日蓮宗妙厳山信隆寺(茅ヶ崎市) | トップへ |
迎春。 あれ・・・少々遅いですか? イヤイヤ本来この辺が新春・迎春でしょう。梅がほころび始めました。古来日本人は「梅にうぐいす」の表現で春の到来を喜んだようです。今は鶯を中々見ることが出来ません。鳴き声すら聴けない人もいるのではないでしょうか?さみしいかぎりです。 鶯の姿は中々見ることが出来ませんが、代わりにお寺の梅には毎年、メジロがやってきてくれます。仲睦まじくつがいでやってきます。「ホーホケキョ」とは鳴いてくれませんが、美しい姿で梅の枝にとまります。お寺にくる目白は、いつの日か「ほう!法華経」と鳴いてくれるような気がします(笑)
ところで「梅に鶯」という言葉に対して最近、「梅に鶯は間違いですよ。あれは目白です。」という声を聞きました。果たしてどうでしょう?「ん~どうでしょう・・・③」 「梅に鶯」は梅の咲く頃に鶯の美しい鳴き声が聴こえる、春の訪れを表現した言葉です。美しく調和するものの表現で、万葉集などには数多く歌われています。
*梅の花、散らまく惜しみ、我が園の、竹の林に鴬鳴くも
梅の花が散るのを惜しんで、私の庭の竹の林で鴬が鳴いているのですね。
作者:小監阿氏奥嶋(あじのおくしま)
*梅の花、散り乱ひたる、岡びには、鴬鳴くも、春かたまけて
梅の花が散り乱れている丘の周りには鴬が鳴いています。春になったのですね。
作者:大隅目榎氏鉢麻呂(おおすみのさかんかしのはちまろ)
春の景色が浮かんできますね。現在よりも遥かに自然との距離が近かった飛鳥・奈良時代の人たちが鶯と目白を間違えることは考えにくいです。もちろん目白が梅にとまる姿は美しく、今はそれが春を感じさせる情景にもなっていますが、「竹の林に、鴬鳴くも・・・」の表現にあるようにその美しい声にうっとりとしたのではないでしょうか・・・いいですよね~ある晴れた日、梅に目白が戯れて、梢に隠れて鶯の声が聴こえる・・・「ホーホケキョ」
おささを一杯ついでおくれやす・・・ まだ明るいのでお茶にしときましょう。みたらし団子なぞは如何かな・・・と、会話が聞こえてくるのかも・・・
先ほどの歌は「大伴旅人(おおとものたびと)」の家で歌われたものですが、この人、本人が残した歌にはお酒の歌が結構あります。
*梅の花、夢に語らく、みやびたる、花と我れ思ふ、酒に浮かべこそ
[一云 いたづらに、我れを散らすな、酒に浮べこそ]
梅の花が夢に出てきて語ることには、「私はみやびな花だと思っています。ですから、お酒に浮かべてみてくださいな。」と。
どうです? まあ、なんとも良い歌ではないですか。 梅の花びらがお酒に浮かんでいる絵がたまりません。梅干しじゃないですよ!焼酎のお湯割りじゃないのですから・・・ 小粋にいきましょう。日本の心です。
季節や自然を題材にした歌は心が健やかになります。皆さんが大好きな桜の歌もありますよ。
*世間も、常にしあらねば、やどにある、桜の花の散れるころかも
世の中も無常です、うちの庭の桜の花もいまは散ってしまったのですよ。
作者: 久米女郎(くめのいらつめ)
無常を歌ったものです。桜の枝を送るラブレターとその返事もあります。
*この花の一節のうちに、百種の、言ぞ隠れる、おほろかにすな
この桜の枝には沢山の言葉が込められています。だから、粗末にしないでください。
作者 藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)
*この花の一節のうちは、百種の、言持ちかねて、折らえけらずや
この桜の枝では沢山の言葉を持ち切れないので、このように折れてしまったのですね。
作者不明
藤原くんのラブレターはたいしたことありませんが、相手の女性は素敵な言葉を返していますね。 昨今は携帯メールで済ませるのでしょうが、どんな感じですかね??? 「ヤバイ 好きかも?」 「マジカル? ちょ~ウケるんですけど~」 って、季節感が全く感じられません・・・
嗚呼 季節を感じて生きていたい・・・ 季節感と言えばお寺の行事には季節感がいっぱいです。暮れのお餅つきはお正月を迎える大事な冬の行事。今年もみんなで突いてたくさんお餅を食べました。前回まではカラムーチョ餅が人気でしたが、今回は塩こぶ餅が人気でした。めったに体験できない行事ですから参加した子供たちも良い体験になったと思います。若いお父さんお母さんも、実は初体験の方がたくさんいました。これも失われつつある日本の文化です。出来る限り守っていきたいですね。そう言えば、お餅つきの時に銀杏の葉っぱを掃除して頂き、ありがとうございました。これでもか、これでもかとひらひら舞い落ちる葉っぱはとても綺麗なのですが、独りで掃除をしていると、たまに「コラ~」と突っ込みをいれたくなります。大掃除もありがとうございました。お寺は皆さんに支えられなければやっていけません。感謝感謝です。
