近代日本洋楽史/近代日本音楽史の一断面




オペラという異文化に接し日本人の手で作り上げた歴史。そこに文化のコミュニケーションがあった。近代音楽と日本のオペラ、その黎明史。日本近代音楽史・日本流行歌の変遷史にもつながる
日本オペラ史-浅草オペラ(菊池清麿)

 《日本近代音楽史・浅草オペラ前史》


 大正の音楽風景といえば、浅草オペラの全盛をあげなければならない。日本音楽史においてオペラがこれほどまでに大衆に受けいられた時代はない。純粋オペラではなく日本的なものに変形され、叙唱は安易なセリフとなり舞踊と歌が漫然に混合したものだが、ペラというもの魅力をアピールしたという点においては評価されべきである。日本の最初のオペラの上演は、明治二十七年、上野の東京音楽学校の奏楽堂で《ファウスト》といわれている。第一幕の書斎の場面だけで、しかも、素人の学芸会程度のものだったらしい。したがって、明治三十六年七月二十三日の東京音楽学校歌劇研究会によるグルックの《オルフォイス》がその嚆矢といっても差し支えないであろう。後の世界的プリマドンナ三浦環(このときは柴田姓)が出演している。三浦環は、同年の三月同じ奏楽堂で行われた学友演奏会でメンデルスゾーンの《エルサレム》を独唱し、好評を博していた。 このオペラの上演は学生の間で計画されたものである。その学生らの一人、渡辺康三という学生がその費用一千円負担することで実現した。舞台装置は美術学校の先生が協力した。出演者は、ソプラノ柴田環(ユリデイス)、アルト吉川やま子(オルフォイス)、メゾ・ソプラノ宮脇せんの主役の女性三人と合唱男女十六人。まだ、本格的なオーケストラはなかったので、哲学者のケーベルがピアノ伴奏をし、指揮・演出はノエル・ペリーが担当した。オルフォイスは、妻ユリディスが蛇に噛まれその毒で死んでしまったことを痛く悲しむ。そこへ愛の神アモールが現れる。彼はその神の力をかりて愛すべき妻を取り返すために天国を目指す。その途上で獣に妨げられるが、歌のもつ威力によって駆逐するというストーリーで展開する。三浦環のソプラノは、艶やかで瑞々しく歌の力、芸術の力によって悪魔をも征するということも証明するうえで十分であった。しかし、それ以後、東京音楽学校では、昭和七年七月二日のプリングスハイム指揮の《デア・ヤーザーガー》(《イエスマン》)以来オペラは上演されることはなかった。尚、このステージ(東京音楽学校奏楽堂)では、東京音楽学校が期待するバリトンの増永丈夫(藤山一郎)がテノール音色をいかして主役のテナーを務めている(東京芸術大学百年史,演奏会編第二巻)。では、日本における本格的歌劇団の誕生といえば、明治四十四年八月に作られた帝国劇場の歌劇部である。帝国劇場は、明治四十四年三月一日に開場した。欧米諸国のような国立劇場の必要性を感じ、西園寺公望の後押しで、渋沢栄一、大倉喜八郎、益田孝らの財界人の手によって建設された。当然、イタリア、ドイツのようにオペラが上演できるという展望と理想があってのことだった。帝国劇場は、パリの国立劇場を模倣した純洋風の建築物で館内は定員一千七百の全部椅子席だった。欧米並の舞台芸術とその聴衆という意図があったことが容易に理解できる。また、明治三十七年に三越呉服店が欧米風のデパートメント=ストアーをめざし、多くの食堂・喫茶室を設けたので、この帝国劇場の開場によって、「今日は三越、明日は帝劇」というキャッチフレーズも生まれ流行した。 帝劇公演の最初は、舞踊劇《胡蝶の舞》(ウエルクマイスター作曲)だった。暮れの十二月には柴田環とザルコリーの《カヴァレリア・ルスティカーナ》における二重唱。無難に終わった。ところが、翌四十五年の二月には、ユンケル作曲の創作オペラ《熊野》では柴田環が慣れぬ踊りの最中に女官の衣装に足をとられよろける場面があり、観客の嘲笑を買うというさんざんな始末であった。六月にはウエルクスマイステル作曲《釈迦》を上演。これらの帝劇の公演ではプリマドンナ柴田環の独唱こそ話題を呼んだが、帝劇のオペラそのものはあまりよい評判ではなかった。 

