流行歌の世紀-近代日本の大衆音楽( 菊池清麿 )    
中山晋平・鳥取春陽・古賀政男・藤山一郎 古関裕而 

《近代日本流行歌の成立-昭和歌謡の源流》

 流行歌にとっての二〇世紀とは一体何であろうか。それは「流行り唄」から「流行歌・歌謡曲」という近代化の時代である。洋楽の手法にもとづいて中山晋平、鳥取春陽らがオリジナルな民衆歌曲を創作したことがまず第一の革命といえる。レガートな旋律が作られたのである。クラシックという異文化との交流が見られた。流行歌というものが政治主張・宣伝、ニュース報道からより音楽的なものになったことはこの二人の功績である。中山晋平は、クラシックの立場から、鳥取春陽は、街演歌師の世界から流行歌の近代化を果たしたのである。中や晋平は西洋音楽の作曲技法で美しく日本人の心情をメロディーにし、流行り唄から流行歌への発展に大きな功績を残した。第二には電気吹込みによるヴォーカル革命が重要な意味をもっている。それは昭和モダンに相応しかった。これによって、古賀メロディーが一世を風靡し、政治色の濃い明治演歌の伝統をもつ大正艶歌を終焉させ、マイクロフォンを巧みに使った歌手の時代が今日に伝えられたからである。殊にマンドリン・ギターで民衆歌曲が創作されたことは、流行歌の可能性を広げるものであった。昭和流行歌は、マイクロフォンを前提にしてレコードを吹込む。それを前提に企画・製作・表現がある。声楽の正統な解釈(ホールのすみずみに響かせるメッツァ・ヴォーチェ)のもとにしたクルーン唱法でマイクロフォンに効果的な音声をのせた藤山一郎の登場は、まさに革命の一歩だった。マリア・トル、ヴーハー・ペーニッヒら外国人歌手とに伍して堂々と独唱する豊かな声量を小さいな美しい声にしてマクロフォンにのせる。古賀政男の感傷のメロディーが感銘をあたえるはずである。電気吹込みによるヴォーカル革命の波は、太平洋を隔てたアメリカからの波だった。電気吹込みは、大正十三年、アメリカのウェスタン・エレクトリック社が実用化に成功したものであり、翌年には電気吹込みのレコードが登場している。明治時代から日本を市場としていた欧米のレコード会社は当然、日本進出を狙う。国内に製造会社を造ってレコード市場の拡大を志向するのだ。米国ビクターと英米コロムビアの外国資本の参入である。これがアメリカニズムの影響を受けた消費文化・昭和モダンの需要を満たし、日本の流行歌の構造を根底から変えてしまった。つまり、レコード会社が企画・製作・誇大宣伝することにより、大衆に選択させるシステムが登場したのである。従来の街頭で流歩いていた演歌師姿は消えうせ、洋楽を身につけた音楽家が大衆音楽の主流となった。西洋音楽の手法に日本人の肌合い・情緒・民衆心理を融合させたこの近代流行歌は、戦前・戦後の昭和歌謡の源流となるのである。(文筆・菊池清麿)


中山晋平

明治四十五年七月三十日、明治天皇崩御、明治の御代が終焉し、大正という新しい時代を迎えた。元号の改元はひとつの時代の区切りとはいえ、新しい時代への動きは、すでに明治末期に胚胎していた。たとえば、明治四十四年九月、女性解放を叫び、人間としての自我の確立を唱えた平塚雷鳥らの『青鞜』の創刊は新しい時代の予兆をしめすものであった。 大正は世相において明治とは異なる。その変化は顕著であった。明治時代には数えるほどしかなかったカフェー、バーもかなりの数になった。活動写真館も濫立する。そして、楽隊も登場しオペラも上演されるようになった。大正は、『流行歌・明治大正史』ののべられているいるように「すべてが複雑な音響と『軽便安直』に向かって盲信」する時代なのだ。 とはいえ、ロマンティックな心情もまた大正の特徴でもあった。そのオープニングには晋平節が相応しいといえる。その洋風の旋律は新鮮であり心地よい感覚をあたえてくれた。明治末期から大正にかけて演歌に質的変化が見え出した頃、大正三年三月二十六日、芸術座は帝国劇場においてトルストイの『復活』を上演した。この『復活』の劇中歌《カチューシャの唄》は、大衆をすっかり魅了してしまった。松井須磨子がカチューシャ、横川唯治のネフリュードフ、宮部静子のフヨードシャという配役で、第一幕のカチューシャの純情時代と、第四幕の女囚の二つの場面でヒロインによって歌われたのである。洋風の旋律は、今までの流行歌にはない新鮮な響きであった。劇中歌の《カチューシャの唄》(島村抱月・相馬御風・作詞/中山晋平・作曲)は、大流行した。大正四年四月二十四日から二十八日にかけての京都南座で巡業中に松井須磨子がオリエントレコードで吹き込んだ《カチューシャの唄》は、またたくまに売れ切れとなり、倒産しかけていたオリエントレコードが息を吹き返したそうだ。まさに「復活」だったのである。大正四年帝劇で上演されたツルゲーネフの『その前夜』の劇中歌《ゴンドラの唄》は、大正ロマンを最も象徴する流行歌である。

 この歌は第四幕「ベネチアの夜」で歌われている。女主人公エレーネは、親と故郷を捨て病める恋人をいたわりながら、このヴェネツィアの町に着いた。その晩、月に照らされた薄明るい海の面からマンドリンの音に交じって《ゴンドラの唄》が聞こえてくる。遠くにゴンドラのような舟が見える。《ゴンドラの唄》には、前途はたとえ夜の闇よりも恐ろしい運命が待ち受けていようとも、それを乗り越えて行くところまで行って幸福をつかむというロマン的情緒が感じられる。《ゴンドラの唄》の旋律の感傷には母ぞうとの死別を抜きに語ることはできない。中山が歌詞を受け取ってから数日、満足するような旋律が浮かばないまま過ごしていた時だった。「母、危篤」の知らせは中山を茫然とさせた。上野から夜行列車にのって新野村の家に着いたときはもう母の顔には白い布がかけられていた。それをとると安らかに眠る母の顔があった。帰りの夜行列車に乗って母の死への悲しみに耐えかねて泣きながら《ゴンドラの唄》の歌詞を口ずさんだ。その押さえ難い感情が胸の奥から高まり旋律となったのである。また、大正六年の明治座で上演されたトルストイの『生ける屍』で北原白秋が初めて書いた流行歌《さすらいの唄》(北原白秋・作詞/中山晋平・作曲)は、美しい詩情が感じられる。《さすらいの唄》は、女主人公マーシャンに扮した松井須磨子がジプシーの旅愁をこめて歌ったものである。この歌も大変流行した。レコードディレクターの最古参森垣二郎の「年間二十七万の空前のヒットを放った」という言葉を借りるまでもなく、驚異的な数字を記録した。中山の作品が大衆に新鮮な感覚をあたえた理由として、彼独特の作曲法があった。中山のヨナ抜き長音階にユリを加えたメロディーは当時の大正という新時代を生きる大衆を魅了した。《船頭小唄》においては、ヨナ抜き短音階にユリを加えた独自のメロディー体系をつくり、洋楽にもとづく流行歌の基本音階を確立したのである。ヨナ抜き音階とは、ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ・ド、という欧米の七音階の中の半音ファ(第四度音)とシ(第七度音)を除いた五音階のことである。日本の伝統音楽に多用されている都節音階にみられるのテトラ・コードと七音で構成される西洋音階の折衷ともいえる。これが、それ以後の日本流行歌の主流の曲調となり、日本人の感性として深く生活のなかに浸透した。《船頭小唄》は、最初は《枯れすすき》といったが、大正十年、関東大震災の二年前に作られた。作詞は、野口雨情、作曲は中山晋平。おそらく晋平節のなかでは最も生命が長かった歌であろう。その秘密は、やはり、日本人が好む都節(陰音階)に近い感じのするヨナ抜き五音の短音階にもとづいているからである。 二番の歌詞の〈死ぬも生きるもねえお前〉は、現世の虚妄に身を任せた己の内奥にある無定形の怨恨ともいうべきはけ口のない不満、挫折感が表現されていた。〈枯れた真菰に 照らしてる〉は、どこか現実の世に身を委ねることを諦め、死を選択しようとする観念に結びついている。こうしてみると、モダニズムが孕む影ともいうべきデカダンスがすでに準備されていたかのように感じられるのだが。頭小唄》は、帝国蓄音、オリエント、日東など当時の蓄音機会社でレコードに吹き込まれた。大正末までには、十数枚の音盤が登場している。オリエントからは田辺正行、翌十二年には同じオリエントから大津豆千代、日東レコードでは、高橋銀声、など多士済々だった。鳥取春陽のレコード盤は、ヒコーキ印の帝国蓄音からオーケストラ伴奏で吹き込まれている。副旋律がつけられ従来のヴァイオリンのみ伴奏よりもずっと音楽的なものであった。また、栗島すみ子、岩田祐吉という人気コンビで映画もヒットした。製作は松竹キネマ。この映画『船頭小唄』は、小唄映画と呼ばれる流行歌の映画化第一号といえる。中山晋平の登場は、心情を洋楽的旋律で表現し新しい感覚を大衆にあたえた。その影響は昭和流行歌にも及んでいる。ラジオ放送も開始されレコード会社の企画によって新しい流行歌も作られるようになった。昭和三年、世界的オペラ歌手「我等のテナー」藤原義江が歌った《出船の港》(時雨音羽・作詩/中山晋平・作曲)、《鉾をおさめて》(時雨音羽・作詩/中山晋平・作曲)七月新譜の《波浮の港》(野口雨情・作詞/中山晋平・作曲)らが発売された。

 

 磯の鵜の鳥ゃ 日暮れにゃ帰る 波浮の港にゃ 夕焼け小焼け

 明日の日和は ヤレホンニサ なぎるやら

伊豆大島には小さな風持ちの漁港がある。左手に雄大な三原山が見える。その眺めに目を奪われるであろう。ふと、右手の崖の下を覗きこむと、港口の岩礁には外海の波が砕けていた。港内は波ひとつなく静かである。それが波浮の港である。この小さな港にすぎなかった無名の港は、歌のヒットのおかげでたたまち有名になったのである。そして、多数の観光客が押しかけ東京湾汽船はかなりの収益をあげた。この歌には問題となる箇所があった。作詞者の野口雨情が土地の事情を知らずに書いたためである。それは、波浮の港には夕焼けが見えないということだった。波浮は山を西に背負っている東に面した港なので現地の人から「波浮には夕焼けがない」という文句が地元住民から出ても当たり前のことなのである。中山晋平の流行歌を中心とする作曲活動のなかで重要なそれは新民謡運動における功績である。前述の歌曲もその所産である。その新民謡の作曲で中山の天才的な創作力をしめしたのが囃言葉の挿入であった。例えば、《波浮の港》の原作では、〈ヤレホンニサ〉は入っていない。これは中山が苦心の末挿入したものである。また、《東京音頭》の〈ヤットナーソレヨイヨイ〉や《上州小唄》の〈ホラギッチョンギッチョン、チョーチョン〉、《桜音頭》の〈シャンシャンシャンと来てシャンと踊れ〉などはいずれも中山が作曲の際に「歌全体の死命を制する場合も少なくない」という事態をかなり考慮し慎重に挿入したものである。したがって、相当頭を痛め苦労している。中山はつぎのようにのべている。

 

 「スキー節の『ツツウノツ』、熱海節の『オーサヨイトサノセ』などあとで考へると『あれし  きの物』と思ふようなものでもその時は痩せる程苦労している。皆相当苦労してつけたもの  である。今までの経験で最も苦労した囃言葉は越後の十日町のために作った、十日町小唄で、  この歌は新潟県を中心として信州、上州、羽前あたりまでも相当歌はれてゐるやうであるが、  この歌の囃言葉『テモサッテモ、ソヂヤナイカ、テモソヂヤナイカ』と云ふのを考へつくま  でには十日町の宿屋の炬燵へはいつたまゝ実に三日間を費やしてゐる。併し苦んだゞけに、  この言葉を思ひついた時の嬉しさは全く天へも上る様であつた。」(「中山晋平自譜」『中央公論』昭和十年八月号)

流行歌の近代化のパイオニア、西洋音楽技法で日本人の心情を歌曲にした中山晋平の生涯

《昭和モダンと流行歌―西條八十―早稲田歌謡人脈の系譜を築く。》

 苦心惨憺の末囃言葉を創作した中山晋平ではあるが、やはり、そこには少年時代の新野神社の祭礼の催し物出ある式三番叟のほか六人囃子の響きがその源泉になっているといえる。晋平節の流行歌と言えば、二年に亙るフランス留学から帰朝した西條八十とコンビを忘れることはできない。フランス象徴詩の研究で近代日本詩壇で名声を博した西條八十が歌謡作家トして登場したことは驚きであった。その後、歌謡作家は早稲田歌謡詩人の系譜が形成された。昭和三年四月号、プラトン社発行の大衆雑誌『苦楽』に掲載された《当世銀座節》は、西條・中山コンビの第一回作品である。といいたいが、実は、『苦楽』に昭和三年五月に掲載された《マノンレスコオの唄》の方がレコードは早かった。昭和三年六月新譜。『マノン・レスコオ』は、フランスの作家アベ・プレヴォの恋愛小説で、『椿姫』、ユーゴーの『マリオン・ドゥロルム』とならんで、「娼婦のもつ純情をテーマ」にした近代フランス文学を代表する作品である。歌は佐藤千夜子、伴奏は中山晋平のピアノ演奏のみ。《当世銀座節》の歌詞に登場する〈セーラーズボンに 引眉毛〉は、銀ブラの主人公であるモボ・モガをさす。断髪、ショートスカート、ハイヒール姿で、映画、ダンス、スポーツ観戦を好み、「明るく、朗らかで、感覚的で、理知的で、技巧的で、野生的で、複雑で、単純で、率直」な女性=モダンガールとだぶだぶズボン(セーラズボン)とカンカン帽子、ステッキなどの特徴をもつモダンボーイが銀座のシンボル。この頃に流行った《洒落男》にも流行の先端をいくモボ・モガの具体的姿が描かれている。変貌する東京の空間装置。それは、モダニズムの磁場となった。ジャズ、シネマ、リキュル(リキュール洋酒の名称)などモダニズムを記号化した横文字を取り入れた《東京行進曲》に描かれた。それは、昭和モダンの見事な戯画だったのだ。西條八十は、《東京行進曲》で〈ジャズで踊って、リキュルで更けて明けりゃダンサーの涙雨〉とモダニズムを巧みに操った。といいたいがこれは作曲者の中山晋平からの注文で書き直したのだった。
  西條の意図には、ジャズで踊ってリキュールを飲み交わした若い二人が歓楽街での一夜が明けて翌朝になると別離の涙となる、という設定があった。西條は、<彼女>が<ダンサー>に代わり、なぜ朝になると踊り子が泣くのか疑問におもった。しかし、大衆歌謡においては一日の長がある中山晋平に従ったのである。また、西條は、共産党弾圧史も歌詞になかにもりこんでいた。 四番の歌詞の最初の二行に〈シネマ見ましょか、お茶のみましょか、いっそ小田急で逃げましょか〉とあるが、この歌詞には実は、〈長い髪して マルクスボーイ 今日も抱える 赤い恋〉であった。マルクス主義にかぶれた長髪で深刻そうな青白い顔をしたインテリがソ連の女流作家コロンタイの小説『赤い恋』を抱える姿がここでは流行現象に取り入れられ風俗化されていたのである。西條八十は、共産党員を治安維持法をもって一斉検挙・弾圧した前年の昭和三年の三・一五事件、《東京行進曲》がヒットした昭和四年の四・一六事件(市川正一、鍋山貞親ら検挙)を意識して作詩したのかどうかわからないが、「左翼思想の宣伝になる恐れがある」と当時のビクター文芸部長岡庄五の要求があって、その部分を書き直したそうだ。 《東京行進曲》の大ヒットの背景には、歌のモデルとなった小説『東京行進曲』が連載された大衆雑誌『キング』(昭和四年十月まで連載)のすさまじいほどの販売力を見逃すことができないであろう。昭和三年の十一月号はなんと百五十万部を越える驚異的な記録をしめしている。その勢いにのったことも否定できないであろう。また、《東京行進曲》は、レコード会社と映画会社の提携企画による映画主題歌の第一号でもある。映画は、溝口健二が監督、夏川静江、入江たか子、小杉勇、神田俊二、佐久間妙子らが出演。五月に封切られている。すでに、大正時代に松竹蒲田映画『船頭小唄』が封切られ、それ以来流行した歌と映画化は行われてきたが、映画とレコード企画が同時におこなわれ大ヒットしたのは、これが最初である。それ以後主要な映画作品には主題歌を挿入してレコードを発売することになるのである。
 《東京行進曲》もヨナ抜きのメロディーである。しかも、哀調のあるマイナーコードで作られているので、「人間の心の奥底にひそむ情緒に強くふれるもの」がある。したがって、人々の口の端にのりやすい《東京行進曲》は流行歌の洪水をもたらした。クラシック愛好者の雑誌『フィルハーモニー』には、「小唄なんておぼえようとする気のちっともない僕でさえ、いつの間にか『君恋し』から『東京行進曲』、さては「草津湯もみ唄」までおぼえて仕舞ったから」という投書が掲載され、流行歌の威力を伺うことができる。関心のない者の耳に自然と入ってくるのだから、まさにこれこそ晋平節の力といわねばならぬ。昭和四年六月十四日、放送予定(六月一五日放送日)だった二村定一の《東京行進曲》が突然、放送禁止となった。「少しも知らぬ若い子女に、浅草であいびきして小田急で駆落ちするような文句は、どうも困る」というのが理由らしい。それから、《東京行進曲》をめぐって最小の流行歌論争が『読売新聞』紙上で火ぶたが切って落とされた。どうやら、伊庭孝が七月二十八日の「現代の民衆音楽−最良の流行歌はヨーロッパ趣味のもの」という放送で《東京行進曲》を攻撃をしたのがその口火らしい。まずは、伊庭孝が「軟弱・悪趣味の現代民謡」と題して八月四日の『読売新聞』で攻撃を加えた。伊庭の批判は、流行によって自然に口ずさむことによる民衆の「審美的判断力」の喪失と物質的利益にとりつかれた制作者たちによる「民衆の趣味の堕落」を主眼に展開された。また、永井荷風は《東京行進曲》に対しては辛辣な批評を浴びせている。しかし、伊庭が何と言おうと大衆は近代都市に変貌した東京のモダン風景の戯画である《東京行進曲》を口ずさんだ。大正ロマンから昭和モダンという時代に中山晋平メロディーは大衆に新しい感覚をあたえ洋楽的旋律の素晴らしさを認識させた。とはいえ、晋平節が「日本民族の固有の旋律と律動」を踏まえていることが日本人の原始的郷愁をくすぐるのである。つまり、「演歌的な音楽的原始性」を失わずにラインのしっかりとした洋楽的旋律によって大衆の心情に共感を呼んだといえる。

 

