[プロローグ] [2] [3] [4] [5][6] [7] [8] [9] [10][11] [エピローグ]
中尼公路(中国ネパール友好道路)を西に向かい,途中で左折してカンパ峠へ。 橋を渡った南詰めで,道は左右に分かれている。 左はラサ空港への古い道(先ほど通過した新しい橋が出来て,今ではこの道はラサ市内~空港間の道としては使われてない)。 右は,カンパ・ラ(4770m)~ヤムドク湖(4400m)~カロー・ラ(5045m)を越えてギャンツェへ通じる道。 わたし達は,右の道をとり,ヤルツァンポ河右岸を,いくつかの村落を縫うように進む。 石造りの白壁・陸屋根のチベット様式の家屋が多い。最近は,政府の定住化政策で,遊牧民も次第に半農半牧になり家を持つようになってきているとのこと。
九十九折り,日光のイロハ坂よろしく,ぐんぐん高度を上げる,すぐに高度計は4000mを示す。 こんな高い場所でも羊やヤクが悠然と草を食んでいる。 あっ! 鳥が飛んだ!ジョウビタキに似ているた(帰宅して図鑑で確かめる,うんこの辺りは周年棲息地域である,多分間違いなさそう)。 この道路は,3年ほど前に改良されたとのことで,快適な舗装路である。以前はカンパ・ラまで4時間近くもかかったそうだが,いまでは45分しかかからなかった。 冬期間(12月~2月9は封鎖されるという。 10:00 「カンパ・ラ(カンパ峠)」(海抜4770m)着 曲水橋より36km,ラサよりおよそ120km。 ラとは峠の意味(ちなみにネパール語でも同じ) 峠に吹き渡る風は乾燥して冷たく,峠に積まれたケルンとタルチョが強風にあおられてはためいていた。 「ヤムドク湖」 峠の向こう側に忽然と姿を現したのが,「トルコ石の湖」という名をもつチベット4大聖湖の一つ,ヤムドク湖。 コバルトブルーとエメラルドグリーンが複雑な模様を描いて溶け合っている。湖面の海抜4441m,面積638k㎡,最大水深80m(地形的にはもっと深いとわたしは想定する)。冬季には凍結する。 グーグル地図で見ると,ヤムドク湖の形は,ヤツデのように四方八方に細い手足を伸ばしたようである。おそらく氷河谷の下流が何らかの原因でせき止められて出来た氷蝕湖と思われる。ヤムドク湖のはるか彼方に万年雪ををいただく6~7千メートル級の白い峰が望める。 バスが数台停められる広場があって,観光客を相手に商売をする現地人が数十人,お土産品を売ったり,ヤクやチベット犬を連れて「一緒に写真をどうぞ」 と待っている。 わたしたちのバスは,少し離れたお茶が飲める休憩所風の小屋が建つ小丘に駐車。 雄大な景色をバックに記念撮影。
高地にはだいぶ慣れてきたのだが, 標高が4800m近くあるので,ちょっと急いで歩いただけでも息が切れる。 10:30 こんな高地での長居は身体によくないと,峠滞在は30分ほどで切り上げ,登ってきた道を戻り,中尼公路に出てシガツェへ向かう。 ところで,この峠をこのまま下り,ヤムドク湖畔を通り,明日訪れる予定のギャンツェを経由してシガツェへ行くことも出来る筈なのだが?この道を行った方が,雪山にもっと接近できるし,明日,シガツェ~ギャンツェの往復といった無駄も省けるのに!またこの道筋は,ヤルツァンポ河沿いの道路が開通するまでは,ラサからインドやネパール方面への幹線道であって,1901年3月,河口慧海が西部チベットからラサに向かって辿った道でもある。 この道を通ってみたいなあ~。どうして,そうしないんだろうか? 聞くと,カロー峠区間が,道路改良工事中で通行止めになっているからとの理由とのこと。それでは致し方ない,でも非常に残念だなあ~。
峠道を降り切り,曲水大橋を渡り,再び中尼公路を西に走り出したところで,分かった。 対岸に一条の水圧鉄管路らしきものが見える。 ヤムドク湖の豊かな水と大落差(700m位はあるか?)を利用した水力発電所だ。先ほどの円筒形建造物は調圧水槽である。 旅行社の案内パンフレットには,「湖畔に揚水式発電所があります」と書いてあるが,間違いである。”湖畔に”でもないし”揚水式”でもない。何故ならわたしの見る限り湖畔にはそのような構造物は見あたらなかったし,ヤルツァンポ河には揚水式発電に必要な下池となるダムも無い。 なお,ネットで調べたところ,湖から水を引く導水路トンネル掘削中に崩壊事故を起こしたりして,かなりの難工事であったらしい。 崩壊事故の記事で思い出した。 ここは,インダスーツアンポ縫合帯であることを。五千万年前起きたインド亜大陸とユーラシア大陸の衝突の証拠を示す現場が,聖山カイラスの麓の河原を西流するインダス川と,逆に東流するヤルツアンポ川を合わせた東西二千四百キロの流域である。 字のごとくインドとユーラシアとを縫い合わせる衝突帯であり,地質的にもはっきりとわかる大断層帯である。地質が脆いのは当然である,それ故,発電所建設工事が難渋したのだ。 90メガワットの発電機で発電量年間2億kwhか?
