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旅行記(エピローグ )
 帰  国

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 05:30 起床
 06:00 朝食
 07:10 ホテル発

  ロビーで,これから「西寧」~「ゴルムド」~アルティン山脈を越えて~「タクラマカン砂漠 いわゆる西域南道」に向かうというグループにお会いした。ひと昔前には,”冒険”とさえいえるルートである。いまは,道路がよくなったのであろうか?一行の安全を祈って握手して別れる。

  北京空港の出国カウンターは多くの出国する中国人,帰国する外国人旅行者で,大混雑,成田の比ではない。成長めざましい中国のパワーをあらためて感じる。

 
     えっ 中国もここまで変わったか!
 
 カウンターのデスクの前に今まで見たことの無い器械が据えつけてある。
数字の表示板と押しボタンが4,5個。ボタンの下に「greatly satisfy」とか「satisfy」・・・・・などと書いてある。イミグレの客に対する対応・態度をアンケートする機械である。 

 09:40 定刻より早めに,エプロンを離れた中国民航 CA925便 ボーイング747-400。搭乗率は7割ほど。
離陸したのが10:10。

 14:05 遅れを回復して成田着。

 強い雨が降っていた。荷物を宅配に預けて,京成特急で帰宅。

 

 いま,マニアの間で話題沸騰の天空列車 青海チベット鉄道を満喫し,20数年来の憧れの地ラサ,チベット高原,ヒマラヤの北麓をゆったりあるいは激しく流れ下るヤルツァンポ河,古い歴史を誇るチベット仏教寺院の数々をめぐって,4000m前後の高地を走りまわり,最後まで酸素ボンベのお世話にならずに元気に帰国できた。

 帰国して,あらためて,本を読み直したりしながら,あまりにもチベットのことを知らなかったことに愕然としている。
 いままで,単に中国共産党政権のチベット侵略は,帝国主義の侵略と全く同じではないかと思っていたが,実態の片鱗を知るに従い,考えが少し変わりそうな予感を感じる。

 ポタラ宮のあの膨大な量の金銀宝石はなんなのか?
一時は中央アジアに覇を唱え,経済的にも文化的にも隆盛を誇った国が,大国の暴力的干渉があったといえ,かくも国力が衰えてしまったの何故なのか?
 人々の生活をないがしろにした,封建貴族と結果的にそれを支えた政教を合わせ持ったダライラマの権力体制に原因があったのではないかとふと思ったりする。

 1949年以降,チベットは中国に支配され,何度も人民蜂起などを起こし,インドダラムサールには独立を宣言するする亡命政府が頑張っている。漢族に対する恨みが大衆に根強く残り,独立運動勢力が潜行して活動しているといわれている。
 一方,中国は,1980年代までのチベットに対する政策の誤りを認識・反省し,いまや,道路・鉄道のインフラ整備,資源開発などを通じて,チベットの中国化を着々と進めている。

 部外者が口を挟むことは慎みたいが,チベットが自主独立する道のりは容易ではない。生き残る道はネパールのように観光立国になるしかないと思われるが,それも自力では果たして可能か?
 中国の一員として経済的発展を遂げる道を選ぶか,それを捨てて,チベット人としての文化・精神を保持,取り戻して完全独立の道を選ぶか! 
 チベット人の苦境は,まだまだ当分は続くしかないのか?
 チベット人の顔に本当の笑顔が戻るのはいったい何時になるのだろうか?

 チベットに10数回も行っているという知人は,「ラサは,もう行きたいと思う場所ではなくなった」と言っている。
確かに,ラサに限らず中国の観光地は,数年で全く変わってしまうほど漢族による儲け主義がはびこっていることを,わたしも感じている。 
 この影響を受けてチベット民族の考え方や文化に大きな変化が表れているようだ。これも人間の活動によるもの,致し方無いことかもしれない。
 だが,スケールの大きなチベットの大自然だけは,人間の手を加えることなく「チベットの風景」として永遠に残して欲しいと切に願う。

 そんな変わらないチベットにまたいつか行ける機会があるかな~ と思いつつチベット旅行記を終える。

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END


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