紅白歌合戦

50・60年代・紅白歌合戦・昭和歌謡史・日本流行歌の変遷
紅白歌合戦の歴史はそのまま昭和の歌謡曲の歴史である。


紅白歌合戦前史・戦後昭和歌謡史戦後日本流行歌の変遷

名歌手たち、それぞれの終戦

 藤山一郎は終戦を南方のインドネシアで迎えた。捕虜生活を余儀なくされたのだ。収容所での抑留生活が始まった。音楽家とわかり、イギリス将兵の慰問を命令される。彼らから「東洋のジョン・マッコーマック」と賛辞の言葉を受けた。テノールの美しい音色と正確無比な確実な歌唱。
 1945(昭和21)年夏、大衆音楽の演奏家としての決意を秘め藤山一郎として日本の土を踏んだ。テノールの音色と豊かな声量をもつバリトン歌手増永丈夫は藤山一郎を支えることになるのである。これが国民栄誉賞への途の始まりだった。 

 1945(昭和20)年8月15日、東海林太郎は、玉音放送を長野県の飯田の山本で聞いた。その日、小学校の講堂で一連のヒット曲を熱唱した。9月にはNHKラジオに出演。だが、戦後の民主化は大スター東海林太郎に春をもたらさなかった。
 軍国主義廃絶から軍歌は禁止されるのはしかたがないが、股旅、義理人情、仇討ちなど国粋主義につながる流行が禁止されたことは、東海林太郎にとっては致命傷だった。持ち歌が歌えなければお客さんは納得しない。東海林太郎の新たな試練の始まりでもあった。

 並木路子は戦後のシンデレラとしてレコード界に彗星のごとく登場した。だが、その華やかなステージとは裏腹に戦禍を一身に背負っていた。父は南方で、兄は千島北方で戦死、母は東京大空襲で亡くなり、並木は隅田川に飛び込み間一髪助けられた。
 彼女は、母の死体を芝・増上寺の収容所で確認。悲しみを押し殺して黙って一人で骨にした。並木は4月、大陸の慰問団に参加。出発の日、東京駅で「祖国よさようなら」と思いながら水道の水を飲んだ。

 7月末帰国。並木路子は終戦を一人で迎えたのである。この終戦によって映画『そよ風』は内容が変更された。この映画は、もともと本土決戦に備え戦意高揚の目的として企画されたものだった。
 その後、終戦を迎え内容もすっかり変わり、レビューガールの恋と生活を描いた平凡なものになった。だが、並木路子という戦後を象徴するスターを生み出したのである。
 1946(昭和21)年夏、復員船のなかで、藤山は《リンゴの唄》の楽譜を目にした。本土で流行していると教えられた。藤山は楽譜を見て戦後の新たな息吹を感じたそうだ。

 南方の激戦地で戦死した歌手もいた。《妻恋道中》《流転》《浦町人生》を歌いヒットさせた上原敏である。彼は、太平洋戦争で言語を絶する最も悲惨な戦いといわれた地獄の東部ニューギニア戦線で亡くなった。
 本名増永丈夫ではクラシックを独唱し東京芸大出身のクラシック正統派・藤山一郎と江戸情緒豊かな日本調歌謡・東海林太郎の二人による「団菊時代」の頃、上原敏は渋い澄んだテナーで小節を巧みに回しながら浪花節調の艶歌唱法で、銃後の人々の心情を歌った歌手だった。
 上原敏は、一兵卒で従軍し不運にも生きて日本の土を踏むことができなかったのである。


廃墟からの歌声・リンゴの唄

戦後の日本の歌謡史はこの歌で始まった。並木路子が歌う《リンゴの唄》である。焼け跡の廃墟のから聴こえて来た。敗戦の混乱のなか虚脱・退廃に包まれた人々の心に生きる希望をあたえていたのだ。並木路子の歌声は健康的でさわやかだった。清涼飲料水のように戦後の日本に響いたのである。

 《リンゴの唄》は松竹映画『そよ風』の主題歌である。これはあまり知られていない。『そよ風』はGHQ検閲第一号映画としても有名である。この映画は最初本土決戦への戦意昂揚を目的に作られた。だが、敗戦とともに戦後まったく別の内容に再撮されたのである。レビューガールの恋と生活を描いた平凡な映画だった。

 撮影のとき、まだ、《リンゴの唄》は完成していなかった。並木は歌う場面で藤山一郎の歌唱で戦前大ヒットした《丘を越えて》にあわせて歌った。並木はSKD時代、浅草の国際劇場で藤山一郎のバックで踊ったことがある。《丘を越えて》は並木も好きな歌だった。

 《リンゴの唄》は作詞がサトウ・ハチロー、作曲は万城目正。実を言うと、作曲者の万城目正は藤山一郎を想定していたそうだが、藤山はまだ南方から復員していなかった。

 映画はまったくの修正のないままGHQの検閲をパスした。そして、その作品に出来上がった《リンゴの唄》をかぶせたが、なぜかピッタリ合っていた。その後、NHK『希望音楽会』で並木路子の歌声が電波に乗った。するとすぐに反響が出たのである。

 歌の世界は面白い。コロムビアのスター歌手霧島昇は《リンゴの唄》を並木路子と強引にデュエットした。だが、すっかり霞んでしまった。この唄のイメージが完全に並木路子にマッチしていたからである。戦後は新しいスターを求めていたのだ。

 レコードはあっという間に売れた。並木路子のイメージがこの唄に完全にマッチし、《リンゴの唄》=並木路子という代名詞ができあがってしまったのである。NHKにも《リンゴの唄》の投書が殺到した。戦時中は空襲警報と戦果の虚報を聞くだけだったラジオから、明るい前奏で始まり甘酸っぱい感傷を含んだ《リンゴの唄》が流れた。健康的な明るさがあるとはいえ、解放感と不安がこの歌に込められていたかのようである。

 戦後の流行歌史の幕開けは《リンゴの唄》であることは異論がない。焼け跡の瓦礫の街や闇市からどこからともなく聞こえてきた。そして、人々は口ずさんだのである。

 並木路子は、大正10年の生まれ、SKDの出身である。1942(昭和17)年『世界隣組』でコロムビアからデビューした。戦後、シンデラレのように《リンゴの唄》で並木路子は登場したが、私生活では、戦禍を一身に背負っていた。父親、兄は戦地亡くなり、母はあの東京大空襲でなくなった。並木本人は奇跡的にたすかった。

 事情を知る人は、肉親をすべて戦争で失いながら、よく明るく歌えるものだと驚いた。並木路子は戦争の傷を負いながらも戦後の日本に明るい歌声を響かせた芯の強い歌手なのである。

闇市と復員船に響いた歌声

 戦後の民主化は大スター東海林太郎に春をもたらさなかった。軍国主義廃絶から軍歌は禁止されるのはしかたがないが、股旅、義理人情、仇討ちなど国粋主義につながる流行が禁止されたことは、東海林太郎にとっては致命傷だった。持ち歌が歌えなければお客さんは納得しない。その頃、興行師たちが札束をもって列なし、人気絶頂の歌手がいた。岡晴夫である。

 《東京の花売娘》《青春のパラダイス》《啼くな小鳩》などのヒットは戦後の青い空に響き決定的だった。殊に《東京の花売娘》はブギのリズムを取り入れた新しい感覚があった。作曲者は上原げんと。歌声は瓦礫と廃墟の街からどこからともなく聞こえていた。岡の歌は甘酸っぱい感傷と哀愁がありながらも軽快で人々の荒んだ心を癒したのである。《啼くな小鳩》は 当時全国にいた疎開やもめ、復員を待っている家族のイライラを吹き飛ばす勢いだった。

 闇市では当時の物価価値から見ても法外な価格で売られていた。それでも人々は群がった。あてもなく虚脱状態のままうろつく者、残飯をあさる浮浪児、ゆくえの知れない肉親を探しに闇市に集まる人などさまざまだった。空襲で家族や家を失ったものは数知れずいた。

 激しいインフレと食糧難、1945(昭和20)年の暮れは相当数の餓死者がでると予想されていた。だが、日本国民は必死にその日の生活をしのいでいた。闇市では、戦後の日本人の生活意欲がもうもうと湯気をたて、岡晴夫の歌声は人々に希望をあたえていたのだ。

 岡晴夫が外国航路のマドロスならば、田端義夫は港町の粋な船乗りのイメージがあった。終戦の翌年から復員の兵隊をのせた船が舞鶴、博多に入港するようになった。スピーカーからは田端義夫が切実と歌う《かえり船》が流れていた。船内でもこの歌のレコードがかけられていた。田端義夫には戦前のヒット曲・《別れ船》がある。

 《かえり船》の哀調のあるメロディーは復員兵の胸を打ち、涙を流すものもいた。そして、彼らはあり合わせの列車に詰め込まれた。そのような列車が目立つようになっていた。復員兵の数はおよそ350万人。

 窓ガラスがない列車は戦地から帰ってきた兵隊を満載していた。復員兵が口づさんでいた歌は《かえり船》が多かった。田端義夫の独特のバイブレーションが哀調を帯び、それが切々とした歌声になり人々の涙を誘っていたのである。ヒットの火はやはり引き揚げ船が入港する舞鶴、博多あたりからだった。生きてふたたび日本の土を踏めた無常の喜びを感じさせていたのである。

 《かえり船》は突然の召集令状で戦地に駆り出されやっとの思いで親兄弟、妻や子供、恋人にあえた時の喜びに応える歌だったのである。この歌は、復員、引き揚げをテーマにして作られたが、もともと田端義夫の歌は人生の波間に揺れる感情表現が込められている。漂泊者の侘しい心情表現が彼の持ち味でもあった。

戦後歌謡の復活・戦前派歌手の活躍

1947(昭和22)年、戦前の歌謡界を彩ったスター歌手たちも、復活の狼煙を本格的にあげた。

 藤山一郎は《三日月娘》《夢淡き東京》を歌いヒットさせた。《三日月娘》はラジオ歌謡から流れ、オリエンタルな異国情緒があった。藤山が爽やかに軽快に歌う《夢淡き東京》は、マイナーからメジャー、そして、マイナーに戻って終曲する。人々に華やかなモダン東京の風景を思い出せ、廃墟になった都市文化の復活を願う思いが込められていた。

 藤山一郎は、南方で戦死したと報じられていた。ところが、1946(昭和21)年夏、インドネシアから復員した。終戦後、同地で捕虜となり、抑留生活を送っていた。藤山は、アコーディオンを弾きながら収容所を慰問演奏をした。悪疫、飢餓という極限状態のなかで、いかに音楽が人間に活力と希望・励ましをあたえるか身をもって体験した。大衆音楽の意義を改めて認識したのである。

 戦前からジャズ・シンガーで活躍したディック・ミネは《夜霧のブルース》をヒットさせた。これは映画《地獄の顔》の主題歌である。コロムビアも『地獄の顔』の主題歌を発売した。渡辺はま子の歌唱による《雨のオランダ坂》である。コロムビアとテイチクの競演になったのである。

 《夜霧のブルース》は島田磬也の作詞、大久保徳二・作曲である。戦前の上海の夢とロマンが求められ、エトランゼの哀愁が思想・楽想に込められている。戦前この二人は《上海ブルース》でもコンビ(島田磬也は「北村雄三」で作詞)を組み、ディック・ミネが歌った。その3トリオが揃ったわけである。

 渡辺はま子は終戦を天津で迎えた。収容所で抑留生活を送っている。同地では、中国軍や進駐してきたアメリカ軍の慰問を行った。日本人収容所でも積極的に慰問演奏をした。藤山一郎と同様に歌が希望・励ましになることを知ったのである。

 二葉あき子はすでに《別れても》をヒットさせ、戦前派女性歌手では貫禄を見せた。《別れても》は、木枯らしが吹きすさぶく冬の夜に1人思い出にひたる女性の感傷をテーマにした歌である。一方、《夜のプラットホーム》は哀しみを哀しみとして素直に歌える解放感があった。

 歌のヒットの背景には、出会いと別れがあった。喜びと悲しみが自由に表現できる時代になったとはいえ、未帰還兵士が140万人。その生死が不明という現実があった。やっとめぐり合えても、混乱と無秩序のなか、別れを余儀なくされる現実があったのである。

 《夜のプラットホーム》は、すでに戦前淡谷のり子がコロムビアで吹込んでいたが、あまりにも厭世的であると軍部から睨まれ、発禁処分になっていた。二葉あき子が《夜のプラットホーム》をコロムビアで再吹込みし、女王淡谷のり子と人気を二分することになった。

 戦前、太平洋戦争中、敵性音楽ということでハワイアンは禁止された。それを歌い軍部から睨まれた歌手に灰田勝彦がいる。戦後、ハワイアンも復活した。灰田は戦前の重苦しさから、解放され新たな一歩を踏み出したのである。

 このように、1947(昭和22)年に入ると、藤山一郎、ディック・ミネ、渡辺はま子、二葉あき子、灰田勝彦ら、昭和モダンを彩ったクラシック・ポピュラーの洋楽系戦前派歌手の復活が戦後の歌謡界を本格的に始動させたのである。


