古賀政男

昭和を彩る国民的作曲家古賀政男のページ

古賀政男の音楽芸術とその時代

昭和歌謡史の群像、明治大学の偉人 古賀政男



明治大学の音楽遺産- 古賀政男

古賀政男の芸術は明治大学の音楽遺産古賀政男の音楽は明治大学の青春譜である。古賀政男と明治大学マンドリン倶楽部

古賀政男と明治大学マンドリン倶楽部
古賀政男が歩んだ明治大学の
マンドリンオーケストラの50年

日本の近代音楽に大きな足跡を残した
古賀政男が指揮する
明治大学マンドリン倶楽部・オーケストラ変遷史

古賀政男の半世紀と明治大学

明治大学の音楽文化・古賀政男の青春
菊池清麿

日本近代音楽史の一断面・近代日本の流行歌変遷史


古賀政男の生涯を辿る。本格的な古賀政男の評伝
古賀政男―青春の情熱と感傷の響き




明治大学マンドリン倶楽部の永い歴史において、古賀政男の存在は大きい。また、古賀政男以外にもこのクラブからは日本の流行歌史に燦然と輝くヒット作品を生み出した作曲家を輩出している。竹岡信幸、清水保雄、吉田矢健治など明治大学マンドリン倶楽部が輩出したOBが歌謡界を彩った。古賀政男の人生と明治大学マンドリン倶楽部の歴史は日本の大衆音楽の歴史であり、昭和の時代史そのものでもある。だが、そのような、国民的な作曲家古賀政男にも、それ以前のもう一つの姿があった。それは、マンドリン・ギター音楽、いわゆるプレクトラム音楽の「古賀正男」である。藤山一郎の歌唱によって古賀メロディーは隆盛するが、それとパラレルに歌謡界とは異形な姿が存在した。もう一人の古賀政男を知るうえでも興味深いといえる。この「もう一人の古賀政男」の姿を継承しているのが、明治大学マンドリン倶楽部のOB・久保田孝である。ドイツ・オーストリアで研鑽を積んだ久保田氏は日本のマンドリン界の頂点に立っている。また、このページは、明治大学マンドリン倶楽部の八十年史の外伝としても貴重な資料である。現在、正統派マンドリン界から大きく取り残され、存続の危機にある明治大学マンドリン倶楽部の未来への示唆になるであろう。HPの製作者でもある菊池清麿氏は明治大学マンドリン倶楽部のOBである。このHPの製作者・菊池清麿氏は殊に古賀政男の芸術作品である古賀メロディーの演奏において定評があったことは夙に有名。情熱溢れるフォルテッシモと繊細な感傷に満ちた奏法は、まさしく「明治大学マンドリン倶楽部」のサウンドそのものだった。青春の感傷と情熱の響きを奏でたのである。古賀政男については菊池清麿氏の『評伝古賀政男 青春よ永遠に』(アテネ書房)を参照して頂ければ幸いに存じます。また、菊池清麿氏の『日本流行歌変遷史』(論創社)においては、8ビートを基調とした「ロックアンドマンドリンオーケストラ」といわれた明治大学マンドリン倶楽部時代の音楽経験が生かされています。(文責・SPレコード歌謡倶楽部)

日本の心―古賀政男とその時代 ―菊池清麿

 

《故郷の風景と喪失、そして、朝鮮半島へ》

 

古賀メロディーは、なぜ、二一世紀の今日においても人々に愛され続けられるのであろうか。確かに、古賀メロディーが奏でる甘美なギターの調べ、躍動する青春の息吹は日本人に大きな感動をあたえてきた。では、そのような古賀メロディーが大衆によって育まれ、その生命を失わずに愛唱されてきた秘密とは一体何だったのであろうか。それは、激動の時代を生きた古賀政男の人生の中にあるのではないだろうか。ささやかなエッセーではあるが、それについてのべてみることにしたい。

 古賀政男は、明治三七(一九〇四)年一一月一八日、福岡県三潴(ルビ=みずま)郡田口村(現在の大川市)に生まれた。本名、正夫(明大在校中に「正男」と改名し、後に「古賀政男」となる)。その故郷は詩人北原白秋の詩情豊かな柳川の近くであり、菜の花畑が一面に咲く田園風景が広がっていた。その原風景が「誰か故郷を想わざる」という名曲を生み出した。秋になると、村の鎮守にサーカスの小屋がかかり、うら哀しい「天然の美」を奏でるクラリネットの音色が流れる。黒々とした畦道の遠い向こうから聞こえて来るジンタ(楽隊)の響き、サーカス小屋から聞こえてくる哀調を帯びた感傷のメロディーが後の「サーカスの唄」のモチーフとなったのである。だが、古賀政男はこの思い出深き田口村を後にし、朝鮮半島に渡った。このときの故郷喪失の哀しみが「人生の並木路」の楽想となっている。父亡き後、苦労した母と優しかった姉の後ろについて、幼い弟の手をひいて故郷田口村と離別した哀しい出来事を終生忘れることがなかったのである。

 少年古賀政男の新生活は朝鮮半島だった。仁川に、そして、京城へ。感情の起伏の激しい少年時代を長兄福太郎の世話の下で過ごしたのである。古賀メロディーの叙情核の一つに朝鮮のメロディーの影響があると一般に認識されているが、それは、兄の店で働く朝鮮人労働者が口ずさむ民謡、俗謡が何かしらの影響を与えていたからである。

 古賀少年は朝鮮半島の生活においても音楽に熱中した。兄弟の中では唯一の理解者であり、一番仲のよかったすぐ上の兄(久次郎)がマンドリンを送ってくれたのは、善隣商業学校三年の時だった。マンドリンを手にした古賀少年は音楽への夢を炎のように燃え上がらせたのである。卒業後は音楽学校への進学を密かに夢見ていたが、それは叶わぬことであり、善隣商業を卒業した古賀は長兄福太郎の命で大阪の支店に勤務することになった。だが、その生活は一年で終止符を打ち、愛用のマンドリンを持ち大阪の店を出奔したのである。それは青春への飛翔でもあった。

 

《影を慕いて》

大正一二年、古賀政男は明治大学に入学した。そして、マンドリン倶楽部の創設に参加し、早くも頭角を表した。生活費を稼ぎながらの苦しい学生生活だったが、母が老いた身体に鞭打って息子のために仕送りしてくれた「五円八五銭」に助けられたこともあった。翌年には須賀楽器店が経営する駿河台音楽院でギター・マンドリンを教えることになり、一応の生活の安定を得ることができたのである。ところが、金融恐慌で幕を明けた昭和は、華やかな昭和モダンとは対照的に暗い世相の前触れを予感させていた。

昭和三年、その年の夏、古賀は立ちはだかる現実の厳しさによってロマンティシズムが崩壊した。人生に絶望し、宮城県の蔵王の青根温泉で自殺未遂を図ったのだ。しかし、古賀は剃刀で首筋を掻き切ることができず、噴き出る血をハンカチで押え倒れ伏したまま、滝の水しぶきの音を聞きながら、ただ泣くばかりであった。異変に気付いた友人の声が遠くから聞こえてきた。その声によって、古賀は我に返り、正気を取り戻した。谷底から登って来るとき見た蔵王の夕焼けは美しく、この時、浮かんだ一片の詩句が、あの不朽の名作・「影を慕いて」であると云われている。

昭和四年春、古賀は明治大学商学部を卒業し、そのまま、明治大学マンドリン倶楽部の指導者となり、将来への不安を抱えながら社会に船出するのである。昭和四年六月、マンドリン倶楽部の定期演奏会で「影を慕いて」をワルツに編曲し、ギター合奏で発表した。「影を慕いて」の初演は、あまり、評判がよくなかった。しかし、古賀はこの演奏で幸運を得た。演奏会に出演していた佐藤千夜子(ルビ=ちやこ)から「歌曲にしてみては」というアドバイスを受け、古賀はギター歌曲の創作にとりかかることになった。同年秋、古賀は来日したギターの巨匠、アンドレス・セゴビアのギターの妙技に感動した。古賀はセゴビアの手の中で響きわたったギターの音色からインスピレーションを受け「影を慕いて」の完成に全力を注ぐのである。同年の暮れ、古賀は歌謡界の女王の座に就いていた佐藤千夜子の尽力で日本ビクターに紹介され、「文のかおり」など自作品を同社のスタジオで吹込んだ(佐藤千夜子・歌唱/明治大学マンドリン倶楽部・演奏)。このとき、「影を慕いて」はレコーディング曲目には含まれていなかった。「影を慕いて」は、まだ、歌曲として完成していなかったのである。

 昭和五年一〇月二〇日、「日本橋から」と「影を慕いて」が佐藤千夜子の歌唱によってビクターで吹込まれた。セゴビアの感動からおよそ一年が経っていた。レコードは昭和六年一月新譜で発売されたが、あまり売れなかった。「影を慕いて」のヒットは藤山一郎の登場を待たなければならなかったのである。

 

 《古賀メロディーの隆盛と黄金時代》

ビクターで吹込まれた古賀メロディーのレコードに注目したのが日本コロムビアだった。そして、藤山一郎との出会いが古賀政男の運命を大きく変えることになった。藤山一郎は本名増永丈夫(声楽家)。当時、東京音楽学校(現・東京芸術大学)に在籍する学生で将来をバリトンの声楽家として嘱望されていた。昭和恐慌で傾いた生家の借財返済のためにコロムビアで、流行歌の吹込みをしていたのである。

藤山一郎の卓越した声楽技術によるクルーン唱法(マイクロフォンの特性をいかした歌唱法)で「酒は涙か溜息か」がヒットし、古賀政男のギター曲の魅力が伝わった。そして、今度は、藤山一郎が声量豊かに昭和モダンの青春を高らかに歌った「丘を越えて」もヒットし、古賀メロディーは一世を風靡し全国に流れたのである。翌昭和七年、藤山一郎の再吹込みによる「影を慕いて」もヒットし、古賀メロディーは第一期黄金時代を迎えたのである。

その後、古賀政男はコロムアからテイチクへ、そして、コロムビアに復帰するが、ここでおもなヒット曲を並べておく。〈第二期黄金時代〉「二人は若い」「白い椿の唄」「緑の地平線」「東京ラプソディー」「男の純情」「愛の小窓」「女の階級」「ああそれなのに」「うちの女房にゃ髭がある」「人生の並木路」「青い背広で」「青春日記」〈第三期黄金時代〉「誰か故郷を想わざる」「目ン無い千鳥」「新妻鏡」「相呼ぶ歌」「熱砂の誓い」「なつかしの歌声」。また、昭和一三年から翌一四年にかけて、外務省の音楽親善使節として、ハワイ、アメリカ、南米を外遊した際には、NBC放送において「緑の月」「ああそれなのに」「男の純情」「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」が放送され、古賀メロディーが全米に流れるという快挙を成し遂げたのである(昭和一四年八月三一日)。

 

《永遠の古賀メロディー》

古賀政男は、戦後という新たな時代を迎え、つぎつぎと作品を生み出した。近江俊郎が熱唱した「湯の町エレジー」は戦後の古賀メロディーの最大のヒットとなった。そして、戦後の復興を背景に、戦前のコミック・ソングの系譜を継ぐ「トンコ節」「芸者ワルツ」などのヒットによって、第四期黄金時代を形成したのである。しかし、昭和三〇年代、都会派ムード歌謡・吉田正、演歌系歌謡曲・船村徹と遠藤実、ジャズ・中村八大など戦後派の作曲家が歌謡界を席巻すると、古賀政男も新たなスタンスを構築しなければならなくなった。そこで、古賀政男は美空ひばりに接近したのである。古賀政男は、戦後の歌謡界の女王である美空ひばりを得て、「柔」「悲しい酒」をヒットさせるなど五度目の黄金時代を形成し、歌謡界の父として君臨したのである。殊に美空ひばりが歌う「悲しい酒」は、古賀政男のギター演歌の完成でもあった。

 豊饒な音楽である古賀メロディーの生命は永く、世代を越えて人々に感銘を与えつづけてきた。それは、庶民の心を慰安し哀調を帯びた感傷のメロディーのみならず、初期の洋楽調の作品に見られるようにモダンライフのムードを楽想にした都会調の青春のメロディーやユーモラスなコミック・ソングも創作しているからである。戦争への不安を敏感に感じる社会心理を捉えながらも、昭和モダンの状況を明るく軽快に表現し、その明るさと希望を失うことがなかったのである。古賀政男は激動の昭和という時代を生き抜いた日本人そのものであり、苦悩と挫折を乗り越えた姿があった。古賀メロディーが永遠に愛され人々を感動し続けた秘密はこの辺にあるのではないだろうか。


《古賀メロディー以前・古賀政男と明治大学の青春》


[明治大学マンドリン倶楽部への参画」

 明治大学マンドリン倶楽部の活動は創成期の段階においてすでにかなり活発であった。大正十三年二月十一日明大のバラック校舎で、マンドリン同好会のメンバーは震災慰安音楽会を催した。同年五月二十四日には読売新聞主催による皇太子殿下の御成婚祝賀音楽会が日比谷野外音楽堂で開催。初声をあげた明大マンドリン倶楽部は、第一回明大マンドリン倶楽部の定期演奏会にこぎつける。宿願ともいうべき第一回春季演奏会は、創部からほぼ一年たった大正十三年五月三十一日、上野公園の自治会館で開催された。指揮は佐藤正恒。明大マンドリン倶楽部の五十年史『青春よ永遠に』の「定期演奏会プログラム一覧」を見ると、母校明治大学を讃え、明大校歌でオープニングしている。明大校歌は大正九年秋に熱血詩人児玉花外の詩に山田耕筰の作曲によって誕生した。日本の校歌中の傑作といわれている。マンドリンのスタッカッートとトレモロが奇麗にホールに響いた。

 
白雲なびく駿河台 眉秀でたる若人が 撞くや時代の暁けの鐘 文化の潮みちびきて 遂げし維新の 栄になう
 おお、明治、その名ぞ われらが母校 おお、明治、その名ぞ われらが母校

  明治大学マンドリン倶楽部第一回春季大演奏会/日時・大正十三年五月三十一日(土)/場所・上野公園自治会館
一部

1マンドリン合奏小交響曲《ヨランダ》(プロヴエラ曲)

2《土耳古行進曲》(ヴェートーベン曲)、

3アルト独唱・アルトの幕田シナ子

《君を知りて》(シューマン曲)

《蓮の花》(シューマン曲)

4マンドリン合奏円舞曲《吾等の結婚の日》(トバービー曲)

二部、

5マンドリン合奏組曲

《村の祭》(カンナ曲)

6マンドリン独奏・佐藤正恒

《ダンツァ エスパニョラ105番》

7アルト独唱・曽我部静子

 歌劇《ミニヨン》より《君よ知るや南の国》(トーマス曲)

8マンドリン合奏

 歌劇《ラ・トラビアタ》(ヴェルディ曲)

9マンドリン合奏円舞曲《スペインの微風》(スティーマン曲)

番外ハーモニカー独奏 守田淑(伴奏)濤川瀧江

 

