国民的名歌手への途

 
藤山一郎は、古賀メロディーの作曲者古賀政男との縁で後にテイチク、更にコロムビアに転ずる。その間の主なヒット曲をならべておこう。《東京ラプソディー》(門田ゆたか・作詞/古賀政男・作曲)、《男の純情》(佐藤惣之助・作詞/古賀政男・作曲)、《青い背広で》(佐藤惣之助・作詞/古賀政男・作曲)、《青春日記》(佐藤惣之助・作詞/古賀政男・作曲)、《なつかしのボレロ》(藤浦洸・作詞/服部良一・作曲)、《上海夜曲》(野村俊夫・作詞/仁木他喜雄・作曲)、《なつかしの歌声》(西條八十・作詞/古賀政男・作曲)《燃ゆる大空》(佐藤惣之助・作詞/山田耕筰・作曲)。藤山は、テイチクでヒット曲を飛ばした後、増永丈夫への復帰をはたしている。昭和十五年四月NHKラジオで、マンフレットグルリットの指揮で久々にベートーヴェンの《第九》をバリトン独唱をしその顕在ぶりをしめした。また、山田耕筰の《この道》(北原白秋・作詩/山田耕筰・作曲)でも素晴らしい歌唱芸術をのこしている。これは藤山一郎で独唱しているが声楽家増永丈夫の堂々たるそれでもあった。昭和十六年八月新譜の《武蔵野》(久保田宵二・作詩/弘田龍太郎・作曲)も藤山一郎の名唱のひとつである。戦後になると、《三日月娘》《夢淡き東京》《花の素顔》《青い山脈》《長崎の鐘》《山のかなたに》《ニコライの鐘》《丘は花ざかり》その他、実に多い。また、声楽家増永丈夫としても、舞台、放送にも活躍した。また、太平戦争中には、南方の最前線にも足を延し、幾度の死線を突破して広く音楽活動を続けた。昭和二十一年七月、藤山一郎は、南方から復員した。この捕虜生活の体験が大衆音楽の藤山一郎を再認識させた。昭和二十二年、《夢淡き東京》がヒット。藤山一郎は、再び東京の讃歌を歌った。これは映画『音楽五人男』の主題歌である。藤山もスクリーンに登場しアコーディオンを持ってうたいまくった。銀座の柳、大川端の風景への回想と詠嘆、路地裏の雨など、久々の都会讃歌といえる。古関裕而のうるおいのあるメロディーも人々の心をうった。短調から長調へ、また短調へもどる。新鮮な叙情曲である。藤山一郎が歌う古関メロディーでは名曲《長崎の鐘》を忘れることができない。平和ヘの祈りをこめた藤山一郎の名唱である。古関裕而は、明治四十二年八月十一日、福島市の生まれ。独学で音楽を学び、昭和四年、舞踊曲《竹取物語》ほか四曲がイギリスロンドン市のチェースター楽譜出版募集の作曲コンクールで入選。これが認められてコロムビアの専属に迎えられた。クラシックの作風を持ち、流行歌はおろか映画、演劇、ミュージカル、放送オペラ、スポーツ界など活躍は多岐に及んだ。戦後の藤山一郎を決定づけたのが服部良一の《青い山脈》である。戦後の復興の息吹を伝え、古い封建的な衣を脱ぎ去り民主主義という新しい時代を象徴する歌である。藤山一郎の流麗なテナーと確実な歌唱が国民に大きな感動をあたえた。服部良一は、明治四十年十月一日大阪で生まれ、ジャズの洗礼を受けた。エマヌエル・メッテルに師事し、ジャズのフィーリングを流行歌に採りいれるなど外国のリズムとハーモニーをいかした斬新な作風は定評があった。服部も古関同様クラシックからポピュラーまで実に活動が幅広い。この古関・服部メロディーが藤山一郎の歌唱芸術を豊かなものにしたといえよう。

