[プロローグ] [2] [3] [4] [5][6] [7] [8] [9] [10][11] [エピローグ] 今日は,ゆっくりの出発なので,
ホテル前でお土産品をひろげ出したおばさんたちの様子をカメラに収めていたところ,Gさんが顔を見せて,「時間が余っちゃったどうしようかと思案中!」と言う。
1416年にツォンカパの弟子ジャヤン・チュジエが建立したチベット最大規模の僧院である。
今日も強い陽差しの中,ダラダラした坂道をマニ車をまわしつつ20分ほど登る。 着いたところが,「聖水」の湧き出る谷間。 これより上にはたくさんのタルチョがはためき,はるか上方には,大タンカの開帳台が紺碧の青空を背景に堂々とした姿を見せていた。 あそこまで登ればラサ市街が一望出来るだろうが,これから先は入山禁止。いつのまにか,現れた一人のお坊さんが見張っている。
まず,六百人もの食事をつくる「厨房(台所)」を見学 5~8人で食事の用意をするそうだが,ただいま三人の坊さんが,バターとツァンパを練って「トルマ」という仏像に供えるお供物を造っていた。 大きな竈(6×6m程の竈に10個の焚き口),大きな釜,大きなまな板・包丁,大きなひしゃく・やかん,バケツ大の容器・・・・・ すべてがジャンボサイズである。 僧侶は肉は一切食べない,ツァンパとバター茶が常食だそうだ。 「ツォクチェン(大集会堂)」 183本の柱に支えられた3階建て,面積2000㎡の堂宇。屋根の上には両側に鹿を従えた法輪が,青空に金色に輝きとてもきれいだ。 中に入ると,とたんにうす暗い空間となる。 十一面千手観音,普賢菩薩,地蔵菩薩,弥勒菩薩,文殊菩薩,釈迦牟尼仏・・・・・,3,4,5,7,8,9,13世ダライラマの塑像。 入り口の右手に,お米の入った白い袋が山積みされていた。信者の寄進物との説明があったが,わたしはそうではないと思う。お寺の修行僧は,自分の食料は自分持ちだそうで,それぞれが家から持参すると言う話を聞いたことがあるが,ここに積まれているお米は多分その分だろう。 堂前の広場から,ラサ市街の西半分を見下ろすことが出来る。
「ガンデン・ポタン」 1560年にはダライ・ラマ2世が建立以来,ダライラマ5世までの歴代ダライラマが,ポタラ宮完成まで住んでいた場所である。なおポタンとは宮殿のこと。 5世の玉座や写真,休憩室を見学。 1700年代にチョタンという名のお坊さんが,300kgの顔料を使用して8年がかりで描いたという壁画は素晴らしい,午後見学予定のノルブリンカのタクテン・ポタンの壁画とともにチベット最高レベルの壁画だと言う。
見学を終えてバスに戻る途中,傍らの僧坊でパラボラアンテナの先にヤカンを取りつけた奇妙な道具があった。 太陽熱を集めてお湯を沸かす道具だ。高地なので,水の沸点も低いチベットでは薄い空気を突き刺して刺し込んでくる強烈な太陽光線だけで湯を簡単に沸かせることが出来るという。 * ラサには,セラ寺・デプン寺と並んでというより,チベット仏教の主流ゲルク派(黄帽派)の総本山としてのガンデン寺(1409年 ツォンカパ自身によって建立)があるが,中国軍侵攻時や文革で徹底的に破壊され,修復工事が始まったものの,まだまだ廃墟という感じだという,市内から45km東,標高4240mの山中にあることもあって,今回の見学先からは外されている。 市街へ戻って,昼食は四川料理。 それほど辛くは無かった。 ここで,8日間コースの面々とお別れ。彼らは夕方の飛行機で北京へ,明日帰国だという。 午後の見学スタート前に,Oさんが,血液酸素濃度を,また測定してくれた。 皆さん,値が少しずつ低くなっているという。わたしも 85/70 で前回より低下。症状としては現れないが,やはり高地の影響をそれなりに受けているようだ。いささか汚い話だが,このごろ”鼻くそ”が溜まってしょうがない,空気のきれいな所に来ているのに変だなあ~と思って,そのことを話すと,何人かの人が「わたしもそうだ!」という。気圧が低いので,鼻血が出やすくなって(といっても滲みだす程度だが),固まって”擬似鼻くそ”となるんだという。
ノルブリンカは, ラサ市街地の西部にあり総面積36万㎡の緑の木立に囲まれている。 1749年から歴代のダライラマが夏の宮殿(4~9月使用)として造営を始めた。 ノルブ=宝物,リンカ=公園の意。 「ケルサン・ポタン」(1751年建立) 四角の石を積み上げて造った3階建て。入るとすぐ”香”のかおりがする,バターの臭いが鼻についていたので新鮮な感じにホッとする。 第7世ダライラマの夏の宮殿である。仏堂・寝室・謁見室・護法神殿・集会殿などがある。護法神殿には,吐藩王朝の王たち・各種の護法神,チベット仏教各派の指導者達が描かれた壁画がある。