 当日は大雨で客の入場が心配されたが、まずまずの客入りだった。当時の明大マドリン倶楽部のステージ衣裳は白靴に白いズボン。非常にスマートなスタイルだった。メンバーは二〇人程である。写真を見ると着物姿の女性が目につく。マンドリンは女性に随分人気のあったことが分かる。また、ゲストには、二人の声楽家が出演した。一部はアルトの幕田シナ子が《君を知りて》《蓮の花》を、二部ではアルトの曽我部静子が歌劇《ミニヨン》より《君よ知るや南の国》を独唱している。このアリアは、メゾ・ソプラノのミニヨンが歌う名歌である。指揮の佐藤正恒はこの演奏会でマンドリン独奏を演じた。指揮と独奏を演じるということは、当時、マンドリンオーケストラの最高峰にいた武井守成の影響が見られる。武井は演奏会では指揮とギター独奏を行うことが多かった。佐藤は、武井のオーケストラにも関わりを持っていたので豊富な音楽経験があったのである。佐藤の独奏曲は《エスパニョラ105番》(ダンツァ・作曲)。ということは、佐藤正恒はかなり音楽的に力があったことになる。また、佐藤以外にもオーケストラを指揮できる先輩がいた。昭和三年卒業のギター奏者の深沢七三郎である。彼も大正十五年丸の内報知講堂で開かれた第九回定期演奏会で指揮をとっている。つまり、明大マンドリン倶楽部は、新興団体でありながら、創成期においてかなりの力のある楽団だったのである。大正十三年から十四年にかけて倶楽部の活動も軌道にのりはじめた。大正十三年六月五日、福島会津若松へ演奏旅行、古関裕而の福島商業のハーモニカ・ソサエティーの演奏会に出演。地方都市においてもマンドリンは普及していたと思うが、日本の三味線、琴、琵琶と同じような感覚で個人の独奏という観念が強かった。そのため、アンサンブル、もしくは、オーケストラを編成しての演奏には驚きの目で迎えられたであろう。十一月には秋季定期演奏会を東京帝国大学(現東京大学)の仏教青年会館で行った。

第三回明治大学マンドリン倶楽部定期演奏会/日時・大正十三年十一月二十二日/場所・東京帝国大学仏教青年会館

1《支那への航海の序曲》(パザン・作曲)

2 ギターを含む四重奏

 《ハンガリアン・ラプソディー第2番》(リスト・作曲)

3不明

4《妖女の踊》(ブーシュロン・作曲)

5《船人の組曲》(アマディー・作曲)

6不明

7マンドラ独奏

《スル・リード》(ボッタッキアーリ・作曲)

8序曲《セヴィリアの理髪師》(ロッシーニ・作曲)

ロッシーニの《セヴィリアの理髪師》が演奏されている。この序曲が持つ抒情性、軽妙性、緊張感がマンドリンの奏法に適していた。古賀はマンドリンのスタッカートの軽快さに魅了された。至極軽快だったのだ。この序曲は、最初は《パルミーラのアウレリアーム》序曲として作曲された。これが、今度は《イギリスの女王エリザベス》序曲に使用されたという経緯があった。この優美な旋律と軽快なリズムは、マンドリンの奏法にまたある一つの魅力をあたえたといえる。また、ブーシュロンやアマディーの作品も見られた。

 秋の定期演奏会も終わると、すぐに明大は、同月三十日に開かれる第二回全国マンドリン合奏団コンクールに参加する。創部二年目で参加ということは相当実力に自信があったのか、それとも度胸だめしなのかは分からないが学生には相当の気負いがあったと思われる。課題曲は《ソレントの女》(ローラン・ファンタツツア曲)、それに各団体の随意曲で競った。おそらく定演が終わってから、課題曲と随意曲の練習に入ったと思うが短期間の練習ではコンクール優勝は厳しかったであろう。とはいえ、これからの発展を考えれば多少無理のある日程でも参加する価値はあったといえる。ここで参加団体と随意曲を列挙してみることにした。

 

1アニマ・マンドリン・クラブ(東京)

《交響的前奏曲》(ボッタッキアーリ曲)

2東京プレクトラムソサィティー(東京)

《メリアの平原に立ちて》(マネンテ)

3法政大学マンドリン倶楽部(東京)

序楽《ヨランダ》(プロヴェラ曲)

4同志社マンドリン倶楽部(京都)

《希臘風主題に據れる前奏曲》(ラウダス)

5明治大学マンドリン倶楽部(東京)

序楽《オライツオ兄弟とクリアツイオ兄弟》(チマローザ曲)

6東京帝国大学マンドリン倶楽部(東京)

序楽《ローラ》(ラヴイトラーノ曲)

7ニアポリタン・マンドリン・クラブ(東京)

小序楽《セムピオーネ墜道の穿貫》(ド・ジョヴァンニ曲)

8 オルケストラ「エトワール」(東京)

《詩的序楽》(アネルリ曲)

9東京マンドリン協會(東京)

序楽《夜の女神》(アレン)

10早稲田大学音楽會マンドリン部(東京)

小交響楽《マンドリンの群》(ブラッコ曲)

 明大が演奏した《オライツオ兄弟とクリアツイオ兄弟》(チマローザ・作曲)は、一七九六年に初演されたオペラの序曲である。アレグロのテンポがマンドリンに軽快さをあたえている。チマローザは、ナポリ楽派のオペラ改革者の一人でオペラ作曲家として活躍した。 明大の評価は、『マンドリン・ギター研究』(大正十四年一月号)によると「随意曲・課題曲共にテムポは不可である。而して兩曲とも誤音が多かった。奏法上の不足もまた之に加はて居る。次回の奮勵を望む」という内容のもであった。優勝の同志社に対しても厳しい批評が下されているので、新興団体の明大は大分健闘したようだ。この頃、あまり演奏されていないチマローザの作品を演奏するあたり、進取性・斬新性が見られ実力はそれなりに認められていたようだ。だが、いかんせん創部二年目という音楽経験の浅さがこのような結果に甘んじる原因となった。これをバネに明大マンドリン倶楽部は猛練習に入る。なんでも弾いてやろうというフロンティア精神ともいうべき「駿台スピリッツ」の始まりでもあった。大正十四年一月、ニットーレコードでカラーチェの自作品の録音が行われた。マンドリンピアノ合奏《第一司伴楽第三楽章》、マンドリンピアノ伴奏《ロンド》リウート独奏《第九前奏曲》など10曲が録音されたのである。このレコードはマンドリン愛好家にとっては貴重なレコードになった。古賀たち予科の下級生らは、神保町のカフェーの蓄音器で聴いた。マンドリンの繊細な音が非常に明るく奏でられている。当時、明大の上級生たちは独奏曲の主流であったムニエルの曲を練習していた。だが、古賀は、カラーチェの作品を独奏することを目標にした。その年の四月、明大マンドリン倶楽部のメンバーは朝鮮演奏旅行に旅立っている。京城の三越百貨店ホールと京城高等女学校の講堂で演奏をした。この時、長兄福太郎より一同、朝鮮料理の招待を受けている。帰国後、報知新聞ホールで第七回春季演奏会を報知講堂で開催。

1《サンヂェスト序楽》(ビテルリ・作曲)、

2《交響的前奏曲》(ボッタッキアーリ・作曲)、

3《イ長調三部合奏曲》(ムニエル・作曲)

4《パントマイム「ピエロの物語」》(フェーレ・作曲)

5《序楽「過去の追憶」》(ヴィット・作曲)

6《ニエーヴス「ロマンツァとポレロ》(ラビトラーノ・作曲)

7マンドリン独奏 

8《メリアの平原にたちて》(マネンテ・作曲)。

 同演奏会では《交響的前奏曲》が演奏されている。これはボッタキアーリの代表的曲で憂鬱な感情表現を出すために1stマンドリンの感情を抑えた演奏とそれとは対照的な劇的な表現が要求される。技巧の難しさはないとはいえ、曲のスケールの大きさは、伝統の創造への一歩を感じさせた。夏には千葉の勝山で合宿。部員たちは一層腕を磨いたのである。予科三年の古賀は、下級生の責任者となり指導にあたった。大正十四年秋、東京六大学リーグ戦が誕生した。明大は二位に終わった。六大学リーグ戦がスタートし大学も活気づきはじめた頃、明大マンドリン倶楽部は十月三十日本郷仏教青年会館で第八回秋期演奏会を開いた。この演奏会では、モーツァルトの《征服者》の序曲、先輩の山田貞雄によるマンドリン独奏、ムニエルの名作《ハ長調作品203番》やマチョッキのマンドリン四重奏《西班牙風幻想曲》とタルレガ(タレガ)作品のギター独奏が演奏されている。 第八回明治大学マンドリン倶楽部定期演奏会/日時・大正十四年十月三十日/場所・東京帝国大学仏教青年会館

 演奏曲目

一部

1《征服者》(モーツァルト・作曲)

2《誓い(詩的幻想曲)》(ボッタキアーリ・作曲)

3マンドリン四重奏《西班牙風幻想曲》(レデギュリー・作曲) 

4《西班牙の印象》(プーシュロン・作曲)

二部

5《熱き想い「狂詩曲」》(ブランツォリー・作曲) 

6ギター独奏・タルレガ作品

 《ミヌエット》/《ロジタ》

7マンドリン独奏(山田貞雄)

 《ハ長調作品203番》(ムニエル・作曲)

8《セヴィリアの空「西班牙風幻想曲」》(マチョッキ・作曲)

 大正十四年の国内で開催されたマンドリンの演奏会では、やはりムニエルの作品が一番多く演奏されている(独奏曲という点もあるが)。続いてカラーチェ。合奏では、グラッィアーニ・ワルテルについでボッタッキアーリ(ボッタキアリ)の作品もかなり演奏されている。その影響が明大の演奏にも反映されていた。ボッタッキアーリは、一八七九年、三月十六日、マチェラータのカステルライモンドに生まれた。ペザロのロッシーニ音楽院でピエトロ・マスカーニの教えを受ける。オペラ《影(亡霊)》が故郷マチェラータのロッシ劇場で上演され好評を博し名声を得た。明大が演奏した《誓い(詩的幻想曲)》(ボッタッキアーリ・作曲)は、神、聖母への深刻な心の訴えが主題となっている。明大のプログラニムにはギター独奏にタルレガの作品が見られることはすでにのべた。近代ギターの父と言えば、フランシスコ・タレガ(当時日本ではタルレガと表記)であることは誰しもが認めるところである。ギター音楽を揺るぎないものにした功績は大きい。彼の作品は、大正十年三月武井が主催した『ギターの夕』で《アラビア風狂想曲》が演奏されたが、当時、日本には馴染みがあまりなかった。昭和三年、池上富久一郎の第四回の独奏会で《前奏曲第五番》《トルコ宮女の踊》《大ホーク》が演奏されたとはいえ、昭和四年、セゴビアの来日公演によってその真髄を知るのである。そのタレガの作品が明大のステージで演奏されていることは、驚きである。当時の部員たちの進取の精神が感じられる。タレガは、幼少の頃、盲目楽人マヌエル・ゴンザレスの素晴らしいギター演奏に感銘しその虜になった。アントニオ・カネサの知遇をえて、彼の援助によってマドリード音楽院でピアノ、作曲法を学んだ。一八七五年には、作曲コンクールで一位に選ばれた。その頃からギター奏者としての活動に入った。バッハへの畏敬、ベートーヴェンへの理解など、楽聖らの音楽遺産をギター曲に編曲・演奏するなどギターの格調を高めた。《アルハンブラの思い出》《夢》など叙情的な小品が秀逸である。殊に《アルハンブラの思い出》に用いられたトレモロは、それまでのギター曲には見られなかった。当時、日本ではタレガの練習曲すらも満足に知られていなかった時代によく楽譜が明大にあったものである。明大マンドリン倶楽部は、進取の精神に富んでいた。創部わずか二、三年でプレクトラム音楽の伝統の定着とその発展・完成という目標をはやくも達成したのである。その成果は予想を越えていた。明大マンドリン倶楽部の声価は多くの人々の知るところとなったのである。創成期のメンバー佐藤正恒、深沢七三郎、山田貞雄らの力は大きかったいえる。また、古賀正夫は下級生ながら有望な演奏プレイヤーとしてかなり期待されていた。また、その年はいよいよはじまる昭和モダニズムの空間に快い音の響きをもたらしたラジオ放送が開始されている。すでに欧米においては、一九二〇年、アメリカのピッツバーグ市で世界最初のラジオ放送局が誕生して、KDKAのコールサインが流れていた。この二年後にはアメリカでは600の放送局が誕生し、一九二六年には全米にネットワークをもつNBC放送が設立された。日本においては、大正十四年年三月一日、「JOAK」というコールサインが芝浦の東京高等工芸学校に設置された仮スタジオから試験放送、三月二十二日には仮放送、そして、愛宕山放送所が完成した七月十二日から本放送が始まった。ラジオの響きはモダン都市を徘徊する大衆の耳に快く届いたのだ。当時の受信機は、鉱石式で一台一〇円、真空管式になると一二〇円と高価であった。ラジオ開局の年の受信契約者三六万人から、一九二九年には、六五万人、満州事変後には一〇〇万人を突破し、たちまちのうちに都市を中心に普及していった。明大マンドリン倶楽部のラジオ出演は、『青春よ永遠に』によれば、大正十五年の一月と記されている。同年には、名古屋局でも放送に出演している。これが倶楽部の活動を好調にしてくれた大きな要因であった。ラジオの快い響きとともにアメリカニズムの影響を受けた昭和モダニズムが展開した。その波は、人々の感覚を刺激し享楽へと駆り立てた。これまでは一部の人々の間に占有されていた「嗜好品」が、安価にきらびやかな装いを凝らして日本の大衆の前に登場したのだ。活動写真、自動車、ラジオなどの機械文明、ビルディングに代表される鉄筋コンクリート建築、アパート型の新形態の都市への脱皮、ネオンなどがしめす都会主義、カフェー、レビューの流行に見られる大衆娯楽、また、『キング』の創刊や改造社の『現代日本文学全集』に始まる円本ブーム、岩波文庫の発刊など文芸にも大衆化がみられた。大衆は、自動車に乗り、そして、新しく生まれたラジオから流れる新鮮な音に耳を傾けた。ジャズ、流行歌を蓄音機で聴き惚れ、視覚芸術である映画に興じたのである。モダンボーイとモダンガールが文化の担い手であった。モボ・モガがモダニズムという新しい消費文化の担い手になりはじめた頃、明大マンドリン倶楽部もかなりの演奏をするようになっていた。大正末期は、50余りのマンドリン演奏団体が存在し、欧米のマンドリン団体よりも技量が優っていた。そのなかでも明大マンドリン倶楽部の台頭は脅威であった。大正十五年春、明大マンドリン倶楽部に有望新人が入部した。小山義雄(令道)である。彼は海城中学二年のときから、早稲田大学マンドリンクラブ、ニヤポリタンマンドリンクラブの太田虎雄にマンドリンを師事し入部早々に1stマンドリンを受け持ち活躍した。後に昭和九年、彼はテイチクの重役に迎えられた古賀政男の下に馳せ参じた「七人のサムライ」の一人でもある。

 大正十五年六月二十日、第九回定期演奏会が丸の内報知講堂で開かれた。

明治大学マンドリン倶楽部第九回定期演奏会/日時・大正十五年六月二十日/場所・丸の内報知講堂

演奏曲目

一部 

1《魅惑島(序曲)》(コック・作曲)

2《交響的前奏曲》(ボッタキアーリ・作曲)

3《アラビア風狂想曲》(タルレガ曲)

4 狂想曲《望まれし日》(ブランツォリー曲)

二部

5 大幻想曲《ムーアのグラナダ》(ガルシア・作曲)

6 マンドリン独奏

 《ポロネーズ(作品36)》(カラーチェ・作曲)

7《希臘風主題に據れる序楽》(ニコラオス・ラウダス・作曲)

8《田園王(パストラ王)》(モーツァルト・作曲)

 

