春の夕映え

辻邦生を特集したムック『永遠のアルカディア』で多くの人が『背教者ユリアヌス』を絶賛していた。これまでは彼のエッセイばかり読んできたけれど、思い切って文庫本を4冊買って長編小説を読みはじめた。

厚めの文庫本、三巻の『神曲』を読み終えるには3ヶ月かかった。今度は四巻だからもっと時間がかかるかと思ったところ、物語に引き込まれて、スイスイと読み進めることができた。第一巻を読みはじめたのは3月6日。そうして読み終えるまでにひと月もかからなかった。

もともと辻邦生の文章は読みやすい。エッセイ集を読んだときには、静かに流れる山水のような彼の文体にまず魅了された。前にも書いたかもしれないが、辻の文章は滔々と流れていくので、断章を拾って集めてもあまり面白くない。アフォリズム的でなく、極めて散文的な独特な文体で、切り刻むことを許さない。

例えば、次のような情景描写。

   前年の五月にそこをたつとき、彼は、西からの微風に送られてくる雲が、まるで静かな羊の群れのように、青空をのんびりと流れるのを、河のほとりで眺めたのだった。ちょうどリラが紫の花を葉群からのばし、明るい、輝かしい光のなかでゆれていた。森のかげには、光の斑点かと見まがう白い花の群が咲きみだれてていた。東方の乾いた激しい風土に育ったユリアヌスにとって、こうした幸福感にみちた、おだやかな、明るい風物は、純粋な光で織りあげた織物を見るような気がした。空気はひんやりと澄んで、雲も、木立も、繁みの中の薔薇も、かぐわしい鮮明な輪郭をもっていた。
(第八章 ガリアの東)

こんな風に、辻の文章はサラサラと清流のように流れて、途中で端折ることができない。

また、辻の文章にはリズムがある。「お、筆がのっているな」と読み手にもわかるほど、いい調子で文章が進む。

文庫本4冊で、短いエッセイでは味わえない辻邦生の芳醇な文体を堪能することができた。


本書の感想。

終章までを読み終えて、三つ、「やはり」と感じることがあった。

ギリシアが、やはり、辻文学の原点

これが本書を読み終えたときに持った一つ目の感想。

これほど複雑で長大な物語を、これほど楽しそうに執筆できるとは、やはり、辻邦生は書くことが本当に好きなのだろう

これが第二の感想。これだけの大著をすべて鉛筆で書いたことを考えると、機械で執筆している現代の作家たちとはまったく文学世界が違うように思われる。

読みやすい文章でありながら、難読だったり滅多に見聞きしない語彙が駆使されている。その一部分を拾う。

弑逆、窶れ、龕、譫言、城砦、鬣、喊声、掃蕩、指嗾、眇、乱杭歯、別墅、一揖、鵝毛、窖、糧秣、手を拱く、久恋、疣、蠱惑、阿諛、扈従、怯懦、劫掠、駘蕩、僻遠、干戈、膺懲、闡明、索莫、弥縫策、森厳、灌奠、悖徳、委曲、瀆聖、蹌踉、倉皇、広袤、殷賑、遊弋、鯨波、潰走、輜重、是非曲直、晴朗

これだけの語彙を自在に扱えることにまず驚かされる。そしてこれらの複雑な漢字をすべて鉛筆で筆記したことにも驚かされる。さらには、このような豊富な語彙が文体の格調を高めながらも、物語を読みすすむには何の障害にもなっていないことにも驚かされる。

そして三つ目。

やはり、辻は「世界文化混淆」(アレクサンドリア)と呼ぶ多文化社会に対し積極的で楽観的な希望を持っている

物語のなかのローマは、広大な版図を持ち、多民族で多文化の世界。特にガリアはローマとは場所も文化もかけ離れた異郷だった。ユリアヌスはガリアを平定し、それだけでなく、ガリア人の尊敬も勝ち取り、異郷で皇帝に推戴された。史実に基づいているというだけではなく、辻が繰り返し説く多文化世界の理想がここに描かれている。

