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旅日記(2)
ベットのはお寺参りから)まる

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ツォンカパ生誕の地,タール寺(チベット名クンブム寺)へ

  今朝も雨模様! しかし次第にあがりそうだと言うので,急坂・急階段のある見学場所を後回しにしてタール寺に向かうことに予定変更。46人乗りバスに添乗員・ガイドも含めて20人,一人で2シートを使うというゆったりバス旅の始まりである。この後ゴルムドまで900kmもの長距離移動があるので助かる。
 バスは,雨煙の中,政府の西部大開発の掛け声で建築ブームに沸き建つ市街を抜けて,夜来の雨でところどころぬかるんだ道を進み大豆・小麦畑が広がる高原(標高2650m)の中に突然現れたホテルやレストランが建ち並ぶ集落(クンブム寺の門前町といった感じ)に到着(09:10)。バスから降りて少し歩く,既に雨があがっていた。 (^_^;)

 タール寺(塔児寺)は,西寧市の西南25km湟中県魯沙爾鎮(ルサール)にあるチベット仏教四代宗派(カギュ派・ニンマ派・サキャ派・ゲルク派)のひとつゲルク派の大寺であり,チベット名クンブム=チャンパリン寺(クンブムとは十万の仏を意味すると言う),標高2600m程の高原に建っている。(創建1560年 ツォンカパの母が,我が子のことを思って,1379年この地に1基の塔(聚蓮宝塔)を建てたのがはしり)
またこの地は,四代宗派の中で最も歴史が新しいゲルク派の開祖ツォンカバ(1357ー1419)の生地と知られる。
 青海地方は,古来よりチベット・モンゴル・中国という三つの民族の文化が接する地点として,また交通の要衝であったためクンブム寺は,多くの巡礼者を集めて賑わったという。当初は数人の僧侶がいるだけであったが1723年ダライラマ3世が立ち寄り現在見るような僧院の基礎が確立された。以前は青海一帯に絶大な影響力を有し4000人以上の僧侶がいた。1723年青海ホショト壊滅の折,甚大な被害を受けまた中華人民共和国になってからの宗教否定・文化大革命で貴重な建造物が破壊されたが,’80年代以降立ち直り現在は14人の活仏,500人以上の修行僧が生活している。
 
 最近の中国政府とクンブム寺の関係は下記サイトでその様子が垣間見ることができる。
   ○ 中国のクンブム寺院に政治が介入
   ○ 僧侶と中国警察の共存は困難
チベット仏教最大規模のタール寺。
純金の屋根がまぶしい。
伝統的なチベット建築の伽藍や僧坊が
谷間を埋め尽くすように建ち並ぶ

 如来八塔(八仏塔)
タール寺門前に並ぶ如来八塔
仏陀の八大功徳を象徴しているとか
 入場料80元を支払って入ってすぐ公園広場みたいな場所に建つのが八つの仏塔。お釈迦様の生誕から涅槃までの一生を表しているという。サンスクリッド語でいろいろ書いてあるが意味は理解出来ない。(1776年創建)(1961.3.4付けで全国重点文物指定)。 広場の真ん中に白いペンキを塗りたてたような感じで並んでいて,つい最近造られた様な安っぽい感じがする。

 小金瓦殿・
 両側テラスに動物(ヤク・鹿・馬・牛・羊・・・・)の剥製が並んで我々を見下ろしている。悪いことをすると動物に襲われますよ!という戒めであると言う。動物をダシにしてあくどい商売をしていた何処かの国の社長さんにみせたいよ〜ん!

 祈祷殿
 病気がちだったダライラマ7世の長寿を祈って建てられた。観音菩薩,羅漢など木像がいっぱい並んでいる。ここはツォンカパの母がツォンカパのために遠くから水を汲んできて休んだ場所で,境内には母が休んだという憩石が安置されている。境内に白檀の木があり白い花を咲かせるので花寺と言われるようになった。(1717年建立)

 大経堂
 集会所・学校・文字通り坊さんがお経を唱える場所,一度に2000人が座れるというタール寺で一番大きな建物である。2階建ての建物に囲まれた中庭があり,建物の壁には大きなタンカがたくさん描かれている。門の脇には五体投地を行うスペースがある。Sさんがトライする。なかなか堂にいっている,たいしたもんだ。感心かんしん!五体投地は,一生に10万回行わなければならないし,一度に奇数回行う決まりがあるという。
 お堂の中に入ると太い柱がたくさん立っている(全部で108本)柱の周りには絨毯が巻きつけられている。内モンゴルから贈られた大きな絨毯を切ったものだという。正面にはダライラマとパンチェンラマの宝座,パンチェンラマ9世と10世の写真,住職の座席,ツォンカパが16歳の時の像が並んでいる。
 右側の壁には4つの大タンカが収められた木製の長い箱がある。その前の壁には立体的に見える黒真珠と顔料で作ったという堆繍(たいしゅう)と言われる絹の刺繍(一種のキルティング)の18枚のタンカがある。

