富山の民家

浮田家住宅 国指定重要文化財 (昭和54年5月21日指定)
富山県富山市太田南町272
建築年代/文政11年(1828)
用途区分/奥山廻役代官
指定範囲/主屋・長屋門・土蔵
公開状況/公開
富山市の東南郊外、霊峰・立山を源とする常願寺川の扇状域の平坦地に所在する豪農住宅である。当家は戦国武将・宇喜多家に繋がる家柄と伝え、藩政期には立山・黒部一帯の山林保護や国境警備を担う加賀藩の奥山廻役を務めるとともに十村代官職を兼ねたという旧家である。敷地は東西75m、南北70mを誇り、四周に濠を巡らす広大なもの。屋敷東手に茅葺の長屋門を開き、敷地中央に桁行14間半、梁間5間の主屋が東面して鎮座する。北陸地方の十村役の住居は凡そ役宅と居住部に分かれるが、当住宅の場合は昭和16年に居住部を取り除き、現在は役宅のみが残存しているが、それでも十分に豪壮な建前である。間違いなく富山県を代表する民家である。
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森家住宅 国指定重要文化財 (平成6年12月27日指定)
富山県富山市東岩瀬町108
建築年代/明治11年(1878)
用途区分/商家(廻船問屋)
指定範囲/主屋・北土蔵・南土蔵・土地
公開状況/公開
富山市の北郊、神通川河口部に形成された川湊・東岩瀬町に所在する旧廻船問屋の町家建築である。当家は元禄年間から当地に住し、幕末頃より廻船業を営んだという。敷地は南北の大町通りに接面する間口14.5m、奥行き65mの東西に長い鰻の寝床状で、主屋の背後に土蔵2棟が建っているが、嘗ては更奥に米蔵、肥料蔵と続いていたらしい。間口幅いっぱいに建つ主屋は、南側に土間が通り、北側の床上部は3列に部屋が並ぶ間取りとなっているが、土間に面する中央の接客用の居間となる「オイ」は天井を吹き抜けとし、縦横に組んだ梁を露出させる豪壮な空間で魅力的である。また、複数ある座敷の手前には必ず控えの間を設けて生活雑音を遮断する工夫がなされるなど、建物全体に接客を意識した配慮がなされている。大商家ならではの細心の配慮が心憎い。
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武田家住宅   国指定重要文化財 (昭和46年3月11日指定)
富山県高岡市太田4258
建築年代/江戸時代(安永〜寛政年間)
用途区分/農家(肝煎)
指定範囲/主屋
公開状況/公開
冬の晴れた日には富山湾越しに冠雪を頂いた立山連峰が眺められる絶景地として著名な雨晴海岸近くの太田集落に所在する肝煎屋敷である。当家は甲斐の武田信玄の弟・逍遥軒信綱公の末裔と伝える旧家で、約3000坪を超す広大な敷地を有し、主屋の平面積は134坪にも及ぶ豪壮な建前から、十村役に匹敵する家格であったと推測されている。住宅は、安永〜寛政年間に建てられた近在の伏木勝興寺の残材を用いて建てられたと伝わり、実際に構造手法からその頃の建物と推測されている。住宅の最大の特徴は屋根形状にあり、正面からは直屋の様子であるが、背面に両角を突き出し、その中間を切妻板葺の越屋根で覆うという当地方独特のもの。内部の造作も素晴らしく、一級品の民家建築である。
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佐伯家住宅 国指定重要文化財 (昭和46年3月11日指定)
富山県高岡市福岡町蓑島495
建築年代/明和4年(1767)
用途区分/農家
指定範囲/主屋
公開状況/公開(要予約)
北陸道から小矢部JCTで分岐して高岡に至る能越道の福岡IC近くに所在する農家建築である。この辺りは砺波平野の西端に位置し、全くの平坦地に屋敷が点在する散居集落であるが、近年、屋敷林が伐採され屋敷の風情は著しく損なわれている。当家には明和4年「家作諸入用一巻」と書かれた袋に入った4冊の普請帳が残されており、それによると現在地から西南15kmの福野町川崎の十村・三之助の住宅を買い取り、小矢部川を曳材して移築したことが明らかとなっている。住宅は桁行10間、梁間7間の中規模なもので、正面からは入母屋茅葺屋根の直屋建に見えるが、梁間のうち3間半の主体部のみが入母屋屋根で、後半部分はカケオロシと称される片流れ屋根を葺き下ろす格好となっている。主屋内は広間を束と貫で小壁を飾り天には牛梁を縦横に組む「枠の内」と称する見応えのある構成を採っており、座敷上手の土縁等と併せて県内民家の造作的特徴を凝縮して見ることができるものとなっている。
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菅野家住宅 国指定重要文化財 (平成6年12月27日指定)