例えば、次のような叙述にも彼が理想とする「世界文化混淆」が描かれている。

   ゾナスは著述に疲れると、エデッサの町に出て、露天市に集まる種々雑多な人種を注意深く眺めた。そこには頭巾をまきつけたアラビア人もいれば、眼の青く鋭いアルメニア人もいた。またペルシア国境をこえてきたヴェタイ族やセゲスタン族の遊牧民たちも、その雑踏のなかにまじっていた。露天市には赤、青、黒の布地、羊肉、さぼてんの実、宝石、香料、葡萄酒、オリーヴ油、革、鉄具、穀類などが物々交換されていた。
(第九章 ルテティアの丘で)

多様な人々、多様な文化、多様な品々。辻邦生の描く世界は色彩豊か。人々は多種多様な文化の混ざり合う世界を謳歌している。


長編小説を読んでいると、次第に主人公に感情移入してしまう。

本作では、ユリアヌスがたどった過酷としか言いようのない宿命に、そのスケールはむろん違うとはいえ、我が身を重ねることがあった。

いったい私はどこにむかって流れてゆくのだろうか
   彼は自分の前をじっと眺めながら、そうつぶやいた。むろん幼少時から環境の激変に慣れていたユリアヌスにとって、自分が突然叛乱の首謀者にまつりあげられたとしても、それを怖れたり、不安がったりする理由はなかった。ただ彼は、自分の身を包んで流れるこの宿命の道すじが、いかにも謎めいた、奇怪なものに見えたのである。
「私は決して流れに身をまかせたのではなかった。むしろそれに逆らおうとさえしてきたのだ。しかしそのたびに私のやることは、宿命のこの奇妙な動きを駆りたてる結果にしかならなかった⋯⋯
(第十章 東方への道)

加えて「むしろユリアヌスは、自分が、そうした人生の醜悪さ苛酷さを早くから味わわななければならなかった運命にあったことを残念に思った」ともある。

こういうユリアヌスの独白に共感しないではいられなかった。

高収入の、いわゆる新中間層から精神障害者非正規雇用の身に落として、これからどうなっていくのか、気に病んでばかりいる。

我が身を振り返ると、組織の中の人間関係や「人間の醜い葛藤や裏切りや冷酷な仕打ちや燃えるような情熱」に疎く、組織のなかで起きる気まぐれやはかりごとに気づくことができなかった。私もその都度、最善の選択をしたつもりでいても、結果はいつも、「すべて後の祭り」だった

もっとも、皇族のユリアヌスとは違い、私の場合、運命という深遠なものではない。さまざまな思惑の入り混じった他人の利己的な行動と自分の思慮の浅さと愚かな欲望の深さとが自己崩壊を引き起こした、間の抜けた小事件でしかない。

宿命に逆らい、自分の信念を貫いたユリアヌスとは比較にもならない。それでも、次々と襲いかかる不幸や陰謀に苦しむ主人公の姿に、読み進めながら辛い気持ちになった。


最後に、読後に残った疑問。

本作の主人公ユリアヌスは背教者。2代前のコンスタンティヌス大帝の時代にローマ帝国の国教となっていたキリスト教を嫌悪し、ギリシア・ローマの宗教世界に憧れた人物。

なぜ、そういう人物を主人公に据えた小説を書く気になったのだろう。この疑問は読む前から抱いていて、読後も答えは得られなかった。

「背教」はあくまで小説のモチーフであり、辻邦生の考え方と直結してはいないと見るべきだろうか。それとも、ユリアヌスの次のような言葉に、辻邦生個人の思いも込められているのだろうか。

彼ら(キリスト教徒)の文章には、何の優雅な配慮もなければ、古代詩文の引用もなかった。ごつごつした、無学そのものの、その癖、妙に熱っぽく、自信に満ちた文章が、締まりなくつづいているだけだった。
(第十二章 ダフネ炎上)
「問題の核心はただ一つ、キリスト教をいかにしてローマの秩序に服させるべきかーーつまり、熱狂的な絶対探求者たちに対して、いかにして地上の相対的な調和感覚の意味を納得させるか、ということです。」
(第十二章 ダフネ炎上)