《ローシーの来日》


 大正元年八月五日、帝劇の招きでジョンバニ・ヴィトリオ・ローシーが来日した。イタリア人のこの男は、ロンドンのヒズ・マジョスティー劇場(当時の記録には「マチステ座」ある。)で舞踊の振り付けと軽歌劇の舞台監督をしていた。ローシーははじめ”帝国”という響きに宮廷劇場と勘違いをして感激してしまい、日本に来てみると実は民営であることを知りすっかり意気消沈してしまったという逸話が残っている。しかし、ローシーはこのアジアの一角に西洋オペラを根づかせようと労を惜しまず全力を尽くした。六尺棒で覚えの悪い歌劇部員を鍛えたのは有名な話である。石井漠はそれが原因でローシーと大ゲンカをして飛び出してしまうのだが、とのかくローシーの指導は峻厳さを極めた。

 ローシーは、大正三年九月公演の《マスコット》以後、オペレッタの上演に重点を移した。このローシーの方針変更は当時の歌劇部員の実力と観客の質の低さを考えてのことであった。しかし、帝劇歌劇の興行は不振を極めた。さんさんたるものであった。大正五年五月、帝劇の経営陣は、赤字の累積に悩みついにローシーに契約満了と同時に帝劇歌劇部を解散してしまったのである。しかし、その後、ローシーの芸術への意欲は消えることはなく、私財を投じて赤坂見附付の弁慶橋近くの映画館万歳館を買い取り、オペラが上演できるように改装してローヤル館と名づけた。ローシーはこれをオペラの殿堂にしようとしたのである。これが大正五年の十月一日、記念すべきローシーの旗揚げの日であった。以後、《天国と地獄》《ボッカチオ》などオペレッタを中心に上演する。しかし、それは、ローシーの理想と現実の苦闘が幕をあけることでもあった。 その頃、浅草ではオペラ隆盛の兆しが見え始めていた。大正六年一月二十二日、伊庭孝、高木徳子らの歌舞劇協会が浅草の常盤座歌舞劇《女軍出征》を公演して大当たりしたのがその始まりだった。当時は第一次世界対戦中ということもあり、男の兵隊の不足を女が補い出征するという戦争諷刺の喜劇だった。そのころ世界的に流行していた《ダブリン・ベー》《ティッ・ペラリーの歌》などが取り入れられ、コーラスガールが兵隊に扮してのダンスなど盛りだくさんで連日満員の盛況ぶりであった。入れ替えのお客が出るにでられず、大道具方が花道から丸太で客を吊りあげ、楽屋口から帰ってもらったエピソードはあまりにも有名である。また、歌舞劇とは今日の言葉で表現すればミュージカルのことで、この未曾有の成功が浅草オペラ隆盛の土台となったのである。大正六年三月には日本歌劇協会によって《ヴェニスの夕》が上演された。水の都を舞台に花売り娘と水平になった少女の話でアメリカ帰りの西本朝春の作である。

