近代日本流行歌史
日本の流行歌の歴史サイト・異文化交流と文化コミュニケーションの所産
昭和モダンと近代音楽・流行歌 藤山一郎 歌唱の精神
昭和モダンを舞台、アメリカからの電気吹込みという新システムの到来、「流行り唄」から「昭和流行歌・歌謡曲」へ。流行歌誕生八〇年。
近代日本音楽史の一断面その変遷の歴史
永遠の昭和SPレコード歌謡・なつかしの歌声
私のホームページへようこそ・懐かしの流行歌・日本流行歌変遷史
昭和の大衆歌謡
SPレコード歌謡代表曲一覧
この時代の歌は,歌謡曲は、クラシック、ジャズと日本人の情緒が異文化交流、文化のコミュニケーションによって生れた。藤山一郎の歌唱芸術もその一である昭和のレコード歌謡文化史。マイクロフォンを使用した電気吹込みレコードは大正時代までのレコードとはその音質において飛躍的な向上を見たのである。その所産は、昭和歌謡、昭和流行歌、なつかしの歌声、懐かしの歌声、大衆歌謡、思い出の流行歌、思い出のメロディーなどと言われているが、ここでは、SPレコード時代の歌謡曲・流行歌ということで、昭和SPレコード歌謡という名称を使用することにする。歌は世につれと申しますがそれぞれの時代相と大衆心理をは敏感に反映している。現実の社会環境のなかに共鳴と共感を求める民衆歌謡=流行歌は具体的な政治社会の世相を表出するのである。また、これらの楽曲における詩想・楽想・歌唱芸術は流行歌、大衆音楽史にとどまらず、近代日本の音楽や近代日本音楽史の断面、昭和モダンの音楽風景・群像を伝えるものである。まさに日本流行歌の変遷史といえる
日本のオペラ史の一断面・浅草オペラの歴史
日本のオペラの揺籃の時代は、浅草オペラである。ローシがロイヤル館で撒いた種が浅草に花開いた。原信子、田谷力三、清水金太郎らが活躍した。藤山一郎の少年時代はこの大正の音楽風景に影響を受けた。中でも田谷力三は絶大な人気を誇った。田谷力三の歌を聴いてオペラを志したのが藤原義江である。浅草オペラ時代は戸山英二郎と名乗った。また、日本最初のジャズシンガーの元祖・二村定一も浅草オペラにいた。エノケンもそうである。エノケンの「カジノフォーリー」によって、浅草が大衆文化の王座を取り戻す。エノケンと二村定一の浅草オペラから浅草ジャズと軽喜劇二ついては、菊池清麿氏の『わたしの青空 二村定一 ジャズ・ソングと軽喜劇黄金時代』を参照。日本近代洋楽の歴史のページ。日本の近代音楽、洋楽文化研究に興味ある方はご覧下さい。
大正浪漫・晋平節(中山晋平の民衆歌曲・流行歌の近代化)・大正街頭演歌-鳥取春陽・古賀政男の芸術-古賀メロディー・
昭和の大衆歌謡
大正ロマンの流行り唄から昭和モダンと流行歌へ日本流行歌の変遷史
| 中山晋平 鳥取春陽 古賀政男 藤山一郎 |
生誕100年日本の近代音楽と藤山一郎
藤山一郎 歌唱の精神
国民的名歌手藤山一郎と声楽家増永丈夫の音楽個性と時代のページ
『藤山一郎 歌唱の精神』(春秋社・刊)の概略
芸大で声楽・音楽理論を研鑽、「上野最大の傑作」と言われ、純音楽のみならず大衆音楽においてその名をとどろかす。巨匠・古賀政男・服部良一・古関裕而らの作品を歌唱し、卓越した音楽技術と音楽は知性と感性であるという信念のもとに国民的名歌手・藤山一郎への途歩んだ。二十世紀が生んだ不世出の名歌手である。その功績は日本の流行歌・歌謡曲史のみならず、日本の近代音楽、ポピュラー史に燦然と輝く。今年、2011年、生誕100年を迎える。クラシックと流行歌において活躍した藤山一郎の日本の近代音楽史に残る功績は永遠に讃えられるであろう。
《藤山一郎 略歴》
藤山一郎は、明治四十四年、日本橋蠣殻町に生まれる。本名・増永丈夫。慶応幼稚舎時代に童謡歌手としてレコードを吹込む。昭和四年東京音楽学校(現東京芸術大学音楽部)に入学。、大正時代に童謡を吹込む。声楽を船橋栄吉、梁田貞、ヴーハー・ペー二ッヒ、指揮・音楽理論をクラウスプリングスハイムに師事。在校中に藤山一郎としてコロムビアからデビュー。《丘を越えて》《酒は涙か溜息か》《影を慕いて》が大ヒットして、これが音楽学校で問題となり停学処分となる。在校中、日比谷公会堂で外国人歌手と伍して《ロ−エングリーン》を独唱し好評を得る。昭和八年、首席で卒業。ビクター専属となる。流行歌、ジャズ、タンゴ、外国民謡、歌曲、独唱曲等を吹込む。また、ベートーヴェンの《第九》ヴェルディー・《レクイエム》等を独唱するなど声楽家増永丈夫でも活躍する。後にテイチク、コロムビアに移り、《東京ラプソディー》《男の純情》《青い背広で》《青春日記》懐かしのボレロ》《夢淡き東京》、《青い山脈》、《長崎の鐘》などのヒットに恵まれる。バリトン本来の美しさを持つテノールの音色をいかした豊かな声量と確実な歌唱は、正格歌手藤山一郎の声価を高め、メッツァヴォーチェからスピントの効いた張りのある美声は、人々に励ましと生きる勇気・希望を与え大衆音楽に格調と「陽」の世界を知らしめた。その功績は大きい。また、歌唱芸術のみならず、指揮、作曲においても活躍した。昭和三十三年放送文化賞、昭和四十八年紫綬褒章受章、昭和五十七年勲三等瑞宝章授与、平成四年、国民栄誉賞受賞。その功績は近代日本音楽史に燦然と輝く。.