 大正艶歌の真髄-鳥取春陽演歌とジャズ

 大正の流行り歌は、デモクラシーの開花の対極にある民衆の呻きを主題としている。とはいえ、政治世界からまったく無縁になったわけではない。〈近ごろはやりのデモクラシー〉の《デモクラシー節》は、第一護憲運動からスタートし、吉野作造が提唱する民本主義などによって理論武装した大正デモクラシーの思潮を反映しているし、《平和節》は第一次対戦後のヴェルサイユ体制がもたらす国際平和を風刺したりしているので、まだ、政治社会の風刺としての機能はあった。しかし、大正艶歌が民衆の心情にウエイトが置かれるようになり歌に艶が出てきたことは確かである。つまり、歌詞も政治宣伝一点張りではなく抒情性や心情を主題にしたものも作られるようになったのである。政治のメッセージである演歌から心情の発露という艶歌へとその本質が変わっていく。例えば、大正六年三月に「千葉心中」という心中事件が起きている。これは、芳川顕正伯爵家の若婦人鎌子(婿が曽弥荒助の弟寛治)とお抱え運転手の倉持陸助が階級を越えた恋となり、鉄道路線に自殺を図った事件である。大正の初めに女性の自覚が自由と平等を要求し始めたとはいえ、男と女の問題はまだまだ不自由な掟が支配的であった。このように世相ニュースの伝達とともにその心情も歌に託されるようになるのである。そうなると、社会の底辺で閉塞状態になり抑圧された心情を歌う傾向が強くなったといえよう。とはいえ、大正艶歌の成立を知るためににはその源流である演歌の歴史を知る必要があるであろう。演歌は、路傍から湧き起こった有司専制、藩閥への怨嗟の声である。国会開設という政治参加の欲求をメロディーに託しながら、その運動を鼓舞する役割を果たしたのである。演歌は、もともとは政治批判、政治宣伝の歌であり、自由民権運動の産物だったのだ明治政府の反政府運動に対する弾圧は苛烈を極めた。讒謗律、新聞紙条例による言論抑圧、会条例で集会・結社の自由に規制を加え保安条例によって危険人物と見なされる民権派を皇居の三里の外へ追放するなど行った。 大衆の運動への鼓舞は、演説である。演説会が開かれると、政府によって送られたものたちによって、野次、罵声の妨害が始まる。演説会には警察が派遣され臨場しているので、演説への「注意」から、「中止命令」となった。そうなると多数の警官によって聴衆はその場から追い出されるのである。抵抗すれば、当然、拘留ということになる。このように、国家権力による暴力によって演説は破壊される。そこで、街頭で歌という手段をとって民権思想を普及させる手段をこうじたのである。

 

 「民権自由の思想は、民衆のなかにこそ、ひろめ、根づかせなければだめだという発想があり、それには生硬な演説よりも、大衆の耳に入りやすい、小唄や講談の形式をとるがよいという着想もあった。そこで演説に代る『演歌』という新語ができたのである。」(『演歌師の生活』)

 これが、演歌の発祥である。壮士といわれた人達は、街頭に出てげんこつをふりまわしながら歌った。

 

〈民権論者の 涙の雨で みがき上げたる大和胆 コクリ ミンプク ゾウシンシテ ミンリョクキュウヨウセ若しも成らなきゃ ダイナマイトどん〉

 

 このような演歌は現代の演歌とは異なり、権力批判、時局風刺、悲憤慷慨の演説歌、宣伝・煽動歌といえるのである。明治演歌には、見田宗介が指摘しているように民権論と国権論が前者に重心が置かれているとはいえ内包されていた。しかし、福島事件、加波山事件、秩父事件などの国内の民権運動の激化や朝鮮問題を契機に国権論が優位となった。つまり、日本の武威をしめすナショナリズムが台頭し、国権伸長が朝野のスローガンとなったのである。〈ダイナマイトどん〉が外に向かって撃たれたのだ。そして、明治憲法体制の始動から、日清、日露戦争の勝利、朝鮮半島の植民地化も進むと、その過程の中で演歌も大きく変化していった。演歌が壮士節から、袴を穿いた苦学生が街頭に立って歌う書生節へと移行した。藩閥への怒りを込めた民権の主張という政治宣伝・批判は、影を潜め、時局風刺を歌ったものは残ったが、社会世相に敏感に反応する感情の発露、涙、あきらめ、未練、無常感など民衆の情念が主題となってきたのである。「男三郎事件」を題材にした《夜半の追憶》、《袖しぐれ》などは、演歌から艶歌へと転換させた作品といっても過言ではない。 現代における演歌は、この政治、時局風刺の性格を喪失した艶歌を意味している。一般に演歌という言葉が使われているが、本来の意味を失っているのである。上野昂志は、艶歌について「決して土着的な歌ではない。それは資本制の深化とともに、土地との結びつきを断たれて都市に流れて行った人々の叙情を基盤として生まれた歌である」という分析をしたが、もう一つ付け加えるならば、感情表現を効果的にするために洋楽の影響を受けその手法を取り入れたということである。そうなると、演歌師のなから既成曲をもとにして替え歌にする方法から脱して洋楽の手法で作曲する者が登場してくるのである。それが、鳥取春陽だった。春陽の登場が演歌の近代化と言われる所以がここにあるといえよう。 演歌が艶歌に変わると、歌にも大正のロマンティシズムが帯びるようになった。それは、大陸への夢への架け橋となったといえる。《馬賊の唄》は作詞が大陸浪人宮崎滔天と言われている。宮崎滔天は、数奇な大陸浪人、ロマン的な革命家、狂人などさまざまな評価があるが、孫文と知己となり中国革命に無私の精神で挺身した人物である。その滔天の作詞かどうかという真偽はともかくも大戦景気もつかの間、戦後恐慌によって暗雲が立ち込めた日本の息苦しさから脱出して、広大な大陸にロマンをかける心情が託されている。これも、演歌が国権論の主張に利用されたなごりなのだろうか。

僕も行くから 君も行こう狭い日本にゃ住みあいた

海の彼方(浪隔つ彼方)にゃ支那がある

支那にゃ四億の民が待つ

 一九二〇年代の東アジアと太平洋の安定を名目に日本の膨張を封じ込めるワシントン体制が成立した。ヴェルサイユ体制のアジア版とでもいえる。日本は、ワシントン体制にもとづく協調外交を展開するが、やがて、それに抵触すれば、悲劇を迎えるのである。しかし、この《馬賊の唄》は、膨張に対する封じ込めという領土的感覚だけではなく、国内の状況、すなわち、戦後恐慌の始まり、労働運動、米騒動などから予想される革命の兆し、不安の予兆から逃れ、広大な大陸に自由を求めようとするヒロイズムが根底にあったといえる。昭和モダニズムの前夜、それは、大正デモクラシーの翳を見せ、大正ロマンも色褪せはじめた虚ろな風景だった。大正という時代は、個としての主体の確立もないまま政治の舞台に民衆を登場させた。桂内閣を打倒した大正政変しかり、寺内内閣を打倒した米騒動、小作争議、部落解放運動、労働運動の昂揚もそうだが、政治の世界に大きなパワーとなった民衆のエネルギーは、伝統的な政治技術では統治に不可能を実証したが、支配者や後の昭和維新者に思想的危機感をあたえたといえる。大正七年には、米騒動が全国的に広がりをみせた。大戦景気は資本主義の発達をもたらし、都市の人口増加にもとづく米の需要を増加させた。ところが、大正時代は資本主義と地主制の矛盾の増大による農業生産が停滞した。そして、シベリア出兵に当て込んだ米商の買い占め・売り惜しみ、地主の投機が米価高騰に拍車をかけたのである。これが米騒動の原因となった。米騒動は、富山県の魚津町におきた主婦たちの米の県外移出阻止請願運動がきっかけとなって、八月三日には、中新川郡の西水橋町の主婦数百名による米商襲撃(越中女一揆)が起こり、それらを発端に全国的に拡大した。暴動は一道三府三七県にわたり、参加数推定で七十万人以上とされた。このため寺内正毅内閣は総辞職に追い込まれ、本格的な政党内閣である原敬内閣が誕生したのである。大正九年、戦後恐慌を迎えると、労働争議も一層の激しさを呈した。一九二〇年、二月、労働時間短縮、三割賃上げを嘆願した八幡製鉄所争議、五月、日本最初のメーデー、上野公園で一万人参加、八月、「一切の社会主義者を包括」ことを掲げた社会主義の大同団結ともいうべきの日本社会主義同盟の結成、翌年には、戦前最大の労働争議と言われた川崎・三菱造船所、十月、大日本労働総同盟友愛会が日本労働総同盟と改称し戦闘的な階級闘争になっていった。 諸運動は労働運動、社会主義ばかりではなかった。大正十一年三月、西光万吉、阪本清一郎、駒井喜作らの奔走によって全国水平社が結成、七月、非合法ながらコミンテルンの日本支部としての日本共産党の誕生、各地に生まれていた小作人組合の統一と小作人の地位向上を目標にした杉山元治郎、賀川豊彦ら創立の日本農民組合など諸運動は燃え上がっていた。それらの諸運動の展開には街頭演歌師の活躍を無視することはできない。添田唖蝉坊の〈高い日本米はおいらにゃ食へぬ 〉で知られる《豆粕の唄》が広まったのもこの頃である。演歌師たちは全国に散っていた。そうなるとふたたび演歌師の全盛がやってくる。そして、直にに世相にふれることによって、大正期の民衆のナショナルな感情も変化する。脱政治的な志向を持ちながら近代社会のなかで目標を失い、貴族的な市民社会から切り離されたならば、民衆の心情は感傷的なメロディーに慰めを求めるであろう。

一九二三年九月一日午前十一時五八分、関東地方を突如大地震が襲った。死者九万九三三一人、行方不明四万三四七六名を数え、直接損害額六十億円以上が示すようにその損害規模は天文学的数字に近いものであった。その被害は、特に東京がひどかった。神田、日本橋から浅草、本所、深川の下町一帯は壊滅状態になってしまった。
作詞が添田知道で鳥取春陽が作曲した《大震災の歌》は、その様相をあまねく伝えている。そして、その惨状をニュースとして広めたのが演歌師たちであった。時それ大正十二年、九月一日正午時 突然起こる大地震 神の怒りか竜神の 何に恐るゝ戦きか大地ゆるぎて家毀ち 瓦の崩れ落つる音電柱さけて物凄く 潰れし家のその中に呻きの声や叫ぶ声 文化の都一瞬に修羅の巷と化しにけり東京の名所の一つである浅草の凌雲閣も、八階のところでポッキリと二つに折れて無残な残骸に変わってしまった。大正デモクラシーの風潮も浅草オペラもみんな吹っ飛んでしまったのだ。  翌日に組閣した第二次山本権兵衛内閣は、治安確保と罹災者救済のため戒厳令を東京市と府下の五郡に施行した。それにもかかわらず、表面化されていなかった不安が一挙に顕在化し噴出した。この混乱のさなか「不逞鮮人来襲」の流言蜚語が伝えられると、自警団による朝鮮人殺害という痛ましい事件がおこった。そして、亀戸事件、甘粕事件と−−−− 東京の亀戸署は、亀戸一帯の朝鮮人虐殺と同時に労働運動家川合義虎、平沢計七らを殺害し、その死体を遺棄する暴挙を行った(亀戸事件)。一方、無政府主義者大杉栄が伊藤野枝、甥の橘宗一と共に東京憲兵隊本部に検束され、麹町憲兵分隊の一室で憲兵大尉の甘粕正彦らに殺害された事件(甘粕事件)が起きた。甘粕らは、関東大震災後の混乱に乗じて引き起こす不逞行為へと及ぶ可能性があるという勝手な憶測で殺害した。このような一連の虐殺事件に廃墟の街は格好の舞台だった。

 殺伐とした空間に流れる歌声、荒涼とした風景に演歌が響き、荒んだ人々の心を慰めた。春陽もヴァイオリンをもって人々に慰安を与えた。どれほどの人が慰められ勇気づけられたであろうか。春陽が作曲した《大震災の歌》を歌ったときの感銘について作詞者の添田知道は、つぎのように記している。

 

どこもかしこも薄暗くて、どの家もどの家もひそみかえっていた。かつかつの食料を手に入れることがせい一ぱいの時期である。こんな陰気千万なときに歌などうたったら、どなられるか、またひっぱたかれでもするのではないかと、不安だった。 おそるおそる、まったくおそるおそる、オリンを弾き出し、うたい出してみた。せまい横丁である。あちこちから忽ちの、人がとび出して囲まれた。けれど、怒られるのではなかった。、みなしいんと聴いているのだった。」(添田〈知道『演歌師の生活』)

人々は「悲境の底」で喘ぎながらも歌を欲していたのだった。焼け跡の街にバラックが建ちはじめた。軽快な《復興節》も共感をもって迎えられた。薄暗い町の片隅に演歌師たちの歌声が流れ、〈家は焼けても 江戸っ子の 意気は消えない見ておくれ〉と東京中で歌われるようになったのである。歌詞はユーモラスな感じのする内容だが、メロディーは中国の《沙窓》という曲を代用している。しかし、復興の過程において震災後の荒涼とした虚ろ風景には、「凝縮と退化の感覚は、社会的主題をうしなったのちの心情の下降」が見られた。 鳥取春陽作曲の《籠の鳥》は、まさにそれに対応したものであり、国家から心情が切り離され、しかも、対戦景気はつかの間で不況の到来、労働運動の激化などの社会不安によって追い詰められた民衆の感情を反映している。

 

 逢いたさ見たさに 怖さを忘れ 暗い夜道を 只ひとり 逢いに来たのに 何故出て逢わぬ 僕の呼ぶ声 忘れたかあなたの呼ぶ声 忘れはせぬが 出るに出られぬ 籠の鳥籠の鳥でも 知恵ある鳥は 人目忍んで 逢いにくる人目忍べば 世間の人は 怪しい女と 指ささん 怪しい女と 指さされても 実があるなら 来りょうもの指をさされりゃ 困るよわたし だから私は 籠の鳥
《籠の鳥》は、子供の間にまで流行った。そのために教育上好ましくないという批判が多くの教育者、学識者からおこり、ついに児童が歌うことを禁止されることになった。まだ、舌のよくまわらない子供にまでも、アイタチャミタチャニとやられた時分には、たまったものではなかったにちがいない。

 磯田光一は『鹿鳴館の系譜』で「『出るに出られぬ籠の鳥』の求めていたのが、『ミラボオ橋』の橋の上の男女に通じる自由」とのべているが、籠の不自由さはもっと深刻なものではないかと思うのだが。では、《籠の鳥》の発想源は何か。それは男女間の嘆きに止まらず大正デモクラシーに底流する「民衆全体に通ずる欲求不満の訴え」が触発された連鎖反応である。したがって、大衆感情が国家という主題を喪失した状態では「国民精神作興に関する詔書」を発布し、国民精神を鼓舞しても無駄なのである。逃げ場のない場所に追い詰められ脱出できない精神状況のなかで、「教養」、「主体的個」などとは無縁な大衆はささやかな慰めを歌に求めていたのである。《籠の鳥》の「籠」が閉塞感をしめすとするならば、そこに描かれた女性は、自由を失った廓の女であろう。作曲者の鳥取春陽は、街頭演歌師時代、縁日での一仕事を終えると一酌の酒を飲み、それからが流しの本番が始めた。愛用のヴァイオリンをもちながら久留米絣に黒の袴というお決まりのスタイルで花街から廓に入って本領を発揮したのだ。むし暑い真夏の夜でも、北風の吹きすさぶ凍りつく真冬の夜でも、夜霧に濡れ、夜風にさらされながら歌ったのである。夜更けの廓は、演歌師たちのその日の最後の稼ぎ場だった。春陽がお得意の曲を歌って流していると、格子戸から外を覗くお女郎さんのどこにも逃げることのできない不自由な姿が目に止まる。また、切ない歌を聞いたお女郎さんが涙を流しながら窓を開け、五十銭玉を紙にくるんで投げたりした。そのような光景が曲のイメージにつながったのである。それにしてもこの歌には、大正デモクラシーに底流する民衆の哀感と行き場のないやるせなさ、自由を失い閉塞状態に喘ぐ民衆の嘆きを感じさせる。しかし、追い詰められた感情が出口を求めて権力へのルサンチマンとなるならば、それは、破壊にむかう情念となるのだ。 《籠の鳥》の作曲者、鳥取春陽は、本名鳥取貫一。明治三十三年一二月一六日、岩手県下閉伊郡刈屋村(現新里村)の北山というところで父民五郎、母キクノの長男として生まれた。 春陽は、やがて、高等小学校を卒業するとひとかどの人物になると言って上京を決意した。上京してからの春陽は、随分苦労をした。ひとかどの人物といってもすぐになれるものではない。新聞売り、政治家の書生、児童劇団の雑役をしたり、神田正則英語学校に通ったりしたが、やがて、江東区富川の木賃宿に常宿するようになり同宿の演歌師と知り合いその道に入るのである。春陽が最初演歌師の道に入るのも、それが、社会の矛盾を突き世直し的救済が音楽活動をつうじて実践できるということがあったからであろう。 春陽は《籠の鳥》で声価を得るが、添田知道によると《籠の鳥》の発表前につぎのような一場面があったそうだ。

「例によって演奏して聴かせる。曲はたしかに軽い鳥取調だが、詞の方で〔なんだい、これは小原節にある文句じゃないか〕といったら、放浪詩人と自称した作者の千野馨が、石川県人だというのでわかったのは、民謡の土地っ子にしみこんでゐるということだった。〔いやぁ〕と頭をかいてみせた千野の若い顔に善人を感じたものだった。」(添田知道「音感の男鳥取春陽」『街角の詩演歌のルーツ鳥取春陽コレクション』)

知道によると《籠の鳥》の歌詞の元は《越中おわら》にあるため、東京での発売を保留にしたそうだ。そのために《籠の鳥》は、春陽が大阪の「大阪演歌青年共鳴会」の傘下に入り活動しはじめてから西のほうから流行った。一つの歌が流行するとその土地に根ざした俗謡と歌詞が類似していれば親しみが湧いて受けいれられやすいのであろう。 西沢爽は『日本近代歌謡史下』において、《籠の鳥》の淵源について曲亭馬琴の『著作堂一夕話』(『蓑笠雨談』享和四年刊)を引用しながら、詳細な記述を行っている。 

 