「タクトゥ・ミンギュル・ポタン」 ダライラマ14世の夏の離宮(1956完成) タクトゥミギュルとは常に不変という意味。 壁はダライラマが属するチベット仏教ゲルク派の色である黄色で統一されている。 居室(立派な玉座,だが,その主はここにはいない),休憩室,寝室,応接室,バスルーム,洋式トイレ,ラジオ,テレビ,レコードプレーヤー,ランタン風電燈,シャンデリアなどなど,新しい物好きの14世の性格がよく分かる品々が並んでいる。ちなみに,このラジオ,実は映画「セブンイヤーズインチベット」に登場しているとか。 色鮮やかなじゅうたん,最高級技術を駆使した壁画も見ごたえがあった。 現在亡命政府が置かれているダラムサラの郊外にも同名の離宮が造られていると言う。 ダライラマ14世は,1959年3月17日21時,この部屋から脱出,インドへ亡命した。ちなみにダライラマ14世は1935年生まれ現在72歳である。 そのいきさつを記しておこう。 「1959年3月1日。ダライラマ14世は,当時の人民解放軍司令官だった譚冠三(たんかんさん)将軍から観劇の招待を受けたのだが,チベット人達はそれがダライラマを誘拐する口実であると感じ取っていた。すでにカム(東チベット)のある高僧が同じような招きに応じてそれっきり帰ってこなかった前例がある。 大事な「ギャワ・リンポチェ(ダライラマ)」を中国人の手に渡すわけにはいかないと,観劇日の当日である3月10日,夜明けと共にラサ市から人々の群れが流れ出し,9時までに約3万人がノルブリンカを取り囲んだ。人々は口々に「プー・ランゼン(チベット独立)」を叫ぶ。ラサ民族蜂起の発端である。 一方,人民解放軍はラサ谷を囲む地域に大量の砲兵隊を配備する。正面衝突を避けるため,ダライラマはノルブリンカの前に集まっていた群衆に解散するように説得するが,不安と中国に対する憎しみを抱えた群衆は言うことをきかない。3月17日,最初の砲撃が開始された。そしてその夜、ダライラマは兵士に変装してノルブリンカを脱出し,勇猛果敢なカンパ族の戦士が中国軍とゲリラ戦を闘いながらインド国境まで護送された。 3月20日に本格的な砲撃を受けたノルブリンカは,瓦礫の山と化し,数百の死傷者によって血に染まった。 そのノルブリンカも今ではすっかり修復され,公園になっており,一般に公開されていている。
日本語のオーディオガイドがあった! 驚き~!(@_@;) ノルブリンカのほぼ対面にある西蔵博物館は,チベットの文化,歴史,自然に関する品々が陳列されている。 なんと,日本語のオーディオガイドを貸し出してくれた。中国もここまで進んだかと驚くとともに,故宮や,西安博物館でも始めてくれたらいいのになあ~ また行きたくなるよ~と,独り言。
各自で1時間だけの自由観覧開始。 1階は,数万年前からチベットに人が住んでいたという痕跡,旧石器時代,5000年前からチャムド地方で農業が行われていたことを示す石器・土器,農具,装飾品。 2階には, チベットの歴史の展示。 吐藩王朝~モンゴル支配時代の文書・印綬etc~ダライラマ時代~17か条協議調印書(1951.5.23北京)。 後半は,いささか,中国政府のプロパガンダ臭プンプン チベットの文化の展示 ● 紙,経本,筆記具,古典文献(歴史・文学・占星術・天文学・地理学・言語・絵画・宗教・哲学・・・) ● 仮面踊りの仮面と衣装,音楽,楽器 ● チベット占星術 ● チベット医学 文献・医療器具・人体図・薬草・薬鉱物・・・ ● タンカ,仏像 極彩色の世界がひろがるチベット仏教芸術に感嘆! ● 民族衣装 3階には,チベットの自然が展示 植物,動物(ヤク・チベットカモシカ・ノロ・バ・猿・雪豹・・・),鳥類の標本,自然地形の写真,岩石・鉱物の標本展示 これだけの展示を1時間で,見終えるのは至難の業である。 わたしは,ひとりでホテルまで帰るから,ゆっくり見ていくとお断りして,見学を続けることにした。 西蔵博物館の見学を終えて外に出ると,抜けるような晴天,気温は28℃なれども乾燥しているので汗は掻かない。 夕食は18時からだというので,まだ時間的余裕がある。朝,ラサ駅までタクシーを飛ばした時から,気になっていたラサ川(キチュ川)の畔にある「青蔵公路記念碑」まで歩くことにした。着いて見ると,入場禁止の張り紙が立っていて中には入れない。がっかり! 「胡耀邦 1980.12.25」の著銘がある記念碑の写真を撮って帰還。
夕食は,ホテルに程近い民族北路の一画にある「東方餃子店」で,幾種類もの水餃子をたらふく食べて皆さんご満悦。
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