菊池清麿−生誕100年藤山一郎 関連記事
「藤山一郎生誕100年−十勝の風景を歌う《狩勝小唄》」(『十勝毎日新聞』二〇一一年三月三月一一日)
「二つのペルソナ―生誕100年・藤山一郎と増永丈夫」(『春秋』二〇〇一一年四月)
「藤山一郎と沖縄―故郷よ心も姿も美しく(上)・(下)」(『琉球新報』二〇一一年四月七日・八日)
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「藤山一郎 生誕100年」(『北海道新聞』)二〇一一年四月八日)
「藤山一郎と増永丈夫」(国民的名歌手藤山一郎(上)コロムビア編)
「生誕100年・藤山一郎・青い山脈の周辺(上)」(『東奥日報』二〇一一年五月二三日)
「生誕100年・藤山一郎・青い山脈の周辺(中)」(『東奥日報』二〇一一年五月二四日)
「生誕100年・藤山一郎・青い山脈の周辺(下)」(『東奥日報』二〇一一年五月二五日)
「歌手藤山一郎生誕100年−再評価される功績」(『大分合同新聞二〇一一年七月二五日)
「生誕百年藤山一郎〜父の故郷福井を歌う(上)」(四季折々 『日刊県民福井」二〇一一年八月五日)
「生誕百年藤山一郎〜父の故郷福井を歌う(下)」(四季折々 『日刊県民福井」二〇一一年八月一二日)
「藤山一郎生誕百年に寄せて」(『週刊読書人』二〇一一年八月一九日)
生誕100年藤山一郎「富山娘」(『北日本新聞』二〇一一年八月二九日)
「生誕100年・藤山一郎と新潟県民歌」(『新潟日報』二〇一一年九月二七日)
「生誕100年・藤山一郎と中山晋平」(『長野日報』二〇一一年一〇月三日)
「生誕100年 藤山一郎 昭和モダンアコーディオンの青春」(『アコーディニスト』二〇一一年一一月二五日)
生誕100年 藤山一郎 日本橋の風」(『月刊日本橋』二〇一一年十二月)
「近代日本音楽の軌跡 −藤山一郎と増永丈夫』(『音楽文化の創造 CMC』第六三号 二〇一二年四月)
古賀政男と明治大学
昭和の大衆音楽・日本近代音楽史
明治大学の音楽遺産・20世紀の音楽文化
古賀政男が育てあげた明治大学マンドリン倶楽部の歴史
(近代日本マンドリン音楽史)
明治大学マンドリン倶楽部は大正十二年創部。この年は関東大震災があった。大正デモクラシーは黄昏の時期であり、光と翳が交叉する昭和モダニズムが展開しようとしていた。古賀政男はこの明治大学マンドリン倶楽部の創部に参画した。昭和三年秋、ゲストに佐藤千夜子を迎え、管楽器とマンドリンを融合させた画期的な演奏会を開催した。昭和モダンを謳歌する帝都に響いたのである。昭和四年春の定期演奏会では《影を慕いて》をギター合奏で初演。その後、古賀政男の作品は古賀メロディーとして昭和モダンを背景に一世を風靡。明治大学マンドリン倶楽部の名声も高まる。藤山一郎、,淡谷のり子、奥田良三、関種子当時の洋楽演奏家、楠木繁夫、霧島昇、二葉あき子ら人気流行歌手らも戦前のステージを彩った。HP製作者・菊池清麿は明治大学マンドリン倶楽部のOBである。明治大学マンドリン倶楽部時代の古賀メロディーの演奏には定評があった。フォルテッシモの情熱と古賀メロディーの繊細な感傷は明治大学マンドリンOB倶楽部でもしかり。このページは、明治大学マンドリン倶楽部の創設から古賀政男逝去の時代までの日本のマンドリン・ギター近代史である。古賀メロディー隆盛以前からの歴史とマンドリン界における異彩の姿がわかる。また、昭和三十年代のプレスリー旋風、昭和四十年代のビートルズの影響による日本のポップスの変化、8ビートを基本にした「ロックバンド&マンドリンオーケストラ」への変貌、日本ポピュラー音楽史の一断面でもある。流行歌誕生八十年を迎えた今日、昭和モダンの青春を高らかに歌った《丘を越えて》が注目された。このモダンライフを象徴する歌謡曲は藤山一郎の歌唱で知られている。また、その一方では、藤山一郎は、正統な声楽技術をベースにしたクルーン唱法で古賀政男のギターの魅力を後世に伝えた。文藝春秋社を創設し、芥川賞・直木賞の生みの親となった作家・菊池寛をテーマに、菊池の可憐な秘書と朝鮮半島の将来を抱く青年が織りなす小説「こころの王国」(猪瀬直樹作)が映画化された。タイトル『丘を越えて』。菊池寛に西田敏行、秘書・葉子に池脇千鶴、朝鮮の青年・馬海松(まかいしょう)に西島秀俊が配役に起用された。監督は高橋伴明である。
評伝 古賀政男
青 春 よ 永 遠 に

《古賀政男の略歴》
古賀政男は明治三十七年十一月十八日、九州福岡県三潴郡に生れる。本名古賀正夫(後の正男、昭和六年コロムビア専属後、政男)。その故郷は、北原白秋の生地詩情豊かな柳川の近くであり、《誰か故郷を想わざる》の楽想を育んだ。父を失い思い出き田口村を離れ朝鮮半島に渡った。このときの故郷喪失の哀しみが《人生の並木路》となった。朝鮮半島では感情の起伏の激しい少年時代を過ごした。大正十二年春、明治大学マンドリン倶楽部の創部に参画。人気歌手・佐藤千夜子に見出され昭和五年〜六年にかけて、マンドリン演奏、ギター演奏による自作品をビクターから流行歌として発売。昭和六年、コロムビアから藤山一郎の歌唱によって《酒は涙か溜息か》《丘を越えて》《影を慕いて》が一世を風靡。