 この演奏会では、《交響的前奏曲》(ボッタキアーリ・作曲)大幻想曲《ムーアのグラナダ》(ガルシア曲)、(ニコラオス・ラウダス曲)などマンドリンのオリジナル作品の大曲が演奏された。後に古賀は、ラウダスの作品をが好んで幾度もなくタクトをとった。彼は、近代マンドリン音楽の作曲家として名高い。ラウダスは、一八七九年にアンドロス島ピトロフォス村で生まれる。アテネ大学で数理学を、アテネ芸術大学で音楽を学んだ。「アテナイ・マンドリナータ」の協会が音楽学校になるが、ラウダスはそこで音楽教育に従事した。《希臘風主題に據れる序楽》は荘重重大な全楽器のユニゾンで序曲が開幕する。アンダンティーノ・モッソの100小節は、主旋律が反復されギリシアの神秘な感情が表現される。アンダンテに入ると断続的な全パートの和弦にサポートされたマンドリンの繊細・神秘な独奏が始まる。そして、アレグロ・ノン・トロッポの喧噪な舞踏調に合わせて、テンポアップして行く。トライアングルとタンバリンを交えてマンドリンの技巧が冴えクライマックスを迎える。最後に再び主旋律が繰り返され、ポリフォニーのうちに荘厳な終曲を迎えるのである。プログラムにはタレガ作品の《アラビア風狂想曲》とある。タレガのリズムとメロディーの交流、叙情性をどのように演奏したかはわからないが、相当の自信がなければ演奏できない曲である。当時の部員たちが、ソルやジャリアーニに見られた緻密な構成・形式に加えてロマンティックな精神をどう理解しようとしていたかは非常に興味のあるところである。このプログラムからは明大マンドリン倶楽部はかなりの実力のある演奏団体に成長したことがわかる。大正十五年七月三十日、東京JOAKで田中常彦氏のマンドリン独奏が本邦のマンドリンの初放送として電波にのった。この演奏は、明大にとっても大きな刺激となった。同年、大正十五年十一月七日、秋の第十回定期演奏会は、指揮は黒田源助、佐藤正恒がタクトを振り日本青年館で開かれた。このホールを使用するということは、マンクラもいよいよマンドリンの音楽団体としては一流の楽団ということになるのだ。しかも、この演奏会ではマンドリンの大曲がちりばめられた。

明治大学マンドリン倶楽部第十回定期演奏会/日時・大正十五年十一月七日(日)/場所・日本青年館
一部 

1《インプレッション・シンホニー「交響的印象」》(バッチ・作曲)

2 《アダジオ・カンタービレ(哀傷的ソナタ中より)》(ヴェートベン・作曲)

3 《希臘の踊り》(ドーニス・作曲)

4 ギター独奏

《バルトの唄(作品48)》(フェレール・作曲)

5《ハンガリアン・ラプソディー第二番》(リスト・作曲)

二部 

6《初めての抱擁「愛の詩のなかより」》(リッチ・作曲)

7《マンドリン四部合奏曲ハ長調(作品203番)(ムニエル・作曲)

アダヂオテンポ ディマルチャ/テンポディメヌエット/アンダンテ・カンタービレ/フィナーレビバーチェ」

8《交響的前奏曲》(ボッタキアーリ・作曲)

9《希臘風主題に據れる序楽》(ニコラオス・ラウダス・作曲)

 

《希臘風主題に據れる序楽》(ニコラオス・ラウダス・作曲)が前回に続いて演奏された。この演奏会は、ようやく盛んになってきたプレクトラム音楽の可能性の限界を突き破ろうという姿勢があきらかにみられる。《インプレッション・シンホニー「交響的印象」》(バッチ・作曲)は、バッチの三大作として知られている。《初めての抱擁「愛の詩の中より》(リッチ〔ツ〕・作曲)は、ムニエルの編曲による八楽章の大作である。殊に、リスト作曲の《ハンガリアン・ラプソディー第二番》は、マンドリンオーケストラでの本邦初演であり、可能性追求の始動でもある。ラプソディーとは狂詩曲と訳す。自由な楽想を展開させる。東洋風の旋律からの情熱と幻想のイメージも醸しだしてくれる。殊に二番は嬰ハ短調で最も有名である。前半は、「ラッス」とよばれるゆるやかな悲劇と荘重さを帯びた官能的な民族音楽、後半は華麗な技巧の限りをつくし激しい情熱的なリズムをもつ「フリサ」が際立っている。第三回の定演ではアンサンブル演奏だったことを見れば、オーケストラの演奏ということはかなりりクラブの技術の向上が見られる。 
 それにしても、驚くべきことは、このような楽曲の楽譜がどういう経路で明大マンドリン倶楽部に入って来たかということである。記録上これらの作品が明大で初演されているということは興味のあるところといえる。尚、同演奏会では明大マンドリン倶楽部をここまでに仕上げた佐藤正恒の送別の辞が催された。明大マンドリン倶楽部は創部数年でプレクトラム音楽の伝統の創造を果たした。やはり、佐藤正恒の功績は大きい。彼は、かなり武井守成の影響を受けている。殊にマンドリンオリジナル作品への深い造詣がそれを証明している。日本の伝統楽器は、三味線、琴、琵琶にしてもひとりで奏でるという観念が強い。ところが、同じ繊細な音で感傷を堪能させるマンドリン、ギターがアンサンブル、オーケストラを構成・組織して難解な外国曲を演奏するのだから、合奏という形式は新鮮だった。その伝統の定着は当然といえた。やはり、そこには部員の溢れんばかりの情熱の結晶、かぎりなき伝統の創造と可能性の限界への挑戦が原動力だったのである。気概に満ちた明大マンドリン倶楽部は、マンドリンの感傷とともにいよいよ光と翳が共存する昭和モダンを迎えるのである。

 
 
明大マンドリン倶楽部にとっての昭和という時代は、その可能性の限界を突き破ることにある。古賀は、昭和二年四月にマンドリン倶楽部委員となり倶楽部の躍進に一層の努力をはらった。この年には、竹岡信幸、斎藤鉄男、茂木了次(秋、正式入部)、有吉貞夫、熊川清一ら有望格が続々と入部。竹岡はギター、斎藤はマンドリンで早くも頭角を現した。殊に竹岡信幸は、明大在学中、昭和五年《静岡行進曲》(若杉雄三郎・作詞/松浦誠・作曲)で作曲家としてデビューした。松浦誠は竹岡の信幸の変名である。コロムビア、ポリドール、タイヘイ、ツル等でギタープレイヤー兼作曲家として活躍。柳沢乃至夫という変名をはじめ多くのアーテイスト名を使っている。殊に江口夜詩の吹込みではギターの演奏能力は相当な評価を受けていた。後に東海林太郎の出世作《赤城の子守唄》(佐藤惣之助・作詞/竹岡信幸・作曲)、渡辺はま子歌唱の《支那の夜》(西條八十・作詞/竹岡信幸・作曲)などでヒットを飛ばし、日本の歌謡界にその名を轟かす。 昭和二年の春、明大マンドリン倶楽部は内部分裂があったのでは。その可能性が十分にある。つまり、OBとして倶楽部を掌握し指導する佐藤正恒のグループと古賀を中心に倶楽部の粛正を図る派との決裂が考えられる。まず、昭和二年の春に定期演奏会がなかったことがそう思わせるのである。また、『歌はわが友わが心』に掲載されている昭和二年の夏合宿の写真を見たことがあるが、新入生を迎えているはずなのに部員の数が異常に少ない。やはり、倶楽部の空中分解なのだろうか。昭和二年四月、古賀は明大マンドリン倶楽部委員になった。後にテイチクで古賀の下に馳せ参じた「七人のサムライ」の一人原野賢三も委員となり、倶楽部の粛正に尽力を尽くす。彼は、何事においても静観する余裕があった。そして、いざ実行にあたっては確実な処理をする持ち主だった。古賀は、自伝に記しているように辣腕を奮った。学業と倶楽部の両立という真摯な態度だった。学業をおろそかにし芸術にかこつけてルーズな生活をする部員を許さなかったのだ。また、カフェーやダンスホールなどでガールハントの手段にしている部員を容赦なく糾弾した。さらに、技術向上に対する意欲がない者を練習させるのにも相当苦労した。

 組織や団体には守るべきルールがある。それによって敷かれたレールというものもある。これがはずれると無軌道となり組織活動は形骸化してしまうのである。古賀はその敷き直しをおこなったのだ。古賀の信念は強かった。まず、信頼できる者を会計の責任担当者にした。倶楽部の経常費や演奏会の収支といった経理の曖昧なことがゆるせなかったのだ。だが、この古賀の真面目な態度にはOBも含めた諸先輩たちは反発した。相当の軋轢があったことは、容易に想像できる。すでにのべたが、昭和二年の春、回を重ねるごとに盛大になっていた明大マンドリン倶楽部の定期演奏会が開催をみなかった。やはり、内部分裂という可能性が高い。だが、別なマンドリン団体が組織された形跡はない。古賀がこのように正常な状態に軌道修正したことについて、クラブの乗っ取りと見るのは正しい見解ではないだろう。力があるものがリダーシップを取ることは当然である。古賀正夫はそれなりの音楽的力があった。だが、演奏面における倶楽部の再建にかなりの苦労をすることになる。明大マンドリン倶楽部は、マンドリンの可能性への限界を越えるために古賀正夫を中心に新たな試練に立ち向かうのである。「この時代の苦労は社会に出てから大へん役に立ったように思う。私はこの当時からクラブの方針として、技術は下手でも心を磨こうということをモットーにしていた。このことは今のクラブでも鉄則として守られている。私たちの当時の仲間には一人の落伍者もいなかった」(前掲『自傳わが心の歌』)
 古賀は、一人一人の技術向上のために部内でコンクールを行った。それぞれのパート部門で優勝者にはメダルなどの賞品をつけて競争させた。部員は一生懸命と取り組んだ。みんなの精神的な励みとなり革新後の不安な状況を打開するうえで大きな効果をもたらした。そして、メンバーを選りすぐって朝鮮への演奏の旅に出発した。昭和二年七月二十日、明治大学マンドリン倶楽部「室内楽と歌の夕べ」が開かれた。京城基督教青年会主催、京城駿台会、京城マンドリン合奏団後援である。メンバーは、1stマンドリン2人 2ndマンドリン2人、マンドラ1人、ギター1人、マンドセロ1人。演目はつぎの通りだった。

明大校歌

1 五部合奏《初めての抱擁(愛の詩)のなかより》(リッチ・作曲/ムニエル編)

2 四部合奏《二長調四部合奏(作品128)》(ムニエル・作曲)

3 マンドリン四部合奏と独唱(久保田清喜)

《モンテネグロの歌》(ボルデイュ曲/マチョッキ編)

《桐の雨》(弘田龍太郎・作曲)

5 四部合奏《夜楽(作品378番)セレナーデ/ロマンツァ/ミヌエット/ロンド》(モーツァルト・作曲)

6 五部合奏《寶石の舞曲1鬼女のミヌエット/2 エレーネのガボット/3 ジーガ 4 リルスレント/5燕のマヅルカ》(ムニエル曲)

7 久保田清喜氏独唱《菩提樹》(シューベルト曲)

8、マンドリン独奏(古賀正夫)

 《第一前奏曲》(カラーチェ・作曲)

9 五部合奏《ハ長調四部合奏曲(作品203番)》(ムニエル・作曲)

 

 演目を見るとムニエルの作品が多く演奏されているのが目につく。だが、古賀はカラーチェの作品にも意欲を見せた。《第一前奏曲》は、一般にはカラーチェの無伴奏独奏曲プレリュード(前奏曲)の1番のことを言う。カラーチェはこの独奏曲を18番まで作曲している(リュート・カンタービレを含む)。古賀は、幻想的なトレモロの優雅な響きを表現した。カラーチェの作品は、華麗なリズム、哀愁、喜び、憂愁という感情が旋律のなかに豊かに響く。悲歌であってもマンドリンの明るい音色が目立つ。マンドリンとピアノのための《アダージョ》の崇高な旋律、《ボレロ第2番》における軽快なスペイン舞曲風の小品、過ぎ去りし思い出の日々を回想させるような《無言歌》の憂愁溢れる作品など、後の「流行歌王古賀政男」への影響は多分にあったといえる。古賀メロディーの決して頽廃することのない感傷の旋律はカラーチェの格調高い気品あるそれと共通するものである。昭和二年十二月三日、第十一回定期演奏会が赤坂溜池三會堂ホールで開かれた。粛正をはかり新たな出発を遂げた明大マンドリン倶楽部の再スタートである。演奏メンバーは二十三名。古賀以下猛練習に耐えた部員は気合に満ちていた。プログラムを見てみよう。
 明治大学マンドリン倶楽部第十一回定期演奏会/日時・昭和二年十二月三日(土)/場所・赤坂溜池三會堂ホール/指揮・黒田源助

 

オープニング 明大校歌

一部

1《チレニア》(ジョヴァンニ・作曲)

2ギター独奏・属英夫

《カプリチオ・アラブ》(タルレガ・作曲)

3マンドリン四重奏・古賀正夫/小山義雄/白石昌之助/久保田清三

《セレナーデ(セレナーデ・ロマンス・ミヌエット・ロンド》(モーツァルト・作曲)

4《天使の夢》(ルビンスタイン・作曲)

二部

1《仮面》(ボッタキアーリ・作曲) 

2ヴァイオリン独奏・黒田源助(オーケストラ伴奏付き)

《ロマンス(作品50)》(ベートーヴェン・作曲)

3シロフォン独奏・小森宗太郎(伴奏指揮・宮川福蔵)

《ロング・ロング・アゴウ》

4マンドリン独奏・古賀正夫 

《幻想的狂想曲》(ロマーノ・作曲)

 

 古賀は、この演奏会の最後を飾るロマーノ作曲《幻想的狂想曲》をマンドリンオーケストラ伴奏でマンドリンで独奏し好評を博している。この曲集は、エトワールマンドリンクラブが演奏したぐらいで他の楽団では見られない。これからも、古賀は相当マンドリンに技術のみならずその世界に通暁していたことが分かる。昭和二年に入ると、国内のマンドリン演奏は、ムニエルは相変わらずだが、カラーチェが後退し、マチョッキ、ジュリアンの作品が多く演奏されるようになる。それに加えて、べートーヴェン、モーツァルトの作品も演奏されるようになって来た。明大のステージでモーツアルト、ベートーヴェンの曲が演奏されたのもそのような影響があると思われる。古賀正夫が明大マンドリン倶楽部の主導権を握り新たな時代を切り開こうとしていた頃、日本のレコード産業も大きな構造転換に迫られていた。日本のレコード界の王者は日本蓄音器商会だが、関西に多くのレコード会社が乱立していた。大正時代、日本人のマンドリンの演奏家が多数レコードを吹込んでいる。江川幸一《春の宵》《パバナ》(ニットー)、四竈清子《フラワーソング》(日蓄)、高橋八郎《タランテラ》(パイオニヤ)、伊藤十五郎《ミニュエット》(フジサン)などが散見する。また、武井守成も東京レコードで吹込んだ記録もある。いずれも大正十三年から十五年の間に、ピアノ、ハーモニカ、ヴァイオリンの器楽レコードと交じってマンドリンのレコードも登場したのである。だが、電気吹込みとおう太平洋からの波は、日本のレコード産業を根底から覆すのである。大正時代の民衆歌謡と昭和流行歌の違いは、アコスティック録音から電気吹込みへの録音システムの転換によって説明できる。それは、二〇世紀の音の革命を意味しているのだ。さらに、プロデュースの構造も大きく変化をする。街頭で演歌師が流し歩いて庶民の耳に届かせていた歌をレコードにするのではなくなった。レコード会社が企画・製作・宣伝して街頭の群衆に選択させるという仕組みへと転換しようとしていたのである。表現者においても書生節の演歌師から、洋楽系歌手へのそれが見られた。その先鞭が佐藤千夜子と二村定一なのである。そして、藤山一郎の歌唱による古賀メロディーの隆盛ということになるのである。