12:15 曲水大橋からおよそ50km,尼木大橋の東詰にあるドライブインで昼食。 ヤルツァンポは大河だ!! ゆったりと流れている大河ヤルツァンポは,山岳地帯に入って行く。 河幅は次第に狭くなり,V字型に鋭く切り立った谷間,急流&激流。 両岸の切り立った岩山とガレ山に映える白い雲と青い空が目にしみる。 こんな急斜面にも段々畑があり,作業する人影が見える。 この辺りの景観は,成都から九寨溝へ行く際の岷江沿いとか,カトマンズからポカラに向かう際のトリスリ川・ブリガンダキ川・ムグリン辺りの風景とそっくりである。 小1時間ほどで,険しい山岳地帯を抜けると,やや広い平原地帯にでる。 13:25 仁布大橋通過 やがて大きく開けた平原となり,ヤルツァンポの河幅は再び広がり悠々と流れている。特殊な風蝕作用を受けた特異な形をした岩山が両岸に続く。
15:00 丘の上に,ポタラ宮に似た城塞(後でs・ヘディンの「チベット遠征」を読んで分かったのだが,実はヘディンが訪れた1906年には,市庁舎,地方自治庁舎として既に築かれていたらしい)が築かれている街が見えて来た。 シガツェだ。 ラサから285km,曲水大橋から200km。 「シガツェ」は, 標高3900mの高所にあるチベット第二の都市,旅行中,最高所での宿泊地でもある。 中央チベットは,大きく分けて「ウ(前)」地方と「ツァン(後)」地方に分けられる。「ウ」の中心がラサであるのに対して,「ツァン」の中心がシガツェである。 ラサの発展に比べるとシガツェは,いまだ田舎町に見えるが・・・ ラサ~シガツェ間の鉄道も既に着工していると云うし,近い将来に観光も便利になるだろうし,大きく発展していくと思われる。
「タシルンポ寺」は, 1447年 ゲルク派創始者ツォンカパの高弟ゲンドン・チュパ(後にダライラマ1世)によって創建。 ダライラマ5世の時代に僧院長だったローサン・チョエキ・ギャルツェンが阿弥陀菩薩の化身であるパンチェンラマの地位を得てからは,歴代パンチェンラマによる政治と宗教の中心となってチベットのナンバー2であるパンチェン・ラマの寺として栄えてきた。 中国による解放?後も,時のパンチェン・ラマ10世は中国側についたので,この寺は破壊されずに残ったので昔のままの姿を留めているそうだ。 タシルンポ寺は,ラサのセラ寺・デプン寺・ガンデン寺・西寧のクンブム寺(タール寺)・夏河のラプラン・タシキル寺と共に「ゲルク派六大寺」の一つとされており,全盛時は4500人以上の僧侶が住んでいた。,現在は約320人の僧が生活する。ここでも寺院の規模に比較して僧侶の数が少ない。 パンチェンラマ10世は,1966年には紅衛兵によって連行され,1970年中国側の政策を批判,投獄された。(北京に10年+自宅軟禁14年)。そして,タシルンポ寺に戻ってから再び中国を批判。その5日後に62歳で謎の死を遂げた!(1989.1.28) ダライラマ14世が選んだパンチェンラマ11世(ゲンドゥンチュキニマ)は,行方知れずの状態。(中国政府に拉致された?) 中国政府公認のパンチェンラマ11世(ゲルツェンノルブ)はいま北京に留学中。 次から次へのお寺めぐりに,いささか食傷気味!! さて,連日のお寺めぐりと,外気温29℃,縦横に張り巡らされた石畳の細い道に,些かげんなりしながらの見学開始。
