日蓮宗妙厳山信隆寺(茅ヶ崎市) | トップへ |

歴史

信隆寺の創立

信隆寺は、寛永元年(1624)に新羅三郎義光後裔・武田(勝沼)信就公が数名の家臣と共に当地に来て剃髪し、自ら開基信隆院日閑と号し、開山上人に正中山法華経寺より善立院日意上人を招いて創立されました。

勝沼信就の祖父信友は、武田信玄の父信虎の弟で、現在の山梨県勝沼町の地を治めていたので勝沼氏を名乗りました。勝沼氏は武田家の御親類衆の有力な家臣として、常に重要な軍役の一端を担っていました。武田信玄から謀反の疑いをかけられたこともありましたが、信就は天正10年(1582)武田勝頼と織田・徳川勢とが争った天目山の戦の後、当地へ逃れ、甲州武田一族の先祖菩提のために、剃髪して信隆寺を建立しました。勝沼町には現在でも「勝沼氏館跡」が保存されており、国の指定史跡となっています。

日閑上人は、眼を患い眼光を失って明暦2年(1656)入寂。
日意上人は、寛永19年(1642)の入寂。

日蓮大聖人像を背負って

当山は東海道(現在の国道1号線)沿いに位置し、江戸時代にも往来が多く、数々の歴史を刻んできたが、昭和20年7月15~16日に太平洋戦争の空襲に遭い、本堂はもとより、諸堂に至るまで一切を全焼し、過去帳その他の貴重な資料を失いました。

残されたのは、空襲の火の中で燃え残った鰐口と、当時の住職木村邦随の妻であった静枝氏が空襲の火の中を火の粉を振り払いながら避難したその背中に乗せられた「日蓮大聖人像」のみでした。
当時の人の話によると日蓮大聖人像を背負った静枝氏は、田畑の真中に避難し、空襲が終わるまでそこにうずくまっていたそうで、空襲が終わり、ふと辺りを見渡すと焼け野原にその一帯だけが青々としていたといわれています。この像は平成8年に茅ヶ崎市の指定重要文化財とされました。