さて、お正月は皆さんどのように過ごされましたか? お正月もまた、季節を感じる大事なひと時です。午前0時に本堂で大鐘の音と共に皆さんと迎える新年は毎年の楽しみです。仏祖三宝、そしてご先祖様に新年のご挨拶をし、皆さんの健康と幸せを祈ります。鏡割りで乾杯をして、恒例のくじ引き大会! これも楽しい時間です。 元旦初のお雑煮は私が作ります。御宝前の仏飯もお正月はお雑煮です。 それぞれの家庭にそれぞれの習慣があるのでしょうね! 昔ながらの古い慣例を残しましょうね。
お遊びの花札なんかをやっている人はいますか? 花札やりますよね~ それこそ「梅に鶯」「柳に燕」・・・実は花札には不思議がたくさんあります。ここではやめときましょう(苦笑)
今年、我が家では百人一首が大流行でした!私以外の家族が百人一首で大盛り上がり。ゲラゲラ笑っていました。 ん・・・? 百人一首で大笑い? 平安から鎌倉時代の「古今和歌集」「新古今和歌集」に納められた優秀な短歌です。 何故?笑う? そう!そうなんです!「坊主めくり」というやつです。坊主をめくると「キャー」とか言うやつです。品がない・・・だから私以外の方々なんです。私はやりません。お正月から「坊主めくり」とは、なんてバチあたりな・・・ なんて失礼な・・・
十二人の僧侶は中々に良い歌を残してます。ジョーカーみたいな扱いの蝉丸の歌も人の出会いと別れ「一期一会」を映した良い歌です。
これやこの 行くも帰るも わかれては 知るも知らぬも あふ坂の関
蝉丸ルール・・・やめてください!!因みに蝉丸は僧侶ではないようですが。
皆さんは「百人一首(坊主めくりも可)」をやったことがありますか? あれ、凄いですよね?およそ千年前(編纂は八百年ほど前)の人たちと出会えるのです。その時の情景などが浮かんだら、タイムスリップです。千年前の人たちが何を見て何を感じてたのか、少しだけでも触れることが出来ます。前回号でお話しました「諸法実相」「十如是」みんな繋がっている・・・時を越えて繋がることも出来るのです。我が家は正月から平安時代と繋がっちゃいました(笑)そう考えるとお経を読むことが更にありがたく感じます。
繋がっちゃってることを現在の科学風に言うと、どうなるのでしょうか・・・
我々が死にゆき、抜魂の体、その個体はどうなるのか?自然にかえったあとに分子レベルまで分解されるもの、もしくは化学反応で原子レベルまでになるかも知れません。水に溶け、風に乗り、そしてこの地球をかけめぐり、いつか原子同士がくっついて分子となって物質としての性質を持ち、またいつか個体となっていく。何の固体かは分かりません。コップかも、サンダルかも、美味しいごはんかも、まずい食べ物かも、汚いものかも・・・髪の毛? 好きな人の唇かも・・・ あ・・・嫌いな人の小指の爪かも・・・なのです。何かになる。やっぱりみんな繋がっちゃってるんです。無駄なものなんてない。
お釈迦様は遥か昔にこのようなことが解っていたのです。どうですか?今は原子、分子レベルですべてが繋がっていることを説明しますが、何千年も前にお釈迦様は解っていた、悟っていた。ここが凄いのです。更に法華経には宇宙的な空間が出てきます。宇宙の存在も空間の広がりも理解していたのです。少し前にニュートリノ振動で盛り上がり、今、重力波が見つかったと騒がれていますがお釈迦様はそれも知っていたのかも・・・日本や世界、地球・・・通り越して宇宙とも繋がってしまいました。
さてさて、繋がりつながりで、今回は二枚目に突入です。
