菊池清麿のプロフィール・昭和歌謡回顧と展望・60・70年代戦後私的歌謡史

1プロフィール
2著作業績一覧
3昭和歌謡回想徒然草

[プロフィール]

 
岩手県宮古市で育つ(本籍地は東京)。小学生の頃、熱唱する伊藤久男の歌に感動し、SPレコード時代の流行歌に関心を持つ。その後藤山一郎の歌唱に感銘。宮古第一中学・宮古高校時代野球部で活躍。甲子園の夢を果たせず、その思いは神宮へと慶応大学を目指し上京。浪人中に法政大学の府中寮で生活(半年)。そこで、マルクス主義、吉本隆明などの思想にふれる。日本の民俗の内実への吉本の視座に感銘。明治大学政経学部政治学科に入学。古賀政男が創設に関わった有名な明治大学マンドリン倶楽部に入部。1stマンドリンで活躍する。殊に古賀政男の作品における演奏は、明治大学マンドリン倶楽部時代から定評があった。藤山一郎に代表される初期の洋楽調時代の古賀政男の芸術に触れる。.この頃から、古賀政男研究に取り組む。明治大学マンドリン倶楽部の活動を通じて古賀政男の芸術体験がその研究を奥深いものにしている。また、8ビート全盛のニューミュージック全盛時代に対応したリズムセクションの充実をはかる。ロックバンドにマンドリンオーケストラを融合させたオーケストレーションに対する批判を浴びながらもあえて断行。明治大学マンドリン倶楽部第114回定期演奏会で「日本の四季」を企画し好評を得る。明治大学の音楽遺産でありであり、昭和歌謡の偉人である古賀政男の評伝、『評伝古賀政男 青春よ永遠に』(アテネ書房)『評伝古賀政男 日本マンドリン&ギター史』(彩流社)の構想はすでに明治大学マンドリン倶楽部時代から育んでいた。大学のゼミでは橋川文三の教えを受ける。大学院と橋川氏への師事を希望するが、氏は昭和五十八年逝去。卒業後、本格的に近代日本流行歌の研究に取り組む。近代日本思想史の視点の必要性を痛感し、明治大学大学院政治経済学研究政治学専攻博士課程前期に進学。日本政治思想史専攻。後藤総一郎の下で柳田国男をテーマに近代と反近代の諸問題に取り組む。後藤の雑文をより学問的に構築した農政学から民俗学への思想・学問形成に言及。この視点がクラッシク=近代と流行歌=日本人の伝統的肌合いという二項対立の発想に役立つ。大学院の紀要論文で柳田国男の産業組合論を発表し、注目を集めた。平成六年から平成十年三月までシオン短期大学(現茨城キリスト大学短期大学)で日本思想史と歴史学概論を教える。また、現役高校生予備校、お茶の水ゼミナールでは大学の基礎教養として、日本史を講義する。同ゼミナールの文化教養講座に招かれ、日本の近代史、文化史、戦後史を講演。平成五年から、藤山一郎の評伝執筆のため、声楽を故酒井宏、大槻秀元に師事。声楽家坂本博士が主宰する坂本ミュージックスクールでも研鑽。バリトンの声楽家・増永丈夫と流行歌テナー藤山一郎の違いを徹底的に分析。平成七年、上野エオリアンホールで初リサイタル。それ以後、執筆・演奏活動に入る。平成八年『藤山一郎歌唱の精神』を上梓。平成十年、『さすらいのメロディー鳥取春陽伝』を上梓。平成十一年から日本の歌を中心に各地でリサイタルを開く。ピアノ・マンドリン・大正琴で奏でる近代日本の抒情歌は好評を得る。平成十二年には、流行歌の世紀-近代大衆音楽の黎明を小平市等の市民講座,市民大学、シルバー大学、淑徳大学の生涯学習(2006年度)、明治大学リバティーアカデミーで講義をする(2006年度)。平成十六年七月、古賀政男生誕百年を記念して『評伝古賀政男 青春永遠に』(アテネ書房)を上梓。古賀政男財団主宰の音楽講座では鳥取春陽をテーマに近代流行歌の黎明を講演。好評を博す。平成十九年『近代日本流行歌の父中山晋平伝』(郷土出版社)を上梓し、近代日本流行歌の確立における評伝三部作を完成。また、平成二十年、流行歌誕生八十年という節目に、歌謡曲の誕生からJ・ポップの時代へテーマに『日本流行歌変遷史』(論創社刊)を上梓。歌謡曲の誕生からJ・ポップへの日本流行歌の変遷史の決定版。二〇〇八年五月、早稲田大学エクステンションで「戦後の大衆文化』をテーマに講義。2009年度から、淑徳大学エクステンション講師として流行歌をテーマに講座を担当、文学と流行歌の周辺は好評を博す。2010年。千代田区高齢者大学で日本の大衆音楽の変遷を講義。国民的歌手藤山一郎・生誕100年では、新聞・雑誌等に執筆。日本の近代音楽の一分野である大衆音楽をテーマに著述と演奏(マンドリン・声楽)に活躍中。二〇一五年、『評伝古賀政男 日本マンドリン&ギター史』(彩流社)を上梓し日本近代音楽に大きな足跡を残した古賀政男、服部良一、 古関裕而の三大音楽家評伝を完成させる。