《田谷力三の登場》

 大正六年四月、ローシーはローヤル館のオーディションを受けにきた十九歳の田谷力三の声を耳にして、「オー・ブラボー・ニホン・イチバン・・テノール・グットボーイ」と思わず声をあげた。そして、ローシーは扉をけって部屋に入り、竹内のピアノの併せて歌う田谷を抱きかかえ、キスの雨をふらせた。テノールを喉から手の出るほど欲しかったローシーからしてみれば田谷の声は天からの恵みだったのだ。ローシーは、オペレッタに重点を移していたので、田谷のレジェロなテノールはもってこいであった。涙が出るほど嬉しかったことは容易に想像できる。
 田谷力三は、明治三十二年一月十三日、東京神田に生まれた。田谷家は先祖代々徳川直参の旗本で三百年来の江戸住まいだった。十歳のとき「三越少年音楽隊」に入隊した。ピアノ、声楽、バイオリン、トランペットなどを学んだ。明治四十三年、創作オペラ『富士の巻狩り』で源頼家を演じ初舞台を踏む。そして、大正五年に赤坂のローヤル館で初めてオペラを見る。その時、体が震えるほどの感動を覚えた。翌年にはローシーが主催するオペラコミック・ローヤル館に入団。そして、ローシーに認められたのである。これが田谷の運命を決定した。田谷は、大正六年五月五日両国国技館で開催された日本石油創立三十周年祝賀会のために創作された《燃える水》で初舞台を踏んだ。そして、六月公演の《ブン大将》では、主役のフリッツ役の大役を見事にこなした。オペラ俳優田谷力三のスタートである。
 大正六年の七月公演は、《コルヌビルの鐘》、主役の漁夫グレニショーを演じる田谷力三のテノールは、好評だった。そして、八月には大阪公演。この大阪の弁天座で上演された《コルヌビルの鐘》を見てオペラに憧れその道を選んだのが、藤原義江であることはあまりにも有名な話だ。当時は、戸山英二郎といって新国劇の俳優であった。漁夫のジャン・グレニッショオの役で<波を蹴り>を歌う田谷の美声に聞き惚れたのだ。十日間毎晩聴きに行った。その後、沢田正二郎の新国劇をドロンして不退転の決心で上京した。そして、浅草オペラのステージに立ったのである。初めは、日本館にいたが金竜館に移り、一座のプリマドンナの安藤文子の指導を受け(やがて同棲から結婚に発展)、清水金太郎、田谷力三らと舞台を踏んだ。大正六年十月公演の《カヴァレリア・ルスティカーナ》でローシーは、ついにイタリア語の原語上演に踏み切った。ローヤル館創設の頃は、軽妙なオペレッタを中心に活動したがここにきて本格的オペラに移行した理由には、やはり、田谷力三のテノールを得たからだという見方をしてもいいのでないか。しかし、それ以後の原語によるオペラ公演は観客がガラガラ、結局内部不和を生み出すことになり、ローシーの苦闘は報いられることはなかった。
 一方、大正六年十月、浅草ではオペラ常設劇場として日本館が開場した。そして、石井漠、河合澄子、佐々紅華らによって「東京歌劇座」が結成された。佐々紅華作《カフェーの夜》が上演されこれもおおいに受けた。舞台は日比谷公園内のカフェー。エプロン姿の女給をはじめ、芸者や大工の熊公と女房、田舎の村長などいろいろな人間が登場してトンチンカンな騒動をおこす。そして、一同が《コロッケの歌》を歌ってお開きという構成。とくにこの劇中で歌われる益田太郎冠者の作詞による《コロッケの唄》《おてくさん》は、たちまち街に流れて大流行となった。 大正六年十一月、原信子がローヤル館を去った。ローシーとの対立が原因らしい。本格的オペラ上演、《セビリアの理髪師》ではロジーナの役をやっていただけに原信子の脱退はローシーにとっては大きな痛手だった。そして、今度は、清水金太郎・静子夫妻もローシーの元から去る。帝劇以来のメンバーだった二人に去られたことはローシーにはかなりの精神的ダメージをあたえたといえる。結局、ローヤル館のローシー・オペラは興行不振のまま結局実を結ぶことができず、大正七年二月二十五日、二月二日からの《椿姫》を最後に閉館。ローシーは、同年三月二十一日アメリカに向け離日した。ローシーが私財を投じて失敗したオペラが浅草で盛況となるとはまったくの皮肉である。とはいえ、浅草オペラーのスター田谷力三にとってローシーは終生の恩人だった。

 

《浅草オペラの隆盛》

 

 浅草と大正ロマンは、瓢箪池と十二階といわれた凌雲館のパノラマ風景にイメージできる。そして、喜劇、オペラ、活動写真、玉乗り、曲芸など、坩堝となっている群衆に享楽をあたえる無数の娯楽が質を変化させ、増幅したえず激しく流動しながらお互いに入り乱れている。そのような浅草について『淺草底流記』にはつぎのように記されている。