  《ハーモニーアルバム》

 
 山一郎は、昭和二十九年九月十三日にNHK芸能局音楽部の嘱託となった。
『今週の明星』『希望の星座』のレギュラー以外に『わが家のリズム』『婦人の時間』『朝の歌』などの番組に出演してホームソングの普及に力を入れたのである。藤山は、自ら作曲した《風に歌えよ》(野上彰・作詩)や、《ケンタッキーの我家》(アメリカ民謡)《なつかしき愛の歌》(モロイ作曲)など、セミクラシック曲を独唱した。また、番組を通じての一般の合唱団の指導を行いながら健全な歌の普及に努めたのである。
藤山は、この活動を通じて日本の音感教育の遅れを早くから指摘していた。複音で構成されるピアノの伴奏、しかも、メロディーとリズムだけでなくハーモニー(和音の合理的連結)の伴奏で歌うことが最も音感が養われる。ヨーロッパでは教会で賛美歌を歌うとき、オルガンの伴奏はハーモニーで弾く。そのハーモニーを聴きながら曲の変化を捉えて歌うことが大事なのだ。ハーモニーという音の合理的構造と規則性を感覚で捉えることができるようになれば、単音でしか書かれていない歌を立体的に理解できるといえる。藤山は歌唱指導のみならず、ハーモニーを生かしたホームソングの作曲にも力を注いだ。昭和三十年九月『婦人の時間』のテーマ曲として、どこの家庭でも広く愛唱されることを念頭に作曲した《波》という作品がある。これもその一つである。F短調、四拍子で始まり、間奏でF長調に転調、三拍子になり、<美しい>のリタルダントでCマイナーになり、すぐにF長調、そして、もう一度それを繰り返し、静かに後奏で曲を閉じるている。まるで、南十字星が輝く南方の海の波、少年時代から親しんでいた避暑地鎌倉の静かな波、復員船の船室の窓から眺めた波、さまざまな波のイメージがこの旋律から浮かんでくるようだ。その他にも、《クロカッスの歌》《春の海》《ひとりの春》《わが子よ》などホームソングの佳曲が多い。こうしてNHKで「四角張って歌う古典歌曲でもないその中間をゆくような上品で親しみ易い」(『放送文化』)健全な歌の普及活動が認められて、藤山は、昭和三十三年三月に
『放送文化賞』を受賞した。
それに応えて、藤山は、受賞の喜びと感謝をしめすとともに「クラシックに限らず、ポピュラー音楽の分野にまで選を広げてくださったことに感謝しています。これからも“歌のカイ書”健全なホームソングに努力していきたいと思っています。」(『NHK新聞』)と、あらたな決意をのべた。その年には第二回世界赤十字デー祭に出演し、藤山一郎の歌声は世界の舞台に登場した。また、リカルドサントスとの共演ではシューベルトの《セレナーデ》を独唱、声楽家として技量を世界の音楽家に認識させた。そして、翌年には健全な歌の普及啓蒙活動が教育の分野でも認められ、文部大臣から社会教育功労賞を受けている。昭和三十四年から五年にかけて、家庭婦人を対象としたNHK第一放送『ハ−モニーアルバム』が始まった。毎週火曜日が、藤山一郎のコーナー、クラシックからポピュラーまで格調高い大衆性のある名曲が幅広く放送された。ここに、バリトン増永丈夫とテナー藤山一郎が完全に合体したのである。ジャズを翻訳して歌う、オペレッタをの抜粋曲をサロンオーケストラの編成で、シューマンを独唱、自分の採るべき路線が明確になったあのビクター時代、充実していたハーモニー音楽が蘇ってくる。クラシックの格調の高さとポピュラーの自由と楽しさが見事に調和し、その境目を感じさせない。藤山の充実した日々がよくわかる。まず、声楽曲から見ると、セレナーデが多いのが、まず目についた。セレナーデは、夜の音楽という意味がある。それは、特に夜、恋人の家の窓辺で歌う恋の歌だ。ところが、《嘆きのセレナード》となると、ちょっと趣が異なる。「嘆き」と恋人に歌いかけるセレナーデの組み合わせは、少しおかしい気がするが、曲想そのものは軽快で、失恋を嘆くというよりは、楽しく輝いていた青春の日々を回想するロマンチックな感じがする。シューベルトの《セレナーデ》は、その言葉どおり、青年が恋人に捧げる愛の歌である。夜の闇をとおして、ひそかに愛する人に歌いかける。三拍子のスタカートによる分散和音は、藤山の繊細な歌唱と調和し、驚くほどの純粋な恋の世界を表現している。 《マドリカル》とは、中世イタリアで流行した多声声楽曲の意味。