大方面に向う。


●途中、立原道造記念館による予定だったが、運悪く休館中(道造論をイッパツぶとうと思うっていたのに残念)。そこでとなりに建つ弥生記念館へ(愚かにも弥生式土器の博物館かと思ったらちがっていた。なんと阿呆な)。ちょうど少女雑誌の挿絵作家たちの展覧会をやっていたのである。少女マンガの源流でもあり、こういう世界もあるのかと不思議な気持になった(昔、宝塚をはじめて観たときにも同様の感想を持った。そのことを思い出した)。●上野に向い、水月ホテル鴎外荘をのぞき、不忍池を通って上野公園へ。園内の韻松亭で昼食をとる。ほぼ2時間と少し歩いた。さすがに疲れ、ビール1本のつもりが2本になり3本に。もちろんそれで終わりではない。食事の後、アメ横に入って居酒屋で本格的に焼き鳥とビール。男性陣はさすがにへばっていたが、女性陣は時間がたつにつれ元気一杯。よかった、よかった。●出かける前、鴎外の『青年』を読み返してみた。これがすこぶる面白い。高校時代に読んだときには退屈な印象しか受けなかったが、若々しくてこんなに面白い小説だったのか。もろ、漱石の『三四郎』に対抗するように書かれている。そうとうライバル心を抱いていたんだろうな。(次回は正岡子規にまつわるフラフラ散歩にしようかと思案中)。

7/21(月)しょーと・ぴーすの会。

●テキストは井崎正敏さんの『考えるとはどういうことか』(洋泉社)。久しぶりに滝川一廣さんも参加。久々に井崎さんのクリアな思考世界を体感する。

7/27(日)日本映画、練習帖。
●竹内結子主演、根岸吉太郎監督の『サイドカーに犬』。なかなかの秀作。冴えない中年男と(古田新太)、男の妻が家を出た後に、食事作りと子どもの世話をしにやってきたよー子さん(竹内)。二人の関係を軸に、小5の娘とよー子さんの関係が、不思議で微妙で、しかし味わいの深い世界として描かれていく。一見、”愛人とその年頃の娘との関係”ということで、いかにもありがちなパターンに陥るところ。ところが「微妙な関係」の描きかたが絶妙にいい。とくに少女の心理の演出。そしてその女のこに対し、必要以上に深入りせず、しかし勘所は外さず、ラフではあるが雑ではなく、自身が抱える複雑な思いもさらしてみせるよー子さん。強さと弱さを同居させた竹内結子の魅力が全開した作品と言うべきか。

●もう一つ、『遠くの空に消えた』。行定勲脚本・監督作品。神木隆之介、大後寿々花という美少年、美少女の主役陣に、ささの友間(笹野高史の息子。この子がとてもいい)が割って入っているところが配役の妙。舞台は空港建設のための土地買収にゆれる農村。と言っても社会派映画としてではなく(しかしどこかでナリタでのトウソウの匂いをかすかに残している)、思春期の子供たちの心情を繊細に、シンボリックに描いた作品。●子供たちの演技の見事さ。脇役陣の豪華さが、まずは目に付く。三浦友和、大竹しのぶ、小日向文世、石橋蓮司。ただ「顔ぶれ」が豪華なだけではなく、それぞれの役柄にピタリとはまり込んでいる。コミカルさとシリアスさが絶妙に配置されて、なおかつ散漫な印象を与えないのは、監督の演出もさることながら、これらベテラン陣の力量。●いくつかのエピソードが挟まれながら描かれていくが、テーマをひと言で言ってしまえば、子どもたちの”ひと夏の叛乱”。おとなになるためのある種の通過儀礼であり、少年たちの重いが錯綜する現在をめぐるストーリー。今にも壊されそうな村と、村をめぐる大人たちの記憶・過去をめぐるストーリー。二つの時間が見事にオーバーラップされながら、統一感を持って描き出されている。行定監督がリリカルな感性と骨太な構成力を示した作品。