《菊池清麿の,近代日本流行歌に関する研究論文著作一覧》

著書:近代日本流行歌・人物評伝
『藤山一郎 歌唱の精神』(春秋社、一九九六年)
『さすらいのメロディー鳥取春陽伝』(郁朋社、一九九八年)
『評伝古賀政男-青春よ永遠に-』(アテネ書房、二〇〇四年)
『国境の町-東海林太郎とその時代』(北方新社、二〇〇六年)
『近代日本流行歌の父-中山晋平伝』(郷土出版社、二〇〇七年)
『流行歌手たちの戦争』(光人社、二〇〇七年刊行)
『日本流行歌変遷史-歌謡曲の誕生からJ.ポップの時代へ(論創社、二〇〇八年)
「占領期雑誌体系1・『リンゴの唄』と戦後の気分」(岩波書店)
『永遠の歌姫-佐藤千夜子』(東北出版企画、二〇〇八年)
『私の青空 二村定一 ジャズ・ソングと軽喜劇黄金時代』(論創社、二〇一二年)
『評伝古関裕而 国民音楽樹立への途 』(彩流社 二〇一二年)
『流浪の作曲 阿部武雄』(東北出版企画 二〇一二年)
『評伝服部良一 日本ジャズ&ポップス史』(彩流社 二〇一三年 )
『ツルレコード昭和流行歌物語』(人間社/樹林舎 二〇一五年)

『評伝古賀政男 日本マンドリン&ギター史』(彩流社 二〇一五年)

《野球》
『天才野球人田部武雄』(彩流社 二〇一三年 )

