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旅行記(6)
地 巡る(一日目)

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 「ラサ」とはチベット語で「神の土地」を意味する。
 歴史を簡単に振り返ってみよう。
7世紀,第3代チベット国王ソンツェン・ガンポ(581-649)が,吐蕃王朝を確立し,ヤルルン渓谷にあったチベット王国の都をラサに移したことでこの街ができあがった。ソンツェン・ガンポは唐の太宗に遣使し,息子グンソン・グンツェンの嫁に文成公主を降嫁させた(後にグンソン・グンツェンが若くして亡くなり,ソンツェン・ガンポは,文成公主を嫁とする)。文成公主は唐から釈迦牟尼像を携えて来ていたが,その像を祀るためにラモチェ・ツクラカンを建立した。同じく,ソンツェン・ガンポのネパール人の妃ティツゥン王女は小さな湖の上に,トゥルナン寺(後年ジョカン寺(大昭寺)の名で呼ばれるようになる)を建てる。ジョカンを建立するにあたり,湖の埋め立ての土砂などの運搬のために多くのヤギが用いられたことから当初はRa-Sa(ヤギの土地)の意味でラサと呼ばれていたが,仏教が広まるにつれLha-Sa(神の土地)と呼ばれるようになった。その後,ジョカンを中心にしてラサの街は形作られていった。

 第38代吐蕃王ティソン・ディッソン時代には,安氏の乱に乗じて唐の都長安を一時占領するなど領土を拡大し,吐蕃の最盛期を迎える。
 9世紀,仏教を弾圧したダルマ王が暗殺された後,吐蕃王朝は衰退し,その後長い間分裂状態となる。

 17世紀中葉,ダライラマ5世が,聖俗の権力を一手に握り,再びチベットを統一する。1649年ポタラ宮に移り住む,僧王ダライラマ時代の到来である。(1642~1959)

 18世紀 清朝がモンゴル排除を名目にラサに進軍,以降中国の支配下に入る。(1720)
 
 20世紀に入ると,清,イギリス,ロシアの大国に翻弄される。

 1913 清滅亡 ダライラマ13世が独立を宣言。
 1949    : 中華人民共和国成立。中国,チベット解放宣言。
 1950    : 中国人民解放軍 東チベット占領。
 1951.5  : 17か条協定調印。
 1951.9  : 人民解放軍ラサ占領。
 1959.3  : ダライラマ14世 インドに亡命。
 1989.1  : パンチェンラマ10世 シガツェ タルシンポ寺で急死。謀略説あり。
 1989.3  : ジョカン寺門前で大規模デモ。
 1995.5  : ダライラマ14世がパンチェンラマ11世(ケンドゥチュキニマ)を公表。
 1995.12 : 中国同上を拉致し,別途に11世を正式認定。

ポタラ宮の内部は迷路だ!

 ラサの見学は,ポタラ宮からはじまる!
ポタラ宮はラサのシンボルである。標高3,650mの麓から13層,高さ:115.703m,東西:360m,南北:300m,建築面積:13万㎡の威容を誇り,紅宮と白宮のふたつの部分に大別されている。紅宮には8体の歴代ラマの霊塔が金箔に包まれて安置され,白宮は政治活動や僧侶の生活区として使用されていた。白宮は”政治”の中心,紅宮は”聖”の中心。
「ポタラ」とは観音菩薩が住まう地という意味。

  ポタラ宮は17世紀に建てられた!