富山県高岡市木舟町36-1
建築年代/明治33年(1900)
用途区分/商家(廻船業・綿糸商・銀行業)
指定範囲/主屋・土蔵
公開状況/公開
嘗て商都・高岡の中心市街であった山町筋に所在する商家建築である。慶長14年(1609)の開町以来、越中地方の米や綿の集散地として繁栄した町は明治33年の大火で市域の6割が焼失し、現在に残る町並は以後に建築されたものである。当家は紡績糸商として活躍する一方、明治初頭から北海道との交易で財を成し、明治22年に高岡銀行を設立、同36年には高岡電灯を創立するなど、高岡発展の礎を築いた名家である。大火直後に建てられた住宅は、前年に富山県令の施行により耐火構造が義務付けられたこともあり、両袖に防火壁を立ち上げた土蔵造で、2階開口部も観音開の土扉となっている。室内は全て和室で、厳選された銘木を使った格調高い造作となっているが、外観には正面庇に鋳物柱、防火壁面に釉薬煉瓦を用いるなど洋風意匠を随所に取り入れ、瀟洒な雰囲気を上手く演出している。
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村上家住宅 国指定重要文化財 (昭和33年5月14日指定)
富山県南砺市上梨725
建築年代/18世紀前半
用途区分/養蚕農家
指定範囲/主屋
公開状況/公開
世界遺産にも認定される合掌集落は、霊峰・白山を源とする庄川の上流域にのみに発達した局地的な形態であり、特に岐阜県の白川郷と富山県の五箇山が著名である。当住宅は五箇山の中心集落である上梨に所在する合掌建築で、桁行11間、梁間5間半の4階建で中規模なものである。内部は現在、整形6間取となっているが、奥の2室は後世の増築で、そもそもは4間取であったらしいが、確かに当初部においては1間毎の間隔で柱が建ち、奥の部屋境には帳台構が残るなど古式が散見される。また土間脇の馬屋は土間を深く掘り下げ側面を切石積とする特異な造作で、床に敷いた山草を馬の糞尿で腐らせて煙硝を製造するための工夫であったらしい。合掌民家の基準作となる建物と評価されている。
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羽馬家住宅 国指定重要文化財 (昭和33年5月14日指定)
富山県南砺市田向254
建築年代/17世紀末
用途区分/農家
指定範囲/主屋
公開状況/公開
世界遺産に認定される菅沼と相ノ倉の合掌集落の中間に所在する最古の合掌造民家である。五箇山地方を南北に縦断する庄川右岸の高台に位置し、山腹に辛うじて確保した平坦地に建つ間口4間半、奥行き7間強の小規模な建物である。当住宅が所在する田向集落は明和6年(1769)に大火で殆どの家屋を焼失したため他の集落から古家を移築して復旧したという来歴があり、当住宅も3km程北東の大島集落から古家を移築したものと伝えられる。明治の中頃には宮本氏の住居で、その後に羽馬氏の所有になったとのこと。妻入の建物で最奥の寝間の奥行きが浅いことや部屋の入口に帳台構が設えられていること、部屋境の柱の間隔が密であること、柱の仕上げが蛤刃の手斧であることなどから、合掌造の初期的な形式を示す建物であると見られている。
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岩瀬家住宅 国指定重要文化財 (昭和33年5月14日指定)
富山県南砺市西赤尾町857-1
建築年代/19世紀中頃
用途区分/煙硝上煮役
指定範囲/主屋
公開状況/公開
当住宅は加賀藩の煙硝上煮役を務めた藤井長右衛門氏の居宅を明治期に岩瀬氏が購入したもので、桁行11間半、梁間7間、高さ14.4m、4階建の建前は、合掌造民家のうち最大規模を誇る。合掌集落が分布する庄川上流部の五箇山最奥部に位置し、同じく岐阜県側の合掌集落として著名な白川郷に隣接するため、入口を平入とするなど白川側の影響を垣間見ることができる。煙硝上煮役は地域から集めた煙硝を金沢城下へ運ぶ役儀を負った地役人のような存在で、収納巡検で訪れる藩役人への応対の必要性から座敷部が極度に発達している様子は他の合掌民家では見られぬ造作である。また下手の居住部にのみ禁制木である欅材が用いられる点なども、何やら普請にあたって藩との間に曰くがあったのではないかと想像され、興味深い。
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澤崎家住宅  富山県指定文化財
富山県魚津市小川寺字天神山1070
建築年代/
用途ぐ分/
指定範囲/主屋
公開状況/公開 【魚津歴史民俗博物館】




