飛ぶイルミネーション

映画は滅多に見ない。せいぜい年に一本見るかどうか。前に見たのは『ボヘミアン・ラプソディー』。もう一年経っている。

今回は、アジア系作品で初のアカデミー賞授賞と聞いて劇場へ足を運んだ。思っていたほど混んでおらず、前後左右の席は空いたままゆったり鑑賞できた。

観ている数が少ないので私は映画を見るのがかなり下手。ネットで見ると皆、いろいろな角度から作品を批評している。脚本はもちろん、カメラの位置、画面の色合い、撮影場所、俳優の演技、台詞の一つ一つ、音楽や効果音、ほんのちょっとだけ映る小物などなど。

そういうものを私は読み取ることができない。ストーリーを追うだけで精一杯。それは何より観ている数が少ないから。

作品を観てから、ネットでいくつかの感想を読んだ。鑑賞上手な人たちが私が見落とした受賞作品の重要なポイントを教えてくれた。これから書く感想はその影響を受けている。一番影響を受けているのは河野真太郎氏の論評

もっとも、映画についてズブの素人であることをありがたいとも思う。すぐに作品に没入して制作者の意のままに観ていける。読書の場合、自分のペースで進めるので、ついあれこれ余計なことを考えながら読んでしまう。かえって作品の本質を見落としてしまうこともある。

前置きはここまで。


映画でも音楽でも文学でも、大きな賞を受ける作品は間口が広い。多くの人がそれぞれの見方で楽しむことができるよういろいろな要素が詰め込まれている。本作も例外ではない。テーマは多くの人の関心事。前半はコメディ風、徐々にミステリーからサスペンス、さらにはホラー、バイオレンスへと過激化していく展開は滝つぼに落ちるローラーコースター。

テーマは社会問題であっても、出来栄えはプロパガンダではなく、エンターテインメントとして、つまり非・政治的な表現で政治的なメッセージを世に突き刺した作品。これが真先に感じたこと。


結末について。ここに希望を見るのか、絶望するかで作品の評価は大きく分かれる。私は悲観的に受け止めた。父親からは信号を送ることはできるけれども、息子は返信することができない。最後の場面は息子の願望であり、彼は届かない手紙を半地下室でいつまでも書き続ける。「格差社会」はそう簡単には解決しない。

その「格差」について。格差社会は階級社会とよく比較される。階級社会では社会は固定した階層に分断されている。階層ごとにはまとまりがある。だから「階級闘争」という集団での蜂起が成り立つ。

「格差」では個々人がバラバラにされている。しかも格差は相対的なもので、階級社会のように固定してはいない。極言すれば、誰でも自分より恵まれている人に「格差」を感じる。その感じ方はそれぞれだから集団とならない。立ち位置もそれぞれなら思う敵もそれぞれ。

そのような「格差社会」で起きることは富裕層への集団による闘争ではなく、自暴自棄になった個人による無差別テロ。標的にされるのは、目に見える自分より幸福そうな人だけでない。容易く勝てそうな自分よりも弱い者も攻撃の対象になる。

弱い者がさらに弱い者を叩く(BLUE HEARTS「TRAIN TRAIN」)

地下から這い上がってきた男が襲い掛かったのは半地下の娘だったけも、怒りに駆られた彼の標的はその場にいる誰でもよかったように思われる。


こう書いてみるとまったく救いようのない世界を描いているように見えるが、なにも希望がないわけではない。家族。本作はそこに光明を見出そうとしている。

社会の格差については強烈な暴露をする代わりに家族内は問題として取り上げられていないどころか、肯定的に描かれている。貧富、双方の家族とも、少々不満を持ちながらも幸福な家庭にみえる。とくに結末に見える父子の絆は象徴的。

もし本作が「お前は何で4回も大学受験に失敗したんだ」という呑んだくれた父親の台詞で始まっていたら、その後の展開はまったく違うものになっていただろう。貧しいながらも四人家族の絆は強く、一時はパラサイトを家族で満喫している。

現代社会が抱えるもう一つの緊急課題である「家族内」の暴力や殺人を予測させるものはない。

その意味では、本作は家族の問題に対してややナイーブに見える。

もっとも、本作は家族間格差に焦点を当てているのだから、それぞれの家族にまとまりがなければ話にならない。ましてや、家族内の混乱をドラマに詰め込めば物語が収集つかなくなり破綻していただろう。


監督がどこまで意識して「家族」を肯定的にとらえているかはわからない。しかし家族を、多くの問題を抱えながらも、現代社会が存続する希望のよりどころとみる人は確かにいる。斎藤環は『家族の痕跡』で、「理不尽な場でありながら、強制でも洗脳でもない教育という方法で人を育てられるのは家庭しかいない」と結んでいた。

その一方、韓東賢氏のように「よその家族にパラサイトする話であるにもかかわらず、実は家族内で家族同士が「パラサイト」しないと生きられない社会」と本作での家族の扱い方を厳しく見る人もいる。

それでも韓東賢氏も本作を高く評価している。

そのような見方をするならば、最後の場面は息子の虚しい空想ではなく、彼の真の決意と受け止められるかもしれない。


ここで少し脱線。

私が関心を持つのは巨視的な格差問題ではなく、微視的な格差。

高収入、高学歴の地域に住んでいても子どもの成長は一様ではない。

落ちこぼれたり、ひきこもりになったり、心の病を患ったり。

同じ地域、似たような環境にいるのに、何が違いを生み出すのか。

一つの家族のなかでも格差は生じる。一人だけ受験に失敗する家庭もあれば、親も仕事のトラブルで家族を省みる暇がなく、崩壊寸前までいく家庭もある。

なぜだろう。そして、そのような崩壊とまではいかないまでも家族全体が心の傷を負ったようなところから、どのように再生できるのだろう。

それについて考えるにはまだ時間と思索が必要。とりあえず今は、私の問題意識が「家族の崩壊と再生」にあることだけを指摘しておく。


最後にもう一つだけ。この作品を観て映画館を出てから、自分はどちらの側にいるのか、自問しない人もいるのだろうか。すでに書いたように「格差社会」は相対的な格差なので、誰にも上と下がある。そして、人は上は見ても、よほど意識しなければ下は見ない。

小学校一年生の夏、我が家は街中の古い社宅のアパートから郊外の丘の上にある戸建てに転居した。丘の下には公営の木造平家の家がたくさんあった。丘の下に住む子たちは坂道を登り、華やかな新築戸建ての並ぶ住宅街を抜けて通学した。

そのとき、彼らはどんな思いで坂を歩いていたのか。大人になって、橋本健二『「格差」の戦後史--階級社会 日本の履歴書』を読むまで、私は想像することさえしなかった。


この作品は観る者を考えさせる。自分はどこにいるか。自分は上と下をどう見ているか。「格差」問題とは自分にとってどういう問題なのか。

そして、家族とは、自分にとって何なのか。

ただし、その問いは自分が「中流」なのか「下流」なのかを位置付けることではない。「相対的貧困」の時代では「格差」も相対的だから。全国的な統計ではなくて、自分の生活範囲において、自分がどの社会階層に位置しているのかをまず測量することが、「格差」とは何かを考えはじめるために必要なことと思う。

そして、よく考えなければ解決策は見つからない。そう考えることは、きっと日和見主義と非難されるのだろう。


参考:『パラサイト』再見『パラサイト』テレビ放映

さくいん:斉藤環橋本健二HOME