 7世紀,「観音菩薩が降り立った」と云われる聖なる丘,マルポ・リ(赤い丘)にソンツェンガンポが王宮を立てたのが始まり。
降って17世紀,モンゴルの新興勢力,オイラート系ホシュート部のグシ・ハーンの助けを借りてチベットを統一し,聖俗両面の権力を握った(1642)ダライラマ5世が,現在正面から見て右側にある白宮(ポタン・カルポ)の造営をはじめ,1649年にそれが完成すると,デプン僧院のガンデン・ポタンからこの白宮に移り住む。
 1682年にダライラマ5世が没した後も,摂政サンゲギャムツォはなおも紅宮(ポタン・マルポ)を造営し続け,1694年にようやく完成する。こうして出来あがったのがこの壮麗なポタラ宮殿である。14世がインドへ亡命する1959.3まで,約300年間に渡りチベットの政治と宗教の中心であった。
 現在は,あるじ不在で,ポタラ宮の建築群,宮殿の中の壁画・霊塔・彫刻・塑像・宝石・タンカ・経典・古陶磁器などなど多くの文化財が保存され,博物館のような観光資源として利用されている。中には1000を越える部屋があるが,公開されているのはそのほんの一部である。  
 1994年,周辺の遺跡と合わせてユネスコ世界遺産(文化遺産)として登録。
2000年にジョカン(大昭寺)が,2001年にノルブリンカが拡大登録された。

 余談ながら,中国の侵攻や文革時に,多くの宗教施設が大きな被害を蒙ったのに対しポタラ宮がほとんど被害を受けなかったのは天佑というべきか! 

 中央の外観が赤く見える「紅宮(ポタン・マルポ)」は,宗教上の区域でいくつかの儀式用大広間や35の礼拝堂,瞑想用の4っの仏間,7人のダライラマの霊廟がある(霊廟の中で最も大きく高いのがダライラマ5世の廟である)。

 東翼は「白宮(ポタン・カルポ)」で,政府の諸官庁・僧侶の学校・国会に相当する国民議会の会議室・大広間など。

 宮殿の西翼は「札厦(タンヤ)」と云われる区域で紅宮より後に造られたもので,ダライラマに仕える僧侶集団の僧坊である。

 見学は8時半から1時間ポッキリ!
朝まだ早いというのに,気温は早くも28℃,直射日光下では,強い紫外線で瞬く間に肌が焼ける。
 正面右手のゲート(西口)から入場,入場券は100元。
荷物のX線検査とパスポートもチェックするという物々しい警戒態勢である。
見上げるような城壁に沿う250段の階段を息を切らせながら,せっせせっせと登って白宮の入り口へ (石段は花崗岩と粘板岩が使われている)。
 ようやく入り口に辿りつくと,そこからはラサの北郊が見渡せた。遠くに見える建築群はセラ僧院だろうか?

 
入場料は100元 1時間キッカリにしては高いんじゃない? ヤン・シャルで修復作業を開始せんとする作業員
この後,皆で準備体操をして,歌を唄いながら作業するそうだ。見学を終えて出る際,白宮の最下層で,唄いながら床土の補修をしていた女性たちに出会った。
チベット人は歌好きだという。

         富士山よりたかいよ~

 更に階段を登った所が歴代ダライラマの観劇場でもあった「ヤン・シャル(徳阳厦)」
「ここでわたしは待っているから~」ってパスする人が必ず一人・二人出るのが常だというが,わがグループは全員参加しゴールまで落伍者無し!皆,最上階は富士山より高いという高地をものともせず元気に歩き回る。「滅多に無いことだ!」とローカルガイドの楊サンが感心したほどである。

 
 右手の白宮(ポタン・カルポ)から入って,ツルツルになった手摺に掴まりながらひたすら階段を登って一気に最上階へ ここは,紅宮と白宮をつなぐテラス,海抜3800mほど,ちょうど富士山頂とおなじ高さだ!
 ここで,紅色をした建物の壁を観察。長さ1mほどのベニヤナギの枝を束ねて積み上げたものでチベット建築独特のものである。この赤い草墻は,由緒ある寺廟とダライラマの宮殿のみに使用されるという。後日,訪れた寺々で同じような壁を見た。自然の素材を使った素晴らしい造りかただと感心する。