藤山一郎は当時東京音楽学校の学生で将来を音楽家として嘱望されていた。このクラシックの優等生がギター・マンドリンを通じて洋楽調の歌曲を創作した古賀政男の作品を歌ったことは大きかった。藤山一郎の歌唱がなければ古賀メロディーの存在はありえなかったであろう。古賀政男の登場によってレコード界は古賀メロディーの時代を迎える。これが古賀政男の第一期黄金時代である。その後、コロムビアを経てテイチクへ。テイチク時代は古賀メロディー第二期黄金時代を形成した。《二人は若い》《緑の地平線》《東京ラプソディー》《男の純情》《青い背広で》《人生の並木路》がヒット。藤山一郎、ディック・ミネ、楠木繁夫らを擁するテイチクのまさに黄金時代であった。コロムビア復帰後もヒットメイカーとして活躍流行歌王の声価を得た。《誰か故郷を想わざる》《目ン無い千鳥》《なつかしの歌声》等のヒットで第三期黄金時代を迎えたのである。昭和十二・三年頃から、ギター・マンドリンの洋楽の影響から日本的情緒を基調にした邦楽的技巧を駆使した作品に重きをなすようになる。《湯の町エレジー》は戦後の大ヒット。戦後は美空ひばりをはじめ多くの演歌歌手にそれぞれ個性的に自作品を歌わせ演歌の源流を志向した。だが、鳥取春陽に始まり、阿部武雄に継承された演歌の本流は、船村メロディーによって歌謡曲において確立することになる。昭和三十年代に入り、都会派ムード歌謡・吉田メロディー、ジャズの中村八大、演歌の船村メロディー、遠藤演歌の登場の中、ヒットメーカーとしての地位がしだいに消えかけたことは否めない。とはいえ、洋楽を受容し形成された近代日本流行歌、SPレコード歌謡曲、昭和歌謡史の発展における古賀政男の功績は大きい。とはいえ、古賀政男自身自ら、洋楽的遺産を捨て演歌の頂点に君臨したことは、歌謡曲を矮小化することになりなり、日本の音楽文化発展の障害なっとことは否めない。『こころの王国』を映画化した『丘を越えて』でも古賀政男の存在が薄いのも、それが影響している。
《生誕100周年記念出版!!》
プレクトラム音楽家「古賀正男」から流行歌王・「古賀政男」への途。クラシックの正統派藤山一郎との合作芸術。昭和を貫く古賀政男の波乱に満ちた人生は激動の昭和史そのものである。そして、そのメロディーを貫いているもの、それは青春の感傷と情熱の響きである。

アテネ書房
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日本ジャズ史-その黎明の時代
日本ポピュラー史の詳細なページです。ジャズの創世の時代がよく分かります。昭和モダンの空間に響いた時代の歴史。日本のジャズ史の必見ページ。洋楽文化の結晶。日本のジャズシンガーの元祖二村定一のページもあります。昭和初期に昭和モダンを舞台に一世を風靡した二村定一の小伝。日本語の明瞭度は藤山一郎の音楽技術によって高められてが、その影響を与えたのは二村である。『こころの王国』を映画化した『丘を越えて』では二村の《アラビアの唄》も流れている
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SPレコード歌謡の代表的名歌手(洋楽系歌手)
藤原義江・佐藤千夜子・二村定一・徳山l・四家文子・関種子・淡谷のり子・藤山一郎・松原操・松平晃・楠木繁夫・ディック・ミネ・灰田勝彦
菊池清麿-プロフィール
明治大学マンドリン倶楽部で活躍。明治大学大学院で近代日本政治史と思想史を研鑽。橋川文三の最後の弟子。近代と反近代の諸問題を背景に近代流行歌・音楽メディア史へのするどい分析を試みる。殊に藤山一郎研究、古賀政男研究は注目されている。『藤山一郎 歌唱の精神』『評伝古賀政男』は高い評価を得ている。研究のみならず、声楽を修め、表現者としても活躍。研究と実践を試みる。二〇〇八年は昭和流行歌生誕八十年。『日本流行歌変遷史』(論創社)では、歌謡曲の誕生からJ・ポップの時代までの日本流行歌の変遷の歴史を記す。この『日本流行歌変遷史』は大衆音楽文化論の基本テキストになるであろう。
プロフィールのページ・「なつかしの歌声」(戦前・戦後)・60年代の微かな記憶・70年代歌謡の回想記
昭和SPレコード産業発達史は菊池清麿の『メディア史研究第14号』(メディア史研究会編)において詳細に展開されています。昭和モダニズムを背景にした本格的な昭和レコード産業史・日本音楽メディア史の学術論文として注目されています。
紅白歌合戦の歴史。50・60年代昭和歌謡史。怪物番組・紅白歌合戦からみた昭和歌謡史がわかる。
なつかしの歌声 SP時代の歌謡曲に関心のある方、ご意見、感想をどうぞ。
SP歌謡・回顧と展望 SPレコード歌謡を回顧し今後の展望についての論戦掲示板です。
近代日本流行歌の歴史・変遷はおろか近代日本音楽史の断面、昭和モダンの歌謡群像がわかる。

