《ビクター専属テナー藤山一郎−流行歌とジャズ》

 
《流行歌》

 山一郎は、昭和八年三月卒業。卒業演奏ではパリアッチのアリアを独唱し「上野最大の傑作」の賛辞を得た。そして、改めて誰はばかることなくビクターと専属を結び世に定着したテナー藤山一郎と声楽家増永丈夫をスタートさせた。昭和八年三月二十六日の『音楽新聞』は「酒は涙かの唄手藤山ビクターへ」と題する記事を掲載した。
 「古賀氏の『酒は涙か』の唄い手の藤山一郎は本名増永丈夫で実は上野の音楽学校のその当時は二年生だった。その後も同君の美声は世間の認めるところとなって昨年同校で、クルトワイルの学校オペラ『ヤザーゲル』を上演した時主役を演じ、又本春上野で『ローエングリン』を演奏した時、同校教授ら伍して堂々と独唱をやってのける等将来を嘱望されて居たが今回目出度く卒業し卒業演奏にも『歌劇密猟者より』を歌って好評を博したが、今回ビクタ−レコ−ドと特約となって、卒業と同時に専属の発表をなした」
 当時、ビクターには,赤盤歌手藤原義江,、関屋敏子、四家文子、徳山lらの先輩がいて、藤山一郎の雰囲気にあっていた。藤山一郎のビクター入社の最初の吹込みは、ハバネラタンゴの《赤い花》(佐伯孝夫・作詞/松平信博・作曲)である。スローなテンポのなかに仄かな甘さと哀愁がある。ところが、発売は《僕の青春》(佐伯孝夫・作詞/佐々木俊一・作曲)が早くかった。青春を「はる」と読ませたところにこの歌のユニークさがある。この歌は、好評だった。まさに踊りだしたくなるような青春の賛歌といえた。レコード売上は10万枚のヒット。 ビクター時代の藤山一郎に中山晋平作品の名唱盤があることはあまり知られていない。昭和八年という年は、実践女学専門部の学生二人が三原山の噴火口に相次いで投身自殺をした。それをきっかけに、連鎖現象が起きて椿咲く夢の大島は自殺のメッカになってしまった。若い命を絶った多くの人々への挽歌のように《燃える御神火》(西條八十・作詞/中山晋平・作曲)がヒットした。藤山一郎の甘く澄んだ響きが人々のl心をとらえた。この歌の作曲者中山晋平は、藤山一郎のホールの隅々に響かせるメッツァヴォーチェを巧くいかしたクールーン唱法を高く評価していた。古賀メロディーの相次ぐ大ヒットの功績は藤山一郎のヴォーカル革命といわれたこの唱法の魅力と言われている。日本語の明瞭さがどうしても求められる民衆歌曲においては、藤山一郎の登場は、時代が要求したものであった。その藤山一郎の澄んだ響きをいかしたのが《浅草の唄》(西條八十・作詞/中山晋平・作曲)である。これは、サンデー毎日の特選歌である。近代と江戸情緒が混在する浅草の心象風景を豊かに表現していた。藤山は、幼い頃父に浅草よく連れていってもらった。浅草オペラ、活動写真、大道売りの威勢の良い口上。思い出として記憶から消えることはなかった。東京音楽学校の先輩橋本国彦の《チェリオ》(佐伯孝夫・作詞/橋本国彦・作曲)も当たった。モダンな都会センスの溢れた軽快な歌唱だった。青春への乾杯が思わず飛び出すような讃歌といえる。