菊池清麿
研究論文:
「流行歌に見る昭和モダニズムの精神風景」
(『シオン短期大学研究紀要』第三十六号、一九九六年、十二月)
「民権演歌の思想構造」(『創造』第二十六号、一九九七年、三月)
「近代日本と流行歌における一考察」『シオン短期大学研究紀要』第三十七号、一九九七年、十二月)
「昭和SPレコード歌謡産業発達史-黎明期における一考察」(『メディア史研究』第十四号、二〇〇三年、五月)
「日本近代と古賀メロディーの心情」(『メディア史研究』第十六号、二〇〇四年、四月)
その他: 
「柳田国男の産業組合思想(1)」(『明治大学大学院政治経済学研究紀要』第二十八集、一九九一年、二月)
「柳田国男の産業組合思想(2)」(『明治大学大学院政治経済学研究紀要』第二十九集、一九九二年、二月)
「明治国家の政治支配と産業組合」(『明治大学大学院政治経済学研究紀要』第三十集、一九九三年、二月)
「明治思想史の一断章-明治近代主義と柳田国男・民俗への志向」(『シオン短期大学研究紀要』第三十四号、一九九四年、十二月)
「柳田国男と労働運動序説」(『初期社会主義研究』第八号、一九九五年) 
菊池清麿評論・エッセー:
「昭和モダニズム狂詩曲(上)」(『春秋』、一九九七年、二・三月、NO386)
「昭和モダニズム狂詩曲(下)」(『春秋』、一九九八年、六月NO399)
「人物昭和流行歌史-なぜか忘れぬ人ゆえに-楠木繁夫1」(『SPレコード』第三十三号、一九九九年、七月)
「人物昭和流行歌史-なぜか忘れぬ人ゆえに-楠木繁夫2」(『SPレコード』第三十四号、一九九九年、十月)
「人物昭和流行歌史-直立不動の精神-東海林太郎1」(『SPレコード』第三十五号、一九九九年、十二月)
「人物昭和流行歌史-直立不動の精神-東海林太郎2」(『SPレコード』第三十六号、二〇〇〇年、二月)
「人物昭和流行歌史-直立不動の精神-東海林太郎3」(『SPレコード』第三十七号、二〇〇〇年、四月)
「鳥取春陽コレクション その1」(『SPレコード』第三十七号、二〇〇〇年、四月)
「人物昭和流行歌史-直立不動の精神-東海林太郎4」(『SPレコード』第三十八号、二〇〇〇年、七月)
「鳥取春陽コレクション その2」(『SPレコード』第三十八号、二〇〇〇年、七月)
「人物昭和流行歌史-ベーちゃんと呼ばれた男-二村定一1」(『SPレコード』第三十九号、二〇〇〇年、九月)
「〈青い山脈〉誕生秘話」(『青森県近代文学館会報』十六号、二〇〇〇年、九月)
「人物昭和流行歌史-ベーちゃんと呼ばれた男-二村定一2」(『SPレコード』第四十号、二〇〇〇年、十一月))
「人物昭和流行歌史-ベーちゃんと呼ばれた男-二村定一3」(『SPレコード』第四十一号、二〇〇一年、一月)
「人物昭和流行歌史-永遠の歌姫-佐藤千夜子1」(『SPレコード』第四十二号、二〇〇一年、三月)
「人物昭和流行歌史-永遠の歌姫-佐藤千夜子2」(『SPレコード』第四十三号、二〇〇一年、五月)
「人物昭和流行歌史-永遠の歌姫-佐藤千夜子3」(『SPレコード』第四十四号、二〇〇一年、七月)
「人物昭和流行歌史-永遠の歌姫-佐藤千夜子4」(『SPレコード』第四十五号、二〇〇一年、九月)
「人物昭和流行歌史-永遠の歌姫-佐藤千夜子5」(『SPレコード』第四十六号、二〇〇一年、十二月)
「人物昭和流行歌史-サーカスの唄-松平晃1」(『SPレコード』第四十七号、二〇〇二年、二月)
「人物昭和流行歌史-サーカスの唄-松平晃2」(『SPレコード』第四十八号、二〇〇二年、四月)
「人物昭和流行歌史-サーカスの唄-松平晃3」(『SPレコード』第四十九号、二〇〇二年、六月)
「人物昭和流行歌史-昭和モダンの哀愁・妖艶なソプラノ-淡谷のり子1」(『SPレコード』第五十号、二〇〇二年、八月)
「人物昭和流行歌史-昭和モダンの哀愁・妖艶なソプラノ-淡谷のり子2」(『SPレコード』第五十一号、二〇〇二年、十月)
「人物昭和流行歌史-昭和モダンの哀愁・妖艶なソプラノ-淡谷のり子3」(『SPレコード』第五十二号、二〇〇二年、十二月)
「人物昭和流行歌史-昭和モダンの哀愁・妖艶なソプラノ-淡谷のり子4」(『SPレコード』第五十三号、二〇〇三年、二月)
「人物昭和流行歌史-古賀政男の少年体験1-誰か故郷を」(『SPレコード』第五十四号、二〇〇三年、四月)
「人物昭和流行歌史-古賀政男の少年体験2-故郷喪失」(『SPレコード』第五十五号、二〇〇三年、六月)
「人物昭和流行歌史-古賀政男の青年体験1-丘を越えて」(『SPレコード』第五十六号、二〇〇三年、八月)
「人物昭和流行歌史-古賀政男の青年体験2-影を慕いて」(『SPレコード』第五十七号、二〇〇三年、十月)
「人物昭和流行歌史-藤山一郎-輝けるビクターの青春1」(『SPレコード』第五十八号、二〇〇三年、十二月)