ポタラの白宮殿
入り口の階段は3列あり中央はダライラマ専用階段である。

 いよいよ内部見学。

 まずは,ダライラマ13世の玉座
ここで”カタ”を捧げると霊験あらかただという。チベット族はこの部屋で,よく五体投地を行うそうだ。

 各部屋には文革の嵐を掻い潜ってきた見事な仏像や壁画がある。

 中でも圧巻は紅宮にある歴代ダライラマの霊廟のある霊塔殿。(1~13世のミイラが安置されているが,チベットの歌をたくさんつくったといわれる6世ダライラマのミイラだけが無い)

 その上階の紅宮回廊には見事な壁画,そして霊塔殿の外側にある「措欽大殿(ツォクチェン)」に,ダライラマ5世の一生を描いた壁画もある。壁画は,それ自体は見事なものなんだろうが,どこも薄暗く,予備知識の無いわたしには細部まではよくわからない。

  霊塔殿では,やはり「偉大なる5世」といわれるダライラマ5世のミイラを納めた霊塔が圧巻である。3700kgの金を使って,全体が黄金で巻かれていて上から下まで真珠や瑪瑙・山珊瑚などで象嵌されている。高さ12.6m・幅7.65m
当時のダライラマの宗教的・政治的権勢の高さを思い知らされる。

 7世の霊塔(高さ9.3m,幅5.4mもあり豪華絢爛である(1757建造)),
 8世の霊塔(5574オンスの金,ダイヤ・パール・珊瑚・トルコ石,高さ9.4m・幅4.5m,1805建造)
 9世の霊塔(ダイヤモンド・トルコ石・瑪瑙・パール・珊瑚etc・498kgの金が使われている)。
 
  7世がデザインした山珊瑚・トルコ石など宝石をふんだんに使った金ピカの立体曼荼羅も豪華であった。(時輪殿)

転生堂の本尊である12歳の釈迦牟尼
と ダライラマ5世像
立体曼荼羅
 
 白宮の一番高いところ「東の日光殿」「西の日光殿」,ここはダライラマ13世と14世が実際に暮らした場所で,ダライラマ専用の勤行室(仏殿),寝室,謁見室。 
 寝室内には,貴重な宝石類・豪華な調度品・金製のお盆・玉製の御椀・各種の絹織物・ダライラマ愛用の茶器や法具が置かれていた。

 第一層の「持明仏殿」には, ソンツェンガンポ・文成公主・ティツン公主の塑像,吐藩王朝の大臣だったガル・トンツェン,トンミ・サンポータ(チベット文字(表音文字)をつくり文化を繁栄させた)らの塑像,ツォンカバの塑像などを祀ってある。

 中国皇帝を「万歳」と讃えた,中国語・チベット語・モンゴルでしたためられた書もあった。

 そのほか弥勒菩薩など大きな仏像が何百体と並んでいた。

  ずっと気になっていたのが,あちこちに設置されている監視カメラ。
盗難やいたずらを防ぐためのものなのか?はたまた違う目的があって監視しているのか?
Oさんのレポートに,「宮殿には共産党のスパイもたくさんいる(ラサ全体にいるらしい)」と記してある。

   ああ~疲れた! ああ~忙しかったあ~!
 
 1000の部屋,10万余の仏像や絵画 全部を見ようなんて絶対に思いはしないが,迷宮のようなポタラ,何処をどう歩いたのかさっぱり分からなかったし,なんせ見学時間は,たったの1時間ポッキリ,「少しでもオーバーすると わたしが罰金を払わせられる」とガイドの楊サンは,はしょりにはしょっての案内,それにも増して彼の案内は,いまどこに居て,これから何を観るのかといった説明の基本ができていないし,後になって気付いたことだが,説明内容にも明らかな間違いが多い。それやこれやで 何がなんだか分からぬうちにポタラ宮見学が終了。
 