紅白歌合戦に見る日本流行歌の変遷史
1951(昭和26)年第1回紅白歌合戦

紅組 白組
菅原都々子(初出場) 「憧れの住む町」 鶴田六郎(初出場) 「港の恋唄」
暁テル子(初出場) 「リオのポポ売り」 林伊佐緒(初出場) 「銀座夜曲」
菊池章子(初出場) 「母紅梅の唄」 近江俊郎(初出場) 「湯の町エレジー」
赤坂小梅(初出場) 「三池炭鉱節」 鈴木正夫(初出場) 「常盤炭坑節」
松島詩子(初出場) 「上海の花売り娘」 楠木繁夫(初出場) 「紅い燃ゆる地平線」
二葉あき子(初出場) 「星のため息」 東海林太郎(初出場) 「赤城かりがね」
渡辺はま子(初出場) 「桑港のチャイナタウン」 藤山一郎(初出場) 「長崎の鐘」

昭和二十六年一月三日、午後八時、東京放送会館の第一スタジオにファンファーレが高らかに鳴り響いた。続いて、《スタイン・マーチ》の軽快なリズムに乗って紅白両軍が入場した。紅組トップは菅原都々子の《憧れの住む町》。菅原都々子は古賀政男の養女であったことは有名である。古賀久子の名前でテイチクで《小楠公》を吹込んだ。十一歳の少女には思えないほどの歌唱力である。養父の古賀はこの少女が歌うスペイン民謡を聞いてそのうまさに舌を巻いたほどである。白組は鶴田六郎が歌う《港の恋唄》。鶴田六郎は、岩国中学卒業後、東洋音楽学校に進学した。昭和十三年、ビクターから《カタカナ忠義》でデビューした。その後、テイチクに移籍し、戦後はコロムビアで活躍した。第一回紅白歌合戦では、面白い対決も見られた。紅組赤坂小梅の《三池炭鉱節》と白組鈴木正夫の《常磐炭坑節》の対決である。特需景気の影響もあり民謡歌謡の流行を反映していた。赤坂小梅は戦前古賀メロディーの《ほんとにそうなら》を歌っている。戦後不遇だった楠木繁夫が《紅い燃ゆる地平線》、進駐軍の意向によって、ヤクザ・股旅物の日本調歌謡を歌えなかった東海林太郎も戦前ほどの勢いを失っていたが、第一回紅白では《赤城かりがね》を歌っている。また、松島詩子が岡晴夫の《上海の花売り娘》を歌った。第一回紅白歌合戦の男性白組トリは、藤山一郎だった。声量豊かな美しいテナーで平和の願いをこめながら格調高く《長崎の鐘》を高唱し、白組勝利を導いた。紅組トリは渡辺はま子の《桑港のチャイナタウン》。彼女のチャイナ物は戦後も大衆の心を捉えた。ともあれ、初優勝の栄冠は白組に輝いたのである。男性軍リーダーの藤山一郎が中心に行った「エイ・エイ・オー」の勝どきは、まさに国民的番組への雄たけびでもあった。

1952(昭和27)年第二回紅白歌合戦

紅組 白組
轟夕起子(初出場) 「腰抜け二挺拳銃」 岡本敦郎(初出場)
三条町子(初出場) 「東京悲歌」池真理子(初出場) 「恋の街角で」 宇都美清(初出場) 「さすらいの旅路」
暁テル子(二回目) 「東京シューシャイン・ボーイ」 鶴田六郎(二回目) 「航海シャンソン」
三原純子(初出場) 「しのび泣く雨」」 霧島昇(初出場) 「赤い椿の港町」
平野愛子(初出場) 「虹よいつまでも」 林伊佐緒(二回目)「ダゴダの黄昏」
久保幸江(初出場) 「ヤットン節 瀬川伸(初出場) 「上州鴉」
池真理子〔初出場) 「あの街角で」 竹山逸郎(初出場) 「愛染橋」
菅原都々子(初出場) 「江の島悲歌」 伊藤久男(初出場)「山のけむり」
越路吹雪(初出場) 「島育ち」 鈴木正夫(二回目)「かっぽれ」
笠置シヅ子(初出場) 「買物ブギ」 灰田勝彦(初出場) 「アルプスの牧場」
二葉あき子(二回目) 「モロッコから来た女」 津村謙(初出場)「上海帰りのリるル」
渡辺はま子(二回目) 「桑港のチャイナタウン」 藤山一郎(二回目) 「オリンピックの歌」

第二回紅白歌合戦は、前回の第一回が好評で、六十分の放送から九十分に拡大された。そのため、出場者も増えた。藤山一郎、近江俊郎、渡辺はま子、二葉あき子に加えて、灰田勝彦、伊藤久男、霧島昇、津村謙らスター歌手が出場した。津村謙は、戦前、テイチクから松原正の名前でデビューしていた。戦後、コロムビアに入り、古賀政男の地方実演ショーで歌うことが多かった。霧島昇の持ち歌・《旅の舞姫》は、好評だった。津村は、なぜか霧島の持ち歌が巧かった。その後、キングに移籍し、ようやくスターダムにのし上がった。そして、第二回紅白では、颯爽と《上海帰りのリル》を歌った。第二回歌合戦では、松島詩子が交通事故に遭って、出場できないという不慮の事態が起きた。リハーサルでてんてこ舞いのスタッフのもとに、出演予定の松島詩子の交通事故のニュースが飛び込み、周囲は騒然となった。代役には越路吹雪に白羽の矢が立った。自宅で正月パーティーの真っ最中だったが、酔いを醒ましてのスタジオ入り。《ビギン・ザ・ビギン》を熱唱した。越路は、その後紅白には第七回から二十回まで連続出場した。



1953(昭和28)年第三回紅白歌合戦

紅組 白組
菊池章子(二回目) 「母の瞳」 林伊佐男(三回目) 「ダイナ・ブルース」
乙羽信子(初出場) 「初恋椿」 鶴田六郎(三回目) 「長崎の精霊祭り」
平野愛子(二回目) 「恋ひとたび」 岡本敦郎(二回目) 「青春のファンタジア」
池真理子(二回目) 「祇園ブギ」 竹山逸郎(二回目) 「心の旅路」
松島詩子(二回目) 「マロニエの木陰」 高英男(初出場) 「ロマンス」
奈良光枝(初出場) 「白樺の宿」 津村謙(二回目) 「東京の椿姫」
暁テル子(三回目) 「東京シューシャイン・ボーイ」 伊藤久男(二回目) 「オロチョンの火祭り」
久慈あさみ(初出場) 「ボタンとリボン」 ディック・ミネ(初出場) 「キッス・オブ・ファイヤー」
荒井恵子(初出場) 「ポカピカパカ」 近江俊郎(二回目) 「湯の町月夜」
二葉あき子(三回目) 「パダム・パダム」 霧島昇(二回目) 「月が出た出た」
月丘夢路(初出場) 「新雪」 藤山一郎(三回目) 「東京ラプソディー」
笠置シヅ子(二回目) 「ホームラン・ブギ」 灰田勝彦(二回目) 「野球小僧」

昭和二十八年第三回紅白歌合戦はその年の一月二日に放送された。もともと紅白は単発の正月番組だった。ところが、もの凄い人気をよび回が重ねられることになったのである。紅組は乙羽信子、月丘夢路、久慈あさみなどの映画俳優が初出場に目立った。白組ではシャンソンの高英男、戦前からジャズシンガーとして活躍したディック・ミネが初出場した。第三回紅白歌合戦、白組のトップは、林伊佐緒の《ダイナ・ブルース》、紅組は菊池章子が《母の瞳》。前半は、白組は津村謙・《東京の椿姫》、紅組奈良光枝・《白樺の宿》で終了。両軍譲らずの攻防だった。奈良は戦後接吻歌手として一躍有名になった美貌歌手。戦前、古賀メロディー《青い牧場》で藤山一郎とデュエットをしている。津村は戦後コロムビアからキングに転じて、ビロードの声でファンを魅了した。第三回紅白歌合戦の後半、白組は大スターの登場で、紅組を圧倒した。伊藤久男が《オロチョンの火祭り》を声量豊かに熱唱。つづいて、ディック・ミネ・《キッス・オブ・ファイヤー》、近江俊郎・《湯の町夜曲》。紅組は暁テル子・《東京シューシャインボーイ》、久慈あさみ・《ボタンとリボン》、荒井恵子・《ポカピカパカ》と続くが、格の違いから劣勢。二葉あき子が《パダム・パダム》でようやく紅組の劣勢を挽回した。白組は藤山一郎が《東京ラプソディー》を声量豊かに確実な歌唱で高唱。戦前の昭和モダンの風景が甦るかのように高らかに歌われた。これで白組は三連勝の栄冠を手にした。第三回紅白歌合戦は、最後の正月番組だった。また、映画女優がこぞって出場した紅白でもある。月丘夢路・《新雪》、乙羽信子・《初恋椿》、久慈あざみ・《ボタンとリボン》。女性初出場は、奈良光枝・《白樺の宿》、男性初出場は高英男・《ロマンス》、ベテランジャズシンガーのディック・ミネも初出場。《キング・オブ・ファイヤー》を歌った。まだ、淡谷のり子は出場せず。


1953(昭和28)年第四回紅白歌合戦

紅組 白組
赤坂小梅(二回目) 「おてもやん」 鈴木正夫(三回目) 「花笠音頭」
池真理子(初出場) 「星降る汀」 笈田敏夫(初出場) 「ばら色の人生」
江利チエミ(初出場) 「ガイ・イズ・ア・ガイ」 浜口庫之助(初出場) 「国境の南」
織井茂子(初出場) 「君の名は」 伊藤久男(三回目) 「君いとしき人よ」
神楽坂はん子(初出場) 「こんな私ぢゃなかったに」 宇都美清(二回目) 「さすらいの旅路」
笠置シヅ子(三回目) 「東京ブギウギ」 灰田勝彦(三回目) 「東京の屋根の下」
菊池章子(三回目) 「星の流れに」 津村謙(三回目) 「リルを探してくれないか」
小唄勝太郎(初出場) 「島の娘」 鶴田六郎(四回目) 「港の恋唄」
三条町子(二回目) 「東京悲歌」 岡本敦郎(三回目) 「白い花の咲く頃」
三味線豊吉(初出場) 「カモン・ナ・マイ・ハウス」 岸井明(初出場) 「洒落男」
菅原都々子(三回目) 「佐渡ヶ島悲歌」 竹山逸郎(三回目) 「流れの船唄」
奈良光枝(二回目) 「赤い靴のタンゴ」 小畑実(初出場) 「ロンドンの街角で」
服部富子(初出場) 「アリラン・ルムバ」 真木不二夫(初出場) 「知らない町に雨がふる」
二葉あき子(四回目) 「別れても」 ディック・ミネ(二回目) 「長崎エレジー」
松島詩子(三回目) 「マロニエの並木路」 近江俊郎(三回目) 「別れの磯千鳥」
渡辺はま子(三回目) 「あゝモンテンルパの夜は更けて」 林伊佐緒(四回目) 「愛染草」
淡谷のり子(初出場) 「アデュー」 藤山一郎(四回目) 「丘は花ざかり」

第四回紅白歌合戦は、大晦日のラジオ・テレビ同時中継されたことに注目が集まった。また、会場も内幸町のNHK第一スタジオから、日劇に移った。演出面においても趣向が凝らされた。選手宣誓、優勝旗の返還などが行われた。この紅白に淡谷のり子が漸く登場した。また、大物では小唄勝太郎も初出場。いずれもテレビ放送ということで、ようやくNHKの出演交渉に応じてくれたのである。また、若手の人気歌手では小畑実が初出場。初出場の淡谷のり子は《アデユ》を歌い、小唄勝太郎は、戦前のヒット曲、《島の娘》を歌った。また、ポピュラー系では、浜口庫之助・《国境の南》、江利チエミ・《ガイ・イズ・ア・ガイ》が初出場。江利チエミは美空ひばりより一足先に紅白に出場した。岸井明も初出場で《洒落男》をコミカルに歌った。岸井といえば、童謡歌手の平井英子と歌った《たばこやの娘》というコミカルソングのヒットがある。当時のホワイトカラーがおりなすモダンライフの戯画といえた。第四回紅白歌合戦、紅組は、必勝を期して、ヒット曲で白組に挑んだ。織井茂子・《君の名は》、笠置シズ子・《東京ブギウギ》、菊池章子・《星の流れに》、二葉あき子・《別れても》渡辺はま子・《あゝモンテンルパの夜は更けて》。この日は雪のちらつく寒い大雪の大晦日だったが、会場は熱気に溢れていた。白熱した試合は時間が押せ押せとなり、白組トリの藤山一郎は、《丘は花ざかり》をワンコーラスのか歌えず。白組は四連勝にならなかった。第四回紅白歌合戦初出場の真木不二夫は、戦前ポリドールで小谷潔という名前で歌っていた。彼は、岩手県釜石商業の出身で、奥田良三に師事して流行歌の世界に入った。昭和十七年の《日本陸軍軍歌集》がデビューらしい。真木不二夫は、紅白初出場でトリを務めたと書かれている本があるが、このときのトリは藤山一郎である。《丘は花ざかり》を時間の押せ押せでワンコーラスしか歌えなかった。当時の資料がアイウエオ順に記載されているので、マ行の真木不二夫がトリと誤認されているのであろう。小畑実は紅白歌合戦出場が僅か三回。第四回が初出場である。第四回=《ロンドンの街角で》第五回=《長崎の街角で》第八回=《高原の駅よさようなら》。同世代の津村謙は第二回から九回まで連続出場している。小畑は第八回紅白で《高原の駅よさようなら》を熱唱して歌手稼業をやめ、実業家に転進しアメリカへ。それに対して津村はキングに残り活動。だが、春日八郎、三橋美智也、若原一郎らの台頭に影が薄くなる。