「浅草には、あらゆる物が生のまま投り出されてゐる。人間のいろいろな欲望が、裸のままで踊ってゐる。

 浅草は、東京の心臓

 浅草は、人間の市場」(添田唖蝉坊『淺草底流記』)

 浅草は、最大の歓楽街でもあり、娯楽のメッカであった。人間の欲望と享楽を満たす浅草の中心が六区といわれる興行街である。明治十七年田圃を埋め立て整地され奥山の見世物をそっくり移した一帯の場所である。明治二十年に浅草公演裏に小芝居の吾妻座がつくられて市川九蔵らが出演した。明治三十六年十月、それまでX光線の実験や電気仕掛けの見世物を主としていた電気館が日本最初の映画常設館として開場。明治四十年代は、三友館、大勝館、富士館、大幸館、オペラ館、帝国館、金竜館、千代田館などの活動写真館が次々と登場した。明治四十五年には、喜劇の曽我廼家五九郎一座が帝国館で新たな牙城をかまえた。これによって六区は映画と演劇の街として急速に発展を遂げるのである。その浅草にオペラが本格的に登場したのだ。

《原信子・浅草進出》

 大正七年三月三日、浅草観音劇場で原信子歌劇団が旗揚げをした。原信子に浅草進出を促したのは、すでに喜劇で人気を集めていた曽我廼家五九郎であった。彼は興業にかけては大変な手腕家で浅草公園(六区)一帯を取り仕切っている根岸興行部(常盤興行部)から観音劇場の経営をまかされていたのである。根岸興行部の意向で旗揚げした原信子歌劇団《アルカンタラの医者》には、原信子、田谷力三、堀田金星、井上起久子らが出演した。かつてのローヤル館のメンバーが中心である。指揮は篠原正雄。オーケストラは数十名の編成であった。原信子一座が浅草に進出したほぼ同時期には、多くの歌劇、オペレッタ、和製ミュージカルとその盛況さを競った。浅草御園座では第二次日本バンドマン一座歌劇《カーメン(カルメン)》を、そして、日本歌劇協会アサヒ劇団と名称を改め(すぐにアサヒ歌劇団と改称)和製オペレッタ《ラ・カーニバル》の上演を行った。この大正七年の三、四月はいわば浅草オペラの花が一斉に開花したといっても過言ではないであろう。進取の気性に富み新鮮な活力を呈していた。原信子歌劇団は、つぎつぎと公演をおこなった。四月四日から《ブン大将》、同月十三日から《ボッカチオ》、五月四日から《サロメ》、同月二十四日から《カヴァレリア・ルスティカーナ》など、たてつづけの上演だったのだ。しかし、田谷は、大正七年七月に原信子歌劇団を脱退した。清水金太郎を頼って東京歌劇団に参加したのである。東京歌劇座は、佐々紅華の手による和製オペレッタ以外に清水金太郎の指導で《天国と地獄》などの上演を行っていた。田谷は同年の九月公演の《ボッカチオ》から参加した。このときのボッカチオは清水静子が演じている、田谷の役は、ピエトロ公子だった。翌十月、根岸興行部の仕掛けによって、新たに田谷力三が加入した東京歌劇座原信子歌劇団、ホワイト・スター・バンドの三座合同公演が駒形劇場で競演となった。当代随一の花形テナー田谷力三を擁する東京歌劇座は、《アルカンタラの医者》を公演し、一方原信子の一座は、本邦初演のヴェルディーの《リゴレット》を企てた。このとき、主役のマントゥア公爵は、テナーがいないため原信子自ら男装して歌った。原は以前大正四年九月、帝劇の《ボッカチオ》でも松山芳野里が急遽渡欧したのでそのアナを男装して埋めたことがあった。しかし、駒形劇場の地理的条件の悪さから、莫大な経費と収益がアンバランスとなり失敗に終わった。 大正八年二月、清水金太郎静子夫妻は、田谷力三、安藤文子ほかと七声歌劇団を結成し、金竜館に出演した。第一回公演は《アルカンタラの医者》。三月には原信子が突然引退宣言を発表した。彼女は浅草を去ることになる。そして、半年後には渡米。それは、やはり、先輩の三浦環のニューヨークでのメトロポリタン・オペラハウスにおける活躍と名声が刺激になっていた。大正八年五月、伊庭孝が以前の歌舞劇協会のメンバーを中心に新星歌舞劇団を結成、高田雅夫、岸田辰弥、正邦宏、花房静子らに明石潮、町田金嶺、高井ルビーらが加わった。これは松竹傘下であり、京都夷谷座を皮切りに東京、大阪、名古屋の四大都市を巡演した。また、本拠は本郷となり浅草ではなくなった。そして、さらに清水金太郎、田谷力三、安藤文子らも吸収してしまうのである。 大正九年九月三日、新星歌舞劇団は、松竹から根岸興行部の傘下となり、あらたに根岸歌劇団として新たなスタートを切った。幹部スターを抜かれ日本館にも対抗できず自然潰滅の経営危機を感じた根岸吉之助高田保の策謀であることはあまりにも有名な話である。彼らの暗躍が成功したのだ。根岸歌劇団は豪華な顔触れとなった。いわるゆる竜館時代の到来を告げ浅草オペラの全盛期を迎えるのでる。その豪華メンバーを見てみよう。ソプラノの安藤文子、清水静子、アルトの井上起久子、天野喜久代、テノールの田谷力三、大津賀八郎、佐藤光照、バリトンの堀田金星、藤村悟朗、清水金太郎、バスの黒田達人、バレーの高田雅夫、原せいこ、この他百余名の歌い手がいたそうだ。また、製作部のメンバーをみても大物が揃った。文芸部には伊庭孝、佐々紅華、内山惣十郎、音楽担当には竹内平吉、篠原正雄、奥山貞吉らが名前をつらねた。 華やかな浅草オペラの金竜館時代の開幕、田谷力三は揺るぎない大スターの地位を確立する。金竜館時代の田谷力三の絶頂は、やはり、大正十一年三月二十日、四月五日からと、二回にわけて上演したとはいえ全曲オリジナルに近い形式(歌)で演奏した《カルメン》であろう。これが大きな反響を呼んだ。配役は、カルメンが清水静子、ドン・ホセを田谷力三、闘牛士エスカミリオを清水金太郎、ミカエラを安藤文子、スガニが柳田貞一、と豪華な顔触れだった。また、昭和のジャズエイジの主役あの二村定一が伍長のモラレス役で出演している。ここでも田谷のテノールは多くの聴衆を魅了した。

