近代日本洋楽史/近代日本音楽史の一断面
オペラという異文化に接し日本人の手で作り上げた歴史。そこに文化のコミュニケーションがあった。近代音楽と日本のオペラ、その黎明史。日本近代音楽史・日本流行歌の変遷史にもつながる
日本オペラ史-浅草オペラ(菊池清麿)
浅草オペラ概観
宮澤賢治が北海の海を臨みながら幻想の中に去来する夢想世界の中で描いた浅草オペラの定義は難しい。グランドオペラ、オペレッタ、ミュージカル、創作オペラ、舞踊などが演じられ、その内容や形式が非常に複雑であり種々雑多だからである。その坩堝のような様式の系脈と経路が一気に浅草で花開いたのだから、その後の定義付けが困難であることも当然といえよう。そこで、まずはその系脈と経路を簡単にのべてみることにしたい。
「浅草オペラ」とは1・ローシーの系列(グランドオペラ・オペレッタ/清水金太郎・静子夫妻/原信子/田谷力三)、2・ミュージカル(伊庭孝/高木徳子/佐々紅華/高田雅夫・せい子夫妻/石井漠)、3・創作オペラ(伊庭孝/佐々紅華)と、三つの流れがある。そして、この系脈は河合澄子らを生んだ少女歌劇の分野を加味した音楽形態のジャンルで分ければ四つに分類することができる。外国の名作オペラ(歌劇、喜歌劇)、少女歌劇、お伽歌劇、日本製の音楽劇、舞踊などの小品に分類されるのである。浅草オペラは特定に階級に限定されることがなく、上位・下位の境目を無くした複合芸術文化なのである。
このような広義の浅草オペラの元年とは、いったいいつなのか。増井敬二はつぎのようにのべている。
「大正五年に始まった高木徳子と伊庭孝、および西本朝春らの活動が、浅草オペラ開幕の“第一の波”とすると、翌大正六年の秋から七年春にかけての佐々紅華と石井漠、清水金太郎夫妻と原信子その他の動きは“第二波”となって、次の浅草オペラ全開の時代へと進むのである」(『浅草オペラ物語』)
これを踏まえて浅草オペラの歴史的なエポックの時系列をしめせばつぎのとおりである。
大正六年一月二二日、歌舞劇協会(伊庭孝・高木徳子)、『女軍出征』を常盤座で初演
大正六年一〇月二三日、東京歌劇座(佐々紅華)、『カフェーの夜』を日本館で初演。日本館の浅草オペラ時代の開始。
大正七年二月、清水金太郎・静子夫妻、東京歌劇座に加入。
大正七年三月 原信子歌劇団、浅草へ進出する。観音劇場とで旗揚げ公演、田谷力三が参加(『アルカンタランの医師』七月、脱退する)。ローシー、日本を去る。
大正七年九月、原信子歌劇団、東京歌劇座(一〇月、田谷力三加入)、ホワイト・スター・バンド(高田雅夫)三座合同公演(駒形劇場)、このとき、原信子男装し『リゴレット』のマントヴァ公爵を演じる。
大正八年二月 七声歌劇団、結成する。金竜館で公演(金竜館が浅草オペラ専門劇 場となる)。
大正八年五月、新星歌舞劇団、結成される(松竹専属)。
大正九年四月、日本館の映画上映が開始され、映画が同館の中心となる。
大正九年六月、日本館、映画常設専門館となるために修理休場となる。
大正九年九月、新星歌舞劇団が根岸興行部専属となり根岸歌劇団と改称(浅草オペラの大同団結)。
大正一一年三月、根岸歌劇団、『カルメン』を上演する。
こうしてみると、たしかに、浅草オペラの時代を彩る隆盛の始発は伊庭孝、高木徳子らの大正六年一月に浅草常盤座で上演された『女軍出征』である。それは帝劇歌劇部の路線とは異なる系脈の高木徳子という一人のダンサーの登場によるものだった(大正四年、高木はローシーの振付による『幻夢的バレー』で酒保の女の役で出演しているが師弟関係ではない)。ローシー系列の清水金太郎、原信子、田谷力三、高田雅夫らよりも浅草へと一歩先駆けたのである。さらに、佐々紅華、石井漠、澤モリノらを中心に結成された東京歌劇座が浅草六区の日本館で旗揚げされ、河合澄子らが演じる『カフェーの夜』(大正六年)が大成功を収め、浅草オペラのミュージカルの路線がローシー系列のオペラ(グランドオペラ/オペレッタ)よりも一足先に浅草に音楽空間を構築したのである。また、この日本館は金竜館よりも先にオペラ常設館となり、ミュージカル系が浅草オペラ隆盛の装置となったのである。
一般にオペラといえば、冒頭でのべたとおり、クラシック音楽を基本に創られ、舞台でそれぞれの役を演ずる歌手がオーケストラ演奏によって朗々とそれぞれの配役によるアリアを歌い上げると云うイメージがある。それに対してミュージカルは歌と踊りが主体で形式的にはオペレッタに近いが、舞踊表現の有無も重要だがポピュラー音楽を楽曲として使うという点において主体となる音楽が違うのである。
ミュージカルとグランドオペラ、オペレッタが浅草オペラの象徴の地位を競争するかのように混在しているが、それはミュージカル系列の高田雅夫(帝劇二期生)、舞踊家であり日本モダンダンスのパイオニアの石井漠(帝劇一期生)、澤(沢)モリノ(帝劇二期生*一期生に入り教育を受ける)らが帝劇歌劇部でローシーの指導を受けており、その流れがまず最初に先陣を切って浅草で成功したからである。
石井はローシーの峻厳な指導に反発し帝劇歌劇部を去り、山田耕筰のアドバイスを受けローシーから学んだバレエセンスを生かし舞踊家として大成した。その石井とパートナーを組んだのが澤モリノである。それに対して、ローシーとローヤル館で共にし、歌舞劇協会、東京歌劇座、新星歌舞劇団、根岸歌劇団と歩み賢治に印象をあたえたのが高田雅夫である。これらのミュージカル系の最初の活躍は浅草オペラの支流であるとはいえ、やはり太い線の流れである。
このようにミュージカルが浅草で開花し浅草オペラの先陣を切ったことは事実だが、広い意味で定義される浅草オペラの成立元年は三つの系列と四つのジャンルが勢揃いした大正七年と見るのが妥当ではなかろうか。日本館(東京歌劇座、歌舞劇協会、アサヒ歌劇団)、観音劇場(原信子一座、七月から東京歌劇座が出演)などにオペラ団体が集まり、これが複層的な集合体としての浅草オペラの全面展開の元年と見るべきと思われる。そして、今日、伝えられる浅草オペラを最も象徴する金竜館オペラ時代のスタートが七声歌劇団の結成の大正八年二月(金竜館が浅草オペラ専門の劇場となる)であり、同年五月には新星歌舞劇団(東京本郷座を拠点に松竹系の四大都市の各地で公演)が結成され、同歌舞劇団は日本館、金竜館にとっては脅威の存在となったが、それに対抗するかのように浅草オペラは全開し、金竜館が浅草オペラのメッカ、いわゆる「金竜館時代」を迎えるのである。そして、その頂点が大正九年の根岸歌劇団の結成による大同団結、つまり、大正九年九月には伊庭孝(歌舞劇協会)、佐々紅華(東京歌劇座)らも参画した根岸歌劇団が結成され、浅草オペラの複合文化による芸術体が浅草の空間に成立し、絶頂期が大正一一年の『カルメン』の上演の前後ということになるのである。
《日本近代音楽史・浅草オペラ前史》
大正の音楽風景といえば、浅草オペラの全盛をあげなければならない。日本音楽史においてオペラがこれほどまでに大衆に受けいられた時代はない。純粋オペラではなく日本的なものに変形され、叙唱は安易なセリフとなり舞踊と歌が漫然に混合したものだが、ペラというもの魅力をアピールしたという点においては評価されべきである。日本の最初のオペラの上演は、明治二十七年、上野の東京音楽学校の奏楽堂で《ファウスト》といわれている。第一幕の書斎の場面だけで、しかも、素人の学芸会程度のものだったらしい。したがって、明治三十六年七月二十三日の東京音楽学校歌劇研究会によるグルックの《オルフォイス》がその嚆矢といっても差し支えないであろう。後の世界的プリマドンナ三浦環(このときは柴田姓)が出演している。三浦環は、同年の三月同じ奏楽堂で行われた学友演奏会でメンデルスゾーンの《エルサレム》を独唱し、好評を博していた。 このオペラの上演は学生の間で計画されたものである。その学生らの一人、渡辺康三という学生がその費用一千円負担することで実現した。舞台装置は美術学校の先生が協力した。出演者は、ソプラノ柴田環(ユリデイス)、アルト吉川やま子(オルフォイス)、メゾ・ソプラノ宮脇せんの主役の女性三人と合唱男女十六人。まだ、本格的なオーケストラはなかったので、哲学者のケーベルがピアノ伴奏をし、指揮・演出はノエル・ペリーが担当した。オルフォイスは、妻ユリディスが蛇に噛まれその毒で死んでしまったことを痛く悲しむ。そこへ愛の神アモールが現れる。彼はその神の力をかりて愛すべき妻を取り返すために天国を目指す。その途上で獣に妨げられるが、歌のもつ威力によって駆逐するというストーリーで展開する。三浦環のソプラノは、艶やかで瑞々しく歌の力、芸術の力によって悪魔をも征するということも証明するうえで十分であった。しかし、それ以後、東京音楽学校では、昭和七年七月二日のプリングスハイム指揮の《デア・ヤーザーガー》(《イエスマン》)以来オペラは上演されることはなかった。尚、このステージ(東京音楽学校奏楽堂)では、東京音楽学校が期待するバリトンの増永丈夫(藤山一郎)がテノール音色をいかして主役のテナーを務めている(東京芸術大学百年史,演奏会編第二巻)。では、日本における本格的歌劇団の誕生といえば、明治四十四年八月に作られた帝国劇場の歌劇部である。帝国劇場は、明治四十四年三月一日に開場した。欧米諸国のような国立劇場の必要性を感じ、西園寺公望の後押しで、渋沢栄一、大倉喜八郎、益田孝らの財界人の手によって建設された。当然、イタリア、ドイツのようにオペラが上演できるという展望と理想があってのことだった。帝国劇場は、パリの国立劇場を模倣した純洋風の建築物で館内は定員一千七百の全部椅子席だった。欧米並の舞台芸術とその聴衆という意図があったことが容易に理解できる。また、明治三十七年に三越呉服店が欧米風のデパートメント=ストアーをめざし、多くの食堂・喫茶室を設けたので、この帝国劇場の開場によって、「今日は三越、明日は帝劇」というキャッチフレーズも生まれ流行した。 帝劇公演の最初は、舞踊劇《胡蝶の舞》(ウエルクマイスター作曲)だった。暮れの十二月には柴田環とザルコリーの《カヴァレリア・ルスティカーナ》における二重唱。無難に終わった。ところが、翌四十五年の二月には、ユンケル作曲の創作オペラ《熊野》では柴田環が慣れぬ踊りの最中に女官の衣装に足をとられよろける場面があり、観客の嘲笑を買うというさんざんな始末であった。六月にはウエルクスマイステル作曲《釈迦》を上演。これらの帝劇の公演ではプリマドンナ柴田環の独唱こそ話題を呼んだが、帝劇のオペラそのものはあまりよい評判ではなかった。
《ローシーの来日》
大正元年八月五日、帝劇の招きでジョンバニ・ヴィトリオ・ローシーが来日した。イタリア人のこの男は、ロンドンのヒズ・マジョスティー劇場(当時の記録には「マチステ座」ある。)で舞踊の振り付けと軽歌劇の舞台監督をしていた。ローシーははじめ”帝国”という響きに宮廷劇場と勘違いをして感激してしまい、日本に来てみると実は民営であることを知りすっかり意気消沈してしまったという逸話が残っている。しかし、ローシーはこのアジアの一角に西洋オペラを根づかせようと労を惜しまず全力を尽くした。六尺棒で覚えの悪い歌劇部員を鍛えたのは有名な話である。石井漠はそれが原因でローシーと大ゲンカをして飛び出してしまうのだが、とのかくローシーの指導は峻厳さを極めた。
ローシーは、大正三年九月公演の《マスコット》以後、オペレッタの上演に重点を移した。このローシーの方針変更は当時の歌劇部員の実力と観客の質の低さを考えてのことであった。しかし、帝劇歌劇の興行は不振を極めた。さんさんたるものであった。大正五年五月、帝劇の経営陣は、赤字の累積に悩みついにローシーに契約満了と同時に帝劇歌劇部を解散してしまったのである。しかし、その後、ローシーの芸術への意欲は消えることはなく、私財を投じて赤坂見附付の弁慶橋近くの映画館万歳館を買い取り、オペラが上演できるように改装してローヤル館と名づけた。ローシーはこれをオペラの殿堂にしようとしたのである。これが大正五年の十月一日、記念すべきローシーの旗揚げの日であった。以後、《天国と地獄》《ボッカチオ》などオペレッタを中心に上演する。しかし、それは、ローシーの理想と現実の苦闘が幕をあけることでもあった。 その頃、浅草ではオペラ隆盛の兆しが見え始めていた。大正六年一月二十二日、伊庭孝、高木徳子らの歌舞劇協会が浅草の常盤座で歌舞劇《女軍出征》を公演して大当たりしたのがその始まりだった。当時は第一次世界対戦中ということもあり、男の兵隊の不足を女が補い出征するという戦争諷刺の喜劇だった。そのころ世界的に流行していた《ダブリン・ベー》《ティッ・ペラリーの歌》などが取り入れられ、コーラスガールが兵隊に扮してのダンスなど盛りだくさんで連日満員の盛況ぶりであった。入れ替えのお客が出るにでられず、大道具方が花道から丸太で客を吊りあげ、楽屋口から帰ってもらったエピソードはあまりにも有名である。また、歌舞劇とは今日の言葉で表現すればミュージカルのことで、この未曾有の成功が浅草オペラ隆盛の土台となったのである。大正六年三月には日本歌劇協会によって《ヴェニスの夕》が上演された。水の都を舞台に花売り娘と水平になった少女の話でアメリカ帰りの西本朝春の作である。
《田谷力三の登場》
大正六年四月、ローシーはローヤル館のオーディションを受けにきた十九歳の田谷力三の声を耳にして、「オー・ブラボー・ニホン・イチバン・・テノール・グットボーイ」と思わず声をあげた。そして、ローシーは扉をけって部屋に入り、竹内のピアノの併せて歌う田谷を抱きかかえ、キスの雨をふらせた。テノールを喉から手の出るほど欲しかったローシーからしてみれば田谷の声は天からの恵みだったのだ。ローシーは、オペレッタに重点を移していたので、田谷のレジェロなテノールはもってこいであった。涙が出るほど嬉しかったことは容易に想像できる。