 「さて『籠の鳥』の冒頭の歌詞は『越中おわら』に限らず、昔から各地に流転し、それぞれの土地の唄に組入まれていたものである。

 その淵源は古く、曲亭馬琴の『著作堂一夕話』(『蓑笠雨談』享和四年刊)に、

  こゝを通る熊野同者、手にもつたも梛の葉笠にさいたも梛の葉といふ歌を、今の目か ら見れば鼠のかぶるやうに琴かきならせば、さてもこのいくすぢもある糸を一時に、指は只三 本にて引ならし玉ふは名誉なりと、声をそろへてほめたてける。これ近代なげぶしといふは、 なぎぶしのかはりにて、籠の鳥かやうらめしやと、好色大鑑(『色道大鏡』)の作者が作りか へたる証歌の根元なり。〔割註、以上色競馬(『男女色競馬』西沢一風、宝永五年。)〕よし野(徳子、京、六条柳町廓、二代目、吉野太夫、灰屋紹益の妻となる。〈井原西鶴『好色一代男』 には世之介の妻として描かれている。〉絶世の名妓といわれた。寛永二十年、三十八歳歿)が 事書るものこれら尤くはし。この作者面のあたり見たるにはあらざめれど、このころまでは聞伝 へたることも多かるべし。投節は堺のり隆達といふものその名高し。章歌箕山(藤本箕山『色道大鏡』の著者、宝永九年、七十九歳歿)が作はじめしといふことは余もしらざりしが、此冊 子を得てはじめてしりぬ。とあって、元禄期の色里の大通人、藤本箕山つくる一節が梛節にうたいつがれ、さまざまな唄へと拡がっていったようである。」(西沢爽『日本近代歌謡史 下』)
 遊女の嘆きの歌が時代と共に受け継がれ流布しながらしだいに変化して《籠の鳥》が生まれていったのであろう。《越中おわら》は、浅草などで女芸人が興行を打って人気を集めたので、かなり巷間では流行していた。千野にはこの歌がどこか記憶の片隅に残っていたのではないか。ともあれ、春陽の哀調あるメロディーとマッチしたことは確かだ。私は、以前、上山敬三の『日本の流行歌』で《籠の鳥》の著作権をめぐる問題を読んだことがある。赤沢大助という人物がビクターに「《籠の鳥》を作ったのは自分である」という投書を送ったという話である。関東大震災の年、興行主赤沢は、映画興行のため樺太に渡った。大泊にロシア人娼婦がたくさんいて、日本語でいうなら「籠の鳥」という意味の歌を歌っていたそうだ。それがヒントになってあの《籠の鳥》ができあがったというのだ。その赤沢なる人物は、昭和四十八年に和歌山地裁に訴訟を起こした。これが、いわゆる「籠の鳥事件」と呼ばれるものである。この訴訟については、西沢爽の『日本近代歌謡史 下』に詳細に記されている。裁判は大阪高裁でも棄却され、原告赤沢大助の敗訴ということになったが、この訴訟の過程で西沢が指摘するように「この唄はそれまでの流行歌にあった日本調ではなく、西洋風であって日本人向きの五音階で作られ、相当素養のある作曲者によってつくられた」ことが実証され、春陽の洋楽の素養が改めて評価されたのである。 《籠の鳥》も、《船頭小唄》と同様にいくつかの録音盤がある。この頃には、国産レコード会社も増え、大正十三年、七月から僅か三カ月だけでも、大阪のツバメ印の日東レコードから寺井金春、貝印の内外レコード(西宮)、ハト印の東亜(尼崎)では横尾晩秋、ラクダ印のオリエント(京都)からは歌川八重子、ツル印のアサヒ(名古屋)、ヒコーキ印の帝国蓄音(東京)などから、十一種類の《籠の鳥》のレコードが発売された。『街角の詩』に収録された巽京子と共演した《籠の鳥》の録音盤は、ヒコーキ印の帝国蓄音で吹き込んだものである。レコード番号は、一二〇四。倉田善弘の『日本レコード文化史』によると大正十三年九月発売となっている。歌にはピアノ伴奏が入っていた。春陽と巽京子は男女のラブソングにふさわしく掛け合いで歌っている。春陽の歌い方も書生節そのもので味がある。「かたいつまった声」ではあるが、歌詞の言葉が明瞭に伝わっていくる。一語一語がよくわかることによって歌のもつ切なさが人々の心情を捉えるのである。この伴奏形式は、演歌師の作る流行歌が洋楽と融合できることを示唆するものであった。《船頭小唄》や《籠の鳥》などに代表される大正艶演歌は関東大震災前後の既成国家の権威を抹消しようとする諸事件の噴出を暗示させていた。朴烈、金子文子の摂政宮暗殺計画、難波大助が帝国議会の開院式にむかう摂政宮裕仁親王をねらった狙撃事件(虎ノ門事件)など、底辺に沈殿した無定形な怨恨、鬱的情緒(アノミー)が具象化された。これらが、やがて昭和テロリズムという情念行動の系譜に結び付けられるのである。また、一方では、大正ロマンの影には頽廃的なエロ・グロ・ナンセンスの温床が内在していた。それがパンタライ社という怪しげな団体である。浅草オペラがさかんな時分に観音裏の馬道にあって「女優派出」の看板を掲げていた。それは、ヌードショウを兼ねたお座敷ダンスの元祖であり、裸踊りの女を抱えていたからまさに「性の探求の実験室」だったのだ。パンタライとは、ギリシャ語で「万物流転」という意味である。ダダイズムの辻潤が名付けた。ここには多くの文化人が出入りしていた。芥川龍之介、徳田秋声しかり、谷崎潤一郎などは、パンタライ社の看板女優若草民子を随分贔屓にしていた。
 《籠の鳥》はワルツ調ではないが三拍子のリズムである。朝倉喬司は、『遊歌遊侠』でワルツという共通項を前提に「三拍子の祖型を、私なりに推測すると、それは『天然の美』だったのではないかと思う。」とのべているが、三拍子ということなら、その中間に《籠の鳥》が存在する。三拍子のリズムについては、朝鮮メロディーのトラジを思い浮かべることができるが、春陽が古賀より先に朝鮮メロディーのリズムに着目したかどうかはわからない。しかし、流行歌に三拍子のリズムを本格的に取り入れたことは確かなのだ。《籠の鳥》も、《船頭小唄》と同様にいくつかの録音盤がある。この頃には、国産レコード会社も増え、大正十三年、七月から僅か三カ月だけでも、大阪のツバメ印の日東レコードから寺井金春、貝印の内外レコード(西宮)、ハト印の東亜(尼崎)では横尾晩秋、ラクダ印のオリエント(京都)からは歌川八重子、ツル印のアサヒ(名古屋)、ヒコーキ印の帝国蓄音(東京)などから、十一種類の《籠の鳥》のレコードが発売された。レコードと蓄音器の国産化は、明治四十年十月三一日、十万円の資本金をもって神奈川県橘樹郡川崎町久根崎に設立された日米蓄音機製造株式会社の誕生によって始まる。そして、明治四十三年、ホーン商会の社員を重役陣として発足した日本蓄音器商会が新設され(日米蓄音器商会は廃止)、ニッポノホンのマークを使用して販売を拡大した。レコードには長唄、薩摩琵琶、浪花節、義太夫などが多く吹き込まれていた。やがて、大正年間に入ると、蓄音器会社の設立が相次いだ。大阪蓄音器商会、東京蓄音器株式会社、東洋蓄音器株式会社、ヒコーキ印の帝国蓄音器株式会社(商会)などが設立された。そして、大正九年以降は、関西地方にもレコード会社が続出するようになったのである。当然、春陽は、レコード会社から引くあまたであった。『街角の詩 演歌のルーツ鳥取春陽ベストコレクション』に収録された巽京子と共演した《籠の鳥》の録音盤は、ヒコーキ印の帝国蓄音器で吹き込んだものである。レコード番号は、一二〇四。倉田善弘の『日本レコード文化史』によると大正十三年九月発売となっている。歌にはピアノ伴奏が入っていた。春陽と巽京子は男女のラブソングにふさわしく掛け合いで歌っている。春陽の歌い方も書生節そのもので味がある。「かたいつまった声」ではあるが、歌詞の言葉が明瞭に伝わっていくる。一語一語がよくわかることによって歌のもつ切なさが人々の心情を捉えるのである。この伴奏形式は、演歌師の作る流行歌が洋楽と融合できることを示唆するものであった。/《籠の鳥》と共に春陽のメロディーの代表作には、映画の主題歌となった《恋慕小唄》(松崎ただし・作詞/鳥取春陽・作曲)がある。親の反対する女性と結婚した男が駆け落ちして小豆島で暮らすストーリだが、抑圧された男女の心情が良く理解できる。

  親が許さぬ恋ぢやとて 諦らめら切れよか ネエお前

いっそ二人は 知らぬ国 離れ小島で 暮そうよ

春陽のレコードは、ヒコーキ印の帝国蓄音器商会から発売されている。ヒコーキ・フジサンレコード総目録の番号一二三八Aからいって、おそらく大正十三、四年頃であろう。巽京子とのデュエットで伴奏は帝蓄管弦楽団となっている。春陽は、《籠の鳥》を最初に吹き込んだヒコーキ印の帝国蓄音器商会でかなりのレコードを吹き込んだ。その中の数曲であるが、《続金色夜叉》《春陽新小唄集》《満州節》《一寸法師》、《船頭小唄》《水藻の唄》《ヴェニスの船唄》《陽はおちる》《新関の五本松》などが民俗資料館に展示されている。これも貴重なレコードといえる。特に《春陽新小唄集》は、LPレコードのように両面に数曲ずつ、しかも、ワンコーラスのメドレーで入っている。A面が《鈴蘭》《籠の鳥》《スットントン》、B面は《恋慕小唄》、《カフェー小唄》《捨小舟》と街頭で民衆を堪能させた春陽メロディーの傑作集とでもいえるレコードである。レコード番号一二六二ABからして、大正十四、五年頃のレコードではないかと思われる。また、同じヒコーキ印の帝国蓄音器商会からは同じような志向で《続春陽小唄集》が発売されている。A面には《女の唄》《旅人の唄》《舟出の唄》B面は《すたれもの》、《月の出》《銀座雀》《花園の恋》。まさに、大正艶歌の傑作集である。それにしても、驚くべきことは、昭和以前の時代にメドレー集のレコードが存在していたことである。それは、鳥取春陽のユニークな音楽的個性の一面をしめしているといえる。春陽が演歌師としてその地位を確立している間、関西、中京地方では、大正九年以来、レコード会社が続々と誕生していた。大阪にはツバメ印の日東蓄音器株式会社、兵庫県では鳩印の東亜蓄音器株式会社、名古屋の大曾根のツルレコードといわれたアサヒ蓄音器商会など設立されていた。春陽は、この頃から、次第に小唄映画の主題歌をレコードに吹き込むために関西地方に行く機会がますます重なってきた。春陽が大阪に拠点を移すのもそのためである。 大阪の映画会社は震災の打撃を被らなかった。演歌師たちが歌って広めた艶歌をテーマにして競って新作を東京に送りこむようになったのだ。大阪に本拠地を置く帝国キネマが『籠の鳥』の歌をテーマに製作したのもそのような事情を背景にしている。歌もレコードに吹き込まれたので、春陽はレコード会社の引っぱり凧となったのである。春陽の大阪行きの時期は、関東大震災後の大正十三年の秋以降だと思われる。おそらく、《籠の鳥》の帝キネの封切りが八月で、ヒコーキ印の帝国蓄音器での春陽の吹き込みレコードが発売されたのが九月だから、大阪へ居を移すことになるのは、やはり、それ以後ということになる。 大阪行きは、音のさすらい人鳥取春陽につかのまの安住の地を提供した。彼は、この大阪で全盛期を迎えるのである。大阪は、古代から、難波津・淀川によって都へ通ずる水上交通の要地として栄え、江戸時代には、諸大名の蔵屋敷が集中し物資の集散地として天下の台所といわれるほどの繁栄をみせ、大商業都市へと発展した歴史をもっている。明治以後は、紡績を中心に近代工業の導入により、商工業地帯として発展した。その大阪は大正十四年四月から、第二次市域拡張をおこない「大大阪」を形成しつつあった。東成・西成郡すべて新市域となり、旧市域の八区に新市域五区と合わせて十三区となった。この年から昭和九年までのおよそ十年間、大阪の人口は急増するのである。春陽は、南海線の天下茶屋の付近に居を構えた。彼は、新世界のシンボルとして聳えたつ通天閣を見て震災で破壊された十二階の楼閣を思い出した。この付近のごみごみした街の空間や人の流れは浅草とよく似ていて春陽には馴染みやすかった。それに加え、寄席の太鼓や威勢よく飛び交う大阪弁もリズムがあって心地よかった。道頓堀は、芝居茶屋を中心に栄えた代表的な娯楽街である。、芝居、映画、喜劇などの劇場が並んだ。弁天座・角座・中座・浪速座などが有名である。やがて、大正、昭和を迎えると、道頓堀の風情も幾つかの色あざやかなネオンが川面にゆらぐカフェーがにぎわう歓楽の街になっていた。鳥取春陽は大阪レコード界で絶頂を極めた。大正十三年の作であるが《恋慕小唄》(松崎ただし・作詞/鳥取春陽・作曲)《すたれもの》(野口雨情・作詞/鳥取春陽・作曲)《赤いバラ》(野口雨情・作詞/鳥取春陽・作曲)が大ヒットした。春陽の作品に野口雨情の作詞のものが散見する。野口雨情は、春陽と同郷の石川啄木とは小樽の新聞社で一緒に仕事をしたことがある。わずか二十七歳で夭折した啄木も早熟の天才だが、二十代前半で《籠の鳥》で全国的ヒットを飛ばした春陽からも同質のものを感じたにちがいない。 大正十五年、春陽は、一連の艶歌の大ヒットによってコロムビアの子会社であるオリエントレコードの専属作曲家になった。駱駝印のオリエントレコードは、大正三年に成立した。そこで製作されたレコードは京阪神を中心に、中国、四国、九州地方などを地盤にしていた。しかし、大正八年に日蓄に合併されていた。 鳥取春陽の専属料は百五十円。当時、帝大出身の初任給が四十五円ぐらいであるから、相当な額である。当時、人気絶頂にいた春陽にはそのくらいのお金を払っても会社は損をしないというのだから、その評価は高かった。また、このような専属制という形式でレコード会社と契約した音楽家は春陽が最初らしい。新里村民俗資料館には、春陽のオリエントレコードとの契約書(日本蓄音機商会、松村武重との間に交わしたもの)が所蔵されている。専属第一号の契約書とは一体どんな内容なのだろうか。

 第一条 甲ハ自己ノ芸術タル『書生節』『歌劇』『喜歌劇』及ビ其他總テノ芸術ヲシテ、独奏及ビ伴奏或ハ合唱又ハ独唱等ヲ、大正拾五年拾月壱日ヨリ向フ貳ケ年間ハ、乙以外ノ蓄音器レコード製造業者及ビ其ノ他何人ニ対シテモ、レコード吹込ヲ為サザルモノトス、尚甲ノ作歌或ハ作曲ニ為リタルモノヲ他人ヲシテ吹込マシムルモ亦同シ

第二条 甲ハ乙ニ於テ要求スル芸術ヲシテ契約期間中毎月最少限度両面三枚以上ノ吹込ヲナスコトヲ承諾ス。〈省略〉

第三条 乙ハ甲ニ対シ契約期間月百五十円ヲ支給スルモノトス〈以下省略〉

 この契約書を交わしたときの春陽の住所は、大阪此花区上福島南一丁目百十七番地となっている。これは大阪青年共鳴会の住所と同じである。おそらく、レコード会社と春陽との折衝は大阪の青年共鳴会を通して行われていたのだろう。専属になれば生活の安定保証はある。だが、束縛というマイナス面もある。音のさすらい人、鳥取春陽にはちょっと窮屈だったかもしれない。契約書にも記されているように毎月レコード三枚ということは、最低両面併せて六曲ということである。それは、洋楽的手法をとっているとはいえ地べたからうまれた春陽のメロデイーがレコード会社の企画・製造・宣伝という分業工程から作られた商品になることを意味していた。 大正後期は、鳥取春陽の全盛期だった。まさに時代の尖端を行くレコード界の寵児である。しかし、時代は大正から昭和へと移行し、新たな流行歌黄金時代を迎えようとしていた。本格的な外国資本が参入しての大量生産・消費の時代である。粗製乱造の構造は変わらないが、音楽の質は向上する。それはレコードの吹き込みシステムが大きく変わるからなのだ。そして、街頭で演歌師が歌って流行らしていた歌をレコードにするのではなくて、レコード会社が企画・製作して歌を大衆消費者に選択させるという仕組みに移行しようとしていたのである。

 古賀メロディーの時代

《誰か故郷を想わざる》

 賀政男という作曲家は、その生み出されて作品によって人生を描けることができる。その古賀メロディーが日本人の心に大きな感銘をあたえてきたことは周知の事実である。自ら作曲した作品がそのまま人生の章立てになるのはおそらく古賀政男くらいのものであろう。そう考えるならば荒れ狂う昭和の悲しみを旋律にのせた古賀政男の半生を辿ることはその音楽の特質を理解するうえで重要であるといえる。古賀政男は、明治三十七年、十一月十八日、九州は、福岡県三瀦郡田口村(現在は大川市)に生まれた。父は古賀喜太郎、母はセツといい、古賀は男六人、女一人の七人兄弟の六番目の子供だった。九州は古賀という姓は多い。それは地名にもあるくらいである。古賀の故郷は北原白秋の生地、水郷豊かな柳川の近くである。よく人に出身地を聞かれると白秋の柳川の近くと思わず答えた。古賀は北原白秋を敬愛していた。それを知ってか、森繁久弥が“柳川や、白秋ありて、古賀ありて”と詠んで古賀政男に送ったのは有名な話である。

 「詩人との交遊の多かった私にとって、かえすがえすもなく残念なことは、とうとう白秋さん と一度もまみえることがなかったことである。白秋の故郷と私の故郷は、距離にしてほんのわ ずかなのである。それだけに白秋の切々とつづるノスタルジアは、じつに私の望郷の詩でもあっ た。」(古賀政男『自傳わが心の歌』)

柳川と大川とは、わずか、一里たらずの距離にすぎない。しかし、詩情豊かな柳川の水郷と、大川は随分風景が違っていた。田口村から見える風景らしきものといえば雲仙岳の雄姿が遠望できるだけで、果てしなく広がる水田と縦横に掘割、その周辺に点在する草深い農家、つまり純粋な農村地帯風景そのものだった。<花摘む野辺に日は落ちて>と霧島昇が歌う《誰か故郷を想わざる》は、そんな古賀の故郷を回想する心情が託されている。

 <花摘む野辺に 日は落ちて みんなで肩を 組ながら 唄をうたった 帰りみち

 幼馴染みの あの友 この友ああ 誰か故郷を想わざる >

 《誰か故郷を想わざる》には、母親への思慕に劣らないない姉への古賀の強烈な追憶を感じさせる。嫁ぐ姉を見送る時駅のプラットホームで泣いた体験をもつ西條八十の詩は古賀に強烈なインスピレーションをあたえた。それは、古賀が自伝に「この姉にたいする私の敬慕の情が、八十さんの歌詞に、あまりにも的確に唱いこまれていたので、一瞬、私の日記を盗み見されたのではないかと疑ったほどであった。」と記したことからも十分に窺える。姉の古賀少年への眼差しはやさしかった。土間で畳表を織りながら、優しい瞳の姉は手伝う古賀少年に自分の創作童話を聞かせてくれた。女兄弟がいなかったせいか、姉は古賀を妹のように可愛がった。古賀に女性的なところがみられたのもそのせいかもしれない。その姉は、大正二年、草刈商店の番頭、永島米蔵と結婚した。 縁談が決まって、いよいよ嫁入りの日が来た。古賀の郷里には花嫁が綿帽子をかぶるしきたりがあった。嫁入りのときと死んだときの二度しかかぶらないのだそうだ。嫁ぐという強い決意をしめしているのであろう。古賀は姉の嫁入りが無性に寂しかった。そして、その寂しい感情を殺すかのように「もう帰って来ないなら、嫁なんかにいくな」という言葉がつい出てしまった。後年、西條八十が古賀に見せた〈ひとりの姉が 嫁ぐ夜に 小川の岸でさみしさに 泣いた涙の なつかしさ〉は、偽らざる少年時代の古賀の姉への思慕なのである。

《サーカスの唄》

古賀の家庭環境には西洋音楽は皆無であった。あるとするならば母親が口ずさむ清元、長唄のさわりぐらいのものであったであろう。だから、音感の良い古賀は、外部に向かって音源を求めていった。自分の耳に入ってくる音の識別能力が相当高かったといえる。古賀の少年時代の音楽体験には、村にやってくる門づけの旅芸人の月琴の音があった。古賀の感性は敏感に反応したのだ。

「桃割れ髪にゆうぜん姿の娘が、月琴と四つ竹の伴奏で踊るふぜい」は、少年時代の古賀にとっては、唯一の音楽文化・娯楽であった。やがて、少年は実際に自分の手で楽器を弾いてみたいという衝動にからた。そこで、姉から古い羽子板をもらって、古い三味線の糸をさがしてきてそれに張り付けてはかき鳴らし、得意になっては門づけのまねをした」前掲『自傳わが心の歌』

