日蓮宗妙厳山信隆寺(茅ヶ崎市) | トップへ |

ひとこと

寺報第11号より

合掌。どういうわけか、この度、日蓮宗神奈川県第二部「災害対策室委員長」などという肩書きを頂くことになりました。災害時の対応マニュアル作成や緊急時に対応するネットワークの構築などが主な仕事になろうかと思いますが、当面はやはり、東日本大震災の被災者支援に従事することになろうかと思われます。

前号にて、岩手県に支援に行きました内容を記載させて頂きましたが、その後の動きをご報告致します。先ずは4月の中旬に宮城県に行った時の報告です。

念のため、自分たちの2日分の食糧と寝袋、ガソリンを持って出発。岩手県は津波で倒壊した以外、揺れによる家屋倒壊はほとんど見られませんでしたが宮城県は内陸から家屋の倒壊や道路の破損、その他の被害が目立っていました。

先ずは女川に向かいましたが、女川は震源地に近いため、10分で津波が到達し、しかも山間のかなり高い所まで津波が来たそうです。それは見てすぐに分かりましたが、かなり高い場所、山の中腹にまで電車が飛ばされていたのを目の当たりにしました。ひと月以上経つのに未だに自衛隊が瓦礫をどかして道を作っている状態で、まだ全然遺体が回収出来ていないということでした。何も出来ずにただ、物資を置いて手を合わせて帰りました。

次に向かったのは石巻。被害にあった石巻を見渡せる山から一望。上から見る景色に愕然となり声が出ませんでした。ここでもただ手を合わせるのみです。仙台で情報を集めましたが、なかなかうまく行かず、なんとなく目に見えない壁に阻まれているような感じで、自分たちの力では支援が難しそうだと感じました。どこかその辺で寝れればと思ってましたが危険だからちゃんと宿泊施設に泊まることを勧められ、仙台市で宿泊。

翌朝、仙台で最も被害がひどかった若林区へ行く。ここも未だ自衛隊が探索中。通行止めを抜けて荒浜海岸へ行き、海に向かって一読、回向。(此処は茅ヶ崎の海岸に似ている)砂浜にはポツンと花が置かれていた。360度見渡す限り、何も無い。(海岸から2.4kmまで)

昨晩行った食堂の店員さんがこのあたりの出身で、直後の様子を聞きました。食事時に話すことではないが、遺体がゴロゴロしている状態で、とてもその場に居れなかったと言っていた。宮城では何も出来ず、物資の運搬とお経をあげることのみで帰路につく。この宮城入りで感じたことは、やはり今回の震災の被害は尋常ではないということ。想像を絶する被害である。目に見えない部分でこれからも更に被害は増えていくであろうと・・・対岸の火事にならぬよう、ずっと目を向け、耳を傾ける。そして、共に頑張っていかなくてはならないと感じる。宮城では後日、本山孝勝寺にて丸一日かけて一部経を読誦させて頂くことができました。

5月に入ると再度岩手入りの話が持ち上がり、赤浜小学校避難所のリーダー神田様並びに、蓮乗寺木藤上人と連絡をとり、6月1日に総勢15人で支援に向かいました。今回は現地と綿密な打合せを行い、炊き出しと、必要物資の運搬、慰霊行脚が目的です。

午前2時に出発し、午後1時に大槌町赤浜小学校到着。挨拶後、すぐに炊き出しの準備にとりかかります。メニューは中華料理。普通の炊き出しはそろそろ飽きたころだろうと、エビチリ。餃子、焼売、杏仁豆腐です。これは喜ばれました(笑)
あともうひとつ、うちにある「わた菓子機」を持っていったんです。子供たちが喜ぶかなあと・・・案の定、行列でした。1人で5個も食べた子がいました。子どもが喜ぶと大人も喜びます。片付けをして、19時に撤収。宿泊地遠野に向かいます。