田谷力三は、明治三十二年一月十三日、東京神田に生まれた。田谷家は先祖代々徳川直参の旗本で三百年来の江戸住まいだった。十歳のとき「三越少年音楽隊」に入隊した。ピアノ、声楽、バイオリン、トランペットなどを学んだ。明治四十三年、創作オペラ『富士の巻狩り』で源頼家を演じ初舞台を踏む。そして、大正五年に赤坂のローヤル館で初めてオペラを見る。その時、体が震えるほどの感動を覚えた。翌年にはローシーが主催するオペラコミック・ローヤル館に入団。そして、ローシーに認められたのである。これが田谷の運命を決定した。田谷は、大正六年五月五日両国国技館で開催された日本石油創立三十周年祝賀会のために創作された《燃える水》で初舞台を踏んだ。そして、六月公演の《ブン大将》では、主役のフリッツ役の大役を見事にこなした。オペラ俳優田谷力三のスタートである。
大正六年の七月公演は、《コルヌビルの鐘》、主役の漁夫グレニショーを演じる田谷力三のテノールは、好評だった。そして、八月には大阪公演。この大阪の弁天座で上演された《コルヌビルの鐘》を見てオペラに憧れその道を選んだのが、藤原義江であることはあまりにも有名な話だ。当時は、戸山英二郎といって新国劇の俳優であった。漁夫のジャン・グレニッショオの役で<波を蹴り>を歌う田谷の美声に聞き惚れたのだ。十日間毎晩聴きに行った。その後、沢田正二郎の新国劇をドロンして不退転の決心で上京した。そして、浅草オペラのステージに立ったのである。初めは、日本館にいたが金竜館に移り、一座のプリマドンナの安藤文子の指導を受け(やがて同棲から結婚に発展)、清水金太郎、田谷力三らと舞台を踏んだ。大正六年十月公演の《カヴァレリア・ルスティカーナ》でローシーは、ついにイタリア語の原語上演に踏み切った。ローヤル館創設の頃は、軽妙なオペレッタを中心に活動したがここにきて本格的オペラに移行した理由には、やはり、田谷力三のテノールを得たからだという見方をしてもいいのでないか。しかし、それ以後の原語によるオペラ公演は観客がガラガラ、結局内部不和を生み出すことになり、ローシーの苦闘は報いられることはなかった。
一方、大正六年十月、浅草ではオペラ常設劇場として日本館が開場した。そして、石井漠、河合澄子、佐々紅華らによって「東京歌劇座」が結成された。佐々紅華作の《カフェーの夜》が上演されこれもおおいに受けた。舞台は日比谷公園内のカフェー。エプロン姿の女給をはじめ、芸者や大工の熊公と女房、田舎の村長などいろいろな人間が登場してトンチンカンな騒動をおこす。そして、一同が《コロッケの歌》を歌ってお開きという構成。とくにこの劇中で歌われる益田太郎冠者の作詞による《コロッケの唄》《おてくさん》は、たちまち街に流れて大流行となった。 大正六年十一月、原信子がローヤル館を去った。ローシーとの対立が原因らしい。本格的オペラ上演、《セビリアの理髪師》ではロジーナの役をやっていただけに原信子の脱退はローシーにとっては大きな痛手だった。そして、今度は、清水金太郎・静子夫妻もローシーの元から去る。帝劇以来のメンバーだった二人に去られたことはローシーにはかなりの精神的ダメージをあたえたといえる。結局、ローヤル館のローシー・オペラは興行不振のまま結局実を結ぶことができず、大正七年二月二十五日、二月二日からの《椿姫》を最後に閉館。ローシーは、同年三月二十一日アメリカに向け離日した。ローシーが私財を投じて失敗したオペラが浅草で盛況となるとはまったくの皮肉である。とはいえ、浅草オペラーのスター田谷力三にとってローシーは終生の恩人だった。
《浅草オペラの隆盛》
浅草と大正ロマンは、瓢箪池と十二階といわれた凌雲館のパノラマ風景にイメージできる。そして、喜劇、オペラ、活動写真、玉乗り、曲芸など、坩堝となっている群衆に享楽をあたえる無数の娯楽が質を変化させ、増幅したえず激しく流動しながらお互いに入り乱れている。そのような浅草について『淺草底流記』にはつぎのように記されている。
「浅草には、あらゆる物が生のまま投り出されてゐる。人間のいろいろな欲望が、裸のままで踊ってゐる。
浅草は、東京の心臓−
浅草は、人間の市場−」(添田唖蝉坊『淺草底流記』)
《原信子・浅草進出》
大正七年三月三日、浅草観音劇場で原信子歌劇団が旗揚げをした。原信子に浅草進出を促したのは、すでに喜劇で人気を集めていた曽我廼家五九郎であった。彼は興業にかけては大変な手腕家で浅草公園(六区)一帯を取り仕切っている根岸興行部(常盤興行部)から観音劇場の経営をまかされていたのである。根岸興行部の意向で旗揚げした原信子歌劇団の《アルカンタラの医者》には、原信子、田谷力三、堀田金星、井上起久子らが出演した。かつてのローヤル館のメンバーが中心である。指揮は篠原正雄。オーケストラは数十名の編成であった。原信子一座が浅草に進出したほぼ同時期には、多くの歌劇、オペレッタ、和製ミュージカルとその盛況さを競った。浅草御園座では第二次日本バンドマン一座が歌劇《カーメン(カルメン)》を、そして、日本歌劇協会がアサヒ劇団と名称を改め(すぐにアサヒ歌劇団と改称)和製オペレッタ《ラ・カーニバル》の上演を行った。この大正七年の三、四月はいわば浅草オペラの花が一斉に開花したといっても過言ではないであろう。進取の気性に富み新鮮な活力を呈していた。原信子歌劇団は、つぎつぎと公演をおこなった。四月四日から《ブン大将》、同月十三日から《ボッカチオ》、五月四日から《サロメ》、同月二十四日から《カヴァレリア・ルスティカーナ》など、たてつづけの上演だったのだ。しかし、田谷は、大正七年七月に原信子歌劇団を脱退した。清水金太郎を頼って東京歌劇団に参加したのである。東京歌劇座は、佐々紅華の手による和製オペレッタ以外に清水金太郎の指導で《天国と地獄》などの上演を行っていた。田谷は同年の九月公演の《ボッカチオ》から参加した。このときのボッカチオは清水静子が演じている、田谷の役は、ピエトロ公子だった。翌十月、根岸興行部の仕掛けによって、新たに田谷力三が加入した東京歌劇座と原信子歌劇団、ホワイト・スター・バンドの三座合同公演が駒形劇場で競演となった。当代随一の花形テナー田谷力三を擁する東京歌劇座は、《アルカンタラの医者》を公演し、一方原信子の一座は、本邦初演のヴェルディーの《リゴレット》を企てた。このとき、主役のマントゥア公爵は、テナーがいないため原信子自ら男装して歌った。原は以前大正四年九月、帝劇の《ボッカチオ》でも松山芳野里が急遽渡欧したのでその穴埋めを男装して埋めたことがあった。しかし、駒形劇場の地理的条件の悪さから、莫大な経費と収益がアンバランスとなり失敗に終わった。
《七声歌劇団の成立》
大正八年二月、清水金太郎静子夫妻は、田谷力三、安藤文子ほかと七声歌劇団を結成し、金竜館に出演した。第一回公演は《アルカンタラの医者》。三月には原信子が突然引退宣言を発表した。彼女は浅草を去ることになる。そして、半年後には渡米。それは、やはり、先輩の三浦環のニューヨークでのメトロポリタン・オペラハウスにおける活躍と名声が刺激になっていた。
金竜館がオペラに転向した。金竜館時代の幕開けである。大正八年二月一八日、清水金太郎静子夫妻は日本館を去り、田谷力三、安藤文子他と七声歌劇団を結成し(東京歌劇座が「七声歌劇団」に名称が改まる)、金竜館(根岸興行部)に出演した。観音劇場の原信子の一座は彼女の勝手な一身上の都合で休演することになった。そのため、清水は原に気兼ねすることなく田谷力三を金竜館に出演させることに成功したのである。このように清水金太郎・静子夫妻に田谷力三、安藤文子という四人が揃いローシー系列の本流が形成され、浅草オペラの太い幹が完成した。この四人のオペラ俳優に加えて、舞台監督に佐々紅華が腕を揮い、黒田達人、松本徳代、葉山百合子、平野松栄も加わり、オペラ俳優の陣容もかなり充実していた。
歌劇団の名称の「七声」とは一オクターブの七つの音という意味から付けられた。なぜ、名称を改めの根拠は、「東京歌劇座」は日本館のオペラ旗揚げに使った座名(歌劇団名)であり、日本館のライバルの金竜館においてその名称で公演することが憚れたからである。また、オペラ俳優の集合離散も激しく、東京歌劇座の設立時期のメンバーも大きく入れ替わっていた。現に石井漠、岩間百合子,千賀美(海)寿一らは日本館で東京オペラ座という組織を作り日本館で公演を開始しており、それに対抗する上でも新しい歌劇団の名称が金竜館では必要だったといえる。
金竜館も観音劇場と同様に根岸興行部が経営する劇場である。曽我廼家五九郎一座が金竜館では常時公演していたが、いよいよ本格的にオペラ常設館として機能し始めたのである。
原信子 浅草と訣別
「私は三月十日限り、断然舞台を退くことにいたします。理由は今の歌劇に愛想がつきたからです」(『演芸画報』四月号)
駒形劇場では原信子一座が大正八年二月一八日から、『アルカンタラの医師』などを公演し、三月にはローシーオペラ時代が懐かしいローヤル館で『ボッカチョ(オ)』『マリターナ』『ハンガリアン・ダンス』という公演を一五日まで続けた。にもかかわらず、原信子は突然引退宣言を発表した。同月末には高木徳子が急逝するが、原信子(ローシーオペラの継承)の浅草との決別と高木徳子(ミュージカル系列)の死がほぼ同時期ということはなにか運命的な歴史の転換を感じ取ることができる。グランドオペラのローシー系列(帝劇歌劇・ローヤル館オペラ)は清水金太郎・静子夫妻、田谷力三、安藤文子らが中心勢力となり、ローシーのダンス、舞踊、ミュージカル系列は石井漠、澤モリノ、高田雅夫夫妻が中心となり、新たな局面を迎えるのである。
原信子の引退理由はすでにのべたように「今の歌劇に愛想が尽きた」ということだが、原自身、浅草には限界を感じていた。たしかに料金の安さの演出によって浅草の人情風俗に妥協した側面があった。しかし、原が理想とする高踏芸術は庶民的娯楽を追求することではなかった。原の高級感を求める理想のオペラは感受性豊かな浅草の音楽教養とは余りにも乖離していた。だが、原の歌唱技術そのものの技量が高いわけではない。己の実力を度外視したプライドが先行していたのである。
原の一座の凋落には現実問題として人気歌手の田谷力三の脱退(大正七年七月)が大きく影響していた。主役のテナー歌手がいなければ歌劇は成立しない。原は強がりの発言を繰り返していたが、主役のテノールという重要ポストを担う田谷力三が金竜館に引き抜かれたことが致命的だったことは事実である。その金竜館を拠点にする七声歌劇団(大正八年二月一八日、「東京歌劇座」が名称を改める)に清水金太郎、田谷力三、安藤文子が登場し、このローシーオペラを継承する四人が金竜館(七声歌劇団と金竜歌劇団)の舞台を彩ることも大きかった。ローシーオペラの継承は原信子ではなく、この四人となった。 また、金竜館は常盤座・東京倶楽部とともに三館共通の入場制度で人気を誇っており、同館の経営者の根岸興行はそのシステムを利用し金竜館をオペラの拠点にしようとしていた。根岸興行はそのために清水夫妻、田谷力三、安藤文子らローシーオペラ継承カルテットを加えた七声歌劇団を金竜館の拠点とし、観客動員を主眼にしたオペラの大衆路線を進めようとした。このようなオペラの大衆路線に対してオペラの高級化を図ろうとする原信子は反撥したのである。
日本館は解散した原の一座の残留組を引き取り「アサヒ歌劇座」となり、「アサヒ歌劇団」と「オペラ座」を加えた三派合同という看板を掲げた。日本館と七声歌劇団の金竜館のオペラ合戦のさなか、大正八年三月一五日をもって、原の一座は解散・消滅ということになったのである。
大正八年一〇月一四日、原は天洋丸でアメリカに向けて出発した。それ以後、原は浅草に戻ることはなかった。解散した原信子の歌劇団のメンバーはアサヒ歌劇座と名乗り、石井漠のオペラ座、鈴木康義主宰の少女歌劇のアサヒ歌劇団とともに、三派合同公演を開始した。
三派合同の日本館
金竜館(オペレッタ)と日本館(和製ミュージカル)
清水金太郎、田谷力三らの金竜館(七声歌劇団)のオペレッタに対して、日本館は石井漠、澤モリノの「オペラ座」、少女歌劇の流れの「アサヒ歌劇団」「アサヒ歌劇座」の、いわゆる三派合同興行で対抗した。ここに浅草オペラの熱狂が展開する。
浅草オペラは金竜館と日本館は三派合同のオペラ合戦の時代を迎えた。石井漠と澤モリノの「オペラ座」、原信子一座の残党が集まった「旭歌劇団(アサヒ歌劇座)」、西本朝春と鈴木康義が設立した少女歌劇団をそのまま持ち越した「アサヒ歌劇団」(大正八年九月、日本館を離れ、駒形劇場へ)という三派合同のミュージカル系浅草オペラ集団を形成した。この集合体は同じ演目に出演することもあり、共演において目覚ましい活動を行った。『チョコレートの兵隊』(オスカー・シュトラウス・作)『フラ・ディアボロ』(オベール・作)を上演した。ここに日本舘と金竜館のオペラ合戦が熾烈な展開をしめした。
このように、金竜館と日本館の名作オペレッタの共演が演じられたわけであるが、日本館はお伽歌劇、和製ミュージカルも上演したので、日本館=和製ミュージカルというイメージが強くなり、外国オペレッタの名作を上演する金竜館としのぎを削る構図が出来上がったといえる。
日本館の三派合同の公演のさなか、アサヒ歌劇団(大正六年、西本朝春・鈴木康義が作った少女歌劇団)は「オペラ座」「旭歌劇団(アサヒ歌劇座)」とは出し物において独自のカラーで演目を上演した。今までの路線であるお伽歌劇、童話歌劇というジャンルを中心にした公演という理由から当然であった。