 ポタラ宮前広場に向かい,撮影タイム。
ポタラ宮殿(ポタン・ポカラ)が,曇り空に悠然と聳え立っていた。

 真っ白に塗られた流麗な大石造建築の外観は,遠望するとヨーロッパ風にさえ見える。
 東洋の”ヴァチカン”とか”垂直のヴェルサイユ”と呼ばれる所以である。
 
 ポタラ宮の前の通りを反時計回りに一周する人々の群れが続く。
ラサの巡礼路は3ッある。ポタラ宮とツグラカン・市内の仏塔・経文堂・寺院や祠をぐるりと一番外側を一周するのが「リンコル」,ポタラ宮殿を一周するのが「セコル」,ジョカン寺を一周するのが,「パルコル」,ジョカン寺内の釈迦牟尼仏の周りをめぐる一番小さいのが「ナンコル」と云われている。このほかに農業関連の巡礼路としての「オンコル」というのがあると楊サンの説明。

携帯マニコルを廻しながら「セコル」を巡礼する信者。聖なるものを右手に見ながら巡礼するのがよいとされている。

 
 目を広場の南側に転じると,そこには労働人民文化宮や西蔵自治区人民政府があり,中国のチベット支配を現しているようだ。広場の真ん中に立つ共産主義らしいヘンテコな三角形のモニュメント(Hさん情報によるとチベット解放記念碑だという)が白々しかった。

 ポタラ宮西門の前には露店も出ていて賑やかだ。
 マルポ・リの丘を取り囲むようにマニ車がずらりと並んでいる。わたしはポタラ宮殿の裾にあるマニ車をまわしてバスへ戻る。。

 お昼ごはんをはさんで,15時までホテルの部屋で休憩。

 
 
セラ寺で,有名な”禅問答”を見る&聴く!

 セラ寺は,ラサの北にある山ギェルツェン・リの麓にあるゲルク派の大寺院である。
1419年ツォンカパの弟子サキャ・イェシェにより創建され,多くの優秀な僧を輩出してきた。
1959年の民族蜂起の弾圧に続いて,文革によっても破壊されたが,近年,再建が進んでいるとのことである。最盛期には5500人もの僧侶が修行していたと云われているが,現在では,その規模や僧侶の数は往時とは比べ物にならないという。

     ラッキー! 禅問答をやっていた!
 
  チツォクチェン(大集会堂)に入ろうとしたところ,ザワザワとした人間の話し声が風に乗って聞こえてくる。通常は月~金の午後だけ行われるという「問答」の声が,「チェ・タツァン(チェ学堂)」の方から聞こえてくるではないか!
今日は土曜日なので,「問答」の情景は見ることができないと諦めていた一同, 「ラッキー!」と大喜び。
 中庭の樹の下でおよそ5,60人の僧が幾つものグループに分かれて独特のジェスチャーで「問答」を繰り返している。
グループごとに車座になって座り,一人が立って,先ず手をぽんと叩いて右手を前に突き出し「これから質問するぞ~」と宣言して座っている対論者に論争を仕掛ける。論理的に矛盾した答えをしたり口ごもったりした方が負けとなる。質問は「人生で一番大切なものは何か?」とか「人生で一番楽しいものはなにか?」といった類のものが多いという。師匠役坊さんがこれらを聞いていて,立派な問答をする僧を,順々に上級クラスに上げていくそうだ。

学堂の横にある林の中で禅問答
 
 「印経院」で,砂曼荼羅を見学。
 珊瑚・真珠・トルコ石などで3ヶ月かかって造られるという。3年に一回作り直すそうだ。

 「大集会堂」へ。
 中に入るとたくさんの柱のある広間がある。ここで1000人の僧が集まって読経する。
正面には大蓮傘蓋仏母像・8世ダライラマ像・仏塔・ダライラマの玉座・寺を作ったツォンカパの弟子サキャ・イェシエの像、漢族の法冠をかぶった釈迦の母の像・ツォンカパの銅像などが並んでいる。
大曼荼羅,明の永楽帝から贈られた大蔵経108巻。
壁に描かれた仏画は,やや色褪せていて判然としないが,法隆寺の壁画を偲ばせるほど端麗である。

 大集会堂の前まで観光バス・乗用車がが乗り入れていてお寺の雰囲気が全く感じられないのには,がっかりした。
仏教修行の場と言うよりは観光名所の一つとなっている感あり。 