 《明治大学記念館講堂--音楽は和也》

 昭和三年の春、明治大学記念館講堂が白雲なびく駿河台の偉観として姿を現した。帝都に聳える建物は、奈良天平時代の風雅な様式にモダン建築を加味していた。グレコローマン・奈良平安式導入による和洋折衷の建築様式だった。神宮球場で明大校歌を耳にする者は、この威風堂々とした剛健な姿をイメージしたはずである。昭和の明治大学のシンボルとして永い間君臨したのである。現在の駿河台には二十一世紀の明治大学のシンボル「リバティータワー」が聳えていえるが、明治大学の交友の心にはその旧記念館の威容な姿は消えることはない。昭和三年の春の新入生に清水保雄(柾雄)がいる。清水は、ビクターで作曲家として名をなす。昭和十五年ビクター五月新譜《あゝその頃の年頃の(葦笛の唄)》(梅木三郎・作詞/清水保雄・作曲)でデビューした。そして、《湯島の白梅》(佐伯孝夫・作詞/清水保雄・作曲)《勘太郎月夜唄》(佐伯孝夫・作詞/清水保雄・作曲)《誰か夢なき》(佐伯孝夫・作詞/清水保雄)のヒットは昭和流行歌の名曲である。清水もやはりテイチクの古賀政男の下に馳せ参じた「七人のサムライ」の一人。古賀の懐刀であり音楽的にも最も信頼されていた。また、昭和十三年第三十回定期演奏会から指揮を振り、マンクラの指導にも携わった。マンドリンオリジナル曲《アイヌの印象》は評価が高い。 昭和三年の五月愛宕山から午後0時十分の放送で明大マンドリン倶楽部の演奏がラジオの電波に乗った。曲目は、《スペイン幻想曲》《牧場にて》《若人明治の歌》などであった。メンバーは、TSTマンドリン4人、2ndマンドリン4人、マンドラ2人、ギター3人、リュート1人、セロ1人、マンドローネ1人、ギターローネ1人、計17人。少数精鋭のメンバーである。司会は松内則三アナウンサーだった。また、隣のスタジオでは徳川夢声の朗読が行われていた。このラジオ出演は、古賀を中心に結束しはじめていたマンドリン倶楽部の新たな可能性への挑戦に弾みをつけたといえる。そして、春の定期演奏会を明治大学記念館講堂で迎えるのである。 

 明治大学マンドリン倶楽部第十二回演奏会/六月二十四日/明治大学記念館講堂

OP校歌

一部

1《劇的序楽》(カッペルレッティー・作曲)

2マンドリン5重奏(小山・熊川・原野・高橋・竹岡)

《ト長調四重奏曲》(ムニエル・作曲) 

3《風車の下にて》(クーレ・作曲)

二部

1《オモチャの交響楽》(ハイドン・作曲)

2マンドリン独奏(古賀正男)

 《第一前奏曲》(カラーチェ・作曲)

3《セミラミデ》(ロッシーニ)

指揮・宮川福蔵/古賀正男

 プログラムをみると、大正後期の定期演奏会とくらべると内容において寂しいような気がする。それでも難曲が演奏されている。マンドリンオーケストラの可能性の気概が溢れていた。《劇的序楽》(カッペルレッティー・作曲)は、ソナタ形式で作曲され、提示部の前の序奏は幅の広いゆるやかな旋律のドラマティックな表現、提示部・第一主題のアレグロの軽快なテンポによる四分の二拍子のシンコペーション、第二主題の穏やかな旋律、展開部における前の二つの変奏された主題の交錯などが特徴的である。また、クレッシェンド効果をいかした《セミラミデ》では、長大な序奏部をもったソナタ形式で書かれた。序奏部は、八分六拍子のアレグロ・ヴィヴァーチェ、主題にはいると四分の四拍子のアレグロのテンポでマンドリンの技巧が軽快に奏で、華麗な終結部はいかにもロッシニーらしい序曲である。古賀は、前年につづきマンドリン独奏でカラーチェの《第一前奏曲》を演奏した。カラーチェは《前奏曲(プレリュード)》という無伴奏曲を全部で十八曲作っている。カラーチエの作品はマンドリンの明るい響きが特徴的である。哀愁や憂愁に満ちた曲でも明るいきらめきを失うことがないのである。古賀メロディーの感傷が格調が高いということは、やはり、カラーチェの影響もあるといえる。夢を愛し音楽の美しさを愛する者へ甘美に響くメロディーなのである。
 昭和三年十一月二十五日、春に続いて明治大学記念館講堂で秋の定期演奏会が開かれた。この記念館講堂の演奏会は、古賀政男率いる明大マンドリン倶楽部に潜在していた無数の可能性を一気に実現した。まずは、プログラムの内容を引用してみよう。

 一部 明治大学校歌、

1《フィガロの結婚》(モーツァルト・作曲)

2《幻想曲ダンテとベアトリチェ》(グライツアーニワルテル・作曲)

3ソプラノ独唱・佐藤千夜子

 《河原柳》(野口雨情・作詩/藤井清水・作曲)

 《さどおけさ》(斎藤正直採譜)

4《円舞曲伊太利よりの花》(S・ヴェルキ)

二部

5《イ長調序楽作品2番》(ヴェルキ)

6 ギター十二重奏(古賀・宮川・白石・小山・熊川・大沼・高橋・高村・竹岡・藤木・ 森澤)

《ルーフの二重奏曲より11番・12番》(ルーフ・作曲/古賀正夫・編)

《ガボット》(グルック・作曲)

《メヌエット》(ボッケリーニ・作曲)

7 ソプラノ独唱・佐藤千夜子

《波浮の港》(野口雨情・作詞/中山晋平/作曲)

《須坂小唄》(野口雨情・作詞/中山晋平/作曲) 

8《西班牙/マーチ・セレナーデ・ボレロ・ワルツ》(カンナ・作曲)

 

 もうすでに、昭和初期、マンドリンで《フィガロの結婚》序曲を演奏しているのには驚かされる。好色な伯爵を、夫人、フィガロ、スザンナ、小姓ケルビーノらがやり込める痛快オペラの序曲は、プレスト、ニ長調、二分の二拍子、ソナタ形式による短いもので管楽器が効果的に使われている。軽快なテンポをマンドリンで表現する趣向は斬新だったのだ。 この演奏会は古賀政男率いる明大マンドリン倶楽部にとっても大変意義のあるものであったことはすでにのべた。まず、マンドリンオーケストラに、フルートの他にオーボエ、クラリネット、ホルン、ファゴットなどの管楽器が使用されたことである。アメリカのマンドリンオーケストラが管楽器と融合することによって失敗した例が日本にも伝えられていたが、明大マンドリン倶楽部がその可能性の限界をまたひとつ破ったことは評価されるべきであろう。ヴェルキが管楽器とマンドリンを融合させた《マンドリンオーケストラの為の序曲》を書くのはその後なので、いかに古賀を中心とした明大マンドリン倶楽部が進取に富み、斬新性が溢れていたかがわかる。ここに新たな古典音楽におけるマンドリンオーケストラの可能性の追求が生まれたといえる。第二には、クラシック作品と日本情緒溢れる邦人作品が違和感なくプログラムに並べられていることである。「音楽幻想」と「日本の情景」が融合したのである。この試みが、戦後、日本の伝統音楽の再発見の認識を生みさらに充実する。第三には、昭和三年秋の定期演奏会で邦人作品をとりあげ演奏されたことである。これがマンドリンの大衆化に貢献することになる。マンドリンの繊細な音色は、中山晋平が洋楽の手法で作曲した旋律のなかに含まれる「原始的郷愁」や日本的情緒の表現に適していた。日本情緒をマンドリンの繊細な感情表現で奏でる試みは、古賀政男が最初であった。日本の近代音楽はクラシックが音楽価値判断の基準になっているため、民謡、邦楽一般はどうしても邪道という認識になりがちであったが、マンドリンという西洋楽器でその深い情緒を表現したことはりっぱなことである。後年、中山晋平は、古賀政男の芸術を「感傷性と平易(大衆性)」と特徴づけたが、まさしくそのとおりである。レギュラーオーケストラに近い編成で日本の心を表現するところにそれ以後の明大マンドリン倶楽部の演奏形式のひとつの型を提示したといえよう。最後に、中山晋平の新民謡を歌唱し声価を高めていた佐藤千夜子と知遇を得たことである。ビクターの専属歌手をゲストに迎えることはショー的要素を反映させることにもある。マンドリン・ギターの演奏にショー的要素を加えることは画期的なことだった。また、これは古賀正男から古賀政男への途を切り開くことにもなる。しかも、それが、彼女が《東京行進曲》で名声を博す以前ということも幸運だった。佐藤千夜子との知遇がなければ大衆音楽の古賀メロディーはありえなかったであろう。どういう経緯で古賀は佐藤千夜子をゲストに迎えることができたのかは分からないが、彼女が古賀が率いるマンドリンオーケストラによる伴奏でビクターでレコードを吹込むことになるきっかけをつくったことが日本の近代民衆音楽を大きく変えることになるのである。この演奏会は大成功だった。古賀の企画力の勝利でもあった。人気流行歌手をゲストに迎えたショー的な要素は、後の明大マンドリン倶楽部の特徴でもある。また、マンドリンオーケストラを少しでもレギュラーオーケストラに近づけたことも大きい。そして、「音楽は和也」の理念をつくりあげた意義ある演奏会だったのである。なぜ、古賀政男が自伝や伝記評伝等に佐藤千夜子が《影を慕いて》を独唱したと記したのか、その理由がわかるような気がする。これは、単純な記憶違いとか作為的というよりも、この演奏会が後の古賀政男と明大マンドリン倶楽部を一体化させ「音楽は和也」の船出であることを意義づけたかったからといえる。

[影を慕いての初演」
 
  昭和四年、六月二十二日、赤坂溜池三會堂で第十四回定期演奏会が開かれた。古賀の明大マンドリン倶楽部の指導者としての最初の演奏会である。古賀政男は、記念すべき《影を慕いて》が初演を迎えた。ギター合奏で演奏されたのだ。当日のプログラムはつぎのとおり。

 一部 明大校歌

憧れ(ポールシュッペ曲)

西班牙舞曲》(ホタグラナドス・作曲/オデル・編)

3ギター伴奏による独唱・佐藤千夜子

《野薔薇》

《夏の月(ラストナイト)》(キールフ・作曲)

4《メリアの平原に立ちて》(マネンテ・作曲)

二部 

5《円舞曲アンジュの美女》(パティアノ・作曲)

6ギター合奏

《影を慕いて(ワルツ)》(古賀正男・作曲)

《楽しき思い出(ガボット)》

7ソプラノ独唱・佐藤千夜子

《青い芒》(野口雨情・作詞/中山晋平/作曲)

《龍峡小唄》(白鳥省・吾詞/中山晋平・作曲)

8《ロ短調序曲》(コンラドベルキ・作曲)

 佐藤千夜子は、一部で《野薔薇》《夏の月》、二部で《青い芒》《龍峡小唄》を独唱した。プログラムには、ギター伴奏による独唱とある。これは画期的なことだった。ギター伴奏による歌曲への志向がみられる。昭和初期の段階でも、ギターはまだマンドリン合奏の補助パートの域を完全に脱していなかったことを考えれば、古賀は斬新だった。だが、佐藤千夜子の歌劇を歌う唱法ではギターの魅力は完全に表現できなかったであろう。マンドリンのトレモロの響きは新民謡の旋律のもつ日本情緒を十分に表現した。演奏会は大成功のうちに終わった。昭和四年十一月二十三日に明治大学記念館講堂で明大マンドリン倶楽部の定期演奏会が開催された。この演奏会では、セゴビアの影響をみることはできない。同演奏会では、バンジョーがプラスされた。バジョーは奴隷制が生み出した楽器である。異郷につれてこられた黒人たちは、故郷の楽器を思い浮かべながらネックを作り弦を張った。夜中の森でこっそりおこなわれる黒人たちのダンスパーティーには欠かせない楽器だった。昭和の初期、電気吹込みを迎えたレコード会社でもバンジョーは伴奏に使われていた。コロムビアでは坂井透、ビクターは井田一郎、ポリドールの細田定雄と演奏者がいた。フォックス・トロットのジャズ・ソングには欠かすことのできない楽器だった。武井守成は、ジャズに使われるバンジョーとマンドリンとの融合は避けていた。マンドリンオーケストラにバンジョーはとても考えられなかった。これも型破りなことだった。ロッシーニの《セビリアの理髪師》と《セミラミデ序曲》が演奏されている。また、ロッシーニ独特のクレッシェンド効果をマンドリンで表現したことによって、また、ひとつその楽器の可能性の限界を破っている。この演奏会では、古賀が作曲した《文のかおり》《青い小鳥》《娘心》が演奏された。独唱者に三村祥子が出演し、古賀作品を歌った。声楽家がバンジョー・マンドリンの伴奏で歌うことは今まで例がなかったことだった。また、邦人歌曲がマンドリン合奏によって演奏されることも最初であった。古賀はついにマンドリンオーケストラで自作の曲を発表したのである。また、バンジョウ・マンドリンの部では《その微笑み》(ウェット曲)《踊る女王》(マチョッキ曲)《エメラルドワルツ》(グリムメ曲)が演奏された。フィナーレは、明大校歌をモチーフにマーチ風にアレンジしたた《明治行進曲》だった。マンドリンとバンジョーで青春の躍動を見事に表現したのである。昭和四年十二月二十三日、ビクターレコードで《文のかおり》(古賀正男・作詞/古賀正男・作曲)《娘心も》(浜田広介・作詞/古賀正男・作曲)《青い小鳥》(作詞者・不祥/古賀正男・作曲)らが吹込まれた。自分の作品が当代随一の人気歌手佐藤千夜子の歌でレコードになる。

 昭和五年十月三十一日、第十七回明治大学マンドリン倶楽部定期演奏会が開かれた。このコンサートでは、かなり思いきったオーケストレーションの編成を試みている。マンドリンとバンジョーを組み合わせた編成である。

 第1マンドリン六名/第2マンドリン七名/マンドラ五名/リュート一名/マンドセロ二名/マンドローネ一名/ギター六名/ギターローネ一名/ティンパニー一名。これがマンドリンオーケストラの編成である。バンジョーオーケストラの編成はつぎのとおり。第1バンジョー四名/第2バンジョー四名/マドンドラバンジョー三名/テナーバンジョー一名/ギターバンジョー三名/マンドローネ一名/ギターローネ一名/ドラム一名。この編成で古賀政男の《丘を越えて》の原曲である《ピクニック》が初演されている。

