《藤山一郎略歴》  

 藤山一郎は、明治四十四年、日本橋蠣殻町に生まれる。慶応幼稚舎時代に童謡歌手としてレコードを吹込む。昭和四年東京音楽学校(現東京芸術大学音楽部)に入学。声楽を船橋栄吉、梁田貞、ヴーハー・ペ二ッヒ、指揮・音楽理論をクラウスプリングスハイムに師事。在校中に藤山一郎としてコロムビアからデビュー。《丘を越えて》《酒は涙か溜息か》《影を慕いて》が大ヒットして、これが音楽学校で問題となり停学処分となる。昭和八年、首席で卒業。ビクター専属となる。流行歌、ジャズ、タンゴ、外国民謡、歌曲、独唱曲等を吹込む。また、ベートーヴェンの《第九》などを独唱するなど声楽家増永丈夫でも活躍する。後にテイチク、コロムビアに移り、《東京ラプソディー》、《青い山脈》、《長崎の鐘》などのヒットに恵まれる。バリトン本来の美しさを持つテノールの音色をいかした豊かな声量と確実な歌唱は、正格歌手藤山一郎の声価を高め、メッツァヴォーチェからスピントの効いた張りのある美声は、人々に励ましと生きる勇気・希望を与え大衆音楽に格調と「陽」の世界を知らしめた。その功績は大きい。また、歌唱芸術のみならず、指揮、作曲においても活躍した。昭和三十三年音楽文化賞、昭和四十八年紫綬褒章、昭和五十七年勲三等瑞宝章、平成四年、国民栄誉賞受賞。





 《藤山一郎誕生まで》 
 酒は涙か溜息か》は、東京音楽学校(現芸大)の秀才増永丈夫が藤山一郎という芸名で唄った。ホールの隅々にまで響かせるメッツァヴォーチェをうまくマイクロフォンに乗せたクルーン唱法は、電気吹き込みの時代においてまさにヴォー カル革命だった。藤山一郎は、音楽学校在学中から本名の増永丈夫でバリトン歌手としても活躍。東京音楽学校のみならず、日本の楽壇が期待するホープで声楽家としての将来が嘱望されていた。昭和七年、東京音楽学校主催第六十五回定期演奏会における《ローエングリーン》での朗々と日比谷公会堂に響きわたった高低の均質な響きのテノールのようなのびやかなバリトン。「上野最大の傑作」はまさに近代日本音楽の所産を思わせた。昭和八年六月、同じ日比谷公会堂におけるベートーベンの『第九』のバリトン独唱は、それを一層認識させた。しかし、不思議なのは、およそ、悲しみの情念とは程遠い「陽」の響きをもった理性歌手が、大衆の涙を凝縮した感傷のメロディーを唄いヒットさせたことでる。慶応−上野というクラシックのエリートは、農村の悲惨さと下層民の呻き声とは無縁なはずだ。しかも、《酒は涙か溜息か》の歌詞には、酒、涙、憂さ、溜息、など情念の記号がちりばめられている。未練、自棄、悲しみなどおよそ、美しいハイバリトンで華麗に歌うクラシックの優等生に歌えそうな気がしないのである。
 藤山一郎は、明治四十四年、日本橋蠣殻町生まれ。二十世紀に展開した変容著しい音楽空間を生きたといっても過言ではない。昭和モダニズム時代に登場したクラシックとポピュラーの両面をもつ音楽個性は特異な存在であるといえよう。昭和モダニズムの舞台の颯爽と登場した藤山一郎の音楽的個性はどのように形成されたのだろうか。藤山は、明治近代以降、東京文化のほとんどは西洋文化の模倣だったが、下町には僅かに残された江戸文化の面影が彼の記憶の底にあった。文明開化の象徴である瓦斯灯のイメージが彼の「陽」の原点だった。瓦斯灯が点火されたのは、明治五年、横浜の居留地の点火が最初だそうだ。江戸の陰影を払拭する革命をもたらした。藤山と同じ日本橋蠣殻町生まれの文豪谷崎潤一郎の『陰翳礼讚』にも詳しいが、文明開化以前の日本では、夕映え、月の出、夜明け、靄、蛍、花火など、「美の目的に添うよう」に光と陰の使用が巧妙な「陰翳」というものが日本の美意識において表現上重要な意味をもっていた。藤山一郎という歌手の原点は、唱歌だそうだ。唱歌とは、ヘボン式ローマ字で有名なヘボンの
