日蓮宗妙厳山信隆寺(茅ヶ崎市) | トップへ |

ひとこと

寺報第9号より

合掌
新年明けましておめでとうございます。本年も宜しくお願いいたします。
という、書き出しでお正月にタイムスを書き始めましたが、なんと・・・  もう2月の終盤になってしましました。もたもたしていると春のお彼岸になってしまいます。時が流れるのはなんて早いのでしょう・・・  1年が「あっ!」と言う間に駆け抜けて行きます。私の年齢でそう思うのですから、年配の方々の時の流れは恐ろしく早いのでしょうね。

さて皆様、2010年は皆様にとってどんな年でしたでしょうか? 前号のタイムスでお礼参りについてふれましたが、年末に神社やお寺のご本尊、お墓、その他、お礼参りは致しましたか? お正月に初詣に出かけて散々色々と願い事をして、1年の終わりにお参りに行かないのは、良くないと思いませんか? 願い事が叶う叶わないは別として、やはりお参りには行くべきだと思います。
もし、もしもですよ・・・   あなたが神様だったら・・・   いつも自分の所にきて願い事ばかりして、御礼に来ない人、どう思います? 逆に、いつもちゃんとお礼のお参りに来る人のこと、どう思いますか? 後者の方がかわいいに決まってますよね。 「いつもありがとうございます。」この一言が良いと思いませんか?「よきかな」「善き哉」ですよ。お礼参りを致しましょう。

因縁でも「願ほどき」をしていない場合の因縁が出てしまうことが多々ありますので、やはり願い事をかけたら、成就不成就に拘わらずお参りをすることが大切なのではないでしょうか。自分の欲で願い事をしているのですから・・・  

神社仏閣で、お守りやお札を授けた(買った)場合は、その場所に返納してお参りをします。ですから旅行先でお守りやお札などを買った場合は本来、その場所まで再度行き、お礼参りして、お守り・お札を返納しなければならないはずです。 そんなバカな・・・  と、今思った人は、ここでもう一度、自分が神様になってみて下さい。自分のところにやってきて願い事をした者にお守りを与えました。さて1年後、その者は、願い事をしたことも忘れ、自分のところにお礼参りせずに、他のところへ行って、どんど焼きかなんかにお守りを放り込んでしまってます。さてさて、どんな思いがしますか?

どんど焼きが悪いと言っているのではありませんよ。私も毎年、参加していますから。そのお守りやお札には、何かが宿っているのだということを考えて頂きたいのです。中には平気でゴミのように捨てている人もいるのですから・・・  (余談~毎年、消防団でどんど焼きの警備にあたっていますが、たまにお位牌を投げ込む人がいます。若い人じゃないですよ。60代から70代の方です。やめましょうね。)

さて話を元に戻します。お礼参りが大事と言うことですね。ちなみに私は出先で神社仏閣をお参りするときには、心の中でこう言います。「縁あって本日、お参りをさせて頂きました。いつもお見守り下さってありがとうございます。」「南無妙法蓮華経」・・・  
私はどこでも「南無妙法蓮華経」です。神社でも他宗のお寺でも、教会でも。 いつでもどこでも「南無妙法蓮華経」・・・   ついつい悪い心を起こした時も、「南無妙法蓮華経」で反省です。こんなに頼りになるお守りは他にありません。ホントにありがたい、私にとっては魔法みたいな言葉です。

そう言えば、面白い話を思い出しました。(実際、今、思い出しました) 仲の良いおばさんたち、3~4人で車に乗っていた時の話です。運転していた方が違反をして、おまわりさんにとめられてしまいました。窓越しにおまわりさんに色々と質問されたり、咎められたりしていたところ・・・  なんと同乗していた他のおば様達が声をそろえて「南無妙法蓮華経」「南無妙法蓮華経」と合掌しながら唱えまくったそうです。 すると・・・   なんと・・・   無罪放免、許してくれたそうです(笑)  アンビリーバブル!

これがお題目の力なのか・・・   なんてことは言ってはいけませんが、笑い話としてはなかなか面白い話です。間違った使い方のような気もしますが、何かに縋り付く思いがお題目を呼んだことは素晴らしい。信心です。 おまわりさんの立場もありますから付け加えますが、かなり前の話で、時効のお話しです。 経典に 法華経、お題目を持する者を菩薩善神が守護する喩がたくさん説かれていますが、私たちにとても身近な観音様のことが説かれた経文にこんな場面があります。

「あるいは悪人におわれて金剛山より堕落せんに彼の観音の力を念ぜば一毛をも損ずることあたわじ」
「あるいは怨賊のかこんでおのおの刀をとって害を加うるにあわんに彼の観音の力を念ぜばことごとく即ち慈心を起こさん」
「あるいは伽鎖に囚禁せられて手足に紐械をこうむらんに彼の観音の力を念ぜば釈然として解脱することをえん」

この場合、「悪人」「怨賊」が警察で、観音様に救われたのがおば様達という話ですが、またまた警察の方々、ごめんなさい・・・  例えです。お許し下さい。

信心ありき、信ずる者こそ救われる・・・  の世界です。 日蓮聖人の言葉では「持妙法華問答抄」の一説に次のようにあります。

譬えば高き岸の下に人ありて
登ることあたはざらんに
又岸の上に人 ありて繩をおろして此の繩にとりつかば
我れ岸の上に引き登さんと云はんに
引く人の力を疑い繩の弱からん事をあやぶみて
手を納めて是をとらざらんが如し
争か岸の上に登る事をうべき、
若し其の詞に随ひて手をのべ是をとらへば即ち登る事をうべし

上に行きたいのにその人に疑心があれば縄を手にすることが出来ずに、上に行くことが出来ないということです。縄を持つ手を離されたら真っ逆さまですから、信ずるのは勇気がいりますね。しかしそこを疑っていたら何も進まない、何がどうではなく先ずは縄を持つ手、その力を信じなければならぬ・・・  という「以信得入」の教えです。信ずる者は救われる。 何か解らないけど「南無妙法蓮華経」と唱えてみます。仏壇の前で手を合わせ、「今日も一日ありがとうございました。南無妙法蓮華経」「毎日毎日ありがとう。南無妙法蓮華経」 ご先祖様は笑顔、仏様は優しいまなざしで、善神菩薩は喜んで、私たちを見守って下さいます。

春のお彼岸には声に出してお題目を唱え、本堂に参詣、そしてご先祖様に会いにタオルを持ってお墓に参りましょう。

追伸~お寺に来たら本堂にお参り、手を合わせ、お題目・・・  これが大事です。本堂に参らずのお墓参りは本末転倒。