 お堂の左手には,銭湯の下駄箱みたいな棚(例えが悪くてゴメン!)に大蔵経が整然と収められている。、弥勒菩薩の像,1000体の仏像,バターの灯明の列が並んでいる。
 高僧の座る主座近くに”猫”が一匹,聞けばネズミ捕りの為に飼っているとのこと。それにしてもヤクバターの臭いが強烈だ。

 大金瓦殿
 屋根瓦が金色。ここがクンブムの本殿だ。高さ12.6mのツォンカパの大銀塔が鎮座する。ここでも幾人もの人が熱心に五体投地を繰り返していた。(創建1579年)

熱心に五体投地を繰り返す!
 弥勒仏殿・九関殿(文殊菩薩殿)
 ツォンカバは文殊菩薩の化身?

 酥油花院(すゆかいん)(英名:yaku butter scrupture temple)
 中央にツォンカパ像。仏が奇跡を示したことを記念する正月15日(西暦では2月12日)の祭に”トルマ”と呼ばれるバター細工が,ツォンカパ堂のまわりを飾る。毎年,芸術部の坊さん達が1チーム30人ほどで製作しコンテストテストを行ない1位と2位の作品がここに展示されているという(年末に燃やされる)。
 題材は主として仏教説話やチベット史から採用される。展示ケース内はエヤコンが設置してあり,バターが溶けない工夫がされているとか,でも停電になったらどないな事になるんだろうか?誰かが心配していた。
 バター細工は,ラサで始まりここ,クンブムで盛んになったそうだ。ほかの寺でも作られているがタール寺のトルマが最も見事で,先ほどの堆繍,大タンカとともにタール寺の三絶と言われているそうだ。
四月十五日(西暦5月12日)の午前10時に大タンカが開帳される。
(「図説チベット紀行より)
まるで桃源郷だね!ダライラマ14世の生家

 さて,タール寺の門前町の一画にある中華レストランで昼食。ここの廊下の壁に巨大な地図が架かっていた。仔細に見るとここ西寧辺りは,宇都宮・郡山付近と同じ位の緯度に相当することが分かった。

 これから毎日食する事になる中華料理と軽くコップ半分ほどのビールで簡単ランチを済ませて出発!(12:40)
 朝来た道を戻って左折し今度は正真正銘のガタガタ道だ。途中,干上がって水が溜っていないアースダム,(堪水率10%?)や,版築で造られた土塀に囲まれた陸屋根の日干し煉瓦で造られた民家,それに比べて立派なコンクリート造りが目立つ小・中学校などを眺めながら走ることおよそ80分,着いたところが標高2800mにひろがるのどかな山村,タクツェン村という。(14:10)
 子供たちも大人達も道端に座り込んで日向ぼっこをしながら談笑している,すぐ南には標高6000m級の頂きに白雪を載せ”青海省南山”と呼ぶという山々が指呼の間に望まれる,稜線は涅槃仏の形に見えると言う。「こんなところでのんびり暮らしたらさぞ長生きするだろうな〜」と思ったほどまことに桃源郷である。

おばあさん・お母さん達は道端で日向ぼっこ? 遊んでいる子供たちの笑顔はとても自然で可愛いい。
 
 
 タクツェン村からは白雪を頂く

 青海南山山脈の山並みが望める。

 名前は”青砂山”?
こんな程度の山はゴロゴロしているのでいちいち名前は付いていない,皆さん自分の名前をつけてもいいですよ!とガイドの洪サンは言う。

2,3分歩いた丘の上に,ダライラマ14世(1935ー  )の生家がひっそりとしたたたずまいを見せていた。
ここには,ダライラマの甥が住んでいて,中を案内してくれた。
 四角い庭の周りにレンガ造りの建物が並んでおり,以前小学校に使われていた建物で,このうちの一室がダライ・ラマ14世の生まれたところだとの説明あり。ダライラマの寝室・父母の写真などが飾ってある。文化大革命の時破壊されたというから当時のものはほとんど無いものと思われる。
 庭の正面奥には,またりっぱな門がありその奥の庭には,天と地をつなぐ柱タルポチェが建っている。その奥には1986年に政府の援助で建てられたというりっぱな2階建堂宇があり,十一面千手観音像のタンカが祀られた仏壇,部屋の中央には大きなマニ車が置かれていた。
 

