日蓮宗妙厳山信隆寺(茅ヶ崎市) | トップへ |
大寒の候。新しい年が始まりました。本年も皆様にとって幸多き良い年でありますようにお祈りいたします。平成二十六年は四緑木星の年です。社会的に交流や交渉、交際などが活発になり明るい雰囲気が漂います。ことに遠方との交わりが盛んです。遠距離恋愛などもあるかもしれません。悪いほうですと風の甚大な被害や胃腸病、流行り病、ウィルスなどの被害がおおくなりがちな年です。胃腸+ウィルスといえばノロが猛威を振るっていますね。気を付けて下さい。あのO-157が流行ったのも四緑の年です。電気関係の事故、雷被害、振動、火事も気を付けなければならない年です。 竜巻被害がないことを願います。
さてベストセラーの「永遠の0」読みました。泣きました。この本についてこの紙面で語るには文字数的にも無理がありますのでやめておきます。
終戦から七十年近く経つ昨今、私たちは戦争を忘れかけようとしています。その善悪を問うことはこの場ではさておき、国を思い、家族を守るために死んでいった人たち・・・その方たちを忘れてはいけないと思うのです。そして私たちも自分たちのことばかりを考えて生きるのではなく後世のことを思い、考えて暮らさなくてはならないのではと・・・ 温暖化しかり。エネルギー問題しかりです。
仏舎利塔
お釈迦様の亡骸は火葬され、舎利(遺骨)は周辺八大国の王たちの求めで分けられました。舎利はストゥーバと呼ばれる供養塔に納められ、遺骨以外にも髪や爪、所持品を納めた塔が建てられ、これら全てが崇拝の対象になりました。・マガダ王国のアジャータサットゥ王がラージャガハ(王舍城)に祭る・ヴェーサリーに住むリッチャビ族がヴェーサリーに祭る・カピラ城に住むサーキャ(釈迦)族がカピラ城に祭る・アッラカッパに住むブリ族がアッラカッパに祭る・ラーマ村に住むコーリヤ族がラーマ村に祭る・ヴェータリーヴァに住むバラモン達がヴェータリーヴァに祭る・パーヴァーに住むマッラ族がパーヴァーに祭る・クシナガラに住むマッラ族がクシナガラに祭る。
B.C.250年頃、インド史上最大の名君アショーカ王は、仏教を広めるためにストゥーバから仏舎利を取り出し、それを八万四千個に分けて同数のストゥーバを建てたと言われています。ちなみに、ストゥーバという言葉は日本に伝わった時に卒塔婆と置き換えられました。現代で卒塔婆といえば墓に立てる板のことを言いますが、当初は大陸からもたらされた仏舎利を祀る供養塔=墓を指したのです。
※五重塔も同様で“塔”という字は、「卒塔婆」の“塔”です。 世界最古の木造建築として、ユネスコの世界遺産に日本で最初に登録された法隆寺は、五重塔のてっぺんと内部中心の柱の二ヶ所に仏舎利が納骨されていて、インドからどんなルートで奈良まで来たのか、また、舎利が分骨を重ねて小さくなっていく過程を詳細に記した巻物までもが現存するそうです。 因みにインドのデリーにある国立博物館には佛舎利が展示されていて実際に目の前で見ることができます。私は思わず床にひれ伏して伏拝してしまいました。感動致しました。余談ですがガンジス川の畔で火葬が行われている場面にも遭遇し、その灰を川に流し、そのすぐ横で沐浴をする光景も見てきました。すごい国です。皆さんも一度インドへ行きませんか・・・
死後の教団
お釈迦様自身は著作を残していません。 お釈迦様入滅後、弟子たちが大集結して、お釈迦様の言動や教団の戒律などを書き残しておこうと考えました。これを第一結集といいます。この第一結集では、教団のリーダー摩訶迦葉が主宰し、500人の弟子(五百羅漢)が集まりました。常にお釈迦様のそばにいた阿難や戒律に詳しい優婆離が特にその中心的役割を果たしました。現在残されている仏典の中に「如是我聞」ではじまるものが多くありますが、これはもともとこの時に阿難が「私はこのように聞いております」=「我、是の如く聞けり」といって語ったものです。後世作られた経典にも多くその形式をならったものがあります。 第二結集はこの100年後、700人が集まり、200年後の第三結集には1000人が集まりました。こうした弟子たちの努力があり、数々の経典が今に伝えらえているのです。
尚、お釈迦様の入滅の年については、BC483年頃という説とBC383年頃という説とがあります。前号で祇園精舎や沙羅双樹なる言葉が出てきましたが、「平家物語」の一文に 『祗園精舎の鐘の声、 諸行無常の響きあり。 娑羅双樹の花の色、 盛者必衰の理をあらはす。』とあります。平家の衰弱を詠ったものですがお釈迦様の「死」になぞらえているのです。誰もが知っている言葉「諸行無常」は『涅槃経』にある「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅爲樂」から来ていて、この世に存在するすべてのものは、移り変わっていき、永久不変なものなどないということです。