古賀の少年時代の音楽体験で忘れてはならないのは子供心をときめかせたのが旅まわりの劇団とサーカスだった。中山晋平も上田からやって来るクラリネット、太鼓などによる小編成のジンタの演奏を聞いて西洋音楽に目覚めたと言われているが、古賀と同じ共通な原体験をもっていることは非常に興味深い。なつかしいジンタの響きが古賀メロディーの甘さと美しさ、そして感傷と大衆性の原点であるといえる。

「秋になると、鎮守の森にサーカスがかかった。うらかなしい『天然の美』をかなでるクラリネット。それが私の見た最初の西洋楽器で、私は朝から晩まで、サーカス小屋のまえに立ちつくして不思議な音色に聞き惚れ、まるで夢心地であった。」

 鎮守の森とは古賀の郷里にある蛭児神社のことであろう。毎年やってくる曲馬団のもの悲しい音色。ジンタとは少数の吹奏楽隊のことである。曲馬団の人寄せや広告宣伝のために用いられた。サーカス、ジンタといえばやはり《天然の美》の旋律が浮かんでくる。〈空にさえずる鳥の声 みねより落つる滝の音〉ではじまるこの歌はワルツのリズムにのせて人々の心の底に深い味わいを残したであろう。大川で心をときめかせて聴いたあの少年期の音楽体験が《サーカスの唄》の心情へとつながっている。《サーカスの唄》は日独親善をかねてのドイツのハーゲン・ペックサーカス団の来日宣伝に作ったものである。 

《人生の並木路》

 古賀の少年時代は、貧しかった。当時の明治後期の農村では、よくみられる貧農階級だった。日本の立身出世伝には、貧しい家に生まれは欠かせない常套句である。古賀も下層階級の典型としては例外ではない。古賀の父、喜太郎は、農業が正業だったが、とても農業だけでは一家を養えないので、瀬戸物の商品を天びん棒にかついで近在の村を売り歩きながら行商をしていた。古賀の微かな淡い記憶に宿された父の喜太郎という人の面影は、暮らしが貧しくても、「屈託した表情」を見せたこともない明るい人であり終生強い人であったという。古賀は、父を六歳のとき失った。弟治郎が生まれた直後の明治四十二年に父の喜太郎は病に倒れた。肝臓が悪く、福岡医大の付属病院に入院しなければならなかったほどだから、重病だった。翌年、そのまま病院で息を引き取ったのである。母セツは、大黒柱を失った後、一家を支えるために死に物狂いで働いた。古賀は、「父の法事を済ませると、それまでも働き者であった母は、まるでなにかに憑かれたかのように、一層烈しく仕事に精を出した」といつ寝るのかを知らないくらい働く母親の姿を回想している。長男福太郎は、すでに奉公のために朝鮮に渡っていたから、夭逝した古賀の妹を除いて、家に残されたのは乳幼児の弟を含めて六人の子供と祖母を抱えての母親への重圧は、すさまじいものであった。
 女一つ手は一家を支えるのはやはり厳しかった。生活はゆきずまり、路頭に迷う運命がこの家族に今にも襲うとしていた。セツは、家をたたみ一家で朝鮮にいる長兄福太郎をたよって朝鮮半島にわたる決心をした。当時、日本の植民地になったばかりの朝鮮半島には、福太郎をはじめ兄弟たいが、父の死後に仁川で金物屋を営む徳本氏のところに奉公していたのだ。古賀が故郷田口村と離別した年が明治四十五年。明治天皇の崩御、乃木希典夫妻の殉死など衝撃的なニュ−スが全国に流れていた。 二人とも故郷喪失による近代人への飛翔がそうさせたといえる。古賀少年は、「だっこ、だっこ」と駄々をこねる幼い弟の手を引いて故郷を捨てた思い出を終生忘れなかった。真夏の太陽が、地平線の彼方に沈んでいく。その夕暮れの美しさを背に細い影を引きずりながら、歩く四人の家族には、いかにも哀れさが漂っていた。故郷喪失、流浪が近代人の宿命だとしても、幼い少年にとっては、苛酷な運命の十字架に等しかったに違いない。<泣くな妹よ 妹よ泣くな、泣けば幼い二人して 故郷を捨てた甲斐がない>でお馴染みの《人生の並木路》は、そんな古賀の体験がそのまま歌になったようなものだ。古賀少年の行く先は、仁川、そして、京城へと。古賀メロディーが朝鮮のメロディーの影響うけているということは一般に認識されている。古賀政男が朝鮮半島の生活体験において彼の音楽のもつ叙情性の源になったといっても過言ではない。兄の店で働いている朝鮮人労働者がふとなにげなく口ずさむ哀調に満ちた民謡・俗謡など生きた人間の感情のこもったメロディーが自然に古賀の体内に宿っていたのである。それが古賀メロディーの表現において「叙情核」になっていった。さらに、朝鮮での生活において、大正琴、琴、筑前琵琶、の絃楽器にふれたことも大きい。

《石川啄木と古賀政男》

 萩原朔太郎は、古賀政男と石川啄についてつぎのようにのべている。

「石川啄木と古賀政男は、すべての点においてよく似ている。第一に、彼等は、情熱的なロマンチストであり、そして純情的なリリシトである。しかし、彼等のロマン情操は、現実の実生活と遊離した架空のロマンシズムではなく、現代の日本の社会が実相しているところの、民衆の真の悩み、真の情緒、真の生活を、その生きた現実の吐息に於て、正しくレアールに体感しているロマンチシズムである。それ故にこそ彼等の芸術は、共に大衆によって広く愛好され、最もポピュラーの普遍性を有するのである」

 朔太郎は啄木と古賀の芸術の類似性を指摘しながら、古賀メロディーの世界的な普遍性を獲得する時代を予見している。後に古賀メロディーは全米を席捲することになるが、やはり、初期において藤山一郎の歌唱芸術がその魅力を引き出したことよるところが大きいのである。
 

 《影を慕いて》

  金融恐慌で幕をあけた昭和、モダニズの華やかさとは対照的に暗い世相もまた時代の象徴だった。取付け騒ぎから台湾銀行の営業停止による金融恐慌の全国的拡大は、中小企業と零細預金者を悲惨な状況に追いやった。通帳を持ちながら路上で泣き伏す老婆の姿は哀れだった。その場しのぎの日銀融資の救済処置が銀行破産という最悪の結果だったのだ。 対戦景気で「成り金」が続出して活気を呈した日本経済の繁栄は、実は底の浅いものであった。第一次世界大戦の終結によってヨーロッパがアジア市場に再登場してくると、日本経済は、木の葉のように揺れ動き苦境に立たされることは明白なことだった。作家、芥川龍之介が、「或旧友へ送る手記」のなかに「何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安である」と記し、自殺したのも金融恐慌勃発の年である。夏目漱石の推賞によって文壇に登場したのが大正五年。それから十一年後の自殺は、何か象徴的な事件であり、この遺稿に残された言葉にはあらためて考えさせられる。ラジオ、自動車の氾濫を意味する機械主義、ビルディングやカフェー、ネオンに象徴される都会主義は、芥川にとっては封建的な土着の残骸をごまかしているにすぎない。芥川は、中身のない皮相なモダニズムに不安、危機感と影を感じて苦悩した結果が自殺という回答を示したのも頷ける。金融恐慌と山東出兵、芥川龍之介の死、翌昭和三年は、、共産党を一斉検挙した三・一五事件、第二次山東出兵の際の武力衝突(済南事件)、治安維持法の改正(死刑罪、目的遂行罪追加)、張作霖を爆殺した満州某重大事件、特別高等課設置と不吉な時代の前触れを暗示させた。二十世紀の日本に大きな音楽遺産を残した作曲家古賀政男もこの頃、マルクス、エンゲルスの本や『赤旗』を読もうと本屋の前に徹夜して開店を待ったこともある。そして、青根という東北の鄙びた温泉の宿で人生に絶望し自殺未遂を図ったのもこの頃である。 

「その頃私は貧しい苦学生であった。父に逝かれた幼い私は家を飛び出して上京し、苦学しながら明治大学に通っていた。空腹を水でまぎらわしながら講義に通ったのは、前途にバラ色の門を自分で作らねばとの気概からであった。これは前途に希望を託していたにほかならなかった。だが、卒業期が近ずくにつれて、私のロマンチシズムは急速に崩壊していった。前途には、ただ灰色の重く沈殿した社会が横たわっているだけであった。」(古賀政男『自傳わが心の歌』)

 古賀はカミソリを手にして、正気を失いどんどん谷間に降りていった。この温泉は蔵王への途中にあるらしく宿も二軒ほどしかなく、人の気配はまったくなかった。 古賀はカミソリを首筋にあてた。鋭い痛みが走る。その痛みが死ぬことへの恐怖心に変わるのだ。怖くて死ねない。古賀は咄嗟に首から噴き出す血をハンカチで押さえた。そして、うつ伏せになって谷底で慟哭した。ただ泣くばかりであった。その時の鬱屈と人生への苦悶谷底から上がるときの蔵王の山に消えようとしていた。その夜は、泥酔しとうと浴びるほど酒を飲んだ。酔えなかった。夕日の鮮やかさが入り混じり、浮かんだ詩と曲もイメージが《影を慕いて》だった。

まぼろしの影を慕いて 雨に日に

月にやるせぬ 我が想い

つつめば燃ゆる 胸の火に

身は焦れつつ しのび泣く

《影を慕いて》の初演は、昭和四年六月二十二日、明治大学マンドリン倶楽部第十四回定期演奏会赤坂溜池三會堂においてである。ギター合奏で演奏された。当日、ゲスト歌手の佐藤千夜子は、明大マンドリン倶楽部の五十年史によると、《青い芒》と《龍峡小唄》と記されている。その後、昭和四年十月二六日のアンドレスセゴビアのギター演奏は古賀に大きな衝撃をあたえた。まさに古賀の胸に差し込んだ一筋の光りの矢だった。あの有名な《影を慕いて》の前奏部分ができたのはこの興奮の後であろう。

「秋の夕暮れのことであった。キセルなおしの『ラオ屋』が屋台を引き、物悲しい笛の音を流して通っていった。その音をそのままギターの音におきかえて、あのメロディーができあがった。こうしてセコビアの放った〃矢〃は閃光を放って私の体につきささって以来、私の心の奥底にとどまっているのである。恐らく永遠に抜き去ることはできないであろう。」(前掲『自傳わが心の歌』)  

  《影を慕いて》は、エロ全盛の頃昭和六年一月新譜で発売されている。吹込みは、昭和五年十月二十日。佐藤千夜子が歌った。A面は《日本橋から》(浜田広介・作詞/古賀正男・作曲)である。ビクターの月報の新譜紹介には、わずか《影を慕いて》については「B面は、ギター伴奏の歌謡曲」という記されている。

《酒は涙か溜息か》

コロムビアは、昭和流行歌の序盤戦においてビクターの独走を許し窮地に陥っていた。コロムビアとしては劣勢をどうにか挽回しなければならない。しかし、ビクターでは全く芽がでなかった古賀政男をコロムビアは迎えいれ晋平節に対抗できる力を獲得したのである。昭和六年、九月十八日、柳条湖事件が勃発。ついに満州を中国の主権から切り離し軍事的制圧による日本支配を目的に関東軍の軍事行動が始まった。ついに近代日本の崩壊への序曲が鳴りはじめたのである。満州事変が本格的になりだした頃だろうか、なんともいえないあの暗いやりきれない時代を暗示させる鈍いギターの旋律にのせてこの《酒は涙か溜息か》(高橋掬太郎・作詞/古賀政男・作曲)が爆発的に流行した。

 酒は涙か溜息か 心のうさの 捨てどころ

遠いえにしの かの人に 夜毎の夢のせつなさよ

酒は涙か溜息か 悲しい恋の 捨てどころ

 忘れた筈の かの人に 残る心を なんとしょう

作詞は高橋掬太郎。古賀は高橋が送ってきた七五調の短歌に困惑し苦しんだ。歌詩が短すぎて、まるで都々逸に近いものであったからである。高橋掬太郎は、すでに《月の浜辺》《キャンプ小唄》のレコードで古賀の名前は知っていた。高橋は、この二曲が好きだった。どっちらにも青春の感情が麗しくこもっていて胸一杯にし魅了してくれたからである。 この《酒は涙か溜息か》の詩にはつぎのようなエピソードがある。函館の花街に千成という芸者がいた。芸達者で美人で蓬莱町では随一の名妓の一人であった。ところが、ある事情によって芸者をやめなければならなかった。彼女がいよいよ花街を去る前夜、高橋ら知人たちによって送別会が開かれた。その席上で、高橋は、《酒は涙か溜息か》を白扇に即興で書いて、餞別として千成に送った。その詩がコロンビアのディレクターの市村幸一を通うして古賀のところに送られてきたのであった。 毎日、ギターを持って三味線の曲や義太夫などを弾いてみた。なかなか詩がもつ詠嘆的余情にぴったりとあうメロディーが浮かんでこない。この頃の世相を古賀は肌で感じていた。ひどく暗い憂鬱な時代だ。昭和恐慌の嵐が吹き荒れ、「大学は出たけれど」という言葉に象徴されるように、ひどい就職難。重要産業統制法によって産業合理化は一層進み、街には失業者が溢れ、どこへ行っても絶望感と深い溜息が聞こえてくるような時代であった。民衆は、権力に翻弄されながらモダニズムの蔭で多くの涙を流し続けた。大都市では、相変わらず、不況を忘れるかのようにジャズが鳴り響いていた。盛り場は、夜が更けると、カフェーやダンスホールの官能的な艶かしいネオンが灯り、人々のやるせない鬱積した心情は、エロ・グロの中に吸い込まれていった。都会のジャズの馬鹿騒ぎのなかで借金の形で売られ心身を食い荒らされる娘の涙、雑巾のように絞られ捨てられていく大衆のどうしようもない絶望感に満ちた深い溜め息、向島、本所、深川あたりの貨物列車のような裏長屋から聞こえてくる呻き声、この落差を古賀はどうしても埋めたかった。

「ジャズと都々逸。それは音楽的に図式的に表現すれば一オクターブ七音と、五音の東洋的短音階との差であった。この落差を埋めなければ、この時代の世相を反映し、すべての人々に共感を得る曲はできないと私は思った」(前掲『自傳わが心の歌』)

 ジャズ=疑似的明るい情念、溜め息=暗い情念、とするならば、その距離を埋めることは、狂騒を鎮静させ、悲しみの情念が鬱屈させずに浄化することを意味する。だから、クラシックの作曲法の常套手段であるピアノを使用せず、その合理的ハーモニーや調和と均整という精神では捉えきれなかった大衆の情念をギター、マンドリンをつかった独自の作曲法で表現したのである。古賀がもし音楽学校で正規の作曲法を身につけていたなら、このメロディーは生まれていなかったに違いない。この『酒は涙か溜息か』の十六小節には「赤い夕陽が墓地の彼方に沈むふるさとの想い出も、七つの年寂しく母に手をとられて、そのふるさとを出て行かねばならなかった童心の嘆き」が込められている。また、「愛する人を義理ゆえに諦めねばならなかった哀しみ」や、「夢枕の立つまで自分を慕ってくれた愛人」を、振りきらなければならなかった苦しみ、「身は病に傷ついて、ただ一人旅の空に月を仰ぎみる孤独の寂しさ」がこの曲に集約されているという。これは、古賀の大衆から遊離したひとりよがりのな感情ではない。また、青白い青年の告白でもない。貧困、身売り、嬰児殺し、故郷との別離、肉親との別れ、失恋、失業による生活不安、嘆きに悶え苦しみ、孤独な「我」に涙を流す者は数えきれないほどいたであろう。古賀の《酒は涙か溜息か》はこれらの人々の心情をメロディー化したのである。本旅人が《酒は涙か溜息か》の持つ本質を「この泣きたい様な前奏に始まる音律の美しさをみよ、長くひくAの音に始まる歌のメロディーが持つ、うづく様な悩ましさにひたれよ」(宮本旅人『古賀政男芸術大観』)絶賛したのも納得がいく。萩原朔太郎もまた同様に「真のヒューマニストの芸術家」と称賛を惜しまなかったのも、民衆の苦悩、情緒、生活を生きた吐息のままでリアルに体感しできる感性に驚嘆したからであろう。萩原朔太郎は、宮本旅人の『古賀政男芸術大観』の序文に「古賀政男と石川啄木」と題して二人の芸術家としての同質性をのべた。

「石川啄木と古賀政男とは、すべての點に於てよく似てゐる。第一に彼等は、情熱的なロマンチストであり、そして純情的なリリシストである。」(同上)

朔太郎ののべるところによると、彼らのロマンチシズムは、生活実感から遊離したものではなく民衆の苦悩、をリアルにそれぞれの手法において体感したものであり、「ホピュラーの普遍性」を有するものなのである。

「藝術家の魂は、常に大衆の心の反映鏡であり、藝術家の獨り流す涙は、常にまた大衆の心の悲哀を表象する故に、かかる純眞の藝術は、孤獨の詩人の胞から生まれて、同時にそれが大衆の所有となり、大衆によって合唱それる結果になる」

なぜ、己の内面凝視が大衆ぶ共鳴し普遍化するかといえば、朔太郎によれば、古賀も啄木も「真のヒューマニスト」だからである。そして、社会と正面から対峙しながら苦悩しオリジナルな創作芸術を完成させたからである。そこには、それぞれの分野でありがちな一方的な模倣や軽薄な和洋折衷を排した真の主体的な文化の創造がみられたのだ。

 《藤山一郎》

《酒は涙か溜息か》を歌った藤山一郎は、本名の増永丈夫といって東京音楽学校のみならず、日本の楽壇が期待するホープで声楽家としての将来が嘱望されていた。後に来日したプリングスハイムやヴハーペニッヒが彼のバリトンにかなり期待をしたそうだ。それは、昭和七年、東京音楽学校主催第六十五回定期演奏会での《ローエングリン》での朗々と日比谷公会堂に響きわたった高低の均質な響きのテノールのようなのびやかなバリトンが証明していた。まさに「上野最大の傑作」は近代日本音楽の所産を思わせたのだ。昭和八年六月、同じ日比谷公会堂におけるベートーヴェンの『第九』のバリトン独唱は、それを一層認識させたである。藤山一郎は、明治四十四年、日本橋生まれ。東京文化のほとんどは西洋文化の模倣だったが、下町に僅かに残されていた江戸文化の面影が藤山の幼き日の記憶の底にあった。しかし、文明開化の象徴である瓦斯灯のイメージが彼の「陽」の原点だった。瓦斯灯が点火されたのは、明治五年、横浜の居留地の点火が最初だそうだ。江戸の陰影を払拭する革命をもたらした。藤山と同じ日本橋蠣殻町生まれの文豪谷崎潤一郎の『陰翳礼讚』にも詳しいが、文明開化以前の日本では、夕映え、月の出、夜明け、靄、蛍、花火など、「美の目的に添うよう」に光りと蔭の使用が巧妙な「陰翳」というものが日本の美意識において表現上重要な意味をもっていた。藤山一郎は、慶応幼稚舎の四年生のとき早くも童謡をレコードを吹き込んでいる。それは、慶応の音楽教師である江沢清太郎の推薦があったからである。藤山は、この江沢の推薦で東京三光堂から発売された「スタークトン・レコード」」(後の日本蓄音器商会のニッポノフォン)に《半どん》《春の野・山の祭り》《何して遊ぼ》《はねばし》などの童謡を歌っている。 当時は、マイクロフォン録音ではなくおおきなスタジオの壁から突き出たメガホォンのような集音ラッパに向かって声を発声している。レコーディングのことを「吹き込み」といったのもそこらへんからきている。 古賀政男と藤山一郎が登場する昭和初期、十九世紀のヨーロッパは音楽において「高級」と「低俗」という枠組みが登場したが、日本においてはその二分立は、昭和初期に見え始めた。大衆の感覚を満足させる流行歌の大量生産。藤山一郎が登場する以前に多くの流行歌が氾濫している。歌手も多士済々。モダニズムの経済哲学がここにも現れ、ややもするとクラシックが主張する音楽美を喪失させる。享楽と頽廃、刹那的感覚の消費、モダニズムの世相を反映する流行歌にたいして当然、当時の知識人たちは、嫌悪感をしめした。永井荷風の『断腸亭日乗』には、インテリ階級、知識人らの流行歌にたいする嫌悪感が代弁されている。