大正八年九月下旬、アサヒ歌劇団は日本館を離れた。旭興行が所有する駒形劇場で単独公演を行った。これによって、日本館の三派合同が崩れたのである。
大正八年九月三〇日、鈴木康義の少女歌劇日本館の出演をやめて、駒形劇場での公演に移った。演目は歌踊『ファンシー・ボール』史歌劇『楠公』非歌劇『ヴェニスの夕』歌踊『萩の玉川』の四作品が上演された。ところが、駒形劇場の「アサヒ歌劇団」は客入りの収支決算が悪く営業的には不振だった。
《新星歌舞劇団の成立》
大正八年五月、伊庭孝が以前の歌舞劇協会のメンバーを中心に新星歌舞劇団を結成、高田雅夫、岸田辰弥、正邦宏、花房静子らに明石潮、町田金嶺、高井ルビーらが加わった。これは松竹傘下であり、京都夷谷座を皮切りに東京、大阪、名古屋の四大都市を巡演した。また、本拠は本郷となり浅草ではなくなった。そして、さらに清水金太郎、田谷力三、安藤文子らも吸収してしまうのである。
大正八年の浅草オペラは七声歌劇団が結成され(大正八年二月一八日)、金竜館オペラがスタートしており、原信子の一座の解散(大正八年三月一五日)、日本館の三派合同、観音劇場で旗揚げした常盤楽劇団(大正八年五月六日)、松竹資本による新星歌舞劇団の結成(大正八年五月)など新たな浅草オペラの動きが見られた。つまり、大正八年からの日本館(石井漠・澤モリノの「オペラ座」を中心にした三派合同)と金竜館(三館共通システム)の拮抗に新星歌舞劇団が松竹資本を背景に割り込み新たな浅草オペラの時代を迎えるのである。
伊庭は大正三月末、九州で高木徳子を失い、徳子に代わる新たなスターを求めていた。そこでまず帝劇邀撃部出身の高田せい子(原せい子)をスターに仕立て上げ、高木徳子を失った後の歌舞劇協会の再建を図り新星歌舞劇団を結成に至ったのである。高田雅夫、岸田辰弥、正邦宏、花房静子らに明石潮、町田金嶺、高井ルビーらが加わった。新星歌舞劇団は大資本を持つ松竹傘下である。松竹の社長白井松次郎は歌劇の分野においても野心的な展望をもっており、伊庭の一座を松竹専属の歌劇団にして各地の松竹系列の劇場で公演を企画上演させたのである。
第一回公演(夷谷座)における演目はすでにのべたように『無頼漢』『流浪の朝』『ジプシー・ライフ』『戦争と始終』、二ヶ月間の興行だった。この公演での時点では原せい子は歌と踊りの技量がまだ伊庭の求める水準ではなく、洋楽伴奏を主体にしたドラマを伊庭が書き下ろし、それを中心に公演した。
八月一日、東京公演が本郷座で始まった。演目には『沈鐘』の一部、高田雅夫編作による舞踊作品『ディアナと半獣神』、伊庭の『すごろく』などが並んだ。舞台監督と演出は伊庭孝、楽長は竹内平吉。出演者には高田雅夫、原(高田)せい子、澤マセロ、正邦(国)宏、戸山英二郎、花房静子らが名前を連ねた。これによって、新星歌舞劇団は本拠が本郷となり、浅草がこの大歌劇団のパフォーマンスの舞台装置の空間ではなかった。これによって、本郷を拠点とした新星歌舞劇団金竜館、日本館、観音劇場のある
八月二八日からの大阪弁天座公演から、清水金太郎、静子、田谷力三、安藤文子ら四人が新星歌舞劇団に参加した。この松竹の動きは帝劇時代の再来を彷彿させ、理想的な大歌劇団の結成でもあった。
清水金太郎、田谷力三、新星歌舞劇団に加入
松竹資本を背景にメンバーも充実させた新星歌舞劇団に対して、三館共通料金方式で気勢を上げる金竜館、三派合同の日本館は多彩な出し物を上演し対抗し固定観客層こそ確保したが、次第に下降線を辿ることになった。
大正八年の秋、根岸興行部が仕切る浅草では、金竜館の七声歌劇団(『ラ・マスコット』のベッティーナを演ずる美女木村時子が呼び物)と金龍歌劇団、日本館の石井漠(ローシーと喧嘩別れ)、澤モリノ、駒形劇場の鈴木康義の少女歌劇(看板スター一条久子、白川澄子、明石須磨子らが活躍するアサヒ少女歌劇団)がしのぎを削り、松竹資本(大阪)を背景にした新星歌舞劇団(東京本郷座)に対抗していた。
大正八年一〇月二九日、新星歌舞劇団は京都座で『ファウスト』を公演。後でのべるが、伊庭孝はこの公演で戸山英二郎に大役を与え大抜擢している。ファウストを演じる主役のテノールは田谷力三、マルガレータ、安藤文子、メフィスト、清水金太郎、マルタが清水静子。同年一二月一三日から、新星歌舞劇団はグノーの歌劇『ファウスト』を本郷座で公演した。配役はファウストには田谷力三、マルガレーテ、清水静子、メフィストフェレス、清水金太郎である。すでにのべたようにこの三人が松竹系の新星歌舞劇団の主力歌手となるのである。他の演目は『プラハの大学生』『ラ・カアニヴァル』『戦争の始終』。監督が伊庭孝(舞台)、竹内平吉(音楽)である。
新星歌舞劇団は松竹系列の各劇場を中心に活動し、その資本力を背景にローシーオペラの本流である清水金太郎、田谷力三を擁したので、人気も安定していた。結成当時の新星歌舞劇団は伊庭の楽劇、創作ミュージカル、高田雅夫振り付けによるの舞踊作品が中心だったが、清水、田谷の加入によって、グランドオペラの『カヴェレリア・ルスティカーナ』(大正九年二月二八日から)『セヴィリアの理髪師』(大正九年三月一三日から)、『天国と地獄』(大正九年八月九日から)『ボッカチョ(オ)』(大正九年八月一九日から)などのオペレッタの名作も上演された。殊にオペレッタは清水金太郎のローシー直伝の十八番であり、本番ステージでの軽妙な即興の演技も加え、田谷力三のテノールとともに大衆的な人気と好評を博した。
根岸興行部の冒険―常盤歌劇団
新星歌舞劇団が成立した頃、根岸興行部は観音劇場を使ってある冒険を試みた。大正八年五月六日、過激なアナーキストや異端的な浅草文士を中心に結成された常磐歌劇団が登場した。旗揚げは観音劇場である。
獏与太平が脚本を早速書いた。『トスキナ(ア)』というアナーキストをさかさまにした風刺喜歌劇を書いたのだ。スリが国家免許をもつという奇想天外なストーリーで展開するミュージカル様式の見世物(オペレッタ)だった。舞台装置にも趣向が凝らされ、洒落た未来派風の空間を演出していた。
ゴーリキの『どん底』を文士劇『夜の宿』に改題して上演した。楽屋には芥川龍之介、佐藤春夫、谷崎潤一郎、今東光、東郷青児ら文士、無政府主義者のアナーキスト大杉栄も同劇団に顔を出した。ルパシカを着こみカフェーセントラルに屯する浅草常連文士らはまるでオペラという火に誘われて蝟集する蛾のような生態を見せているかのようだった。常盤楽劇団は『カヴァレリア・ルスティカーナ』も上演した。だが、この歌劇団は二ヶ月で終わった。六月末には解散の憂き目となり、七月四日から大半は七声歌劇団に移った。舞台そのものは大津賀八郎、天野喜久代らの好演もみられたが、佐藤惣之助、辻潤らが出演するなど素人芸の域を出ず、悲憤慷慨の絶叫、警察の眼が光るアジテーション的な演説調が横行し、客席は戸惑い困惑した。
オペラ・オペレッタを期待する客は当然怒りだす。野次が飛び交い、それに役者が応酬するという劇場内部が混乱しついに収拾がつかず興行は中止となったのである。また、地方巡業でも惨憺たる失敗に終わっている。
大正八年六月末には金竜館にいた安藤文子、戸山英二郎が新星歌舞劇団に加わった。オペラ俳優の陣容が充実した新星歌舞劇団は弁天座公演から、『ボッカチョ(オ)』『マスコット』が演目に加わった。一〇月二九日、京都座公演ではグノーの『ファウスト』の公演に踏み切った。この京都公演で伊庭孝は戸山英二郎を大役のヴァレンティン(ハイバリトンの役)に起用した。だが、楽譜が読めない戸山は短時間で新曲を覚えることができず、舞台ではまったく歌うことができなかった。そのためにプロンプター役の安藤文子が代わりに歌ったという逸話が残っている。
舞台で醜態を曝した戸山だが、その彼がニューヨークにおいてコンサートで大成功を収めアメリカ経由で横浜港に凱旋した。その後、世界を舞台にオペラ歌手として名声を博し米国ビクターの赤盤芸術家になるのだから、当時の素人歌手戸山の実力を知る者にとっては驚きである。驚いたのはイタリア修行を勧めた伊庭孝である。
戸山は安藤文子の個人レッスンを受け精進した。外山はイギリス人の父の血が流れているということもあり、身体的素質はイタリア人とほぼ同様のテノールの頭蓋骨を持っていた。生まれ持った戸山の天性の持ち声は素晴らしく、音感も琵琶芸人の母親譲りであり申し分がなかった。後オペラ歌手としての技術的な問題は時間の経過とともに解消できる可能性を秘めていた。もともとオペラは西洋演歌といわれた俗謡・流行り唄的要素を多分に含んだ大衆音楽なので、難しい理論を必要としない側面があったことも外山にとっては幸運といえた。とにかく、未完の大器でありながら、戸山は田谷力三、大津賀八郎に次いでテナー歌手三番目の地位を獲得した。大正八年九月号の『オペラ』誌には「麗朗たる歌声はテナーに於て成功してゐる一人である」という評価が掲載されている。努力精進の結果だった。同年にはオリエントレコードから安藤文子と共演した《恋はやさしき野辺の花》(小林愛雄・訳詞/スッペ・作曲)が発売された。
伊庭孝の勧めで戸山は欧米に武者修行の旅に出ることにした。大正九年三月、ミラノへ出発したのである。伊庭は「君はとにかく死ぬなよ」の言葉がしめすように戸山の成果には全く期待していなかった。日本にいて楽譜が読めない男がいくらイタリアに武者修行に行っても真面目に勉強するはずがないと思っていた。だが、帰国した戸山の変身ぶりはすでにのべたとおりである。
戸山英二郎の渡欧
大正九年三月、藤原は伊庭孝の勧めで渡欧した。オペラ修行のためである。したがって、戸山英二郎は浅草オペラの頂点ともいえる根岸歌劇団の成立期には浅草にはいなかったことになる。だが、このオペラ修行がなければ、藤原義江の存在はなかった。
戸山がイタリアに来て驚いたのは、そこらへんの場末で歌う演歌師が立派なテノールの声を響かしていたことである。また、鍛冶屋の親方や床屋の親父が一仕事を終えて、近くのオペラ小屋で今度はオペラ歌手として出演するなど、オペラそのものが生活になっていることにまず驚いた。日常生活にオペラが浸透していたのである。藤原の日常の廻りは当時の日本の基準でいえば、みんな大歌手なのである。これには藤原はすっかり参ってしまった。しだいに彼自身、ある程度は音楽の基礎は必要と悟り、声楽の先生についてレッスンをひそかにしていたのである。
藤原はヨーロッパでオペラが大衆音楽であり、歌手は芸人であることを理解した。オペラ歌手というものは芸術歌手と異なり何も難しい理論などは必要なく、持ち声が良くて歌にかける情熱さえあれば歌手なれるとことを学んだ。劇場で歌う歌手も場末で朗々と美声を響かせる演歌師も同じ大衆歌手なのであり、強靭な声帯、体、情熱、感性、芸人根性、これが西洋演歌と言われるオペラ歌手の条件である。この経験が大衆歌としての新民謡を赤盤に吹込む動機になった。
ロンドンでは、男爵の一条実基を介して当時日本大使館の一等書記官であった吉田茂(後の総理大臣)の知己を得て演奏会を催す。この時の藤原のレパートリーは《荒城の月》一曲のみ。演奏会に備えて早速、声楽家につけてレッスンしたところ、「素晴らしいリリコ・レジェロのピアニッシモ」と絶賛された。軽やかな音色よりむしろ哀愁溢れる抒情性が絶賛された。そして、ロンドンの日本大使館の後押しもあり日本人倶楽部の応援によって独唱会が開催された。これが大成功したのだ。
欧州各地で催した藤原の独唱会は好評を博し人気を得る。大正一二年一月、ニューヨークタイムズに藤原義江は、日本のヴァレンチノとして紹介される。その年三月、藤原義江を乗せた日本郵船の加賀丸がシアトルを出航した。加賀丸が洋上中に『東京朝日新聞』に「我等のテナー・藤原義江」(原田譲二・筆)が九回にわたり連載された。四月一〇日、加賀丸は横浜に到着。朝日新聞連載の記事が前宣伝となり、藤原自身も驚くほどの出迎えにびっくり仰天の凱旋帰国だった。
これには浅草時代の仲間も「あの戸山が」と驚きの言葉しかでなかった。伊庭も別人となって帰国した戸山英二郎の姿に言葉がなかった。予想を遥かに超えていたのだ。浅草時代には楽譜も満足によめなかった戸山英二郎がヨローッパ各地やニューヨークで名声を博す藤原義江になって帰ってきたのだから無理もなかったのである。
藤原のオペラのベルカントによる独特の歌い方で歌われた新民謡は洋楽的な歌曲でありながら、郷土色も濃く、故郷への思慕を感じさせる古い生活様式(農村生活の残滓)をのこした都市中間層にまで浸透した。その庶民の底に流れる風俗人情の自然な感覚、俗楽に流れる美と情緒は浅草時代に培ったものであった。その後、昭和九年、「藤原歌劇団」を結成し日本オペラの興隆に尽力したのである。これも、大衆音楽の浅草を跳躍台にした結果であり、音楽教育を受けないずぶの素人が日本の本格的なオペラの芸術的な確立の推進者となるのだから、日本近代音楽史は面白い。
《浅草オペラ大合同・根岸大歌劇団の成立》
大正九年九月三日、新星歌舞劇団は、松竹から根岸興行部の傘下となり、あらたに根岸歌劇団として新たなスタートを切った。幹部スターを抜かれ日本館にも対抗できず自然潰滅の経営危機を感じた根岸吉之助と高田保の策謀であることはあまりにも有名な話である。彼らの暗躍が成功したのだ。根岸歌劇団は豪華な顔触れとなった。いわるゆる竜館時代の到来を告げ浅草オペラの全盛期を迎えるのでる。その豪華メンバーを見てみよう。ソプラノの安藤文子、清水静子、アルトの井上起久子、天野喜久代、テノールの田谷力三、大津賀八郎、佐藤光照、バリトンの堀田金星、藤村悟朗、清水金太郎、バスの黒田達人、バレーの高田雅夫、原せいこ、この他百余名の歌い手がいたそうだ。また、製作部のメンバーをみても大物が揃った。文芸部には伊庭孝、佐々紅華、内山惣十郎、音楽担当には竹内平吉、篠原正雄、奥山貞吉らが名前をつらねた。 華やかな浅草オペラの金竜館時代の開幕、田谷力三は揺るぎない大スターの地位を確立する。金竜館時代の田谷力三の絶頂は、やはり、大正十一年三月二十日、四月五日からと、二回にわけて上演したとはいえ全曲オリジナルに近い形式(歌)で演奏した《カルメン》であろう。これが大きな反響を呼んだ。配役は、カルメンが清水静子、ドン・ホセを田谷力三、闘牛士エスカミリオを清水金太郎、ミカエラを安藤文子、スガニが柳田貞一、と豪華な顔触れだった。また、昭和のジャズエイジの主役あの二村定一が伍長のモラレス役で出演している。ここでも田谷のテノールは多くの聴衆を魅了した。