《浅草オペラのレコード》

 田谷力三の大正時代の録音は、「おんがくのまち」が製作した『浅草オペラ華ひらく大正ロマン』というCDで《カルロスのセレナーデ》(小林愛雄・訳詞/アイヒベルク・作曲)を聴いたが、まだ、この頃は、響きを共鳴腔に蒐めるという発声が十分にできてはいないが、もち声の良さは抜群である。このレコードは一八五〇の番号からしておそらく大正九年頃ではなかろうか。この録音後、田谷力三はかなり技量をあげたと思われる。でなければ、八十九歳まで現役で歌いつづけることは不可能である。オペラ俳優が持ち声だけで務まるほど甘くはない。浅草オペラのレコードは富士山印の東京レコードなどから多数発売されている。例えば、原信子の『歌劇カヴァレリア・ルスティカーナ』の《ロマンス》(マスカーニー・作曲)も大正七、八年頃と思われるが同じく東京レコードから発売されている。一方、帝国蓄音器からは大正九年丹いね子の歌で《リゴレット》(ヴェルディ・作曲》などが吹き込まれた。また、帝国蓄音器からは、演歌師たちが替え歌にしたものや、適当につなげたりしながら吹き込んだ鳥取春陽歌唱の《オペラパック》などが発売されている。 