弥勒菩薩を従えるツォンカパ像 大きなタンカがずらりと並ぶ
大集会殿
裏山の岩肌に仏画
頂上付近に鳥葬場がある

 山の斜面の巨石には仏尊の絵が描かれている。
その岩山の向うには,ラサで有名な鳥葬場があるという。

 日本人の河口慧海や多田等観もこのお寺で学んだ。
 1900年にダウラギリの北を回り,ドルポからチベットに入国した河口慧海は,一度西へ向い,カン・リンポチェ(カイラス山)とマナサロワールに立ち寄ってから1901年3月,日本人で初めてラサに入り,1年ほどここセラ寺に滞在し,13世ダライラマにも面会し,日本の仏教・チベットの仏教について話を交わしたという。
 もう一人,西本願寺の大谷光瑞によって青木文教と共に派遣された多田等観は1912年3月,清朝軍のチベット侵攻で,インドに逃れてきていたダライラマ13世にカリンポンで謁見して厚遇され,ダライラマの弟子として彼の名前トゥプテン・ギャツォの一部をもらってトゥプテン・ゲンツェンを名乗りラサに10年間滞在,その大半をセラ僧院での修行に当てたという。

ジョカン寺(大昭寺)
  
 ジョカン寺(大昭寺)は,ラサの旧市街地の中心にある。
ソンツェンガンポ王の菩提寺として,641年に建立された。吐藩時代に建てられ現存する寺院の中では最も古いものとされている。主殿は3階建てで,すべての建物が木造であることは驚きである。

 ティツン王女がネパールから持参した十一面観音像と文成公主が持参した釈迦牟尼像が祀られている。
正面の屋根に輝く法輪と2頭の鹿は,この寺のシンボルとして有名である。

 石畳の敷かれた正門前の広場には,多くの露店が並んでおり,何時も多くの参拝客で賑わっている。ここでは,「マネー マネー」と言って物乞いする子供が何組もいる,近ごろ中国国内では目にしない光景である。漢族に押しつぶされているチベット族の現実を現しているのかもしれない。

 入場料は70元(1200円くらい) ちょっと高いね~(円が安いのかな!) 入り口でチケットを扱っている坊さんが,ニコニコしながら札束を数えている光景がいまでも瞼に浮かんでくる!
 
聖地ラサの中でも最も聖なる寺院と言われ,
寺の前では大勢の巡礼者が五体投地を
する姿が見られる。
主殿 屋上からポタラ宮がよく見える。
左の柱は,バルコルの四隅に立つ”タルポチェ”
 
 正門の右手から入ると中庭,奥左手から主殿に入る。
 主殿の前の敷石も,,五体投地を繰り返す多くの人たちによって,すべすべになっていた。
 
     寺院内部は,バターの臭いが強烈!
 
 時計回りに,左手から歓喜堂(ツォンカパと8人の弟子の塑像)→無量光堂→薬師堂→観音堂→弥勒堂→ツォンカパ堂→オタン湖堂(オタンとはジョカンジの建っている場所にあった湖の名前)→無量光堂と続き, 次がメインの釈迦堂(文成公主持参の釈迦牟尼像)で,その前で,膝を折らない簡略式五体投地をしている信者がいた。
 その隣が,ネパールからティツン王女が持参した仏像が納められた弥勒法輪堂・獅子吼堂→菩薩主眷属堂と続く。
一巡の最後の壁面には,ソンツェンガンポ王とポタラ宮や人々の踊る姿を描いた壁画が飾られていた。
 このお堂の並べ方は,立体曼荼羅を意識しているのではないかと思えてきた。
 
 なかは,暗くて息が詰まりそう。さっさと外に出る。

 主殿の周りにはコの字型にマニ車がずら~と並んでいて,ここが「ナンコル」巡礼路である。 
 
 中庭に出て,出口横の階段を上がって屋上に出る。絵葉書や観光案内書などを並べたミニショップと鉢植えの花が並べられていて,ちょっとした憩いの場となっている。ここからのポタラ宮の眺めもなかなかのものである。