『和英語林集成』において「singing」と定義されている。楽器に合わせて正しく歌い徳の涵養と情操の陶冶を目的とした教科に使用される歌曲一般を意味したのである。藤山の歌唱は、点と線が明確でよく「楷書の歌」と称されるが、それは、楽譜の音符に忠実で、いたずらに小節をまわさずに崩さず、丁寧に端正に歌う原点が「唱歌」にあったからだ。ということは、藤山は、もうすでに幼いときに洋楽の規則にしたがって作られた「唱歌」を通して声楽の基礎が身についていたのである。言葉を明瞭に発音し美しい澄んだ響きで歌う唱法において「唱歌」を切りはなしては考えられない。明治の初期、西洋音楽が受容され、和洋折衷の唱歌がつくられた。洋楽の規則にしたがって唱歌が作られたことは、西洋音楽が日本に根を下ろしたことを意味する。藤山の一番上の姉恒子が嫁いだ山田義男の叔父に山田源一郎という人物がいた。山田源一郎とは、東京音楽学校(現在東京芸術大学音楽部)の出身で、母校で教鞭をとりながら《こうま》《案山子》などの作曲で知られた音楽家であった。藤山は、幼稚園の帰り、彼が学長をしていた「日本女子音楽学校」でピアノを聞いたり、また、自分で弾いたりしながら音楽に親しんだ。藤山にとって、この幼児期の体験は非常に幸運であった。山田は、さっそくオルガンに向かい藤山を自分の膝の上に乗せて、「唱歌」や「賛美歌」を歌った。ときには、山田自身が作曲した『案山子』を歌うこともあった。藤山は、ピアノ、オルガンが奏でる音楽をじっとおとなしく聴き入っていた。おそらく、ピアノから聞こえてくる「ドレミファ」の平均律の音は、幼いながら音楽に関心をしめす藤山の耳には、新鮮な響きであったであろう。ドの鍵盤を押すと「ド」の音が、ソの鍵盤を押すと「ソ」の音が聞こえる。ここに西洋音楽の合理性があるのだ。日本橋生まれの藤山は、伝統的邦楽音階を当然耳にしているであろう。邦楽は西洋式の音符に表わし得ない表現が多すぎた。たとえば、長唄、浄瑠璃、清元、新内、端唄、小唄に至るまで微妙な感情表現は、西洋の音階では表現が不可能である。つまり、高低の微妙なユリを表記できないからである。西洋音階では、ドの音を決めれば、後のレからシまでの音のピッチは同時に決まる。そして、そのインターバル=音程は固定される。ところが、日本の伝統的音階は、レの音にしても高いレ、低いレが存在し、微妙な音の揺れ幅がある。しかも、つぎの音に移動するときストレートに進行しない。無限の音程のなかで微妙な音の動きをしながらスライドして行くのだ。幼い藤山は、西洋の平均律の原理を何の違和感もなくピアノ鍵盤から直感でとらえ、また、それと同時に和音の合理的連結、ハーモニーにも興味を抱いた。そして、それとは異質な日本の伝統的音階との相違を認識し二つの音の感性を咀嚼する基礎が形成された。戦後、藤山一郎の音楽は、クラシックとポピュラーの中間をいくものであったが、それは、少年時代の大正デモクラシーが醸す、クラシックとポピュラーの境目を感じさせない雰囲気が影響していた。当時の人々は気軽に鼻歌でクラシックの名曲を口づさみ、ハーモニカや口笛にのせたのは、《メリーウィドウワルツ》《天国と地獄》《トレアドールの歌》《フラ・ディアポロ》《ローレライ》《トロイメライ》《ホフマンの舟歌》などであった。オペラあり、オペレッタあり、泣き節あり、リートもあり、ハイネと、シューマンの《チゴイネルレーベン》、ビゼーの《アルルの女》《アイーダ》《双頭の鷲の下》、つまり、何でも楽しそうな曲なら誰もが受け入れた。酒屋の小僧が《恋はやさし野辺の花よ》を口ずさみながら、自転車を走らせる情景が浮かんできそうである。藤山は、大正七年慶応幼稚舎に入学した。