大正九年、浅草オペラの大同団結−金竜館オペラ時代
根岸歌劇団の誕生と歴史的意義
「金竜館時代になって、日本舘も新星歌舞劇団も無くなった浅草オペラは、いかにも凋落の期を迎えたという感が目立つ」(『日本オペラ史』)
たしかに、大正九年という年は、日本館が映画館常設館となりオペラの看板を下ろし、同年一一月一七日、数え歳一七歳の一条久子(東京少女歌劇団)が急逝するなど、浅草オペラのミュージカル系、少女歌劇の翳りは浅草オペラの凋落を明瞭にした。大正六年の伊庭孝・高木徳子の『女軍出征』、佐々紅華の東京歌劇座の『カフェーの夜』にはじまり、日本館における舞踊ダンサー澤モリノ、エロと肉体派女優河合澄子の応援合戦、バレーの石井漠、ミュージカルダンサー高田雅夫の登場によって形成された流れは大正九年を境にあきらかにに翳りがみえていた。しかし、それは舞踊家ローシーの本職を踏襲するとはいえ、この舞踊、ミュージカル系は浅草オペラにおいてはあくまでも支流であり、それをもって浅草オペラそのものの衰退と見るのは早計である。ここで肝心なことはやはり清水金太郎・静子夫妻、田谷力三、安藤文子らのロシー系列のグランドオペラ、オペレッタが浅草オペラの本流であり、大きな大河になる動きを捉えなければならない。
大正九年、浅草オペラに大きな大河が生まれた。ローヤル館消滅後、原信子歌劇団(大正七年)、七声歌劇団(大正八年)、新星歌舞劇団(大正八年)の流れが根岸歌劇団(大歌劇団)へ太い一本の大河となった。この大河はローシーの二つの系列の合流でもある。清水金太郎・静子夫妻、田谷力三らのグランドオペラ・オペレッタを、ローシーの本職である舞踊の世界で活躍する澤モリノ、河合澄子、高田雅夫・せい子夫妻らのミュージカル系が支えるという本流と支流の構造がより明確な形で構築され、浅草オペラの全盛期を確立したのである。
このような本流と支流の合流による大河の形成は浅草オペラの興行史的な点においても重要な意味がある。前近代的な見世物的興行要素、西欧ミュージックホールのボードヴィル的なアトラクション、バラエティー・ショウ、ミュージカル、西欧オペラ、オペレッタ等の西欧芸術が構造化されたという点においてもこの根岸歌劇団の大合同は重要な意義があるのである。
金竜館は日本館を完全に圧倒した。日本館はすでに大正九年四月から映画上映が開始され、同館の中心になった。同年六月には映画常設専門館になるために修理休場に入った。八月一四日以後は完全に映画館の機能システムが稼働し、一〇月には大阪の帝国キネマ演芸会社と提携し興行を委ねることになった。それに対して、金竜館には群雄割拠を呈していた浅草オペラが結集した。これによって舞台芸術の空間装置の変遷、つまり、大正九年の根岸歌劇団の大合同はパフォーマンスの舞台空間の「場」という視点をみても、日本館(映画常設専門館)から金竜館時代全盛への「場」の転換が、浅草オペラの頂点・全盛期を象徴しているといえる。そして、金竜館は大正一〇年一二月三一日から大改築し「日本唯一のオペラハウス」に大きく変貌する。
根岸大歌劇団への合同以前の浅草オペラの舞台空間である「場」は西欧のオペラのいうところの劇場ではなかった。日本館や金竜館のように「館」という名称は音楽演奏主体の正式劇場ではなく見世物、芝居小屋という前近代的な要素を色濃く反映した「観物場」だった。しかし、金竜館時代を迎え、同館は改築され「観物場」から正式劇場になると、大衆性・庶民性を盛り込んだ近代的音楽舞台芸術へと大きく発展する。オペラハウスの機能を完備した金竜館はオペラの磁場装置となり、昭和初期の放送オペラ、藤原歌劇団に結集するオペラ歌手を輩出することになるのである。このような意味においても、根岸大歌劇団の結成は浅草オペラの頂点であり、全盛期を象徴しているのである。
新星歌舞劇団は松竹資本を背景に浅草を代表するオペラ俳優、清水金太郎・静子夫妻、田谷力三、安藤文子らを揃え大正八年五月に発足し、翌九年夏まで精力的に四大都市の地方の大都市を巡業した。松竹という大資本が潤沢な資金源を誇り、莫大な費用をかけた広告宣伝は当然だが、メンバーの拡充も確実に行っていた。オペラ俳優の戦力充実は着実に進んでいたのだ。この段階において新星歌舞劇団は日本一の歌劇団だった。
大正八年六月、日本館は映画常設専門館になったとはいえ、充実した陣容を誇る新星歌舞劇団の存在は劣勢の金竜館にとっては大きな障壁だった。そこで、根岸興行部は浅草興行界の覇者として日本館に負けない歌劇団を結成することを画策した。浅草興行界の覇権を確立するために、新星歌舞劇団から主力引き抜く工作を行ったのである。
確かに、金竜館はかつて、新星歌舞劇団の結成の時、幹部スターを抜かれ、日本館にも対抗できず経営陣は自然潰滅の経営危機を感じた。しかし、根岸吉之助と高田保の策謀であることはあまりにも有名な話である。石田に退く抜き工作を命じた彼らの暗躍が成功したのだ。根岸は初代浜吉の発案である館共通の入場券を有効に活用し浅草オペラ黄金時代を築いた人物である。
根岸興行部は経営者の根岸一族の名前を冠しており、常盤興行という名称は興行主である根岸一族の出身地に由来していた。金竜館、常盤座、東京倶楽部、観音劇場、公園劇場など、六区の劇場経営において隠然たる勢力基盤を有していたのである。
東京音楽学校出身の清水金太郎・静子夫妻、浅草オペラ唯一のテノール歌手田谷力三を中心とする根岸大歌劇団の成立によって、同歌劇団が浅草オペラのすべてとなり、いわゆる大戦景気が終焉し戦後恐慌を迎えとはいえ、興行界は新たな歴史の一ページを刻み、浅草オペラの全盛期を象徴する金竜館時代が到来したのである。
根岸歌劇団の豪華メンバー
金竜館時代を象徴する根岸歌劇団は浅草オペラのすべてとなった。その根岸歌劇団の陣容は充実していた。松竹専属の新星歌舞劇団という浅草オペラの主流と七声歌劇団と金龍歌劇団が大同団結するのだから、豪華な顔触れとなるのは当然だった。以後、浅草オペラは金竜館の独壇場となり、いわゆる、根岸興行部主導の金竜館時代の到来を告げ浅草オペラの全盛期を迎えるのである。とはいえ、この大歌劇団の一大勢力は増井敬二の『日本のオペラ明治から大正へ』によれば、「全体的に見れば大衆の浅草オペラ熱が冷めて、今やただ一館を維持するだけしか観客の数が無くなったと見るべきかもしれない」という見方もある。しかし、浅草オペラのミュージカル系、オペレッタ、グランドオペラの系脈が綜合化した高田雅夫・せい子夫妻、清水金太郎・静子夫妻、田谷力三、安藤文子を中心とする充実した陣容を見れば、根岸歌劇団の合同は浅草オペラの頂点であり、浅草オペラのすべてを物語る歴史を構築したといえる。
大正九年八月三一日、根岸大歌劇団の主要メンバーはすでに発表されていた。その豪華メンバーを見てみよう。ソプラノの安藤文子、清水金太郎と共に浅草オペラを歩んだ清水静子、アルトの井上起久子、初演の『カフェーの夜』でおてくさんを演じた天野喜久代、浅草随一の大スター、テノールの田谷力三、大津賀八郎、佐藤光照、後に新国劇に転じたバリトンの堀田金星、コミカルな役を演じた藤村悟朗(梧朗/梧郎)、重鎮の清水金太郎、バスの黒田達人、帝劇洋劇部でローシーに学んだバレーの高田雅夫、東京音楽学校でピアノを学び、帝劇一期生、ローヤル館の後、歌舞劇協会、ホワイトスターバンド、新星歌劇団を経て参加した原せい子(高田せい子)、この他、百余名の歌い手がいたそうだ。また、製作部のメンバーをみても大物が揃った。ここに日本最初のジャズシンガー二村定一、日本の喜劇王となるエノケンも加わることになる。
このような陣容を誇る根岸歌劇団は日本の洋楽ファン、聴衆に外来オペラを受容させる素地を形成し、昭和期の放送オペラ、藤原歌劇団の人材育成の基礎べーズを作った。このような根岸歌劇団の成立は日本オペラ史上かなり重要な意味を持っているのである。
主力が去った新星歌劇舞団は事実上解散し、新たに「ミナミ歌舞劇」というグループを組織して新星歌劇団に代わって松竹専属となった。木村時子(元帝劇三期生)大津賀八郎、黒田謙、笹本甲午、水野譲治、千賀美寿一、佐藤光照、宇津見清、相良愛子、宮城信子、舞台監督には獏与太平。これらのメンバーは常磐歌劇団と進歩的な色彩においてかなり共通しており、木村時子、笹本甲午、獏与太平がこの歌劇団のリーダーだった。
根岸歌劇団の公演開始(金竜館時代全開の開幕)
「大正九年九月以後の金竜館は、いわば浅草オペラとしてのオーソドックス路線を歩み出すのであって、その原因は幾つか考えられるが、何よりも清水金太郎,静子と、田谷力三、安藤文子という四人がそろったことが、最大の理由だろう」(前掲『浅草オペラ物語』)
大正九年九月三日から一〇日までの金竜館時代の全開の開幕といえる「根岸歌劇団」の第一回公演の演目はつぎのとおりである。
喜歌劇『偉大なるクライトン』(伊庭孝・脚色)楽劇『すごろく』(伊庭孝・作)歌劇『ジプシイの報復(トラヴァトーレ)』(ヴェルディ・作)独唱および合唱/舞踊『ジプシイライフ』他 喜歌劇『魔法使い』(ギルバート作/サリバン・作曲)
同月九月一五日の二の替わりは清水金太郎訳の喜歌劇『オリヴォエットの結婚』他四演目が上演された。同月二七日、豪華な陣容を誇る根岸歌劇団は『クリスピーノと死神』『熊野』ともにヴェルディの大作『トロヴァートル』『アイーダ』を同時に上演した。
田谷力三の絶頂
竜館時代を迎えた浅草オペラの最大のスターが田谷力三であることには異論はない。金竜館時代こそが田谷力三の絶頂期であり、八八歳で天寿を全うするまで現役のオペラ俳優だった。
舞台に登場する田谷の独唱が始まる。
鉄砲片手に しかと抱いて
むひたいは 帽子にみえねど
服はビロード ひらとなびく
怖(ルビ=こわ)いや あらし吹くとも
とどろくその名は ディアボロ
ディアボロ ディアボロ
〈くり返し〉
このオペラはダニエル・フランツ・オベールの作品で一八三〇年一月二八日にパリで初演された。イタリアの南部の宿屋がこのオペラの舞台。盗賊団の首領のフラ・ディアボロとその手下を中心に宿屋の主人マテオの娘(ツェルリーナ)との恋愛も絡みながらストーリーが展開する。
本邦初演は大正八年三月、旭歌劇団とオペラ座による日本館合同公演である。この歌は田谷力三が得意としたが、歌劇では夕食時に宿屋の娘(ツェルリーナ)が歌う曲で、盗賊のデァボロが貴族に変装してこのアリアに途中から加わる。浅草で演じられた舞台では〈ディアボロ ディアボロ ディアボロ〉のところでは観客が田谷と一体となって唱和したと云われている。
《ボッカチオ》では安藤文子(フィアメッタ役)の「恋というのもは目と目が、ピカッと光って、胸をちくりとさすものよ」という台詞の後に、観客の万雷の拍手とともに前奏の音楽が奏であれ、田谷力三の独唱が始まった。
恋はやさしい 野辺の花よ
夏の陽のもとに 朽ちぬ花よ
あつい思いを 胸にこめて
疑いの霜を 冬にもおかせぬ
わが心の ただひとりよ
熱狂する観客はひたすら恋をロマティックに歌い上げる田谷の歌声と容姿にうっとりとし恍惚となり、満席の二階席から落下した。一階の客がそれを受け止めて前へ前と頭越しに手渡して舞台に運ぶ。そして、そのまま、袖に引っ込んで楽屋口からお帰りということになる。これは後年、田谷も述懐していたが、この真偽はともかくも、浅草オペラの人気は凄まじかったことは確かである。街の御用聞きがオペラのアリアのさわりを鼻唄で口ずさみながら自転車に乗り御用に回るなどありふれた話だった。
大正一〇年七月の雑誌『オペラ』に掲載された歌劇俳優人気投票順位では、田谷力三が第一位、二位が高田雅夫、三位が相良愛子と根岸歌劇団が上位を独占した、この浅草オペラは詩人・童話作家の宮沢賢治にも感動を与えていた。大正七年の暮れ以来、賢治は上京するたびに浅草オペラを鑑賞するペラゴロの一人だった。田谷力三に魅了されたのだ。
あはれマドロス田谷力三は
ひとりセビラの床屋を唱い
高田正夫はその一党と
紙の服着てタンゴを踊る
これは、賢治が花巻農学校の生徒を引率して修学旅行で函館を訪れた時、函館の海を眺めて浅草オペラの往時を詠んだ『函館港春夜光景』の詩の一節である。大正一三年のことだから、浅草オペラはすでに衰退しており、「あはれ田谷力三」とはそれを意味しているといえる。
「セビラの床屋」とはロッシーニの《セビリアの理髪師》のことであり、「高田正夫」は高田雅夫の誤りであるが、高田の踊りは賢治にとって幻想の中の遊戯であり、田谷力三の歌声は忘れがたい印象をあたえるものであったにちがいない。賢治の浅草オペラへの憧れと純粋さがこの詩想から窺うことができるのである。
根岸歌劇団
大正一〇年五月、創作オペラ『釈迦』(三幕)が再び上演された(初演は大正九年一〇月一九日)。創作オペラを志向する伊庭孝が脚本を書き作詞した。作曲は竹内平吉、編曲はオーケストレーションを担う奥山貞吉、舞台・衣装は内山惣十郎、振り付けが高田雅夫と、根岸歌劇団のスタッフが総結集した和製オペラである。