1954(昭和29)年第五回紅白歌合戦

紅組 白組
宮城まり子(初出場) 「毒消ししゃいらんかね」 岡本敦郎(四回目) 「高原列車は行く」
奈良光枝(三回目) 「白いランプの灯る道」 真木不二夫(二回目) 「山の呼ぶ声母の声」
江利チエミ(二回目) 「ウスクダラ」 浜口庫之助(二回目) 「セントルイス・ブルース・マンボ」
川田孝子(初出場) 「山の乙女」 河野ヨシユキ(初出場)「キツツキの赤いトランク」 
松田トシ(初出場) 「村の娘」 藤山一郎(五回目) 「ケンタッキーの我が家」
雪村いづみ(初出場) 「オー・マイ・パパ」 高英男(二回目) 「ロマンス」
菊池章子(四回目) 「春の舞妓」 津村謙(四回目) 「待ちましょう」
神楽坂はん子(二回目) 「見ないで頂戴お月さま」 春日八郎(初出場) 「お富さん」
ペギー葉山(初出場) 「月光のチャベル」 笈田敏夫(二回目) 「愛の泉」
松島詩子(四回目) 「スペインの恋唄」 近江俊郎(四回目) 「忘れないよ」
長門美保(初出場) 「松島音頭」 藤原義江(初出場) 「鉾をおさめて」
淡谷のり子(二回目) 「枯葉」 伊藤久男(四回目) 「数奇屋橋エレジー」
美空ひばり(初出場) 「ひばりのマドロスさん」 小畑実(二回目) 「長崎の街角で」
二葉あき子(五回目) 「パダム・パダム」 ディック・ミネ(三回目) 「雨の酒場で」
渡辺はま子(四回目) 「東京の薔薇」 霧島昇(三回目) 「石狩エレジー」

第五回紅白歌合戦は、各分野からの一線級歌手ということで、クラシック、ラテン、童謡、民謡、シャンソンなどから出場した。オペラの藤原義江、長門美保、童謡の川田孝子などの顔ぶれがみわれた。藤原義江は昭和流行歌の開幕晋平節を歌い人気を博した。長門美保は藤山一郎と東京音楽学校(東京芸大)では同級だった。藤山はセミクラッシクの歌曲を格調高く正確無比な歌唱で正格歌手にふさわしい独唱だった。歌い、藤原は《鉾をおさめて》を歌い世界を舞台に歌いまくったオペラ歌手の貫禄をみせた。藤原の後は伊藤久男がリリクなバリトンで《数寄屋橋エレジー》を。淡谷のり子は《枯葉》を歌い歌唱力の豊かさを見せた。また、美空ひばり、雪村いづみが初出場した。江利チエミが前年から出場していたので、紅白で三人娘が揃った。この年の大ヒット《お富さん》の春日八郎も初出場を果たした。


1955(昭和30)年第六回紅白歌合戦

紅組 白組
荒井恵子(二回目) 「希望をのせて馬車は行く」 鶴田六郎(五回目) 「天下の為さん」
宝ともこ(初出場) 「インディアン・ラブコール」 浜口庫之助(初出場) 「インディアン・ラブコール」
織井茂子(二回目) 「黒百合の歌」 三浦洸一(初出場) 「落ち葉しぐれ」
赤坂小梅(三回目) 「おてもやん」 鈴木正夫(三回目) 「相馬音頭」
川田孝子(二回目) 「狩勝の美少年」 河野ヨシユキ(二回目) 「街のヨーデル唄い」
大谷冽子(初出場) 「チリビリビン」 柴田睦陸(初出場) 「ラ・クンパルシータ」
ペギー葉山(初出場) 「マンボ・イタリアーノ」 笈田敏夫(三回目) 「恋とは素晴しいもの」
菊池章子(五回目) 「岸壁の母」 林伊佐緒(六回目) 「真室川ブギ」
宮城まり子(二回目) 「ガード下の靴みがき」 岡本敦郎(五回目) 「リラの花咲く頃」
池真理子(四回目) 真木不二夫(三回目) 「空が晴れたら」
小唄勝太郎(初出場) 「お染」 東海林太郎(二回目) 「義経の歌」
長門美保(二回目) 「ハバネラ」 藤原義江(二回目) 「女心の歌」
江利チエミ(三回目) 「裏町のお嬢さん」 芦野宏(初出場) 「タブー」
奈良光枝(四回目) 「由起子はいつも」 津村謙(五回目)「あなたと共に」
松島詩子(五回目) 「夕月の丘」 ディック・ミネ(四回目) 「ダイナ」
二葉あき子(六回目) 「ばらのルンバ」 藤山一郎(六回目) 「ニコライの鐘」

紅組はペギー葉山が《ケ・セラ・セラ》を歌う。紅組はその後初出場が続いた。西村つた江・《ハマの谷間》、吉岡妙子・《私の幸福は何処へ》、中原美沙緒・《フルフル》。また、大津美子も《東京アンナ》で初出場。一方、白組の初出場は、三橋美智也、若原一郎をはじめ、山形英夫・《港の人気者》、職業歌謡で売った曽根史郎・《若いお巡りさん》、カントリー歌手の小坂一也・《ハート・ブレイクホテル》、岡晴夫がマーキュリー時代に蹴った企画を貰い受け、ヒットした藤島恒夫・《かえりの港》。春日八郎は望郷演歌の真髄・《別れの一本杉》を熱唱。春日八郎の渋みの高音を生かした船村メロディーの傑作。伊藤久男の《キャラバンの鈴》の後だった。リリクなバリトンで定評のある伊藤久男のダイナミックな歌唱に聴衆は感銘した。この紅白でのアクシデントは雪村いづみが急病で欠場したことである。そのため紅組は一人欠場のままだった。五回連続出場の松島詩子は、《夕月の丘》を歌う。ディック・ミネは《ダイナ》を。昭和モダンの風景をアピールした。トリの藤山一郎はオペラ界からの四人を意識してか、《ニコライの鐘》を「バリトン・増永丈夫」的にスピントをかけて堂々と声量豊かに歌唱表現の卓越さを見せながら歌う。流行歌手というよりは本来の堂々の声楽家ぶりだった。聴衆はその歌唱に惜しみない拍手を送った。


1956(昭和31)年第七回紅白歌合戦

紅組 白組
荒井恵子(三回目) 「南の花嫁さん」 岡本敦郎(六回目) 「自転車旅行」
照菊(初出場) 「恋のまよい鳥」 瀬川伸(二回目) 「明星鴉」
松島詩子(6回目) 「夜のヴァイオリン」 霧島昇(四回目) 「恋に朽ちなん」
赤坂小梅(四回目) 「三池炭坑節」 鈴木正夫(五回目) 「常磐炭坑節」
菅原都々子(四回目) 「連絡船の唄」 宇都美清(三回目) 「青い灯赤い灯」
生田恵子(初出場) 「アイ・アイ・バンジョー」 林伊佐緒(六回目) 「草原をゆく男」
宝とも子(初出場) 「セ・シ・モン」 高英男(三回目) 「セ・シ・モン」
淡谷のり子(三回目) 「ルムバ・タムバ」 ディック・ミネ(五回目) 「私の青空」
江利チエミ(四回目) 「お転婆キキ」 三橋美智也(初出場) 「哀愁列車」
二葉あき子(七回目) 「忘れじの君いづこ」 藤山一郎(七回目) 「ああ牧場は緑」
池真理子(五回目) 「どうして嫌と云えましょう」 津村謙(六回目) 「青春の街」
ペギー葉山(三回目) 「ケ・セラ・セラ・」 笈田敏夫(四回目) 「ハイ・ソサエティ・カリプソ」
西村つたえ(初出場) 「横浜(ハマ)の谷間」 山形英夫(初出場) 「港の人気者」
吉岡妙子(初出場) 「私の幸福は何処へ」 真木不二夫(四回目) 「旅路の雨」
中原美紗緒(初出場) 「フルフル」 旗照夫(初出場)「恋とは素晴しいもの」
小唄勝太郎(三回目) 「唐人お吉」 東海林太郎(三回目) 「赤城の子守唄」
鈴木三重子(初出場) 「愛ちゃんはお嫁に」 若原一郎(初出場) 「風の吹きよで」
奈良光枝(五回目) 「白いランプの灯る道」 近江俊郎(五回目) 「思い出月夜」
越路吹雪(二回目) 「哀れなジャン」 芦野宏(二回目) 「ドミノ」
大津美子(初出場) 「東京アンナ」 曾根史郎(初出場) 「若いお巡りさん」
コロンビア・ローズ(初出場) 「妖艶歌師」 小坂一也(初出場) 「ハート・ブレークホテル」
渡辺はま子(五回目) 「桑港のチャイナタウン」 藤島桓夫(初出場) 「かえりの港」
宮城まり子(三回目) 「屑屋の娘」 伊藤久男(五回目) 「キャラバンの太鼓」
笠置シヅ子(四回目) 「ヘイ・ヘイ・ブギ」 春日八郎(二回目) 「別れの一本杉」
灰田勝彦(四回目) 「白銀の山小舎で」

第七回紅白歌合戦は、一気に出場者も増えた。男女25組。放送時間も40分増えた。年末の大型歌謡番組としての定着を見たのである。紅組トップは、荒井恵子が二年連続詰めた。《南の花嫁さん》。白組は二年ぶりトップの岡本敦郎・《自転車旅行》。ますは、ラジオ歌謡の人気歌手同士の対決である。つづいて、初出場の照菊・《恋のまよい鳥》、白組は二回目の瀬川伸・《明星鴉》。そして、早くもベテラン対決。紅組は松島詩子・《夜のヴァイオリン》、白組は霧島昇。《恋は朽ちなん》を歌った。第七回紅白歌合戦は、天才民謡歌手といわれた三橋美智也が初出場。《哀愁列車》を歌った。同じキングレコードの江利チエミは、《お転婆キキ》を歌う。三橋とともにキングを背負う春日八郎は《別れの一本杉》を熱唱した。望郷演歌の真髄をみせた。キングの先輩津村謙は《青春の街角》を歌う。キングからは若原一郎も初出場。《風の吹きよで》を歌う。新旧の交代の時期が見られた。宝とも子と高英男は《セ・シ・ボン》のシャンソン対決。つづいて、ベテラン淡谷のり子・《ルムバ・タンバ》とディック・ミネ・《私の青空》で昭和モダン対決。淡谷は妖艶なソプラノからファルセット唱法に転向していたが、ハイポジションを失わない歌唱で聴衆を魅了した。デイック・ミネも低音のバリトンの甘さで歌い好評を博した。七回連続出場の藤山一郎は《ああ牧場は緑》を歌ったが、違和感があった。歌謡曲は新しい勢力図ができあがっており、もはやクラシックを基調としたホーム歌謡は歌謡曲においてその場所を失っていた。三回目の出場の東海林太郎も《赤城の子守唄》を歌ったが、もはや時代錯誤的選曲になっていた。白組トリは灰田勝彦・《白銀の山小舎》。ヨーデルの美しい響きが際立っていた。紅組は笠置シズ子・《ヘイ・ヘイ・ブギ》。



