日蓮宗妙厳山信隆寺(茅ヶ崎市) | トップへ |

ひとこと

寺報第1号より

合掌 愈々秋らしくなってきましたね。虫たちが盛んに鳴いてます。

この度、信隆寺タイムスと銘打って新聞みたいなものを作成してみました。用途は自由自在、お寺からのお知らせ、行事の案内、良い話 悪い話、色々と考えています。本当は定期的に発行したいのですが、当面出来そうにないので時々発行という形にします。

時々といっても年に一回か半年に一回か・・・さてどうなることか判りません。実はこの創刊号も去年から作成していたのですが、作成中に修行に入ってしまいそのままの状態でした。そして作業再開、続きをやり始め、ここでようやく出来上がった次第です。

従って独断ではありますが、創刊日時を平成十八年某月某日とさせて頂きました。気にしないで下さい。つまらない拘りです。


さて、創刊号なので信隆寺の紹介から始めたいと思います。

信隆寺の創立
信隆寺は、寛永元年(一六二四)に新羅三郎義光後裔・武田(勝沼)信就公が数名の家臣と共に当地に来て剃髪し、自ら開基信隆院日閑と号し、開山上人に正中山法華経寺より善立院日意上人を招いて創立されました。
勝沼信就の祖父信友は、武田信玄の父信虎の弟で、現在の山梨県勝沼町の地を治めていたので勝沼氏を名乗りました。勝沼氏は武田家の御親類衆の有力な家臣として、常に重要な軍役の一端を担っていました。武田信玄から謀反の疑いをかけられたこともありましたが、信就は天正十年(一五八二)武田勝頼と織田・徳川勢とが争った天目山の戦の後、当地へ逃れ、甲州武田一族の先祖菩提のために、剃髪して信隆寺を建立しました。勝沼町には現在でも「勝沼氏館跡」が保存されており、国の指定史跡となっています。
・日閑上人は、眼を患い眼光を失って明暦二年(一六五六)入寂。
・日意上人は、寛永十九年(一六四二)の入寂。
鰐口
鰐口(わにぐち)は仏具の一つで、寺社の堂前の軒下につるして、参詣者が布で編んだ綱を振り動かして打ち鳴らすものです。形は中空になっており、上方の外側には「耳」と呼ばれる左右に二つの鉄輪を通すつり手があります。耳の下方には左右につきだした円筒形の「目」があり、目と目を結ぶ下側のすき間は「口」と呼ばれます。この口が大きく裂けているところから鰐口の名が出たと思われます。 信隆寺は昭和二十年七月十六日夜の平塚市空襲のときに焼けていますが、この鰐口は幸い難を免れたそうです。そのときが原因かどうかわかりませんが、現状は表の向かって右側の「目」と銘帯の一部、それに下方の「口」と裏右側の銘帯の一部が欠損しています。その銘帯には上から左右にふりわけて次のような文字が刻まれています。


表(右)奉建立相州高座郡妙厳山信隆寺右為先祖菩提也大願主
表(左)當寺開基旦那従多田満中四代(欠落)三郎義光公
裏(右)十六代後胤信就信隆院日閑敬白
裏(左)豈寛永元年申子五月吉祥日

信隆寺とこの鰐口のことは、天保十二年(一八四一)にできた『新編相模国風土紀稿』に記されていて、その記事と銘文から、信隆寺は、多田満仲から四代目の新羅三郎義光の十六代後の、甲州武田家の士族、武田信就(のぶなり)が先祖の菩提を弔うために、寛永元年(一六二四)に建立した寺であることが知られます。信就は眼病で失明し、剃髪して信隆院日閑法印と号し、明暦二年(一六五六)に亡くなっています。そして、この鰐口は境内にあった七面堂(現在の祈祷堂)の前にかけられてあったとあります。