入道家住宅  富山県指定文化財
富山県砺波市太田170
建築年代/
用途区分/農家
指定範囲/
公開状況/非公開


筏井家住宅 富山県指定文化財 (平成10年2月25日指定)
富山県高岡市木舟町17
建築年代/明治33年(1900)
用途区分/商家(綿糸卸商)
指定範囲/主屋
公開状況/非公開
県内第2位の大都市・高岡の歴史は加賀藩2代藩主・前田利長の隠居城として城下町が整備されたことに始まるが、元和一国一城令により城の破却後は商都として繁栄してきた。当住宅が所在する木舟町は山町筋と称され、往時は北陸道に面して高岡で最も殷賑を極めた一画であった。その事実は現在の重厚な町家が連続する様子からも窺える。東西の町筋に北面して建つ当住宅は明治33年の大火直後に建てられた土蔵造の建物で、黒漆喰の壁面や両袖に立ち上がる煉瓦造の防火壁、前面の庇を支持する鋳物柱など、僅か30m程離れた東手に所在する国重文の菅野家住宅と外観意匠は極めて類似する。一方内部においては、茶の間となる「オイ」に、2階を設けない吹き抜け空間を利用して天窓を設えるなど、北面して採光に難のある当家ゆえに見られる特徴的な造作もある。
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室崎家住宅 高岡市指定文化財 (平成10年7月1日指定)
富山県高岡市小馬出町26-1
建築年代/明治41年(1908)
用途区分/商家(綿布卸売業)
指定範囲/主屋・土蔵
公開状況/公開
平成12年12月に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された高岡市山町筋に所在する商家建築で、昭和20年まで綿糸や綿布の卸商を営んだという江戸中期から続く旧家である。山町筋は明治33年の大火で町の大半を焼失しており、現在に残る土蔵造の町並は、大火以後に建築されたものである。当住宅も同様に大火以後の建築で、隣家境には延焼防止のための釉薬煉瓦造の防火壁を立て、屋根の軒裏は黒漆喰で何段にも蛇腹を巻き塗り込めた耐火性に配慮した造りとなっている。敷地間口7間に対し、主屋も桁行7間、梁間8.5間の建物ながら、通りに面するミセ部分を4.5間幅に抑えて西脇を切り込み前庭を設けるため、外観は控え目な印象となっている。内部は重厚な外観とは対照的に繊細な数寄屋風の造作となっており、当家の風流振りが偲ばれる。
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秋元家住宅 高岡市指定文化財 (平成10年7月1日指定)
富山県高岡市伏木古国府7-49
建築年代/明治20年頃(1887)
用途区分/商家(廻船問屋)
指定範囲/主屋・調度蔵・衣装蔵・米蔵
公開状況/公開 【伏木北前船資料館】
富山湾に注ぎ込む小矢部川の河口に位置する伏木湊は、18世紀頃から松前藩との交易による鯡の取扱量が急激に伸びたことから飛躍的に発展する。当家は文化年間以前から現在地で海運業を営んだと推測される旧家で、当初は船頭や水主達の宿泊施設を生業としていたが、時代が下ると自ら北前船を所有し、廻船問屋として活躍したとのことである。屋敷は湊を臨む台地上の東端に位置し、広大な敷地を有するため切妻造妻入りの主屋を構える。背後の2階建の土蔵(調度蔵・衣裳蔵)の屋根上には、船の出入りを見張るための望楼が設けられている。主屋は明治20年の大火で焼失し、その後の再建であるが、土蔵は江戸時代後期の建築である。加賀藩の役人が海岸視察の際に望楼から湊を眺めたと同家所蔵の古文書に記録があるらしい。
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金岡家住宅  砺波市指定文化財
富山県砺波市豊町1-2-10
建築年代/
用途区分/
指定範囲/
公開状況/公開 【かいにょ苑】