この創作オペラは伊庭が書き下ろした作品となっているが、帝劇オペラ時代に同名の作品(松居松葉・作/ウェルクマイスター・作曲)が上演されていた(明治四五年六月)。国民歌劇を志向する伊庭が新たにこの原作を改編した。作曲の竹内平吉は伊庭の要求に応え、一週間で楽曲を完成させ、オーケストレーションを任せられている奥山貞吉が一〇数人の編成メンバーによるオーケストラ演奏のオーケストラ総譜に編曲した。出演者自らのパート譜を得て稽古に入り、オーケストラメンバーは譜面を手にするとすぐに練習に入った。そして、大正九年一〇月一九日に初演を迎えることになったのである。
舞台演出の内山惣十郎は『浅草オペラの生活』において「最高のスタッフと一流歌劇人を擁していた根岸歌劇団なればこそ出来た」とべているが、配役は次のとおりである。
このように清水金太郎、田谷力三ら、根岸歌劇団の主力の豪華メンバーが配役に名前を連ねた。喜歌劇を中心にしていた浅草オペラではこのような宗教的な荘重な内容は果たして聴衆に受けるかどうかという不安が上演前にあったが、それは杞憂にすぎなかった。内山の演出による『釈迦』の舞台装置は神秘、幽玄、荘厳に充ち溢れ「異国的な情緒豊かな大聖が成道の伝説(ルビ=ローマンス)を遺憾なく表現していた」のである。
豪華メンバーの熱演は好評を博した。出演者役に対する理解と努力が実り、初演(大正九年一〇月一九日)、再演(大正一〇年五月一八日)とも所要二時間の三幕全曲が上演され成功の裡に終わった。「涅槃」の神秘的なコーラスもさることながら、釈迦が数人の弟子を従えて合掌しながらの太子悟の場においてこのオペラが最高潮に達した。あけぼのの光が輝き始めると、迦毘羅城の後苑が神秘、荘重・幽玄の空間を創り上げた。異国的な情緒の色彩色濃く映る大聖が成道伝説を表現し、恍惚となり幽玄気分となった客席から、クライマックスに達した舞台に向かってお賽銭が投げられた。感動の瞬間である。小生夢坊の「『釈迦』は愚作である」(雑誌『オペラ』)という批判はあったが、同誌には激賞の批評も掲載されている。
この釈迦の一生をテーマにした神秘と荘厳、荘重な新作のために竹内は曲を一週間で完成しなければならなかった。出演者も他の出し物を演じながらの練習のために十分な時間も取れなかった。不安を抱えての公演だったが、創作オペラ作品の「一新機軸」を成功させようというスタッフ・出演者の熱意と努力がそれを上回り成功をもたらしたといえよう。
『釈迦』は二村定一の初舞台であり浅草オペラにおける記念すべきデビューである。それは後のライバル、エノケン(榎本健一)よりも一足先に下関から浅草にやってきて浅草オペラにおいてデビューしたのである。二村は高田の門下に入った頃から、看板テナー田谷力三をライバル視し目標にしていた。だが、浅草オペラ最大のスターである田谷力三との差は大きかった。やがて、音楽神経に恵まれた二村はジャズ感覚を身につけ田谷にはない己の個性を発見する。二村のジャズは佐々紅華と出会うことによって本格化する。浅草オペラ消滅後、バンドシンガーとしての実力が認められニッポノホンでジャズ・ソングを吹込み、ステージ・ショーではジャズ・ソングを歌うボードヴィル歌手としての個性を磨き、昭和新時代のレコード界に進出するのである。そして、流行歌の初代寵児となり、浅草に凱旋しエノケンとコンビを組むのである。
内部対立―生駒歌劇団の結成
浅草オペラの人々は誰しもが情熱に溢れている。芸術にかける魂はみな同じである。殊に浅草オペラの大物スターたちの情念のエネルギーは逞しいが、その方向性を失うと離合集散が必然的に生じるのである。
抑々、浅草オペラはローシー系列の本流であるグランドオペラの上演は少なかった。大正七年、浅草に進出した原信子歌劇団は積極的にグランドオペラを取り上げたが、その後は、金竜館時代を迎えるとまるで歌舞伎一八番の如く「清水七曲」(『天国と地獄』『ブン大将』『ボッカチオ』など清水金太郎のレパートリー)に代表されるオペレッタを中心に演目が構成されていた。その清水がローシーの後継者という自負心から、根岸歌劇団のレパートリーが増えることを好まず、西欧のグランドオペラの翻訳と国民歌劇の創作に燃える伊庭と悉く対立するようになった。清水はセリフを一向に覚えないなどサボタージュを決行し、伊庭を孤立させることがしばしばあった。
伊庭孝、佐々紅華らはあくまでも日本人の手による日本の創作オペラを目指し、同歌劇団を脱退したのである。竹内平吉、篠原正雄、内山惣十郎らも金竜館を去った。
女声歌手の中心の井上起久子は明治二五年四月一四日、愛媛県・新居浜市の生まれ。本名井上増子。東京女子音楽学校を明治四四年卒業。《はな火》がデビュー盤でオリエントから大正一一年六月発売。帝劇、ローヤル館を経て、浅草に進出した原信子歌劇団に参画した。大正八年、「井上起久子一座」を結成し、その後、「新星歌劇団」「生駒歌劇団」「楽劇座」「東京歌劇座」に参加し浅草オペラで活躍した。アルトの脇役が好評だった。
昭和に入り電気吹込み時代になると、ニットー、日本蓄音器商会の傍系会社のオリエントなどの関西のマイナーレーベルの会社を中心に活動した。ジャズ・ソングや松竹楽劇レヴューの主題歌を吹込んだ。関西の女性ジャズヴォーカル歌手としての活躍が目立った。
伊庭と佐々は「生駒歌劇技芸学校」を設立した。佐々紅華が校長となってオペラ歌手、バレーダンサーを養成しようとした。少女歌劇の宝塚を模倣したわけである。このような新たな歌劇団が関西に旗揚げされたことは、金竜館の根岸歌劇団を慌てさせたが、「生駒歌劇団」は僅か二、三ヶ月で解散した。パフォーマンスの芸術空間としての「場」を考えた場合、地の利が悪く、客足が伸びず、しかも、伊庭の創作意欲という大義名分が作りだす勝手な国粋的な情熱と無責任な理想から生じる無理な資金要求に対して経営者は辟易した。それらの理由から資本提供者の経営陣は解散を宣言したのである。
この生駒歌劇団の失敗は浅草オペラが浅草の地を離れてはオペラそのものが大衆的な土壌を持ち得なかったことを証明していた。ヨーロッパで流行したミュージカル様式で日本人が好む風俗情緒を盛り込んでも、近代以前からの見世物小屋、芝居小屋の芸能が色濃く底流する大衆の土壌を持つ浅草の活力と一体とならなければ浅草オペラの成功はありえなかったといえよう。
エノケン、浅草オペラに現れる
三〇年代の浅草モダンの主役はエノケンである。そのエノケンが浅草に登場したのは関東大震災前のオペラ全盛の時代である。大正一一年、エノケン(榎本健一)が柳田貞一の弟子入りしてきた。根岸歌劇団のコーラス部員になったのである。エノケンは本名、榎本健一。明治三七年一〇月一一日、東京青山に生まれた。明治四二年、父の転業により麻布に移った。大正一一年五月、父逝去により稼業を継いだ。この間、尾上松之助に憧れ、弟子入り志願のため家出するが失敗。この年、根岸歌劇団の柳田貞一に弟子入りした。エノケンの歌の才能は早くも輝きを見せていた。ヴァイオリンを独習していた成果がここにきて役だった。
「僕はコーラスの部員になって、たちまち馴染んでしまっていた。水を得た魚のようにである。最初のうちはコーラスの稽古に一生懸命精を出していたが、不思議なことに、あれほど学校では勉強嫌いだった僕が、たちまち合唱を覚え込んでしまうのである。合唱だけでなく、人のやっている芝居のセリフでもスラスラ頭の中に入ってしまう。自分でも驚くほど覚えが早くて、しまいには他の連中が同じことを何べんも繰り返しているのを見ていて、僕が傍らで教えてやるほどだった」(『喜劇こそわが命』)
だが、エノケンはコーラスボーイの中では決して優等生ではなかった。喧嘩と悪戯をやっていた。エノケンは売れない浅草オペラの芸人たちと浅草の酒場で気焔を上げていた。師匠の柳田が幹部連中を連れて帰ると、エノケンは楽屋で酒盛りを始める。そして、程良く酒を呑んだあとは、溜り場のカフェーへ行く。
浅草は群小カフェーの坩堝である。金竜館の横前の「ハトヤ」は安い。コーヒー、紅茶、ソーダ―水、レモンその他の飲み物はほとんど五銭。一品で粘れた。スター級の田谷力三らは浅草のパウリスタでコーヒーを嗜んでいたが、売れないコーラスボーイやその他は一杯五銭のコーヒーを求めて安い群小カフェーに屯っていた。
また、売れない浅草の連中は、伊庭孝の家に食客として出入りしていた。伊庭の父親は星亨を刺した刺客伊庭想太郎である。伊庭の国粋的熱血漢は父親譲りだった。二村も花川戸の伊庭宅に出入りした。だが、しだいに嫌気がさした。毎日毎夜、職にあぶれたオペラ俳優の連中には自分らの音楽技量の無さを棚に上げて、無意味な議論をエノケンらに吹っ掛ける者もいてこれには辟易した。度が過ぎる妬み嫉妬には困ってしまった。伊庭の才気煥発、頭脳明晰、即断実行はあくまでも文芸上のことであり、音楽センス、実践の範疇からはかなりズレていた。
伊庭は、日頃、民衆の音楽向上と日本音楽の発展を唱えるわりには、エノケンのように正規の音楽教育を受けなくても音楽神経がよくセンスもあり、有望な実践力のある若手俳優には冷ややかな態度であった。これはまだ駆け出しの二村定一に対してもしかりである。伊庭は音楽神経やパフォーマンスを磨こうとしない連中の意味のない議論を単に無責任に煽るだけで、パフォーマンスにおける音楽創造が欠落していたのである。
大正一二年、『猿蟹合戦』の公演でエノケンは猿の役をこなし喜劇俳優の素質を認められた。しかも、師匠の柳田を飛び越えて、座長格の清水金太郎にもその才気ぶりが認められるようになっていた。
「僕はお鉢を抱えて、大立ち回りの邪魔にならないように舞台の隅でけつまずき、転がってお鉢の御飯をひっくり返し、こぼれた御飯をひと粒ひと粒拾って食べる。これがお客に大いに受けてしまった」(『喜劇こそわが命』)
エノケンは本番の緊張感の中で瞬時の機転と機知の働く役者だった。エノケンはとうとうこの演技を千秋楽までやった。柳田の弟子は面白いぞという評判が立った。そして、エノケンは代役で出演した『牛若丸』でも評判を取った。弁慶以外は全部女優が演じた舞台である。代役の女優がいなかったのでエノケンが女装して役をこなしたのである。本役の女優が全快して復帰してきたが、これも千秋楽までエノケンが務めた。
エノケンは根岸歌劇団のメンバーとして随分と地方公演に参加した。日本全国はおろか、朝鮮、満州へと行ったのである。初めての北海道巡業ではその骨をさすような寒さに驚き、雄大な冬景色には感動した。駅から劇場までは橇で行く。鈴をシャンシャン鳴らしながら雪道を走ると幾分異国情緒を感じることができた。内地とは違う気候風土は、エノケンにとっては驚きと感嘆の連続だったのである。
エノケンの歌い方は清水金太郎の影響がかなりある。清水が大正時代に吹込んだ《ベアトリ姉ちゃん》(小林愛雄・作詞/スッペ・作曲)を聴けばよくわかる。オペラ俳優としてのユニークさを感じることができるのだ。だが、根岸歌劇団は、喜劇の一座ではなくあくまでもオペラが主体の団体である。当時、金竜館では、前座にお伽歌劇を組み、二番目がボードヴィル系の軽喜劇、そして、トリのオペラを持ってきていた。エノケンがいくらキャラクターにおいてユニークでおもしろく、個性的であっても、あの独特のダミ声ではなかなかオペラ歌手としては大成しにくかったにちがいない。しかし、エノケンは一介のコーラスボーイで終わる才能ではなかった。それは、後のジャズ・シンガー二村定一にも同じことがいえる。
オペラ『カルメン』の成功
大正一〇年一二月三一日、金竜館が再開された。観物場を脱し劇場として相応しい設備を得て装いも新たにし、この改築によって多少オペラハウス的な空間が出来上がったのである。
「カルメンは純歌劇の形式による日本最初の上演にして我が根岸歌劇団一派苦心精励ベストを盡す空前無比の大歌劇なり」
一時な熱病のような生駒旋風が過ぎると、根岸歌劇団は浅草オペラを代表する日本一の歌劇団に相応しい企画を立案した。それが、『カルメン』の公演企画だった。
根岸歌劇団は大正一一年三月二〇日、四月五日からと、二回にわけて《カルメン》を全曲オリジナルに近い形式(歌)で上演した。金竜館が正式な劇場になり、法規上の問題が解消され全幕上演が可能となったとはいえ、歌手の負担や練習の負担を考えれば、二回に割る方が各回の演目数が多くなり来客の頻度も多くなるという理由から、分割上演に踏み切ったといえる。二回続きの興行とはいえ、ほぼ全曲をオリジナルに近い形式で上演したことは『カルメン』が浅草オペラの代名詞となったことを考えれば、大変意義のあることであった。
『カルメン』は大きな反響を呼んだ。配役は、カルメンが清水静子、ドン・ホセを田谷力三、闘牛士エスカミリオ(エスカミーリョ)を清水金太郎、ミカエラを安藤文子、スニガ(ツニガ)が柳田貞一、と豪華な顔触れだった。また、大正後期から昭和初期にジャズシンガーとしてジャズ・ソングを歌って、一世を風靡させレコード界を席捲する二村定一が当時は無名とはいえ、伍長のモラレス役で出演している。二村はその後、『カルメン』のモラレスを演じている。
ビゼー作曲の『カルメン』は世界的に有名なオペラである。初演は一八七五年のパリだった。日本では大正七年三月、河合澄子らの「日本バンドマン一座」が浅草桃色座(御園座)で『カーメン』というタイトルで上演していた。本格的な『カルメン』はこの金竜館においてである。妖艶なジプシー女カルメンをめぐる、ドン・ホセと闘牛士エスカミリオ(エスカーミリョ)らによって展開するおなじみのオペラである。お馴染みの前奏曲で幕を開ける。