1957(昭和32)年第八回紅白歌合戦

紅組 白組
楠トシエ(初出場) 「お花どん」 曾根史郎(二回目) 「看板娘の花子さん」
久慈あさみ(二回目) 「デッカメン・ソロ」 若山彰(初出場) 「喜びも悲しみも幾歳月」
松山恵子(初出場) 「未練の波止場」 三船浩(初出場) 「男のブルース」
藤沢嵐子(初出場) 「さらば草原よ」 笈田敏夫(五回目) 「アレキサンダーズ・ラグタイム・バンド」
暁テル子(四回目) 「やさしい婦警さん」 白根一男(初出場) 「面影いずこ」
淡谷のり子(四回目) 「雨の東京」 伊藤久男(六回目) 「宵待草の唄」
朝丘雪路(初出場) 「星はながれる」 若原一郎(二回目) 「丘にのぼりて」
江利チエミ(五回目) 「ヤムミー・ヤムミー」 芦野宏(三回目) 「メケ・メケ」
菊池章子(六回目) 「私はそよ風」 小畑実(三回目) 「高原の駅よさようなら」
大津美子(二回目) 「東京は恋人」 フランク永井(初出場) 「東京午前三時」
池真理子(六回目) 「黒と白のニンバ」 三浦洸一(二回目) 「あゝダムの町」
二葉あき子(八回目) 「ばらと蜜蜂」 林伊佐男(七回目) 「そっとこのまゝ」
鈴木三重子(二回目) 「坊や船頭さん」 青木光一(初出場) 「二代目船長さん」
奈良光枝(六回目) 「白樺の宿」 津村謙(七回目) 「流転わらべ唄」
浜村美智子(初出場) 「バナナ・ボート・ソング」 小坂一也(二回目) 「青春サイクリング」
松島詩子(七回目) 「星座仰いで」 近江俊郎(六回目) 「湯の町エレジー」
中原美紗緒(二回目) 「ジェルソミーナ」 高英夫(四回目) 「ブン」
渡辺はま子(六回目) 「夜来香」 藤山一郎(八回目) 「ブンガワン・ソロ」
コロンビア・ローズ(二回目) 「どうせ拾った恋だもの」 藤島桓夫(二回目) 「お月さん今晩わ」
雪村いづみ(二回目) 「ビー・バップ・ア・ルーラ」 ジェームス繁田(初出場) 「魅惑のワルツ」
ペギー葉山(四回目) 「シャンテ・シャンテ」 旗照夫(二回目) 「砂に書いたラブレター」
島倉千代子(初出場) 「逢いたいなァあの人に」 春日八郎(三回目) 「母の便り」
越路吹雪(三回目) 「愛の涙」 灰田勝彦(五回目) 「野球小僧」
宮城まり子(四回目) 「納豆うりの唄」 高田浩吉(初出場) 「うかれ駕籠」
美空ひばり(二回目) 「長崎の蝶々さん」 三橋美智也(二回目) 「りんご花咲く故郷へ」

第八回紅白歌合戦は東京宝塚劇場で開催された。「太陽の季節」でスターへの道を歩み始めた石原裕次郎が応援に駆けつけた。フランク永井、島倉千代子が初出場。歌謡曲の新しい時代を予感させた。戦前から《大江戸出世小唄》をポリドールで歌い歌う映画スターとして売った高田浩吉も初出場した。《うかれ駕籠》歌った。第八回紅白のトリは、紅組・美空ひばり・《長崎の蝶々さん》、白組・三橋美智也・《りんごの花咲く故郷へ》。初出場の島倉千代子は「逢いたいなァあの人に」を歌った。戦前派の灰田勝彦は《野球小僧》をユニフォーム姿で熱唱した。この年の日本シリーズは西鉄の二連覇だった。また、初出場といえば、カリプソスタイルの浜村美智子の《バナナ・ボート・ソング》が異色をはなった。白組初出場歌手は、若山彰・《喜びも悲しみも幾歳月》、白根一男・《面影いずこ》、三船浩・《男のブルース》、青木光一・《二代目船長さん》。三船は、フランク永井に対抗してキングが売り出した低音歌手。都会派のブルース歌手として注目された。一方、ジャズからの天候のフランク永井も《東京午前三時》を歌って初出場。二回目の出場組は、白組は曽根史郎・《看板娘の花子さん》、若原一郎・《丘にのぼりて》三浦洸一・《あゝダムの町》藤島恒夫・《お月さん今晩わ》、旗照夫・《砂に書いたラブレター》。トリが堂々二回目出場の三橋美智也・《りんごの花咲く故郷へ》。紅組も二回目出場の美空ひばりだった。笠置シズ子は姿を消した。これも時代の転換期を象徴していた。紅組女性軍初出場は、トップバッターの楠トシエは《お花どん》を歌った。楠はその後七回連続出場した。「お恵ちゃん」の愛称で知られる松山恵子は《未練波止場》を歌い堂々初出場。タンゴ歌手・藤原嵐子は、《さらば草原よ》を熱唱した。朝丘雪路は《星は流れる》を歌う。淡谷のり子の《雨の東京の》だけに緊張ぎみだった。第八回紅白歌合戦では、戦前にビクターで《勘太郎月夜唄》《湯島の白梅》をヒットさせた小畑実がこのステージを最後に歌謡界を去った。小畑は昭和二十年代後半人気をかなり誇った。そのため過重なスケジュールがたたり、紅白には3回しか出場していない。同い年の津村謙は、《流転わらべ唄》を歌った。津村の人気も春日・三橋の台頭で翳りが出てきていた。また、キングからは低音ブルースの魅力の三船浩が初出場。世代交代の時期を感じさせた。第一回紅白から連続出場していた藤山一郎はこの紅白が歌手として最後だった。来年からは東京放送管弦楽団の指揮者として出場。歌手としてもっと出場できたはずだが、歌謡界の趨勢を見ての判断だった。戦前派の歌手は、男性白組では伊藤久男・《宵待草の唄》灰田勝彦《野球小僧》、林伊佐緒・《そっとこのまゝ》、高田浩吉・《うかれ駕籠》、女性紅組は淡谷のり子・《雨の東京》、松島詩子・《星座仰いで》渡辺はま子・《夜来香》、二葉あき子・《バラと蜜蜂》、戦前デビューで戦後台頭では近江俊郎、小畑実、奈良光枝、津村謙が出場していた。第八回紅白歌合戦では、近江俊郎も最後の紅白だった。戦後の大ヒット曲《湯の町エレジー》を熱唱した。昭和二十七年に近江俊郎はコロムビアからキングに移った。昭和三十年代に入ると、春日八郎、三橋美智也らが台頭し新旧の交代の時期において、人気に翳りが見えていた。《湯の町月夜》がキング初吹込み。《湯の町エレジー》のイメージで押そうとすキングの意向には近江自身、不満が残った。第八回紅白歌合戦二度目の出場の小坂一也は《青春サイクリング》を歌う。前年は《ハート・ブレイク・ホテル》を歌った。白組は続いて近江俊郎が歌う古賀メロディー・《湯の町エレジー》。次は趣を変えて高英男のシャンソン・《ブン》。そして、藤山一郎が《ブンガワンソロ》を格調高く歌った。


1958(昭和33)年第九回紅白歌合戦

紅組 白組
荒井恵子(四回目) 「橇は飛ぶよ」 岡本敦郎(七回目) 「若人スキーヤー」
松山恵子(二回目) 「だから言ったじゃないの」 曾根史郎(三回目) 「初めての出航」
松島詩子(八回目) 「喫茶店の片隅で」 霧島昇(五回目) 「白虎隊」
雪村いづみ(三回目) 「ヤキティ・ヤック」 小坂一也(三回目) 「心にしみるブルース」
築地容子(初出場) 「青い月夜のランデブー」 三船浩(二回目) 「夜霧の滑走路」
藤本二三世(初出場) 「夢みる乙女」 神戸一郎(初出場) 「銀座九丁目水の上」
江利ちえみ(六回目) 「さのさ節」 フランキー堺(初出場) 「男はよわい」
織井茂子(三回目) 「夜が笑っている」 津村謙(八回目) 「霧雨のけむる道」
神楽坂浮子(初出場) 「三味線フラ」 三波春夫(初出場) 「雪の渡り鳥」
越路吹雪(四回目) 「マ・プティット・フォーリー」 フランク永井(二回目) 「西銀座駅前」
大津美子(三回目) 「銀座の蝶」 若山彰(二回目) 「氷海越えて」
二葉あき子(九回目) 「夜のプラットホーム」 林伊佐男(八回目) 「そっとこのまゝ」
藤沢嵐子(二回目) 「ママ恋人が欲しいの」 ジェームス繁田(二回目) 「ヴォラ−レ」
渡辺はま子(七回目) 「長崎のお蝶さん」 伊藤久男(七回目) 「イヨマンテの夜」
中村美紗緒(三回目) 「河は呼んでいる」 旗照夫(三回目) 「碧い空」
奈良光枝(七回目) 「晴着のかげに」 三浦洸一(三回目) 「街灯」
石井好子(初出場) 「ゴンドリエ」 芦野宏(四回目) 「風船売り」
コロンビア・ローズ(三回目) 「プリンセス・ワルツ」 藤島桓夫(三回目) 「凧タコあがれ」
ペギー葉山(五回目) 「年頃ですもの」 笈田敏夫(六回目) 「オール・ザ・ウェイ」
楠トシエ(二回目) 「銀座かっぽれ」 若原一郎(三回目) 「おーい中村君」
淡谷のり子(五回目) 「ばら色の人生」 ディック・ミネ(六回目) 「私の青空」
水谷良重・東郷たまみ・沢たまき(初) 「アレキサンダース・ラグタイム・バンド」 ダーク・ダックス(初出場) 「ともしび」
島倉千代子(二回目) 「からたち日記」 春日八郎(四回目) 「別れの燈台」
宮城まり子(五回目) 「ジャワの焼き鳥売り」 高田浩吉(二回目) 「勇み肌千両男」
美空ひばり(三回目) 「白いヨットで十四ノット」 三橋美智也(三回目) 「おさらば東京」

昭和三十三年、第九回紅白歌合戦。まだSPレコード歌謡時代の歌手の名前が出演者に見える。淡谷のり子・《ばら色の人生》松島詩子・《喫茶店の片隅で》二葉あき子・《夜のプラットフォーム》白組は。霧島昇・《白虎隊》、林伊佐緒《そっとこのまま》、伊藤久男《イヨマンテの夜》、ディック・ミネ・《私の青空》が出場していた。この年から藤山一郎は東京放送管弦楽団の指揮者として出場。第9回紅白歌合戦、白組トップは、岡本敦郎・《若人スキーヤー》。紅組は荒井恵子・《橇は飛ぶよ》。ラジオ歌謡コンビで開幕した。岡本敦郎の紅白はこれが最後。ラジオ歌謡の抒情歌で声価を得た歌手だった。ジャズのフィーリングで歌うフランキー堺は、遅れて登場。今年から藤山一郎が指揮する東京放送管弦楽団の演奏をバックに《男はよわい》を歌う。紅組のジャズ歌手・江利チエミがなんと《さのさ節》を歌った。ジャズと日本調に粋な味を見せた。最多出場の二葉あき子は《夜のプラットフォーム》を熱唱した。



1959(昭和34)年・第10回紅白歌合戦

紅組 白組
荒井恵子(五回目) 「白菊の歌」 曽根史郎(四回目) 「僕の東京地図」
雪村いづみ(四回目) 「スワニー」 旗照夫(四回目) 「マック・ザ・ナイフ」
藤本二三代(二回目) 「好きな人」 若山彰(三回目) 「惜春鳥」
朝丘雪路(二回目) 「シング・シング・シング」 武井義明(初出場) 「国境の南」
織井茂子(四回目) 「モヨロ哀歌」 若原一郎(四回目) 「アイヨ何だい三郎君」
松島詩子(九回目) 「スペインの恋唄」 伊藤久男(八回目) 「サロマ湖の歌」
ザ・ピーナッツ(初出場) 「情熱の花」 和田弘とマヒナスターズ(初出場) 「夜霧のエアーターミナル」
松山恵子(三回目) 「思い出なんて消えっちゃえ」 青木光一(二回目) 「出港前夜」
島崎雪子(初出場) 「バンビーノ」 山田真二(初出場) 「娘が口笛吹く時は」
二葉あき子(十回目) 「夜汽車の女」 林伊佐緒(九回目) 「恋の幌馬車」
水谷良重(二回目) 「キサス・キサス・キサス」 水原弘(初出場) 「黒い花びら」
ペギー葉山(六回目) 「南国土佐を後にして」 フランク永井(三回目) 「俺は淋しいんだ」
島倉千代子(三回目) 「おもいで日記」 三橋美智也(四回目) 「古城」
江里チエミ(七回目) 「八木節」 フランキー堺(二回目) 「もぐら祭り」
中原美紗緒(四回目) 「ある恋の物語」 芦野宏(五回目) 「チャオチャオ・バンビーナ」
大津美子(四回目) 「空へ帰る人」 神戸一郎(二回目) 「青春遊覧飛行」
藤沢嵐子(三回目) 「ベサメ・ムーチョ」 笈田敏夫(七回目) 「プリテンド」
奈良光枝(八回目) 「山鳩の啼く駅」 三浦洸一(四回目) 「踊子」
淡谷のり子(六回目) 「雨のブルース」 灰田勝彦(六回目) 「僕は野球の選手」
宝とも子(三)・有明ユリ(初)・藤崎世津子(初) 「シェリト・リンド」 ダーク・ダックス(二回目) 「雪山賛歌」
コロンビア・ローズ(四回目) 「ロマンス・ガイド」 藤島桓夫(四回目) 「村の駐在所」
石井好子(二回目) 「小さな花」 高英男(五回目) 「ギターとタンブリン」
越路吹雪(五回目) 「パリ・カナイユ」 森繁久彌(初出場) 「カチューシャ」
楠トシエ(三回目) 「石松金毘羅道中」 三波春夫(二回目) 「沓掛時次郎」
美空ひばり(四回目) 「御存知弁天小僧」 春日八郎(五回目) 「東京の蟻」