この激しいキリスト教批判は辻自身の思いだろうか。それとも、登場人物の台詞として、創作し、彼らに言わせただけのものだろうか。


辻邦生の周りにはキリスト教徒が少なくなかった。最も身近なところでは森有正、一緒にフランスへ留学した加賀乙彦。病床で洗礼を受けた福永武彦。私の知るかぎり、辻は洗礼を受けていない。

キリスト教徒の友人が多いなかで「背教者」の小説を書くことに何か特別な意味があったのだろうか。「背教者」を英雄として描くことは、キリスト教徒たちへの「挑戦」とは映らなかったのだろうか。自著解題でも、その点には触れられていない。

いずれにしても、ユリアヌスの口を通して示されるキリスト教批判は現代の宗教に対しても鋭く突き刺さる。

現実社会での権力闘争、派閥抗争。排他的で偏狭な教義

本書はキリスト教界ではどのように受け止められたのか。もっと知りたい気がする。

本書を読みながら、シェンキェーヴィチ『クオ・ヴァディス』のことを思い出さずはにいられなかった。時代はさらに遡り、紀元1世紀。皇帝ネロがキリスト教を大弾圧していた時代。登場人物が魅力的で、物語は壮大、幾度となく訪れる危機と脱出。そしてロマンス。一つの時代の転換期という意味でも共通点がある。

辻は、書評で『クオ・ヴァディス』を高く評価していた。『クオ・ヴァディス』はキリスト教がまだローマで禁教だった時代に信仰に生きた人々を描いた小説。キリスト教に対して『背教者』とは対極に位置する。とすれば、辻邦生には『ユリアヌス』において宗教論争を挑む意図はなく、あくまでも時代の転換期に生きた一人の英雄の生涯を描いた創作と考えるべきなのかもしれない。

この点について考えるにあたり、一つヒントになりそうなことがある。それは本作が辻の恩師、渡辺一夫に捧げられていること。キリスト者の森有正にではない。

渡辺一夫もキリスト者ではない。ただし、彼はキリスト教の精神も含む「ユマニスム」に傾倒していた。辻邦生もユリアヌスとローマ精神を通じて自由と寛容を柱とするユマニスムの精神を描いた、とは言えるかもしれない。


登場人物の性格描写が鮮やかで魅力的であることは各巻巻末の解説でも触れられている。とりわけディアとエウセビアは非常に魅力的に造形されている。彼女たちとの間で交わされるプラトニックな恋愛は美しい。

家族のいないユリアヌスにとって、ディアやエウセビアは、母であり姉であり、妹だった。そのような対象との甘美で清純な関係が美しく描かれている。

ユリアヌスがエウセビアを想う場面は、まだ若い頃に憧れた女性のことや、彼女たちとのささやかな交際を思い出しながら読んだ。


最後にユリアヌスの言葉をもう一つ。

つねに言葉で戦い、言葉で人々の愚妹、冷酷、残忍、軽薄、軽信、自惚、貪欲をあばくのだ

これは辻邦生の「ペンを剣にする」姿勢を代弁しているように思われる。彼は文学を娯楽としてのみとらえていたのではなかった。歴史小説にせよ恋愛小説にせよ、辻邦生は現実世界から目を離すことはなかった。かといって「知識人」と称して政治活動をしたわけではない。

彼はどこまでも言葉の力を信じていた。日々起きている出来事を活写するコラムを書き、現実世界に対しても「言葉」で積極的に発信した。

そういう現実感覚は、歴史小説をより臨場感あふれる、リアルな作風にしていると思う。

辻邦生はつねに書く人、書きつづける人だった。


さくいん:辻邦生森有正加賀乙彦福永武彦渡辺一夫『クオ・ヴァディス』