総勢二百人がでるオペラだから、練習は苛酷を極めた。上演中の出し物が終わってからの練習だから、立ち稽古や振り付けの練習は徹夜、徹夜の連続だった。オーケストラボックスも拡張しメンバーも増え、オーケストラも規模が拡大した。幕が上がる前の序曲の前奏曲は、映画館音楽でも馴染みの楽曲であり、オペラが始まる前の序曲としては非常によかった。
ペラゴロたちが前奏曲が始まり幕が上がると「チャンチャンラオカシ、チャンチャンラオカシ、チャンチャンラオーカシ」と唄って囃し場を盛り上げる。《カルメン》が上演される夜の浅草に漂う群衆の霊魂が踊らされるかのようである。
大作『カルメン』は四幕を分割した二幕ずつの初演は、一、二回とも記録的な大入りとなった。四五日間のロングラーンの大成功に終わったのである。内山惣十郎の『浅草オペラの生活』に《カルメン》の公演の大成功は詳細し記されているが、その流行は庶民層にまでおよんだ。自転車で御用聞きの小僧さんさが歌劇で歌われる《闘牛士の歌》を口ずさむということからも、その爆発的な人気を得たことが分かる。
この公演において田谷力三のホセ、清水静子のカルメン、清水金太郎のエスカミリオ、安藤文子のミカエラという陣容は根岸歌劇団の当たり狂言には欠かせなかったのである。その人気は浅草の都市空間の音楽の象徴でもあった。
『カルメン』はン根岸歌劇団のドル箱になった。大正一一年九月二七日から第一幕、第二幕、同年一〇月九日から第三幕、第四幕が再演された。観音参りに来た人は地方からが多く、オペラに馴染みがなかったが、折角、浅草に来たのだから土産話のひとつにでもオペラを見て帰ろうという人たちも金竜館に来るようになった。そこで、このような客層も考慮して、お伽歌劇を前座に組むようになった。中座にアメリカのポピュラーソングを入れた軽演劇を催し、大トリにオペラを持ってきた。あらゆる客層のニーズに応えるという趣向が凝らされたのである。
根岸歌劇団の特筆すべきことは『カルメン』の成功意外に『蝶々夫人』を公演したことである。大正一一年一二月二一日から、徳永政太郎訳の『蝶々夫人』二幕三場が上演された。主役のプリマドンナは安藤文子、ピンカートンは田谷力三が演じた。同年の四月三〇日、欧米で名声を博した三浦環が一時帰国しており、多くの独唱会で《ある晴れた日に》を独唱し好評だった。この三浦環の実演が浅草オペラ界を刺激したといえる。
最後に《カルメン》の初演の日のエピソードを紹介しておこう。あるコーラスボーイの一人が《闘牛士の歌》を歌っているとき、昂奮のあまり力が入りすぎてしまい、無我夢中で自分の首に巻いていた白い布を引っ張りすぎてしまった。当然、舞台に昏倒してしまった。その駆け出し俳優がエノケンである。舞台にいる。エノケンは焦りと悔しさが入り混じり力んでしまったのだ。舞台初出演の一七歳の少年だった後の喜劇王が昂奮するほどの金竜館初日だったのである。
《浅草オペラのレコード》
田谷力三の大正時代の録音は、「おんがくのまち」が製作した『浅草オペラ◆華ひらく大正ロマン◆』というCDで《カルロスのセレナーデ》(小林愛雄・訳詞/アイヒベルク・作曲)を聴いたが、まだ、この頃は、響きを共鳴腔に蒐めるという発声が十分にできてはいないが、もち声の良さは抜群である。このレコードは一八五〇の番号からしておそらく大正九年頃ではなかろうか。この録音後、田谷力三はかなり技量をあげたと思われる。でなければ、八十九歳まで現役で歌いつづけることは不可能である。オペラ俳優が持ち声だけで務まるほど甘くはない。浅草オペラのレコードは富士山印の東京レコードなどから多数発売されている。例えば、原信子の『歌劇カヴァレリア・ルスティカーナ』の《ロマンス》(マスカーニー・作曲)も大正七、八年頃と思われるが同じく東京レコードから発売されている。一方、帝国蓄音器からは大正九年丹いね子の歌で《リゴレット》(ヴェルディ・作曲》などが吹き込まれた。また、帝国蓄音器からは、演歌師たちが替え歌にしたものや、適当につなげたりしながら吹き込んだ鳥取春陽歌唱の《オペラパック》などが発売されている。
《ペラゴロ》
浅草オペラの流行は、ペラゴロなるものを生みだした。ペラゴロは、熱狂的常連ファンのことである。フランス語のジゴロ(地回り)のゴロとオペラのぺラを組み合わせた合成語。小生夢坊、金子洋文、佐藤惣之助、辻潤らの浅草文士が名付け親である。明治時代にも娘義太夫の花形、豊竹呂昇・竹本小土佐・竹本綾之助らの周辺に集まった熱狂的一群である「ドースル連」という物が存在した。芸人を育てる活気を舞台に反映したという点においては同じといえる。ペラゴロは、オペラの客席から御贔屓の俳優を絶叫する。例えば、田谷力三が真っ黒なビロードのマントに身をつつみ舞台に登場すると、「タヤッ!、タヤッ!、タヤッ!」とかけ声が客席のいたるところからどぶ。まるで機関銃のようである。旗を振り、風船を飛ばし、花を投げる。舞台がハネルと楽屋に押しかける。アイドル歌手への絶叫と追っかけと大した差はない。なぜ、帝劇、ローヤル館で芽がでなかったオペラが浅草で成功したのだろうか。立地、劇場の格、入場料などの相違がまず考えられる。帝劇は、上流階級の社交の場。明治以来の文明開化熱の余韻はあったが、基本的には保守的である。オペラを見るといっても、それは日本一の劇場へ足を運ぶという虚栄心からであり、歌舞伎との合同だから我慢できるということなのであろう。ローヤル館の場合は、立地が悪く入場料もべらぼうに高い。ボックス席が十五円、これは、田谷力三の駆け出しの頃の月給と同じだ。また、帝劇の最高料金が五円を考えればあまりにも高すぎる。これに対して浅草は、低料金。オペラ隆盛直前の金竜館・常盤座・東京倶楽部の隣接三館の二階を連結して、「三館共通料金」二階は二十銭、一階は十銭というシステムがオペラ隆盛の頃に大きくものを言い出した。そして、大戦景気の余沢が東京市民の中流以下にまで波及しこの三館共通の低料金と相乗効果をなして、俄に懐が温かくなった俸給者、小商人、早熟の少年、学生、丁稚の青年労働者、下級兵士にも娯楽文化の入り口を提供したのである。
《浅草オペラの衰退》
しかし、大正九年から戦後恐慌がはじまると事情が違ってくる。さらに関東大震災の直撃が浅草オペラにとっては致命的な打撃となるのである。オペラが大衆料金となれば、それに合わせて内容も親しみやすいように通俗的なものに変形しなければならない。抜粋はもちろんのこと、相当に仕立て直しがあったようだ。それがマイナスにでると「素質が悪くなり、いろいろの歌劇まがい西洋まがいの間に合わせ物」などが出始め、質に点において低俗を招くのである。その点に関して谷崎潤一郎は、『鮫人』においてつぎのようにのべている。
「浅草で歌劇『フェウスト』が演ぜられ、『椿姫』が演ぜられ、『カルメン』が演ぜられたと聞いても、別に驚くにはあたらない。なぜなら其れはグノーの『ファウスト』でなく浅草の『ファウスト』であり、同時にヴェルディやビゼエの『椿姫』『カルメン』でなく浅草の其等であるから−」(『鮫人』)
《浅草オペラの成功・パフォーマンス空間の変遷》
低料金システム
なぜ、帝劇、ローヤル館で芽がでなかったオペラが浅草で成功したのだろうか。確かに、浅草は都市生活に必要な生活空間(住居)、東西の食文化、娯楽の需要が集約した。しかし、それは近代日本の都市生活において浅草だけではない。浅草固有の何かがあったはずだ。客種の豊富性、娯楽の多様性、大スターの誕生、立地、劇場の格、入場料などの相違がまず考えられる。帝劇は、上流階級の社交の場。明治以来の文明開化熱の余韻はあったが、基本的には伝統に拘束され、保守的である。オペラを見るといっても、それは日本一の劇場へ足を運ぶという虚栄心からであり、歌舞伎との合同だから、訳がわからないオペラでも鑑賞する分においては我慢できるということなのであろう。
オペラ隆盛直前から金竜館(オペラ)・常盤座(芝居)・東京倶楽部(映画)の隣接三館の二階を連結し自由に往来できた。大正五年一月から導入されたこの「三館共通料金」の演出が二年後のオペラ隆盛の時代を迎えると、いよいよ威力を発揮し始めた。
《パフォーマンス空間の変遷》
浅草オペラは抜粋、改編が多く純粋なオペラではなく、本格的なオペラが劇場で上演されることがなかったと言われるが、それには理由がある。確かに、最初のオペラ常設館、専門劇場となった日本館、大正一〇末までの金竜館は正式な劇場ではなかった。東京では劇場運営においていろいろと法律上の制約があり、上記のに劇場は観物場とよばれ、近代以前の見世物小屋の要素を多分に含んでいた。したがって、建造物の構造規定はある程度緩やかだが、浅草オペラの実演内容にはいろいろ厳しい制限があって、複数演目上演、大道具や鬘の使用禁止など細かい禁止条項が設けられていた。当然、装置も十分ではなく、パフォーマンスの技巧そのものも大きな影響を受けた。パフォーマー(演技者)の技量の関係ないところで優劣が決まるのはあまりにも酷であり、気の毒である。
人の群れが蠢く浅草の都市生活の光景が生みだした浅草オペラの驚異的な流行は、ペラゴロなるものを生みだした。ペラゴロは、熱狂的常連ファンのことである。異常な興奮とみえる浅草の逞しいエネルギーが生み出した造語である。フランス語のジゴロ(地回り)のゴロとオペラの「ぺラ」を組み合わせた合成語。小生夢坊、金子洋文、佐藤惣之助、辻潤らの浅草文士が名付け親である。明治時代にも娘義太夫の花形、豊竹呂昇・竹本小土佐・竹本綾之助らの周辺に集まった熱狂的一群である。「ドースル連」という物が存在した。小旗を振り、扇子を振りかざし、花吹雪を投げゴム風船を飛ばし、声を張り上げて熱狂するなど、芸人を育てる活気を舞台に反映したという点においては同じといえる。ともあれ、浅草オペラが凄まじい人気であったことは確かなのだ。
オペラが大衆料金となれば、それに合わせて内容も親しみやすいように通俗的なものに変形しなければならない。抜粋はもちろんのこと、相当に仕立て直しがあったようだ。だが、それがマイナスにでると「素質が悪くなり、いろいろの歌劇まがい西洋まがいの間に合わせ物」などが出始め、質に点において低俗を招くのである。その点に関して谷崎潤一郎は、『鮫人』においてつぎのようにのべている。
T宮澤賢治と浅草オペラ
1 賢治とオペラ
去来する浅草オペラへの追想
宮澤賢治の心象のスケッチはなんと純粋で幻想的なのだろうか。追想の浅草オペラがつぎつぎと去来し豊饒な詩的世界を彩っている。
函館港春夜光景 一九二四、五、一九、
地球照ある七日の月が、
海峡の西にかかって、
岬の黒い山々が、
雲をかぶってたゞずめば、
そのうら寒い螺鈿の雲も、
またおぞましく呼吸する
そこに喜歌劇オルフィウス風の、
赤い酒精を照明し、
妖蠱奇怪な虹の汁をそゝいで
春と夏とを交雑し
水と陸との市場をつくる
(中略)
夜ぞらにふるふビオロンと銅鑼、
サミセンにもつれる笛や
繰りかへす螺のスケルツォ
あはれマドロス田谷力三は、
ひとりセビラの床屋を唱ひ、
高田正夫はその一党と
紙の服着てタンゴを踊る
〈以下―省略―〉
このように大正ロマンを象徴する浅草オペラを幻華豊饒に静かな調和をもって純粋に謳った詩人は宮澤賢治だけではなかろうか。賢治の豊饒多彩な感性はあまりにも純粋なのである。
大正一三年五月一九日、賢治は浅草オペラの衰退が始まる頃、青森から津軽海峡を渡り、函館に上陸した。賢治にとっては三度目の北の大地への旅である。前年の二度目の時は、最愛の妹、トシ(トシ子)の死への追想が色濃く内部を支配していた。賢治の心象のスケッチといえる詩集『春と修羅』の「青森挽歌」「オホーツク挽歌」「噴火湾(ノクターン)」などの一連の挽歌詩に深く刻まれた傷心を癒すかのように精神内部の彷徨が幻想となり、北の大地、海、空をパノラマにして描かれていた。
畏怖と憧憬への三度目の北の涯の旅、空にはうすら寒い螺鈿の雲の棚びきが呼吸するかのように動いている。賢治はそれを眺めた。眼前には寂しい群青色の北の海が横たわっていた。ふたたび海霧が襲い賢治の視界を幻想の世界に変化させた。丘と広場は包み込まれ雨が青磁の色彩を描き、感傷と哀調を帯びたクラリネットの音を奏でる。賢治は幻想の世界を眺めながら去来する回想のパノラマを詩句にした。
風はバビロン柳をはらひ、
またときめきかす花梅のかをり、
青いえりしたフランス兵は
桜の枝をさゝげてわらひ
船渠会社の観桜団が
瓶をかざして広場を穫れば
汽笛はふるひ犬吠えて
地照かぐろい七日の月は
日本海の雲にかくれる
賢治にとって北海道は「畏怖と憧憬の地」であり、生命エネルギーに溢れている。だが、北の海は寂しい。しかも、夜の海の光景は夢想の世界が深いとはいえ、やはり、その風景は寂寥感があるのだ。だが、賢治の追慕の幻想世界は詠嘆的であり豊かな感性が彩る抒情性に溢れている。この幻想詩が発表された大正一三年は金竜館時代全盛の浅草オペラが消滅していたが、夜空の光景が喜歌劇の舞台となりヴァイオリンと銅鑼の音、哀愁が込められた告別の汽笛がアンサンブルとして奏でられ、このような賢治の心象のスケッチにはテノール田谷力三の歌声が永遠の響きとして甦り、華麗な高田雅夫の舞が去来し感覚のイメージとして心象スケッチが描かれたのである。まるで、滅びゆく者へ蘇生の響きをあたえているかのようだった。
雑喉潤の『浅草六区はいつもモダンだった』には賢治と浅草オペラについていてつぎのように記されている。
「田谷力三さんの歌う『コルネビーユの鐘』の『舟歌』は、意外な人にも感動を与えていた。それは『雨ニモマケズ、風ニモマケズ』の詩人であり、童話『銀河鉄道の夜』の作者でもある宮沢賢治に対してであった。昭和五十九年二月四日、東京の新橋ヤクルトホールで催された宮沢賢治没後五十年記念のつどいである『賢治へのいざない』の中で、関係者から宮沢賢治がペラゴロの一人であったことが明らかにされた」