流行歌を洋楽受容の近代音楽史としてとらえた近代日本洋楽史の歴史でもあります。昭和モダンと流行歌の時代でもあった。電気吹込みという流行歌の新時代にヴォーカル革命をもたらした不世出の国民的名歌手藤山一郎(声楽家 増永丈夫)、大衆音楽として価値のある浅草オペラを中心にした日本オペラ史、日本のジャズの黎明史、近代流行歌の成立-中山晋平から古賀政男への軌跡、SPレコード歌謡代表曲(戦前編)一覧、SPレコード歌謡名歌手(洋楽系)名鑑、レコードと蓄音器の歴史など豊富な情報が満載。藤山一郎の評伝『藤山一郎歌唱の精神』(春秋社)や古賀政男については、『評伝古賀政男 青春よ永遠に』(菊池清麿・著/アテネ書房・刊)を参照のこと。日本の流行歌の変貌の歴史は『日本流行歌変遷史』(論創社)に詳細に展開している。
古関裕而
不滅のメロディー
福島県が誇る音楽家・古関裕而が生誕百年を迎える。古関は明治四十二年(一九〇九)年八月十一日、福島市大町に父・三郎次、母ひさの間に生まれた。生家は福島四の目抜き通りの呉服問屋「喜多三(きたさん)」。古関が生まれた頃は、番頭・小僧が十数人いて、市内有数の老舗として繁盛していた。父母は結婚してから、長い間子宝に恵まれなかったが、待望の男子が生まれ、古関は両親に大変可愛がられた。古関の父は音楽好きだった。店の使用人のために蓄音器を購入し余暇にはレコードがいつもかけられていた。年少のころ、家にあった蓄音器から流れるレコード音楽の影響を受け、独学で音楽を学んだ。昭和四(一九二九)年、ロンドンのチェスター音楽出版社募集の作曲コンクールに舞踊組曲「竹取物語」ほか四曲を応募し入選した。無名の一音楽青年が国際コンクールで評価されたのは快挙であり、ストラビンスキー、ムソルグスキーを愛し苦心を重ねた独学のたまものであった。やがて、これが山田耕筰に認められ、彼の推薦によって日本コロムビア専属となり、古関の音楽人生がスタートした。大衆音楽の分野で古賀政男、服部良一と並んで歌謡界の三大作曲家の一人に数えられるようになったのである。だが、そこまでの道のりは決して平坦ではなかった。歌謡曲では、十年「船頭可愛や」がヒットしたが、迫り来る軍国の嵐のなかで、クラシック音楽に裏付けられた音楽芸術が戦争に利用されるという結果となり、時代に翻弄(ほんろう)されることになった。古関作曲の「露営の歌」「暁に祈る」「若鷲の歌」に送られ、多くの若者の尊い命が散っていったのである。
愛国心が当然の時代とはいえ、古関にとっては大きな哀しみでもあり、苦悩に満ちた日々を送る。だが、終戦を迎え平和な時代が訪れて、古関メロディーが大きく開花することになったのである。クラシックの格調と希望あふれる健康的なメロディー、ロマン的な抒情歌は古関の独壇場だった。
古関の音楽は実に幅が広い。歌謡曲のみならず、あらゆる音楽分野に傑作をのこしている。一般に古賀メロディーはギター・マンドリン、服部メロディーはジャズとリズムに特徴づけられるが、古関の音楽には古賀、服部にはない魅力があった。それは若人の青春の躍動の伝える不滅のスポーツ音楽である。
古関のスポーツ音楽は多く国民に感動を与えた。それは国民名歌・名曲として古関音楽の声価を高め、ことに「オリンピック・マーチ」は全世界にマーチ王として名を知らしめた。古関は「日本のスーザ」の称号を得て作曲家人生の頂点に立ったのである。
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近代日本流行歌・昭和SPレコード歌謡史概説
懐かしの流行歌・年譜・変遷史
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『日本流行歌変遷史』(論創社)
昭和初期、アメリカから電気吹込みを完備した外国レコード産業の到来によって、日本の歌謡曲は誕生した。そして、日本流行歌の変遷の歴史がはじまるのだ。外資系レコード会社も誕生し、近代詩壇で鍛えた作詞家、クラシック・ジャズ系作曲家、音楽学校出身の洋楽演奏家によって作られた歌謡曲の世界が戦後、ビートルズの来日によって、大きく変貌し消滅しJ・ポップが誕生した。日本流行歌の波乱に満ちた変遷史の決定版。
「歌は世につれ 世は歌につれ」と言われるように、歌は時代のと密接な関係を持ち、民衆の感情を映し出す鏡でもあった。
宮古市出身音楽評論家・歴史家菊池清麿さんの「日本流行歌変遷史 歌謡曲誕生からJ・ポップの時代へ」は、大正時代に誕生した流行歌が、どのような変遷をへて今に至ったのかを実証的に追った「歴史物語」の労作である。
流行歌は、二度の「黒船」到来によって大きな転換を遂げた。一つが、昭和初期の電気吹込みという新録音システムを完備した外国レコード産業の参入であり、二度目は一九九六年のビートルズ来日である。前者は音の革命をもたらし、後者の八ビートは日本のポップスに多大な影響を与えた。
本書は両者の視座に据えながら、流行歌の歴史を風俗史、音楽理論史、レコードメディア史など、さまざまな視点から多角的に分析している。
昭和3(1928)年]
流行リ唄から昭和流行歌 昭和モダンを舞台に日本の流行歌は大きな変遷の歴史が始まる。
藤原義江の新民謡、佐藤千夜子の晋平節、二村定一のジャズソングヒット。
[昭和4(1929)年]
二村定一、《君恋し》がヒット。佐藤千夜子、《東京行進曲》がヒット。
[昭和5(1930)年]
エロ・グロ・ナンセンス時代。エロ歌謡が流行。
[昭和六(1931)年]
藤山一郎・古賀メロディーの隆盛。《酒は涙か溜息か》《丘を越えて》。
[昭和7(1932)年]