「夜お歌を伴い銀座を歩む。三丁目の角に蓄音機を売る店あり。散歩の人群をなして蓄音機の奏する流行唄を聞く。沓掛時次郎とやらいふ流行唄の由なり。この頃都下到処のカッフェーを始め山の手辺の色町いづこといはずこの唄大に流行す。其他はぶの港君恋し東京行進曲などいふ俗謡この春頃より流行して今に至るもなほすたらず。歌詞の拙劣なるは言ふに及ばず。広い東京恋故せまいといふが如きもののみなり」 

裕福な家に育ちながら、近代化の皮相への呪詛とコンプレックスから江戸情緒に耽溺した荷風には、モダニズムの消費スピードを増すために東西が皮相な形式で折衷された流行歌は耐え難いものであったにちがいない。モダニズムは、伝統的規範の破棄から出発する。現実を直視する思想を放棄し、格調高い精神性を溶かす感覚的消費のなかで快楽を享受する民衆の唄が流れれば、知識人たちの音楽教養は捨てられる。とくに、「文化の最先端を誇る近代都市のペーブメントに、さまざまな人工的光」とともに流れ、人々のモダニズムの感染している感覚を刺激するジャズは、まさに「騒音の暴君的支配」に聴こえてきたにちがいない。しかし、ワーグナーやベートーベンを独唱する藤山一郎が均整のとれた澄んだ響きで正統に刹那的に感覚消費を目的としたモダン相に流れる流行歌を唄ったことは、大衆から遊離した高踏芸術が世俗化する一歩であり、「高級」=精神、「低俗」=感覚を接合する画期的なことなのである。藤山一郎は、刹那的享楽消費文化といわれたモダニズム文化のなかで自己創造を主体的に実践した歌手なのだ。だが、不思議なのは、およそ、悲しみの情念とは程遠い「陽」の響きをもった理性歌手が、大衆の涙を凝縮した感傷のメロディーを唄いヒットさせたことでる。慶応−上野というクラシックのエリートは、農村の悲惨さと下層民の呻き声とは無縁なはずだ。しかも、《酒は涙か溜息か》の歌詞には、酒、涙、憂さ、溜息、など情念の記号がちりばめられている。未練、自棄、悲しみなどおよそ、美しいハイバリトンで華麗に歌うクラシックの優等生に歌えそうな気がしないのである。藤山は、《酒は涙か溜息か》以降、藤山は古賀のギター伴奏で古賀メロディーを唄うが、、昭和モダニズムの蔭で流す涙と古賀メロディーから醸し出される「民衆の吐息」を表現したのだ。そのような歌手が昭和モダニズムに底流する「涙」を表現するのだから、宮本旅人は、かつて藤山一郎を「あの美しく若々しき風貌そのままの、青春を讚へる歌を唄はせれば天下一品である。又、古賀メロディーの一番の特色であるセンチメンタリズムの表現も、この藤山の右に出づる歌手はない」(『古賀政男芸術大観』)と評したことも納得できる。古賀・藤山コンビを一躍流行歌の頂点に押し上げた《酒は涙か溜息か》は、昭和六年十一月十四日に公開された松竹映画『想い出多き女』の主題歌になった。それが歌の流行に拍車を幾分かけたといえる。監督は、池田義信、主演栗島すみ子。レコード売上に拍車をかけた。また、新興映画でも歌と同タイトルで製作され十二月一日常盤座で公開された。昭和六年十二月新譜で《丘を越えて》(島田芳文・作詞/古賀政男・作曲)が発売された。《丘を越えて》は古賀政男の青春の譜の象徴といえる。古賀は学生時代、春は倶楽部のメンバーと花見を兼ねたピクニックに行った。古賀は、卒業を迎えた春も同じようにマンドリン倶楽部の後輩たちと小田急沿線の稲田堤にハイキングにいった。ちょうど桜が満開になる頃だった。いつものように焼酎を一本さげてでかけた。古賀は焼酎に砂糖をかきまぜて飲むのが好きだった。この日の思い出は、古賀の自伝につぎのように記されている。

「ハラハラとこぼれる桜の花びらをさかなにしこたま飲んで酔っ払い、さんざん唄い騒いでその日も暮れた。下宿に帰って帽子を脱ぐと、ビジョウのところに桜の花びらが一枚はりついでいる。この花びらをじっと見つめているうちに、昼間楽しかったハイキングの情景がよみがえってきた。学生時代さいごの花見か二度と返らぬ若さががぎりなくいとしくなってきた。そのとき、軽快なマンドリンの音(ね)が頭に響いてきた。頭の中のメロディーは次ぎからつぎへと、おもしろいように変化していった。私はマンドリンを取り上げて楽譜に写していった。」(前掲『自傳わが心の歌』)

 古賀は無性に楽しかった。将来の不安などを忘れ最後の青春を謳歌した。こうしてあの名曲《丘を越えて》が誕生したのだ。限りない青春賛美の曲である。四十六小節からなる前奏の軽快さは、明るさは青春の特権である若さと希望の表現である。楽壇の雄山田耕筰が日本人の作曲家を外国で誇る時にこの《丘を越えて》のレコードを聴かせたそうである。山田自身も明朗性を表現する日本人の音楽作品として高い評価を与えていたのだ。《丘を越えて》は、従来の流行歌にはなかった学生という「社会層の特権的な享受において、かろうじて成立」する「青春」をテーマにしていた。青春と流行歌をむすびつたけたことは昭和のレコード産業の創成期において革命的なことであったのだ。 「青春」は、近代日本が生み出した学歴社会、学校歴社会が舞台装置となって成立する。「青春」というテーマを流行歌の世界に持ち込まれることによってそれまで無縁であった一般大衆との「心理装置としての共有財産」が可能になったのである。そして、青春の躍動感を溌剌と歌う藤山一郎の登場によって古賀メロディーの「陽」の世界が完成するのだ。「陰」と「陽」の世界を併せもつ古賀メロディーは、いろいろな歌手に唄われることによって歌謡界の共有財産になっている。朝倉孝司は、古賀メロディーの凄さについてつぎのようにのべている。

「『影を慕いて』における森進一、『目ン無い千鳥』における大川栄策、『サーカスの唄』においては小林旭、どの歌と特定するまでもない古賀メロディー全般における美空ひばり、といったぐあいに、発表後何年も経ってから、それぞれの歌が最適の歌い手をみつけ出し、しっかり結びついてしまうことだ」

 《丘を越えて》だけは、歌謡曲の歌手で藤山一郎以後、持ち歌にした者はいない。天才といわれた美空ひばりでさえも《丘を越えて》だけは、この唄のもつ明るさは完全には表現できなかった。朝倉にかぎらず、古賀メロディーを論ずるほとんどの人が感傷性と大衆性(平易)だけに目をやり、古賀の咲き誇る花の香りともいうべき青春の躍動を見逃しているのである。戦後になると青春をテーマにした流行歌はつぎつぎと生まれてくる。特に石坂洋次郎原作『青い山脈』が映画化されその主題歌《青い山脈》(西條八十・作詞/服部良一・作曲)はその代表的なものである。そして、進学率の上昇とともに戦後の学園ソングの系譜を生み出すわけであるが、その先駆が古賀メロディーだったのである。《丘を越えて》は『酒は涙か溜息か』同様にまたたくまにミリオンセラーとなった。当時の蓄音機の台数が、樺太、台湾を含めて約二十万台といわれた時代に五十万から六十万枚レコードが売れたのだから、たとえ、「不均整なリズムにやすらぎのない焦躁が感じられる」(堀内敬三『音楽明治百年史』)「一見明るい、しかしいらだたしいリズム感をもって洋楽的行進をかなでだす」(園部三郎『演歌からジャズへの日本史』)と、クラシックの人たちからは酷評されたが、大衆の心に讚えるべき「青春」を刻み込んだことは間違いがない。だから、山田耕筰が古賀政男の《丘を越えて》のレコードをヨーロッパに赴いたさいに持って行き、誇らしげに聴かせたそうである。歌曲王山田耕筰は古賀メロディーの最大の理解者の一人であったのだ。藤山一郎は、この《丘を越えて》を吹き込むときは、前回の《酒は涙か溜息か》とはうって変わって、マイクから相当離れた位置で、しかもメリハリをつけて、あくまでもきれいにクリアーな声で、声量たっぷりと、しかし、声は溢れさせないように唄っている。藤山は、よく「声を蒐める 」と自分の声の共鳴のコントロールについて言っていたが、まるで、ステレオのボリュームを自由自在に調節するように共鳴を変化させることができるのである。さらに、ファルセットと実声の中間で音色をつくって発声するので透明感があるのである。そして、声を張るところではスピントをかける。軟口蓋の後ろから抜く場合と硬口蓋から直接鼻腔に抜くという二つの武器がある。 藤山一郎によって古賀政男の音楽芸術は開花した。その後の古賀政男の日本音楽界にあたえた功績は、彼の才能と努力の結果であり、二十世紀日本が生んだ偉大な作曲家である。昭和七年、古賀メロディーは流行する。《酒は涙か溜息か》同様に《影を慕いて》が一世を風靡した。まるで、梶井基次郎のつぎのような言葉は不気味な情念を響かせるかのように流行したのだ。

「櫻の木の下には屍體が埋まつてゐる!これは信じていいことなんだよ。何故つて、櫻の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことぢやないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だつた。しかしいま、やっとわかるときが來た。櫻の樹の下には屍體が埋まつてゐる。これは信じていいことだ」 

 昭和モダニズムの精神風景の記号は涙から未来を透視できない影に変わるのである。この時も、藤山はバリトンで声を張らずにテノールの音色をいかしたクルーン唱法で唄っている。藤山一郎という歌手は、まったく不思議な存在だ。昭和七年の暮れには東京音楽学校の定期演奏会でワーグナーの《ローエングリーン》を独唱している。高踏芸術の世界に身を置きながらえたいの知れない不吉な昭和の影を歌うのだからその音楽個性もユニークなのであろう。《影を慕いて》の歌詞には、「まぼろし」、「影」、「焦がれ」、「痛み」、「胸の火」、「はかなき」、「忍び泣く」、「ギター」、「時雨」、−−−感傷や影の慕情ともいうべきシンボルが殺し文句的にちりばめられている。己のロマンチシズムが崩れ、人生に絶望し自殺という自己の抹消を図った経験のある古賀政男の心情がわかる。また、<永遠に春見ぬ 我がさだめ 永ろうべきか 空蝉の はかなき影よ 我が恋よ>は、近代日本の未来の不確定性に映る影と滅びゆくものへの切ない思いを感じさせる。 昭和七年一月十五日は、藤山一郎の歌唱で《影を慕いて》の吹き込みがあった。春陽の死と藤山一郎による古賀メロディーの登場、《籠の鳥》と《影を慕いて》、何か因縁を感じる。《影を慕いて》は、春陽の《籠の鳥》と同様に三拍子のリズムだ。どちらも、そのリズムに哀歓が込められている。《籠の鳥》は、抑圧され、押し込められた民衆が閉塞状態から抜け出ようとし、その呻き声を洋楽の手法で演歌師の立場から作曲された。大正デモクラーの底流する民衆の呻き声を悲しくも寂しくも奏でている。そのメロディーは二〇世紀における流行歌の近代化でもある。それは大変意義のあることであった。なぜなら、街頭演歌師の立場からそれをやってのけたからだ。そして、昭和モダンを迎え、藤山一郎がホールの隅々までに響かせるメッツァヴォーチェによるクルーン唱法で古賀メロディーを歌唱したことも、やはり革命なのである。晋平節の《ゴンドラの唄》に始まり、《籠の鳥》から近代日本の透視できない影を象徴する《影を慕いて》へ、流行歌における二〇世紀の意味がわかるような気がする。(文筆・菊池清麿)

苦闘の時代―作曲家・古関裕而誕生

 

コロムビア入社

  

 昭和に入ると、街頭演歌師たち庶民の心を慰めた「流行り唄」の時代でなくなっていた。電気吹込みを完備した外資系レコード産業の成立によって、その仕組みが大きく変わっていたのである。路傍で流行っていた唄をレコード会社がレコードにするのではなく、レコード会社が企画・製作し宣伝によって、大衆に選択させるというシステムが誕生したのである。

昭和二年五月一〇月、株式会社日本ポリドール蓄音器会社が設立、日本で最初の輸入原盤をプレスした。同月、日本蓄音器商会は、技術提携を条件に英国コロムビアに三五・七パーセントの株式を譲渡した。昭和二年九月一三日、米国ビクター(ビクター・トーキング・マシン社)の全額出資によって、日本ビクター蓄音器株式会社が発足した。翌年の日本蓄音器商会は、英国資本に米国資本(昭和二年一〇月、日蓄の総株式の一一・七パーセントを米国コロムビアに譲渡)が加わって、日本コロムビア(商号・「日本コロンビア蓄音器株式会社」)が設立された。日本蓄音器商会は英米コロムビアと提携して新たな製造会社を発足させたのである。

昭和流行歌のヒット競争が日本ビクターの独走で開幕した。ビクターは西條八十、中山晋平を専属に迎え、赤盤芸術家藤原義江、「晋平節」と言われた中山晋平メロディーを世の中に広めた佐藤千夜子、ジャズ・ソングを歌い一世を風靡した二村定一を擁してつぎつぎとヒットの鉱脈を当てたのである。昭和三年・《波浮の港》、《青空》、《アラビアの唄》、昭和四年・《君恋し》、《東京行進曲》と昭和流行歌新時代の到来だった。コロムビアは関西の傍系会社で腕を奮う鳥取春陽の上京を促していたが、彼は関西から動こうとしなかった。

流行歌新時代を迎えた昭和だが、古関は流行歌には関心がなかった。彼にとっての音楽はクラシックだった。外資系レコード会社の成立によって、電気吹込みによるクラシックレコードが洪水のごとく輸入された。コロムビアの青盤、ビクターの青盤がふんだんに聴けたのである。また、ジャズなどの洋楽レコードも同様だった。

昭和に入ると楽壇の動きも俄かに活発になってきた。昭和三年二月一九日、日本青年館において、「国民交響管弦楽団」の第一回演奏会が開催された。ハイドン・《ト長調交響曲》シューベルト・《未完成交響曲》モーツァルト・《劇場支配人》が演奏されている。

昭和五年の秋、古関裕而は日本コロムビア専属作曲家となり、妻金子と共に上京した。古関夫妻は早速、日本楽檀の状況を耳にした。九月二六日、エフレム・ジンバリストの演奏会が帝劇で五日間にわたる独奏会が開催された。第一夜のブラームスの《二短調ソナタ》とベートーヴェンの《ニ長調》は好評だった。一一月二二日、井口基成がスクリアピンの作品を仁寿館で演奏し渡欧の置き土産となった。《作品二三番ソナタ》《悪魔の詩》《第九ソナタ》等への意欲的な取り組みが見られ,演奏としては申し分のない評価を得たのである。

古関夫妻は、上京するとまもなく、慶応大学に在学していた従兄の関係で、ヴォーカル・フォア合唱団に入った。この合唱団は、当時の新進声楽家、松平里子、平井美奈子、内田栄一、下八川圭祐らが主宰しており、放送オペラや演奏に活躍していた。妻金子の練習に古関も同伴していたので、彼自身もバスパートに入ることになったのである。

古関のコロムビア専属は山田耕筰の推薦によるものだが、出社通知と辞令はまだ手にしていなかった。古関は阿佐ヶ谷にある義姉の家に部屋を借りて住んでいた。三百円という多額の契約金を貰ったので、当面の生活の心配はなかったがとはいえ、コロムビアからは一行に音沙汰がないことが古関に猜疑心を生むような不安をあたえていた。

昭和五年といえば、昭和恐慌によって不景気のどん底で,街には失業者が溢れていた。古関は不安を抱えながら昭和六年を迎えた。昭和六年に入ってもビクターの勢い衰えず、コロムビアの劣勢は変わらなかった。昭和六年一月新譜の《女給の唄》は華やかな昭和モダンの「翳」ともいうべき女給の哀しき姿をテーマにした歌である。同月新譜には佐藤千夜子が吹込んだ古賀メロディー・《影を慕いて》が発売された。A面は《日本橋から》でマンドリンオーケストラ伴奏、B面・《影を慕いて》はギター歌曲だった。だが、レコードは売れなかった。コロムビアは作曲者の「古賀正男」に白羽の矢を立てた。そして、古賀政男を誕生させたのである。ということは、古関裕而と古賀政男はほぼ同時期にコロムビアの専属作曲家になったことになる。

 

 

紺碧の空

 

昭和六年二月二五日、日本青年館でヴァイオリンの名手モギレフスキーの演奏会が開かれた。演奏曲目はチャイコフスキー・《協奏曲二長調》、モーツァルト・《アダージョーホ長調》シューマン・《ファンタジー・作品七三ノ一》、ブラームス・《ハンガリア舞曲・ヘ短調》ドビュッシー・《小さな子羊飼》《ミンストレス》などがちりばめられ、好評を博したヴァイオリン独奏会だった。三月一日には、昨秋ベルリン郊外で不慮の死を遂げた故井上織子の音楽葬が日本青年館で行われた。新響の近衛文麿指揮でベートーヴェンの第三交響曲の《葬送行進曲》が演奏された。

昭和六年春、妻金子が帝国音楽学校に入学した。と同時に古関は音楽学校近くのに妻の通学の便を考えて世田谷代田に引っ越した。ちょうど、音楽学校には古関と同郷の伊藤久男がいて、下宿先も近かった。世田谷代田には福島県出身のテノール歌手平間文寿が声楽塾を主宰しており、伊藤はそこでも声楽を学んでいた。伊藤は下宿が近いこともあって古関の所にしょっちゅう来ていた。古関はコロムビアからいっこうに何もないので優鬱な日々を送っていたので、豪放磊落な伊藤の来訪は嬉しかった。

古関が悶々とした日々を送って頃、作曲家古関裕而を最初に知らしめることになる仕事の依頼が来た。それが、早稲田大の応援歌「紺碧の空」である。昭和六年春のリーグ戦を前にして、早稲田は打倒慶応大を果たすために新応援歌を作ろうとしていた。しかも、前年度は一勝もできなかった。早稲田としては、慶応の応援歌「若き血」に対抗できる新応援歌が是が非でもほしい。それは早稲田校友の願いでもあった。

 歌詞は応援団が全早大生から募集した。その中から、当時高等部に在籍していた住治男の作品が選ばれた。選者の一人である西條八十が絶賛するほどの詩だった。だが、「覇者、覇者、早稲田」の個所が作曲上難しいとされ、作曲者の選定を悩ますことになった。失敗の許されない大事な新応援歌である。そのため、中山晋平、山田耕筰ら大家でなければ作曲は難しいであろうという声が大勢を占めていた。