1960(昭和35)第11回紅白歌合戦

紅組 白組
荒井恵子(6回目) 「青い月夜の散歩道」 若山 彰(四回目) 「さいはて岬」
宝とも子(四回目) 「カチート」 笈田敏夫(八回目) 「スター・ダスト」
花村菊江(初出場) 「潮来花嫁さん」 橋幸夫(初出場) 「潮来笠」
中原美紗緒(五回目) 「ロマンティカ」 高英雄(六回目) 「ロマンス」
藤本二三代(三回目) 「東京の空の下で」 青木光一(三回目) 「オーロラ鴎」
朝丘雪路(三回目) 「ドンパン節」 旗照夫(五回目) 「カリーナ」
織井茂子(五回目) 「母の春雷」 三船浩(三回目) 「サワーグラスの哀愁」
松尾和子(初出場) 「誰よりも君を愛す」 平尾昌章(初出場) 「ミヨちゃん」
松島詩子(十回目) 「喫茶店の片隅で」 伊藤久男(九回目) 「山のけむり」
水谷良重(三回目) 「イッツ・ナウ・オァ・ネバー」 水原弘(二回目) 「恋のカクテル」
ザ・ピーナッツ(二回目) 「悲しき十六才」 和田弘とマヒナスターズ(二回目) 「お百度こいさん」
越路吹雪(六回目) 「うちへ帰るのがこわい」 フランク永井(四回目) 「東京カチート」
守山加代子(初出場) 「月影のキューバ」 ミッキー・カーチス(初出場) 「恋の片道切符」
美空ひばり(五回目) 「哀愁波止場」 春日八郎(六回目) 「山の吊橋」
江利チエミ(八回目) 「ソーラン節」 森繁久彌(二回目) 「フラメンコ・ソーラン節」
松山恵子(四回目) 「アンコ悲しや」 守屋浩(初出場) 「僕は泣いちっち」
藤沢嵐子(四回目) 「ジーラ・ジーラ」 アイ・ジョージ(初出場) 「マラゲーニア」
大津美子(五回目) 「東京ドライブ」 神戸一郎(三回目) 「赤い夕陽が沈む頃」
淡谷のり子(七回目) 「忘れられないブルース」 林伊佐緒(十回目) 「山男の歌」
有明ゆり(二)・小割まさ江(初)・沢たまき(二)・高美アリサ(初)「或る恋の物語」  ダーク・ダックス(三回目) 「すずらん」
石井好子(三回目) 「黒いオルフェ」 芦野宏(六回目) 「幸福を売る男」
コロンビア・ローズ(五回目) 「新調深川節」 三浦洸一(五回目) 「流転」
奈良光枝(九回目) 「ばら色の雲にのせて」 若原一郎(五回目) 「ながれ雲」
宮城まり子(六回目) 「陽気な水兵さん」 藤島桓夫(五回目) 「月の法善寺横丁」
ペギー葉山(七回目) 「マンマ」 フランキー堺(三回目) 「悲しきインディアン」
楠トシエ(四回目) 「駄目デス」 三波春夫(三回目) 「忠治流転笠」
島倉千代子(四回目) 「他国の雨」 三橋美智也(五回目) 「達者でナ」



1961(昭和36)第12回紅白歌合戦

紅組 白組
朝丘雪路(四回目) 「チャチャで飲みましょう」 神戸一郎(四回目) 「東京ラプソディー」
藤本二三代(四回目) 「花のマーブル通り」 藤島桓夫(六回目) 「波止場気質」
中原美紗緒(六回目) 「ボーイ・ハント」 芦野宏(七回目) 「カナダ旅行」
水谷良重(四回目) 「ペピート」 守屋浩(七回目) 「月のエレジー」
雪村いづみ(五回目) 「マック・ザ・ナイフ」 アイ・ジョージ(二回目) 「硝子のジョニー」
松山恵子(五回目) 「恋の三度笠」 村田英雄(初出場) 「王将」
石井好子(四回目) 「鐘よ鳴れ」 林伊佐緒(十一回目) 「恋の幌馬車」
西田佐知子(初出場) 「コーヒー・ルンバ」 平尾昌章(二回目) 「タック・ロック」
こまどり姉妹(初出場) 「姉妹酒場」 和田弘とマヒナスターズ(三回目) 「惚れたって駄目よ」
花村菊江(二回目) 「木曾の花嫁さん」 三浦洸一(六回目) 「恋しても愛さない」
松尾和子(二回目) 「再会」 水原弘(三回目) 「禁じられた恋のボレロ」
ペギー葉山(八回目) 「ブリア」 フランク永井(五回目) 「君恋し」
江利チエミ(九回目) 「スワニー」 三橋美智也(六回目) 「石狩川エレジー」
美空ひばり(六回目) 「ひばりの渡り鳥だよ」 橋幸夫(二回目) 「南海の美少年」
宮城まり子(七回目) 「まり太郎の歌」 春日八郎(七回目) 「長良川旅情」
藤沢嵐子(五回目) 「さらば草原よ」 高英男(七回目) 「カミニート」
寿美花代(初出場) 「ジャズ・バンド」 森繁久彌(三回目) 「五つ木の子守唄」
神楽坂浮子(二回目) 「東京の下町娘」 井上ひろし(初出場) 「別れの磯千鳥」
ザ・ピーナッツ(三回目) 「スク・スク」 ダーク・ダックス(四回目) 「北上夜曲」
淡谷のり子(八回目) 「マリオ・ラオ」 伊藤久男(十回目) 「メコンの舟唄」
坂本スミ子(初出場) 「アロロコ」 坂本九(初出場) 「上を向いて歩こう」
楠トシエ(五回目) 「石松金毘羅道中」 ジェリー藤尾(初出場) 「石松野郎の歌」
森山加代子(二回目) 「シンデレラ」 佐川ミツオ(初出場) 「背広姿の渡り鳥」
越路吹雪(七回目) 「ラスト・ダンスは私に」 フランキー堺(四回目) 「金色夜叉」
島倉千代子(五回目) 「襟裳岬」 三波春夫(四回目) 「文左たから船」



1962(昭和37)第13回紅白歌合戦

紅組 白組
仲宗根美樹(初出場) 「川は流れる」 松島アキラ(初出場) 「あゝ青春に花よ咲け」
大津美子(六回目) 「忘れないで」 三浦洸一(七回目) 「別れては昨日の人ぞ」
弘田三枝子(初出場) 「ヴァケーション」 飯田久彦(初出場) 「ルイジアナ・ママ」
中原美紗緒(七回目) 「フルフル」 芦野宏(八回目) 「カミニート」
ザ・ピーナッツ(四回目) 「ふりむかないで」 ダーク・ダックス(五回目) 「山男の歌」
美空ひばり(七回目) 「ひばりの佐渡情話」 春日八郎(八回目) 「風林火山の歌」
中尾ミエ(初出場) 「可愛いベイビー」 北原謙二(初出場) 「若い二人」
松尾和子(三回目) 「昔の人」 ジェリー藤尾(二回目) 「遠くへ行きたい」
宮城まり子(八回目) 「ドレミの歌」 守屋浩(三回目) 「大学かぞえうた」
トリオこいさんず(初出場) 「ジャンジャン横丁」 ダニー飯田とパラダイス・キング(初出場) 「グッドバイ・ジョー」
坂本スミ子(二回目) 「エル・クンバンチェロ」 旗照夫(六回目) 「私の青空」
吉永小百合(初出場) 「寒い朝」 坂本九(二回目) 「一人ぼっちの二人」
朝丘雪路(五回目) 「島育ち」 三波春夫(五回目) 「巨匠」
江利チエミ(十回目) 「虹のかなたに」 橋幸夫(三回目) 「いつでも夢を」
及川三千代(初出場) 「愛と死のかたみ」 佐川ミツオ(二回目) 「太陽に向かって」
森山加代子(三回目) 「五匹の仔ブタとチャールストン」 平尾昌章(三回目) 「ツイストbP」
スリー・グレイセス(初出場) 「ストライク・アップ・ザ・バンド」 デューク・エイセス(初出場) 「ドライ・ボーンズ」
五月みどり(初出場) 「おひまなら来てね」 藤島桓夫(七回目) 「マドロス慕情」
越路吹雪(八回目) 「新土佐節」 森繁久彌(八回目) 「知床旅情」
ペギー葉山(九回目) 「トゥナイト」 アイジョージ(三回目) 「ク・ク・ル・ク・ク・パロマ」
楠トシエ(六回目) 「うかれ駒」 植木等(初出場) 「ハイ・それまでよ」
こまどり姉妹(二回目) 「未練ごころ」 和田弘とマヒナスターズ(四回目) 「泣かせるね」
松山恵子(六回目) 「おけさ悲しや」 村田英雄(二回目) 「王将」
西田佐知子(二回目) 「アカシアの雨がやむとき」 フランク永井(六回目) 「霧子のタンゴ」
島倉千代子(六回目) 「さよならとさよなら」 三橋美智也(七回目) 「星屑の街」



1963(昭和38)第14回紅白歌合戦

紅組 白組
弘田三枝子(二回目) 「悲しきハート」 田辺靖雄(初出場) 「雲に聞いておくれよ」
仲宗根美樹(二回目) 「奄美恋しや」 守屋浩(四回目) 「がまの油売り」
松山恵子(七回目) 「別れの入場券」 北島三郎(初出場) 「ギター仁義」
雪村いづみ(六回目) 「思い出のサンフランシスコ」 アイ・ジョージ(四回目) 「ダニーボーイ」
こまどり姉妹(三回目) 「浮草三味線」 和田弘とマヒナスターズ(五回目) 「男ならやってみな」
坂本スミ子(三回目) 「テ・キエロ・ディヒステ」 ジェリー藤尾(三回目) 「誰かと誰かが」
高石かつ枝(初出場) 「りんごの花咲く町」 三浦洸一(八回目) 「こころの灯」
楠トシエ(七回目) 「銀座かっぽれ」 森繁久彌(五回目) 「フラメンコかっぽれ」
江利チエミ(十一回目) 「踊り明かそう」 立川澄人(初出場) 「運がよけりゃ」
トリオこいさんず(二回目) 「いやーかなわんわ」 ポニージャックス(初出場) 「一週間」
吉永小百合(二回目) 「伊豆の踊り子」 北原謙二(二回目) 「若い明日」
朝丘雪路(六回目) 「永良部百合の花」 田端義夫(初出場) 「島育ち」
島倉千代子(七回目) 「武蔵野エレジー」 三橋美智也(八回目) 「流れ星だよ」
畠山みどり(初出場) 「出世街道」 村田英雄(三回目) 「柔道一代」
西田佐知子(三回目) 「エリカの花散るとき」 橋幸夫(四回目) 「お嬢吉三」
越路吹雪(九回目) 「ラストダンスは私に」 フランク永井(七回目) 「逢いたくて」
スリー・グレイセス(二回目) 「アイ・フィール・プリティー」 ダーク・ダックス(六回目) 「カリンカ」
倍賞千恵子(初出場) 「下町の太陽」 芦野宏(九回目) 「パパと踊ろう」
三沢あけみ(初出場) 「島のブルース」 舟木一夫(初出場) 「高校三年生」
梓みちよ(初出場) 「こんにちは赤ちゃん」 坂本九(三回目) 「見上げてごらん夜の星を」
ペギー葉山(十回目) 「女に生まれて幸せ」 旗照夫(j七回目) 「史上最大の作戦マーチ」
ザ・ピーナッツ(五回目) 「恋のバカンス」 デューク・エイセス(二回目) 「ミスター・ベースマン」
五月みどり(二回目) 「一週間に十日来い」 春日八郎(九回目) 「長崎の女」
中尾ミエ(ニ)・伊東ゆかり(初)・園まり(初) 「キューティパイ・メドレー」 植木等(二回目) 「どうしてこんなにもてるんだろう・ホンダラ行進曲」
美空ひばり(八回目) 「哀愁出船」 三波春夫(六回目) 「佐渡の恋唄」