その関係者の一人、宮澤賢治の音楽研究で知られる佐藤泰平は『宮沢賢治ハンドブック』の「オペラ・映画」の項目で「賢治が何回か見聞きしたであろう浅草オペラ」と、浅草オペラを観測・取材の対象にした可能性を示唆している。
だが、賢治の書簡、年譜には浅草オペラを観測・取材の対象にしたという事実は見当たらない。あれほどオペラに関心を持ち、浅草オペラ通ならば、書簡にその思いを伝えるはずである。しかし、全くそれらしい記述がないのである。はたして、賢治は実際に本当に上京のたびに浅草オペラに通って「ペラゴロ」として熱狂していたのだろうか。
「ペラゴロ」は川端康成、谷崎潤一郎、辻潤、サトウ・ハチロー、佐藤惣之助ら文士、詩人も多い。賢治も「ペラゴロ」の一人ならば、彼らとの交友もあったにちがいない。現時点では、宮澤賢治の「ペラゴロ」説は「函館港春夜光景」とコミックオペレッタ『飢餓陣営』の創作・上演からの推察の域をでることは難しい。たしかに、堀尾青史は「賢治の演劇熱は、高農時代から見られ、記念祭などに自作のファースなどを寄宿舎の室の者にやらせたが、こうしたコミック・オペレッタは田谷力三などの浅草オペラから学んだようである」(『年譜 宮沢賢治伝』)と記している。
堀尾によれば、賢治がトシの看病疲れした母親を寄席に連れて行ったり、芝居を観たり映画館を覗いたり、浅草周辺を逍遥していたということなのだ。また、堀尾は賢治が音楽を好んだ背景に浅草オペラを見聞きした事実があるからだとのべているが、賢治のようなタイプはあらゆる分野への情報収集のアンテナの張り方は尋常ではないので、情報として浅草オペラが耳目に届いていたことはありえる。もし、そうでなければ、畏友の藤原嘉藤治(当時花巻高等女学校の音楽教師)と意気投合し、当時来日していたイタリア歌劇団を見に行こうと東京までの旅費まで捻出し、結局、挫折することになるとはいえ、そのような行動を思い立つなどしなかったであろう。それほどまでに賢治のオペラへの関心は強かった。
また、浅草オペラの魅力に官能的なエロチィシズムがよく指摘されるが、賢治の童話作品にも筒井康隆が「賢治童話の官能」において「宮澤賢治の童話から受けた性的感動は現在でも新鮮なものとして蘇らせることができる」とのべているように、やはり、賢治は実際に浅草オペラを直に観測・取材し、十分に官能的エロチシズムの刺激を受けたと思われる。
たしかに、筒井が指摘するように「烏の北斗七星」「鹿踊りのはじまり」の作品において描かれた「同性愛のイメージと、擬人化された烏の性的イメージ、人間語を喋る擬人化された鹿の動作や踊りの描写による女性的なイメージ」は官能的エロチシズムを感じさせるものであり、そのように考えると賢治は実際に河合澄子、澤モリノらのステージを観たのでいかと思われてならないのだ。しかし、ここでは、賢治が上京のたびに浅草オペラに通い「ペラゴロ」だったかどうかが問題でない。宮澤賢治の生涯と総体的な浅草オペラの歴史が同時代においてパラレルに展開し重なることが重要なのだ。
宮澤賢治の生涯と浅草オペラ(大正期の田谷力三から昭和期のエノケン時代も含めた)の二つの時代環境が並行する。明治二九年生まれの賢治の生い立ちからの人間形成、青年期における精神の激動の時代が日本のオペラの勃興から浅草オペラの隆盛を極めた時代とパラレルに展開したということが重要なのである。
宮澤賢治はクラシックレコードの蒐集家としても知られているが、その中に浅草オペラのレコードもある。オリエントレコードから発売された《恋はやさしき野辺の花》がその一枚である。浅草オペラの大スター安藤文子と戸山英二郎(後の赤盤芸術家・藤原義江)の吹込みによるレコードである。録音技術も音楽技術も稚拙な大正期の録音であり、飛躍的にレベルアップする昭和時代と比べれば歴然とする。だが、それ以前とはいえ当時の歴史を知るうえで重要な音源である。賢治がこのレコードを所蔵していたということはやはり浅草オペラに強い関心と純粋な憧れを抱いていたということになるのではなかろうか。しかも、オリエントレコードは日本蓄音器商会傘下の関西地方のマイナーレコード会社であり、このマイナーレーベルが岩手花巻の地にまで流通していたことは驚きである。電気吹込みを完備した外国レコード産業が巨大な外資をもって本格的に新たな製造会社を設立する昭和以前の大正期において、日本のレコード産業がいかに発展していたかを物語っている。賢治が浅草オペラの時代を生きたことは紛れもない歴史なのである。
オペラへの関心
宮澤賢治の文学には音楽が存在する。四次元の軌道に宇宙空間までも視野に据え、生来の善意を燃焼し続けた宮澤賢治の文学作品には浅草オペラも含めた音楽が重要な位置づけとなっている。風、山、川のせせらぎ、小鳥の囀りなどの生命観溢れる自然音との交感において、賢治は日本の近代音楽の断章に出会っていたのである。その詩的風景に「喜歌劇のオルフィウス」「マドロス田谷力三」「恋はやさし野辺の花よ」などの浅草オペラのキーワードが登場し、豊かな詩的空間を帯びているのだ。
賢治はオペラという用語を比喩的な表現によって独自の解釈をした。例えば、読み手に暗示・推測させる意図を狙い「私は気圏オペラの役者です」(「東岩手火山」)というような比喩的な表現を使っている。ここに賢治のユニークなユーモアー感覚がある。
では、それらの賢治の詩句が登場する詩の一節を紹介してみよう。
そこに喜歌劇オルフィウス風の、
赤い酒精を照明し、
妖蠱奇怪な虹の汁をそゝいで、
春と夏とを交雑し
水と陸との市場をつくる
(「函館港春夜光景」)
唇を円くして立つてゐる私は
たしかに気圏オペラの役者です
(「東岩手火山」)
恋はやさし野辺の花よ
一生わたくしかはりませんと
(「岩手軽便鉄道 七月(ジャズ)
宮澤賢治は芝居が好きだった。その芝居に音楽が奏でられる。しかも、賢治が好きな西洋音楽である。賢治は浅草オペラの影響から、花巻農学校時代にオペラ、いわゆる歌劇という総合芸術に強い関心を持ち自作を試みた。そのオペラの一形態であるオペレッタ、コミカルな学校劇を創り生徒に上演させているのだ。賢治が関心をもっていたオペラについては、佐藤泰平『宮沢賢治の音楽』、『宮沢賢治ハンドブック』の「音楽・映画」の項目(執筆・佐藤泰平)に詳しい。
そもそも、オペラはフィレンツェで産声を上げた。イタリアのインテリゲンチャーグループ(カメラータ)がルネサンス思想の一つであるギリシア悲劇再興という理念をもって始めたのだ。そのオペラは一六二〇年代、三〇年代にかけて、主導的地位をローマに受け継がれ、そこから、さらに舞台がヴェネツィアへ移った。それがバロック・オペラの始まりだった。バロック・オペラの先達者モンテヴェルディから弟子のカヴァッリ、それに続くチェスティ・レグレンツィストラデッラという作曲家によって、バロック・オペラは盛期を迎えた。レチタティ(チ)ーヴォをより旋律的にし、合唱や楽器によって音楽的な肉付けが豊かになり、バロック・オペラを開化させたのだ。そして、劇的な叙情性を帯びその真価が十分に発揮されるようになったのである。
イタリアという国は人間の声が最上の楽器である。歌うことがまさに神からお墨付きを授かったかのように語る言葉までも歌なのだ。イタリア人は歌うことが自然な感覚であり、陽気な国民性とその開放的な気質からくる感情の自然な発露が歌だった。
一七世紀の中期、イタリアのナポリにオペラの中心が移ると、オペラの性格が一変した。詩の意味をレチタチーヴォで表現することは二次的となり、アリアの詠唱において歌手の存分な技巧によって旋律をより感情的に歌い上げる。旋律美を最大の価値に置いた「歌」としてのオペラが花開く時代が到来したのだ。
ドラマティックな雰囲気を作り出す歌手の歌唱技法が最良とするオペラの誕生だった。一八世紀初頭には美しく歌うベルカント唱法(声量を競うのではなく美しく歌うという意味)によって旋律が浮き立たされ、その歌唱による旋律表現をハーモニーが支えるという手法が民族歌謡的な親近性を持って、イタリアオペラの魅力となったのである。
前述の書誌から賢治が知っていたという魅力あるオペラを紹介すればつぎのとおりである。
グルック『オルフェオとオエウリディーチェ』
モーツァルト『フィガロの結婚』
オーベル『ポルティチの?娘(マサニエロ)』
ウェーバー『魔弾の射手』、『オベロン』
ロッシーニ『セヴィリアの理髪師』、『ウィリアム・テル』
ワーグナー『リエンツィ』、『タンホイザー』、『ローエングリン』、『ニュルンベルクのマイスタージンガー』
ヴェルディ『リゴレット』、『アイーダ』
グノー『ファウスト』
ビゼー『カルメン』
スッペ『ボッカチョ』
賢治は精神歌、《角礫行進歌》を作詞した時、旋律をグノーの『ファウスト』の第四幕第三場で歌われた《兵士の合唱》から採っている。佐藤泰平の『宮沢賢治の音楽』によると、賢治は楽譜からでなく、蒐集したレコードを通じてこの原曲を知ったそうだ。ニューヨーク・グランドオペラ合唱によるビクター赤盤と同じビクターのビクター男声合唱団盤からである。賢治は実習場へ鍬をかついで行くときに生徒にこの行進曲を歌わせたと言われている。これは『宮沢賢治の音楽』に引用されている賢治の教え子、鈴木操六の証言(『先生と音楽』)によるものである。
氷霧はそらに鎖(ルビ=とざ)し、
落葉松(ルビ=ラーチ)も黒くすがれ、
稜礫(ルビ=りょうれき)のあれつちを、
やぶりてわれらはきたりぬ。
かけすのうたも途絶え、
腐植質(ルビ=フームス)はかたく凍ゆ、
角礫(ルビ=かくれき)の稜(ルビ=かど)ごとに、
はがねは火花をあげ来し。
(天のひかりは降りも来ず)
(天のひかりはそゝぎ 来ず)
(天のひかりは射しも来ず)
タララララ タララララ
タララララ タララララ
ターララララ
『ポルティチの?娘』の副題のマサニエロは実在の人物で、スペインの圧政に苦しむ民衆ために蜂起(イタリアのナポリの反乱の首謀者)した漁夫である。オーベルはその悲劇的な生涯を歌劇の題材にした。賢治は「マサニエロ」というタイトルを付け〈城のすすきの波の上には 伊太利亜製の空間がある〉という詩句で始まる詩を創作した。この詩は『春の修羅』に所収されている。
賢治を魅了したオペラにもう一つ、ウェーバー作曲の歌劇『オベロン』がある。その第二幕の終わりに人魚によって歌われるアリア《人形の歌》に魅了されていたのだ。原曲のアリアは潮の流れに乗って現れる人魚が抒情豊かに歌う旋律である。妖精オベロンに海の芝居を見せてあげたいという思いを抱くドロル(語り役)の言葉にオベロンがうなずくところから、前奏が奏でられる。ドロルの振る百合の茎によって人魚が歌い上げるのである。音楽の畏友藤原嘉藤治は賢治の音楽への深い認識と洞察を理解し、この旋律に〈海鳴りのとゞろく日は〉で始まる詩句にして《火の鳥の歌》(藤原嘉藤治・作詞)を作詞した。
賢治はオペラのアリアや声楽曲のレコードも蒐集していた。ロシアの世界的なバス歌手・フィヨドル・シャリアピン、プリマドンナとして世界的名声を博したソプラノのネリー・メルバ、イギリスを代表するテナー歌手・ジョン・マッコーマックのレコードが所蔵されていた。賢治は彼らの独唱に歌唱美を感じていたのである。
そのような旋律美に重点をおいた「歌」としてのオペラが大衆的な土壌を持って日本において開花したのが大正期の浅草オペラである。だが、浅草オペラといっても、南イタリアの自由で明るい旋律優位の楽劇がそのまま花開いたというわけではなかった。
浅草オペラ概観
賢治が北海の海を臨みながら幻想の中に去来する夢想世界の中で描いた浅草オペラの定義は難しい。グランドオペラ、オペレッタ、ミュージカル、創作オペラ、舞踊などが演じられ、非常にその内容や形式が複雑であり種々雑多だからである。その坩堝のような様式の系脈と経路が一気に浅草で花開いたのだから、その後の定義付けが困難であることも当然といえよう。そこで、まずはその系脈と経路を簡単にのべてみることにしたい。
「浅草オペラ」とは1・ローシーの系列(グランドオペラ・オペレッタ/清水金太郎・静子夫妻/原信子/田谷力三)、2・ミュージカル(伊庭孝/高木徳子/佐々紅華/高田雅夫・せい子夫妻/石井漠)、3・創作オペラ(伊庭孝/佐々紅華)と、三つの流れがある。そして、この系脈は河合澄子らを生んだ少女歌劇の分野を加味した音楽形態のジャンルで分ければ四つに分類することができる。外国の名作オペラ(歌劇、喜歌劇)、少女歌劇、お伽歌劇、日本製の音楽劇、舞踊などの小品に分類されるのである。浅草オペラは特定に階級に限定されることがなく、上位・下位の境目を無くした複合芸術文化なのである。
このような広義の浅草オペラの元年とは、いったいいつなのか。増井敬二はつぎのようにのべている。
「大正五年に始まった高木徳子と伊庭孝、および西本朝春らの活動が、浅草オペラ開幕の“第一の波”とすると、翌大正六年の秋から七年春にかけての佐々紅華と石井漠、清水金太郎夫妻と原信子その他の動きは“第二波”となって、次の浅草オペラ全開の時代へと進むのである」(『浅草オペラ物語』)
これを踏まえて浅草オペラの歴史的なエポックの時系列をしめせばつぎのとおりである。
大正六年一月二二日、歌舞劇協会(伊庭孝・高木徳子)、『女軍出征』を常盤座で初演
大正六年一〇月二三日、東京歌劇座(佐々紅華)、『カフェーの夜』を日本館で初演。日本館の浅草オペラ時代の開始。
大正七年二月、清水金太郎・静子夫妻、東京歌劇座に加入。ローシー、日本を去る
大正七年三月 原信子歌劇団、浅草へ進出する。観音劇場とで旗揚げ公演、田谷力三が参加(『アルカンタラン医師』七月、脱退する)。