 古賀は、二つのオーケストラを指揮した。さらに同演奏会では、マンドリンの可能性を広げるクラシックの数々、淡谷のり子の《帰れソレント》や童謡などの独唱、カンツォーネ、タンゴ、童謡舞踊と四部構成に分けてかなりバリエーションが広かった。また、第1マンドリン/第2マンドリン/マンドラ/ギター/マンドセロとマンドリン五重奏のアンサンブルの演奏もおこなわれている。さらに、童謡では、淡谷の歌に内海雄子の振り付けによる舞踊が花を添え、優雅なステージを披露した。淡谷のり子は、後に歌謡界の女王として君臨するが、この頃はポリドール専属とはいえ、まだソプラノ歌手としてクラシックに身をおいていた。リリー・レーマンの弟子、久保田稲子に鍛えられた淡谷のり子のソプラノは、昭和六年、コロムビアに移っても初期の古賀メロディーにおいても名唱が多い。
  昭和六年十一月一日、記念館講堂において前夜の興奮も冷めないうちに、古賀政男が率いる明治大学マンドリン倶楽部は、復興記念式典の余興に出演する。この記念式典余興には、マンドリン倶楽部の外、明大管弦楽、明治大学謡曲部、明大虚竹会、明大ハーモニカソサエティーが講演・演奏を行っている。明大マンドリン倶楽部の演奏は、古賀政男の指揮で《明治大学校歌》で開幕した。つづいて《ドンホセ》、《青い小鳥》、《帰れソレント》と続き、最後に《丘を越えて》が演奏された。明大マンドリン倶楽部の演奏は、母校明大校歌でオープニングした。最後に青春の二度と帰らぬ思い出を託したマンドリン合唱曲の《ピクニック》でフィナーレを飾るあたり、古賀の誇りある青春への思いを感じることができる。少年のささやかな音楽体験、故郷喪失、マンドリン倶楽部での青春の感傷と躍動、これが古賀政男芸術の叙情核なのである。 「青春」は、近代日本が生み出した学歴社会、学校歴社会が舞台装置となって成立する。「青春」というテーマを流行歌の世界に持ち込まれることによってそれまで無縁であった一般大衆との「心理装置としての共有財産」が可能になったのである。青春の躍動感を溌剌と歌う藤山一郎の登場によって古賀メロディーの「陽」の世界が完成するのだ。古賀の躍動は、幻想的にしか映らない遥かかなたの希望を求めて自慰するものではない。疑似的明るさをもって奏でる虚しいリズムでもないのである。失業と戦争への不安からの逃避からうまれた空元気な狂騒とはあきらかに質をことにしていた。マンドリン倶楽部にうちこんだ二度とかえらぬ青春への愛しさがメロディーを弾ませているのだ。だから、後でものべるが学校・学園を装置にして青春という躍動を初めて音楽をとおして表現できたのである。古賀政男の指揮は躍動に溢れていた。マンドリンの軽快なスタッカートがますます古賀の指揮に華やかな躍動をあたえた。《丘を越えて(原曲・合奏曲ピニック)》は古賀政男の青春の譜の象徴だった。古賀は、指揮をしながら、去年のことを思い出した。卒業学生時代の終わりに、倶楽部のメンバーと花見を兼ねたピクニックに行った。古賀は、卒業を迎えた春も同じようにマンドリン倶楽部の後輩たちと小田急沿線の稲田堤にハイキングにいった。ちょうど桜が満開になる頃だった。いつものように焼酎を一本さげてでかけた。古賀は焼酎に砂糖をかきまぜて飲むのが好きだった。

 この日の思い出は、古賀の自伝につぎのように記されている。

「ハラハラとこぼれる桜の花びらをさかなにしこたま飲んで酔っ払い、さんざん唄い騒いでその日も暮れた。下宿に帰って帽子を脱ぐと、ビジョウのところに桜の花びらが一枚はりついでいる。この花びらをじっと見つめているうちに、昼間楽しかったハイキングの情景がよみがえってきた。学生時代さいごの花見か二度と返らぬ若さがかぎりなくいとしくなってきた。そのとき、軽快なマンドリンの音(ね)が頭に響いてきた。頭の中のメロディーは次ぎからつぎへと、おもしろいように変化していった。私はマンドリンを取り上げて楽譜に写していった。」(『自傳わが心の歌』)

 古賀は無性に楽しかった。将来の不安を一瞬忘れ最後の青春を謳歌した。古賀は、手にとったマンドリンを奏でながら、自分が今まで弾いた楽曲、技巧練習の譜面が頭のなかでかけめぐった。おもしろいように運指が移動する。和音が挿入された継続的なトレモロのメロディーを弾いてみる。トレモロのメロディーに同時に奏される和音の美しい連続が続く。まるで異なった楽器で二つの楽器で弾いているようだ。次第に古賀の想像力がメロディーを変化させていく。おもしろいようにつぎからつぎへと音形が創られる。古賀はいそいで五線譜に書き記した。キは#二つに決め音符を埋めていたったのである。こうしてあの名曲《丘を越えて》が誕生したのだ。《ピクニック》は、やがて、《丘を越えて》(島田芳文・作詞/古賀政男・作曲)となり昭和六年十二月新譜で発売された。歌唱者は藤山一郎。

 

 丘を越えて行こうよ

 真澄の空を朗らかに

 晴れて たのしいこころ

 鳴るは 胸の血潮よ

 讃えよ 我が青春を

 いざゆけ 

 遥か希望の丘を越えて

 

 藤山一郎は、この《丘を越えて》を吹込むときは、前回の《酒は涙か溜息か》とはうって変わって、マイクから相当離れた位置で、しかもメリハリをつけて、あくまでもきれいにクリアーな声で、声量たっぷりと、声は溢れさせないように唄っている。藤山は、よく「声を蒐める 」と自分の声の共鳴のコントロールについて言っていたが、まるで、ステレオのボリュームを自由自在に調節するように共鳴を変化させることができるのである。さらに、ファルセットと実声が連動しているので、メッツァヴォーチェからスピントをかけた張りのある美声まで共鳴の増幅が可能なのである。《丘を越えて》は、限りない青春賛美の曲である。四十六小節からなる前奏の軽快さは、明るさは青春の特権である若さと希望の表現である。楽壇の雄山田耕筰が日本人の作曲家を外国で誇る時にこの《丘を越えて》のレコードを聴かせたそうである。山田自身も明朗性を表現する日本人の音楽作品として高い評価を与えていたのだ。《丘を越えて》は、従来の流行歌にはなかった学生という「社会層の特権的な享受において、かろうじて成立」する「青春」をテーマにしていたことはすでにのべた。青春と流行歌をむすびつたけたことは昭和の流行歌において画期的なであった。 

 古賀は、昭和二年以来、倶楽部の改革を断行し、マンドリンの可能性の限界を突き破る基礎ができあがったことに満足と充実感を覚えた。思えば、生活に追われた新入部員の時代は辛かったが、後は、マンドリン・ギターに打ち込んだ充実した学生時代であった。だが、古賀は青春のいとおしさを思うと涙が込み上げてきた。声高らかに青春の血潮を躍らせ喜びを噛み締めながら社会の荒波に船出することを思えば、さらに青春がいとおしくなるのである。マンドリンの情熱と感傷の響きを聴きながら、二度と帰らぬ青春よ永遠にという思いを込めて古賀正男のタクトは力強く振られたのである。


 《古賀メロディーの隆盛》

  昭和六年、暗い世相を背景に古賀メロディーが一世を風靡した。それは明大マンドリン倶楽部の第一期黄金時代の開幕でもあった。その過程において、クラシック・ポピュラー界の四人の巨星が明大マンドリン倶楽部における古賀政男の音楽を豊かにしてくれた。藤山一郎が豊かな響きを可能なかぎりクルーン唱法にかえて古賀メロディーの真髄を表現した。藤山一郎は、古賀政男の「ジャズと都々逸の距離を縮める」という意図を理解していた。詠嘆的抒情性を効果的に表現するために、クラシックから習得した歌唱法から、歌劇の中の語りの部分、叙唱(レチタティーヴォ)法を用いている。オペラには、詠唱(アリア)のみならず、その進行や叙景部分を説明する「語り」唱法というものがある。「語りもの」という点においては日本音曲、義太夫、謡曲、小唄、長唄、清元、端唄と共通性があるのだ。詠嘆的抒情の表現に適している。しかも、普通の話し言葉と歌の中間的なものといえる叙唱は、簡単な和音伴奏で歌われることがあるので、ギターの伴奏にはマッチしたのである。 昭和六年には古賀政男の青春の躍動がレコードになった。同年十二月新譜で《丘を越えて》(島田芳文・作詞/古賀政男・作曲)が発売された。藤山一郎は、この《丘を越えて》を吹き込むときは、前回の《酒は涙か溜息か》とはうって変わって、マイクから相当離れた位置で、しかもメリハリをつけて、あくまでもきれいにクリアーな声で、声量たっぷりと、声は溢れさせないように唄っている。藤山は、まるで、ステレオのボリュームを自由自在に調節するように共鳴を変化させることができた。さらに、ファルセットと実声が連動しているので、メッツァヴォーチェからスピントをかけた張りのある美声まで共鳴の増幅が可能なのである。宮本旅人がかつて藤山一郎を「あの美しく若々しき風貌そのままの、青春を讚へる歌を唄はせれば天下一品である。又、古賀メロディーの一番の特色であるセンチメンタリズムの表現も、この藤山の右に出づる歌手はない」と評したことも納得できる。藤山一郎は明治四十四年日本橋蠣殻町に生まれる。本名増永丈夫。慶応幼稚舎時代に童謡を吹込む。幼少の頃から、山田源一郎、本居長世、弘田龍太郎、梁田貞らに音楽を学ぶ。昭和四年、東京音楽学校(現東京芸術大学音楽部)に入学。声楽を梁田貞、船橋栄吉、ヴーハーペニッヒ、作曲・指揮法・音楽理論をクラウス・プリングスハイムに師事し、将来を嘱望される。在学中藤山一郎として《キャンプ小唄》でコロムビアからデビューする。昭和八年、首席で卒業しビクター専属となる。流行歌、ジャズ、タンゴなどのポピュラー曲、外国民謡、内外の歌曲、独唱曲等を吹込む。声楽家増永丈夫としてベートーヴェンの《第九》等をバリトン独唱するなどクラシックと流行歌を両立する。後にテイチク、コロムビアと移り、《東京ラプソディー》《青い背広で》《青い山脈》《長崎の鐘》などのヒット曲に恵まれた。バリトンの本来の美しいテノールの音色を持ち、その声量豊かな確実な歌唱は、正格歌手としての声価を高め人々に生きる勇気と励まし・希望をあたえた。昭和三二年、放送文化賞、昭和四十八年紫綬褒章、昭和五十七年勲三等瑞宝章、平成四年国民栄誉賞とその音楽人生は栄光に満ちている。藤山一郎と古賀政男の二つの芸術が歩みよってこそ、古賀メロディーは、「青春」という普遍的な価値を得るといえる。 テノール歌手奥田良三は、叙情的な音色をいかしイタリア民謡、ドイツの民衆歌謡、日本歌曲、コンチネンタルタンゴ、《マッティナータ》(レオンガヴァルロ・作曲)などのイタリア古典歌曲、シューベルトの歌曲集、歌劇《サダコ》のアリアなどを独唱しマンドリンの魅力を高めた。奥田良三は、明治三十六年六月十二日、札幌に生まれる。大正十三年、東京音楽学校を中退しイタリアに留学。ローマ・サンタ・チェチリア音楽院で学ぶ。昭和八年にはベルリン音楽大学研究科を修了した。リリコ・レジェーロのテノールは、ポリドールレコードから発売された内外の歌曲においてその叙情性は定評があり、明大のステージでも多くの聴衆に感銘をあたえた。殊に古賀政男のギター伴奏による《城ヶ島の雨》は、日本情緒に溢れ美しいイタリアベルカントの響きは好評だった。昭和四十八年、勲三等瑞宝章受賞。現役のテノール歌手として最後までステージに立った。美貌のソプラノ歌手関種子、オペラのアリアなどの古典楽曲の独唱もまたマンドリンの魅力を伝えるものであった。関種子は、昭和四年東京音楽学校を卒業し、その年の暮れオペラ《堕ちたる天女》で好評を博した(奥田良三は少年の役出デビュー)。彼女は、初期の古賀メロディーも多くレコードに吹込んでいる。《乙女心》(鹿山鴬村・作詞/古賀政男・作曲)《窓に凭れて》(島田芳文・作詞/古賀政男・作曲)《美わしの宵》(島田芳文・作詞/古賀政男/作曲)《嘆きの夜曲》(西岡水朗・作詞/古賀政男・作曲)。また、戦前・戦後のオペラでも活躍。ミカエラ、ルチア、ヴィオレッタの役をこなした。後年、国立音楽大学の教授として後進の指導にあたった。 ジャズ、シャンソン、タンゴなどの外国曲を妖艶なソプラノで歌う淡谷のり子の歌唱も戦前、昭和十年前後の明大マンドリン倶楽部のステージには欠かせない存在であった。淡谷は、「十年一人のソプラノ歌手」と山田耕筰絶賛されるほどの逸材だった。だが、彼女の豊か声楽家としての資質はポピュラー音楽で花開くことになる。《私のリズム》(柏木晴夫・作詞/ゴールドシュタイン・作曲)、スペインの歌姫ラケル・メレのヒット曲《ドンニャ・マリキーター》(瀬沼喜久雄・訳詞/アルダバイン・作曲)、ペセンティ楽団のレコードで紹介された《ポエマ》(奥山靉・訳詞/エドゥアルド・ビアンゴ/マリオ・メルフィ・共作)コルシカ生まれのシャンソン歌手ティノ・ロッシの名声を決定づけた《ヴェニ・ヴェニ》(桐山麗吉・作詞/スコット・作曲*中野忠晴・共演)、ラケル・メレの情熱的な歌唱でヒットした《ヴェニ・ヴェン(月光の光りに)》(千塚徹三・作詞/ラファエル・ゴメス/アルバロ・レニエール・共作)、《ラ・クンパルシータ》(高橋忠雄・作詞/マトス・ロドリゲス・作曲)、シカゴの黒人の間で流行していたヴギウギのリズムをポピュラー音楽に初めて取り入れたラテン調の《ダーダネラ》(桐山麗吉・作詞/フェリックス・バーナード/ジョニー・S・ブラック/フレッド・フィッシャー・共作曲)、ダミアの最高傑作《暗い日曜日》(清野協・作詞/セレス・作曲)《人の気も知らないで》(奥山靉・作詞/キイ・ゾカ・作曲)等々。豊富な名唱である。流行歌においては昭和十二年、《別れのブルース》(藤浦洸・作詞/服部良一・作曲)がヒットし「ブルースの女王」の名を欲しいままにした。昭和八年から十年にかけては、まだモダニズムの余韻が漂っていた。ダンスホール、レビュー劇場などで、ジャズのリズムが大衆に受けいられていたのだ。この時代の若者の心を捉えたのは、フランス映画、ドイツ映画などの主題歌や、シャンソン、タンゴ、ジャズ系のポピュラーソングであった。当時の若者には、軍国主義に国家が傾斜する時代思潮を敏感に感じ、それを否定する心情から日本的なものに反発する風潮があった。古い日本の封建性の賛美や国体の強調に対して少なからずとも嫌悪を示すために洋楽物を愛好したのである。昭和九年、五月十五日に古賀文芸部ともいうべきテイチクの東京文芸部が発足する。川崎清を部長に、原野堅二、小山令道(義雄)、茂木了次、宮崎良治、清水保雄、東堂守三ら明大マンドリン倶楽部の後輩も古賀の下に馳せ参じた。いわゆる、「七人の侍」といわれ、古賀とは明大の青春を共にした連中である。古賀政男を父とするなら、彼らは子である。また、古賀政男を兄とするならば、彼らは弟であり、古賀政男を師と仰ぐならば、弟子なのである。古賀政男の明大マドリン倶楽部を手塩にかけて育て上げ一流のマンドリンオーケストラに仕上げ、その中から育ってきた後輩たちが、テイチク時代の古賀政男を支えて行くのである。ということは、明治大学が駿河台の青春のプレリュードなら、テイチク時代こそ、その開花といえるのではないかと思う。 明大マンドリン倶楽部も華やかな時代を迎えていた。当時部員は50〜60名ぐらいいた。古賀政男自身も認めているように、昭和十年前後が純粋な意味での本当のマンドリン倶楽部の姿じゃなかったのかと述べている(『青春よ永遠に』の座談会)。当時の部員は楽器も相当高価なものを使用していた。ヴィナチェは、110円から120円、ギターは100円前後、アコーディオンはその3倍だった。大学の授業料が90円の時代だから、かなり高価な楽器であったことは分かる。中村屋のカレーライスが10銭、鰻丼が20銭、神田共栄堂の定食が30銭、そして、50銭もって銀座に行って麻雀やってコーヒーを飲んで帰れた時代である。竹岡信幸が流行歌の作曲で売れ出し、斎藤鉄男も編曲、演奏でレコード会社で活躍しだすと軽音楽ブームにのって、明大マンドリン倶楽部もレコードを吹込みことになる。昭和九年十二月三日第二十四回定期演奏会では、第三部において《グットナイト・スィート・ハート》《コロラドの月》《キャリオカ》などの軽音楽が演奏された。また、演奏旅行も《丘を越えて》《影を慕いて》《酒は涙か溜息か》などの古賀メロディーの隆盛に乗って全国規模となった。 昭和十年に入ると、いよいよ、古賀政男はヒット量産体制にはいる。昭和十年二月十五日、古賀・楠木コンビの最初の大ヒット曲《白い椿の唄》が発売された。楠木繁夫は<雪もかがやけ 青春の 花は涙のおくりもの>と感傷的な哀愁を切実に歌っている。菊池寛の小説『貞操問答』が入江プロ、新興キネマによって映画化され、その主題歌が古賀に依頼されたのだった。古賀が早くから映画とタイアップした作品を考えていたのでまさに渡りに船という感じがした。 この頃の映画主題歌は、大正後期の映画小唄や昭和初期の映画と流行歌の関係とは異なっていた。つまり、主題歌だけではなく映画の音楽録音をすべて行う「コンビナート作戦」の始まりである。それは、映画のシーンのなかに流して効果をあげるというふうにストーリーの流れと場面にあわせて主題歌をアレンジしながら挿入しテーマとなる旋律をリフレーンさせることによって効果をあげ、歌の宣伝にもなった。したがって、映画の企画の段階からレコード会社と提携し映画のなかにレコード会社の作る歌を映画のなかに挿入してもらうかわりに、映画の音楽録音はすべて無報酬でレコード会社が手伝うという方式がはじまったのである。この方法を最初に行ったのがテイチク時代の古賀政男であった。古賀メロディーがその役割をはたした映画は、渡辺邦男監督『うら街の交響楽』である。テイチクと日活の提携第一回作品である。音楽は全編古賀が作曲指揮した。そして、その主題歌が《恋は荷物と同じよ》(瀬川与志・作詞/古賀政男・作曲)である。ハワイ生まれの二世ジャズ歌手川畑文子とデイック・ミネが歌った。映画《のぞかれた花嫁》の主題歌、モダニズムの甘い余韻を残す《二人は若い》が今までの古賀メロディーとは趣を異にしていた。しかし、デック・ミネと星玲子のデュエットでヒットした。《二人は若い》は、日活映画『のぞかれた花嫁』の挿入歌である。映画は監督が大谷俊夫、出演は杉狂児、星玲子。また、歌の作詞の玉川映二はサトウ・ハチローの変名である。氏は当時、ポーリドールの専属だった。そして、テイチクの黄金時代の開幕と独走が始まる。日活映画『緑の地平線』の主題歌《緑の地平線》のヒットであった。