「人物昭和流行歌史-藤山一郎-輝けるビクターの青春2」(『SPレコード』第五十九号、二〇〇四年、三月)
「人物昭和流行歌史-藤山一郎-輝けるビクターの青春3」(『SPレコード』第六十号、二〇〇四年、五月)
「人物昭和流行歌史-藤山一郎-輝けるビクターの青春4」(『SPレコード』第六十一号、二〇〇四年、七月)
「人物昭和流行歌史-藤山一郎-輝けるビクターの青春5」(『SPレコード』第六十二号、二〇〇四年、九月)
「人物昭和流行歌史-藤山一郎-歌い続けて1」(『SPレコード』第六十三号、二〇〇四年、十一月)
「人物昭和流行歌史-藤山一郎-歌い続けて2」(『SPレコード』第六十四号、二〇〇五年、一月)
「人物昭和流行歌史-藤山一郎-歌い続けて3」(『SPレコード』第六十五号、二〇〇五年、三月)
「時代の証言―昭和の歌声」(インターネット新聞連載コラム)
「古賀メロディーが心を癒す」(オーケストラで綴る日本の流行歌150選,、二〇〇五年十一月)
「石川啄木と古賀政男」(『岩手日報』二〇〇六年、八月一二日)
「佐藤千夜子-影を慕いての創唱者」(『山形新聞』二〇〇六年九月六日)
「大衆音楽の先駆者-東海林太郎と上原敏」(『北鹿新聞』二〇〇七年一月七日)
「名曲は甦る-佐々木俊一の歌と時代」(『福島民報』二〇〇七年四月一日から一五回連載)
「名曲は甦る-佐々木俊一の歌と時代-プロローグ上」(『福島民報』二〇〇七年四月一日)
「名曲は甦る-佐々木俊一の歌と時代-プロローグ中」(『福島民報』二〇〇七年四月八日)
「名曲は甦る-佐々木俊一の歌と時代-プロローグ下」(『福島民報』二〇〇七年四月一五日)
「名曲は甦る-佐々木俊一の歌と時代-涙の渡り鳥」(『福島民報』二〇〇七年四月二二日)
「名曲は甦る-佐々木俊一の歌と時代-島の娘」(『福島民報』二〇〇七年四月二九日)
「名曲は甦る-佐々木俊一の歌と時代-僕の青春」(『福島民報』二〇〇七年五月六日)
「名曲は甦る-佐々木俊一の歌と時代-無情の夢」(『福島民報』二〇〇七年五月一三日)
「名曲は甦る-佐々木俊一の歌と時代-長崎物語」(『福島民報』二〇〇七年五月二〇日)
「名曲は甦る-佐々木俊一の歌と時代-燦めく星座」(『福島民報』二〇〇七年五月二七日)
「名曲は甦る-佐々木俊一の歌と時代-明日はお立ちか」(『福島民報』二〇〇七年六月一〇日)
「名曲は甦る-佐々木俊一の歌と時代-月よりの使者」(『福島民報』二〇〇七年六月二四日)
「名曲は甦る-佐々木俊一の歌と時代-野球小僧(『福島民報』二〇〇七年七月八日)
「名曲は甦る-佐々木俊一の歌と時代-高原の駅よさようなら」(『福島民報』二〇〇七年七月一五日)
「原信子と日本のオペラ史(上)(中)(下)」(『東奥日報』二〇〇七年五月二九日、六月一、二日)
「昭和モダンの哀愁-淡谷のり子」(『陸奥新報社』二〇〇七年六月三〇日から一二回連載)
「演歌のルーツとその時代」(「昭和の演歌-歌ひとすじ」二〇〇七年一一月)
「軍歌・戦時歌謡で見る太平洋戦争-ハワイ大海戦」(『丸』二〇〇八年三月号)
「軍歌・戦時歌謡で見る太平洋戦争-英国東洋艦隊潰滅」(『丸』二〇〇八年四月号)
「軍歌・戦時歌謡で見る太平洋戦争-空の神兵」(『丸』二〇〇八年五月号)
「望郷の譜―春日八郎」(『福島民報』二〇〇八年三月三十一日から六回連載)
「望郷の譜―春日八郎」(『福島民報』二〇〇八年デビュー秘話上」(『福島民報』二〇〇八年三月三一日)
「望郷の譜―春日八郎」(『福島民報』二〇〇八年デビュー秘話」(『福島民報』二〇〇八年四月七日)
「望郷の譜―春日八郎」(『福島民報』二〇〇八年デビュー秘話」(『福島民報』二〇〇八年四月一四日)
「望郷の譜―春日八郎」(『福島民報』二〇〇八年-お富さん」(『福島民報』二〇〇八年四月二八日)
「望郷の譜―春日八郎」(『福島民報』二〇〇八年-別れの一本杉」(『福島民報』二〇〇八年五月五日)
「望郷の譜―春日八郎」(『福島民報』二〇〇八年-長崎の女」(『福島民報』二〇〇八年五月一二日
「軍歌・戦時歌謡で見る太平洋戦争-戦友の遺骨を抱いて」(『丸』二〇〇八年六月号)
「軍歌・戦時歌謡で見る太平洋戦争-加藤隼戦闘隊」(『丸』二〇〇八年七月号)
「美しき日本の歌・ラジオ歌謡」(『音楽文化の創造』二〇〇八年七月)
「甦る上原敏生誕百年」(『魁新報』二〇〇八年六月から八回連載)
「岩手の望郷歌」(『タウン誌もりおか』二〇〇八年九月)
「軍歌と戦時歌謡で見る太平洋戦争-大東亜決戦の歌」」(二〇〇八年八月号)
「不滅のメロディー古関裕而・栄光のスポーツ音楽」(『福島民報』二〇〇八年七・八月)
「不滅のメロディー古関裕而・栄光のスポーツ音楽・プロローグ」(『福島民報』二〇〇八年七月二七日)
「不滅のメロディー古関裕而・栄光のスポーツ音楽・オリンピくマーチ」(『福島民報』二〇〇八年月三日)