 ジョカンジ(大昭寺)の見学を終えて外に出て気がついた。
 門前に,唐蕃会盟碑(とうばんかいめいひ)が建っている。
 822年に唐とチベットの間で講和条約が締結された際,条約の文面を刻み,両国の首都長安・ラサと,国境の地日月山の三カ所にたてられた石碑で,長安(現西安)と日月山に立てられたものは失われ,ここジョカン寺の門前に立てられた碑のみが現存している。
 高さ約2m,幅約1m,厚さ30cmの会盟碑は,1300年の風雪に耐えて,いまもしっかりと大昭寺の前に立っている。漢語とチベット語で書かれた碑文は,まだ判読可能だという。

 両国の全権による講和内容確定の経緯と,講和の内容としての国境の確定・使節往来の際の迎接の手順・犯罪者の引き渡し・両国が紛争時に武力を発動しないこと等が記されているという。条約の文面が,両国の国号や君主の称号を列挙する際の表現など,、両国に上下をつけぬよう配慮された表現となっている点が特徴的でり,現中国政府のの云う「チベットは昔から中国の一部であった」という主張を否定するひとつの証拠品ともなっている。

 この唐藩回盟碑は何故か石垣に囲まれていて,人々の目に入らないようになっている。わざとらしい?  
八角街(バルコル)って浅草寺の仲見世みたい!

  ジョカン寺の周囲はチベット仏教徒憧れの巡礼路であるとともに,生活物資・仏具・お土産まで揃う青空商店街
(バザール)でもある。

 携帯マニコルを廻しながらバルコルを回る巡礼者に混じって,時折,五体投地の巡礼者がやって来る。
これに観光客や買い物客も加わって皆で時計廻り,1日中人の流れが絶えない。

 バルコルには,2-3階建ての住宅がぎっしりと立ち並び,1階部分の商店に露天も加わり一大商店街を形成している。巡礼者,買物客,商人,大道芸人,物乞いなど様々な種類の人々で終日ごったがえしている。日本の門前町のような所で,さしずめ浅草の仲見世?善光寺の参道?といった感じである。
 一歩横道に入ると,そこはまさしくチベット!伝統的な住居や市街が昔のままに保存されている。

 露天で売っているものは,玉石混交かつ雑多。買う気なら言い値の3割くらいの指値から始めるべきである。細工物・日用雑貨・骨董品・チベットの民芸品などなど,目に付いたものを列挙すると
  線香,指輪(トルコ石・山サンゴ・パールetc),ネックレス,テンジュ(魔よけの装飾品),腕輪,袋物,イヤリング,お経,腕時計,Tシャツ,ズボン,セーター,ヤクの毛皮,携帯マニ車,杖,布地,仮面,CD,カセットテープ,ダライラマの写真,数珠,鏡,太鼓,曼荼羅,笛,帽子,ベルト,ナイフ,茶碗,御椀,仏具,仏像・・・・・・

 わたしは,何も買わなかった。いずれは,ガラクタになってしまうことを先刻承知であるから!
 
 
 

八角街 ありとあらゆる雑貨が並ぶ露天商 五体投地してバルコルを回る巡礼者
 
  夕食は,八角街で,チベット料理を!

 店の名前は,「リズム オブ チベット」
ツァンパパ
トホホ! こんなきれいな格好にしてしまっては,
ツァンパの味がしないよ!
ヴァイキング式のチベット料理店である。
今夜は,高地ラサにも身体が慣れてきたので,ビールを頂くことにした。(中ビンで1本10元)

チベット料理というふれこみだったが,それらしき食べ物は,「ツアンパ」と「モモ」と「バター茶」と「ヤクのヨーグルト&チーズ」だけだった。
 でも,初体験のバター茶の味は,ややすっぱい,麦焦がしの風味もあって美味しい! やがてチンコー麦からつくったチャン(地酒)も出て盛り上がる。
 仕上げはチベッタンダンスショー。

 美味しい夕餉を楽しく戴くことが出来た。
 

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