《ジャズを歌う藤山一郎》

ビクター専属時代の藤山一郎がジャズへの熱い情熱をもっていたことはあまり知られていない。やはり、二村の影響もあるのだろう。ビクター時代の彼は、流行歌のみならず増永丈夫という本名で芸術的な純歌曲、リートにも深い造詣をしめしたが、ジャズ・ソングも相当数吹き込んでいたのである。《おおドンナ・クララ》(佐伯孝夫・訳詞/イェルシ・ペテルスブルスキー・作曲)、《公園で》(佐伯孝夫・訳詞/ハリー・ウォーレン・作曲)がヘレン隅田と藤山の甘い歌声にマッチしていた。また、《踊り踊らずに》(原町みつを・訳詞/ジェローム・カーン・作曲)《いとしの今宵》(佐伯孝夫・訳詞/ウィル・ジェイソン/ヴァル・パートン・作曲)《誰ゆえに》(西條八十・訳詞/ジェローム・カーン・作曲)《希望の船路》(西條八十・訳詞/ルドルフ・フリムル・作曲)など、歌唱力に恵まれた藤山の格調高い唱法は、ジャズ・ソングに新鮮な魅力をあたえた。また、タンゴでも《恋の花束》(西條八十・作詞/ラルフ・アーレン・作曲)《ばらの面影》(山口雄二・訳詞/ユールス・編曲)《夜風》(山口雄二・訳詞/デイセポロ・作曲)でも豊かな声量と確実な歌唱力で魅力溢れる満点の独唱だ。この藤山一郎の吹込みのときの伴奏は、ビクター選り抜きのベストメンバーで一管編成のサロン・アンサンブル風のビクターオーケストラだった。当時の楽壇の最高演奏者で編成されている。バイオリン上杉・上野、フルートは名手岡村雅雄、クラリネットがジャズ音楽草分けの進五郎、ピアノが萬沢恒、トランペット、ロシア系のマルチェフ、バンジョー、伊藤翁介(ギタ−演奏家であり作曲家としても活躍)ベース、飯田信夫(作曲家としても活躍)。こんな編成で、船に乗れば、船客のためのディナータイムでオペラの抜粋曲、タンゴもできる。ビクターのオーケストラは品の良いしゃれた音に定評があった。また、ジャズを格調高く歌う藤山一郎の歌唱は、コロナ・オーケストラの管絃楽(篠原正雄・指揮)の演奏と藤山一郎の独唱がNHKラジオから放送された。やはり、ここにもジャズとクラシックの融合が見られるのである。1、管絃楽 《ボレロ》ラヴェル作曲。2、独唱 《想い出の歌》アルトマン作曲。《ペールムーン》ローガン作曲。3、管絃楽 《船唄》ネーヴィン作曲。4、独唱、合唱、《フォスター名曲集》
 昭和九年は、当時日本の楽壇をさわがせたプラーゲ問題が解決して外国の新しい現代楽曲がふんだんに聴けるようになった。プラーゲとは、昭和六年に来日したドイツの法律家で、万国著作権協会の東洋代理人を努めていた。彼は、麻布に事務所をかまえて日本における外国人作曲家の作品演奏にたいする著作権料取り立てという業務を行い、当時、著作権という概念などなかった日本の楽壇におおきな波紋を投げかけた。その問題解決後、放送のトップを切って、コロナ・オーケストラの管絃楽(篠原正雄・指揮)の演奏と藤山一郎の独唱がNHKラジオから放送された。やはり、ここにもジャズとクラシックの融合が見られるのである。1、管絃楽 《ボレロ》ラヴェル作曲。2、独唱 《想い出の歌》アルトマン作曲。《ペールムーン》ローガン作曲。3、管絃楽 《船唄》ネーヴィン作曲。4、独唱、合唱、《フォスター名曲集》 この放送では、芸術歌曲を独唱するバリトン歌手増永丈夫ではなく大衆歌謡のテナ−藤山一郎として出演している。芸術を大衆化した藤山一郎でクラシックの素晴らしさち感性に快く響くポピュラーの楽しさを作品として提供したのである。最初の曲の《ボレロ》は、古くはスペインにあったぶ舞曲の名前であったが、その名前は現代フランスの代表的作曲家モーリス・ラヴェルの作曲のそれによって人々の記憶に蘇った。この曲は、当時ジョーライト主演のジトーキー映画の主題曲として使用されていたので、ジャズ風に編曲され心浮き立つような陽気な調べを表現している。最後の『フォスター名曲集』は、コロナ・オーケストラが以前発表した『フォスター名曲集』の第一集からもれた名曲を蒐めて独唱と管弦楽に編曲し、「魂の音楽」ともいうべきフォスターの美しい旋律を綴った幻想曲である。この放送では、芸術歌曲を独唱するバリトン歌手増永丈夫ではなく大衆歌謡のテナ−藤山一郎として出演している。芸術を大衆化した藤山一郎でクラシックの素晴らしさち感性に快く響くポピュラーの楽しさを作品として提供したのである。