この年は、米価高騰から米騒動が全国に波及し、寺内正毅内閣が総辞職して本格的政党内閣である原敬内閣が成立している。慶応の同級生には、野口富士夫(文学者)、山本武太郎(代議士)、小田切春雄(元日本航空常務)、伊藤博臣(伊藤博文の孫)、岡本太郎(画家)など名門の子息や著名人が多い。幼稚舎は三田にあったので水天宮から「渋谷」行きの市電に乗って、桜田門で「札の辻」行きに乗り換え慶応義塾前で下車する約一時間の道程を毎日通った。洒落れたブルドック型の靴をはき、七つボタンの制服にランドセルを背負った姿は、カスリの着物に袴、下駄ばきの下町の小学生とは対照的である。大正十年頃は、童謡運動絶頂であった。この童謡ブームは、一九一八年(大正七年)の七月鈴木三重吉の
『赤い鳥』の創刊を出発点にしている。これには、「旧童性を尊重した口語派の芸術的な歌を、民間の手でつくりだそう」という内発的な動きがあった。明治の[唱歌」が郷土愛を愛国心へ高めるための国民的教化主義にもとづいた外発的動因によってつくられたのに対して、童謡は、大正デモクラシーの影響によるひとつの文化現象であり、自らの手でという点においては近代市民的感覚があったといえる。幼稚舎四年生のとき早くも童謡をレコードに吹き込んでいる。それは、慶応の音楽教師である江沢清太郎の推薦があったからである。藤山は、この江沢の推薦で東京三光堂から発売された「スタークトン・レコード」」(後の日本蓄音器商会のニッポノフォン)に《半どん》《春の野・山の祭り》《何して遊ぼ》《はねばし》などの童謡を歌っている。 当時は、マイクロフォン録音ではなくスタジオの壁から突き出たおおきなメガホォンのような集音ラッパに向かって声を発声している。レコーディングのことを「吹き込み」といったのもそこらへんからきている。レコードの黎明期から七十有余年、録音システムは、まず昭和の電気吹き込み、マイクロフォンがカーボンからリボンへ、さらにダイナミックからコンデンサーへ、音源は、ワックスの原盤からテープ録音へ、モノからステレオ、さらにマルチチャンネル、そして、平成の時代にはデジタルへと跳躍の進歩を遂げた。それとパラレルに視聴覚の時代も形成された。藤山一郎はその録音システムをすべて経験した音楽家なのである。 藤山一郎が昭和モダニズムを告げたラジオに登場したのは、昭和三年の慶応普通部時代である。それ以来藤山は音楽放送の歴史とともに歩んできたといっても過言ではない。藤山一郎の功績について『日本放送史』(日本放送協会編)が「藤山は、つづいて《丘を越えて》《影を慕いて》などの古賀政男のいわゆる古賀メロディーで流行歌手としての地位を確立、音楽学校卒業後、増永丈夫の名でクラシック曲を、藤山一郎の名で流行歌曲を歌いのち、指揮者として活躍し、戦前、戦後を通じて放送音楽に重要な役割を果した。」と記したことも納得できる。モダニズムの音がラジオなら、ジャズもその音空間においては重要なパートを受け持っている。その昔、慶応には、ブルーベル・マンドリンクラブという音楽団体があった。その中にドラムを中心としたリズムセクションがあって、藤山は、そのパートを受け持った。バイオリン、ピアノを器用にこなす音楽センスを買われて打楽器を専門にした。あまりにもうまくこなすので、藤山には、「田垣専文」というニックネームがつけられた。音楽好きな少年に最大の賛辞としてあたえた名前であろう。また、その慶応の音楽少年は、「ローリック・メロディアンズ」というジャズバンドを結成して演奏活動をしている。
