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旅日記(3)
西公路ひた走ってルムドへ(1)

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西海省博物館

朝,ホテルの周りを散歩してみた。天気は高曇り,気温23℃ 空気が乾燥していて快適である。
大きなロータリーでは横断歩道のゼブラゾーンマークは消えかかっていて信号も無い,人々は勝手な方向に横断している。まだまだ交通量が少ないから出来る芸当かも知れないが,わたしには真似は出来ない。
 
 今日は,先ず青海省博物館を見学してから,およそ300km先のチャカ(茶?)まで西進する。

 9時にスタートして10分足らずで西寧駅近くの新寧広場に到着。広場では気功体操をやっている人々,近々,各地から選抜された民族舞踊コンテスト見たいなイベントがあるとかで,舞台が造られていてそこで練習する人たちで華やいでいた。それらの人々の間をすり抜けて博物館に入る。

 青海省博物館には地域の歴史・民族,チベット仏教芸術などが展示されている。この博物館のメインは,新石器時代の彩陶と青海省に暮らす少数民族に関する展示,熱水墓群遺跡からの出土品も展示されていると聞き期待していたのだが,主要部分が改装中だとかで,見学したのは「絨毯コーナ-」,「タンカコーナー」,「仏像&仮面コーナー」ほか。
 このうちタンカコーナーは充実していた。素材(ヤクの毛・羊毛・シルク・・・)の説明と実物展示,製作に使う道具,色付けに使う薬草類と各種の鉱物類,金や山サンゴをふんだんに使った清代のタンカは息を呑むほどの素晴らしさだった。

 この博物館は,愛知県にある小島プレス工業㈱という会社の小島鐐次郎氏の資金援助によって建設されたそうだ(玄関ホール左手に同氏の塑像が据えてある)。左右対称のどっしりとした建築で,総面積は1万7千㎡,青海省初の大型近代的博物館である。それにしても日本人が援助していたってのには驚いた。

日月山峠,青海湖へ!

 博物館見学を終えて,ゴルムドまでの長距離バス旅行へ出発(10:30)。最初の目的地日月山峠までは70km。
 西寧の町には,石炭を使用する工場が多いようだ,町の西はずれに石炭火力発電所が,濛々たる煙を吐き出している。20分ほどで市街地を抜け,田園地帯となり,自動車専用道の両側には菜の花畑が点在するが,開花状況はいまひとつ。この分だと,かの有名な青海湖畔の菜の花畑は,すこし時期が早くてその壮観さをみることは出来ないかも知れない。

西寧郊外農村地帯に広がる菜の花畑
 
 やがて道は山峡に入る,左手に鉄路が,道路と寄り添うように近づいたり離れたりしながら同じく西進する。1984年に運航開始した西蔵鉄道第一期工事区間(西寧~ゴルムド)の線路である。
 多巴(ドウパ)ツールゲートを通過して,11:15「皇源」(海抜2800m)という町に入る。ここで国道は二手に分かれる。南に下る214号線は,古来唐とチベットを結んできた旧道「唐蕃古道」である。北へ向かう国道は,青海湖の北側を通過する新道,祁連山脈を越えて敦煌に通じている。西蔵鉄道も青海湖北側ルートをとってゴルムドへ向かう。
 
 わたし達は,「唐蕃古道」ルート沿いの国道214号線に入り,黄河上流の一支流の谷に沿って標高を徐々に上げていく
。日月山峠まで30km,青海湖まで90kmの標示が目に入る。ゆるやかな草原の丘(と云っても,手元の高度計は3000mを超している)が連なり,ウルムチ~トルファンへ抜ける天山の渓谷風景を思い出す。
やがて,右手彼方にに日月亭が見えてくる。
11:50 日月山峠着。

 日月山峠と日月亭 (海抜3520m)
 ここは,全くの観光地と化していた。峠道の両側,小高い山の上に日月亭があって,入場料を払わなければ入れない,小道の両側には土産品を並べた店が隙間無く並び「買って~ 買って~」と盛んに声を掛けている。「ヤクと一緒に写真撮らんかいね~」,「ヤクに乗らないかね~」,「羊の子供を抱っこしろ」,「民族衣装を着て写真を撮らないか~」などなどとかなりしつっこい!ゲート両側や山の斜面には,タルチョでもなんでもないただの五色の旗棹を林立させている,なんともけばけばしくて幻滅!文成公主が涙して越えていった峠だったなんていう感傷も何もあったもんではない。 
 