しかし、曲の方は、甘く軽やかなセレナーデの気分を味合わせてくれる。また、一方では流麗なイタリア歌曲のようなロマッチクな雰囲気もある。甘酸っぱい香りを漂わせる旋律は、セレナーデを得意とする藤山一郎のテナーにピッタリである。 藤山は、バリトンだが、テノールのようなのびやかさがある。そのためか、テノールの曲も多い。《マッティナ−タ》は、歌劇《パリアッチ》を作曲したレオンカヴァルロの歌曲のなかで最も親しまれている。夕べに歌われる恋歌がセレナーデに対して、朝に歌われる恋歌が《マッティナータ》だ。マッティナータはイタリア語の“mataina”からきた言葉。藤山のレッジェーロなテノールの音質を持つ流麗なハイバリトンが甘美な旋律をレガートに歌い、朝を感じさせる。藤山一郎のテナーは、清流のようにしなやかで美しい。藤山一郎の音楽性豊かな歌唱は、チェコの母なる川、ヨ−ロッパの山脈から湧きでた泉が渓流となり、岩をかみ、緑濃き大平原を悠々と流れる《モルダウ》の美しさをのびやかに表現する。それは、もともとはテノールもしくはソプラノの独唱用の三つの歌曲リストの《愛の夢》の旋律を歌っても同様である。藤山一郎という声楽家は、早いパッセージも無理なくこなせるほど上顎の使い方が巧みで顎のさばきが速いため、高低の明るい「響き」を落とさずにピッチも正確に立派な模範的歌唱をしめす。そんなテナーには、イタリア初期ロマン派オペラ最大の作曲家ロッシーニの歌曲集『音楽の夕べ』に含まれた名歌《踊り》は最適である。ナポリ地方の舞踏のリズムは、八分の六拍子のテンポだが三連譜で演奏されている。タランテッラのリズムは、毒蜘蛛にさされた毒からのがれるために踊る狂気な踊りのため、言葉が間に合わないほどテンポが速いのでややもすると歌唱時の響きを落としがちになるが、藤山は、それを見事に歌っている。 つぎに、声楽曲よりも少しポピュラーなホーム歌曲を見てみよう。 《三色すみれ》は、《ラブ・イン・アイドルネス》が現題。トーキー以前の活動写真の頃、しばしば伴奏に使われていたため、ある年代以上のオールドファンには懐かしい旋律であろう。失った恋の思い出をたどると懐かしさは甘美なセレナーデを奏でる。 《ドナウ河のさざ波》は昭和の初期、映画が無声の活動写真だった頃、よく耳にしたワルツの名曲である。日本ではちょうど日露戦争の頃に東京府教育会で開かれた音楽会で初演されている。このマイナー調のメロディーを聞くと、映画『ああ野麦峠』のバックミュージックに流れたせいもあるが、性急な近代化を計った明治国家の病理を感じる。藤山は、昭和二十六年にこの《ドナウ河のさざ波》(レコードは漣)をEマイナーで吹き込んでいる。途中からEメジャーに転調するが、高いE音(ミ)を奇麗に力まず“サラリ”としかもレガートに歌っているあたりはこの曲のハ−モニーを十分にいかしている。 多彩な楽器を自由にこなす藤山は、その抒情性を理解していた。 ピアノ曲『乙女の祈り』は広く誰にも知られるメロディー、その旋律の甘美さとロマンチックな幻想的雰囲気が藤山の端正な歌唱とマッチし、その魅力的空想が広がる。カヴァティーナは、オペラで歌われるアリアというよりはリートに近い抒情歌のことで、甘く美しい器楽曲にもその言葉はそっくりあてはまる。ロマンチックなメロディーとその曲想がもたらす雰囲気が特徴。バイオリンが奏でる甘美な旋律をディクションが奇麗で明確な藤山一郎の美しいハイバリトンが終始レガート(なめらかに)に独唱する。《春の花束》は、チャイコフスキーの『絃楽四重奏 第一番』第二楽章の二つの主題に歌詩をつけたものだ。第二楽章はバイオリン独奏曲にも編曲され、あの文豪トルストイは、この美しい旋律を聴いて感動し落涙したという話はあまりにも有名な逸話。藤山は、昭和二十七年にレコーディングしている。