「弥勒仏殿(チャムカン・チェンモ)」 まず,この寺院の最大の見もの,奈良の大仏を凌駕する高さ26.8mの弥勒菩薩像がある弥勒仏殿に入る。 伽藍は7階建て,1914年に作られたというから比較的新しい。珊瑚・琥珀・トルコ石・ダイヤモンドなどをちりばめた台座,金銅仏としては世界最大の仏像で金ぴかに輝いていた(黄金209kg,銅125t使用)。 この一体の銅仏を完成させる為に100人以上の工匠たちが4年間の歳月と黄金200キロ以上,真鍮120トンが費やされたという。 「パンチェンラマ10世の霊塔」 ミイラを納めた高さ12mの塔。遺体は防腐処理された後,金メッキ。天井に3つの曼荼羅,壁には1000体の仏。 この建築にあたって中国政府は,614kgの黄金を含む10億円の巨費をかけて建立(1994)した。中国政府が,民心掌握の為に如何にパンチェンラマの葬送儀礼に意を用いたかが知れる。 「5~9世の霊塔」 塔の中には9世の像が見える。トルコ石・山さんご・ルビー・瑪瑙・金・玉で飾られている。5つの塔があったが文化大革命で破壊された。 「大会堂」 15,6段もある石段の基盤の上に八本の角柱に支えられた堂々たる建物である。 内部は48本の太い柱に支えられた大きなスペースがあるが,まことに暗い。 読経をする床には,あちこちに赤い僧衣が置いてあるが人影は無い。僧がいなくても,ここでお経を上げていますよということを示すためにそうしてあるのだという。 壁画の一部が塗りつぶされている。文革時の爪跡である。僧侶が敢然として抵抗して守ったのでこれだけの被害で済んだという。 本堂の中央にパンチェンラマ10世とパンチェンラマ11世の写真が掲げられている。この組み合わせは,ラサのお寺でもよく見かけた。しかし,ダライラマの写真は,決して掲げられていない。 帰り道,中庭を囲むように2階にはベランダみたいな回廊があり,ヤクの毛で作った日除け幕(カーテン)とベニヤナギの枝からなる赤い色の壁が見事に調和した僧坊が青い空に映えて美しかった。 振向くと右手山上に白い建物,大タンカの開帳台兼倉庫だと言う,高さ約60m,1426年につくられて以来,毎年の祭などで,その台に巨大なタンカを掛けて開帳する。
17時前ころ ホテルへ ここで,ハプニングというよりポカミス。最初は,全然違うホテルに入ろうとした。その後もあちこち探しながらやっと着いて,ロビーで待っていると,このホテルではないと云う。バスの横腹からボーイが既に荷物を引き降ろしているとゆうのに可哀相になってくるよ!全く。 現地旅行社のプロ精神欠如したミスである。 夕食は,向かいのレストランで。 食後,ホテルロビーのカフェで,不味いインスタントコーヒーを飲みながら皆で談笑。 部屋から,家に国際電話をかける。 0-08-3-0000-0000と手順通りダイヤルするが,途中で,中国語でわいわい言ってきて掛らない。何度やっても同じ! Oさんに聞いたら,デポジット制になっているという。思い出したシルクロードのクチャのホテルでもそうだった。 フロントで300元を預ける。 今度はOKだ。 チェックアウト時,清算したらたったの4元,小銭で4元支払って,300元を返してもらった。面倒くさいことをするもんだ!きっと電話かけっぱなしでズラかってしまう輩が多いということか?
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