[藤山一郎と三浦環の共演]

 昭和十年十月新譜である。昭和十一年に入ると、ビクターから藤山一郎が迎えられ、古賀メロディーの全盛期が確立する。その年は二・二六事件が起こり、軍部の政治発言力も高まるが、まだ、平和へ賛歌が音楽に表現されていた。 昭和十一年六月十六日、日本青年館で第二十六回明大マンドリン倶楽部定期演奏会が盛大に開催された。明大マンドリン倶楽部の第二期黄金時代の開幕でもある。この演奏会では倶楽部の五十年史『青春よ永遠』によると「初めて立案構成の文字がプログラムに印刷され、舞台装置と照明の文字もつけ加えられて」いたという。新時代の幕開けにふさわしい試みであった。昭和十年前後に歌謡ショーの原型ができあがったと云われているが、その影響も当然ある。この演奏会では、初めて古賀メロディーの特集が企画された。第三部に『アラベスク・古賀政男想い出の名曲集より』というタイトルである。指揮は当然古賀政男。プロローグ《丘を越えて》で始まり、エピローグが《東京ラプソディー》でフィナレーを飾っている。歌は、藤山一郎、岡島貴代子らが歌い、アコーディオンの二重奏、高田澄子、柴野治子、上村トシ子らの踊りまじえて華やかなステージ・ショーが見られた。因みに一部、二部は、古典とセミクラシックの歌曲の組合せで構成されている。特筆すべきことは、第二部で世界的プリマドンナ三浦環がイタリア民謡《オオ・ソレミオ》(カプア・作曲)の後に古賀メロディー《忘れなの花束》と《乙女心》を歌っていることである。また、第一部では、藤山一郎がイギリス民謡《永遠の誓い》と《谷間の小屋》を声楽家増永丈夫(バリトン)で歌ったことも注目される。《蝶々夫人》で海外で名声を博した三浦環と「上野最大の傑作」といわしめた流行歌の寵児藤山一郎の共演は、多くの聴衆に感銘をあたえたといえる。さらに、同年秋の二十七回定期演奏会では、男女の混成合唱(ホワイト合唱団)を加えたり、藤蔭静枝門下と歌手の美ち奴を参画させ《春雨》《木曾路の月》《深川祭》《むらさき節》《満州節》《かっぽれ》などの舞踊と歌謡曲の構成によってステージに変化をつけている。昭和十一年以後、古賀メロディーの全盛はいっそう加速する。《男の純情》(佐藤惣之助・作詞/古賀政男・作曲)《女の階級》(村瀬まゆみ・作詞/古賀政男・作曲)《青い背広で》(佐藤惣之助・作詞/古賀政男・作曲)《青春日記》(佐藤惣之助・作詞/古賀政男・作曲)《人生の並木路》(佐藤惣之助・古賀政男・作曲)と大ヒットが続いた。また、竹岡信幸も昭和十一年《人妻椿》(高橋掬太郎・作詞/竹岡信幸・作曲)《支那の夜》(西條八十・作詞/竹岡信幸・作曲)をヒットさせ流行歌作家としての地位を安定させた。 昭和十三年四月二十九日、古賀は《人生劇場》(佐藤惣之助・作詞/古賀政男・作曲)の吹き込みを終えると、テイチクの退社宣言をしている。南口社長に「うっかりしていると骨のずいまでしゃぶられる」という不安と契約更新における金銭的対立から端を発して、若いディレクターたちの思い上がり、そして、古い重役たちからの嫉妬に古賀自身が耐え切れなくなったのである。実際おもちゃのようなレコード会社だったテイチクをここまでにしたのは、南口の商才もあったと思うが古賀の力によるものが大きい。古賀自ら行った社紀粛正に自分の力と錯覚して甘い生活に溺れている若いデイレクターや古株の重役から相当の反発があったことは確かである。正義感からつい語義を荒立てる賀の態度が傲慢に受け止められたこともしばしばあった。同志と信じていたマンクラ以来の後輩からも「お山の大将気分」が抜けないという陰口も叩かれたこともあった。《人生劇場》の〈義理がすたればこの世は闇さ〉の歌詞は、当時の古賀の心境そのものといえる。しかし、古賀自身も非常に辛かった。自分で育てあげながら、テイチクに見切りをつけて身を引かなければならなかったことは断腸の思いであったであろう。戦時の色が濃くなりはじめた頃だった。古賀はアメリカに旅立った。昭和十三年十一月八日(火)日本青年館での第三十一回明大マンドリン倶楽部定期演奏会における第三部「古賀政男渡米送別の譜」では《丘を越えて》でフィナーレを飾っている。

[古賀政男の渡米]

古賀の渡米は、日中戦争を早期解決し悪化しはじめた日米関係を修復するための「文化使節」の大役をになっていた。とは言いたいが、下嶋哲朗氏の『謎の森に棲む古賀政男』によると事情はかなり異なる。このへの事情は氏の著書を参照して頂きたい。この渡米において特筆すべきことは、古賀メロディーが一分間の放送料が一万ドルといわれたアメリカのNBC放送の電波にのったことである。下嶋哲朗氏は「放送時間は二カ月待たされてわずかに十五分間」とのべているが、放送されたこと自体が名誉なことであり、古賀メロディーが認められたことにはかわりはないのだ。《酒は涙か溜息か》《緑の月》《男の純情》《ああそれなのに》《丘を越えて》など数曲放送された。これは、まさに歴史的なことだった もとの話は、アメリカの新聞ニューヨーク・タイムズの東京特派員として来日していたバートン・クレーンが、帰国後、古賀の作品を持ち帰ったことに始まる。クレーンは、早速ジャズ王ビンセント・ロベツに古賀の曲を聴かせ、「一九三八年の米国楽壇を征服するものは日本メロディーだ」と叫ばさせてしまった。ロベツは、さらにこの古賀メロディーの美しいメロディーに感激して、自ら編曲をして楽譜をアメリカで出版した。昭和十三年、春には、もう全米では古賀メロディーが流れていた。まず、米国の歌姫、グレース・ムアーが《酒は涙か溜息か》を歌って、続いてメトロトロポリタン歌劇場の人気歌手のリリーポンスが、《二人は若い》を歌い、古賀の甘美なメロディーが好評を博したのである。 クレーンは、この年の秋の初めに古賀メロディーを主題とした演劇脚本を書き下ろして、その舞台に指揮者とした古賀を招きたいという趣旨を日本外務省に申し込んだ。彼は以前、日本に来日してジャズソング《酒のめば》を作曲してコロムビアに売り込み自ら歌ってヒットさせたことがある。古賀メロディーの愛好家でもあった。クレーンの申し出に当時日米関係融和に腐心していた外務省はすぐに快諾したのである。昭和十三年、十一月、古賀は、秘書の清水柾男(保雄)とともに龍田丸(浅間丸)で横浜を出発した。浅間丸は、その頃の太平洋航路の女王といわただけあって、内部の調度を見ても日本の一流ホテルをはるかに上回る豪華な造りをしていた。豪華巨船浅間丸の甲板に立った古賀には、希望が輝く微笑みが、しだいに遠くなっていく見送りの人の方に向けられていた。古賀はついに世界の古賀へと旅立ったのである。アメリアカの消費経済がもたらした昭和流行歌の王座に君臨した古賀は、自分のメロディーを世界の人々が聴き歌うのだと思うと喜びで胸の高まりを抑えることができなかった。 
  古賀は、アルゼンチンのギターの最高権威者アントニオ・シノポリにギターの指導を受けた。古賀の手は日本人の平均寸法よりも小さく指も短い。弦楽器を操作する場合には致命的である。西洋楽器は、西欧人の体格、つまり指の長さを標準にして作られているのでもともと日本人の基準には合わない。だが、アントニオ・シノポリは古賀を励ました。古賀は、シノポリからギターの持ち方からやり直して勉強したのである。古賀政男のギターへの情熱が謙虚な姿勢を生んだといえる。昭和十四年、十月十日、古賀政男は、外務省音楽親善使節としてアメリカ、南米を外遊し多大な功績を残して帰国した。帰国後、秋の第三十三回定期演奏会(昭和十四年十一月三十日)でラテン音楽が演奏された。このとき打楽器パートがラテン・リズムを演奏することになった。だが、ラテンリズムの楽器がない。当時の部員の大森信夫は長さ一尺くらいの竹筒に小石をいれ前後にふった。「ザッザッ」の音がカバーサになった。同じく部員の辻田了亮典は、ヘチマとヒョウタンのあいのこのようなものに傷をつけてヘアーピンでこすって「ギーギー」というグィロの音を出した。この演奏会では「淡谷のり子とその楽団」がルンバ・タンゴで多彩なレパートリーを演奏したので、この部員らによる珍無類の原始的な楽器で必死に演奏したのであった。完全な成功を収めたとは言い難いが、マンドリンと異種楽器の融合・同化・冒険という信念が後の時代に継承されたといえよう。したがって、この戦前の、駿台スピリットともいえる部員のチャレンジ精神が戦後の「ラテンの明治」を生み出すことになるのである。昭和十五年第三十四回定期演奏会ではオーケストラ編成が四十名の規模に達する。かなりの編成メンバーをとった。1stマンンドリン7、2ndマンドリン7 マンドラ5、ギター11 マンドリュート1 マンドセロ1 マンドローネ1 ギターローネ2 アコーディオン3 オーボエ1 フリュート1。同演奏会においては尺八の吉田晴風氏と琴の坂本郁子を招いて、宮城道雄の《春の海》を演奏した。マンドリンオーケストラと箏曲の融合も一つの試みといえた。 昭和十五年は、コロムビアに復帰した古賀政男の快進撃が始まる。《誰か故郷を想わざる》(西條八十・作詞/古賀政男・作曲)《なつかしの歌声》(西條八十・作詞/古賀政男・作曲)《新妻鏡》(西條八十・作詞/古賀政男・作曲)などがヒットした。歌手は、藤山一郎、伊藤久男、霧島昇、松原操、二葉あき子らが古賀メロディーを彩った。明大マンドリン倶楽部の華やかなステージは、太平洋戦争の勃発によって終焉した。昭和十七年十一月二十三日、第三十九回の定期演奏会の倶楽部の名称は、「明治大学報国団文化教養部文化班マンドリン倶楽部」となっている。同演奏会ではテノールの奥田良三と関種子が《椿姫》より《乾盃の歌》を二重唱し華やか舞台を演じた。昭和十八年十月には、在学徴収延期臨時特例が公布され、文科系の学生・生徒の徴兵猶予が停止となった。同年十二月には第一回学徒出陣。明大マンドリン倶楽部は、昭和十八年六月二十日、第四十回定期演奏会(明治大学記念講堂)を最後に解散を余儀なくされた。この演奏会のプログラムの冒頭にはつぎのような言葉が寄せられている。「輝やかしき伝統を誇る我が明大マンドリン倶楽部も、創立以来、歳を重ねる事20年、此処に第40回記念演奏会を開催す事となりました。顧れば奮闘と努力に充ちた20年間でありました。其間毎年幾人かの卒業生諸兄を送り出さねばならぬ事、当然の事とは云へ、私共にとっては良き兄であり、指導者であった懐かしき諸兄を、今秋送らねばならぬ事は、一抹の寂しさを感ぜずには居られません。 然し翻って思へば、一人でも多くの人材を要求して居る現時局下に、斯くも有為なる諸兄を送り出す事は、倶楽部にとって又国家にとって真に喜ばしい事であると信じます。願はくば過去の導き経験より得らましたる忍耐力と情熱と強固なる意思とを持たれまして、或いは第一線に、或は産業報国に向かって御健闘せられん事を部員一同御祈りして止まぬ次第であります。終わりに、斯くも立派に倶楽部を育てゝ下された古賀政男先生初め諸先輩の涙ぐましいき努力と、皆様の力強き御後援に対しまして、心からなる感謝の言葉を捧げまして、御挨拶に代へる次第であります」

 出陣する卒業生の演奏曲は、《ローマの思い出》(フランシィア・作曲)だった。古賀通人、川野安道、辻田亮典、照井清治、小池卓三、伊東昇、斎藤栄一。この演奏会では独唱者の伊藤久男、松原操を迎えて、悲壮溢れる《英霊讃歌》と《海ゆかば》がコーラスとともに歌われた。終曲は、《イ長調》。我が友との再会と倶楽部の再起を期しての演奏だった。



