藤山一郎 歌唱の精神菊池清麿

不世出の国民的名歌手への軌跡

《藤山一郎略歴》  生誕100年藤山一郎菊池清麿

日本の近代音楽と藤山一郎

 藤山一郎は、明治四十四年、日本橋蠣殻町に生まれる。本名・増永丈夫。慶応幼稚舎時代に童謡歌手としてレコードを吹込む。幼少の頃から、日本の近代音楽の風景を体感した。昭和四年東京音楽学校(現東京芸術大学音楽部)に入学。声楽を船橋栄吉、梁田貞、ヴーハー・ペー二ッヒ、指揮・音楽理論をクラウスプリングスハイムに師事。在校中に藤山一郎としてコロムビアからデビュー。《丘を越えて》《酒は涙か溜息か》《影を慕いて》が大ヒットして、これが音楽学校で問題となり停学処分となる。在校中、日比谷公会堂で外国人歌手と伍して《ロ−エングリーン》を独唱し好評を得る。昭和八年、首席で卒業。ビクター専属となる。流行歌、ジャズ、タンゴ、外国民謡、歌曲、独唱曲等を吹込む。また、ベートーヴェンの《第九》ヴェルディー・《レクイエム》等を独唱するなど声楽家増永丈夫でも活躍する。後にテイチク、コロムビアに移り、《東京ラプソディー》、《青い山脈》、《長崎の鐘》などのヒットに恵まれる。バリトン本来の美しさを持つテノールの音色をいかした豊かな声量と確実な歌唱は、正格歌手藤山一郎の声価を高め、メッツァヴォーチェからスピントの効いた張りのある美声は、人々に励ましと生きる勇気・希望を与え大衆音楽に格調と「陽」の世界を知らしめた。その功績は大きい。また、歌唱芸術のみならず、指揮、作曲においても活躍した。昭和三十三年放送文化賞、昭和四十八年紫綬褒章、昭和五十七年勲三等瑞宝章、平成四年、国民栄誉賞受賞その功績は近代日本音楽史に燦然と輝く。二〇一一年は生誕100年を迎える。