正末期から昭和の初めにかけて、ジャズが盛んになりだした。ダンスホールの数も多く、八重洲口の「日米ダンスホール」、新宿の「国華」、人形町の「ユニオン」などが流行った。そして、藤山が慶応普通部を卒業した昭和四年、赤坂溜池に生まれた「フロリダ・ダンス・ホール」がジャズブームの主役となった。レコードは、すでに、昭和二年、ポール・ホワイトマンの演奏が日本に入ってきていた。このレコードは、日本のジャズ演奏に大きな影響を与えたにちがいない。 慶応大学にも「レッド・アンド・ブルー・ジャズ・バンド」が結成されている。藤山は、この当時まだ中学生だったのでダンスホールなどは当然いけなかったが、レコードや、先輩の大学生の演奏を聞いて、ジャズのリズム、ハーモニー、メロディーが一体となったその音楽の魅力に心はうばわれていった。藤山は、後にビクター時代「ジャズと流行歌」をテーマに多くの放送、演奏を行っているが、やはり、慶応普通部時代にモダニズムの洗礼を受けたことは、藤山の音楽人生においておおきかったといえる。モダニズムの豊かな感性を慶応という校風が教えてくれたといえるであろう。

 
藤山一郎は、慶応普通部を出ると、本格的にクラシック音楽を学ぶために昭和四年、東京音楽学校、現在の東京芸術大学音楽部声楽科に入学した。東京音楽学校の歴史は古い。それは、アメリカ留学から帰った伊沢修二が明治十二年に創設した「音楽取調掛」が東京音楽学校に改められた明治二十年から始まる。同年十月五日の『官報−文部省告示九号』には「図書取調掛ヲ東京美術学校トシ音楽取調掛ヲ東京音楽学校トス」と記されている。明治二十六年、一時東京高等師範学校の付属となったが、明治三十二年ふたたび東京音楽学校となり、日本の音楽文化の向上を目指した洋楽教育機関として再スタートした。このころから音楽学校の教授陣の充実もめざましいものがあった。ケーベル(ピアノ)ユンケル(バイオリン)ウェルクマイステル(チェロ・作曲)、ペッツォルド夫人(声楽)など主として日本音楽もドイツ音楽を基調とした。つまり、音楽はヨーロッパモダニズムの受容なのだこのように明治三十年代に整えられた洋楽教育体制は、明治四十年代から大正時代にかけて充実し、昭和に入るとさらに一層の発展をみる。飛躍的な発展を遂げ、ようやく青年期に達したのである。しかし、アメリカモダニズムの音楽であるジャズも大きく日本の洋楽にその地位を確立しようとしていた。東京音楽学校は、上野の音楽学校といわれ競争率は数十倍で、難関であった。しかし、慶応時代から、弘田龍太郎、梁田貞、大塚淳などに、声楽、ピアノ、バイオリンなど英才教育を受けていた藤山は、あまり苦労もせずに合格している。藤山の同級生には、ピアノの豊増昇(バッハ演奏の権威)永井進、水谷達夫、バイオリンの福井直弘、作曲の安部幸明、声楽ではソプラノの長門美保(長門歌劇団主催)、中村淑子など、この年の入学者は、後の日本のクラッシク界を背負った逸材ぞろいで、進取の気鋭に溢れていた。この中で流行歌の世界に入るのは、藤山一郎ただ一人である。東京音楽学校では、奏楽堂で成績優秀者のみが許される学友演奏会というものがあった。一般には土曜演奏会という名称がつけられていた。東京音楽学校の奏楽堂は、明治二十三年に建築された日本最初の音楽ホールで音楽学校の本館の一部として建築された。設計は文部省技師山口半六と久留正道、音響設定は上原六四郎。建築史の上でも、音響効果をあげるためにかなりの創意工夫が凝らされている。たとえば、天井をかまぼこ型にしたり、客席の床や周囲の壁にぎっしりと藁束がつめられているなど、音響上の配慮がみられる。当時は音楽ホールというものがなかったので、この上野の奏楽堂は西洋音楽の殿堂であったといえる。奏楽堂の正面玄関を入って階段を上ると奥に舞台がある。客席からみて舞台正面にパイプオルガンがある。大正九年に徳川頼貞がイギリスから購入し、昭和三年に東京音楽学校に寄贈したものだそうである。