《ペラゴロ》

 浅草オペラの流行は、ペラゴロなるものを生みだした。ペラゴロは、熱狂的常連ファンのことである。フランス語のジゴロ(地回り)のゴロとオペラのぺラを組み合わせた合成語。小生夢坊、金子洋文、佐藤惣之助、辻潤らの浅草文士が名付け親である。明治時代にも娘義太夫の花形、豊竹呂昇・竹本小土佐・竹本綾之助らの周辺に集まった熱狂的一群である「ドースル連」という物が存在した。芸人を育てる活気を舞台に反映したという点においては同じといえる。ペラゴロは、オペラの客席から御贔屓の俳優を絶叫する。例えば、田谷力三が真っ黒なビロードのマントに身をつつみ舞台に登場すると、「タヤッ!、タヤッ!、タヤッ!」とかけ声が客席のいたるところからどぶ。まるで機関銃のようである。旗を振り、風船を飛ばし、花を投げる。舞台がハネルと楽屋に押しかける。アイドル歌手への絶叫と追っかけと大した差はない。なぜ、帝劇、ローヤル館で芽がでなかったオペラが浅草で成功したのだろうか。立地、劇場の格、入場料などの相違がまず考えられる。帝劇は、上流階級の社交の場。明治以来の文明開化熱の余韻はあったが、基本的には保守的である。オペラを見るといっても、それは日本一の劇場へ足を運ぶという虚栄心からであり、歌舞伎との合同だから我慢できるということなのであろう。ローヤル館の場合は、立地が悪く入場料もべらぼうに高い。ボックス席が十五円、これは、田谷力三の駆け出しの頃の月給と同じだ。また、帝劇の最高料金が五円を考えればあまりにも高すぎる。これに対して浅草は、低料金。オペラ隆盛直前の金竜館・常盤座・東京倶楽部の隣接三館の二階を連結して、「三館共通料金」二階は二十銭、一階は十銭というシステムがオペラ隆盛の頃に大きくものを言い出した。そして、大戦景気の余沢が東京市民の中流以下にまで波及しこの三館共通の低料金と相乗効果をなして、俄に懐が温かくなった俸給者、小商人、早熟の少年、学生、丁稚の青年労働者、下級兵士にも娯楽文化の入り口を提供したのである。

《浅草オペラの衰退》

 しかし、大正九年から戦後恐慌がはじまると事情が違ってくる。さらに関東大震災の直撃が浅草オペラにとっては致命的な打撃となるのである。オペラが大衆料金となれば、それに合わせて内容も親しみやすいように通俗的なものに変形しなければならない。抜粋はもちろんのこと、相当に仕立て直しがあったようだ。それがマイナスにでると「素質が悪くなり、いろいろの歌劇まがい西洋まがいの間に合わせ物」などが出始め、質に点において低俗を招くのである。その点に関して谷崎潤一郎は、『鮫人』においてつぎのようにのべている。

「浅草で歌劇『フェウスト』が演ぜられ、『椿姫』が演ぜられ、『カルメン』が演ぜられたと聞いても、別に驚くにはあたらない。なぜなら其れはグノーの『ファウスト』でなく浅草の『ファウスト』であり、同時にヴェルディやビゼエの『椿姫』『カルメン』でなく浅草の其等であるから」(『鮫人』)

しかし、技術的未熟さと音楽的後進性からの妥協があったとはいえ、オペラという総合芸術に真剣に取り組んだ姿勢は賞賛に値する。改編、抜粋とはいえ、それをプラス面で考えてみるならば、そのエッセンスを大衆化したということにおいては評価されるべきである。また、溌剌とした肉体の乱舞とエロティシズムが観客に官能的刺激をあたえたことも見逃せない。これが大衆との接点を一層濃いものにしたことも事実である。浅草オペラの最大の意義は、成長する中間層を中心とした大衆に洋楽の響きをもたらしたことに尽きるのではないか。洋楽の旋律とリズムは新鮮な感覚として受け入れられたのだ。これが、昭和、とくに流行歌の世界においては電気吹き込みが始まった時代に登場する音楽家たちに影響をあたえたのである。藤原義江、二村定一、藤山一郎などいずれも浅草のクラシックと大衆音楽が融合された空気をすった結果が己の独自の境地を創造させたといえる。(文筆・菊池清麿)