さてもう一つの目的ですが、炊き出しをしている最中、8名は蓮乗寺まで行脚をしました。大槌町の海沿いの道を蓮乗寺まで往復する行程で2時間の慰霊行脚です。満潮で海水に浸かる道、アスベストらしきほこりが大量に舞い飛ぶ瓦礫の中を力の限り声を出し、太鼓を叩き、亡くなった方の為、そして未だに発見されていないご遺体の魂に届けとお題目を唱えました。蓮乗寺仮本堂の御宝前にて一読、回向を捧げ、被災地の早期復旧と被災者の心の安穏を祈ったのです。

町の風景は変化しています。当初道路が分断されていて迂回せざるを得なかったところが開通して通れるようになっていたり、瓦礫の山でしかなかった町が片付いて見通しが効くようになっていたり、汗まみれ灰塵まみれになって瓦礫撤去をした蓮乗寺にプレハブの仮本堂が建っていたりと、以前来た時に比べて、復興は確実に前に向かって進んでいるのだと感じました。ある被災者は「今回の震災で家族が行方不明になり、まだ見つかっていない。そのような状況の中、祈りの支援をしてくれるような人は今までいなかった」そして「宗教は違うけれども、本当に嬉しかった、感動した」と言ってくれました。良かったことの一つです。

しかし、被災者の苦悩はまだまだ続きます。先の見えない避難所生活でストレスはたまり、更に、これから気温が上がるにつれて暑さ対策に頭を悩まされるのは必至です。衛生面はかなりの危機が想像でき、食べ物もすぐに腐るであろうし、菌の繁殖はスピードを増すのです。行脚中にものすごい臭気に襲われました。道路一面、ウジ虫が大量にのたうちまわっていたのです・・・生命を脅かす菌が繁殖しないことを願うばかりです。

翌朝、赤浜に行き、炊き出し隊は昼食準備。行脚隊は再度慰霊行脚です。昼食は中華冷やし麺と肉まん、デザートです。子供たちの声は聞こえません。避難所の小学校は津波のせいで壊れて使えず、隣村の学校に通っています。大人たちは瓦礫の撤去やそれぞれやることに追われています。長い避難所生活の為にストレスがたまり、その凝り固まった体をほぐすため、カイロプラクティックの施術をします。同行したメガネ屋さんがメガネを修理しながらみんなの話を聞いています。話を聞くことも大切です。みんな明るく振舞っていますが、それぞれが大変な苦しみを背負っているのです。

避難所リーダーの神田さん、そして災害対策副長の川口さんと話ができました。今はとにかく、仮説住宅への入居が早くできるように努力しているそうです。赤浜はまだ他の避難所に比べて揉め事が少ないそうですが、やはりその苦労と苦難は計り知れない。自分の家族すら見つかっていないのです・・・

今回、夏掛けふとん350枚、タオルケット350枚、殺虫灯、ベープ虫除け、除草剤などを大量に持っていきました。子供たちには花火をたくさん、雨の日に退屈しないように子供用のDVDをたくさん、そして子供たちが大好きなハンバーグやエビフライ、鳥の唐揚げやチキンナゲットを送りました。皆様から預かりました、貴重な義援金は間違いなく、被災者の為に使わせて頂きました。「貴重な浄財を私達のために使っていただき、本当に感謝しています。どうか支援して頂いた皆様に宜しくお伝え下さい。」と伝言されましたので伝えます。

私はこう思う。「同じ国土に住む人たちがこんなに困っているのだから少しだけでも力になりたい。一つでも笑顔が増えればそれで嬉しいのだ」と・・・

6月13日に少数の委員が線量計を手に風評被害を払拭するため福島に下見に入っている。比べることは出来ないが更に人々は苦しんでいる。

*6月18日は震災百箇日です。19日の唱題行にて供養を捧げます。尚、8月7日に震災犠牲者へ塔婆供養をして頂ける方は、施餓鬼塔婆申込用紙に氏名をご記入下さい。震災当初の塔婆供養、四十九日の塔婆供養と同じく、塔婆料を義援金として寄付、もしくは物資調達金として使わせて頂きます。

*7月13日~15日 お盆棚経 東京 横浜 平塚 市内一部

南無妙法蓮華経