その舞台からは、前世代の人たちの芸術にかけた不屈の精神と魂、その歴史の重みを無言のうちに語りかけてくれるようだ。日本近代音楽は、奏楽堂を通じて我国に根づいたいっても過言ではない。藤山一郎が、奏楽堂における学友演奏会の舞台を踏んだのは本科三年のときである。これが、事実上、バリトン増永丈夫のデビューである。昭和六年二月十四日、学友会第五十六回土曜演奏会、プログラム五番目に登場している。このときは恩師のテノール船橋栄吉と同級生の長門美保、中村淑子が共演している。昭和六年六月二十日、学友会春季演奏会では、レオンカヴァロ作、歌劇「パリアッチ」のプロローグを堂々とバリトン独唱をした。藤山が、
学友演奏会で持ち前の美声で華麗に独唱する姿は、まさに歌う貴公子そのものであった。その豊かな才能と将来性は、彼の柔らかく美しい声を聴けば容易に納得できよう。バリトンが本来もつのびやかな美しさを表現できる素晴らしい素質を備えていたのだ。

 金融恐慌、昭和恐慌は、日本経済を崩壊へと導いた。藤山の生家『近江屋』も三万八千円という莫大な借金を抱えてしまった。藤山は、少しでも家の借金の返済になればとレコード会社でアルバイトをすることした。童謡以外にも、レコードの吹込みをしたことがあったが、そのときは関係者に配る私家盤だった。また、昭和五年オデオンレコードで藤村二郎の名前で《美しきスパニューラ》《日本アルプスの歌》を吹込んだこともある。だが、本格的な流行歌ともなれば、昭和六年のコロムビアということになる。ところが、官立の音楽学校の生徒は、校則によって届出のない吹込みは固く禁じられていた。世を忍ぶ仮りの名前が必要となったのだ。若くして死んだ親友永藤秀雄の「藤」をとって「藤村操」と思いついた。だが、会社からクレームがついた。明治の頃、日光の華厳の滝に「巌頭の言」を残して自殺した一高生と同じ名前だからゲンが悪いということだった。そこで、「村」を「山」に直してフジヤマなら日本一で行こうと長男ではないが「一郎」と続けた。藤山一郎の誕生である。ところが、デビュー曲になるはずだった《北太平洋横断飛行マーチ》は、飛行機が全国民の期待を浴びて飛び立ったにもかかわらず行方不明となり、あおりを食ってレコードはオクラとなり、デビューは陽の目をみることがなかった。そして、まもなくして、古賀政男の《キャンプ小唄》(島田芳文・作詞/古賀政男・作曲)でデビューするのである。藤山は、《酒は涙か溜息か》の譜面を渡された時、古賀の意図と頽廃、涙、絶望、不安、不満が渦巻く世相を感知した。Gマイナーのキーなら藤山のテノールに近いハイバリトンが十分に生かせる。しかし、古賀が作曲したDマイナーの音域では、低くすぎて胸に落として太く発声しなければならない。ドイツリートやオペラのアリアを歌う増永丈夫の歌い方では、せっかくの古賀が「ジャズと都々逸」の距離を縮めようとした苦心が水の泡になってしまう。それだけではない。古賀の「かくも美しく、甘く、優しく、悲しく、さびしく、やるせなく、なやましい」センチメンタリズムがそれでは死んでしまう。そのとき藤山の脳裏に浮かんだのは、アメリカに滞在していた姉、恒子から以前もらった手紙の内容だった。アメリカにいた藤山の姉が、レコード吹き込み所を見たとき、歌っている歌手の声はその場では少しも聞こえないのに、レコードになってみると、大きな声が聞こえる、という話が書かれていた。藤山は、この話をヒントにした。クルーン(声を張らずにささやくように小声で歌うこと)で歌うことを考えたのである。おそらく、当時のアメリカのポピュラー歌手、ルディーヴァレーなどのクルーン唱法がおおきなヒントになったのであろう。クルーンとは、声を張らずにささやくように小声で歌うという意味である。