1964(昭和39)第15回紅白歌合戦

紅組 白組
朝丘雪路(七回目) 「夜の八丈島」 北島三郎(二回目) 「そうらん仁義」
仲宗根美樹(三回目) 「午前0時のブルース」 田辺靖雄(二回目) 「二人の星を探そうよ」
伊東ゆかり(ニ)・園まり(ニ)・中尾ミエ(三) 「夢みる想い」 芦野宏(十回目) 「ほゝにかゝる涙」
渡辺はま子(八回目) 「桑港のチャイナタウン」 藤山一郎(九回目) 「長崎の鐘」
坂本スミ子(四回目) 「マラゲーニァ」 デューク・エイセス(三回目) 「A列車で行こう」
九重佑三子(初出場) 「ウエディング・ドレス」 三田明(初出場) 「ごめんねチコちゃん」
畠山みどり(二回目) 「浮世街道」 春日八郎(十回目) 「ロザリオの島」
岸洋子(初出場) 「夜明けのうた」 立川澄人(二回目) 「オー・ソレ・ミオ」
梓みちよ(二回目) 「リンデンバウムの歌」 ボニー・ジャックス(二回目) 「幸せなら手をたたこう」
コロンビア・ローズ【二代目】(初出場) 「智恵子抄」 克美しげる(初出場) 「さすらい」
西田佐知子(四回目) 「東京ブルース」 アイ・ジョージ(五回目) 「紅子のバラード」
こまどり姉妹(四回目) 「女の恋」 新川二郎(初出場) 「東京の灯よいつまでも」
島倉千代子(八回目) 「ふたりだけの太陽」 村田英雄(四回目) 「皆の衆」
江利チエミ(十二回目) 「木曾節」 三橋美智也(九回目) 「また来るよ」
ペギー葉山(十一回目) 「ラ・ノビア」 フランク永井(八回目) 「大阪ぐらし」
弘田三枝子(三回目) 「アレキサンダーズ・ラグタイム・バンド」 植木等(三回目) 「だまって俺についてこい」
青山和子(初出場) 「愛と死をみつめて」 西郷輝彦(初出場) 「十七歳のこの胸に」
倍賞千恵子(二回目) 「瞳とじれば」 舟木一夫(二回目) 「右衛門七討入り」
淡谷のり子(九回目) 「別れのブルース」 伊東久男(十一回目) 「イヨマンテの夜」
五月みどり(三回目) 「温泉芸者」 和田弘とマヒナスターズ(六回目) 「お座敷小唄」
越路吹雪(十回目) 「サン・トワ・マミー」 森繁久彌(六回目) 「戦友」
雪村いづみ(七回目) 「ショウほどすてきな商売はない」 ダーク・ダックス(七回目) 「アンジェリータ」
吉永小百合(三回目) 「瀬戸のうず潮」 橋幸夫(五回目) 「恋をするなら」
ザ・ピーナッツ(六回目) 「ウナ・セラ・ディ東京」 坂本九(四回目) 「さよなら東京」
美空ひばり(九回目) 「柔」 三波春夫(七回目) 「俵星玄蕃」



1965(昭和40)第16回紅白歌合戦

紅組 白組
三沢あけみ(二回目) 「アリューシャン小唄」 舟木一夫(三回目) 「高原のお嬢さん」
都はるみ(初出場) 「涙の連絡船」 井沢八郎(初出場) 「北海の満月」
西田佐知子(五回目) 「赤坂の夜は更けて」 春日八郎(十一回目) 「大阪の灯」
雪村いづみ(八回目) 「スワニー」 坂本九(五回目) 「ともだち」
仲宗根美樹(四回目) 「海と野菊と船頭さん」 克美しげる(二回目) 「あゝせつなきわが心」
梓みちよ(三回目) 「忘れたはずなのに」 ダーク・ダックス(八回目) 「エーデルワイス」
園まり(三回目) 「逢いたくて逢いたくて」 山田太郎(初出場) 「新聞少年」
九重佑三子(二回目) 「抱きしめて」 東海林太郎(四回目) 「赤城の子守唄」
日野てる子(初出場) 「夏の想い出」 バーブ佐竹(初出場) 「女心の唄」
朝丘雪路(八回目) 「ハロー・ドーリー」 立川澄人(三回目) 「教会へ行こう」
伊東ゆかり(三回目) 「恋する瞳」 三田明(二回目) 「若い翼」
島倉千代子(九回目) 「新妻鏡」 三橋美智也(十回目) 「二本松少年隊」
岸洋子(二回目) 「恋心」 アイ・ジョージ(六回目) 「赤いグラス」
弘田三枝子(四回目) 「恋のクンビア」 ジャニーズ(初出場) 「マック・ザ・ナイフ」
吉永小百合(四回目) 「天満橋から」 森繁久彌(七回目) 「ゴンドラの唄」
江利チエミ(十三回目) 「芸者音頭」 三波春夫(八回目) 「水戸黄門旅日記」
倍賞千恵子(三回目) 「さよならはダンスのあとに」 和田弘とマヒナスターズ(七回目) 「愛して愛して愛しちゃったのよ」
ペギー葉山(十二回目) 「学生時代」 ボニー・ジャックス(三回目) 「手のひらを太陽に」
越路吹雪(十一回目) 「夜霧のしのび逢い」 植木等(四回目) 「遺憾に存じます」
水前寺清子(初出場) 「涙を抱いた渡り鳥」 村田英雄(五回目) 「柔道水滸伝」
ザ・ピーナッツ(七回目) 「ロック・アンド・ロール・ミュージック」 デューク・エイセス(四回目) 「キャラバン」
坂本スミ子(五回目) 「グラナダ」 フランク永井(九回目) 「東京しぐれ」
中尾ミエ(四回目) 「夢みるシャンソン人形」 西郷輝彦(二回目) 「星娘」
こまどり姉妹(五回目) 「恋に拍手を」 北島三郎(三回目) 「帰ろかな」
美空ひばり(十回目) 「柔」 橋幸夫(六回目) 「あの娘と僕」



1966(昭和41)第17回紅白歌合戦

紅組 白組
中尾ミエ(五回目) 「ア・テイスト・オブ・ハニー」 西郷輝彦(三回目) 「星のフラメンコ」
田代美代子(初出場) 「ここがいいのよ」 島和彦(初出場) 「雨の夜あなたは帰る」
九重佑三子(三回目) 「ディディンド・ディンドン」 アントニオ古賀(初出場) 「その名はフジヤマ」
笹みどり(初出場) 「下町育ち」 山田太郎(二回目) 「幸福はこだまする」
日野てる子(二回目) 「道」 ダーク・ダックス(九回目) 「銀色の道」
倍賞千恵子(四回目) 「おはなさん」 坂本九(六回目) 「レッツ・キッス」
畠山みどり(三回目) 「どさんこ一代」 北島三郎(四回目) 「函館の女」
岸洋子(三回目) 「想い出のソレンツァーラ」 立川澄人(四回目) 「イエスタディ」
青江美奈(初出場) 「恍惚のブルース」 城卓矢(初出場) 「骨まで愛して」
三沢あけみ(三回目) 「サガレン小唄」 井沢八郎(二回目) 「さいはての男」
金井克子(初出場) 「ラバーズ・コンチェルト」 ハナ肇とクレージー・キャッツ(初出場) 「チョッと一言多すぎる」
島倉千代子(十回目) 「ほんきかしら」 春日八郎(十二回目) 「波止場で待ちな」
江利チエミ(十四回目) 「私だけのあなた」 橋幸夫(七回目) 「霧氷」
園まり(四回目) 「夢は夜ひらく」 舟木一夫(四回目) 「絶唱」
吉永小百合(五回目) 「勇気あるもの」 加山雄三(初出場) 「君といつまでも」
ザ・ピーナッツ(八回目) 「ローマの雨」 ジャッキー吉川とブルー・コメッツ(初出場) 「青い瞳」
越路吹雪(十二回目) 「夢の中に君がいる」 アイ・ジョージ(七回目) 「夜のストレンジャー」
都はるみ(二回目) 「さよなら列車」 三田明(三回目) 「恋人ジュリー」
伊東ゆかり(四回目) 「愛はかぎりなく」 デューク・エイセス(五回目) 「君の故郷は」
水前寺清子(二回目) 「いっぽんどっこの唄」 村田英雄(七回目) 「祝い節」
朝丘雪路(九回目) 「ふりむいてもくれない」 バーブ佐竹(二回目) 「ネオン川」
梓みちよ(四回目) 「ポカンポカン」 マイク真木(初出場) 「バラが咲いた」
こまどり姉妹(六回目) 「幸せになりたい」 和田弘とマヒナスターズ(八回目) 「銀座ブルース」
西田佐知子(六回目) 「信じていたい」 フランク永井(十回目) 「大阪ろまん」
美空ひばり(十一回目) 「美しい酒」 三波春夫(九回目) 「紀伊国屋文左ェ門」



1967(昭和42)第18回紅白歌合戦

紅組 白組
水前寺清子(三回目) 「どうどうどっこの唄」 舟木一夫(五回目) 「夕笛」
園まり(五回目) 「愛は惜しみなく」 水原弘(四回目) 「君こそわが命」
山本リンダ(初出場) 「こまっちゃうナ」 山田太郎(三回目) 「あの娘が恋をつれてきた」
日野てる子(三回目) 「南十字の星に泣く」 布施明(初出場) 「恋」
三沢あけみ(四回目) 「お手を拝借」 ハナ肇とクレージー・キャッツ(二回目) 「花は花でも何の花」
梓みちよ(五回目) 「渚のセニョリータ」 三田明(四回目) 「夕子の涙」
仲宗根美樹(五回目) 「恋しくて」 美樹克彦(初出場) 「花はおそかった」
越路吹雪(十三回目) 「チャンスがほしいの」 村田英雄(七回目) 「浪花の勝負師」
金井克子(二回目) 「ラ・バンバ」 ジャッキー吉川とブルー・コメッツ(二回目) 「ブルー・シャトー」
伊東ゆかり(五回目) 「小指の想い出」 菅原洋一(初出場) 「知りたくないの」
岸洋子(四回目) 「わかっているの」 フランク永井(十一回目) 「生命ある限り」
島倉千代子(十一回目) 「ほれているのに」 橋幸夫(八回目) 「若者の子守唄」
江利チエミ(十五回目) 「ひとり泣く夜のワルツ」 西郷輝彦(四回目) 「願い星叶い星」
中尾ミエ(六回目) 「ただそれだけ」 坂本九(七回目) 「エンピツが一本」
西田佐知子(七回目) 「涙のかわくまで」 ダーク・ダックス(十回目) 「すばらしい明日」
扇ひろ子(初出場) 「新宿ブルース」 春日八郎(十三回目) 「花かげの恋」
弘田三枝子(五回目) 「渚のうわさ」 バーブ佐竹(三回目) 「星が言ったよ」
黛ジュン(初出場) 「霧のかなたに」 荒木一郎(初出場) 「いとしのマックス」
こまどり姉妹(七回目) 「三味線渡り鳥」 和田弘とマヒナスターズ(九回目) 「男の夜曲」
佐良直美(初出場) 「世界は二人のために」 加山雄三(二回目) 「別れたあの人」
都はるみ(三回目) 「初恋の川」 北島三郎(五回目) 「博多の女」
ザ・ピーナッツ(九回目) 「恋のフーガ」 アイ・ジョージ(九回目) 「カチューシャ」
美空ひばり(十二回目) 「芸道一代」 三波春夫(十回目) 「赤垣源蔵」



1968(昭和43)第19回紅白歌合戦

紅組 白組
都はるみ(四回目) 「好きになった人」 三田明(五回目) 「バラの涙」
佐良直美(二回目) 「すてきなファニー」 布施明(二回目) 「愛の園」
ペギー葉山(十三回目) 「愛の花咲くとき」 千昌夫(初出場) 「星影のワルツ」
小川知子(初出場) 「ゆうべの秘密」 黒沢明とロス・プリモス(初出場) 「たそがれの銀座」
ピンキーとキラーズ(初出場) 「恋の季節」 ジャッキー吉川とブルー・コメッツ(三回目) 「草原の輝き」
ザ・ピーナッツ(十回目) 「ガラスの城」 西郷輝彦(五回目) 「友達の恋人」
三沢あけ(五回目) 「木曾節」 フランク永井(十二回目) 「加茂川ブルース」
伊東ゆかり(六回目) 「恋のしずく」 鶴岡雅義と東京ロマンチカ(初出場) 「小樽のひとよ」
西田佐知子(八回目) 「あの人に逢ったら」 水原弘(五回目) 「愛の渚」
九重佑三子(四回目) 「ラスト・ワルツ」 菅原洋一(二回目) 「奥様お手をどうぞ」
中尾ミエ(七回目) 「恋のシャロック」 ダーク・ダックス(十一回目) 「ラ・ゴロンドリーナ」
島倉千代子(十二回目) 「愛のさざなみ」 三波春夫(十一回目) 「世界平和音頭」
江利チエミ」(十六回目) 「八木節」 北島三郎(六回目) 「薩摩の女」
青江美奈(二回目) 「伊勢佐木町ブルース」 アイ・ジョージ(九回目) 「別れのバラード」
中村晃子(初出場) 「虹色の湖」 美川憲一(初出場) 「釧路の夜」
園まり(六回目) 「ひとりにしないで」 舟木一夫(六回目) 「喧嘩鳶」
岸洋子(五回目) 「今宵あなたが聞く歌は」 春日八郎(十四回目) 「たそがれの砂丘」
梓みちよ(六回目) 「月夜と舟と恋」 デューク・エイセス(六回目) 「いい湯だな」
扇ひろ子(二回目) 「みれん海峡」 村田英雄(八回目) 「竜馬がゆく」
越路吹雪(十四回目) 「イカルスの星」 バーブ佐竹(四回目) 「雨おんな」
水前寺清子(四回目) 「男でよいしょ」 坂本九(八回目) 「世界の国からこんにちは」
黛ジュン(二回目) 「天空の誘惑」 森進一(初出場) 「花と蝶」
美空ひばり(十三回目) 「熱祷(いのり)」 橋幸夫(九回目) 「赤い夕陽の三度笠」