 

 



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《近代日本音楽史・徒然なるままに・菊池清麿》

NO.1ジャック・ティボーは今世紀フランスを代表するヴァイオリニスト。昭和三年に日本に初来日した。一九三〇年からの五年におよぶコルトー、カザルスとのトリオ活動は数々の名演奏を演じた。日本人愛好家が多いが、東洋人を興奮させる妙技があったといえる。

NO.2 ラファエル・ケーベルは、東京帝国大学の哲学科教授として来日。その一方で、東京音楽学校でピアノや西洋音楽史を講義した。山田耕筰、三浦環らもその教えを受けた。彼には歌曲集がある。《ぼだい樹のかげ》《はるかな道を来るきみの姿に》《水の妖精》などからなる九曲の歌曲はケーベルの魂の歌なのである。

NO.3 山田耕筰の日本楽劇協会は昭和四年十二月三日から二十三日まで、《堕ちたる天女》が上演。妖精の長=四家文子、少年=奥田良三、青年=照井栄三、老爺=小森譲、七人の天女=藤本政子、関種子、河原喜久恵、渡辺光子、遠藤咲子、幕田シナ子、高橋みちらが出演。音楽的には好評だったが、芝居の目で劇評家からは酷評を浴びた。

NO.4 昭和十二年一月、大阪中央公会堂。同年六月、《蝶々夫人》第二回公演。日比谷公会堂で第三回公演。ピーカートン役には永田絃次郎、渡辺光、三浦永恩が務めた。指揮は山本直忠、演奏は名古屋交響楽団。永田はこのピーカートン役によってテノールで売り出した。

NO.5 昭和八年にコロムビアから発売された《ローエングリーン》は第一幕から抜粋の四枚組八曲である。指揮はクラウス・プリングスハイム、東京音楽学校管弦楽団演奏、歌手陣の中に名を連ねた増永丈夫は、まだ在校中である。マリアトール、ヴーハーペーニッヒらと伍しての堂々の独唱ぶりである。テノールの音色のある美しいバリトンだった。

NO.6 昭和十年三月二十四日、放送オペラは《カルメン》第二幕を放送。渡仏していた佐藤美子が貫禄を見せる。ドン・ホセには藤原義江、メルデスには日本の代表的女優になった杉村春子は出演した。杉村は昭和九年十月、日比谷公会堂における藤原歌劇団第二回公演《リゴレット》にもマッダレーナの役でも出演。好評を得る。エスカミリオには、徳山lが堂々のバリトンを披露した。

NO.7 大正十三年、十一月二十九日、東京音楽学校奏楽堂でベートーヴェンの《第九》が初演。指揮はクーロンが振った。独唱には、長坂好子、曽我部静子、沢崎定之、船橋栄吉らが名前を連ねた。当時の東京音楽学校の管弦楽は、同校の職員・生徒・海軍軍楽隊とによって構成されていた。船橋栄吉の弟子に後の国民栄誉賞受賞歌手の藤山一郎(声楽家増永丈夫)がいる。

NO.8 イタリアベルカントの代表的テナー歌手にアレッサンドロ・ボンチがいる。カルーソ登場以前にスカラ座で人気を博した。リリクな音色は当時の聴衆に感銘をあたえた。一九〇五年に録音された《エレーナとパリード》からのアリアは名唱である。また、一八六〇年生まれのイタリアの大テナーフェルナンド・デ・ルーチアも日本ではあまり知られていないが、一九二一年、カルーソーの告別式で歌った《主よ、哀れみ給え》は有名である。

NO.9 歌劇《サロメ》は現在に至っても人気があるオペラだ。「サロメ」とはヘブライ語で平和の意味。大正時代の浅草オペラでも《サロメ》は演じられた。村田栄子(キネマ倶楽部・大正五年)、河合澄子(浅草御園座・大正七年)、原信子(観音劇場・大正八年)、高田せい子(金龍館・大正八年)、木村時子(金龍館・大正九年)。歌劇風、バレー様式、新劇風といろいろな形態で上演された。