何故、繋がっている、繋がっていると言うのか、それは今の世にあまりにも足りない感覚だからです。一人では決して生きられないのに、あたかも一人で生きているかのように錯覚している感覚が、知らず知らずに不幸を招いているのです。今、子育てをしている母親の七割が孤立感を感じ、恐怖に似たストレスに悩まされているそうです。核家族化の弊害です。本来女性はホルモンの影響で、出産後に不安感に襲われる仕組みになっていて、独りで育てることなく他の者と共同で子を育てる仕組みなっているのだそうです。生まれて間もない子供を他人に預けられるのは人間だけで共同養育という人間特有のものということです。これが核家族化で出来なくなった。同様に自分の出産前にも赤ちゃんに接する機会が少なすぎるために、どのように対応して良いのか全く分からない。不安が怒りに変わり、怒りが憎しみとなって自分の子を愛せない母親が出来上がってしまう。負のスパイラル。核家族化は人類の危機とさえする見方もあるほどである。ある番組の受け売りですが、まさしくその通りだと感じました。大袈裟に聞こえるかもしれませんが、敗戦によってアメリカの植民地となった日本。与えられた教育と憲法。骨抜きにされた私たちが何を見直さなければいけないか真剣に考えるときはとっくに訪れているはずです。なんとなく平穏に生きられているからまあいいじゃないの・・・などと言っている場合ではなくなっています。
核家族化の流れを大家族に戻すことは難しいかも知れませんが、社会の中で人の繋がりを大事にすることは出来るはずです。
多種多様ですが、私の立場からみてすぐに思いつくのは「家族葬」です。「家族葬」って何ですか?誰が考えたか知りませんが、最近できた淋し過ぎる行いです。「家族だけでやるから、誰も来るなよ」と言われているような気がします。送りたい人だって居ると思います。何故「家族葬」なんてできてしまったのでしょうか?別に派手にやることはありませんが、一人でも多くの祈りで送ってあげたいものです。さみしいです。
葬儀と言えば、最近、葬列を遮る方が多すぎます。霊柩車を見れば、続く車は葬列だと、気が付きますよね?普通の人なら・・・ 平気で車で割り込んだり、葬列を遮って道路を横断したり・・・ なんで出来るのですかね?
昔の映像を思い浮かべて下さい。喪にふした家から棺が運ばれて、ずらりと葬列をなしている所を誰が遮って道を渡るのですか?あり得ません。今は当たり前の顔をして渡っていきます。 譲って・・・、信号は仕方ありません・・・時代ですか・・・
このようなことも大家族の時は皆が知っていました。自然と伝わるものです。人と人が接していますから。核家族化になれば、伝わるべきことが伝わらないので、年齢関係なく知らないままです。 「そんなこと知らなくても生きていける」とか言う方もいます。確かにそうですね・・・自分の力で生きていると思ってらっしゃるのでしょう。「義務教育なんだから給食費は払わない」とか、「お金を払っているのだから いただきます と言うな」とか、居るのですよ。 どうしたら良いですか? 放っておきますか?
話がずれてきましたから元に戻します。大家族に戻せないならせめて、神仏やご先祖様を大切に思う心を育てませんか? 毎日の仏壇のお参りはあたりまえ。最低でも盆・暮れ・正月・彼岸にはお墓参り。本家の仏壇に集まりましょう。仏壇、神棚がない家で育った子供たちに先祖を大事にしなさいとか親を大切にしなさいと言ったって無理です。先祖を大事にできない人が親を大切に思いますか? 親を大切に思えない人が家族を持てますか? 人を愛せますか? 姥捨て山が存在した悲しい時代がありました。コントなどでお笑いにされることもありますが、笑えない時がすぐにやってきます。
お寺からの郵便物。行事案内など、諸々ですが、必ず、目を通して下さい。そして、ご家族の皆様にも見せてあげて下さい。冗談ばかりでくだらないことも言ってますが、大事なことも伝えているつもりです。お会式の日に、たまたまお墓参りに来た檀家さんに、「今日は何かやっているのですか?」と聞かれたときには電気ショックが全身を駆け巡りました。お寺の年間行事の中で一番の行事の日です。暫くの間、落ち込みました・・・私が悪い、私の力不足です。伝えられない罪です。「自分のうちの宗派が何だか分からない・・・」なんてやめて下さいね。暮れのお餅つきも、知らなかったという人がいました(苦笑)
寺子屋も、写経会も・・・「そんなことやってるんですか?」って言われます・・・
「お寺でこんなことやっているよ~」って、知らせて頂ければと思います。
核家族化ですから同居していないご家族があれば、郵送しますのでリクエスト下さい。あ~そう言えばちょっと前には、コンペとかボーリング大会とか・・・その昔は空手や社交ダンスもやってましたね。(笑)今でもカラオケでジルバを踊る人がいます。とても楽しそうで、私はそういうの好きです。
*希望により四尺のお塔婆を用意できるように致しました。但しお塔婆供養料は同じく三千円となります。申し込み時に (小) とお書き下さい。
南無妙法蓮華経