藤山一郎・《影を慕いて》をリバイバル。
[昭和8(1933)年]
小唄勝太郎の登場、《島の娘》《東京音頭》の流行。
[昭和9(1934)年]
東海林太郎旋風・《赤城の子守唄》《国境の町》
[昭和10(1935)年]
ディック・ミネ・《ダイナ》
東海林太郎・《野崎小唄》
[昭和11(1936)年]
渡辺はま子・《忘れちゃいやヨ》が問題となる。
藤山一郎・《東京ラプソディー》《男の純情》
[昭和12(1937)年]
服部メロディーの登場。淡谷のり子・《別れのブルース》
上原敏・《妻恋道中》
古賀メロディー第二期黄金時代、藤山一郎・《青い背広で》
ディック・ミネ《人生の並木路》
[昭和13(1938)年]
霧島昇・ミスコロムビア・《旅の夜風》ヒット。
映画主題歌全盛時代に入る。
古賀政男・渡米
[昭和14(1939)
田端義夫・《大利根月夜》
古賀メロディー・米NBC放送から流れる。
[昭和15(1940)年]
古賀メロディー第三期黄金時代・霧島昇・《誰か故郷を想わざる》
灰田勝彦・《燦めく星座》
【政治・経済・1930(昭和5)年】
1月11日―金輸出解禁実施
4月22日―ロンドン海軍軍縮条約調印
5月6日―日華関税協定調印
10月1日―枢密院、ロンドン海軍軍縮条約調印
11月14日―浜口雄幸首相、東京駅で狙撃
《昭和SPレコード歌謡史概説・昭和六年》昭和六年四月重要産業統制法が公布された。政府は、一般大衆を切り捨てる政策をとりカルテルを促進させ財閥の擁護を図った。この年は、昭和モダンの翳で泣く女給の涙を歌った《女給の唄》、東京音楽学校(現芸大)出身のバリトン歌手徳山lが堂々と歌った《侍ニッポン》などが流行した。いずれも作詞は西條八十。昭和六年、九月十八日、奉天郊外の柳条湖で南満州鉄道を爆破し、これを中国軍の行為とみせかけて関東軍は軍事行動を開始した。これが満州事変に発展した。このような暗い世相を背景に古賀メロディーが一世を風靡した。これまで劣勢だった日本コロムビアは,いっきに巻き返すことになる。歌唱者の藤山一郎は、当時、東京音楽学校(現芸大)の学生で将来をバリトン歌手として嘱望されていた。昭和恐慌で傾いた生家の借財返済のためのアルバイトだった。豊かな声量をメッツァヴォーチェの響きにしてマイクロフォンに効果的な録音をした。クルーン唱法によって古賀政男の感傷に溢れたギターの魅力を表現した功績がある。また、その一方で、スピントの効いた張りのある美声で《丘越えて》に代表されるように古賀メロディーの青春を高らかに歌った。だが、あまりにもレコードが売れたため、学校当局が知ることになり、藤山一郎(増永丈夫)は、一ヶ月の停学処分となった。
【政治・経済・1931(昭和6)年】
3月―三月事件・軍部クーデタによる宇垣一成内閣樹立企図
4月1日―重要産業統制法
6月27日―中村大尉事件
9月18日―柳条湖事件(関東軍参謀ら、満鉄線路爆破しこれを口実に軍事行動)
10月―十月事件・軍部内閣樹立のクーデター計画
11月17日―若槻内閣政府不拡大方針崩壊
12月13日―犬養内閣・金輸出再禁止
《昭和SPレコード歌謡史概説・昭和七年》昭和七年の世相は、血盟団事件、五・一五事件、坂田山心中、など暗い陰影を露にしていた。そのような時代相を反映した藤山一郎歌唱による《影を慕いて》が一世を風靡した。続いて徳山l・四家文子歌唱の《天国に結ぶ恋》が流行した。徳山lは、すでに前年の《侍ニッポン》もヒットさせ流行歌手の地位を得ていた。共演者の四家文子も東京音楽学校の出身の声楽家(アルト)で《銀座の柳》をヒットさせた。また、ビクターでは、《涙の渡り鳥》で新鋭佐々木俊一が登場。彼は、東洋音楽学校を中退しビクターのオーケストラの一員でドラムを叩いていた。これを歌った小林千代子は東洋音楽学校出身で、当初は金色仮面という覆面歌手で話題をまいた。《涙の渡り鳥》のときは覆面は脱いでいた。ポリドールからは、海軍軍楽隊出身の江口夜詩が《忘られぬ花》をヒットさせ古賀政男に対抗した。江口メロディーのスタートである。これを歌った池上利夫は、福田恒治といって東京音楽学校師範科の生徒だった。すでに、ニットから、大川静夫の名前で《夏は朗らか》を歌いデビューしていた。
【政治・経済・1932(昭和7)年】
1月28日―第一次上海事件
2月9日―血盟団員、前蔵相井上準之助射殺
3月1日―満州国建国
3月5日―血盟団員、三井合名会社理事長団琢磨射殺
5月15日―五・一五事件、海軍青年将校、首相官邸などを襲撃し、犬養首相暗殺
9月15日―日満議定書調印