マイクロフォンにうまく声を乗せて自然な発声で唄う独自のスタイル、いわゆる、ヴォーカル革命が、すでにアメリカでは始まっていたのだ。《酒は涙か溜息か》の録音の時、藤山の声を聴いて周囲は驚いた。古賀は室内楽風に編曲していたので、バイオリンの前田環(後の東京放送管弦楽団指揮者)、チェロは大村卯七(日響からN響にかけてのチェロの首席演奏者)がアルバイトで演奏していた。ギターのイントロが始まり、藤山が唄いだすと、伴奏の二人も驚いた。藤山の歌い方が声帯を鳴らし張り上げたそれではないのだ。二人は、これで本当に録音できるのかと思った。アメリカで始まっていたクルーンというヴォーカル革命に果敢に挑戦した男が昭和の初年にいたのである。それはモダニズムへのそれでもある。日本のマイクロフォンとアメリカのそれでは性能が違う。ただささやいただけでは録音できない。藤山は、数千人のホールの隅々にまでピアニッシモで響かせる発声(メッツァヴォーチェ)テクニックを巧みにマイクロフォンに乗せた。鼻腔に声を集める。しかも、頭声へのジラーレをスムーズにして高低の「響き」を均質にコントールしながら言葉をはっきりと発音した。つまり、鼻腔から頭声にジラーレさせながら一本の糸のように高低の響きを均質にすれば明瞭な録音が可能なのだ。藤山のように歌唱において張りと艶のある明るい透る声は、正しい呼吸の保持と下顎や舌の緊張をすべてとりのぞいた時可能となる。そして、鼻腔に通ずる腔洞に声をあつめ頭部共鳴に連動させ、共鳴ポジションを動かさずに頭声発声へとジラーレさせる。低音域は鼻腔共鳴の響き、高音域は頭声発声によって明るく素直で美しい響きがある。レコード吹き込みに効果的な声とは、芯がしっかりとした「響き」のついた声でなくてはならない。藤山は、ヨーロッパ人にとって「人間の生理に合理的なもので、また声の人工化を極度に必要としない自然の方法」である洋楽的発声を、呼吸の保持(横隔膜の支え)に支えられた頭声の「響き]をうまく使って、日常言語が違う日本人とって合理的な発声を創造した。前に響きを蒐めることが透明感のある澄んだ明るい声の基本である。だから、マイクロフォンが稚拙で、現在のようにエコーをかけたり、声の加工などはとうていできなかった黎明期には、持声の良さもさることながら、藤山のように音楽学校で洋楽的発声法を習練し、高低に均質な「響き」のある声が最も重要視されたのだ。したがって、園部が強調するマイクを巧みに使った「口形あるいは声のこまかな技巧で変化」は、昭和初期のマイクロフォンでは到底考えられない。無理である。日本の流行歌特有の「くすぐるような官能的抒情性」「官能的で女々しく、あまったるい、あわれっぽい」は、声楽の基礎を習得しなくても、素人でも簡単にレコードの歌手になれる時代、ハイ・ファイ録音が可能になった昭和三十年以降をまたなければならない。藤山一郎は、《酒は涙か溜息か》のもつ詠嘆的余情、「心の憂さの捨てどころ」を十分に表現し、古賀が意図した「ジャズと都々逸」の距離を見事に接近させた。ここに、悲しみを極端に抑え、そのセンチメンタリズムを外形上から排除した歌唱が誕生したのである。情念を理性で包み込み声を張らず崩さずに唄うからこそ昭和モダニズムの陰の暗さで沈んでいる人々の心にストレートに入っていったのであろう。もし、藤山が、音域をDマイナーからGマイナーに変えてテノールの音質をもつ
ハイバリトンで響かせて唄ったならば、この唄のヒットはありえなかったであろう。
