頭木弘樹の本は何冊か読んだことがある。本書のことも、ラジオのことも知らなかった。どこで本書を知ったか、メモし忘れてしまい、思い出せない。ともかく本書は知ってすぐ購入して読みはじめた。
絶望的な気持ちになったときには、励ます言葉よりも同じように絶望的な気持ちを表した言葉のほうが心にしみる。そういう著者の意図はよくわかる。「ため息が重い日」には、暗い音楽を聴いたり、ますます暗い気持ちになる本を読んだりする。
期待していた通り、人生の機微を巧みに表現した名言が数多く紹介されている。ドストエフスキーやシェイクスピアなど、私には馴染みのない作家の言葉も、こうして上手に切り取ってもらうと響いてくる。
芥川龍之介や太宰治は少しは読んだことがあるので、彼らの言葉の背景を解説する会話を興味深く読んだ。
重要なことは、作家たちが絶望を体験していることはもちろん、それを表現することにも苦労を重ねていること。文学的表現は単なる体験談ではない。作家が積んだ修練の賜物。
ただ「苦しい」とつづるだけでは共感は得られない。深い人間観察と巧みな表現があって初めて多くの人の共感を得る。紹介されているどの作家も、その作家独自の表現を身につけている。それは文体、あるいはスタイルと言い換えてもいいだろう。「文章から聴こえる声」と呼ぶ人もいる。それを身につけるまでには相当な修練が必要と推測できる。
先に挙げた芥川と太宰は文章がとてもうまい。苦しいときにも修辞を気にしてしまうのが作家の性かもしれない。
私も何度か、人生に絶望したときがある。そして、それを言葉にしたこともある。でも、まだ私独自の表現には至っていない。
絶望も修練もまだ足りないのだろう。私が絶望を感じたのは、会社が倒産したとき、整理過去されたとき、そしてうつ病を理由に会社を追い出されたとき。職を失っただけで頭木のように生命の危機だったわけではない。
私はこれまでに大病したことはなく、入院もしたことがない。生命の危機を感じたことはない。思い出しみると、睡眠時無呼吸症候群の疑いがあったとき、もしかすると突然に死ぬかもしれないと怖かった記憶がある。結果的にはそうではなかったし、恐怖感があったのは数週間だけのことだった。
うつ病の症状がひどく重かったとき、強い希死念慮があり苦しかった。でも、死の世界へ飛び込むことを試みたことはなかった。頭木に比べれば、私は病苦や死の恐怖に脅かされる事態は少ない人生を歩んできた。
代わりにと言うわけではないけど、私の人生は悲しみに包まれてきた。姉、友人、叔父。大切な人を何人も自死で亡くしている。姉が亡くなったとき私は12歳。思春期の最初から、私の人生は悲しみに包まれていた。
本書でも病苦の絶望のほかに死別の悲しみから生じる絶望について書かれている。
The night is long that never finds the day.
「明けない夜はない」と訳されることが多い『マクベス』の一節を頭木は「明けない夜もある」と意訳する。
「明けない夜もある」というふうな、時間が解決しない悲しみもあるというふうなことを言うのは、(中略)現実にそういう悲しみがある以上、そういうこともあるんだよって知っておかないと、逆に、いつまでも悲しみが癒えない時に、よりこじらしてしまうわけですね。(「第6回放送 シェークスピア」)
頭木はほんとうに苦しみと悲しみ、つまりは絶望をほんとうに深く理解しているととても感心した。
最近の心情には、中島敦の言葉が深く響いた。
みづからの運命(さだめ)知りつつなほ高く上らむとする人間(ひと)よ切なし
あるがまま醜きがままに人生を愛せむと思う他に途(みち)なし
『和歌でない歌』
頭木の的確な解説。彼自身も共感していると述べている。
「つまり、自分の人生にふさわしくない出来事が起きて、ふさわしくない人生を今送っている、そういうふうに感じている人達。(中略)そういう人達にとって、この中島敦の言葉は、とても胸にしみるものがあるんじゃないかと思うんです。
絶望と一口に言っても、そう感じる状況はさまざま。噴き出してくる感情もそのときどきで違ってくる。本書は先人たちの心情を想像しながら、そういうさまざまな思いを丁寧に、やさしく撫でていく。無理に励ますのではないのではないのに、読んでいると心が軽くなるような気がしてくる。
本書はいつも枕元に置いておきたい。
辛いとき、憂うつなとき、悲しいとき、絶望したとき、手に取って先人たちの言葉に耳を傾けよう。文学紹介者の細やかな配慮がにじむ言葉をかみしめよう。
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