「不滅のメロディー古関裕而・栄光のスポーツ音楽・栄冠は君に輝く」(『福島民報』二〇〇八年八月一〇日)
「不滅のメロディー古関裕而・栄光のスポーツ音楽・巨人・阪神」(『福島民報』二〇〇八年八月一七日)
「不滅のメロディー古関裕而・栄光のスポーツ音楽・日米野球行進曲」(『福島民報』二〇〇八年八月二四日)
「不滅のメロディー古関裕而・栄光のスポーツ音楽・都市対抗野球行進歌」(『福島民報』二〇〇八年八月三一日)
「不滅のメロディー古関裕而・栄光のスポーツ音楽・紺碧の空」(『福島民報』二〇〇八年九月七日)
「不滅のメロディー古関裕而・栄光のスポーツ音楽・スポーツショー行進曲」(『福島民報』二〇〇八年九月一四日)
「軍歌と戦時歌謡で見る太平洋戦争-ジャワのマンゴ売り」(二〇〇八年九月号)
「不滅のメロディー古関裕而・苦闘の時代・哀しき名歌・利根の舟唄」(『福島民報』二〇〇八年一〇月二六日)
「不滅のメロディー古関裕而・苦闘の時代・哀しき名歌・船頭可愛いや」(『福島民報』二〇〇八年一一月二日)・
「不滅のメロディー古関裕而・苦闘の時代・哀しき名歌・愛国の花」(『福島民報』二〇〇八年一一月九日)・
「不滅のメロディー古関裕而・苦闘の時代・哀しき名歌・露営の歌」(『福島民報』二〇〇八年一一月一六日)
「不滅のメロディー古関裕而・苦闘の時代・哀しき名歌・暁の歌」(『福島民報』二〇〇八年一一月二三日)
「不滅のメロディー古関裕而・苦闘の時代・哀しき名歌・海の進軍」(『福島民報』二〇〇八年一一月三〇日)
「不滅のメロディー古関裕而・苦闘の時代・哀しき名歌・ラバウル海軍航空隊」(『福島民報』二〇〇八年一二月七日
「不滅のメロディー古関裕而・苦闘の時代・哀しき名歌・若鷲の歌」(『福島民報』二〇〇八年一二月一四日)
「軍歌と戦時歌謡で見る太平洋戦争-明日はお立ちか」(二〇〇八年一〇月号)
「軍歌と戦時歌謡で見る太平洋戦争-鈴懸の径」(二〇〇八年一一月号)
「軍歌と戦時歌謡で見る太平洋戦争-ラバウル海軍航空隊」(二〇〇八年一二月号)
「軍歌と戦時歌謡で見る太平洋戦争-若鷲の歌」(二〇〇九年一月号)
「軍歌と戦時歌謡で見る太平洋戦争-嗚呼神風特別攻撃隊」(二〇〇九年二月号)
「軍歌と戦時歌謡で見る太平洋戦争-熱砂を越えて」(二〇〇九年三月号)
「軍歌と戦時歌謡で見る太平洋戦争-轟沈」(二〇〇九年四月号)
「軍歌と戦時歌謡で見る太平洋戦争-雷撃隊出動の歌」(二〇〇九年五月号)
「軍歌と戦時歌謡で見る太平洋戦争-アッツ島血戦勇士国民顕彰歌」(二〇〇九年六月号)
「軍歌と戦時歌謡で見る太平洋戦争-サイパン殉国の歌」(二〇〇九年七月号)
「軍歌と戦時歌謡で見る太平洋戦争-比島決戦の歌」(二〇〇九年八月号)
「軍歌と戦時歌謡で見る太平洋戦争-硫黄島陸海軍の歌」(二〇〇九年九月号)
「軍歌と戦時歌謡で見る太平洋戦争-硫黄島防備の歌」(二〇〇九年一〇月号)
「軍歌と戦時歌謡で見る太平洋戦争-敵の炎」(二〇〇九年一一月号)
「軍歌と戦時歌謡で見る太平洋戦争-飛燕戦闘隊々歌」(二〇〇九年一二月号)
「軍歌と戦時歌謡で見る太平洋戦争-同期の桜」(二〇一〇年一月号)
「軍歌と戦時歌謡で見る太平洋戦争-海ゆかば」(二〇一〇年二月号)
「不滅のメロディー古関裕而・平和・希望・抒情1・雨のオランダ坂」(『福島民報』二〇〇九年二月一日)
「不滅のメロディー古関裕而・平和・希望・抒情2・三日月娘」」(『福島民報』二〇〇九年二月八日)
「不滅のメロディー古関裕而・平和・希望・抒情3・夢淡き東京」(『福島民報』二〇〇九年二月)
「不滅のメロディー古関裕而・平和・希望・抒情4・フランチェスカの鐘」(『福島民報』二〇〇九年二月一五日)
「不滅のメロディー古関裕而・平和・希望・抒情5・長崎の鐘」(『福島民報』二〇〇九年二月二一日)
「不滅のメロディー古関裕而・平和・希望・抒情6・イヨマンテの夜」」(『福島民報』二〇〇九年三月一日)
「不滅のメロディー古関裕而・平和・希望・抒情7・白いランプの灯る道」(『福島民報』二〇〇九年三月八日)
「不滅のメロディー古関裕而・平和・希望・抒情8・ニコライの鐘」(『福島民報』二〇〇九年三月一五日)
「不滅のメロディー古関裕而・平和・希望・抒情9・あこがれの郵便馬車」(『福島民報』二〇〇九年三月二二日)
「不滅のメロディー古関裕而・平和・希望・抒情10・君の名は」(『福島民報』二〇〇九年三月二九日)
「不滅のメロディー古関裕而・平和・希望・抒情11・みどりの雨」(『福島民報』二〇〇九年四月五日))
「不滅のメロディー古関裕而・平和・希望・抒情12・高原列車はは行く」(『福島民報』二〇〇九年四月一二日)
「不滅のメロディー古関裕而・放送・映画の世界1・鐘の鳴る丘」(『福島民報』二〇〇九年七月一二日)
「不滅のメロディー古関裕而・放送・映画の世界2・サクランボ大将」(『福島民報』二〇〇九年七月一九日)