藤山が、第一主題の前奏のあと、<雲雀は空に 声高く春の花 ほほえむを>と歌い出す歌唱は美しい。NHK合唱団のトップ松田和賀代の独唱になると、藤山はG音が何度も出てくる副旋律を歌い、最後はソプラノとの二重唱となる。女性コーラスの斉唱の後、B長調からD長調に転じると、藤山の独唱が、<愛と幸ともに めぐりやまぬ春よ 日射し暖かく 花は開く>と始まる。<花束開く>と<夢見る>の箇所の高いFは、発声が美しく見事だ。ここのパッセージはマイナーな曲調だが、藤山の歌唱から、心地よい微風よりは幾分青春に身を切る東風が目立つ春を感じる。クラシック歌手増永丈夫時代にドイツロマン派の影響を受けた藤山は、ドイツ歌曲、ドイツ民謡は、取り上げ独唱している。とくに、昭和三十五年二月九日の「独唱と合唱のためのシューベルト集」は、好評だった。《菩提樹》は、シューベルトの《冬の旅》のなかで最も有名な緑を象徴するホ長調。最初のメジャーでは、慰めと憩いを約束してくれるかのような菩提樹の葉のそよぎを感じさせるが、マイナーに転調するとそれに必死で耳をふさぎ、突風に帽子をとばされても振り返りもせず、ひたすら遠くにさすらう。メジャーとマイナーのコントラストは、藤山一郎の独壇場である。藤山は、天才的な表現力がある歌手である。そんな声楽家には、機知に富んだ《ます》は、ぴったりだ。この《ます》は、谷川の清流を泳ぐ「ます」が釣り師の悪知恵によって竿にかかるまでを、いきいきと描いた《名曲》。その清流の美しさが音型になっている。特に歌の第三節で釣り師が小川をかきまわしながら水を濁らし、「ます」をつりあげる様子に劇的な変化に表現を見せるが、ここでの藤山一郎の歌唱表現は見事である。世界民謡は、のびやかなハイバリトン、甘美なテナー藤山一郎のお得意の分野だ。イギリス民謡のもつ優雅さと感傷を癒してくれるさやしさは、藤山一郎の歌唱にふさわしい。恋人とローモンドの湖のほとりを歩いた思い出が蘇る《ロッホ・ローモンド》、<春の日の花のように輝く君の姿>と愛の魅惑とロマンチックな世界を想像させてくれる《春の日の花と輝く》、クライスラーの奏でるバイオリンでおなじみのアイルランド民謡の名曲《ロンドンデリーの歌》、遠き昔の日、夕暮れになるとどこからともなく聞こえてくる感傷を誘う懐かしいメロディー《なつかしき愛の歌》これらの名曲を、藤山は、透明感のあるのびやかな軽快なバリトンで、独唱した。戦前は、藤山は、よく《帰れソレントへ》《舟唄》などを独唱していた。イタリア民謡も藤山のレパートリーのひとつなのだ。《マリア・マリ》はナポリターナの代表曲。恋人マリアに対する思いを情熱的に歌いげるセレナーデでもある。藤山一郎は、セレナーデを得意とする歌手だ。この曲はかなりの表現力と声量が必要だが、藤山にはそれをこなすだけの力がある。藤山一郎は、一連の古賀メロディーを唄うことによって、ギター曲の伴奏による独唱スタイルを確立した。当然、藤山は、ギターの奏法を巧みにとりいれたグラナドスのスペイン舞曲にも関心をもっていた。グラナドスは、ピアノ曲のみならず。声楽曲にもすぐれたロマン的詩情溢れる作品を残した。スペイン舞曲は、スペイン北部民族の舞曲からアンダルシア地方ものも交え、十二曲からなる個性的な舞曲が集められている。特色のあるリズムと歌曲風の特徴が藤山の感性をとらえたのだろうか。昭和三十四年十二月八日の『ハーモニーアルバム』「スペインの幻想」では、酒井富士男とアンダルシアギター四重奏楽団のギター伴奏にのせて、藤山は哀愁を感じる旋律をしっとりと歌った。フォスターは、アメリカのシューベルトといわれ、人間味溢れる抒情的な作品を数多く残した。黒人奴隷がよそへ売られていく黒人の悲しみを歌っている《ケンタッキーのわが家》は、フォスターのヒューマニズムが滲みでている。藤山は、『わが家のリズム』でも何度かとりあげて独唱している。<苦しみおとずれ来なば 我が故郷よさらば 君の涙 ぬぐいたまへ>と優雅なメロディーのなかに内在する感傷性を損なうことなく歌うあたりは、藤山一郎ならではの歌唱表現の神髄である。昭和三十四年十一月十日放送の「フォスター名曲集」では、そんなフォスターの魂とも言うべき《金髪のジーニー》《おおスザンナ》《夢みる人》《ネリーはいい娘だった》《草競馬》《老犬トレイ》を、二期会合唱団のハーモニーと見事に調和しながら歌った。そして、世界民謡の旅のラストはロシア民謡だ。《恋人を偲びつ》《母なるヴォルガ》などを藤山は哀愁をこめてロシアの魂を表現した。藤山は、軽音楽の分野においてもそのジャンル、レパートリーは広い。 藤山は、昭和二十五年『愉快な仲間』でビング・クロスビーに扮してミュージカルワンマンンショーを演じた。クロスビーよりも高音が甘く響く澄んだ声が好評だった。