日蓮宗妙厳山信隆寺(茅ヶ崎市) | トップへ |

ひとこと

寺報第10号より

平成23年3月11日午後2時46分東北地方太平洋沖大地震発生

東日本大震災犠牲者之霊魂の冥福を祈るとともに被災地被災者の皆様の心の安穏と早期復旧復興を祈念致します。

この度の救援物資の調達と義援金募金にご協力を頂きましてありがとうございます。ハガキを投函した翌日から次々と救援物資が運ばれてきました。義援金も沢山頂き、25日には玄関前の廊下に置ききれない程の物資が集まりました。26日に一度横須賀に物資を運び、他のお寺様と合わせて4tトラック1台、2tトラック3台の荷物が集まりました。ありがとうございます。集められた物資一覧は折を見てお寺に張出します。

神奈川2部から12名、東京から15名の総勢27名で岩手県に向かいましたが、ガソリンが手に入りにくい状況なので、携行缶を積み27日の午前1時に茅ケ崎を出発致しました。3日分の食糧と水、バックパックに寝袋です。子供の頃に少し経験したボーイスカウトや消防団での活動。学生時代にバックパックを担いでアメリカを横断したり、アフリカ一人旅の経験がありますのでその辺は慣れたものですが、ブランクが長いのと、大災害という状況下でしたので、かなり緊張の心持で車を走らせました。朝方、岩手県に入り、一般道に下りる前に前沢サービスエリアで休憩をしているときに、大きな揺れ(余震)がありました。11日に茅ケ崎で感じた揺れとほぼ変わらない揺れです。東北の人は未だにあの揺れに悩まされているのです。花巻まで高速で行く予定でしたがその地震で高速道が通行止めになり一般道で現地に向かいました。最初は釜石市の中心にある対策本部に行きましたが、そこには物資があふれんばかりに余ってました。私たちは行政の手の届きにくい小規模の孤立した避難所を探して物資を届けようと試みましたが、海の方へ向かって車を走らせてすぐに町の情景はガラリと変わったのです。釜石は建物は残っていますが一階部分は全滅、物や車が押し潰されている状態です。

左から 街 学校 寺

釜石から更に奥へ向かうと30分程でそこは大槌町です。町は壊滅状態。戦後の写真で見たような、まるで数日前に空襲にあったかのような惨状です。瓦礫の中を進んでいくと小学校の避難所がありました。小学生31人を含む漁師町の避難所です。最初は訝しげな眼で見られましたが物資を運んできたことを伝えると喜んで受け取ってもらえました。学校の先生と話をし、明日も来ますので必要なものがあったら言ってくださいと申し出たら「女性用の下着と子供たちの下着、そして床に敷く暖をとれるマットが欲しい」と言われました。これは次の日に皆様から頂いた義援金を使わせて頂き、被害の受けていない場所まで行き、店で大量に買い付け、手渡ししてきました。(遠野の店には物が普通に売っている)とても喜んでくれました。先生に聞いた話ですと津波が校庭に押し寄せてきたので子供たちを連れて裏山に逃げたら、山から火の手があがり下からは水、上からは火で、大変な思いをして逃げたと言っておられました。

蓮乗寺焼け跡の瓦礫撤去

大槌町赤浜 赤浜小学校に物資をおろす。 市中心部では物資が余っていたがここには足りていない。
行政は行き届かない所が多く、自分たちに足で避難所を探し、物資が必要か聞いて、必要なものをおろす。
また、必要なものを聞いて、買って届けたりもした。

午後、釜石で炊き出しを手伝いましたが、その日の夕飯は中身の無いおにぎり1つと、うすいシチュー(震災後初めてのシチュー)でした。みんな明るく振舞ってますが、2週間たってその状況はかなり辛いはずです。しかも未だ10時と18時の1日2食です。いつまで続くか先の見えない状況です。

女性が会話をしてたのを思い出します。
「○○さん、明後日10時半に私とお風呂の番だけどどうする?」
「10時半かあ・・・炊き出しの仕事があるからパス」  
お風呂にも入れません・・・

2日目に仙寿院という日蓮宗のお寺が避難所になっている所に行きましたが、そこでお話できた被災者の方は着の身着のままで逃げたので洋服も何もかも全財産どころか手荷物さえありません。「帰るところが無いのよ・・・何もないの・・・」と言っていました。かける言葉がありません。庭で無邪気に遊んでいる子供がいます。親は助かったのでしょうか?  火葬場と遺体安置所に行った仲間に聞きました。安置所では家族と思われる方が確認をしています。判別不可能と書かれたメモ・・・
泣く声とお経の声が唯々その場に響きます。

3日目に再度大槌町に行きました。町の中心部です。津波が運んできた炎にお寺が焼きつくされた場所で瓦礫撤去の作業を手伝いました。

重い鉄骨や銅版、溶けたガラスや黒焦げの生活用具。重機で片づけるようなものを人力で撤去したのですが、ご家族の目に悲しみと悔しさが滲み出ていました。7年前に大変な思いをして新しく立て替えたお寺だったのです。息子さんが鉄板を片づけるとき、ひとつひとつを強く蹴りつけていたのが印象的でした。遠くに海が見えます。街が存在していた時に此処から海は見えたのだろうか? 目の前の瓦礫にあと何人が埋もれているのだろう?お年寄りが瓦礫の中を何か探していました。何でも良いから自分の持ち物だった物を見つけたいと・・・
この町は津波第2波で壊滅させられた後、火災が起きて消滅したのです。


蓮乗寺すぐ下





*関東以西ではそろそろ、震災のインパクトが少しずつ薄れてきていますが、支援はまだまだ必要です。マスコミで報道されない部分、このタイムスでも伝えられない部分がたくさんあります。被災者の方々の苦労はこれからも続きます。そして我々の支援もまだまだ続けなければなりません。
心の傷は簡単には癒えません・・・

-=- -=- -=- -=- -=-

*全てが想定外だったのです。だとすると想定とは何なのでしょう?
現地で見て聞いて感じたこと、たくさんあります。私も含め皆様が想像している以上の惨状です。「生きた人か亡くなった人しかいない。中間の怪我人が少ない」と、医師が言っています。「道一本などで生死が分かれたんです」と、現地の方が言ってました。日中だったので、家族が一緒にいない時間で親を亡くした子供と子供を亡くした親が多いはず・・・子供の心のケアが必要であろう。この災害では支援者も疲弊しています。特に遺体捜索回収にあたっている者の精神状態が心配です。被害の範囲が広すぎるし、原発が大変すぎて政府の援助が回らない。行政が機能しないから避難所は閉鎖されるのに被災者の行き場がない。最初は命が助かっただけで良かったと思っていたが、永遠に続く避難生活に心が荒んでいきます。しかしそれは当たり前です。その辛さは頭で考えて想像しても理解できません。現地に行ったってわからない・・・私には帰る家があり、食べ物もある。お風呂に入り、眠る布団もあるのだから・・・
でも出来る事をし続けよう・・・ 何が出来るか考え続けよう・・・

-=- -=- -=- -=- -=-

*ご存知でしょうが今一度、声に出してみましょう。
うばい合えば足らぬ 分け合えばあまる』 (相田みつをさんの詩より)

-=- -=- -=- -=- -=-

後 記
私たちがこれからのことを考える時、数百年に一度の災害を恐れ続けて生活するのもどうかと思う。怖がりすぎてはならない。だが、防災対策はしっかりしておくべきであろう。茅ケ崎はかなり危険な地形と思われる。

これからです行事
4月8日 14時 花祭り お釈迦様の誕生日
4月10日 14時 お題目例祭(花祭り)