 
有馬家住宅 立山町指定文化財 (昭和60年9月26日指定)
富山県中新川郡立山町芦峅寺古屋敷
旧所在地・富山県中新川郡立山町榎24
建築年代/江戸後期
用途区分/農家
指定範囲/主屋・田屋門
公開状況/公開
立山山麓の風土記の丘内に移築復元されている農家建築である。元々は現在地から北西へ約10km程の富山地方鉄道の下段駅近くの榎集落に所在していた。榎集落は暴れ川として著名な常願寺川の扇状地に在り、地理的条件としては、ほぼ平野部といってよい土地柄である。それ故に当住宅の建前は、桁行9間半、梁間3間の主体部に、上手・下手から角屋を背後に突き出し、その間をカケオロシと称する片流れの屋根で繋ぐ典型的な富山県平野部の豪農住宅の形態を採っており、また主屋の前に構える田屋門も二棟の納屋の間を棟門で繋ぐ形式で、余り例を見ない珍しいものであるが、平野部の住宅ならではの屋敷配置となっている。主屋内においては、規模の割には座敷廻りの建前に余り力を注いでおらず、むしろ大戸口から広間へと繋がる導線上を「枠の内」と称される白壁を束と貫で飾り、天には牛梁が架け渡す意匠を基調とした建前で統一しており、相当に拘った建前に仕上がっている。
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廣野家住宅  登録有形文化財
富山県滑川市寺家町254
建築年代/
用途区分/
登録範囲/
公開状況