その評判どうり、1932年のミュージカル《陽気な離婚》のナンバーでおなじみの《夜も昼も》、一九二八年に発表されたユナイト映画主題歌《ラモーナ》、一九三四年、コール・ポーターのミュージカルを映画化したRKO映画『陽気な離婚』の主題歌でフレッド・アステア、ジンジャー・ロジャースのダンスシーンが話題をさらった《コンティネンタル》などを華麗に歌った。シャンソンは、フランスの民族性をテーマに芸術の都パリを舞台に発展し、人々の心豊かな情熱と激しい恋に酔う庶民の歌である。人生のオアシス、心の泉ともいうべきシャンソンは、藤山一郎の甘美なテナーに合っている。パリをブロンド娘にたとえ、その魅力を歌った陽気な「これぞパリ」を思わせるワンステップ調の《サ・セ・パリ》、レビュ−界の女王ミスタンゲットが大ヒットさせた。いかにもパリらしい感じのするヴァルス・ミュゼットの曲で、パリの屋根の下で愛をささやく若い二人の姿が微笑ましく描かれている《パリの屋根の下》、藤山一郎のシャンソンも聞きごたえがある。<窓辺に舞う落葉よ、赤と黄金色に染まった枯葉よ>でおなじみの《枯葉》は、フランスシャンソンの傑作。ハンガリー生まれのピアニスト、ジョセフ・コスマエが1945年に初演されたローラン・プチのバレエ『ランデ・ヴ』のために作曲したメロディーにジャックヴェールが詩をつけた。1946年に映画『夜の門』でイヴ・モンタンが歌ったのが有名。藤山の軽快なレッジェーロなバリトンは、シャンソンが持つロマンチックな感傷的世界に適している。それとは対照的に藤山は、昭和三十四年七月二十八日に「ラテン特集」では、有馬徹とノーチェ・クパーナのサウンドにのせて、リオのカニーバルを思わせるような情熱のラテンを歌いあげた。藤山のようなリート歌手は、やはり日本歌曲もピッタリだ。抒情歌が多く歌われている。しかも、日本の季節感を出すために、四季に合わせて曲目が決められていることが特徴である。《ふるさとの》は、声楽家たちの音楽性、解釈力、感性、歌唱力が強く要求される。そのため多くの声楽家が独唱しているが、そのほとんどが、<ふるさとの 小野の木立に 笛の音のうるむ月夜や>をまるで発狂したかのように唸るので洗練された抒情性を失ってしまう。淡い恋心を抱く少年と少女が月が照らす野の木立で語り合っていると どこからともなく笛の音が聞こえて来る。あまりの笛の淋しさに思わず涙する姿は多感な思春期を思わせる。十年経って、少女は結婚して母となるが、あの月夜の晩のように流れてきた笛を聞いて涙を流しているのだろうか、という抒情溢れる詩情は三木露風の世界である。藤山は、昭和三十四年の『藤山一郎なつかしの歌声』のアルバムの中にこの歌曲をいれている。この歌の感傷的抒情性を十分に引き出すため、敢えて、A短調マイナーからG短調にキーを変えてしんみりとテナーの魅力をもつバリトンで聞かせてくれる。昭和三十四年七月二十一日放送では、加賀正治の月夜の笛を想像させるフルートと青山繁子のピアノで抒情たっぷりと、九月二十二日の「日本歌曲集」では、石川浩司のチェロを加えて、クールンのテナーでしっとりと歌った。《秋の月》は、秋風が肌身にしみるころ、こうこうと輝く月の光のもとで、秋のもの悲しい情趣を旋律にのせた名曲である。この歌曲は滝廉太郎二十一歳の時の作品。藤山は、悲しみに溺れることなく優雅でありながらしんみりとした味わいのある曲になると、凝縮された感情表現に巧みさを増す。したがって、ベルカントでやたら母音を響かせて言葉が曖昧になるよりも、藤山のようなリート歌手の方がこういう歌は良いであろう。正格歌手藤山一郎は、多くの抒情詩の名作を残した島崎藤村の歌曲も忘れていない。藤村は、若き日、小諸義塾の教師として小諸の町に住み、千曲川のほとりを歩きながら詩想にふけったそうである。そして、それが『旅情』の題名で雑誌『明星』の創刊号(明治三十三年)に発表された。輝いていた青春の日々が過ぎ、これからの人生の苦難を歩もうとしている漂泊の旅人の憂いを弘田龍太郎が芸術的な歌曲に仕上げた。この《千曲川の旅情》は、《小諸なる古城のほとり》としても有名。藤山は、慶応普通部時代からの恩師弘田の芸術歌曲を詩情豊かに歌いあげている。 日本歌曲といえば、どうしても忘れることができない巨匠、山田耕筰の作品も、藤山は独唱している。《黒い坊さん》は、山田の格調高い童謡作品。