 早稲田応援団の幹部の一人、伊藤茂は当時、帝国音楽学校に通っていた伊藤久男のいとこであり、伊藤久男を通じて古関に新応援歌の作曲を依頼した。当時の古関は日本コロムビアの専属作曲家といえ、まだ、作品を書いていなかった。無名であり早稲田関係者の間では反対する声も多かった。

 伊藤茂は母校の命運を古関に託した。古関も引き受けたからには、「陸の王者」に負けない歌を作曲しなければならない。だが、早稲田の劣性を挽回(ばんかい)するような旋律がなかなか浮かばなかった。発表会の期日が迫ってくる。苦心の末、ようやく完成した。応援団関係者からは「少し難しすぎる」という声もあったが、古関は己のメロディーに自信を持っており、ほとんど手を加えず発表した。

 六年春のリーグ戦は慶応が早慶戦を前に優勝の有無にかかわらず、宿敵慶応を打倒しなければならない。胸部疾患で戦列を離脱したエース小川正太郎に代わってマウンドに登った伊藤正男の三連投や、二回戦で三原脩の勝ち越しを決めた劇的なホームスチールなどで、早稲田は三シーズンぶりに慶応から勝ち越し点を奪った。

 初夏の陽がさんさんと輝く神宮球場。早稲田側のスタンドから沸き起こる歓喜あふれだ「紺碧の空」の大合唱。学生は絶叫し勝利に酔いしれた。「紺碧の空」は早稲田の校友にとって青春を謳歌(おうか)する魂の躍動であり、忘れぬ青春の譜となったのである。

 

「福島行進曲」

 

昭和六年五月、ようやくコロムビアから古関の所へ二曲早急に作曲してくれとの依頼があった。古関はようやくコロムビアから仕事の依頼がきたことに安堵した。ところが、その作曲とは、流行歌だった。古関は躊躇した。古関の希望はクラシックの作曲家であるが、コロムビアは電気吹込みによる新しい流行歌の作曲を古関に期待していた。ロンドンのチェスター音楽出版社募集の作曲コンクールに舞踊組曲「竹取物語」ほか四曲を応募し入選し実績などまったく何の意味も成していなかったのである。つまり、会社としては、このぐらいの組曲を作れるなら、流行歌の作曲家として十分にやっていけるだろうとい考え方だった。

 昭和の流行歌は明治・大正時代の「流行り唄」を脱し、近代詩人たちが歌謡作家として腕を奮い、西洋音楽に精通した作曲家がその手法で旋律を作り、洋楽演奏家たちが歌唱する時代になっていた。コロムビアは、古関の音楽を認めていたからこそ、流行歌の作曲を依頼したのである。古関も契約時に貰った三百円もそろそろ底をつき始めたので、流行歌とはいえ、背に腹を変えるえることができなかった。

さて、古関は流行歌といっても、作曲したことがなかった。そこで、とりあえず、日本歌曲のつもりで作曲していた自作品を吹込みことにした。それが《福島行進曲》と《福島セレナーデ》である。発売は昭和六年七月新譜。ちょうど、古賀政男と藤山一郎の第一作の《キャンプ小唄》も同月に発売されている。古賀はコロムビアから専属作家としての打診を受けたとき、流行歌の作曲には自信がないことをのべて、社員入社を希望していた。

古賀社員希望であったことは、古関の自伝にもつぎのように記されている。

 

「私がコロムビア専属になった頃、古賀政男さんは既に社員として入社していた。ストップウォッチ片手に吹き込みの記録などを担当していた。私のレコーディングにも幾度か立ち会ってくれたこともある。時折、うす暗い地下食堂でお茶を飲みながらお互いに励まし合い、将来を夢みたものだった。彼は社員としてかたわら盛んに作曲もやっていた」(古関裕而『鐘よ 鳴り響け』)

 

古賀の社員入社は古関の記憶違いであろう。古賀は社員希望だったが、コロムビアからは強引に専属作曲家の契約を結ばされている。だが、古賀は作曲家としての自分に全く自信がなく、会社に毎日出社し社員の真似ごとをやっていたことは事実である。

古関と古賀はほぼ同期ということもあり、お互いを励まし合いながら地下食堂で語り合うことが多かった。古賀はこのとき自分の音楽の夢はギター・マンドリン、プレクトラム音楽の演奏家として身を立てることを語った。現に古賀は母校の明治大学のマンドリンオーケストラを指揮・指導していた。古関が古賀と将来の夢と抱負を語り讃え、励まし合っていたということは、古賀自身がまだコロムビア入社の頃、クラシックを志向していたことになるのではなかろうか。

古賀は「月二曲」という条件をのみ作曲家として恐る恐る仕事をしていた。だが、藤山一郎との出会いによって大きくその才能が開花して行くのである。

古関は故郷福島を愛してやまなかった。記念すべきデビュー曲は故郷に捧げるつもりで《福島行進曲》を選んだ。B面のやはり故郷福島をテーマにした《福島小夜曲》を選んだのだ。この曲は、昭和四年、福島で「竹下夢二展」が催された時作曲したものである。古関は絵画にも関心があったので、同会場を訪れた。竹下夢二が滞在中に書いたと思われる墨絵の福島の風景画とその下段に書かれた民謡調の歌謡に心を魅かれた。古関はこの詩画に深く感動し早速、全部ノートに写して帰宅した。そして、感興のおもむくまま楽想を練ったのである。

古関はレコードに吹込むうえで次の三編を選んだ。

 

遠い山河たずねて来たに吾妻しぐれて見えもせず

川をへだてた弁天山の松にことづてしてたもれ

信夫お山におびときかけりゃ松葉ちらしの伊達模様

 

弁天山は福島市を流れる阿武隈川を隔てて見える丘陵地である。信夫山は桜の名所で知られている。古関は、哀調のある民謡調の童歌的な歌曲に仕上げていた。

《福島行進曲》は天野喜久代、《福島小夜曲》は阿部秀子が歌った。天野は帝劇出身のオペラ歌手だが、ジャズ・ソングを二村定一と一緒に歌っていたので、流行歌には馴染みがあったが、阿部秀子の方はクラシックの声楽家で、言葉が不明瞭で歌唱力に難があった。福島では竹下夢二愛好家が比較的多いので、《福島小夜曲》の方が地元では歌われた。だが、流行歌、いわゆるレコード歌謡としてのヒットというわけではなかった。クラシックの作曲を自負している古関はむしろ、流行歌で声価が決定しなかったことに内心ではホッとしていた。

 

日米野球行進曲

 昭和六年九月二二日、古関夫妻が所属するヴァーカル・フォアのソリストとしてオペラ、演奏に活躍した松平里子がイタリアのミラノにて急逝した。九月二九日、ドイツに留学していたテノールの奥田良三が帰朝して独唱会を開いた。奥田はすでに鈴野雪夫、植森たかをという名前でビクター、コロムビアで流行歌を吹込んでおり、ポピュラー音楽にも熱い眼差しを向けていた。

昭和六年十月一日、古関裕而は正式に日本コロムビア専属作曲家になった。コロムビアから朗報の通知を受けてからおよそ一年が過ぎていた。八月新譜で古関裕而のユニークな新民謡・《平右衛(ヱ)門》が発売された。北原白秋の飄逸な詩想は卑俗な世界をユモーラスに描いたものだった。古関は、奇抜な作曲法で楽想を深め、歌手・藤山一郎も格調を徹底的に捨て去り、白秋の卑俗な野調をくんだ俗謡的なユーモラスな歌唱だった。このレコードを聴いたかぎりでは、あのクラシックの殿堂・官立「上野」(東京音楽学校・現芸大)が期待する音楽学校生・増永丈夫が歌っているとは思わなかったであろう。古関は慶応普通部(現慶応高校)から東京音楽学校というクラシックのエリートがなぜレコードに流行歌を吹込むのか不思議だった。

幼少のころから、山田源一郎、弘田龍太郎、山田耕筰、梁田貞ら日本の近代音楽の巨匠らに師事し英才教育を受けたこの青年が何故に流行歌を歌うのか、古関は解せなかった。しかも、「上野」では、声楽を船橋栄吉、音楽理論・指揮法をクラウス・プリングスハイムに師事し、来年にはベルリン国立歌劇場の音楽監督を務めたヴーハー・ペーニッヒがこの増永丈夫のために招聘されることなのだ。

聞くところによると、昭和の恐慌で傾いた生家の借財返済に少しでも役立てようということらしい。ところが、音楽学校は校則で学校以外での演奏を禁止していた。卒業後に流行歌を歌うことは、すでに、徳山l、四家文子、関種子ら「上野」出身らの声楽家が流行歌手として歌っているので問題にならないが、在校中はまずかった。発覚すれば厳しい処分がまっていた。そこで、素性を隠すために芸名藤山一郎が生まれたのである。

古関はとにかく藤山一郎の歌で《山の唄》《輝く吾等の行く手》を吹込んだ。スポーツ映画の主題歌として作られた行進曲風の歌だった。古関も藤山も吹込み料さえ貰えれば文句ないので、歌がヒットすることなど全く考えていなかった。

古関は《紺碧の空》の作曲以来、野球との結びつきを深めてゆく。昭和六年十一月、読売新聞社は大リーグの選抜リーグを招いた。このときのメンバーはすごかった。アメリカリーグが誇るグローブ、首位打者・シモンズ、名捕手・カクレーンらフィラルフィアのアスレチックスを中心に、ヤンキーのルー・ゲーリッグ、ドジャーズのオドゥールらそうそうたるメンバーだった。日本はプロ野球が発足する前であるから東京大学のチームが中心となって対戦したのだ。

 日本コロムビアは読売新聞社とタイアップし、大リーグチームを歓迎するという意味もあり大会歌を作ることになった。作詞は久米正雄、作曲に古関裕而が起用された。当時、古関は「福島行進曲」「福島小夜曲」の作曲以来、大衆歌の作曲家として歩み始めていた。大リーグの一流選手の打球のすごさ、投げるボールのスピード感をメロディチームは込まなければならない。歌詞には「野末の走る稲妻」「まこと章葉」など、洗練された高度な大リーグ野球にそぐわない言葉もあり、古関は苦労した。古関は実際にアメリカのスタープレーヤーたちを見たことがない。想像力を駆使して作曲するほかなかったのである。

 六年十一月二日、アメリカ選抜チームの歓迎会が日比谷公会堂で開催された。そして、古関が作曲した「日米野球行進曲」披露された。オーケストラの指揮は古関が担当することになった。古関は自伝に次のようなことを記している。「この歌を新交響楽団の伴奏で、大合唱団が合唱することに決まった。伴奏は私自身が三管編成のシンフォニーオーケストラに書きおろし、私が指揮をすることになった。」(鐘よ鳴り響け)。日比谷公会堂には四千人のファンが集まった。古関はそのような大観衆を前に音楽の殿堂・日比谷公会堂で指揮をしたのである。

さて、試合だが、日本チームは十七戦全敗に終わった。だが、早稲田が八回まで五−〇とリードする試合などもあり、日本の野球ファンを十分に熱狂させたのである。当時、古関が作曲した「紺碧の空」で意気上がる早稲田・伊達選手の好投が光った試合だった。日米野球はその後も全慶応が〇−二と惜敗するなど、興行は大成功に終わった。「日米野球行進曲」もその成功に大いに貢献したのである。

無事、日比谷公会堂での大役を終えて、ホッとしていた古関裕而に衝撃が走った。古賀政男がヒットの鉱脈をあてたのである。《酒は涙か溜息か》が一世を風靡したのである。歌唱者は藤山一郎。正統な声楽技術を解釈して、メッツァヴォーチェの美しい響き効果的にマクロフォンに乗せたクルー唱法で古賀政男のギターの魅力を伝えたのである。つづいて、藤山一郎が豊かな声量で高らかに歌いあげた《丘を越えて》が大ヒット。日本の流行歌は古賀メロディー一色に塗りつぶされたかのようであった。

古賀メロディーが一世を風靡すると、社内では古関への風当たりが強くなってきた。古関にしてみれば、その理由が分からなかった。コロムビアは古賀政男と古関裕而を天秤にかけていたのだ。藤山一郎と二人(古賀・古関)を組ませ、どちらがビクターの勢いを止めコロムビアの巻き返しができる曲をつくるのか、実は競争させていたのである。コロムビアがこんな思惑で古関に仕事を依頼していたとは、古関は知るよしもなかった。歌手の藤山一郎は素性を隠した覆面の謎の歌手であり、そのような歌手が歌ってヒットするはずがない。それを考えれば、東京音楽学校のエリートを本気にさせた点において、古賀は古関よりも非常に幸運だったといえよう。だが、古賀政男にもブレーキがかかった。《酒は涙か溜息か》のレコードがあまりにも売れすぎて、歌っている藤山一郎が東京音楽学校声楽科に在籍する学生であることが発覚して問題になり、藤山はレコード界から去ることになったからである。これが有名な「藤山一郎音楽学校停学事件」である。これは古賀にとって痛かった。

 

「新鋭作曲家の登場」

 

昭和七年、古賀政男・藤山一郎による《影を慕いて》が巷では流行っていた。、世相は満州事変の翌年であり、井上準之助、団琢磨が凶漢の手にかかり(血盟団事件)、神奈川県の大磯の心中事件とその後の猟奇事件で有名な「坂田山心中」、この「坂田山心中」の騒動のさなか、「問答無用」の一言で時の総理大臣犬養毅が青年将校に暗殺される「五・一五事件」がおきるなど血なまぐさい不安な時代を象徴していた。このように不気味な「翳」が日本を覆い尽くしいていた頃、古関裕而は苦闘の時代を迎えていた。

昭和七年三月、満洲国が建国された。古関はそれに合わすかのように《満州征旅の歌》(西岡水朗・作詞/古関裕而・作曲)《我等の満州》(高橋掬太郎・作詞/古関裕而・作曲)を作曲した。古関はロシア民謡が好きだった。雄大な大陸から感じる異国情緒に魅了されていたのだ。満州を舞台にしたこの歌の歌唱はいずれもバリトン歌手の内田栄一。古関は内田とはヴォーカル・フォアで親交があった。この頃から菅原明朗との付き合いも始まった。

昭和七年四月二九日から四日間にわたって、フランス女流ヴァイオリニスト・ルネ・シューメが東京劇場で独奏会を開いた。さらに五月三一日、日比谷公会堂で告別演奏会を催し、彼女自ら編曲し宮城道雄・作曲《春の海》を演奏した。同ステージでは作曲者の宮城道雄との共演も見られ聴衆に感銘を与えた。それより、二日前であるが、妻金子が敬愛する三浦環が一二年ぶりに帰朝しており、東京劇場で独唱会を催した。六月一一日、フランスから留学を終えて帰国していた荻野綾子が朝日講堂で演奏会を開き、同じく渡仏していた佐藤美子が日比谷公会堂で独唱会を開いている。音楽学校で声楽を学び声楽歌を目指している金子にとって、日本声楽界の動向は大きな刺激になっていた。

流行歌では、昭和七年の初夏、《天国に結ぶ恋》(柳水巴・作詞/林純平・作曲)が流行した。神奈川県の大磯の心中事件とその後の猟奇事件で有名な「坂田山心中」を題材にした時事歌謡である。慶応の学生・調所五郎と静岡の素封家の娘・湯山八重子は親の反対にあって結ばれず、二人は自殺した。それを悲しんでの心中だった。とはいえ、昭和モダンの「翳」が目立ち始めた頃、《天国に結ぶ恋》は徳山lと四家文子の歌唱で哀歌として世に広まったのである。藤山一郎無しの古賀メロディーは劣勢である。そこにビクターには新鋭佐々木俊一という作曲家が現われたのである。
 佐々木俊一は古関と同じ福島県出身である。ビクターではバンドマンとして仕事をしていた。オーケストラの一員でありながら、仕事が終わった後、夜遅くまでピアノに向かい作曲をしていた。その努力が実り、《涙の渡り鳥》が誕生した。レコードは小林千代子の歌で、昭和七年一〇月に新譜発売された。藤山一郎の古賀メロディーで形成を逆転させたコロムビアを追う立場になっていたビクターにとって、願ってもないヒットだった。小林千代子は、佐々木俊一と同じ東洋音楽学校(現東京音楽大学)出身の歌手。金色仮面という覆面歌手として話題を呼んでいたが、このときは覆面をすでに脱いでいた。
 昭和七年の晩秋、《忘られぬ花》というロマッチックな抒情歌謡がポリドールから発売された。江口夜詩という新しい作曲家が歌謡界で注目されたのである。《忘られぬ花》は江口自身、亡き妻を思いピアノの鍵盤を涙で濡らしながら作曲したと言われている。江口は古賀政男の《酒は涙か溜息か》を意識して作曲した。当然伴奏にもギターが使用されていた。歌手は新人の池上利夫。西岡水朗の抒情詩に甘美なメロディーをつけた江口夜詩の新しいギター曲と新しい歌手の登場だった。
 江口は《忘られぬ花》を最初コロムビアに持ち込んだ。だが、コロムビアの文芸部は売れないと判断し、問題にしなかった。それがポリドールに持ち込まれてヒットしたのだから、コロムビアは驚きの色を隠せなかったのである。社内での責任追及も相当厳しかったそうだ。 

《忘られぬ花》のヒットによって、作曲者の江口夜詩が注目された。江口夜詩は、本名江口源吾。明治三六年生まれ。一六歳のとき海軍軍楽隊に入った。海軍省委託生として東京音楽学校に学んだ。昭和三年には、昭和天皇即位大典演奏会で吹奏楽大序曲《挙国の歓喜》を発表した。昭和六年五月、海軍を除隊してポリドールの専属で活動したが、その後、フリーの立場をとりながら、各レコード会社で流行歌の作曲をしていた。

佐々木俊一、江口夜詩が台頭し始めた頃、古関はコロムビアでの仕事が減ってきていた。だが、現状に満足していた。自分はクラシックの作曲家だとういう自負が強く、《紺碧の空》の作曲で名を轟かせ、《日米野球行進曲》では日比谷公会堂で指揮を振るなど、音楽家としての地歩を着実に築いていると思っていた。その頃、ハーモニカの大御所宮田東峰(コロムビア専属)から、「ミヤタ・バンド」の指揮を依頼された。このバンドはハーモニカのオーケストラとしては日本最高峰であり、古関はクラシック作品が演奏できると思い、喜んで引き受けた。

当時、ハーモニカ・バンドは、行進曲が中心だったが、古関はそのレパートリーや演奏形式を一変させた。ドビュッシー、ラベル、ストラビンスキーなどの楽曲をちりばめた。同オーケストラの上原秋雄の独奏をいかし、メンデルスゾーン、ベートーヴェンの《ヴァイオリン・コンチェルト》を演奏した。古関が指揮するようになってから、「ミヤタ・バンド」は斬新なハーモニカオーケストラとして注目を浴びるようになったのである。古賀政男が明治大学のマンドリンクラブを指揮するなら、自分はハーモニカオーケストラを指揮しクラシックのスタンスをあくまでとろうとした。
 ギター曲が流行歌の主役になり始めた頃、古関もギター曲に挑戦している。《山のあけくれ》のB面《時雨の頃》(松坂直美・作詞/古関裕而・作曲)がそうである。歌唱は美貌のソプラノ歌手の関種子。東京音楽学校出身の才媛である。古関は声楽家が自分の作品を歌ってくれることに満足だった。

この曲の伴奏のギター演奏は古賀政男である。古関は古賀のギター演奏のテクニックに驚いた。古関が師事している菅原明朗は古賀政男のギターを認めようとしていなかったが、古賀はギター・マンドリン演奏家としても一流なのである。だが、《時雨の頃》のレコードは妻金子が憧れる関種子の歌唱と古賀のギター演奏にもかかわらずヒットしなかった。

