秋元家住宅
Akimoto



高岡市指定文化財 (平成10年7月1日指定)
富山県高岡市伏木古国府7-49
建築年代/明治20年頃(1887)
用途区分/商家(廻船問屋)
指定範囲/主屋・調度蔵・衣装蔵・米蔵
公開状況/公開 【伏木北前船資料館】

富山湾に注ぎ込む小矢部川の河口に位置する伏木湊は、18世紀頃から松前藩との交易による鯡の取扱量が急激に伸びたことから飛躍的に発展する。当家は文化年間以前から現在地で海運業を営んだと推測される旧家で、当初は船頭や水主達の宿泊施設を生業としていたが、時代が下ると自ら北前船を所有し、廻船問屋として活躍したとのことである。屋敷は湊を臨む台地上の東端に位置し、広大な敷地を有するため切妻造妻入りの主屋を構える。背後の2階建の土蔵(調度蔵・衣裳蔵)の屋根上には、船の出入りを見張るための望楼が設けられている。主屋は明治20年の大火で焼失し、その後の再建であるが、土蔵は江戸時代後期の建築である。加賀藩の役人が海岸視察の際に望楼から湊を眺めたと同家所蔵の古文書に記録があるらしい。
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主屋 梁間6間半、桁行8間、切妻造 桟瓦葺 一部2階建 妻入
衣裳蔵 梁間3間半、桁行3間半、切妻造 桟瓦葺 2階建 妻入
調度蔵 梁間4間、桁行5間、 切妻造 桟瓦葺 2階建 妻入
米蔵 梁間4間、桁行5間、切妻造 桟瓦葺 2階建 平入
(衣裳蔵及び調度蔵の2棟には覆屋が架けられており、その屋上に設置されている望楼も指定対象である)
秋元家は、文化年間(1804-17)には既に現在地に居住していたことが同家所有の古文書等で確認でき、近世末から代々廻船を生業としていた旧家である。
現存する建造物は、明治20年(1887)の伏木の大火後に再建されたものとされていたが、今回の保存修理に伴う調査の結果、主屋は大火後の建築であるが、調度蔵については屋根の塗面に「明治13年辰七月廿九日塗 左官弥八郎」の箆書があり、さらに2階の窓周辺の部材に焼け焦げの痕もあることから、少なくとも調度蔵は大火で罹災したものの、焼け残った建物と推測される。
主屋は正面と背面に下屋が付き、正面の北寄りに梁間2間、桁行1間半、寄棟、桟瓦葺の突出部と北東隅に便所を張り出す。正面外観は、梁や束、黒壁の構成が美しい大きな妻面を見せるアズマダチの様式を持つ。小屋組は、梁を上下3段に架け渡した大規模な和小屋である。
平面形式は3列構成で、南側の入口、玄関、茶ノ間、居間や中央列の店ノ間、仏間、次の間、北列の表座敷や茶室、奥座敷など16室から成る。2階は奥座敷と次の間の上に座敷2室が取られている。主屋の南側には半間程の下屋廊下が付き、後方の台所・便所棟さらに奥の土蔵へと通じている。
土蔵は全部で3棟あり、そのうち調度蔵と衣裳蔵は戸前を共有する2階建で、一つの大きな屋根に収められ、その屋根の上に船の出入りを見張るための望楼が乗る。北東隅に建つ米蔵は、土蔵自体の屋根を土で葺いた上に全面の土廊下を含んだ瓦屋根を乗せる「載せ鞘」となっている。
旧秋元家住宅は、明治期の廻船問屋の建物の特徴をよく留めており、整った室内構成や市内に唯一残されている望楼など、上質且つ大規模な住宅であり、貴重な歴史的建造物である。【現地案内看板より一部改編】
 




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