藤山は、慶応普通部在学中に『子供の時間』の御即位記念番組でこの山田の誇り高い童謡を独唱している。藤山にとっては思い出の歌であろう。山田の歌曲には、ドイツ後期ロマン派リートの影響がある。東京音楽学校の後輩にあたる藤山一郎のリート唱法は、山田がドイツ後期ロマン派から己の感性で消化した叙情的世界を表現するうえで最もふさわしい。母音と子音が結びつく言葉を歯切れよく明確に、とくに子音の美しい響きは、藤山は他の追随をゆるさない。藤山が放送した日本歌曲のなかで最も目を引き驚いたのは、《初恋》である。藤山は古賀の感傷と哀感に内包するロマンチスズムを表現した最初の歌手である。藤山は、おそらく、古賀メロディーがもつ繊細かつ優しさのこもった旋律に漂う美しく輝く音楽的民衆の吐息を啄木の歌のなかに見たのであろう。<砂山の砂に 砂に腹ばい 初恋の痛みを遠く思いいずる日>と啄木短歌の感傷とロマンチシズムを藤山一郎の美しくしなやかなハイバリトンが聴く人に感銘をあたえた。藤山一郎のレパートリーの広さには殆ど驚かされる。日本の民謡まで放送していたのだ。藤山一郎が日本の民謡も歌うとは意外だ。しかも、昭和三十四年九月一日の放送では、二期会合唱団をバックに演奏が有馬徹とノーチェ・クパーナ、ここに、日本の伝統とクラシック、ポピュラーとの融合が見られる。音楽は、ジャンルを越えるのだ。 この放送での特徴はジャンルによってテーマを決めて特集が組まれていたことである。例えば、「器楽名曲による独唱・合唱」、「映画音楽特集“回転木馬から”」、「外国民謡の旅」、「去り行く秋のメロディー」といった具合である。また、藤山は自分が歌手としての出発が童謡歌手であったことを忘れずに「七つのフランスのこどもの歌」「おとぎの国から」など子供の歌も特集している。その趣向は、昭和三十五年から『ハーモニーアルバム』を受け継いだ『メロディーの小箱』でも同じである。例えば、「みどりの歌集」、「ジプシーメロディー集」、「海の歌集」という特集が組まれた。また、伴奏が多彩なことも特徴である。NHKサロン・アンサンブル、NHKシンフォネット、東京放送管弦楽団、東京ストリング・オーケストラ、シャンブル・サンフォニェット、エコー・ストリングス、アンサンブル・ファンタジアなど様々である。ここには、藤山のハーモニーを基調としながら、クラシックとポッピュラーを融合させ、それぞれの素晴らしさを表現した。これが、バリトン増永丈夫とテナー藤山一郎が融合した世界、これぞ藤山一郎の音楽的個性なのだ。この藤山の歌唱が当時のクラシックの大御所、太田黒元雄、野村光一、堀内敬三、村田武雄ら錚々たる先生方に評価され、昭和三十六年、筑摩書房刊行の『世界音楽全集』第13巻声楽(3)にフォスター歌曲集を藤山が詩情豊かに素朴さを失わず、あくまでも美しい唱法で奇麗に歌った。演奏編成・編曲も、フォスターの美しさ、音のモダンなスマートさを感じさせながら、藤山自身が手がけている。この全集の「演奏家のページ」で監修のひとりである村田武雄は、藤山一郎の歌唱に対して「それはどんな通俗な歌でも音楽の筋」を通し且つ誠実であったとここまで追及してきた足跡を高く評価し、そして、クラシック特有の精神的品位ともいうべき高級志向を押し付けるものではなく、かといって感性的効果を追求する低俗志向に満足するものではないという賛辞を送りながら、「藤山一郎にフォスターの歌にあふれた人間味を思う存分に録音してもらったのはこの全集の一つの収穫だと自負している。それはこしらえた歌ではなくてすべて生きた歌になっているからである。」と絶賛した。慶応の先輩村田の言葉に藤山は心から嬉しかったに違いない。クラシックのもつ格調の高さと理性が生み出す精神的合理性を歌唱の基調にしてきたことをクラシックの権威者から評価されたことが一層の喜びとなった。これによって、藤山は、アカデミックな芸術音楽と大衆音楽の相違と落差を感じさせず、本来、音楽のもつ楽しさを伝えた歌唱を改めて誇りとした。旋律をレガートに、美しく、発音も明瞭に奇麗に、感情は内に凝縮させながら、ウエットに、そして透明感のある明るい模範的歌唱、これが藤山一郎の歌唱の神髄である。クラシックとポピュラーが乖離しはじめた昭和音楽史のなかで藤山一郎は、音楽が本来もつ普遍的な美と楽しさを追求した歌手ともいえる。