 一方、佐々木俊一は、昭和七「年の暮れ、さらに《島の娘》という大ホームランを放った。作詞は長田幹彦。小唄勝太郎が一躍大スターの座についた。絹糸のような細い美声で歌う日本調歌手の登場である。ライバルの市丸(ビクター専属)と共に日本情緒艶やかな歌声で多くの歌謡ファンを魅了したのである。
 歌詞の中に登場する〈ハァー〉が女心をやるせなく燃え上がらせた。この頃、女子学生の私通事件が持ち上がり新聞紙上を騒がせていた。私通とは夫婦でない男女の恋愛を意味するが、現代なら問題になることはないが、当時は女子学生の恋愛にいろいろとうるさかった。歌詞について内務省からお叱りが出た。「恋心」を「紅だすき」に替えられた。だが、〈人目忍んで、主と一夜の仇なさけ〉はなぜかクレームがなかった。それでも、さすがに太平洋戦争が激しくなると、全く違う歌詞に替えられた。とにかく、佐々木俊一はビクターの新たなヒットメーカーになり、同時に小唄勝太郎神話が出来上がった。ビクターは藤山一郎が歌謡界から去っているあいだに巻き返しを図ったのである。 


 コロムビアは古賀政男に続くヒットメーカーとして、新たな作曲家を必要としていた。ライバルビクターは大御所中山晋平と新鋭の佐々木俊一の両輪で打倒古賀メロディーを図っていた。コロムビアは、江口夜詩を専属に招こうと動いた。コロムビアは古賀政男と競わせようということなのだ。実をいうと、コロムビア内部では、ギター・マンドリンの古賀政男とハーモニカの古関裕而とは勝負はついていたのだ。ところが、古関は将来の夢を語り励まし合っていた古賀政男と天秤にかけられていたなどつゆも知らなかった。自分は流行歌の作曲家ではなくクラシックの作曲家として迎えられていたと思っていたからだ。

昭和七年一二月二七日、早速、《浮草の唄》という江口夜詩の曲がコロムビアで吹込まれた。昭和八年二月、江口夜詩はコロムビアに正式入社。江口夜詩は、コロムビア専属作曲家として同専属作曲家古賀政男と激しい競争を展開するのである。古関裕而の二月新譜は《国立公園日本アルプス行進曲》(本山卓・作詞/古関裕而・作曲)だった。また、二月新譜の中には松竹映画・『限りなき舗道』の主題歌・《限りなき舗道》(佐藤惣之助・作詞/古関裕而・作曲)《街の唄》(北村公松・作詞/古関裕而・作曲)はヒットしなかった。

江口の入社以来、古関への風当たりもますます強くなっていた。古関の場合は、古賀のような作曲上のスランプからくるものではなかった。だが、古関はクラシックの作曲であるという自負を曲げることがなく、社内の風当たりなどいっこうに気にしない様子だった。菅原明朗の下でリムスキー・コルサコフの音楽理論の勉強も怠らなった。妻は声楽の勉強に励み、自分は音楽理論の本格的理論研究に没頭する日々を送っていたのだ。だが、古関は厳しい局面に直面した。それは突然、コロムビアが古関と契約をしないということを通告してきたのである。コロムビアは江口夜詩の入社によって、もはや古関裕而は必要ないと判断したのである。古関にとってこれは寝耳に水であった。専属契約打ち切り理由が分からなかった。このとき、古関はようやく自分の立場が理解できたのである。専属になって、二年目、ヒットが出ないようではもはや存在する意味がないのである。古関は自分に求められているのは、クラシックの作曲家ではなく、あくまでの流行歌の作曲家であることがようやく理解できたのである。古関は愕然とした。そのとき、古関はなぜ、古賀政男が社員入社にあれほどまでに拘っていたのかが分かったのである。

苦しい立場に立たされた古関を救ったのは古賀政男だった。古賀は文芸部長の和田登を通じて会社の重役に古関解雇の件を直訴した。古関のようなクラシック音楽を基調にした芸術家肌の作曲家をヒットの損得で判断してはならいと訴えたのである。それは古賀自身のことでもあった。もし、古賀が古関を擁護しなかったならば、古関はコロムビアに入れなかったであろう。コロムビアは、同社のヒットメーカーである古賀政男の主張を聞き入れた。

古賀は「芸術家はスランプがつきもの」という発言をしたが、このような言葉をのべることは古賀自身も流行歌・レコード歌謡のヒットメーカーという意識よりも、芸術家・音楽家というそれの意識が強かったと思われる。古賀も一世風靡したヒットを得たのもたまたまアルバイトの素性を隠した覆面歌手・藤山一郎が歌ったからであることを十分に知っていた。

さて、話題の藤山一郎(増永丈夫)が昭和八年年三月、東京音楽学校声楽科を首席で卒業した。昭和七年の暮れ、クラウス・プリングスハイム指揮の《ローエングリン》の独唱(日比谷公会堂)では、マリアトール、ヴーハー・ペーニッヒら外国人歌手に伍して豊かな将来性を示した。卒業演奏ではパリアッチのアリアを独唱し「上野最大の傑作」の賛辞を得た。そして、改めて誰憚ることなくビクターと専属契約を結び、世に定着した「テナー藤山一郎」と「声楽家増永丈夫」をスタートさせたのである。

 藤山一郎のビクター入社は古賀政男を中心としたコロムビアにとって大きな痛手だった。なぜなら、日独親善をかねてのドイツのハーゲン・べックサーカス団の来日宣伝のために作った《サーカスの唄》の歌手に藤山を予定していたからだ。また、当然、藤山チオ江口のコンビも予定していた。なぜなら、藤山はニットーレコードで「藤井竜男」の変名で江口夜詩の作品を吹込んでいた。藤山がコロムビアに来れば、当然、江口夜詩とコンビを組んだであろう。また、古関にとっても藤山一郎は、待ち望んでいた歌手である。古関は藤山のレジェッロなテノールの音色を生かした爽やかな歌唱で軽快なマーチ風の曲を考えていたからだ。しかも、藤山は音楽理論をあの高名なクラウス・プリングハイムに師事していたので、古関は藤山から学ぶべきところが多かった。

《サーカスの唄》に藤山一郎が使えないとなると、それに代わる男性歌手が必要になった。中野忠晴のような外国系のポピュラー歌手では、古賀の哀愁に満ちたセチメンタルの表現が難しい。古関は中野の歌で地元歌、行進曲を吹込んでいた。一〇月新譜発売の《八戸行進曲》(谷草二・作詞/古関裕而・作曲)は東奥日報懸賞当選歌だったので、地元では好評だった。だが、中野のバリトンは重く流行歌には不向きだった。コロムビアの文芸部は上野の音楽学校の学生を古賀政男と西條八十の前に連れて来た。この青年は、藤山がニットーレコードに紹介した福田青年である。コロムビアに来た頃、福田は、まだ音楽学校をやめるかどうか煩悶中だった。ポリドールで吹込んだ《忘られぬ花》がヒットし、学校当局に目をつけられ始めていた。しかも、音楽学校の女生徒との恋愛問題の噂もあり、学校に入れる状況ではなかった。
 福田青年は松平晃という芸名を名乗った。昭和八年の三月新譜の松竹映画『椿姫』の主題歌《かなしき夜》を吹込み、コロムビアからデビューした。コロムビアは、ビクター専属テナー藤山一郎の対抗馬として、コロムビアは、新鋭・松平晃を歌謡界に登場させたのである。新たな青春歌手の登場だった。

古関は、専属契約打ち切りという最悪の危機は脱していが、ご当地ソングの行進曲、市民歌など、いわゆる、ヒット競争とは無縁の仕事すらも無くなっていた。五月新譜の古関メロディーは僅か《外務省警察歌》(岩崎栄蔵・作詞/古関裕而・作曲)だけだった。六月新譜は《春のうたげ》(野村俊夫・作詞/古関裕而・作曲)《青森市民歌》岩村芳麿・作詞/古関裕而・作曲)の二曲、《青森市民歌》はAB両面なので、結局古関メロディーの六月新譜発売レコードはたった二枚だけだった。七月新譜発売は《五色旗の下に》(島田芳文・作詞/古関裕而・作曲)と《萬里の長城》(島田芳文・作詞・古関裕而・作曲)はAB面にカップリングだから、七月の新譜発売レコードはたた一枚しか発売されなかった。《萬里の長城》では初めて松平晃とコンビを組んだ。だが、ヒットには程遠かった。

コロムビア社内における江口メロディーと古賀メロディーの競争は熾烈な戦いだった。だが、古賀政男は藤山一郎を失いスランプに陥ることになる。古賀メロディーで一世風靡した古賀政男でさえ、ヒットがなければ、厳しい状況を迎えることは時間の問題であった。  

昭和八年六月、日本クラシック界はクラウス・プリングスハイムと近衛秀麿のベートーヴェンの《第九》の競演が大きな話題だった。東京音楽学校のオーケストラを指揮するクラウス・プリングハイムと新響を率いる近衛との対決だったのである。六月一八日、日比谷公会堂でクラウス・プリングスハイムの指揮で颯爽と第四楽章のバリトンの逞しいソロを響かせたのが期待の新鋭増永丈夫だった。まるで、響きが体から離れるような眼の前に飛んでくる感じでホールの隅々まで響き、聴衆に感銘を与えたのである。当夜の聴衆は、テノールのような美しい音色を持つバリトン歌手がまさか古賀メロディーのギター曲の魅力を伝えた流行歌手テナー藤山一郎とは信じられなかった。古関も同様だった。だが、

 

 

昭和八年九月新譜の《東京祭》(門田ゆたか・作詞/古賀政男・作曲)は、《東京音頭》の前に敗れた。人気上昇中の松平晃が歌ったにもかかわらず、中山晋平−西條八十コンビの《東京音頭》の前に消されてしまった。古賀としては自信作のはずだったが、《東京音頭》の歌唱者に小唄勝太郎が名前を連ねれば、申し分がなかった。

古賀は、このレコードが発売された頃、肺結核の初期症状にかかっていた。昭和八年八月二一日、神田杏雲堂病院に入院した。中村千代子との結婚生活の行き詰まり、また、《東京祭》の敗北、藤山一郎無しでの各社レコード会社とのヒット競争、同じコロムビアでの江口夜詩とのライバル関係等々。古賀は追い詰められていたのだ。ここに天才作曲家古賀政男の知られざる苦悩があったのである。完全なスランプだった。

その頃、藤山一郎は、古賀メロディーとは無縁な世界にいた。そして、バリトン増永丈夫としてラジオ放送に登場する。1933(昭和8)年9月20日「世界民謡しらべ」というNHKラジオ番組で、ベートーヴェン編曲のアイルランド、ウエールズ、スコットランドの民謡が特集された。藤山は本名の増永丈夫でバリトン独唱した。

昭和八年一〇月九日、古賀は正式に離婚した。古賀の結婚はあきらかに失敗であった。古賀はそのような古関夫妻の姿を理想に東洋音楽学校出の中村千代子という女性と結婚したはずだったが、音楽を基本にした夫婦生活を営むことができなかった。

中村千代子という女性は、最初から古賀の地位と名声だけを求めていた。古賀自身も彼女に恋い焦がれて結婚したというわけではなかった。古賀は、この時期精神的に苦境に立たされていた。同月新譜の《はてなき旅》(西條八十・作詞/古賀政男・作曲)は当時の古賀の心境に一致する。スランプ状態を暗示しているのだ。

古賀が離婚した一〇月九日、日比谷公会堂で『藤山一郎と増永丈夫の会』が開かれた。一部ではドイツリート,オペラのアリアを独唱。ヴェルディーの《椿姫》では増永丈夫(藤山一郎)がヂ(ジ)ェルモン(父役=バリトン)をヴィオレッタは美貌のソプラノ歌手中村淑子が演じた。声量豊かな美しい響きのバリトンは聴衆に感銘をあたえた。第二部ではマクロフォンを効果的にいかしたクルーン唱法で流行歌を歌った。そして、第三部はミュージカルショーを演出したのである。藤山は古賀政男とは全く無縁の世界にいた。
 昭和八年の晩秋から九年の四月まで、古賀政男は病気回復と精神的傷を癒すために伊東の温泉で静養した。当然、その間の作曲活動は中断である。とにかく体を休めたかった。古賀は浴槽のなかで静かに傷を癒していた。古賀が雲隠れした後、古関は矢面に一人立たされていた。コロムビアにとってはヒットの鉱脈を当てることができない作曲家は必要ないのである。

昭和八年一一月新譜の《をどり踊れば》(久保田宵二・作詞/古関裕而・作曲)で同郷の伊藤久男と初めてコンビを組んだ。伊藤久男はリガールから「宮本一夫」の名前でデビューしていたが、九月新譜の《ニセコスキー小唄》で「伊藤久男」としてコロムビアからメジャーレーベルのデビューを果たしていた。伊藤もこの頃はまだ、オペラ歌手を目指していた。バリトンだが、テノールの音域も出る。流行歌のテナー歌手にあるか、オペラのバリトン歌手を目指すのかまだはっきりとしていなかった。古関は伊藤のためにドラマティックな叙情歌を作曲したかったが、コロンビアの企画は二人の個性とは全く違うものであった。
 昭和九年一月新譜で古関メロディーの流行歌、三曲が発売された。その中の一曲を歌った歌手に荘司史郎という歌手がいた。この歌手はキング・ポリドール専属の東海林太郎である。東海林太郎はコロムビアで変名を使って数曲吹込んでいる。

古関は東海林がクラシックの声楽家を熱望していたことを知っていた。その夢を実現するために、東海林は満鉄を辞したのである。音楽学校を出ていないということもあり、売り込み先のレコード会社からは門前払いを食らっていた。ところが、時事新報社主催の音楽コンクールの声楽部門で入賞すると、レコード会社の態度も急変したのだ。コロムビアもその一つだった。

東海林太郎はすでにキングとポリドールの両方の専属になっていたので、コロムビアでは変名を使って吹込んだ。東海林は声楽家ではなく流行歌手としてレコードを吹込まざる得ない状況に落胆していた。それは古関も同じ心境だった。詩人が歌謡作家になり、クラシックの技法・洋楽の手法で作曲され、洋楽演奏家が流行歌を歌う新時代とはいえ、それはトップレベルの話であり、まだまだ、演歌師が奏でる「流行り唄」の名残りは十分にあった。

東海林太郎が変名・「荘司史郎」で歌った古関作品が発売されてから、まもなく二月新譜の《赤城の子守唄》(佐藤惣之助・作詞/竹岡信幸・作曲)で東海林太郎は一躍スターダムに押し上げられた。これは発売元のポリドールも全く予想外だった。民謡風とはいえ、股旅という「ヤクザ」をテーマにしたレコード歌謡は哀調溢れる艶歌調を濃くした分、浪花節愛好家の心情にマッチした。

アルバイトで歌った藤山一郎は別として、松平晃、東海林太郎が歌ってヒットしないとなれば、古関メロディーではヒットの鉱脈を当てることはできないという判断が生まれてもおかしくはなかった。古関はクラシックに固執するかぎり、ヒットは望めないことは分かっていたが、頭では認識できてもいざ曲を作るとなるとなかなか思うようにできなかったのである。ヒットを出せば「晋平節の亜流」という批判もクラシック側からの批判を被りかねない。そう思うと「流行り唄」と言われる俗謡のなかに宿る享楽頽廃性を帯びたセンチメンタリズムをうっかり旋律に込めることができなかった。
 歌謡界は、《赤城の子守唄》を歌う東海林太郎ブーム一色となった。古関は解雇通告に怯えながら不安な日々を送っていた。そこへ、古関にとっては衝撃的なニュースが伝わった。それは、古賀政男が正式にコロムビアを辞めるというニュースだった。古賀はテイチク移籍をめぐってコロムビアと係争中だった。だが、結局、コロムビアは折れた。古賀のテイチクへの移籍を認めたのだ。

昭和九年五月一五日、テイチクの東京文芸部が古賀政男を中心に発足した。そうなると、コロムビアはポリドールの東海林太郎旋風を含めて新興勢力に対抗するために一人でも作曲家が必要だった。古関裕而の残留は決定したのである。そして、コロムビアは古関に流行歌のヒット作品を作ることを要求したのである。古関は悩んだ。だが、ここでヒットを出さないと今度は本当に専属打ち切りということになりかねないことも確かなのだ。

 

利根の舟唄

 

古関裕而は、コロムビア専属作曲家となって以来、初めて流行歌の作曲に本格的に苦しんだ。なぜなら、ヒットを意識したからである。もし、ヒット曲を書けなければ、もはやコロムビア専属にいることはできない。専属打ち切り解雇通告は決定的だ。苦闘の日々が続いていた。レコード歌謡においてヒット曲は至上命令である。だが、彼のクラシック的な作風は民衆歌謡特有のセンチメンタリズムをもとめられる流行歌にいまひとつ馴染(なじ)めなかったのである。西洋音楽の技法によって日本人の心情を表現するためには、ある程度は日本人の伝統的な肌合いは必要だ。邦楽的技巧表現ともいえる微妙な節回しは洋楽の記譜法では表現することはほぼ不可能である。西洋音楽は「十二平均律」による記譜法であるから、洋楽音符で示されるレガートなメロディーラインのなかに「微妙な音」の到底表現が不可能なのである。

 古関はメロディーの源泉を民謡に求めた。短音階を用いた「晋平節の亜流」という批判にならないにように頽廃的哀調を避ける意味でも、都会化され以前の純粋な民謡にメロディーのそれを求めたのである。

古関は作詞家の高橋掬太郎と一緒にヒット作品の素材を求めて水郷で有名な茨城県の潮来へ赴いた。土浦から古びた一銭蒸気に乗った日帰りの小旅行である。潮来はひっそりとした寂しい町であった。二人は舟を雇って出島、十二橋と水郷の風景を隅々まで見回った。

 高橋は純農村地帯の素朴な風景からインスピレーションが湧いたらしく、甘い「利根の朝露櫓柄(ろづか)がぬれる。恋の潮来は 恋の 恋の潮来は身もぬれる」という抒情詩を練り上げた。古関は、春の潮来から黄昏(たそがれ)に近い安芸の利根川の流れに浮かぶ小舟を想像した。「あのひっそりとした潮来や静かな木々の影を映す狭い水路を思い浮かべると、私にはすぐにメロディーが浮かんだ」(古関著「鐘よ鳴り響け」)。

 日本の流行歌には「マドロスもの」というジャングルがあるが、源流は「潮来もの」と呼ばれる水郷での生活である。古関は、水郷生活の風景をテーマに「さすらい」という漂泊の感情を旋律に込めたのである。

 編曲は奥山貞吉が担当することになった。古関は間奏に潮来の地方色を出すために尺八を使うことを指定し、コロムビアのオーケストラの演奏に川本晴朗を七孔尺八が入った。コロンビアの人気歌手松平晃が「利根の舟唄」を歌うことになり、九月八日新譜で発売された。コロムビアのドル箱江口夜詩のメロディーの大一人者・松平晃が歌ってヒットしなかたら、もはや古関はコロムビアでは不要となるのだ。《利根の舟唄》は松平晃の甘いバリトンが虚無的な頽廃を抑制したくれたおかげで好評だった。ようやく、古関の流行歌における最初のヒット曲が誕生した。

 B面はミス・コロムビアが歌う《河原すすき》(高橋掬太郎・作詞/古関裕而・作曲)。《利根の舟唄》とともに大正期の「船頭小唄」の系譜に位置づけられるものであり、古関メロディーの知られざる名曲である。

 

都市対抗野球行進曲

 