「不滅のメロディー古関裕而・放送・映画の世界3・ドラマ君の名は」(『福島民報』二〇〇九年八月二日
「不滅のメロディー古関裕而・放送・映画の世界4・日曜名作座」」(『福島民報』二〇〇九年八月九日
「不滅のメロディー古関裕而・放送・映画の世界5・ひるのいこい」(『福島民報』二〇〇九年八月一六日
「不滅のメロディー古関裕而・放送・映画の世界6・モスラの歌」(『福島民報』二〇〇九年八月二三日
「不滅のメロディー古関裕而・放送・映画の世界7・朱金昭」(『福島民報』二〇〇九年八月三〇日
「不滅のメロディー古関裕而・放送・映画の世界8・ひめゆりの歌」(『福島民報』二〇〇九年九月一三日
「不滅のメロディー古関裕而・放送・映画の世界9・」
「不滅のメロディー古関裕而・放送・映画の世界10・今週の明星」(『福島民報』二〇〇九年九月二〇日
「伊藤久男生誕百年永遠の歌声1」(『福島民報』二〇一〇年六月二十八日)
「伊藤久男生誕百年永遠の歌声2」(『福島民報』二〇一〇年七月十二日)
「伊藤久男生誕百年永遠の歌声3」(『福島民報』二〇一〇年七月十九日)
「伊藤久男生誕百年永遠の歌声4」(『福島民報』二〇一〇年七月二十六日)
「伊藤久男生誕百年永遠の歌声5」(『福島民報』二〇一〇年八月二日)
「伊藤久男生誕百年永遠の歌声6」(『福島民報』二〇一〇年八月十六日)
「伊藤久男生誕百年永遠の歌声7」(『福島民報』二〇一〇年八月二十三日)
「伊藤久男生誕百年永遠の歌声8」(『福島民報』二〇一〇年八月三十日)
「伊藤久男生誕百年永遠の歌声9」(『福島民報』二〇一〇年九月二十日)
「伊藤久男生誕百年永遠の歌声10」(『福島民報』二〇一〇年九月二十七日)
「伊藤久男生誕百年永遠の歌声10」(『福島民報』二〇一〇年十月四日
「伊藤久男生誕百年永遠の歌声12」(『福島民報』二〇一〇年十月十一日)
「生誕100年藤山一郎が歌う異色の阿部武雄メロディー」(『荘内日報』二〇一一年二月一三日)
「藤山一郎生誕100年-十勝の風景を歌う《狩勝小唄》」(『十勝毎日新聞』二〇一一年三月三月一一日)
「二つのペルソナ―生誕100年・藤山一郎と増永丈夫」(『春秋』二〇〇一一年四月)
「藤山一郎と沖縄―故郷よ心も姿も美しく(上)・(下)」(『琉球新報』二〇一一年四月七日・八日)
「藤山一郎と沖縄―故郷よ心も姿も美しく(上)・(下)」(『琉球新報』二〇一一年四月七日・八日)
「藤山一郎 生誕100年」(『北海道新聞』)二〇一一年四月八日)
「藤山一郎と増永丈夫」(国民的名歌手藤山一郎(上)コロムビア編)
「生誕100年・藤山一郎・青い山脈の周辺(上)」(『東奥日報』二〇一一年五月二三日)
「生誕100年・藤山一郎・青い山脈の周辺(中)」(『東奥日報』二〇一一年五月二四日)
「生誕100年・藤山一郎・青い山脈の周辺(下)」(『東奥日報』二〇一一年五月二五日)
「歌手藤山一郎生誕100年-再評価される功績」(『大分合同新聞二〇一一年七月二五日)
「生誕百年藤山一郎~父の故郷福井を歌う(上)」(四季折々 『日刊県民福井』二〇一一年八月五日)
「生誕百年藤山一郎~父の故郷福井を歌う(下)」(四季折々 『日刊県民福井』二〇一一年八月一二日)
「藤山一郎生誕百年に寄せて」(『週刊読書人』二〇一一年八月一九日)
「生誕100年藤山一郎「富山娘」(『北日本新聞』二〇一一年八月二九日)
「生誕100年 藤山一郎と新潟県民歌」(『新潟日報』二〇一一年九月二七日)
「生誕100年-藤山一郎と中山晋平」(『長野日報』二〇一一年一〇月三日)
「生誕100年 藤山一郎昭和モダン・アコーディオンの青春」(二〇一一年一一月二五日『アコーディニスト』))
「生誕100年 藤山一郎 日本橋の風景」(『月刊日本橋』二〇一一年一二月
「藤山一郎 生誕100年」(『埼玉新聞』ニ〇一一年一二月二〇日)
「近代日本音楽の軌跡―藤山一郎と増永丈夫」(『音楽文化の創造 CMC』第六三号、二〇一二年四月号 音楽創造文化)
「古賀政男とその時代」(季刊『長陽』、二〇一二年夏季号)
「古賀政男と阿部武雄の音楽」(二〇一二年九月山形新聞)
「二葉あき子 レクイエムの誓い」(二〇一三年八月九,一〇,一二,一三、一四、一五、一六、一七、二〇日、中国新聞)
「服部良一と太宰治のグッド・バイ」(二〇一三年一〇月二四日、『東奥日報』)
「服部良一 春陽の才能 見抜く」(二〇一三年一〇月二九日、『岩手日報』)
「藤山一郎、ジャズを歌う」(二〇一三年一一月『春秋』NO/553)
「霧島昇生誕100年名曲が彩る生涯1赤城しぐれ(二〇一四年六月二二日、二九日、七月五日、一二日、一九日 『福島民報』)
「ツルレコードに集まる多彩なアーティストの人間ドラマ」(『週刊読書人』二〇一五年七月一〇日号)
「歌い継がれる日本の抒情歌」(『春秋』二〇一五年一〇月号)