 
小沢家住宅  登録有形文化財
富山県滑川市荒町1618
建築年代/
用途区分/商家
登録範囲/
公開状況/非公開



 
内山家住宅 登録有形文化財 (平成10年7月23日登録)
富山県富山市宮尾903
建築年代/慶応4年(1868)
用途区分/農家(十村役)・地主・政治家
登録範囲/主屋・土蔵・表門・東門・北門・井戸上屋・籾蔵・塀中門・茶室三入庵・茶室夜雨廰・背戸の門・人力車置場、車夫小屋等
公開状況/公開 【豪農の館内山邸】
神通川の氾濫原野の新田開発に基盤を置いた大百姓で、藩政期には十村役(他地域の大庄屋)を務めた名家である。明治以降の土地集積により、富山県屈指の大地主となり、衆議院議員等も輩出している。屋敷は約3760坪と広大で、敷地正面に藥医門を開き、周囲を堀と低い土手を巡らせる。主屋は切妻屋根の正面妻壁面を束と梁を格子状に組んで飾るアズマ建と称される建前で、正面左手に入母屋屋根の式台玄関を突出させる。棟札から慶応4年に能登大工によって建てられたものと判明しており、これはアズマ建の住宅としては県内最古の事例とされている。その後、明治になって表座敷や広間等が整えられ、現在の姿となったとされるが、付属建物を含めて十村階層の明治期における変容振りを伝える貴重な存在である。昭和52年に13代当主から富山県に譲渡され、現在は富山県民会館分館として一般に公開されている。
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金岡家住宅 登録有形文化財 (平成10年7月23日登録)
富山県富山市新庄町1-5-24
建築年代/明治初期
用途区分/商家(薬種業)
登録範囲/主屋・新屋・土蔵・門・塀
公開状況/公開
富山駅から東へ伸びる富山地方鉄道の東新庄駅を下りて北へ300m程のところに所在する町家建築である。富山と云えば売薬の町として全国的に知られるところであるが、当住宅は郊外に位置していたため、戦災に遭うこともなく、意外なことに往時の売薬に係る商家として唯一残された建物である。当家は江戸末期に金剛寺屋又右衛門の長男・金岡又左衛門が分家し薬種業を営んだことに始まるが、その後の明治32年には県内で最初の水力発電所となる大久保発電所を完成させ、北陸で最初に電燈を灯すとともに、富山軌道鉄道の敷設や常願寺川の治水工事に尽力するなど、薬種販売で得た資本を元に地元・富山県の近代化に大いに貢献したことで知られる。屋敷は、道路に東面して建つ主屋と、その北側に前庭を介して建つ新屋から成り、主屋内部は売薬に関する資料展示のため、当初の間取りがよく判らない程であるが、新屋は桧造の贅を尽くした18畳の本座敷と15畳の次の間を主体とする大振りな近代和風建築となっている。
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馬場家住宅 登録有形文化財 (平成28年8月1日登録)
富山県富山市東岩瀬町107-2
建築年代/明治前期
用途区分/商家(廻船問屋)
登録範囲/主屋・壱番蔵及び弐番蔵・西門及び西塀・前蔵・米蔵
公開状況/非公開









佐野家住宅 登録有形文化財 (平成9年12月12日登録)
富山県高岡市御馬出町68
建築年代/明治33年(1900)
用途区分/商家
登録範囲/主屋・1番の蔵・2番の蔵・調度蔵・味噌蔵・茶室・防火壁
公開状況/非公開





棚田家住宅 登録有形文化財 (平成9年6月12日登録)
富山県高岡市伏木錦町14-26
建築年代/明治23年頃(1890)
用途区分/商家(廻船問屋)
登録範囲/主屋・道具蔵・衣装蔵・味噌蔵
公開状況/公開
富山湾に注ぎ込む小矢部川の河口に位置する伏木湊は、18世紀頃から松前藩との交易による鯡の取扱量が飛躍的に伸び、廻船問屋





谷村家住宅   登録有形文化財 (平成9年12月12日登録)
富山県高岡市伏木中央町1-6
建築年代/明治元年(1868)
用途区分/寺院家老
登録範囲/主屋
公開状況/非公開







教算坊 無指定・公開
富山県中新川郡立山町芦峅寺
建築年代/文化・文政年間(1820年頃)
用途区分/宿坊
公開状況/常時公開
富士山、白山と並ぶ日本三霊山の1つである立山の山麓に所在する芦峅寺は立山信仰の拠点集落であり、修験者等が登拝に際して宿泊する宿坊が建ち並ぶ宗教集落であった。幕末には登拝参詣者は6000人を超え、宿坊の数は三十三坊・五社人もあったと記録されているが、現在では建物の旧態は留めるものの移築保存されている善道坊と、建物の改築は著しいが、往時のままの場所に残る当住宅のみが宿坊建築として残されているに過ぎない。立山は云わずと知れた豪雪地帯で、登拝は夏の一時期に限られるため、宿坊と雖も基本は農業を生業としており、初期の宿坊建築は一般の農家と殆ど差異はなかったが、江戸時代後期から「坊造り」と称される寺院の本堂と庫裡と宿屋を兼ねたような建前に変化していったとのことである。当住宅は立山観光の立役者で政界にも進出を果たした大立者・佐伯宗義氏が昭和7年に別荘として購入、その際に大幅な改造の手が加えられたが、氏の没後に県の所有となり、旧態に復元されたとのこと。鬱蒼とした木立に囲まれた屋敷の風情は幽玄な趣さえも感じるが、住宅内部の青や赤の色壁が施された座敷は如何かと思う。
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