さらに、藤山は、詠嘆的抒情性を効果的に表現するために、クラシックから習得した歌唱法から、歌劇の中の語りの部分、叙唱(レチタティーヴォ)法がそれだ。オペラには、詠唱(アリア)のみならず、その進行や叙景部分を説明する「語り」唱法というものがある。これは、「語りもの」という点においては日本音曲、義太夫、謡曲、小唄、長唄、清元、端唄と共通性があり、詠嘆的抒情の表現に適している。しかも、普通の話し言葉と歌の中間的なものである叙唱は、簡単な和音伴奏で歌われることがあるので、ギターの伴奏にはマッチするといえる。藤山は、《酒は涙か溜息か》以降、古賀のギター伴奏で古賀メロディーを唄うが、この叙唱法を巧みに取り入れ、昭和モダニズムの陰で流す涙と古賀メロディーから醸し出される「民衆の吐息」を表現したのだ。そのような歌手が昭和モダニズムに底流する「涙」と青春の躍動を表現するのだから、宮本旅人は、かつて藤山一郎を「あの美しく若々しき風貌そのままの、青春を讚へる歌を唄はせれば天下一品である。又、古賀メロディーの一番の特色であるセンチメンタ
リズムの表現も、この藤山一郎の右に出づる歌手はいない」とのべた。藤山一郎が登場する昭和初期、十九世紀のヨーロッパは音楽において「高級」と「低俗」という枠組みが登場したが、日本においてはその二分立は、昭和初期に見え始めた。大衆の感覚を満足させる流行歌の大量生産。藤山一郎が登場する以前に多くの流行歌が氾濫している。歌手も多士済々。モダニズムの経済哲学がここにも現れ、ややもするとクラシックが主張する音楽美を喪失させる。享楽と頽廃、刹那的感覚の消費、モダニズムの世相を反映する流行歌にたいして当然、当時の知識人たちは、嫌悪感をしめした。永井荷風の『断腸亭日乗』には、インテリ階級、知識人らの流行歌にたいする嫌悪感が代弁されている。裕福な家に育ちながら、近代化の皮相への呪詛とコンプレックスから江戸情緒に耽溺した荷風には、モダニズムの消費スピードを増すために東西が皮相な形式で折衷された流行歌は耐え難いものであったにちがいない。モダニズムは、伝統的規範の破棄から出発する。現実を直視する思想を放棄し、格調高い精神性を溶かす感覚的消費のなかで快楽を享受する民衆の唄が流れれば、知識人たちの音楽教養は捨てられる。とくに、「文化の最先端を誇る近代都市のペーブメントに、さまざまな人工的光」とともに流れ、人々のモダニズムに感染している感覚を刺激するジャズは、まさに「騒音の暴君的支配」に聴こえてきたにちがいない。しかし、ワーグナーやベートーベンを独唱する増永丈夫が藤山一郎として均整のとれた澄んだ響きで正統に刹那的な感覚消費を目的としたモダン相に流れる流行歌を唄ったことは、大衆から遊離した高踏芸術が世俗化する一歩だった。藤山一郎は、刹那的享楽消費文化といわれたモダニズム文化のなかで自己創造を主体的に実践した歌手といえよう。藤山一郎は全国に古賀メロディーを響かせるのだが、裏目の効果を招いてしまった。学校当局に「藤山一郎」という歌手は、声楽本科に在籍し将来を嘱望されている増永丈夫であるということが知れてしまったのである。通俗きわまりない流行歌をレコードに吹込み日本唯一の官立の音楽学校の名を汚したという理由で停学処分の断が下った。当時、大きな話題であった「藤山一郎の音楽学校の停学事件」である。藤山は謹慎の期限が解けて復学してから学業に励んだ。昭和七年七月二日、東京音楽学校の奏楽堂で上演されたクルトヴァイル作曲《デアー・ヤーザーガー(英語の題名=イエスマン)》では主役のテナー(少年の役)を演じ、昭和七年暮れの東京音楽学校主催第六十五回定期演奏会での《ローエングリーン》では、外国人歌手に伍しての堂々のバリトンを響かせた。その豊かな才能と将来性は、彼の柔らかく美しい声を聴けば容易に納得できよう。バリトンが本来もつのびやかな美しさを表現できる素質を備えていたのだ。



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藤山一郎歌唱の精神へ