大正七年九月、原信子歌劇団、東京歌劇座(一〇月、田谷力三加入)、ホワイト・スター・バンド(高田雅夫)三座合同公演(駒形劇場)、このとき、原信子 男装し『リゴレット』のマントヴァ公爵を演じる。
大正八年二月 七声歌劇団、結成する。金竜館で公演(金竜館が浅草オペラ専門劇 場となる)。
大正八年五月、新星歌舞劇団、結成される(松竹専属)。
大正九年四月、日本館の映画上映が開始され、映画が同館の中心となる。
大正九年六月、日本館、映画常設専門館となるために修理休場となる。
大正九年九月、新星歌舞劇団が根岸興行部専属となり根岸歌劇団と改称(浅草オペラの大同団結)。
大正一一年三月、根岸歌劇団、『カルメン』を上演する。
こうしてみると、たしかに、浅草オペラの時代を彩る隆盛の始発は伊庭孝、高木徳子らの大正六年一月に浅草常盤座で上演された『女軍出征』である。それは帝劇歌劇部の路線とは異なる系脈の高木徳子という一人のダンサーの登場によるものだった(大正四年、高木はローシーの振付による『幻夢的バレー』で酒保の女の役で出演しているが師弟関係ではない)。ローシー系列の清水金太郎、原信子、田谷力三、高田雅夫らよりも浅草へと一歩先駆けたのである。さらに、佐々紅華、石井漠、澤モリノらを中心に結成された東京歌劇座が浅草六区の日本館で旗揚げされ、河合澄子らが演じる『カフェーの夜』(大正六年)が大成功を収め、浅草オペラのミュージカルの路線がローシー系列のオペラ(グランドオペラ/オペレッタ)よりも一足先に浅草に音楽空間を構築したのである。また、この日本館は金竜館よりも先にオペラ常設館となり、ミュージカル系が浅草オペラ隆盛の装置となったのである。
一般にオペラといえば、冒頭でのべたとおり、クラシック音楽を基本に創られ、舞台でそれぞれの役を演ずる歌手がオーケストラ演奏によって朗々とそれぞれの配役によるアリアを歌い上げると云うイメージがある。それに対してミュージカルは歌と踊りが主体で形式的にはオペレッタに近いが、舞踊表現の有無も重要だがポピュラー音楽を楽曲として使うという点において主体となる音楽が違うのである。
ミュージカルとグランドオペラ、オペレッタが浅草オペラの象徴の地位を競争するかのように混在しているが、それはミュージカル系列の高田雅夫(帝劇二期生)、舞踊家であり日本モダンダンスのパイオニアの石井漠(帝劇一期生)、澤(沢)モリノ(帝劇二期生*一期生に入り教育を受ける)らが帝劇歌劇部でローシーの指導を受けており、その流れがまず最初に先陣を切って浅草で成功したからである。
石井はローシーの峻厳な指導に反発し帝劇歌劇部を去り、山田耕筰にアドバイスを受けローシーから学んだバレエセンスを生かし舞踊家として大成した。その石井とパートナーを組んだのが沢モリノである。それに対して、ローシーとローヤル館で共にし、歌舞劇協会、東京歌劇座、新星歌舞劇協会、根岸歌劇団と歩み賢治に印象をあたえたのが高田雅夫である。これらのミュージカル系の最初の活躍は浅草オペラの支流であるとはいえ、やはり太い線の流れである。
このようにミュージカルが浅草で開花し浅草オペラの先陣を切ったことは事実だが、広い意味で定義される浅草オペラの成立元年は三つの系列と四つのジャンルが勢揃いした大正七年と見るのが妥当ではなかろうか。日本館(東京歌劇座、歌舞劇協会、アサヒ歌劇団)、観音劇場(原信子一座、七月から東京歌劇座が出演)などにオペラ団体が集まり、これが複層的な集合体としての浅草オペラの全面展開の元年と見るべきと思われる。そして、今日、伝えられる浅草オペラを最も象徴する金竜館オペラ時代のスタートが七声歌劇団の結成の大正八年二月(金竜館が浅草オペラ専門の劇場となる)であり、同年五月には新星歌舞劇団が結成され浅草オペラは全開し、金竜館が浅草オペラのメッカ、いわゆる「金竜館時代」を迎えるのである。そして、その頂点が大正九年の根岸歌劇団の結成による大同団結、つまり、大正九年九月には伊庭孝(歌舞劇協会)、佐々紅華(東京歌劇座)らも参画した根岸歌劇団が結成され、浅草オペラの複合文化による芸術体が浅草の空間に成立し、絶頂期が大正一一年の『カルメン』の上演の前後ということになるといえよう。
一方で、この間に浅草オペラの初代メッカだった日本館が大正九年六月二〇日から映画専門館になるため、として改装工事が始まり修理休場に入った。オペラ常設館として機能した装置を活動写真常設館に変更し、浅草オペラ隆盛の先陣を切ったミュージカル系浅草オペラが後退する。そして、アサヒ歌劇団が名古屋へ本拠地を移し東京少女歌劇団と名称を変え、少女歌劇を代表する一条久子が一七歳で急逝する(大正九年一一月七日)などミュージカル系浅草オペラは大正九年を境に凋落し、これを持って浅草オペラの翳りのように思わせた。しかし、それは広義の視点からは視れば、大きな転換期であり、根岸歌劇団への大合同(大正九年)によって複層的な集合体としての浅草オペラは複合芸術文化として完成し歴史に名を刻むことになるのである。つまり、大正八年の日本舘から金竜館への装置変遷史とソフト面ともいえる大正九年の転換期(根岸歌劇団への大合同)が巧く連結し、ミュージカル系列がローシー系列(清水金太郎、原信子、田谷力三)のグランドオペラ・オペレッタやコミックオペラ、いわゆるオペレッタ(喜歌劇)を支えることになる。賢治の幻想の詩作において浅草オペラの象徴であるテノール田谷力三(グランドオペラ/オペレッタ)と華麗な舞の高田雅夫(ミュージカル)の全盛期を追想するかのように描かれていることもそれを物語っているといえる。
ふたたび、追想と幻想の中の浅草オペラ
さて、時代はふたたび大正ロマンの黄昏期に戻るが、大正一二年八月一日、賢治は浅草オペラの衰退が始める直前、青森から津軽海峡を渡り、光景の函館に上陸した。そして、賢治は夏なのにうすら寒い空気を感じ、螺鈿の雲の棚びきを呼吸するかのような動きを眺めた。そこには群青色の濃い寂しい北の海が横たわっていた。ふたたび海霧が襲ってくる。賢治の視界を幻想の世界に変化させた。丘と広場は包み込まれ雨が青磁の色彩を描き、哀しい哀調を帯びたクラリネットの音を奏でる。賢治は幻想の世界を眺めながら去来する回想のパノラマを詩句にした。
風はバビロン卿をはらひ
またときめきかす花梅のかをり
青いえりしたフランスへは
桜の枝をさゝげてわらひ
船渠会社の観桜団が
瓶をかざして広場を穫れば
汽笛はふるひ犬吠えて
地照かぐろい七日の月は
日本海の雲にかくれる
再び読み返してみると、賢治の追慕の幻想世界は詠嘆的であり抒情性に溢れている。浅草オペラは消滅していたが、夜空の光景が喜歌劇の舞台となり、ヴァイオリンと銅鑼の音、哀愁が込められた告別の汽笛がアンサンブルとして奏でられ、賢治の心象のスケッチには田谷力三の歌声が永遠の響きとして甦ったのだ。
賢治の音楽はあまりにも純粋過ぎた。だから、賢治が官能的なエロチシズムの色彩の濃い浅草オペラを書簡において他者に己の思いを敢えて伝えることせずに、あくまでも純粋に憧れをもって幻想世界に描いたのである。
クラシック音楽は精神性の追求であり、ポピュラー音楽は刹那的な快楽の追求と区別することができる。浅草オペラは官能的なエンターテイメントの要素が強く後者に属する。クラシック音楽の殿堂である官立の「上野」(東京音楽学校の通称)が浅草オペラを低俗・通俗な存在とみなし、かなり低く視ていたのもそのような理由からである。
賢治はクラシック音楽に精通していたことはすでにのべた。彼の音楽観は自然との交感であり、芸術追求であり精神の涵養であった。したがって、賢治が商業ベースにもとづいた興行性の強い浅草オペラにあからさまに熱狂することに対して躊躇が見られたのも当然であろう。オペラといえども、浅草オペラの大衆的な人気を得ることから通俗性や官能的なエロチシズムが前提となり、浅草オペラの男女の情欲と淫蕩淫らな生活が織りなす通俗性賢治はあまりにも音楽を媒介にした自然交感による精神を追求する賢治の純粋な音楽愛好とは対極であり、真逆であった。
賢治の純粋性は行動にも表れた。敢えて、身分保障のある俸給生活者を捨て「農」の世界に生きながら芸術追求の人生を選択した。彼にとってエロの性的な刺激によって大衆を昂奮させ酔わせるエンターテイメントの世界はあまりにも違っていたのである。彼の音楽体験は敬虔な崇高な精神追求という宗教世界に近いものであり、幻想の中で詩作の精神を豊かにしてくれるものであったのである。
昭和五九年、田谷力三は、賢治没五〇年の歳月を踏まえ、「賢治さん、終わりなき永遠の旅へ向かう銀河鉄道に乗りながら、私のアリアを聴いてくださいね」と感慨深くのべた。
田谷力三は明治三二年生まれ、賢治は明治二九年生まれである。田谷力三の半生は賢治の生涯に重なるのだ。田谷は終生浅草オペラ共に生き、賢治はイーハートーブの理想世界を生き花巻を離れることがなかった。八九歳の人生を全うした田谷に対して賢治は三七歳の短い生涯だったが、二人は激動の時代を駆け抜けた同世代である。二人の歩んだ時代相はパラレルだった。
もし、賢治が田谷力三のステージを実際に観たとするならば、つぎのようなパノラマが賢治の記憶に刻まれてであろう。
R・プランケット作曲のこのオペレッタの舞台はノルマンディー地方。青白い光が照らす舞台装置の浅黄のヒリゾントの前にはりぼての小舟が一つあるだけだ。そこに漁夫役の田谷力三が登場するのだ。朗々と歌上げるテナーの響きは賢治の美しい回想の世界に記憶され、その去来する賢治の浅草オペラへの憧れと純粋な思いは幻想という詩的世界へと昇華されたのである。
それから、およそ六〇年の歳月が流れた。昭和五九年、大正ロマンの華やかな時代は遠くなり、もうそろそろ昭和も終わりの頃、浅草オペラの永遠のスター田谷力三の朗々とアリアがホールに響く。往年の浅草オペラを歌上げたその歌唱は、衰えを知らぬ。そして、函館の北の海から遥かなる浅草オペラを美しい回想というパノラマの舞台において去来する幻想として純粋に描いた宮澤賢治心象のスケッチと思いに十分に応えた。その歌声は見果てぬ夢を乗せた銀河鉄道によって、「まっすぐに銀河の青光の中」を透って天国にいる賢治のところへ届けられたのである。
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《近代日本音楽史・徒然なるままに・菊池清麿》
NO.1ジャック・ティボーは今世紀フランスを代表するヴァイオリニスト。昭和三年に日本に初来日した。一九三〇年からの五年におよぶコルトー、カザルスとのトリオ活動は数々の名演奏を演じた。日本人愛好家が多いが、東洋人を興奮させる妙技があったといえる。
NO.2 ラファエル・ケーベルは、東京帝国大学の哲学科教授として来日。その一方で、東京音楽学校でピアノや西洋音楽史を講義した。山田耕筰、三浦環らもその教えを受けた。彼には歌曲集がある。《ぼだい樹のかげ》《はるかな道を来るきみの姿に》《水の妖精》などからなる九曲の歌曲はケーベルの魂の歌なのである。
NO.3 山田耕筰の日本楽劇協会は昭和四年十二月三日から二十三日まで、《堕ちたる天女》が上演。妖精の長=四家文子、少年=奥田良三、青年=照井栄三、老爺=小森譲、七人の天女=藤本政子、関種子、河原喜久恵、渡辺光子、遠藤咲子、幕田シナ子、高橋みちらが出演。音楽的には好評だったが、芝居の目で劇評家からは酷評を浴びた。
NO.4 昭和十二年一月、大阪中央公会堂。同年六月、《蝶々夫人》第二回公演。日比谷公会堂で第三回公演。ピーカートン役には永田絃次郎、渡辺光、三浦永恩が務めた。指揮は山本直忠、演奏は名古屋交響楽団。永田はこのピーカートン役によってテノールで売り出した。
NO.5 昭和八年にコロムビアから発売された《ローエングリーン》は第一幕から抜粋の四枚組八曲である。指揮はクラウス・プリングスハイム、東京音楽学校管弦楽団演奏、歌手陣の中に名を連ねた増永丈夫は、まだ在校中である。マリアトール、ヴーハーペーニッヒらと伍しての堂々の独唱ぶりである。テノールの音色のある美しいバリトンだった。
NO.6 昭和十年三月二十四日、放送オペラは《カルメン》第二幕を放送。渡仏していた佐藤美子が貫禄を見せる。ドン・ホセには藤原義江、メルデスには日本の代表的女優になった杉村春子は出演した。杉村は昭和九年十月、日比谷公会堂における藤原歌劇団第二回公演《リゴレット》にもマッダレーナの役でも出演。好評を得る。エスカミリオには、徳山lが堂々のバリトンを披露した。
NO.7 大正十三年、十一月二十九日、東京音楽学校奏楽堂でベートーヴェンの《第九》が初演。指揮はクーロンが振った。独唱には、長坂好子、曽我部静子、沢崎定之、船橋栄吉らが名前を連ねた。当時の東京音楽学校の管弦楽は、同校の職員・生徒・海軍軍楽隊とによって構成されていた。船橋栄吉の弟子に後の国民栄誉賞受賞歌手の藤山一郎(声楽家増永丈夫)がいる。
NO.8 イタリアベルカントの代表的テナー歌手にアレッサンドロ・ボンチがいる。カルーソ登場以前にスカラ座で人気を博した。リリクな音色は当時の聴衆に感銘をあたえた。一九〇五年に録音された《エレーナとパリード》からのアリアは名唱である。また、一八六〇年生まれのイタリアの大テナーフェルナンド・デ・ルーチアも日本ではあまり知られていないが、一九二一年、カルーソーの告別式で歌った《主よ、哀れみ給え》は有名である。
NO.9 歌劇《サロメ》は現在に至っても人気があるオペラだ。「サロメ」とはヘブライ語で平和の意味。大正時代の浅草オペラでも《サロメ》は演じられた。村田栄子(キネマ倶楽部・大正五年)、河合澄子(浅草御園座・大正七年)、原信子(観音劇場・大正八年)、高田せい子(金龍館・大正八年)、木村時子(金龍館・大正九年)。歌劇風、バレー様式、新劇風といろいろな形態で上演された。