《戦後-新たなる出発》

昭和二十年八月十五日、玉音放送が流れた。国民は、虚脱状態のまま、この放送を耳にしたのだ。天皇が国民にむかって肉声を発することは前例のないことである。雑音のなかからとぎれとぎれに聞こえてくる言葉を聞いていると、国民は、初めて経験する無条件降伏の悲哀と屈辱を実感した。だが、一方では戦争終結によって死の恐怖から解放された安堵感もあった。とはいえ、絶望と不安が新たな時代への希望と複雑に交錯していたのもまた事実である。この多様な民衆心理に一瞬咲いた明るさが《リンゴの唄》(サトウハチロー・作詞/万城目正・作曲)といえよう。昭和二十一年十月二十日、明大マンドリン倶楽部は、共立講堂における第四十一回定期演奏会で復活の狼煙をあげた。1stマンドリン6、2ndマンドリン8、マンドラ6、ギター10、マンドリュート1、マンドセロ、コントラバス、アコーディオン、ハープ、打楽器各1という編成だった。戦後の復興と民主主義の風を呼ぶかのように第一部の古典では《軽騎兵序曲》(スッペ)が高らかに演奏されている。二部では、マンドリンオリジナル曲《イ短調序曲》(ヴェルキ)《訣れ》(サルトリ)《幻想的組曲》(プーシェロン)などが演奏された。三部では、藤山一郎、霧島昇、松原操、近江俊郎、奈良光枝などが古賀メロディーの名唱を披露した。 昭和二十三年、《湯の町エレジー》(野村俊夫・作詞/古賀政男・作曲)が大ヒットした。古賀政男は、昭和二十三年の春、伊東温泉で開かれた倶楽部の送別会で後輩たちの前でできたばかりの《湯の町エレジー》の旋律をギターでつま弾いて聞かせた。ところが不評だった。学生たちの感覚にはピンとこなかったのだ。岡晴夫の歌や、「ヴギウギ」が流行していた時代に哀愁を帯びたは、もう古臭く感じられたのだろう。だが、《湯の町エレジー》は、近江俊郎の歌で大ヒットする。これによってギター流しのスタイルも確立した。また、この年、古賀政男は「古賀ギター歌謡学院」を設立した。古賀メロディーの復活には世相が影響していた。日本の経済は、終戦後から数年間、木の葉のように揺れ動いていた。食糧難、物資欠乏、戦時補償による日銀券の発行などによる猛烈なインフレーションから、一転して経済安定九原則の具体化といえるドッジ・ラインのデフレ政策による不況は、戦後の混迷する日本経済をなかなか立ち直らせなかった。しかも、その間の激しい労働争議や、下山事件、三鷹事件、松川事件など不可解な事件が起こり混迷を極めていた。暗い不安定な世相が古賀メロディーを大衆に要求させた。だが、昭和二十五年六月、朝鮮半島の北緯38度線での戦闘によって勃発した朝鮮戦争は状況を一変させた。朝鮮戦争におけるアメリカ軍の膨大な軍事物資が日本で生産されたため、繊維・金属を中心とした産業界は活気づき特需ブームのおかげで好景気となったのである。占領政策から逆コースという時代のなかで、民衆の生活感情の様性を理解しながら、その意識の奥に潜む情念を揺り動かすような民衆歌曲の創作が求めだされていた。ラジオ歌謡の隆盛もその一環といえるのではないか。 戦後の明大マンドリン倶楽部は、五〇名を越す大オーケストラ編成で演奏するようになる。基本編成はつぎのとおり。第1マンドリン8〜10、第2マンドリン8〜10、マンドラ5〜8、ギター10〜15、マンドセロ1、マンドリュート1、マンドローネ1、ギターローネ1、コントラバス2〜4。これに打楽器、アコーディオンが2〜3入る。昭和二十七年第五十回記念演奏会では、マンドリンオリジナル作品の《海の組曲》(マアディー)、斉田愛子、関種子、藤原義江らが歌唱する古典歌曲からオペラのアリア、イタリア民謡などのクラシックの名唱、宮城道雄の《さくら変奏曲》《春の海》などの箏曲を交え多彩な舞台だった。日本の軽音楽に一枚のレコードが衝撃をあたえた。ザビア・クガート楽団の《エルマンボ》である。マンボがラテンの新しいリズムとして注目された。明大マンドリン倶楽部もパーカッションの充実を図る。古賀政男は、日本初のラテンバンド東京キューバン・ボーイズに部員を打楽器の練習に行かせた。以前からマラカス、タンバリンはあったが、それに昭和二十八年頃、コンガ、ボンゴ、コーベルが加わった。《マンボNO5》などもマンクラのレパートリーに入ってきたのもこの頃だった。マンボリズムをいち早く取り入れた明大マンドリン倶楽部は「マンボの明治」なる言葉を生み出した。パーカッションの充実をはかった明治は、当時人気を呼んでいた「六大学音楽リーグ戦」でもいかんなく実力を発揮した。《アレゼチンの花祭》《ベサメ・ムーチョ》《嘆きのブルービギン》などが好評だった。昭和二十九年、十一月二十日、第五十五回定期演奏会で戦前からのリズムの試行錯誤の成果が出る。南里文雄のトランペットとJ・Cハート氏のドラムスとの共演は、ポピュラー、ジャズの分野でもマンドリン音楽の可能性をしめした。他のゲストには柳沢真一、浜口庸之助とアフロ・クバーナ・コーラスが出演。弦楽器との融合に苦しんだ。だが、《ダーク・アイズ》、《スター・ダスト》は好評で、共立講堂につめかけた溢ればかりの聴衆は惜しみない拍手を送った。小町昭のアコーディオンは、当時六大学随一の腕前だった。 

《ラテンの明治》

 昭和三十年代に入ると、明大マンドリン倶楽部はいよいよ戦後の黄金時代に入る。また、古賀政男が流行歌王として君臨した歌謡界も大きく変わる。歌手の世代交替が行われた。美空ひばり、江利チエミ、雪村いづみ、春日八郎、三橋美智也、島倉千代子、フランク永井が歌謡界の全面に出てくるようになった。昭和三十年という年は、戦後十年の日本を大きく変えていた。政治では、民主党総務会長三木武吉の「感情論を抜きにした保守結集」発言を契機による「自由民主党」の結成、いわゆる、保守合同による五十五年体制のスタート。そして、その経済政策における大企業中心の高度経済成長を開幕させた。「神武景気」の到来がそれである。翌年昭和三十一年の『経済白書』には「もはや『戦後』ではない」という言葉は新しい消費生活を予感させたといえる。高度経済成長は、石油コンビナートが並ぶ臨海工業地域を造成し日本の農村から大量の労働者を都市へ供給した。特に経済の中心東京には、多くの若者がぞくぞくと押し寄せた。その現象は、歌謡曲流行の大きな構造転換をもたらした。つまり、都会(モダニズム)への憧れから↓故郷への郷愁である。春日八郎の《別れの一本杉》(高野公男・作詞/船村徹・作曲)などは、故郷をはなれて東京に来た若者の心情をうたった。これと同じ傾向の歌謡曲に天才民謡歌手といわれた三橋美智也の《リンゴ村から》(矢野亮・作詞/林伊佐緒・作曲)もヒットした。また、成熟した都会生活を満喫するようなムード歌謡をうたうフランク永井の低音の魅力は新鮮だった。いわゆる低音ブームという時代が到来するが、マイクロフォンと録音技術の発達は、従来の録音技術では十分に加工、再生できなかった音もつくることができたのだ。その最たるものがあたらしい世代の爆発を象徴する「嵐を呼ぶ男」=石原裕次郎の登場であり、若者の価値観を大きく変えた。また、一方では、戦後十年のアメリカ合理主義に対抗するかのように日本人の心の底に連綿と流れる義理人情は、浪曲調歌謡で復活した。三波春夫、村田英雄の千両役者が舞台にレコードに活躍したのだ。女性歌手にも新しいスターが現れる。《この世の花》(西條八十・作詞/万条目正・作曲)でデビューした”泣き節“の島倉千代子である。女の悲しみをリアルな歌唱で表現し、戦後の日本の流行歌の頂点に立った美空ひばりと人気を二分した。島倉は、昭和三十年《りんどう峠》で古賀メロディーをヒットさせた。世情が安定すると、国民生活にも余裕が生まれた。日本経済は高度経済成長をまっしぐらに走るのである。熱狂的なマンボが若者のあいだでますますもてはやされた。マンボやラテンブームの頂点は、昭和三十年頃である。演奏中に「アッ、ウッ!」と唸る。巷では細身のマンボズボンが流行し、それは風俗の背景になるほどだった。ダンンスホールでの中高生の補導事件もたびたび起きた。そして、ロカビリー旋風が日本中を吹き荒れる。エルヴィスプレスリーの最初のカヴァー曲は小坂一也が歌った《ハート・ブレイク・ホテル》である。プレスリーの登場による日本のロカビリー・ブームは昭和三十三年、ウエスタンカーニバルの会場が日劇に代えられてからだと云われている。昭和三十三年二月八日の日劇の第一回「ウエスタンカーニバル」を皮切りに十五日までのロカビリー大会は猛烈なハリケーンとなり、その流行は旧世代の価値観、道徳観に反抗する風潮のなかで培われた。ロカビリーの呼び名は、エルヴィスプレスリーの音楽が「ヒルビリー」の要素を持っていたことからついた。ロックンロールが黒人のリズム&ブルース、カントリー&ウエスタンがミックスされたものであり、カントリー&ウエスタンに比重が傾くとロカビリーになる。ロックンロールでは、チェック・ペリー、リトル・リチャード、ジェリー・リー・リイス、バディー・ホリーらが黄金時代を形成した。
 渡辺美佐の企画は当たった。ロカビリーは人気を集め、山下啓次郎、平尾昌章らが登場し歌手のアイドル化現象がはじまったのだ。 明大マンドリン倶楽部は、音楽の可能性をひたすら求めて、怒涛ごとく氾濫するポピュラー音楽に挑戦した。だが、マンドリンとロックンロールは融合することは非常に難しく、この時点で、明大マンドリン倶楽部は軽音楽の流れから遅れをとることになった。だが、その過程のなかでラテンパーカッションを巧みにマンドリンに癒合させ「ラテンの明治」が確立した。古賀政男が南米で肌に感じたリズムの情熱が表現できたのである。だが、明大マンドリン倶楽部はその一方では、古典音楽における追求も充実していった。古賀政男は、「クラシックは音楽の父」であるとのべた。それは、組曲、交響曲、序曲でありかなり高度な楽曲であった。マンドリンのヴァイオリンの難解な技巧への挑戦であることは勿論のこと、マンドリンオーケストラとしての不可能を可能にする追求でもある。昭和三十年代、古賀政男が明大の定期演奏会で好んで指揮した曲を列挙してみるならば、《セヴィリアの理髪師》(ロッシーニ・作曲/第六十一回)《ペールギュント》(グリーク・作曲/第五十七回/第六十四回/第七十回)《新世界》(ドボルザーク作曲/第六十三回/第六十七回)《カルメン組曲》(ビゼー・作曲/第五十八回/第六十六回)《アルルの女》(ビゼー・作曲/第六十一回/第七十二回)《未完成交響曲》(シューベルト作曲/第六十回)《詩人と農夫》(スッペ・作曲/第六十二回/第六十九回)《死の舞踏》(サンサンス・作曲/第六十五回/第八十一回)《フィンランディア》(シベリウス・作曲)第六十九回/八十一回)などがある。明大マンドリン倶楽部はヴァイオリンの弓のしなやかさによる速度に少しでもちかづけるためにピッキングに相当工夫したと云われている。スタカットとトレモロの連続性を基調にした奏法は、よりヴァイオリンに近いストロークを目指した奏法を生み出した。また、昭和三十年代後半になると、客席からみて1stマンドリンが左、2ndマンドリンが右というクラシックのオーケストラの配置に変えている。 社会世相は岸内閣の安保改定をめぐり、「安保闘争」として日本を揺るがしたが、明大マンドリン倶楽部は安定した時代を迎えていた。安保闘争が終わると、国民の眼は政治批判から経済的繁栄へと移って行く。古賀政男の音楽界での地位も高まる。だが、学生との距離ができはじめた。 昭和三十九年、十二月十日、東京・宝塚劇場で『古賀政男還暦を祝う会』が開催された。歌謡界はおろか、映画界、歌舞伎界、舞踊界、邦楽界の豪華ゲストを出演させての大盛況だった。翌年には、NHKより「放送文化賞」を送られた。その年の暮れには《柔》でレコード大賞を受賞した。翌昭和四十一年、《悲しい酒》(石本美由起・作詞。古賀政男・作曲)が美空ひばりの歌でリバイバルされヒットした。藤山一郎がクラシックの「線」の表現に対して、美空ひばりは、伝統的な日本人の心情を満足させる「円」の表現と言えるのではないか。《影を慕いて》《酒は涙か溜息か》《湯の町エレジー》とつづいて《悲しい酒》で古賀政男のギターによる歌謡芸術は完成した。だが、ギターも多様化の時代を迎えていた。

《ビートルズの来日》

 
昭和四十年代には、「テケテケテケテケ」という音が特徴的な奏法が本格的に日本中に響きはじめだした。昭和四十年、ベンチャーズの来日を契機にエレキギターが爆発的には売り出された。その暮れには、加山祐三と寺内タケシが出演してエレキギターを弾きまくる『エレキの若大将』が公開された。昭和四十一年、ビートルズが来日。タイトに刻む8ビートが日本のポップスを大きく変えた。ビートルズのあたえた衝撃は大きかった。彼らの来日は、日本のポップスを変えたといっても過言ではない、。日本ではグループサンズのブームが起こる。エレキギターに日本語の歌詞をのせて歌う和製ポップスが生まれた。スパイダースとブルーコメッツにはじまり、ザ・タイガース、テンプターズなどが生まれ、翌年にはピークを迎えた。 明大マンドリン倶楽部のオーケストラにエレキ・ギターが見えるのは、昭和三十五年頃からである。リズムを刻むのではなく、メロディー楽器として使われていた。複雑怪奇なコードでリズムを刻み乱暴な音楽になることを避けたようだ。ベンチャーズの初来日が昭和三十七年、寺内たけしの「ブルージンズ」の結成も同年だから、それ以前から導入されていたのには驚く。だが、昭和四十年代前半の明大マンドリン倶楽部は、古賀政男の「クラシックは音楽の父」という教えを守り、マンドリンオーケストラの可能性を深めていった。だが、ビールズ以後の日本のポップスの流れから取り残されることになった。ビートルズの来日によってバンドと自作自演時代が始まった。それが、GS黄金時代である。
ロカビリーの熱狂の再現、エレキギター、キーボード,ドラム、ドラム中心の電気サウンドの小編成バンドの登場。70年代アイドルの先取り。8ビートによる日本のポップスの進化やフォーク、ロックへの影響。とにかく、エレキギターに日本語をbのせて歌う和製ポップスが発展する起爆剤になったのである。
 当時の社会世相は、昭和四十年二月の米軍の北爆以来、ベトナム戦争が激化、翌年には中国では文化大革命という思想権力闘争が展開した。国内では、高度経済成長(いざなぎ景気)のさなか、大学は、全共闘時代を迎え、大学紛争が激化し学生と機動隊が衝突する事件も起こり火炎瓶や催涙ガスが炸裂した。学生の意識も変化し殊に明大マンドリン倶楽部は、昭和四十年代半ばから部員減少に悩まされることになった。明治大学マンドリン倶楽部の第三期黄金時代が頂点を迎えた頃、マンドリンで奏でる日本の心情の再認識と新たな発見が試みられた。マンドリンで日本情緒を奏でる。これは古賀政男の芸術追求のテーマのひとつであった。昭和三十九年六月十三日、第七十四回定期演奏会では「マンドリンで聴く日本の旋律」を題し、西洋音楽=「才の音楽」と日本の近代邦楽=「徳の音楽」として位置づけた。日本の伝統音楽は、音階によって表現される楽譜という形式がない。これをマンドリンという西洋楽器で表現するところにその理想の追求が見られたのだ。また、昭和四十二年十一月十一日、第八十一回定期演奏会では、「明」(喜び)=《かぞえうた》《松島音頭》《金毘羅船々》《関の五本松》《おてもやん》《ちゃっきり節》「枯」(悲しみ)=《出船》《叱られて》《島原の子守唄》《五木の子守唄》《荒城の月》《船頭小唄》「烈」(怒り)=《白虎隊》《青葉の笛》《壇の浦の合戦》《黒田節》《さくらさくら》という演目形式で日本人の魂を奏でた。明大マンドリン倶楽部は、洋楽の東西を問わずに大衆音楽を追求をした。それは、古賀政男自身が常に年頭においていた西洋音楽崇拝の一人歩きの打破でもあった。しかも、単純な時代迎合という皮相なものではなかった。時代を越えた「青春の譜」ではなかったかといえる。音楽の友人は青春である。そこには、古い、新しいというものはない。オリジナルなままで聴くのもよい。現代のリズム、感覚に味つけしてもよい。演奏する方も聴く方も自由なのである。昭和四十二年、六月十日、第八十回定期演奏会では、集大成の意味を込めて創部四十五年を振り返っている。殊に第三部は「青春世永遠に」と題して新旧のスタイルを取り混ぜながら、古賀政男を中心にした明大マンドリン倶楽部の青春を再認識した。その試行が第八十二回、八十三回の定期演奏会で具体化されている。第八十二回では「青春・花ひらくとき」という主題で、六月という季節感のなかに青春の苦悩、悶え、歓喜と躍動が演奏された。《情熱の花》《バラのタンゴ》《ばらの刺青》《テキサスの黄色いバラ》《旅情》《花の街》《野ばら》《知りたくないの》《バイヤンパンパン》《エーデルワイス》《雨に唄えば》などのプログラムを埋めている。第八十三回では、「秋にきく日本のリズム」というテーマで新旧の大衆歌曲のなかに日本の心情を求めた。 