日亭  けばけばしい旗がひらめく入場ゲート・お土産店・後方は月亭
 
 峠には道路の左右に日亭と月亭という二つのの祠が建っている。風が強い,帽子を飛ばされないようにバンドを調節する。
 我々は日亭を見学する。お堂の中には漢字とチベット文字で書かれた文成公主の碑とチベットへ向かった時の様子が描かれているという壁画がかかっている。

 わたしは,周囲の雪山の絶景をカメラに収めるのに忙しくて,亭内でのガイド洪サンの説明は,殆どうわの空で聞き流したが,おおよその話は以下の如くである。

 唐の太宗(598-649)が,第33代チベット王で吐蕃王朝を創始したソンツェンガンポ(581-649)に政略結婚させた養女(文成公主)がチベットへ行く際(641年,640の説もあり)に通った所。
自国とチベットの境のこの地へ着き,ここから先の草原はチベットだと悲しみ,ふり返って唐に別れを告げ,故郷を映すという日月鏡を取り出し涙したという場所である。
  * 文成公主の嫁ぎ先は,実はソンツェンガンポの長子グンソン・グンツェンであり,643年23歳で落馬して死亡したので,ソンツェンガンポの妻となったという説あり。

 西寧から,およそ1時間30分足らずで1300mも高度を上げて,ここは標高3520mである。Gさんが”軽いめまい”を起こすも一休みしたら収まったようだ。
日月峠から南方の眺望(拡大できます)
雪を頂く山は,青海南山山脈のアレイダウン山(EL4445m)

 電話中継タワーが,この風景を台無しにしている,現代の中国人って,素晴らしい自然景観を大切にするというセンスが全く無いのが気にかかる。

 (拡大できます)

 日月亭の観光を30分足らずで切り上げて,青海湖へ向かう。
海抜3300mの草原の中の一般道を走り,「倒淌河」(”とうしょうが” ”サラホト”,中国の多くの河は西から東に流れるのにこの河は日月山塊の隆起の為に東から西へ流れて青海湖に注いでいる。それで倒淌河という。)というところで右折,”小北湖”という淡水湖に立寄る。高山植物がお花畑のように咲いている?(いた?)というふれこみでの写真タイムというが,ゲル風のテントが建ち並ぶが人影はまばら,観光地っぽいタルチョが侘しくはためく殺風景なところ。わざわざ寄る価値の無いところとみた。

 旧唐蕃古道は,倒淌河の辺りで青海湖方向とは離れ,西南に向かい,共和,瑪多を通り黄河上流地帯,長江上流地帯を通り成都からの道と合し,那曲(ナクチュ)を経てラサに達していたらしい。現在は車の通れる道は通じていないようだ。 この辺りは,7世紀から8世紀にかけて,唐と吐蕃が激しく抗争を繰り返した場所でもあり,多くの城塞跡が残っていると聞く。783年と821年の2回にわたる会盟によって,日月峠が国境と確定されたと云われている。

 青海湖 (海抜3196m)
 中国最大の塩水湖。チベット名「ツォ・ウンゴンボ」もモンゴル名「ココノール」も「青い湖」を意味する。
 面積4500k㎡,琵琶湖のおよそ7倍,周囲360km,平均水深19m。流入量より蒸発散量が大きく,毎年15cmずつ水位低下している,すでに16mも湖面が低下したという。塩分濃度6%。
鱗が退化した鯉科の魚「煌魚」が棲息しているが数が少なくなって現在は禁漁となっている。
渡り鳥の貴重な中継地となっていて,四月下旬から夏にかけて30数種,五万羽以上の渡り鳥が飛来すると云う。

 青海湖は11月~4月は凍結する。氷が解ける時,大音響を立てて30数キロ離れた場所でも聞こえるほどだと言う。諏訪湖の”御神渡り”のスケールの大きいものと考えれば間違いなさそう。
 青寧から151kmということで,湖畔に「151基地」と称する元魚雷発射実験場があった(現在は岸から2ー300m沖に発射台の残骸が残されている)。
 