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1969(昭和43)第20回紅白歌合戦

紅組 白組
青江美奈(三回目) 「池袋の夜」 布施明(三回目) 「バラ色の月」
いしだあゆみ(初出場) 「ブルーライト・ヨコハマ」 千昌夫(二回目) 「君がすべてさ」
小川知子(二回目) 「初恋のひと」 西郷輝彦(六回目) 「海はふりむかない」
カルメン・マキ(初出場) 「時には母のない子のように」 アイ・ジョージ(十回目) 「ク・ク・ル・ク・ク・パロマ」
越路吹雪(十五回目) 「愛の讃歌」 春日八郎(十五回目) 「別れの一本杉」
奥村チヨ(初出場) 「恋泥棒」 ザ・キング・トーンズ(初出場) 「グット・ナイト・ベイビー」
水前寺清子(五回目) 「真実一路のマーチ」 三田明(六回目) 「サロマ湖の空」
由紀さおり(初出場) 「夜明けのスキャット」 デューク・エイセス(七回目) 「筑波山麓合唱団」
伊東ゆかり(七回目) 「宿命の祈り」 菅原洋一(三回目) 「潮風の中で」
岸洋子(六回目) 「夜明けのうた」 坂本九(九回目) 「見上げてごらん夜の星を」
森山良子(初出場) 「禁じられた恋」 鶴岡雅義と東京ロマンチカ(二回目) 「君は心の妻だから」
島倉千代子(十三回目) 「すみだ川」 三波春夫(十二回目) 「大利根無情」
弘田三枝子(六回目) 「人形の家」 橋幸夫(十回目) 「京都・神戸・銀座」
黛ジュン(三回目) 「雲にのりたい」 佐川満男(三回目) 「今は幸せかい」
西田佐知子(九回目) 「アカシアの雨がやむとき」 村田英雄(九回目) 「王将」
梓みちよ(七回目) 「こんにちは赤ちゃん」 水原弘(六回目) 「君こそわが命」
高田恭子(九回目) 「みんな夢の中」 美川憲一(二回目) 「女とバラ」
中尾ミエ(八回目) 「忘れられた坊や」 ダーク・ダックス(十二回目) 「あんな娘がいいな」
ピンキー・キラーズ(二回目) 「星空のロマンス」 内山田洋とクール・ファイブ(初出場) 「長崎は今日も雨だった」
ザ・ピーナッツ(十一回目) 「ウナ・セラ・ディ東京」 フランク永井(十三回目) 「君恋し」
佐良直美(三回目) 「いいじゃないの幸せならば」 舟木一夫(七回目) 「夕映えのふたり」
都はるみ(五回目) 「はるみの三度笠」 北島三郎(七回目) 「加賀の女」
美空ひばり(十四回目) 「別れてもありがとう」 森進一(二回目) 「港町ブルース」




昭和の演歌
日本の心・歌ひとすじ

ムード歌謡・演歌とその時代-菊池清麿

 

1 戦前のムード歌謡

 

 大正時代は、街頭演歌といわれた「はやり唄」の全盛時代だった。演歌師たちが流し歩いて唄っていた歌をレコード会社が聴きつけてレコードした。「船頭小唄」「籠の鳥」などが流行したのだ。だが、昭和になると事情が大きく変わった。日本ビクター、日本コロムビアなど外資系レコード会社が成立すると、各レコード会社が企画・製作し大衆に選択させるシステムに代わったのである。録音システムも従来のラッパ吹込ではなく電気吹込みという新しいシステムが登場し、耳新しいジャズの響きも巷では聴かれるようになった。激しいヒット競争も展開した。「我らのテナー」・オペラの藤原義江、「東京行進曲」(昭和四年)を歌って人気歌手になった佐藤千夜子、ジャズ・ソングの二村定一らが創成期の昭和歌謡を彩ったのである。そして、やがて、ムード歌謡的な歌も作られるようになった。 

 ムード歌謡とは、都会、夜の街、酒場、港を舞台とし、心情、雰囲気を歌詞やメロディーに盛り込んだ成熟した大人の歌謡曲である。そのようなムード歌謡の情緒と雰囲気はすでに昭和初期、戦前の流行歌に見ることができる。その嚆矢が古賀メロディーの「酒は涙か溜息か」(昭和六)だった。昭和六(一九三一)年、満州事変が本格的になりだした頃、「涙」「酒」「溜息」を心情のシンボルにした感傷のメロディーは大衆の心を捉え、一世を風靡した。モダン都市における夜の街、カフェー、酒場を舞台に昭和恐慌で喘ぐ人々のやるせない心を慰めたのである。歌唱者の藤山一郎は声楽技術を正統解釈した甘美・流麗な唱法で古賀政男のギターの魅力を伝えた。その豊かな歌唱表現がクラシックの体系・メソッドとはいえ、詠嘆のムードを明瞭な日本語で表現したことは従来の流行歌には見られなかったことであり、画期的なことだった。

 昭和初期は官能的なムードのある日本調歌謡が流行した時代でもある。小唄勝太郎が静かに濡れたビロードのような声で歌った「島の娘」(昭和八)も日本情緒溢れるムード歌謡的な歌である。また、「島の娘」の作曲者・佐々木俊一は「無情の夢」(昭和一〇)というムード歌謡の傑作を世に送り出している。また、関種子が歌った「雨に咲く花」(昭和一〇)もタンゴのリズムにのせた抒情豊かなムード歌謡の名曲といえよう。この「無情の夢」と「雨の咲く花」は、ロカビリー歌手の井上ひろし、佐川ミツオによって戦後昭和三〇代にリバイルされヒットしている。

 昭和一二(一九三七)年、日中戦争が始まった頃、服部良一作曲のブルース歌謡・「別れのブルース」(昭和一二年)が巷に流れた。これも今でいうならムード歌謡の範疇に入る名曲である。淡谷のり子がブルースの情感を出すため従来のソプラノを捨てて歌ったところにヒットの要因があった。また、ジャズのフィリーリングを生かしたディック・ミネが歌う「愛の小窓」(昭和一一)「上海ブルース」(昭和一年)、ハワイアン出身の灰田勝彦が歌う「燦めく星座」(昭和一五)もムード歌謡に入る流行歌の傑作である。 日中戦争は泥沼化しており、国家総動員法(昭和一三年)、日独伊三国同盟(昭和一五年)、大政翼賛会の結成(昭和一五年)と、しだいに戦時国家体制が顕著になり、軍歌・軍国歌謡も台頭してきていた。たが、当時は昭和モダンの青春や感傷をテーマにした「或る雨の午後」(昭和一三)「一杯のコヒーから」(昭和一四)「雨のブルース」、大陸を舞台に渡辺はま子が歌った「支那の夜」(昭和一三)「蘇州夜曲」(昭和一五)などの歌謡曲や「ダイナ」「ラモナ」「ダーダネラ」「人の気も知らないで」など外国のポピュラー曲のカヴァーも氾濫しており、これらは、カフェー、ダンスホールで流れ当時のムード歌謡として愛好されたのである。 

 太平洋戦争が終わり、戦後になると日本は新しい時代を迎える。戦後の歌謡曲は、並木路子が歌う「リンゴの唄」や岡晴夫の歌声が焼け跡や闇市から聞こえて来たことに始まった。並木路子はあの東京大空襲の体験者でもある。そして、笠置シズ子が歌う「東京ブギウギ」は占領期の日本人の虚脱感を吹き飛ばし、藤山一郎が颯爽と格調高く歌う「青い山脈」は復興と民主化の息吹を伝えたのである。

 戦後の歌謡曲において、ムード歌謡的なヒット曲といえば、ディック・ミネが切実と情感を込めて歌う「夜霧のブルース」(昭和二二)、戦争の後遺症を残した「星の流れに」(昭和二二)、ビクターの新人歌手平野愛子が歌う「港が見える丘」(昭和二二年)、「アイラブユー」という言葉が入り新鮮な感覚をあたえた小畑実のヒット曲「星影の小径」(昭和二三年)があげられる。

 昭和二五(一九五〇)年、朝鮮戦争が勃発、特需景気が始まり日本の経済復興の兆しが見え、翌昭和二六(一九五一)年、サンフランシスコ平和条約、日米安保条約が締結され、占領時代が終わり日本は復興の時代を迎えた。歌謡曲も美空ひばり、江利チエミ、雪村いづみの三人娘が人気を呼び、その一方で、二葉あき子が歌った「水色のワルツ」(昭和二五年)も格調高いムード歌謡の魅力をもってヒットした。また、伊藤久男が抒情豊かに歌いあげた「あざみの歌」(昭和二五)も歌曲的とはいえムード歌謡の雰囲気が感じられ、さらに「君の名は」(昭和二八)も歌謡ファンにとって忘れることができないヒット曲となった。 

 

2 演歌系歌謡曲と都会派ムード歌謡

 

 昭和三〇年代に入ると、歌謡界が大きく変貌した。変化は歌謡界だけではなかった。昭和三〇年という年は日本の大きな転換期でもある。自由民主党の結成による「五五年体制」の始動、神武景気に始まる高度経済成長の到来、翌昭和三一(一九五六)年の『経済白書』には「もはや『戦後』ではない」という言葉が新たな消費社会を予感させた。五〇年代後半・三種の神器(洗濯機・テレビ・自動車)や六〇年代後半・3C(カー・カラーテレビ・クーラー)の登場がそれを象徴していた。

 昭和三〇年代、コロムビアは演歌・艶歌路線を濃厚にしていた。演歌はもともと自由民権運動の産物である。政治演説の代わりに歌われた歌が演歌である。大正時代には中山晋平が西洋音楽と伝統的な俗謡に眠る日本人の心情を融合させた「ヨナ抜き短音音階」で「船頭を小唄」を作曲し演歌系歌謡曲の範型を作った。その演歌は昭和に入り紆余曲折し歌謡曲の中心になり始めたのである。コロムビアの作曲陣では船村徹、遠藤実がコロムビアのカラーをしだいに変えていった。そして、古賀政男も浪曲の村田英雄の声に惚れ込み「無法松の一生」(昭和三三)「人生劇場」(昭和三四)を歌わせ、演歌の源流のスタンスを志向し始めた。歌手では美空ひばりが中心となり、泣き節の島倉千代子が「この世の花」で登場するなど新たなスターも生まれたのである。

 キングは、岡晴夫の時代が去り、春日八郎の望郷演歌、民謡を基調にした三橋美智也の故郷演歌を売り出した。「別れの一本杉」(昭和三〇)は故郷を離れ都会の片隅で喘ぐ若者の心情を歌った望郷演歌の傑作であり、「リンゴ村から」(昭和三一)は農村型のふるさと演歌の代表作だった。このように春日八郎・三橋美智也・隆盛の時代を迎えたが、ビクターは吉田正の都会派ムード歌謡を売り出した。成熟した都会生活を満喫するような甘い大人のムード歌謡が流行したのである。その代表曲が「有楽町で逢いましょう」(昭和三二)だった。 

 都会派ムード歌謡を代表する吉田メロディーは、流行歌に新しい感覚をもたらした。この傾向は、すでに鶴田浩二が歌った「赤と黒のブルース」(昭和三〇)、「東京の人」(昭和三一)「東京午前三時」(昭和三二)で見られていたが、「有楽町で逢いましょう」でその路線を明確にした。コロムビアローズが歌った「東京のバスガール」(昭和三二)は、集団就職の哀歓を感じさせる哀愁があり伝統的な歌謡曲路線だが、「有楽町で逢いましょう」は大人のムードが溢れる新しい感覚の都会派歌謡だった。

 都会の夜を舞台にしたムード歌謡において、ジャズのフィーリングを加味したフランク永井の低音の魅力は都会的な甘さがあり新鮮だった。石原裕次郎も同じ頃、ハスキーな低音で「狂った果実」(昭和三一)を歌い、また、キングの三船浩が「男のブルース」(昭和三一)をヒットさせ低音の効くブルース歌手として注目された。「望郷」「故郷」をテーマに歌う春日八郎、三橋美智也の高音歌手に対して都会のムードを歌うフランク永井、石原裕次郎、三船浩は「低音三羽カラス」と言われた。いわゆる、低音ブームという時代が到来したのである。 

 このように昭和三〇年代、演歌・艶歌路線の船村徹、遠藤実、都会派ムード歌謡の吉田正らと歌謡界のヒットメーカーの勢力図を形成したのがジャズの中村八大である。彼が作曲した「黒い花びら」(昭和三四)は従来の歌謡曲とは違った新鮮な感覚によるムード歌謡の傑作だった。歌唱の水原弘もチェック・ペリーに傾倒していただけあって、ドスの効いたブルース調の抜群の上手さで見事に第一回レコード大賞受賞に輝いた。 