《昭和SPレコード歌謡史概説・昭和八年》昭和八年三月、日本は満州国をめぐり英米と対立し国際連盟を正式に脱退した。これによって、日本は国際社会から孤立することになる。国内では、自由主義的刑法学説を提唱していた滝川幸l辰(京都帝国大学教授)が免職となるという滝川事件、日本共産党の最高指導者たちの獄中からの転向表明など、思想、学問への圧力が目立ちはじめた。昭和八年のSPレコード歌謡は、小唄勝太郎のハー小唄が一世を風靡。勝太郎神話が生まれる。昭和八年春、藤山一郎が東京音楽学校を卒業しビクターと専属契約を結ぶ。声楽家増永丈夫とテナー藤山一郎の二刀流。《僕の青春》は、晴れて卒業を祝福されるかのような青春讃歌だった。世の人々にも歓迎されて見事にヒットした。また、増永丈夫では、《第九》のバリトン独唱をこなし、「上野最大の傑作」を認識させた。クラシックの声楽家が流行歌手になる。それもモダニズムである。コロムビアは、すでにポリドールから《忘れられぬ花》で売り出していた池上利夫を松平晃として入社させ対抗馬として期待した。古賀メロディーの《サーカスの唄》を吹込む。当時、松平は、東京音楽学校の師範科に在学中だったが、このヒットで秋には学校を退学した。また、コロムビアには江口夜詩が入社し《十九の春》をヒット。歌唱者は、東京音楽学校出身のミス・コロムビア(松原操)。松原は、同校の研究科に在籍中で修了するまでは本名を隠して吹込むという約束をコロムビアとかわしている。夏に入ると「ええじゃないか」の昭和版といわれた《東京音頭》が大流行した。この狂乱ともいうべき熱狂はファシズムの前夜を思わせた。
【政治・経済・1933(昭和8)年】
1月9日―実践女学校専門部生徒、三原山で自殺
2月20日―小林多喜二、築地署に検挙され虐殺(29日)
2月24日―国際連盟・撤退勧告案可決に対して松岡洋右代表が退場
3月27日―国際連盟脱退正式通告
4月22日―滝川事件(滝川幸辰の著書が問題となり京都大学休職)
6月7日―共産党幹部佐野学・鍋山貞親ら転向表明
《昭和SPレコード歌謡史概説・昭和九年》昭和九年のSPレコード歌謡は、《さくら音頭》合戦、古賀政男を迎え東京進出をはたした新興勢力テイチク、ポリドールの東海林太郎旋風が話題であった。《赤城の子守唄》が空前の大ヒットとなった。当時の流行歌手は、徳山l、四家文子、関種子、藤山一郎、淡谷のり子などの音楽学校出身者が主流を占めていたが、東海林太郎は、音楽コンクールに入賞したとはいえ、その出身ではなかった。早稲田を終え満鉄に就職したがそこを辞して下八川圭祐に師事し歌手になったのである。放送オペラにも出演していたが、直立不動の姿勢を保ち澄んだバリトンでSPレコード歌謡において東海林太郎時代を築いた。昭和九年のSPレコード歌謡は、東海林太郎のポリドール、古賀政男を迎えたテイチクの新興勢力に名門もロムビアの江口ー松平コンビが対抗するという図式で展開する。江口夜詩は、古賀メロディーに無かった分野を開拓した。「曠野もの」といわれたジャンルである。松平晃が歌う《急げ幌馬車》がヒットした。古賀は、《国境を越えて》を作曲するが、ポリドールの東海林太郎が万感の思いを込めて歌った《国境の町》に完敗した。コロムビアを追いやられる形になった古賀政男の江口夜詩に対する対抗意識は凄まじいものであった。だが、藤山一郎無しでの古賀メロディーは苦戦をすることになる。この昭和九年のSPレコード歌謡には、外国のポピュラー曲に傑作が多い。楽壇の雄テノール歌手の奥田良三が歌唱するドイツ映画『会議は踊る』の主題歌《命かけて只一度》、中野忠晴がヒットさせた《山の人気者》 唄川幸子の歌でニットから発売された《上海リル》、東海林太郎の澄んだ響きで《谷間の灯》、藤山一郎の美しいテナーの音色をいかしたハイバリトンで歌唱する《蒼い月》、淡谷のり子の妖艶なソプラノによるジャズ・タンゴ・シャンソンなどの洋楽文化をポピュラーなものにしていた。
《昭和SPレコード歌謡史概説・昭和十年》昭和十年のSPレコード歌謡は、藤田まさと-大村能章-東海林太郎のポリドールが道中物で圧倒する。《旅笠道中》、《むらさき小唄》がヒットした。殊に昨年暮れからの《国境の町》のヒットによって東海林太郎の人気は凄まじいものであった。名門ビクターは、《無情の夢》で意地を見せる。イタリア帰りの児玉好雄が歌った。彼は、オペラを勉強中にも小唄、端唄、民謡の研究にも余念ガなく、その成果がヒットにつながった。同じ名門コロムビアは、江口-松平コンビが「曠野物」でヒットを放つ。松平晃・豆千代が歌う《夕日は落ちて》は17万枚の売れ行きだった。古賀政男のテイチクも巻き返しをはかり、ヒット量産にエンジンがかかった。《ダイナ》をヒットさせていたディック・ミネと星玲子が歌った《二人は若い》、テイチクの春を呼ぶかのように楠木繁夫が熱唱した《緑の地平線》がヒット。楠木繁夫は、本名黒田進。昭和三年、東京音楽学校を中退して、関西のオリエント、タイヘイ、ニットー、名古屋のツルレコードなどで吹込みの仕事をした。五五の変名を使ったことは有名である。テイチクでは、藤村一郎という名前で吹込んでいたが、楠木繁夫として再生し《緑の地平線》でようやくスターダムに登った。、ポリドールも負けてはおらず、日本調歌謡の《野崎小唄》が人気絶頂の東海林太郎の歌唱でヒットした。