 《藤山一郎 小史》

 日本の近代音楽の歴史において、藤山一郎はユニークな存在である。クラシックとの格調と大衆性をもつ音楽家は非常に少ないからだ。藤山一郎のレコード歴は大正時代から始まっている。慶応幼稚舎時代にニッポノホンに童謡を吹込んだのがそうだ。だが、なんといっても藤山一郎のスタートは、《キャンプ小唄》《酒は涙か溜息か》《丘を越えて》など日本の流行歌の名作をヒットさせ、古賀政男という作曲家を世に送り出した昭和六年、と見るのが妥当であろう。世の中にはっきりと大衆音楽家としての存在が認められたという点で。それにしても、それから六十年以上にわたって張りのある美声と豊かな歌唱芸術で歌い続けたきたのだから、極めて、日本の音楽史においては充実した年輪を刻んだことは確かである。
 昭和四年春、我が国唯一官立音楽学校である東京音楽学校(現・芸大)には、逸材が大挙入学した。その中でも慶応普通部から進学してきた増永丈夫という青年の才能は光っていた。この増永青年こそ、後の藤山一郎であるが、そもそも、なぜ、藤山一郎として歌謡界に登場したのか、それには深い事情があった。昭和恐慌で生家のモスリン問屋「近江屋」が莫大な借金を抱えてしまい、借金返済に追われる両親を見かねて少しでも借財返済にと思い、レコード吹込みのアルバイトをコロムビアで仕事をしたのが藤山一郎誕生のきっかけだった。前年のコロムビアで吹込んだ《慶応普通部の歌》《慶応幼稚舎の歌》は私家盤であり、オデオンから発売された《美しきスパニュール》《日本アルプスの唄》は藤村二郎で吹込まれており、まだ、藤山一郎の存在はなかった。
 昭和6年、本来デビュー曲になるはずだった《北大平洋横断飛行行進曲(マーチ)》を吹込むことになった。ところが、当時官立音楽学校の学生は、無断で学校の外で演奏してはいけないという校則があった。そこで、世を忍ぶ仮の名前が必要となった。親友永藤秀雄(上野のパン屋『永藤』の息子)の「藤」をとって、「藤村操」を思いついた。当然、加藤ディレクターがクレームをつけた。「厳頭の感」を残して、日光の華厳の滝に身投げした一高生と名前が同じでゲンが悪いということだった。そこで、「村」を「山」に直し、フジヤマなら日本一でいこうと「一郎」と続けた。藤山一郎の誕生だった。だが、レコードの主題であった北太平洋横断の飛行機が行方不明となり、レコードはお蔵入りとなり、藤山一郎のデビューとはならなかった。
 昭和六年七月新譜で、《キャンプ小唄》で藤山一郎はデビューした。そして、《酒は涙か溜息か》が爆発的にヒットし、全国に藤山一郎の歌声が流れた。続いて《丘を越えて》も大ヒット。新人歌手・藤山一郎の絢爛たるスタートだった。しかし、これがいけなかった。学校当局に、声楽本科に在籍する学生であることが知られてしまった。停学処分の断が下った。「藤山一郎音楽学校停学事件」は大きな話題であった。停学後は校則に忠誠を誓い、学業専一に励んだ。だが、昭和七年に発売された《影を慕いて》がまたしてもヒットし、「藤山一郎」は将来をバリトンの声楽家として嘱望されていた「増永丈夫」を置き去りにし、人気流行歌手になってしまったのである。
 昭和八年三月、音楽学校を首席で卒業した。改めて、誰憚ることなく、ビクターと契約を結び、流行歌手テナー藤山一郎として専属歌手のスタートを切った第一回のレコード《僕の青春》は、晴れて卒業を祝福されるかのような青春讃歌であった。世の人々に歓迎されヒットした。《燃える御神火》も《大島おけさ》のB面とはいえ、好評を博し、《チェリオ》もヒットした。また、《流浪の民》《故郷廃家》などの四重唱や「蒼い月」「永遠の誓い」「谷間の小屋」外国民謡、内外の歌曲、ジャズ・ソング、タンゴなど、幅広いジャンルのレコードを吹込んだ。また、本名の増永丈夫では、バリトン声楽家としてクラシックのステージで独唱し、純音楽と軽音楽の分野でその才能をいかんなく発揮した。
 藤山はビクターでの三年間で己の音楽の方向性を掴み、《酒は涙か溜息か》などの一連のヒット曲の作曲者である古賀政男との縁で、テイチク、さらにコロムビアに転ずるわけだが、戦前・戦後を通じて実に多くのヒットを放っている。《東京ラプソディー》《男の純情》《青い背広で》《懐かしのボレロ》《上海夜曲》《なつかしの歌声》《燃ゆる大空》《三日月娘》《夢淡き東京》《花の素顔》《青い山脈》《長崎の鐘》その他。しかも、レコードばかりでははなく、放送、舞台、大平洋戦勝中は、南方戦線まで足をのばし、幾度も死線を突破しながら広く音楽活動を行った。また、テイチクでヒットを飛ばし、生家の借財を完済すると、バリトン増永丈夫としての独唱を充実させた。テノールの美しさをもつバリトンはクラシックファンを魅了している。
 藤山は昭和二十九年、レコード専属に終止符を打ち、NHKの専属となり、クラシックの香りのするホームソングの普及に努めた。また、紅白歌合戦では、東京放送管弦楽団の指揮者として出場し、クラウス・プリングハイム仕込みの指揮を披露した。作曲家の一面をもっており、《ラジオ体操の歌》をはじめ、校歌、社歌、ホームソングなどを作曲した。昭和四十年代に入り、なつかしの歌声ブームが来ると、テレビのブラウン管に登場し、格調高い歌声を届けた。
 藤山一郎の生命生命は長かった。それは衰えを感じさせぬそれであった。クラシック音楽の増永丈夫が大衆歌謡・演奏家の藤山一郎を支え続けたたいえるのではなかろうか。平成四年、国家は藤山一郎の功績を讃え国民栄誉賞を授与した。授賞式で、宮沢首相をはじめ閣僚の前で感謝の意を込めてベートーヴェンの《歓喜の歌》を歌った。流行歌はだちらかと言えば、怨み、つらみなどの負に世界になりがちであるが、実は人々の励ましとなり希望と勇気を与えるような陽の響きもあるとことを藤山一郎は知らしめた功績がある。その意味でも《歓喜の歌》は己の歌唱芸術の境地を達成したまさにに歓喜ではなかったか。


                                        藤山一郎と増永丈夫の世界

                                                藤山一郎誕生まで 

                                                  ビクター専属藤山一郎

                                               声楽家増永丈夫

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菊池清麿-SP歌謡の世界・なつかしの歌声


春秋社 『藤山一郎歌唱の精神』