《歌い続けて》                                        

 昭和の初め、「上野最大の傑作」と言われ、日本楽壇から将来を嘱望されていた藤山一郎が世俗の歌の世界に入っていったことは、大変勇気のいることであったであろう。藤山一郎がその中に新しい道を求めたのは、クラシックを大衆化することによって通俗的な世界のなかにも解放的でかつ誠実な歌の世界があること知らしめたかったからである。藤山一郎の歌が、そうした世界を外に解放して、生活の中で誰もが声高らかに歌い、歌う者にも聴く者にも明朗な生活の息吹を感じさせたことは評価されるべきである。センチメンタルを排した唱法で感性の享受に終わらず、感傷の世界にも新たな前進につながる精神的自立への逆転があることを知らしめたことが国民に勇気を与えたといえる。平成四年四月、国家は、その功績を讃えながら、「正統な声楽技術と知的解釈をもって、歌謡曲の詠唱に独自の境地を開拓した」と評し、国民栄誉賞を贈った。 国民栄誉賞の受賞のきっかけは、平成四年三月二十八日『幾多の丘を越えて・藤山一郎・八十歳の青春』の特集番組を見た自民党の長老議員たちは、藤山が歌う《青い山脈》などの数々の場面を見て感激。島村宜伸・国民運動本部長に国民栄誉賞の件を持ちかけた。そして、綿貫民輔幹事長と協議し首相官邸で検討して決定された。歌手としては美空ひばりにつづいて二人目である。その契機となった『幾多の丘を越えて・藤山一郎・八十歳の青春』は、藤山一郎の最後の誇りある歌唱の魂そのものだった。藤山の姿から凄まじい執念とプライドを感じた。音程の確かさ、リズム感、それを裏付ける歌唱力、格調の高さとそこに漂う気品はさすがであった。軽く響きだけで歌うことはできなくなっていたとはいえ、どの音階にたいしても均等な響きを高く当てることは(これは、一流のクラシック歌手の条件)失われていない。だから、卓越した音程の良さがあるのだ。しっかりとした発声は勿論のこと、声楽でもっとも重要な「響き」を完全にマスターしていたからである。ずば抜けた素質もさることながら、藤山の流行歌手でありながら声楽家としての修練たゆまぬ努力、演奏家としての知性と感性の賜物である。大正、昭和、平成と歌い続けた国民的歌手の八十年の音楽人生の集大成、クラシックとポピュラーを止揚した普遍的な美の歌唱、内的一貫性のある精神的統一といえる。また、その姿からは、大衆の多様な感性に媚びることなく、作品全体への配慮と美的統一性を保持する藤山の芸術魂に触れたようだった。おそらく、この時、藤山は己の終焉を感じていたのかもしれない。 藤山は、明治の終焉期に生まれ、大正時代、日本近代音楽の巨匠、滝廉太郎、三浦環、山田耕筰らのクラシックの象徴である上野の出身でありながら、アカデミズムに固執することなく大衆にクラシック音楽の美をあたえようとした姿を見て、少年時代の音楽の夢と憧れ、理想を育んだ。そして、藤山は、昭和に入りレコードという3分間の芸術で、偉大な先人の“クラシックを世俗化し大衆へ”という願いをりっぱに継承した。上野の先輩たちの“願い”を己の歌唱精神に咀嚼して、国民に音楽を本当に楽しいものにしたのである。そこには多難な人生があった。本来、増永丈夫は、芸術歌曲を歌う一流の声楽家であった。藤山一郎の名前が聴衆の中でシンボル化されればされるほど、クラシックを歌う増永丈夫と流行歌手藤山一郎の葛藤に苦しんだ。しかし、大衆歌謡曲歌手としての己を幾度も再認識しながらクラシックとポピュラーの乖離のなかで、その融合、咀嚼、世俗化という先人の日本近代音楽の巨匠たちの理想を己の信念とし、それを貫き通して自らの境地を創りあげた。己の音楽的個性を国民の共有財産にしたことは、かならずや、未来のへの架橋となるであろう。

                                      

 エピローグー《歓喜の歌》 

 