70年代歌謡曲の多極化》

  昭和四十年代後半から昭和五十年代前半にかけて、明治大学はいろいろな意味で躍進の時代を迎えた。昭和四十七年の札幌オリンピックではジャンプのゴールドメダリスト笠谷幸雄は明大スキー部出身、また、ラグビー部は昭和三十年代後半からの低迷を脱して早明黄金時代を迎え、ラグビー人気時代に突入するのである。野球では甲子園を沸かせた作新学院の怪物江川卓が六大学野球に登場。島岡監督を中心に明大野球部は「打倒江川」に燃えた。政治では三木武夫が椎名裁定の結果、昭和四十九年十二月に明大出身では初めて内閣総理大臣に就任した。三木が首相に就任すると、就職戦線でも明治は、圧倒的な力の差があった早稲田・慶応との溝を埋めてくる。芸能界でも宇崎竜童のダウンタウンヴギウキバンドの登場など明大出身者が目立つようになった。そのような中で、明大マンドリン倶楽部も新たな時代を迎えようとしていた。それは「脱古賀政男」である。古賀政男が実際に学生を指導したのは、昭和四十七年第九十回定期演奏会が最後と云われている。この年明大マンドリン倶楽部は五十周年を迎え、その記念すべき演奏会を「日本音楽の創造」に標準を定めた。一部では、「日本の心 伝承と創作」と題して、オペラ《夕鶴》(團伊玖磨作曲)が演奏された。團伊玖磨は、マンドリンの繊細な音によって、伝承にもとづいて鋭く表現された日本人の心をどのように表現するかを明大マンドリン倶楽部に期待したのだ。だが、明大マンドリン倶楽部の志向とは裏腹に日本の大衆音楽は、さらに大きな変貌を遂げて行く。明大マンドリン倶楽部は、「音楽は和也」の理念にもとづいて外国から流入するポピュラー音楽を自己創造の上に咀嚼し発展させた。舞台はショー形式を取り、演出も工夫が施され聴衆を心ゆくまで堪能させた。ポピュラー音楽の進歩はすさまじくそのスピード明大マンドリン倶楽部は必死に対応したのである。昭和四十七年といえば、フォークソングがレコード業界で主流になり始めた年である。吉田拓郎のヒットはその前後である。また、井上陽水の《傘がない》もこの年のヒットだった。「七十年安保」の挫折と若者の政治・社会への無関心と「シラケ」を象徴していた。翌年には《神田川》(喜多条忠・作詞/南こうせつ・作曲)がヒット。小さなアパートで同棲する若い二人の生活がテーマになっていた。一方、テレビの歌謡番組では、天地真理、小柳ルミ子、浅田美代子、南沙織、麻丘めぐみ、フォーリブス、郷ひろみ、野口五郎、西条秀樹らアイドル歌手たちがブームを巻き起こしていた。歌唱力よりもルックスやアクションが重視されていた。そのアイドル歌手並にテレビのブラウン管に登場していたのが、「なつかしの歌声」「思い出のメロディー」のブームにのって登場していた戦前派の歌手たちである。藤山一郎、東海林太郎、ディック・ミネ、灰田勝彦、伊藤久男、淡谷のり子、渡辺はま子、二葉あき子らが朗々と美声を響かせていた。フォーク、アイドル、SP歌謡、それに、北島三郎、森進一、島倉千代子、都はるみらの現代演歌と奇妙な現象だった。 
  
《ロックバンド&マンドリンオーケストラー明治大学マンドリン倶楽部新たな時代》

 昭和四十七年の夏、古賀政男自身の健康上に理由から、明大マンドリン倶楽部の指導は甲斐靖文にバトンタッチされる。明大マンドリン倶楽部は、ポピュラー音楽に進歩に対応するためにリズムセクションの充実をはかった。昭和四十年代後半になるとドラムの三点セットが揃った。これも8ビートが主流になったポップスに対応するためにである。昭和四十七年の春の定期演奏会の写真をみると三点セットがもう舞台にある。ビートルズ来日による急速にすすむポップスの変化に対応するためであった。昭和四十八年には、キーボードにシンセサイザーが導入された。ハモンドオルガン、エレキ・ピアノに音色が加工できるシンセサイザーが加えられたことは、画期的なことだった。 シンセサイザーは、バッハの名曲を再現したレコードがアメリカで爆発的に売れたのがブームの始まりだった。また、イギリスのエマーソンレイクアンドパーマーがシンセサイザーを使って、《展覧会の絵》をリリースしたのも人気に拍車をかけた。現在のようにコンピュターで音を作るという音楽工学としての機能はなかったが、それでも、多彩な音色、現実の楽器の音を超越した幻想的な音色は若者に大きな魅力をあたえ、明大マンドリン倶楽部にも新たなスタイルをもたらしたのだ。すでに、エレキギターとエレキベースは使用されているので、ドラムス、キーボード・シンセサイザーを加えると「軽音のバンド」、つまり「ロックバンド&マンドリンオーケストラ」がそのままマンドリンオーケストラのような形態になる。だが、フルート、トランペット、ホルン、オーボエ、クラリネットなどの管楽器が入ると弦楽器を中心としたマンドリンオーケストラ(マンドリンの古典曲を演奏)とはかなり距離できてしまいその演奏機能が危なくなってしまう。これでは、古賀政男の旋律を主体にしたマンドリン音楽と大きな溝ができてしまう。なぜなら、マンドリンの繊細な感情表現が難しくくなるというマイナスが生じることになるからだ。当然、マイクロフォンをこれまでより多く使用することにもなる。マンドリン系にも音量をカバーするためにトップにマイクロフォンを使うことになってしまうのだ。こうなると、古賀政男の「音楽は和也」とは、音楽の方向が異なってくる。古賀政男と明大マンドリン倶楽部は一体だったはずだが、ここで大きく乖離して行くのである。これは、古賀政男にとって不幸なことであった。 
 昭和五十年代には、ニューミジック、ロックバンド、スタジオミュージジャンの影響もあり、ロック、フォーク、アイドル、現代演歌、なつかしの歌声(SPレコード歌謡)と歌謡曲の細分化は、明大マンドリン倶楽部にもかなりの意識の変化をもたらした。ニューミュージックは和製英語である。もともとは、若者の歌をアピールするために商業的営業上、マスコミやレコード会社が作った造語である。新しい名称となったのである。1980年には、レコード売り上げの過半数に及んだ。ニューミュージックは、ニューフォークから始まった。ニューフォークは、吉田拓郎がアングラ(ボブ・ディランの思想)に対してメージャー系に浮上したことをきっかけにしている。8ビートのロックサウンドを基調とした若者向けの新しい音楽であり、従来のようなギター引き語りのフォークとは一線を画すようになった。叙情フォークの流れを踏襲しながら、より洗練されたきらびやかなサウンドである。
 ニューフォークからニューミュージックへの移行は一九七五年である。イルカが歌う《なごり雪》は、恋人の別れをテーマにしているが季節感を感じさせる新鮮なサウンドだった。一方、アリスは、安定した8ビートのドラムスのリズムに支えられ、演歌的なパンチが効いたハードデュオの個性を全面に出し、《今はもうだれも》をヒットさせた。迫力のあるアレンジは従来のフォークにないものであった。
 ニューミュージック元年は、「フォーライフレコード」が設立した。吉田拓郎、井上陽水、小室等、泉谷しげるらが、若者文化を担ってきた自分たちの音楽を自らの手で制作する新年のもとに作られた。この年、レコードテープ総合売り上げ一位になったのがユーミンこと荒井由美(松任谷由美)だった。彼女の音楽は従来の四畳半フォークとは対照的だった。ファッショナブルな感覚とヴィジュアル要素を取り入れたショーアップによるステージを演出した。これによって、生活感のない透明な風景の歌詞を歌い、新しい感覚ともいえる「人工環境」(機械系消費空間)におけるリッチな感覚を観客にあたえたのである。
 ニューミュージックの時代に入ると女性シンガーが目だった。ユーミン、矢野顕子、庄野まよ、山崎ハコ、大橋純子らの女性シンガーの活躍が目立った。男性シンガーでは、因幡晃、河島英五、アリスがあげらる。女性シンガーのなかで、松任谷由美と並んで偉才を放ったのが中島みゆきである。中島みゆきは、女性の内面に宿る嫉妬・羨望といったドロドロトした情念をテーマにした。女性心理の内奥のまたさらに奥深く感情の襞を抉るような情念が歌詞・旋律に体現されていた。
 ニューミュージックは、自らの作品をよりメジャーに認知させるために歌謡曲の影響力と効果を利用した。それにはロック系バンドの歌謡曲の進出が刺激をあたえていた。また、ニューミジュックを支えたのが、ロック系の音楽で育ったフリーのスタジオミュージジャンだった。歌謡曲にもかなりの影響をあたえることにもなる。彼らは歌謡曲ではアイドル歌手の伴奏もした。このロック系ミュージジャの進出によって、ブラスサウンドは脇役になる。8ビートを中心にしたリズムセクションが全面にでることになり、メロディーラインは後退することになった。演奏の中心は、エレキギター、キーボード、シンセサイザー、ベース、ドラムが担うようになったのである。
 この演奏形態が明大マンドリン倶楽部に大きな影響を与えた。明大マンドリン倶楽部は、これらの音楽を地方演奏会で演奏するために軽音楽中心のメニューとなった。だが、ここまでくるとマンドリンでの表現に限界がある。リズムセクションを全面にだせばマンドリンオーケストラの意味がなくなる。一部の古典音楽にもステージのセッティングの問題から反響板を使わずにマイクロフォンを使った。これでは、豊かな澄んだ音の積み重ね、ハーモニーを十分に表現できない。とてもマンドリンオーケストラとはいえないのである。当然、邪道という批判も生まれてくる。そのような状況でマンドリンの水準を高めたのが、明治高校出身者だった。彼らたちのマンドリンの演奏技術があったからこそ、ロック系バンドにも負けないリズムセクションとの融合が可能だったといえる。昭和五十年代前半までの明大マンドリン倶楽部は、マンドリンの音量もあり各パートのトップにマイクロフォンをつけているとはいえ、電気楽器、管楽器に負けない音をだしていた。8ビートを基本にしたリズムセクションも充実し、レパートリーも地球上のあらゆる音楽と豪語するまでになっていた。だが、マイクロフォンを前提とした音楽であっても、しかっりとした響きがなくてはならない。楽譜という形式とオーケストラという形態で演奏するかぎり、基本は、やはりクラシックなのである。だが、日本のポップス界の流れに追随すれば、明大マンドリン倶楽部は、クラシックギター・マンドリンのナチュラルな響きは消えていくのは時間の問題であった。メロディー・ハーモニー・リズムというオーケストラの定型を破壊するかぎり、マンドリン本来の繊細な感情表現が生かされなくなってしまう運命をどう解決して行くのか、これが明大マンドリン倶楽部の課題であった。


[明治大学マンドリン倶楽部の未来−廃部か存続か]

 現代はJ・ポップの時代である。一九八八年がその元年である。バブル経済の最盛期の頃だった。年号は昭和だが、翌年一月七日、昭和天皇が崩御した。平成の世が始まった。J・ポップはジャパニーズメイドイン洋楽という意味で、音楽を聴いて日本的情緒を感じさせないことが前提になる。いかにも欧米の楽曲という感じがして、ワールドミュージックの雰囲気が重要視されるのである。J・ポップの発祥を遡及してみると、ビートルズの影響を受けた日本のフォークがポップス化し、これに8ビートのロックのリズムが融合されたことにたどり着く。70年代のロック、フォークからの連綿と流れるポップスの総称として成立したのである
 マンドリンは日本情緒を表現する上で非常に優れた楽器である。これはすでに古賀メロディーで証明されている。明大マンドリン倶楽部は、ポップスの歴史とともに歩んできた。日本のポップスが日本の情緒を必要としなくなった時代において、明大マンドリン倶楽部のとるべき方向は非常に難しい。ポップスへの追随をやめるとなると、一九九六年以降から現在に至るマンドリン倶楽部の力量では、本格的なマンドリン主体の演奏は無理である。明治高校出身者が入部してこない現状を考えれば、現在のスタイルで突き進むしかあるまい。明治高校マンドリンクラブの音楽監督・久保田孝氏が明治大学マンドリン倶楽部の指導者として君臨すれば、明治高校はおろか全国の優秀なマンドリン経験者が集うであろう。そうなれば、マンドリンオーケストラの本来の姿が復活することは確実である。リズムセクション、シンセサイザー、管楽器を一層充実させ、さらにマンドリンの弦の響きが融合すれば、素晴らしいオーケストラになるはずだ。もし、明治大学が久保田孝氏を明治大学マンドリン倶楽部の常任指揮者に迎えることをしなければ、明治大学にとって大きな音楽遺産を失うことになるといえる。古賀政男を始め、《赤城の子守唄》《シナの夜》を作曲した竹岡信幸、《湯島の白梅》《勘太郎月夜唄》を世に送り出した清水保雄らを輩出し、クラシックの正当なマンドリン・ギターの世界で頂点を極めた久保田孝を世に出した名門のクラブがフリーのアレンジャー甲斐靖文を中心に男女の親睦を深める学生らしいアマチュアサークルとして活動することはよいことだが、それでは寂しすぎる。音楽教育の場として果たしてよいのだろうかしかも、明治大学マンドリン倶楽部のOB会は分裂したまま、甲斐を中心とするOB理事会は孤立している。欲望ナチュラリズムの肥大化による甲斐靖文の私物化は明治大学の知的教養文化の低さと相まって大問題となっており、これでは名門倶楽部の存続は危ぶまれ、一〇〇年周年を迎えることは不可能と言える。

『日本流行歌変遷史』(論創社)
昭和初期、アメリカから電気吹込みを完備した外国レコード産業の到来によって、日本の歌謡曲は誕生した。そして、日本流行歌の変遷の歴史がはじまるのだ。外資系レコード会社も誕生し、近代詩壇で鍛えた作詞家、クラシック・ジャズ系作曲家、音楽学校出身の洋楽演奏家によって作られた歌謡曲の世界が戦後、ビートルズの来日によって、大きく変貌し消滅しJ・ポップが誕生した。日本流行歌の波乱に満ちた変遷史の決定版。

 

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