《昭和SPレコード歌謡史概説・昭和十一年》昭和十一年の世相は、皇道派の青年将校が軍部内閣樹立を目指して昭和維新を断行し内外の危機打開する目的でクーデターを敢行した二・二・六事件に象徴された。晩秋に発売された妖艶なソプラノで歌う淡谷のり子の《暗い日曜日》は、暗い時代を予兆させるものであった。だが、SPレコード歌謡は、豊かな発展を見ることになる。昭和十一年、春、古賀政男と藤山一郎のコンビが復活した。二人の合作芸術による《東京ラプソディー》はモダン都市東京を高らかに歌い平和の讃歌でもあった。昭和モダンの最後の余韻であり、都市文化の讃歌といえる。藤山一郎の声量も豊かで正確無比な歌唱は、古賀メロディーを決定的なものにし、テイチクは、古賀メロディー全盛によって黄金時代を迎える。この年は、健全な歌を目指し、国民歌謡もスタートした。この年は、《忘れちゃいやよ》に対する「婦女の媚態を眼前に見る如き官能的歌唱」という批判もあり、流行歌の浄化を目的にしていた。奥田良三、関種子、徳山l、四家文子、藤山一郎(増永丈夫)松平晃、永田絃次郎らが放送した。国民歌謡は、日本歌曲のような格調が高いものが多く、流行歌ほどの広がりは見られなかった。
《昭和SPレコード歌謡史・昭和十二年》昭和十二年,七月七日、盧溝橋事件が勃発した。現地では、停戦の動きもあったが、第一次近衛文麿内閣は、閣議で派兵を決定し泥沼の全面戦争に発展した。日中戦争開始後、軍国歌謡の先頭を切って盛んに歌われたのが《露営の歌》だった。軍国の高まりのなかで、昭和十二年のSPレコード歌謡は、まず、古賀メロディーの黄金時代で幕を開けた。ディック・ミネが切実と歌う《人生の並木路》、藤山一郎の美しい澄んだ響きで《青い背広で》《青春日記》がヒットした。ディック・ミネは、ジャズシンガーであり、外国のポピュラーソングのレコードを数多く吹込んでいた。古賀メロディーのヒットは異色であった。キングレコードもようやくヒットに恵まれた。松島詩子の歌唱でロマンチックな《マロニエの木陰》が流行した。ポリドールからは、日本調歌謡で新たなスターが登場した。上原敏である。東海林太郎とは、また一味違った泥臭さのある歌唱で《妻恋道中》《流転》《裏町人生》などをヒットさせた。上原は、専修大学時代野球部で活躍、わかもと製薬の野球部でも活躍した。ポリドールの文芸部長秩父重剛の知遇をえてポリドールに入社した異色歌手である。また、ポリドールの先輩歌手東海林太郎は、文芸歌謡として《すみだ川》、社会派歌謡の《湖底の故郷》をヒットさせた。このように軍国歌謡の高まりのなか、SPレコード歌謡は黄金時代を満喫するが、淡谷のり子のブルースは新しい風をもたらした。淡谷のり子の《別れのブルース》は、哀愁に満ち人々の心を捉えた。淡谷は、昭和モダンの哀愁を感じさせる妖艶なソプラノでジャズ、タンゴ、シャンソンを歌っていたが、これに加えてブルースの女王という新たな魅力を大衆にアピールした。作曲者の服部良一は、流行歌に「ジャズのフィーリングをいかした作曲をしていたが、この《別れのブルース》で一流の作曲者の仲間入りをはたした。
《昭和SPレコード歌謡史概説・昭和十三年》昭和十三年二月、各社レコード会社は、国民の自発的な戦争協力を高め、日本精神の高揚を目的に制定された《愛国行進曲》を競って発売した。レコードは、四月に新譜発売されたビクター盤、バリトン歌手徳山lが朗々と第一声を響かせたレコードが最もヒットした。これは、荘重な曲想を持ち、稜威の昂揚が謳われており、国民合唱に適していた。また、国民歌謡で発表された《愛国の花》は、メロディーが清潔な印象を与え、女性の間で歌われ一般にもかなり流行した。尚、歌唱は渡辺はま子。クラシックの歌曲のように歌った。中国戦線が長期化すると、国内は戦時体制に見合った経済統制が計られ、人的・物的資源を統制運用する国家総動員法が制定された。国内の戦時体制が強調されるなか、SPレコード歌謡は、ますます充実する。昭和十三年、映画『愛染かつら』の主題歌《旅の夜風》が大流行した。これによって、霧島昇がスターダムにのし上がった。霧島昇は、すでに坂本英明の名前で《僕の思ひ出》を歌いエジソンレコードからデビューしていたが、コロムビアの目に止まり同社の専属となった。また、中国を舞台に甘い哀愁を漂わせた《支那の夜》が渡辺はま子の歌声で大流行した。美貌とソプラノの音色もつ渡辺はま子は、これによってチャイナメロディーで活躍する。中国戦線は果てしなく続き、戦地に赴く兵士たちは、故郷を偲ぶ歌を好んだ。火野葦平の『麦と兵隊』をもとに作った《麦と兵隊》が戦地と銃後を結びつけ東海林太郎の歌唱でヒットした。
《昭和SPレコード歌謡史概説・昭和十四年》昭和十四年、国民徴用令によって、一般国民が軍需産業に動員されるようになり、財閥系企業も国策への協力を強めた。同年九月、ドイツがポーランドに侵入しついに第二次世界大戦が勃発した。昭和十四年は、SPレコード歌謡において異色歌手が登場する。松坂屋のデパートの店員だった岡晴夫、旋盤工をしながら歌手を目指し、新人歌手コンクールで入選した田端義夫などがSPレコード歌謡にデビューした。岡は、戦後明るい歌声で「オカッパル時代」を築くが、キングから発売された《上海の花売り娘》《港シャンソン》などですでに戦前おいてヒットを飛ばしていた。田端は、「バタやん」の愛称で親しまれ独得の歌いまわしで人気を得た。また、同じポリドールからは、北廉太郎が既に同社の期待を担って登場していた。昭和十四年、四月、藤山一郎がテイチクから、コロムビアで移籍した。コロムビア(アルバイト)→ビクター→テイチク→コロムビアと古巣に戻ってきた。そして、再び、声楽家増永丈夫とテナー藤山一郎の二刀流が始まる。ビクターでは、アルト歌手の由利あけみが《熱海ブルース》《長崎物語》をヒットさせた。由利は、東京音楽学校の出身で《お蝶夫人》の鈴木役や《カルメン》で好評を博した。コロムビアの女性歌手では、二葉あき子が《古き花園》を歌いスター歌手の仲間入りをはたした。二葉は、東京音楽学校の師範科出身で、広島で女学校の先生をした後に昭和十一年コロムビアから、《愛の揺り籃》で流行歌に登場した。また、古賀政男が去った後のテイチクでは、ディック・ミネが《或る雨の午後》《上海ブルース》などを外国曲のフィーリングをいかしながらヒットさせた。