SP歌謡・回顧と展望
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回想昭和SPレコード歌謡・戦後編なつかしの歌声・日本流行歌変遷史



上原敏・並木路子・渡辺はま子が登場。ニューギニア戦線の悲惨な状況のなかで上原敏は何を思い黄泉の国へ旅立ったのか。《妻恋道中》《裏町人生》《流転》は彼のヒット曲。東京大空襲で母を失い、外地で父、兄を失った並木路子は悲しみを押し殺して、廃墟から流れる希望の歌を歌った。東京大空襲の惨劇から九死の一生を得て《リンゴの唄》を明るく歌い上げた並木路子の反省を描いた。理不尽な復讐裁判で囚われている日本人同胞を救った渡辺はま子の勇気溢れる行動は歌が政治外交を動かした歴史として永遠に刻まれるであろう。

昭和歌謡回想徒然草
菊池清麿著微かな記憶の60年代・鮮明な70年代昭和歌謡とその淵源・文化・時代の諸相

 「なつかしの歌声」という言葉を聞くとその意味のとおり、回想とともになつかしい感情が湧いてくる。現在に過去が沈殿している。過去は思い出だ。だが、それは、遠さの感覚が強く複雑な感情体系を宿す望郷という情念的なものとは違ったものだ。一人の人間生活は複雑多岐である。それを表現する場合、どうしてもそれに合った最上級の言葉を選びがちになる。だが、そのような言葉はたいてい出来合いの通念によって生命力を失っている。したがって、通りのいい種類の言葉や、おおげさな美辞麗句よりもささやかな言葉の方が望郷を語る上ではふさわしいといえるのではなかろうか。
 石川啄木は望郷の念が強かった。望郷の歌が非常に多い。故郷への懐古、望郷歌が多いのだ。

 病のごと
 思郷の心湧く日なり
 目にあおぞらの煙かなしも
 
 この一首は啄木の望郷歌のなかでも優れた作品である。モチーフのなかに啄木の望郷への情念が宿っているのだ。啄木は病床に臥し身動きがとれない。望郷が遠さの感覚を基本概念とするならば、固定された位置からの情念は一層強まる。煙りは空間を浮遊移動する。異郷で固定化された位置から、空を眺め、幼年時代に胸に刻んだ故郷の久遠の姿を思うと、望郷の念は激しくなるといえよう。故郷の「景」から「情」に転じることによって、緊密に渾然と生かされ合う言葉が奏でる悲秋は文字通り故郷への思慕を湧かせ、望郷の思いが運ばれるのである。一族を引き連れて不本意な流浪の旅を経験した杜甫の『春望』はそれを物語っている。
 故郷はロマン主義的な感情である。故郷の喪失への深い哀愁は、切ない漂泊の旅情や望郷であり、その望郷が故郷への思慕とパラレルに永遠なるものにも普遍性を持つ憧憬、願望への広がりをもっているからである。しかし、同時に美しいはずの回想も実はその甘美な風景を粉々に打ち砕くような屈辱の泥に塗れたそれだった。啄木は奥深い人間の危機感を意識しながら、啄木の故郷は苦々しい回想とともに想起される。啄木の父が檀家の不信を買って、寺を追われ、自らも、故郷を喪失した。啄木の漂泊の人生を省みると、望郷は複雑な感情を宿す情念といえよう。啄木の望郷の歌は複雑であり、その典型といえる。
 故郷喪失といえば、作曲家古賀政男も同じ体験をもっている。思い出深き田口村を捨て朝鮮半島へ渡った古賀政男の体験は《人生の並木路》の楽想となり、日本人を感傷的にし大いに泣かしたのである。父亡き後、苦労した母と優しかった姉の後ろについて、幼い弟の手をひいて故郷田口村離別した哀しい出来事を終生忘れることが無かったのである。荒い玄界灘を渡り、仁川に上陸し、古賀少年の大陸生活が始まった。悠々と迫って来る大陸の「景」はいつのまにか「情」に転じた。果てしない望郷の念にに支配されるのである。佐藤惣之助の詩句を手にし、《人生の並木路》の五線譜を涙で濡らしながら作曲した古賀政男の姿は故郷喪失と云う哀しい物語を象徴していたのである。

日本の心―古賀政男とその時代 ―菊池清麿

 

《故郷の風景と喪失、そして、朝鮮半島へ》

 