 吉田の都会派ムード歌謡はその後、和田弘とマヒナスターズ、松尾和子らのヒット曲を作りだした。吉田はフランク永井と松尾和子を組ませた。夜の銀座の豪華な一流ナイトクラブで一夕を過ごす男女をテーマにした「東京ナイトクラブ」(昭和三)を二人に歌わせたのだ。銀座を舞台に大人のムード満点のムード歌謡だった。また、松尾和子の濡れるようなハスキーヴォイスとマヒナスターズを組ませた「誰よりも君を愛す」(昭和三五)は第二回レコード大賞受賞曲だった。

 マヒナスターズは都会派ムード歌謡のコーラスに先鞭をつけたグループである。松尾和子は進駐軍でジャズを歌い、ナイトクラブではハスキーな声を響かせていた。そのセクシーヴォイスで「再会」(昭和三五年)をヒットさせた。この曲は女性の心情を絞り出すようなバラード風の都会派ムード歌謡であり、そして、さらに、石原裕次郎が甘い低音のハスキーヴォイスで「銀座の恋の物語」(昭和三六)を歌いムード歌謡は頂点に達したのである。

 

3 演歌の隆盛 

 

 日本は東京オリンピック(昭和三九年)の成功以後、高度経済成長をまっしぐらに走り、昭和四三(一九六八)年、GNPがアメリカに次いで先進国で第二位となり、経済成長の繁栄と平和を満喫していた。六〇年代後半になると流行歌・歌謡曲と言われた歌が演歌という形容で呼ばれるようになった。また、それは日本の歌謡曲がビートルズサウンドの影響から演歌とポップスに分けられた歴史のスタートでもある。 

 昭和四一年、エレキブームのさなか、アコースティックギターのイントロが奏でる「悲しい酒」(昭和四一)が美空ひばりの歌でリバイバルされた。これは、もともと北見沢淳が創唱したものであった。だが、レコードは、ほとんどヒットせず埋もれたまま消えゆく作品だった。それが美空ひばりによって再生し、ムード歌謡的な演歌としての古賀メロディーが確立したのである。

 古賀政男は日本人の哀しい涙やうらみ・つらみの源流を仏教の声明にあるとのべていた。演歌・艶歌の心情は、声明を源流とし、平曲や謡曲、浄瑠璃、説教節、浪花節への流れと、和讚(国産声明)や御詠歌、子守唄、江戸小唄などに流れる系統に分類され、日本人の暗く哀しい情念の世界を作りあげたのである。古賀政男はこの点に関して深い関心をもっていた。

 六〇年代後半の演歌は、美空ひばりを頂点にして、北島三郎・男の魂演歌、都はるみ・独特の「唸り節」、水前寺清子・人生応援歌に代表されるが、演歌においてまったく従来とは異なるヴォイススタイルが生まれた。森進一、青江三奈である。それは、悪性のハスキーヴォイスで男女の情念を歌い上げる歌唱だった。青江三奈は成熟した女の色気を醸し出しキャバレーのネオン街に男にすがることもなく生きる「一夜妻感覚」を感じさせた。そのハスキーヴォイスの女性歌手の系譜の中から七〇年代に登場するのが炎の女の情念を歌いあげた八代亜紀である。女の情念演歌を歌い続けた。

 森進一は女の嗚咽、哀艶の切なさ、情痴の世界の隠微な感情を苦しげに喘ぎながら歌った。また、このハスキーさが女性の母性をくすぐり人気を得たのである。森進一は「女のためいき」(昭和四一)でデビューした。この年は橋幸夫が「霧氷」(昭和四一)で予想外のレコード大賞を受賞した。青春歌謡では舟木一夫が「絶唱」(昭和四一)をヒットさせ、西郷輝彦が「星のフラメンコ」(昭和四一)で人気を博すなど、まだ歌謡界において御三家の人気は健在だった。だが、森進一は「港町ブルース」(昭和四四)をヒットさせ、御三家の時代・青春歌謡の終焉を予感させたのである。

 

4 ムード演歌

 

 演歌にムード歌謡的なイメージが加わった。高度経済成長がもたらした自動車と高速道路、地方都市の盛り場、有線放送が結合し媒体になって美川憲一が歌う「柳ヶ瀬ブルース」(昭和四一)、青江美奈の「恍惚のブルース」(昭和四一)「伊勢佐木町ブルース」(昭和四三)がヒットした。盛り場では有線放送によってこれらの「ブルース演歌」・「ブルース艶歌」が流れたのである。 

 演歌の隆盛の時代、六〇年代の甘いムード歌謡を思わすような歌がヒットした。黒沢明とロス・プリモスが歌った「ラブユー東京」(昭和四一)、鶴岡雅義と東京ロマンチカがムード演歌の抒情をたっぷりと聴かせた「小樽の人よ」(昭和四二)「君は心の妻だから」(昭和四四)は演歌特有の泥臭さがあまり感じられなかった。だが、この年にはムード演歌がはっきりとジャンルとして確立している。

 ムードコーラスと演歌を結び付け、ムード演歌を確立させたのがコーラス演歌の内山田洋とクールファイブである。「長崎は今日も雨だった」(昭和四四)がヒットした。そして、七〇年代に入ると、「噂の女」(昭和四五)「そして、神戸」(昭和四七)「中の島ブルース」(昭和五〇)と次々とヒットさせたのである。内山田洋とクールファイブのヴォーカル・前川清の絶唱にはブルースに近い情感が感じられた。

 七〇年に入ると、藤圭子がクローズアップされた。彼女の登場には七〇年代前後の昭和四〇年代の社会世相が影を落としている。昭和四〇年二月の米軍の北爆以来のベトナム戦争が激化していた。中国の文化大革命、大学紛争が激化、三島由紀夫割腹事件、浅間山荘事件などの時代の空気が反映されていた。

 藤圭子は政治闘争に挫折した若者の虚無感を満たすかのように、黒い上衣とパンタロンに白いギターを持って登場した。ハスキーヴォイスで、成熟した女とは程遠いがどこかシラケた冷たさの中にある情念を歌った。ぶっきらぼうな冷めた歌い方が政治の季節に疲れた若者の心を癒したのである。

 「圭子の夢は夜ひらく」(昭和四五)は、青江三奈のエロティックな溜め息の入った大胆さとは対照的だった。世間に背をむけたティーンエイジャーの世代体験が反映されていた。ロカビリー出身の中村泰士が作曲した「喝采」(昭和四七)が日本レコード大賞を受賞した。歌唱はちあきなおみ。ちあきなおみはハスキー系ヴォイスの魅力を持ちポップス調のムード演歌で活躍した。

 七〇年代のムード演歌といえば、五木ひろしを忘れてはならない。ムード演歌で幅広い支持をえた。「よこはま・たそがれ」(昭和四六)「長崎から船にのって」(昭和四六)、レコード大賞受賞の「夜空」(昭和四八)などをヒットさせた。

 五木は売り出した頃、細い目をさらに細くして絞り出すような泣き節で、歌い方も拳を握り締めたポーズでボクシングスタイルのようだった。だが、ヒット街道を驀進するにつれ低音の魅力が増し持ち前の歌唱力も冴え、ムード演歌から幅広いジャンルに歌唱力を見せた。 七〇年代に入っても、演歌には有線放送の存在を欠かすことができない。東京・大阪・名古屋という大都市のみならず、地方都市のスナック酒場では高価なステレオを置くよりも有線放送を契約して演歌を流した。有線放送から流れる「地名もの」・「季節入り旅演歌」・「女シリーズ」・「ムード演歌」を聴きながらグラスを煽ってじっと演歌を聞き入る光景もみられた。その中にはハスキーヴォイスで炎の女の情念を歌いあげた八代亜紀の「なみだ恋」(昭和四八年)もよく聴かれた。

 七〇年代前半の演歌は、ハスキーヴォイス・森進一の女の嗚咽・溜息、美声低音の美川憲一・怨念演歌、低音に魅力をだす五木ひろし・旅情ムード演歌、ド演歌・盛り場演歌のぴんからトリオ(後にぴんから兄弟)、激情演歌・殿様キングスと非常に濃かった。そして、七〇年代後半から細川たかし、小林幸子などが登場した。演歌歌手の層も厚くなったのである。

 「女のみち」(昭和四七)は盛り場演歌のド演歌中のド演歌である。ここまで濃く庶民環境を歌った歌は無いとまで言われた。レコードは三二〇万枚という記録的な売り上げをしめした。この歌がヒットした年は、田中角栄の「列島改造論」で日本は湧いた。

翌年オイルショックが日本経済を直撃し狂乱物価を招き、日本経済はこれ以後低成長時代を迎えるが、この頃、有線放送からは渡哲也が歌ったムード演歌のヒット曲「くちなしの花」(昭和四九)がよく聴かれた。また、昭和元禄を象徴するかのように「昭和枯れすすき」(昭和四九)がさくらと一郎の歌でヒットした。 

 

5 演歌の変容

 

 演歌とアイドル歌謡は融合することはなかった。だが、演歌はフォークと接近した。それが「襟裳岬」(昭和四九)である。作曲がフォーク界のプリンス・吉田拓郎、歌手が森進一だった。女の嗚咽を歌ったハスキーヴォイスとフォークの抒情性がうまくかけ合わされていた。「襟裳岬」はレコード大賞に輝いた。その後、演歌とフォークの融合作品、つまり、演歌的にも聴け、フォーク的にも聴くこともできる作品が作られていった。都はるみが歌う「北の宿から」(昭和五〇)、河島英吾の「酒と泪と男と女」(昭和五一)がその路線に沿ってヒットした。 

 フォークと演歌の接近が見られた頃、ロッキード事件が日本の政界を震撼させた。前田中角栄首相が外国為替管理法違反・受託収賄罪事件として逮捕されるなど戦後最大の疑獄事件へと発展した。その一方で、日本経済はオイルショック以後の低成長の長いトンネルからようやく抜け、昭和五四(一九七九)年の第二次オイルショックも乗り切り安定成長の軌道に乗った。

 八〇年代に入ると演歌では八代亜紀が歌う「雨の慕情」(昭和五五)がヒットした。八代はこの年、五木ひろしの「ふたりの夜明け」(昭和五五)との激しいデットヒートを展開し、凄まじい争奪戦を制し、「日本歌謡大賞」と日本レコード大賞」の二冠受賞となった これらの曲はカラオケブームに便乗したものが多い。中高年の郷愁を誘うものだった。「奥飛騨慕情」(昭和五六年)「みちのくひとり旅」(昭和五六)、「北酒場」(昭和五七)、「さざんかの宿」(昭和五八)、「八切の渡し」(昭和五八)「浪花恋しぐれ」(昭和五九)《長良川艶歌》(昭和五九)などがヒットした。 

 八〇年代前半は細川たかしの活躍が目立った。「北酒場」と「八切の渡し」で二年連続日本レコード大賞を受賞する快挙を成し遂げた。また、「長良川艶歌」をヒットさせた五木ひろしは、昭和五九(一九八四)年の日本レコード大賞と日本歌謡大賞の二冠を受賞。五木は橋幸夫、細川たかしに続いて三人目のレコード大賞二回受賞。これは、演歌の隆盛の再来を思わせた。昭和五九(一九八四)年、都はるみの引退は演歌にとっては暗いニュースだったが、「あばれ太鼓」でデビューした坂本冬美は新しい女性演歌歌手として注目された。坂本は、ポップスのフィーリングを持ち合わせ、さらに「祝い酒」(昭和六三)をヒットさせた。そして、坂本は忌野清志郎と組むなど、ニューミュージックと演歌の交流が見られた。

 ニューミュージック系の谷村新司、堀内孝雄らが演歌にも進出した。その後、演歌の新世代を次々と登場させたが、演歌が八〇年代後半の生活感覚に合ったものとして志向されたとしても、若い女性の共感を得ることは非常に難しかった。酒場でひとり酒を飲む男の背中や健気に男へひたすら尽くす女の心情を込めた歌詞が新鮮さに欠けていたのである。 昭和六三(一九八八)年がJ・ポップ元年である。昭和初期の歌謡曲が放送用語として生まれたように、J・ポップという名称も放送から誕生した。バブル経済の最盛期の頃である。年号はまだ、昭和だが、昭和天皇がその年の九月から吐血し、その病状の様子がほぼ毎日のようにテレビで報道されていた。翌年一月七日午前六時三三分、昭和天皇は崩御した。八七歳。そして、平成の時代が始まった(一月八日〇時三〇分)。昭和の終焉とともにJ・ポップは産声を上げたのである。 

 平成元年(一九八九)年、美空ひばりが逝去した。戦後の六〇年経った歌謡界において、美空ひばりに比肩できる歌手は生まれることがなかった。そういう意味でも、美空ひばりの死は、演歌と云われた戦後・歌謡曲の終焉といえるのではないか。「川の流れのように」(平成一)は、美空ひばり最後のヒットであり、昭和の故郷を雄大にそして恍惚と歌い上げた。この壮大なバラードは美空ひばりの鎮魂歌でもり、日本の演歌の集大成でもあったといえよう。 



紅組 白組



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