《昭和SPレコード歌謡史概説・昭和十五年》昭和十五年六月、近衛文麿が枢密院議長を辞して新体制運動の先頭に立つことを表明した。同年九月には、日独伊三国同盟が成立し、十月には新体制運動は大政翼賛会に結実した。戦時体制が完成されて行くなか、昭和十年前後から始まったSPレコード歌謡の第二期黄金時代は、コロムビアが制することになった。古賀政男は外務省音楽親善使節として多大な功績を残して帰国。コロムビアから《誰か故郷を想わざる》《新妻鏡》《なつかしの歌声》などヒットさせた。コロムビアは、正格歌手藤山一郎、軍国歌謡においてドラマテックなバリトンで歌う伊藤久男、霧島昇、ブルースの女王淡谷のり子、渡辺はま子、二葉あき子らを擁して他社を圧倒した。伊藤久男が熱唱する《暁に祈る》に代表される軍国歌謡の隆盛のなか、《湖畔の宿》の美しい抒情的なメロディーは高峰三枝子の歌声とともに人々の心をうった。また、昭和十五年のSPレコード歌謡は灰田勝彦が人気を博した。灰田は、立教大学出身のハワイアン歌手だった。ニットーから、昭和八年に《モアナ麗わし》でデビューし、昭和十一年ビクターの専属になり、ジャズなど幅広く軽音楽を歌っていた。映画『秀子の応援団長』の主題歌である《燦めく星座》は、都会偏重だった灰田の人気を全国的なものにした。渋いバリトンに加えヨーデルや裏声を交えた甘い歌唱は、多くのファンを魅了した。
《昭和SPレコード歌謡史概説・昭和十六年》昭和十六年十二月八日、日本は、マレー半島上陸し、ハワイの真珠湾を奇襲攻撃することによって、太平洋戦争に突入した。だが、太平洋戦争突入前のSPレコード歌謡は、古賀メロディーにしては珍しいジャズ調の《歌えば天国》など戦争を感じさせないレコードも発売された。レコード界の話題としては、東海林太郎がポリドールからテイチクに移籍したことである。ポリドールをコロムビア、ビクターに比肩させるまでにした東海林太郎の力でテイチクを盛り上げようという意図なのである。藤田まさと、長津義司、田村しげるなどポリドールの主力が移籍した。ビクターから発売された《歩くうた》は、曲調は単調でリズムが重く太平洋戦争の悲劇を予兆するような印象をあたえた。これを歌唱した徳山lは、翌年、一月逝去した。
《昭和SPレコード歌謡史概説・昭和十七年》昭和十七年一月マニラ占領、二月、シンガポール陥落させ、破竹の勢いで南太平洋の広大な地域を占領した。だが、昭和十七年六月、ミッドウエー海戦の敗北を転機にして戦局は、しだいに不利となり、アメリカ軍の本格的攻勢を受けることになった。昭和十七年八月、敵国の文字である「コロムビア」の称号を使用することは憚れ、「日蓄(ニッチク)」と改称することになった。同じようにビクターは「勝鬨」、ポリドールは、「大東亜」、キングは「冨士」、テイチクは、「帝蓄」と改称していった。軍国歌謡が盛んに作られる中、抒情的な歌謡も生まれた。霧島昇と二葉あき子の歌唱による《高原の月》、タンゴのリズムにのせ人気絶頂の灰田勝彦が歌う《新雪》、青春の感傷と抒情的な美しさが好まれた《鈴懸の径》、文芸歌謡の傑作《湯島の白梅》などが愛唱された。《湯島の白梅》を歌った小畑実は、すでにポリドールからデビューしていたが、この歌で世に知られるようになった。
《昭和SPレコード歌謡概説・昭和十八年》昭和十八年には、大学・高等専門学校に在学中の徴兵適齢期文科系学生を軍に召集、学徒出陣が始まった。また、学校にのこる学生・生徒を勤労動員し、未婚の女子を女子挺身隊に編成して軍需工場などに動員した。また、朝鮮人の強制連行も増加し、占領下の中国人を日本に連行し鉱山などで働かせた。この年は、戦中歌謡の最後の大ヒットが生まれた。長谷川一夫主演の映画『伊那の勘太郎』の主題歌《勘太郎月夜唄》である。小畑実と藤原亮子が歌った。軍国歌謡では、《若鷲の歌》が大ヒットした。作曲者の古関裕而は、土浦の海軍航空隊へ赴く車中で別のメロディーが浮かびそれを譜面に書き止めた。二つの曲を隊員に聴かせところ、ふと浮かんだマイナーのメロディーの支持が多く、この歌が出来上がった。また、《南から南から》《お使いは自転車に乗って》のような明るい歌も流行した。
《昭和SPレコード歌謡概説・昭和十九年》昭和十九年から、アメリカ軍機による本土爆撃が激化し、敗戦の色が濃厚になった。インパール作戦の失敗、サイパン島の陥落、レイテ沖海戦の敗北と日本の運命は、もう見え始めていた。老人、婦女子の地方疎開や国民学校高学年生の集団疎開が行われるなど、国民生活は戦争によって崩壊し始めた。それを象徴するかのように《勝利の日》までは悲壮感と哀愁が漂っていた。また、古賀政男作曲の《月夜船》は、明るい曲調で戦時色がなかったが、戦後、ヒットすることになる。