 ここも観光地化が進んでしまっている。
派手な色彩の看板のレストランやお土産店が建ち並び,なんやら日本の夏の海水浴場を思い出させるような感じ,静かな湖畔を期待していたのは大間違いであった。(中国の観光名所は,すべて同じパターンになってきた。漢民族の徹底した金儲け主義のなせる結果だとあきれることしきり)

 湖畔の喧騒のなか,レストランで昼食後,遊覧船(32人乗りモーターボート)に乗り20分ほど湖上を巡る。救命胴着など安全関連の説明なし!
水の色はきれいだが,、湖が大きすぎて対岸の景色は,ぱっとしない。途中で一時停船し甲板に出ることが出来たが,写り映えのよい写真となるような景観はなし。

その美しさから“天空のサファイア”といわれる青海湖と祁連山脈 (拡大できます)
魚雷発車演習基地の残骸
橡皮山(シャンピーサン)峠を越えてチャカへ!

 15時35分 146km先のチャカへ向かって出発する。

        五体投地している人 見~つけた!!

 湖畔沿いの平坦路を西へまっしぐら!
あたり一面は菜の花畑。 7月の青海湖自転車レースが開かれる頃には満開となるという,さぞかし美しいだろうな~。 
 道路の右端をたった一人で「キンチャ」しながら西へ向かっている人がいた。何処まで行くんだろうか?青海湖を”コルラ”するんだろうか?時計回りだからそうかも知れない!! この炎天下,すごい精神力だと感心する。

 15:50 「江西沟(こうせいこう)」という小集落通過。住民はほとんどがチベット族,牧畜が盛んだという。
 16:25 「黒馬河(”こくばが” ここもチベット族の村) 」で湖畔一周道路と分かれて左方向へ。草原がゆるやかに波打つ高原(標高3300~3500m)をしばらく行く。ヤクと羊・牛が放牧されている。
 やがて峠道にかかる。青海南山山脈を越えるということか? 道は九十九折になり,一気に上り詰めた所がシャンピーサン峠(海抜3817m)。本日の最高点である。峠の両サイドに旅の安全を祈るタルチョ(と云うよりモンゴルの「オボー」(チベットではノボと云う)に似ている)がはためく。ここで10分間の写真&トイレ休憩。  
 この峠を境にして気候・植生がいささか変わっている様子が覗える。もう,チャカ盆地の乾燥地帯に入り,地表はゴビ灘風,緑も少なくなり植生もラクダ草が目立つようになる,羊の姿も峠の東側よりぐっと少なくなる。

 17:15 「大水析」と云う街道を行き交うトラックへの給水・給油基地を通過(標高3400m)

 17:45 チャカ着 人口1万人弱,チャカ盆地のオアシス町である。(標高3100m)
 夕方6時の気温18.3℃,陽が落ちると少し寒いくらいである。
 宿は,今回の旅行では最も低いランク,エレベーターなし,3階の部屋までスーツケースを運び上げる(引き返して難渋しているGさんの荷物を引き上げてやった)。それでもチョボチョボながら温い(ぬるい)シャワーがあったのが,めっけもの,陽が落ちると気温が一気に下がるはずだ,その前にさっと汗を流して夕食へ。ビールは,コップに半分ほどで,酔いが回ってくる,ここは既に標高3000mを越した高地である,高山病対策のひとつに「アルコールは控える」というのがある。段々標高が高くなってきたので,高地に慣れるまでしばらく,ビールは飲まないことにする。
 
 夕食後の時間がたっぷりある,。星空を眺めるも一興ではあるが,今晩は雲が多くて満天の星空は望めそうに無い,それに完全に日没となるのは10時を過ぎるので,ちと寒くもなる。
町に出てみる,午後8時を廻っているのにまだ明るい。将棋やマージャン,玉突きに興じる人々がチラホラする以外は,町を貫くとてつもなく駄々広い道路をたまにトラックがやってくるだけ,拍子抜けするくらい静かな町である。

 明日も500km近い長距離ドライブが待っている,早寝することにした。

ガラ~ンとしたチャカの中心街 中国チェス?に夢中の回族二人

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