逆光の樹木

小川洋子のエッセイ集『妄想気分』に辻邦夫夫妻のことが書かれていた。辻邦生は、『庭』を始めた2003年に、エッセイ集を続けて読んでいた。その後、『西行花伝』など小説にも挑戦してみたけれど、読み切ることはできなかった。小説を読んでいないのでは辻邦生の読者としては失格だろう。でも、辻邦生のエッセイは好きなことに嘘はない。その後、大きな影響を受けた森有正と出会うことができたのは、『森有正ーー感覚がめざすもの』を読んだおかげだった。

久しぶりに辻邦生の名前を読んで懐かしくなり、図書館で最後のエッセイ集と佐保子夫人の回想集を借りてきた。


『微光の道』は文学への深い愛情が込められている。読書家ではない私には知らない小説ばかり並んでいる。こういうところに、読書を中心にした旧制高校にあった教養主義の一端を見て取れる。無数の小説の中で読んだことがあるのは『クオ・ワディス』くらい。(ただし、私が読んだのは福音館版で辻が解説を書いているのは岩波文庫版)それでも稀代の読書家の推薦なら、いつか読んでみたいと思わせる巧みな書評が静かな書斎のように並んでいる。


かつて辻邦生のエッセイを読んだとき、「この世界は≪私の世界≫、私に包まれて存在する世界」とという一種の唯我論と「世界文化混淆」(アレクサンドリア)という開放的な文化観が彼の思想の主柱であると考えた。

本書にも簡潔にそのことが書かれていたので引用しておく。

まずは〈美〉について。この考えが彼の創作の基盤になっている。

   このギリシア旅行は〈美〉についての私の考えを根底から覆した。それまで私は、この世があって、そこに美しいものがあると思っていた。しかしパルテノンの神殿を仰いだ瞬間、最初にあるのは〈美〉なのであって、この世は美の秩序の中に置かれていることを啓示された。
(「小説へと目覚める過程を再認識した作品 『見知らぬ町にて』」)
(前略)パルテノンの啓示のあと、この世があって<書く>のではなく、<書く>ことによってこの世が秩序を持ちはじめる、と確信できるようになった(後略)
(「小説へと目覚める過程を再認識した作品 『見知らぬ町にて』」)

「世界文化混淆」について。

   かつて古代地中海文明が混淆し、影響し合って、新しい文化の国際形態が生まれたとき、人々はそれをアレキサンドリア時代と呼んだが、九〇年代は世界のアレキサンドリア時代にむかって人々が国境線を排除してゆく時期になりそうな予感がする。外国対日本という考えももうそろそろ時効にしてもいいのではないだろうか。(「アレキサンドリア時代の予感」)

この二点は辻の師の一人である森有正の考え方とは反対の認識であることに驚かされる。このことは辻のエッセイ『森有正ーー感覚がめざすもの』の感想に書いた。

森有正にとって「美」とは研ぎ澄まされた「作品」の中に、すべての批評や名声を削ぎ落としたところに存在する。それを認識するためには自らが単純な感動である体験から脱皮して己の感覚を経験に深めなければならない。「美」は発見され定義されることを待っている。それを感得するためには自分を鍛えなければならない。

そして、あらためて指摘するまでもなく、日本文化とヨーロッパ文化のあいだの葛藤は彼の生涯のテーマだった。

この違いは、二人の個性の違いでもあり、時代の違いでもある。高度経済成長期を過ぎた1990年代まで創作活動を続けた辻の文章がそれを証している。

言うまでもなく、これは違いであって優劣ではない。


優れた表現者のそばで暮らすことは貴重な体験であると同時に非常にストレス過多の生活でもある。手塚治虫の評伝を読んでも、創作のエネルギーにあふれた人のそばにいることは苦労が多いことが想像される。

本書でも、著者は「書くことに取り憑かれた」「書き魔」と暮らす苦労を正直に吐露している。

(母と辻は)二人とも、極度の集中力というのか、全開のエネルギーが燃焼するとき、周りに放射される風圧は並のものではなかった。(「本当のあとがき」)

辻邦生の素晴らしいところはこの創造の果実をパートナーと分け合うことに努めたこと。佐保子は秘書ではなく、創造の源泉であり、協力者であり、最初の批評家だった。こういうところに辻夫妻の仲睦まじさがにじみ出ている。小川洋子も「こんなにも美しい夫婦の姿があるだろうか」と感嘆している。


辻佐保子がパートナーを喪失した悲嘆のなかで書きつづった文章は悲しみと愛情に満ちている。現実を受け入れられない呆然とした状態から徐々に落ち着いて思い出をたどり遺品を整理して、もう実体はない、けれども確実に存在する故人と新しい関係を構築する過程は、いわゆるグリーフケアの実録を見ているような気がする。

思い出に浸りながら時間をかけて遺品を整理する、親しかった人と話し合い悲しみを分かち合う、二人でしたことを一人でもしてみる故人ならどう考えただろうかと想像してみる、など、グリーフケアで推奨されている行動が、本人は特別意識していないとしても、丁寧に、着実に行われている。

グリーフケアが順調に進んでいるのは、周囲に同じように故人を悼む人が多勢いたおかげもある。そうした人たちとの悲しみの分かち合いも詳しく書かれている。

そして、その書くことについても「書くことによってのみ、深い悲しみと空無感がしだいに癒されてゆくという奇跡」と書かれている(「本当のあとがき」)。表現することがグリーフケアになることも、上記の過程とともに専門家によって指摘されている

つまり、本書は優れたグリーフケアの実践書として読むこともできるし、「悲嘆の文学」と呼んでもいいと思う。


ところで、小川洋子は「相手を思う気持を、形のない気配に変えて」の中で辻夫妻の最後の銀ブラについて書いている。そこでは佐保子が必ず覗く店はどんな店だろうと小川は妄想を働かせている。

『辻邦生のために』の中で佐保子は憧れの、それこそ妄想のと言ってもいい書斎について、銀座にある靴屋のインテリアを挙げている(「本の背中」)。辻夫妻が最後のデートで立ち寄った店はこの靴店ではないだろうか。私は勝手にそんな妄想をしてみた。


さくいん:辻邦生森有正小川洋子悲嘆(グリーフ)