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書評集
 芹沢俊介著『いじめが終るとき』(彩流社)書評

 本書は力作であると思う。まずはそのことを率直に申し述べておきたい。

 個人的なことながら、評者はここ数年ほど、芹沢氏のよき読者であることを止めていた。氏は文芸批評家として出発し、“批評”が、家族や子ども、女性を、社会的主題として縦横に論じることができることを、鮮やかに示してきた批評家である。しかしある時期から学校や教師の権力性の批判を急ぐあまり、議論が豊かな肉付きを欠いている、と感じさせるようになった。それが評者をして遠ざけさせた理由なのだが、本書はそうではなかった。

 力作だと感じた理由をいくつか示す。七〇年代後半から報じられるようになる子ども間の“暴力”が、社会的にどう認知され、どのように“いじめ”として定着していくか、歴史的推移の分析が正鵠を射ていると感じさせること(第1章・第2章)。そのことはいじめの本質的定義を示すという論議とも重なっているのだが(同1、2章)、著作を縦糸として貫くこの主題が、いじめ問題の考察にとってなぜ重要か、説得力をもって展開されていると感じさせること。

 そして次が最大の要因なのだが、いじめを論じる難しさが、得心が行くように述べられていることだ(第3章、4章)。なぜ加害当事者に罪の意識が希薄なのか。おそらくは過半の子どもたちが、悪いことだと知りつつも、なぜくり返し生起し、簡単に消滅することがないのか。なぜいじめを受けている当事者がそれを決して洩らさないばかりか、ときに加担する側に同調するのか。なぜ学校や教師、あるいは加害者をターゲットとし、批判弾劾して事が済むほど単純ではないのか。それらを知るだけでも、一読の価値はある。

 さて、本書はいじめの「根本的解決」を提言した著作である。最終の第8章で「内部に隣る人を作ること」「特定の受け止め手が現れること」の重要性が指摘され、それを大人が「直視」することが「根本的解決」への糸口だと強調される。この指摘自体は正論である。しかしもう一歩、議論を先に進めることはできないか。ここから具体的提言へと向かう試みが、いま、強く求められているのではないか。芹沢氏のさらなる一歩を期して待ちたいと思う。