 国民栄誉賞受賞の時、藤山一郎は、ベートーベンの「歓喜の歌」を感謝の意をこめて宮沢元首相の前で歌った。藤山は、音楽への理想のかなたにあったものを讃えたかったのであろうか。実は、この藤山が歌う《歓喜の歌》には重要な意味がある。マイクを手にして内閣の閣僚たちの前に立ったとき、藤山は、六十年前、恩師プリングスハイムの指揮で日比谷公会堂のホール一杯にバリトンのソロを響かせた時のことを思い出した。
 いよいよ、第四楽章に入る。テンパニィーの音が鳴る。心地良い緊張を感じる。バリトン増永丈夫が

O Freund nicht diese Tone Sondern last uns angenebmere ansutimmen und freudenvollere>

と発声した瞬間から六十年の歳月が流れた。感動と思い出はかぎりなく走馬灯のように駆け巡る。明治近代以降、洋楽が受容されてから半世紀、明るい響きをもったバリトン歌手増永丈夫の登場は、その青年期の到達を伝えるものであった。明治の初め、賛美歌を満足に歌えなかった日本人から、ついにヨーロッパ人と同じ響きでレガートに歌う歌手が登場したのである。「上野最大の傑作」は、まさに近代日本洋楽の所産だった。 六十年前日本の楽壇が期待した逸材バリトン増永丈夫の記憶が蘇ったとき、藤山は、熱い涙が溢れそうになってくるのを感じた。クラシック時代の栄光は決して風化することなかったのだ。しかし、国民栄誉賞受賞を前にしているのは、昭和洋楽史の怪物、国民的名歌手の称号をもつ藤山一郎である。藤山は、マイクを手にしてから、数秒間で増永丈夫の記憶を清算し、己の音楽人生に誇りを持ち自らの作詩で

<山脈遥かに 湧き立つ雲よ 万物皆今こそ 目覚める朝だ 綾雲たなびき 光輝りは招く 若人我れ等が 歓喜び溢る>

と独唱した。
 私は、この時、藤山がなぜ『歓喜の歌』を歌ったかを容易に理解できた。 少年の頃に音楽のミューズに憧れ、理想のかなたにあったものが結果として流行歌の世界において無限に広がったていたのである。それが《青い山脈》であり《丘を越えて》だった。どれほどの人々が戦前・戦後を通じ励まされ、感傷のままに終わらず、明日への希望へと勇気を奮い立たせられたであろうか。歌謡曲のなかには、闇の中に閉ざされたひとりの心のつぶやきのメロディーが圧倒的に多い。そのメロディーは、「ペンタトニック」と呼ばれる五音階(陽旋法と陰旋法)で構成されどうしてもハーモニーが薄くなる。それらの歌も、大衆のエモーショナル(情操)に訴え、悲しみに溺れることによって心の均衡を保つ補完機能というそれなりの存在意義が充分にあると思う。しかし、哀れな自己をいとおしむ心情の基層となる閉ざされた負の世界が存在するかぎり、一時的な自己を美化する慰めにはなっても決して明日への希望を呼び起こす「励ましの歌」にはならないであろう。反近代という闇の世界に光りをあてなければならない。藤山一郎の歌唱はそのような「負」の感傷的世界になりがちな「歌」には、実は、“人々を励まし生きる希望をあたえる「陽」の世界が存在する”ということをが知らしめた。クラシックを世俗化したからできたのだ。これこそ近代音楽の巨匠たちの願いではないか。だから、理想と憧れのかなたに見えたものを讃え、《歓喜の歌》を歌ったのである。それは、“響きを常に明るく天のミューズに向かって”歌いつづけ遥かなる人生の丘を越えて最後にたどりついた己の境地への自負でもある。歌い終えた時、藤山の歓喜に溢れる微笑みが印象的であった。藤山一郎というペルソナが歩き初めてから六十年、昭和も終わり、時代は平成の世になっていた。藤山は、晩年「人生は芝居だ」と言っていたが、この時、すでに芝居が芝居ではなくなっていた。もう藤山一郎のペルソナを剥ぐことはない。だから、藤山が眠る冨士霊園の墓碑には、戒名無しで、富士山の絵に“一ろ”と記されている。「上野最大の傑作」は最後まで“粋”な男だった。

 藤山一郎、昭和六年、《キャンプ小唄》で歌謡界にデビュー。戦前・戦後をつうじて人々に生きる希望と勇気をあたえた功績は大きい。

 『藤山一郎歌唱の精神』では六月三日と記されていますが、六月三十日の誤りです。

この内容の著者件権は菊池清麿(近代日本流行歌研究)にあり無断転載を禁じます
copyright(C) Kikuchi kiyomaro.
all rights reserved.

藤山一郎歌唱の精神へ