《利根の舟唄》が新譜発売された翌月、古関裕而の野球をテーマにした歌が発売された。これも神宮に轟く《紺碧の空》の実績を買われてのことだった。だが、古関はここでも悩んだ。会社の意向は一般の人が歌える平易な楽想をという要求だったからである。あまりにもクラシック的なマーチだと、一般の人にはなじめないということなだ。古関はこのとき藤山一郎がいればと思った。藤山が歌えば、格調高いマーチでも一般にも十分に刷り込める自信があった。

戦前、夏の風物詩は甲子園の中等野球であったが、神宮球場ではもう一つ熱戦が繰り広げられていた。それが今日でも社会人野球の頂点として開催されている都市対抗野球大会である。

 都市対抗野球大会は昭和二年にスタートした。橋戸信一の発案で、各都市の代表するクラブチームが競う大会として開催された。戦後、都市対抗野球は企業チームが中心となり、隆盛を極め日本経済の発展とともに歩んだのである。戦前のチームで最も人気があったのは、東京倶楽部だった。東京六大学出身のスタープレーヤーを集めた日本一のクラブチームである。ことに昭和五、六年、宮武三郎(慶応大卒。後に阪急)の投打にわたる活躍で二連覇を達成していた。七年には全神戸に不覚を取り一回戦で敗退したが、翌八年には再び優勝の栄光に輝いた。都市対抗野球大会の人気は甲子園の中等野球、東京六大学野球と並んで頂点に立ったのである。

 昭和九年は全大阪が戦力を充実させ優勝候補に挙げられ、常勝東京倶楽部との東西対決が話題だった。そこで、大会を盛り上げるために、都市対抗野球大会の歌が企画された。歌詞は「東京日日新聞」の懸賞募集で小島茂蔵の作品が当選し、古関が作曲を受けた。そして、レコードは「都市対抗野球行進歌」として、日本コロムビアから発売されたのである。

 ジャズ・ソングで売り出し中の中野忠晴が歌った。古関は旋律を明るい前奏で始まる雄大な楽想に仕上げている。編曲は奥山貞吉が担当し吹奏楽風にアレンジした。中野の歌にコロンビア合唱団の「ガンバレ、ガンバレ、ガンバレ通せ」と「フレーフレー」という合いの手が力強く挿入されている。

 さて、全大阪と東京倶楽部の対決だが、両チームは二回戦で対決し8−7で全大阪が勝利した。全大阪は三原脩、伊達正男らの活躍で勝ち進み、念願の優勝を果たしたのである。三原と伊達は早稲田時代に古関の「紺碧の空」で荒ぶる魂を奮い立たせ、神宮でははつらつとプレーしたスターだった。古関は神宮のスターたちが再びプレーする都市対抗野球の大会歌を作曲し熱戦に花を添えたのである。

 昭和九年の暮れ、古関に衝撃が走った。東海林太郎が万感の思いを込めて熱唱する《国境の町》(大木惇夫・作詞/阿部武雄・作曲)である。大陸風の異国情緒が溢れるメロディーは古関を動揺させた。メロディーの美しさはさることながら、雄大な大陸の地平の音楽空間が広がっていくようなスケールの大きさがあった。大陸をテーマに雄大な楽想を練っていた古関にとって、彗星の如く現れた阿部武雄は全く予想外であった。全国の映画館を流れ歩く流転のヴァイオリン楽士であることは知っていたが、まさか作曲家として浮上してくるとは。どこで、これだけの作品を創作する作曲技術を磨いたのだろうか。古関はただ唖然とするばかりであった。

 

船頭可愛や

 

 昭和一〇年一月新譜発売で、ポリドールは早速ヒット曲を出した。大村能章が日本調の道中・股旅歌謡で台頭してきたのである。歌唱は東海林太郎。ポリドールは藤田まさと−大村能章−東海林太郎のトリオを売り出した。同年五月新譜では、《国境の町》で注目された阿部武雄作曲・《むらさき小唄》(佐藤惣之助・作詞/阿部武雄・作曲)が東海林太郎の歌唱の歌唱によって発売された。テイチクの古賀政男は、《夕べ仄かに》(島田芳文・作詞/古賀政男・作曲)がまずまずのヒットを記録した。だが、ポリドールから発売された《大江出世小唄》(湯浅みか・作詞/杵屋正一郎)の前には霞んでしまった。モダン調な古賀メロディーは哀愁溢れる旋律でもポリドールの日本調には今ひとつ退かなければならなかった。一方、ビクターは、《無情の夢》(佐伯孝夫・作詞/佐々木俊一・作曲)がヒットした。佐伯孝夫−佐々木俊一コンビの作品である。イタリアから帰国した児玉義雄が邦楽的技巧表現を巧く取り入れて歌った。

古関は、前年の《利根の舟唄》のヒットでようやく流行歌で実績を出し始めていた。一月新譜発売の《ヒュッテの夜》もミス・コロムビアが歌って女学生の間に広まり好評だった。古関は「流行り唄」の頽廃性を悉く避けていた。

六月新譜ではやはりミス・コロムビアの歌唱で《月のキャンプ》(久保田宵二・作詞/古関裕而・作曲)が発売され、古関の健全なメロディーの個性が出るようになった。この歌は、古賀政男と江口夜詩の「ハイキング決戦」といわれた《ハイキングの歌》(江口夜詩・作曲)のB面だった。軍配は古賀メロディーの《ハイキングの唄》(島田芳文・作詞/古賀政男・作曲)に上がったが、B面レコードの古関メロディーもなかなか好評で若い女性に人気があった。

昭和一〇年、古関裕而は「利根の舟唄」を上回るヒットを目論(もくろ)んでいた。高橋掬太郎の一片の民謡調の詩が古関最初の大ヒット曲「船頭可愛や」は日本民謡の旋律を生かした曲である。それは短調ではなく、瀬戸内海、遠洋漁業の男を想う乙女の歌にふさわしい長調の旋律だった。古関は民衆歌謡特有の退廃性の極力避け、間奏には「利根の舟唄」と同様に日本情緒を浮き彫りするため再び尺八(川本晴朗・七孔尺八)を使った。素朴な音色が、独創的な「瀬戸の民謡」抒情性を一層高めたのである。テイチク・ディック・ミネ、コロムビア・中野忠晴、淡谷のり子らが歌うジャズ・ソング、藤山一郎、奥田良三、関種子らが独唱する内外の歌曲、外国民謡が流行する一方で、この独特な民謡調の旋律は新鮮なイメージを与えたといえよう。

 歌手には商家の主婦だった音丸が起用され彼女のデビュー盤となった。音丸は琵琶歌が得意で民謡のフィーリングを持ち合わせていた。装飾音をうます小節にした味わい深い歌唱だった。小唄勝太郎、市丸ら芸者出身の日本調歌手が「艶」を競っていたころで、音丸も先輩格の歌手を向こうに回して大いに活躍した。

古関裕而の名前がそろそろ流行歌においても知られるようになった頃、江口メロディーは満州を舞台にした《夕日は落ちて》(久保田宵二・作詞/江口夜詩・作曲)を松平晃と豆千代の歌でヒットさせた。一方、テイチクの古賀政男も夏頃から、ヒット量産にエンジンがかかりだした。映画『のぞかれた花嫁』の挿入歌・《二人は若い》(玉川映二・作詞/古賀政男・作曲)がモダンライフをテーマにヒットした。ディック・ミネと星玲子が歌った。そして、一一月新譜で発売され、楠木繁夫の熱唱で知られる《緑の地平線》(佐藤惣之助・作詞/古賀政男・作曲)がテイチクの春を呼ぶかのようにヒットした。それに対してポリドールは東海林太郎が歌う《野崎小唄》(今中楓渓・作詞/大村能章・作曲)で対抗した。

昭和十年の晩秋から暮れにかけて古関メロディー・《船頭可愛や》が売れ行きを見せ始めた。レコード発売当初(十年七月新譜)、音丸のデビュー盤ということでコロムビアは大々的に宣伝したが、最初あまり反響がなかった。だが、一〇年の暮れから猛烈な勢いで流行し始めた、全国を風靡(ふうび)することになったのである。これで、古関裕而もレコード歌謡においてヒット曲に恵まれ、コロムビア専属作曲家として胸を張れるようになった。

 

 

大阪タイガースの歌

 

昭和一一年は、陸軍の皇道派の青年将校らが国家改造を目的にクーデターを挙行した。これが「二・二六事件」である雪降る帝都東京を震撼させたのだ。首相官邸・警視庁・朝日新聞社などが襲撃され、斎藤実内大臣・高橋是清蔵相・渡辺錠太郎陸軍教育総監らが殺害された。戒厳令が敷かれ、戒厳司令部が設置され、当初は「蹶起部隊」とされたが、後に「反乱軍」となり、鎮圧された。その結果、統制派が実権をにぎることになり、粛軍が行われ軍部の政治的発言権が高まることになった。物騒なクーデタ―事件が起きた二月は、ロシアの声楽家、シャリアピンが来日し、圧倒的な声量が日比谷公会堂に響き渡った。表現力も豊かでその芸術に古関は感銘を受けた。

五月に入ると今度は荒川区尾久で「阿部定事件」という猟奇事件が起こった。流行歌・SPレコード歌謡では、渡辺はま子が甘ったるく歌う《忘れちゃいやヨ》(最上洋・作詞/細田義勝・作曲)が流行した。

 二・二六事件に幕を開けた昭和一一年、古関はふたたび野球と関わりを持つ。昭和九年の日米野球を機に結成された大東京巨人軍は、翌年のアメリカ遠征で成果を挙げ、職業野球の展望を開いた。そのころ、大坂の阪神電鉄も職業野球のチーム結成の動きを見せていた。昭和一〇年一二月一〇日、「大阪タイガース」が設立され、現在の阪神タイガースが誕生したのである。大阪タイガースの創立に合わせて、早速、球団歌が作られた。作詞はすでに「赤城の手守唄」で名を成していた佐藤惣之助、作曲は六年の日米野球の応援歌「日米野球行進曲」や早稲田の応援歌「紺碧の空」、流行歌の「船頭可愛や」で知られ始めていた古関に白羽の矢が立った。

 歌が出来上がると、早速、一一年三月二五日、「甲子園ホテル」で開かれた。チーム激励会で初披露された。日本コロンビアからジャズシンガーで売り出していた中野忠晴の歌によってレコードが吹き込まれた。だが、レコードは関係者に配布されただけで、一般に発売されたものではなく、当時はあまり普及しなかった。

 古関は昭和一一年に入ると、前年に実績が影響し新譜発売が非常に多くなった。二月だけでも一〇曲を数えた。こうなると、古関もヒット数ではまだまだだが、江口夜詩と並ぶようになってきたのだ。そして、大衆歌の作曲家としても知名度が大分でてきたのである。昭和一一年春、ビクターから、藤山一郎をテイチクに迎えた古賀政男は、都市文化の讃歌・昭和モダンを高らかに歌った《東京ラプソディー》を作曲した。声量豊かな響きと正確無比な歌唱を誇る藤山一郎の歌でヒットし、古賀メロディーの第二期黄金時代が確定し、「古賀政男・流行歌王」としての地位が確立したのである。藤山はビクターでは、本名の増永丈夫で本格的クラシックを独唱することは別にして、流行歌はもちろんのこと、外国民謡、内外の歌曲、タンゴ、ジャズ・ソングなどを幅広く歌っていた。だが、経済事情からふたたび流行歌のヒットを狙う必要に迫られていた。

藤山一郎のテイチク入社からすぐに古関にとって驚くべきことがあった。当時、海外で広く活躍していたオペラ歌手三浦環三が流行歌の寵児(ちょうじ)藤山一郎と共に明大マンドリン倶楽部の第二十六回定期演奏会(十一年六月十六日)で古賀メロディーを独唱したのである。三浦は以前から流行歌にも関心が深かった。当然、古賀メロディーにも注目していた。そして、三浦環は、音丸でヒットした「船頭可愛や」をレコードにしたのである。古関、民謡とはいえ、作曲上クラシック風な楽想を考えていたので、世界のプリマドンナ三浦の申し出は願ってもないことであった。三浦のレコードは十四年四月新譜でコロビビアから発売された。レーベルは外国の著名な音楽家が録音する青盤レコードで発売されるのは作曲家古関裕而にとって最高の名誉だったのである。

 古賀・藤山コンビは、流行歌界の頂点に立った。ヒットは続く。各レコード会社は古賀メロディーに圧倒された。古関は、クラシックの正統派・藤山一郎、ジャズシンガー・ディックミネ、洋風演歌・楠木繁夫を得てモダン都市文化をテーマにヒットを放つ古賀メロディーに対して、古関は民謡調のレコード歌謡で勝負を挑んだ。

昭和一一年七月新譜の古関メロディーは、西條八十が作詞し《船頭可愛や》ですっかり人気歌手になった音丸が歌った《大島くずし》(西條八十・作詞・古関裕而・作曲)だった。B面は松平晃が歌う《夢の大島》(西條八十・作詞/古関裕而・作曲)。佐々木俊一の《島の娘》が《相馬節》をベースにしていたこともあり、古関も民謡に日本人の生命的エネルギーを求めたのである。だが、モダン都市文化の讃歌・《東京ラプソディー》の前には沈黙した。

八月新譜の古関メロディーでは、伊藤久男が歌った《緑の大地》(久保田宵二・作詞/古関裕而・作曲)、西條八十の詩にバンジョー、マンドリン、スチールギター、フルートなどの楽器を融合させ作曲した《キャンプは更けて》(西條八十・作詞/古関裕而・作曲)を発売したが、ヒットにはつながらなかった。《キャムプは更けて》の歌唱者の二葉あき子は東京音楽学校師範科を卒業後、故郷の広島で女学校(三次高女)の先生をしていたが、コロムビアからデビューした。古関は、そのデビュー曲である《愛の揺籃》を作曲している。二葉は東京音楽学校在学中に同校の奏楽堂で独唱する声楽家増永丈夫がすでに藤山一郎として人気流行歌手と知り、流行歌への関心を持っていた。

古関は《船頭可愛や》のヒット以後、流行歌の作曲に再び行き詰まりを感じていた。古関は民謡に着目していたが、喜び悲しみをさらけ出す解放性や原始性をクラシックの技法で完全に表現することは無理がある。古関はその壁にぶつかった。日本的な心情となれば、やはり、哀調趣味を求めた浪花節的な艶歌調か退嬰的な俗謡風の流行り唄にするしかないのかと思えば、古関裕而の理想とは違ってくる。その矛盾を打開するために、古賀政男はギター・マンドリンのクラシックから得た外国調のリズムを巧く使った。また、コロムビアに最近ニットーレコードから移籍した服部良一はジャズを試みている。古関は純クラシック音楽で流行歌を作りたかった。

古賀メロディーのヒットは快調だった。日活映画『魂』の主題歌《男の純情》は、いわゆる現代の演歌調であるが、正統派の藤山一郎が歌うと格調が高い。《男の純情》のB面の《愛の小窓》も好評だった。歌唱はディック・ミネ。邦楽的技巧表現に重点を置いた《愛の小窓》をジャズシンガー・ディック・ミネに歌わせるなど,奇抜な古賀のアイディアは成功した。昭和一一年一二月新譜で吉屋信子原作『女の階級』の映画主題歌・《女の階級》が楠木繁夫の情感溢れる歌唱でヒットした。B面は《回想譜》。藤山一郎が美しいメッツァヴォーチェの響きで浜辺の抒情をしんみりと歌った。
 コロムビアから、一一月新譜で淡谷のり子が妖艶なソプラノで歌った《暗い日曜日》(久保田宵二・作詞/セレス・作曲)が発売された。淡谷は、昭和モダンの哀愁を歌いあげた。コロムビアは翌月新譜で松平晃が歌う《人妻椿》(高橋掬太郎・作詞/竹岡信幸・作曲)を発売した。同月新譜の古関メロディーは、同郷福島県いわき市出身の霧島昇に歌わせた《月の夜舟》(西岡水朗・作詞/古関裕而・作曲)が発売された。霧島昇は流行歌手を目指し東洋音楽学校に学び、昭和一一年、エジソンレコードか坂本英明(夫)の名前で《僕の思ひ出》を吹込みレコード歌謡に登場した。その後、コロムビア松村武重文芸部長の目に止まり、《思い出の江の島》《月の夜舟》を吹込み、霧島昇として同社から、デビューした。

 昭和一二年一月新譜で、古関メロディー・《米山三里》(高橋掬太郎・作詞/古関裕而作曲)が発売された。古関は音丸の歌唱に期待し民謡に固執した。だが、同月のテイチクから新譜発売された《ああそれなのに》は、サラリーマン・ソングとして、ホワイトカラーの中間層のペイソス溢れる生活(モダンライフ)を歌い、美ち奴の歌唱でヒットした。

戦前のホワイトカラー全盛時代にも戦争の気配は感じられた。昭和一〇年の美濃部達吉の憲法が国体に反すると批判を浴びた(天皇機関説問題)、昭和一一年には、歌にも登場する「アドバルン」が人々を不安な表情にさせた「勅命下る 軍旗に手向かうな」のそれを思わせた。しのびよる軍国の足音と昭和モダンの都市文化が共存していたのだ。
 昭和一二年一月新譜で《人生の並木路》が発売された。これは、古賀の少年時代の故郷喪失の体験がそのまま歌になったようなものだ。その故郷との離別を主題とした《人生の並木路》をジャズシンガーのディック・ミネが根気よく歌ってヒットさせるのだから、古賀メロディーの奥深い魅力があるのである。
 古関は前年八月新譜で発売された《ミス仙台》の詩を作り変え、《乙女の十九》(西條八十・作詞・古関裕而・作曲)として再生した。歌唱は二葉あき子。また、同月新譜では、昭和一二年の御勅題にちなんで西條八十−古関裕而によって作詞・作曲された《田家の雪》(西條八十・作詞/古関裕而・作曲)が発売された。前奏・間奏には尺八が使われ、日本の藁屋根や田圃に積もる雪の「シバレル風景」が楽想に込められ、まるで墨絵のような日本農村の墨絵のような伝統美を表現している。だが、都市文化を享受する中間層のレコード歌謡ファンはモンダニズムの哀歓を求めていた。テイチク三月新譜では青春の哀歓をテーマに青年心理を巧みに衝いた《青い背広で》(佐藤惣之助・作詞・古賀政男・作曲)と青春の感傷を美しく歌い上げた《青春日記》(佐藤惣之助・作詞/古賀政男・作曲)が藤山一郎の歌唱で発売され、ヒットした。

一方、ポリドールは藤山一郎を迎えた古賀メロディー・テイチクに対して、文芸歌謡・名作歌謡を企画していた。東海林太郎がこの傾向を歌いモダン都市を歌い藤山一郎と歌謡界の「団菊時代」を形成していた。そして、ポリドールは、東海林太郎よりももっと泥臭い道中・股旅歌謡で浪花節ファン層を取り込むために上原敏を売り出した。《妻恋道中》(藤田まさと・作詞/阿部武雄・作曲)は上原敏をスターダムに押し上げたのだ。ポリドールは藤田まさと―阿部武雄―上原敏のトリオで道中・股旅歌謡で新たな展開を迎えるのである。

一方、古関が憧れを持つクラシックは、ワインガルトナーの来日が大きな話題であった。昭和一二年五月三一日、日比谷公会堂で「ワインガルトナー夫妻指揮交響楽演奏会」が開催された。曲目はベートヴェンの《交響曲第五番》《交響曲第六番》《レオノーレ序曲第三番》が中心だった。世界的な指揮者の音楽性に聴衆は感銘を受けた。古関も七四歳とも思われないワインガルトナーの楽曲に対する適切な解釈による指揮ぶりに感動したのである。

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