 ダライラマはチベット仏教ゲルク派の法王で,代々転生者が相続する。
16世紀初頭,モンゴルの地にチベット仏教を再び興隆させたアルタン=ハンは,チベットの高僧ソナムギャムツォ(1543ー88)と会合し「持金剛仏ダライラマ」という称号が献じられた。これがダライラマの始まり。後に二人の前世者も遡ってダライラマと呼ばれるようになったのでソナムギャムツォはダライラマ3世となる。”ギャムツォ”(大きな海)をモンゴル語訳した”ダライ”と”師”を意味するチベット語の”ラマ”を組み合わせた生まれた称号である。以後民族を越えて人々の崇敬のよりどころとなっている。
 1642年ゲルク派は,政敵のカルマ派を破って中央チベットを制圧し,時の活仏ダライラマ5世(1617−82)は,僧王として,政教両面にわたってチベットを支配する事になる,ダライラマ政権政治と宗教の両方の最高権力となるダライラマ時代(1642−1959)の到来である。
 ダライラマ14世は13世の死後,幾つものサインを元にタクツェンに住む4歳の子供が認定された(1939)。1959インドに亡命,ヒマーチャル=プラデーシュ州ダラムサラに亡命政府を樹立。1989.10ノーベル平和賞受賞。

シャッチェンゴンパへ
 

 14:55 ダライラマ14世生家を後にし,ガタガタ道を更に南下〜北東に向かう。標高3000mを越える高原を登ったり下ったり,大きな窪みにバスが腹を擦らないか?道路を横断している水道管に引っかからないか?などなど心配しながら「平安県津名田村」,「黎明村」,「紅崖村」,「寺台村」,「三合村」などという標識のある土地を走り抜けること約1時間。。
 16時,小川のほとりでトイレ休憩。沈丁花に似た花がいっぱい咲いている。
草沈丁花 地元では”マントウの花”と呼んでいる

 「峡群寺森林公園」と書いてあるゲートを抜けて,16:10 バスを降りてシャチュン・ゴンパに向かう。
およそ15分ほどの登り道である。馬を引き連れたおばあさんが「乗っていかないか!」と声を掛けてくるが,全員歩き出す。周りは麦とジャガイモと菜っ葉畑,道路の脇に珍しい花が何種類も咲いている。これらをカメラに収めていると,最後尾となり,一行に追いつく為に常に早足で登らなければならない。標高2800mでは,さすがのわたしも息が切れる。
 団体ツアーでは,落ち着いて写真を撮っているわけには行かない,花の写真などは,マクロレンズに換えてじっくり撮りたいのは山々なれどそんな余裕が無いのでついついズームレンズで望遠側にしてごまかすので,手ぶれ写真が多くなって,やむなくボツとなったした花たちが結構多い。

本 堂 急崖に点在するお堂群

 10分ほどで観望亭風の建物を通過してゆるい下り,さらに少し登ってシャチュン・ゴンパの山門に到着。
 シャチュン・ゴンパ(夏宗寺)は1359年,ゲルク派の開祖ツォンカパの師匠トンドゥプリンチェンが建てたカギュ派の寺で,ツォンカパが3歳のとき修行を始めラサに行く16歳まで過ごした由緒ある寺である。したがってゲルク派発祥の地ともいえる。
 本堂前には2本の”タルポチェ”が立っていて”ルンタ”(風の馬)がはためいている。本堂の中の正面にはタンカ,両側には智恵の神文殊菩薩や阿弥陀仏が並んでいた。盛期には,50人の坊さんが居たというが,現在は3人だけ!
 さて,これからが大変,本堂裏手の狭い急階段を登り千手観音やらナントカ菩薩などいろんな仏さんがおわす小さなお堂を幾つも見学しながら息を切らしながら登る。山形県の”山寺立石寺”のミニサイズといえば想像できるかな?
 頂上(標高2900m)は,ナイフ状の小尾根,向こう側は断崖絶壁で数十メートルの谷になっている。尾根の先端付近に鐘楼が建つ。ここで,ツォンカパは修行したという。偉くなる人はちがうね〜。
高所恐怖症気味のわたしは,ちょっと休憩して早々と下りにかかる。
   
 17:30 来た道を戻って西寧の町へ向かう。
 19:50 ホテル帰着→そのまま夕食。 

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