8/5(火)一息つきに東京国立博物館へ・・・
●東京国立博物館にて「対決 巨匠たちの日本美術」を観る。「運慶・快慶」「永徳・等伯」など、12組24人が「対決」させられている。ワタクシも村上春樹論(PHP新書)ですでに指摘したように、ある時代の大きな表現者は、対照的なもう一人の大きな表現者を同伴させている。あるいは同伴しえたとき、彼らは大きさを増した時代の表現者になる(村上春樹、龍の両氏は、もし仮にどちらかを欠いていたら、ここまで大きな作家になったかどうか)。芸術にはこうした特性が見られるから、この展覧会のコンセプト自体は興味深いものだ。●しかしワタクシは、とくに「対決」を楽しもうと足を運んだだわけではなかった。雪舟、永徳、宗達、光琳、大雅、応挙、若冲など、それこそ天才たち一人ひとりの作品が観たかったのであり、彼らを前にして極上の時間を過ごすことができた。文句なしの快感体験だった。(毛穴からストレスがすーっと抜けていくのが感じられた。山林に入ったり神社の杜に入ったりしたときに、同様の身体現象が起こることがある。感動とか感銘というよりも、疲労した身体に活力が戻るような、身体の快がはっきりと感じ取れるような体験だ)。●次は「大琳派展」がある。
8月12日(火)じつはこんなことが・・・
●代々木のNHKセンターにて「司法と福祉の狭間で」の番組収録。2日の土曜、ディレクターのNさんと最終打ち合わせをしたが、何を話すか、なかなかまとまらなかった(高齢者医療問題に没頭していたこともあるが)。家で再度、送られてあったVTRを観ながら内容の検討。収録当日になって、とにかく話したいことを話す。長くなったらNさんの編集にあとは任せる、と腹を決める。●収録中、ちょっとしたアクシデントがあったが(たいしたことではない・笑・)、無事終了。全収録48分と18分のオーバー。(放送は19日。きっちりと時間通りにまとめられていた。見逃した方、ザンネンでした)。

8/14(木)帰省。
●8月に入ってから、いくらなんでもと思い始め、「何もしない」ことをするために帰省を決めた。カミさんはフランスに10日間、子どもは北欧へ1ヶ月。なんでこのクソ暑い毎日、あたしばかりが家で仕事をしていなくちゃならんのよ、とストライキを決行した次第。思うように書き物が進まない、時間がなくなる、と焦れば焦るほど能率が落ちていくのが分かった。●秋田新幹線から在来線に乗り継ぎ、横手に到着したところで途中下車。二人のS君、T君たちとさっそく一献。いつものことながら、高校時代の親友と顔を合わすと、“緊張(あるいは偽装したワタクシ)”が一気にほどけて解けていくのが分かる。生意気で怖いもの知らずのあほう、という地金が、あっという間に顔を出すのである。からかい、からかわれて笑い、ときにしんみりする。それだけの時間でありながら、いつの間にかばっちりと充電が完了している。●翌日は中学時代の同期たちと、不特定参加の恒例の同期会。男女あわせて20名ほどの顔が見える。こちらはこちらでまたなんともいえない。同級会など昔は嫌で嫌でたまらなかった。そんな後ろ向きのことをしてなにになるの? 俺は誰にも頼らないで生きているのよ、と突っ張っていた。年齢とともにどこか気持が弱くなるのか、たいして仲が良かったわけでもなかった彼ら彼女らに合いたい気持ちが抑えがたくなる。不思議なものだ。●二次会は例によって野球部の連中がツルンデ近くのスナックへ。かえったのは2時ごろか。

8月18日(月)帰宅。
●帰宅する。メールが600通ほど入っている(ほとんどが迷惑メールだ)。あと10日ほどでいまの仕事を仕上げなければならないし、9月も原稿執筆のほか、西尾先生のインタビューとそのテープ起こしや、『自閉症裁判』のゲラl校も間もなく届く手はずになっている。メールをチェックし、整理したところで一気に戦闘モードにもどった。●子どももカミさんも帰宅していて、久しぶりに顔をそろえる。

8/25(月)高齢者医療問題なんとか脱稿、・・・
●前夜、とにかく最終章まで書き終える。枚数オーバーなので、朝から刈り込みの作業にとりかかる。30枚ほど削るが、おそらくはまだ足りないかもしれない。あとはゲラの段階で直そうととにく手を放し、取材した関係各位へ確認のメールを入れる。とにかくひとまず脱稿。●前回ホームページを更新したのが7月5日。この間、原稿を書くこと以外、ホームページの手直しも飢餓陣営の準備も、ほとんどできなかった。あちこちの関係各位に礼を欠いてもいた。手を放したのを機に、hpを少し手直しをした。●またさっそくではあるが、6時に八柱に集合し、Nさん、Kさん、Yさんといういつものメンバーで飲み会。(19日の放送終了後、元同僚Hさんから、「観ましたよー!」とメールが入る。Nさんからも。誰にも話してなかったのに、どこから漏れたのだろう)。飲みながら、さてはKさん、あんたかと聞くと、そうだとあっさり白状する。ったくもう。

8月28日(木)吉行淳之介さんへ
●秋らしい日がつづく。涼しくなってきたら、美味いものが食べたい、美味い酒が飲みたい、という気持ちがやっと戻ってきた。夏のあいだいくらかでも食欲が出るようにと、香味野菜を採るようにしていた。韮、茗荷、大蒜、生姜、葱、青紫蘇、紫蘇、山椒などなど。いま、カレー(のスパイス)が食べたい。先日、取材で出かけた先の清瀬のカレーがとてもおいしかったのだが、あの味が頭にこびりついている。無性にいろいろな種類のカレーが食べたいと思う。●吉行淳之介がどこかに書いていた。「ものの味が分からないやつに、いい文章が書けるわけはない」。コンチクショウと思った。食いもののことを書くと、このことをどうしても思い出してしまう。