《藤山一郎愛唱集−名曲の花束》

クター時代の藤山一郎は、充実していた。バリトン本来の美しいテナーの響きは魅力に溢れていた。ジャズを翻訳して歌う。オペレッタを吹き込む。シューマンを歌う。欧米の名曲や民謡を歌う。藤山一郎のとるべき方向性を決めたのもビクター時代である。官学出身の嫌味なアカデミズムを排し、低俗趣味を避け、みんなが楽しめる音楽の紹介と演奏家として生きる決心をしたといえよう。藤山一郎の愛唱歌は、家庭で楽しめるクラシックの小品が多い。バリトン本来の美しいテノールの音色をいかした歌唱芸術といえる。《蒼い月》(妹尾幸陽・訳詞/ローガン・作曲)は、テノールの甘美な音色がいかされ、殊に「F=ファ」(固定ド表記)は、張りのある美しい響きである。声量も豊かである。前奏の岡村政雄の優雅なフルートも花を添え魅力満点の演奏といえる。《メリー・ウィドー・ワルツ》(佐伯孝夫・作詞/レハール・作曲)は、ジャズの紙恭輔の編曲がすばらしい。優雅な演奏である。奥田良三、藤原義江らのリリクな歌唱とは一味違ったレッジェーロなテナーでしっとりと歌っている。《憧れの乙女》(佐伯孝夫・作詞/レハール・作曲)は、小林千代子と共演だが、最後のB♭のファルセットは絶品である。今でも裏声とファルセットを混同している声楽家は多いが、藤山は、芯のある響きにオブラートが包み込んだ美しいファルセトで終曲しているのだ。《谷間の小屋》(佐伯孝夫・作詞/レハール・作曲)は、藤山一郎ならではの名唱盤である。豊かな歌唱力と美しいハイバリトンの魅力が溢れている。《永遠の誓い》(妹尾幸陽・訳詞/ウェザリー・作曲)はダニーボーイが原曲で、藤山一郎の歌唱は名曲の神髄を伝えている。《故小妹》(惟一倶楽部・訳詞/スペイン民謡)《草笛》(近藤朔風・訳詩/ベルゲ・作曲)《古戦場の秋》(妹尾幸陽・作詩/成田為三・作曲)《荒城の月》(土井晩翠・作詞/滝廉太郎・作曲)《箱根八里》(鳥居枕・作詞/滝廉太郎・作曲)《浜辺の歌》(林古渓・作詞/成田為三・作曲/)などの名曲や《流浪の民》(石倉小三郎・訳詩/シューマン・作曲)《旅愁》(犬童求渓・作詩/ヘイス・作曲)《故郷の廃家》(犬童求渓・作詩/オードウェイ・作曲)《夢のふるさと》妹尾幸陽・訳詩/ブラント・作曲)《緑の黒髪》(妹尾幸陽・訳詩/ダンクス・作曲などの四重唱、ビクターのアーティストの面々を参画させた《なつかしのメロディー》《世界民謡の旅》などのアルバムに素晴らしい大衆性のある歌唱芸術をのこした。戦後、藤山一郎は、昭和三十年代にレコード歌手の第一線をしりぞき、NHK嘱託になり『我が家のリズム』『婦人の時間』『ハーモニーアルバム』『メロディーの小箱』などでホームソング、家庭歌謡を歌い出したころ、このビクター時代に歌ったセミクラシックの歌曲が蘇った。このアルバムに収録されている歌曲はほとんど放送されている。知る人とぞ知る藤山一郎の名唱がそのままビクタ−に眠っているのは非常に残念である。『藤山一郎・増永丈夫愛唱集』というようなタイトルをつけて是非復刻してもらいたのは、私だけの思いではないであろう。

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藤山一郎歌唱の精神へ