古賀メロディーは、なぜ、二一世紀の今日においても人々に愛され続けられるのであろうか。確かに、古賀メロディーが奏でる甘美なギターの調べ、躍動する青春の息吹は日本人に大きな感動をあたえてきた。では、そのような古賀メロディーが大衆によって育まれ、その生命を失わずに愛唱されてきた秘密とは一体何だったのであろうか。それは、激動の時代を生きた古賀政男の人生の中にあるのではないだろうか。ささやかなエッセーではあるが、それについてのべてみることにしたい。

 古賀政男は、明治三七(一九〇四)年一一月一八日、福岡県三潴(ルビ=みずま)郡田口村(現在の大川市)に生まれた。本名、正夫(明大在校中に「正男」と改名し、後に「古賀政男」となる)。その故郷は詩人北原白秋の詩情豊かな柳川の近くであり、菜の花畑が一面に咲く田園風景が広がっていた。その原風景が「誰か故郷を想わざる」という名曲を生み出した。秋になると、村の鎮守にサーカスの小屋がかかり、うら哀しい「天然の美」を奏でるクラリネットの音色が流れる。黒々とした畦道の遠い向こうから聞こえて来るジンタ(楽隊)の響き、サーカス小屋から聞こえてくる哀調を帯びた感傷のメロディーが後の「サーカスの唄」のモチーフとなったのである。だが、古賀政男はこの思い出深き田口村を後にし、朝鮮半島に渡った。このときの故郷喪失の哀しみが「人生の並木路」の楽想となっている。父亡き後、苦労した母と優しかった姉の後ろについて、幼い弟の手をひいて故郷田口村と離別した哀しい出来事を終生忘れることがなかったのである。

 少年古賀政男の新生活は朝鮮半島だった。仁川に、そして、京城へ。感情の起伏の激しい少年時代を長兄福太郎の世話の下で過ごしたのである。古賀メロディーの叙情核の一つに朝鮮のメロディーの影響があると一般に認識されているが、それは、兄の店で働く朝鮮人労働者が口ずさむ民謡、俗謡が何かしらの影響を与えていたからである。

 古賀少年は朝鮮半島の生活においても音楽に熱中した。兄弟の中では唯一の理解者であり、一番仲のよかったすぐ上の兄(久次郎)がマンドリンを送ってくれたのは、善隣商業学校三年の時だった。マンドリンを手にした古賀少年は音楽への夢を炎のように燃え上がらせたのである。卒業後は音楽学校への進学を密かに夢見ていたが、それは叶わぬことであり、善隣商業を卒業した古賀は長兄福太郎の命で大阪の支店に勤務することになった。だが、その生活は一年で終止符を打ち、愛用のマンドリンを持ち大阪の店を出奔したのである。それは青春への飛翔でもあった。

 

《影を慕いて》

大正一二年、古賀政男は明治大学に入学した。そして、マンドリン倶楽部の創設に参加し、早くも頭角を表した。生活費を稼ぎながらの苦しい学生生活だったが、母が老いた身体に鞭打って息子のために仕送りしてくれた「五円八五銭」に助けられたこともあった。翌年には須賀楽器店が経営する駿河台音楽院でギター・マンドリンを教えることになり、一応の生活の安定を得ることができたのである。ところが、金融恐慌で幕を明けた昭和は、華やかな昭和モダンとは対照的に暗い世相の前触れを予感させていた。

昭和三年、その年の夏、古賀は立ちはだかる現実の厳しさによってロマンティシズムが崩壊した。人生に絶望し、宮城県の蔵王の青根温泉で自殺未遂を図ったのだ。しかし、古賀は剃刀で首筋を掻き切ることができず、噴き出る血をハンカチで押え倒れ伏したまま、滝の水しぶきの音を聞きながら、ただ泣くばかりであった。異変に気付いた友人の声が遠くから聞こえてきた。その声によって、古賀は我に返り、正気を取り戻した。谷底から登って来るとき見た蔵王の夕焼けは美しく、この時、浮かんだ一片の詩句が、あの不朽の名作・「影を慕いて」であると云われている。

昭和四年春、古賀は明治大学商学部を卒業し、そのまま、明治大学マンドリン倶楽部の指導者となり、将来への不安を抱えながら社会に船出するのである。昭和四年六月、マンドリン倶楽部の定期演奏会で「影を慕いて」をワルツに編曲し、ギター合奏で発表した。「影を慕いて」の初演は、あまり、評判がよくなかった。しかし、古賀はこの演奏で幸運を得た。演奏会に出演していた佐藤千夜子(ルビ=ちやこ)から「歌曲にしてみては」というアドバイスを受け、古賀はギター歌曲の創作にとりかかることになった。同年秋、古賀は来日したギターの巨匠、アンドレス・セゴビアのギターの妙技に感動した。古賀はセゴビアの手の中で響きわたったギターの音色からインスピレーションを受け「影を慕いて」の完成に全力を注ぐのである。同年の暮れ、古賀は歌謡界の女王の座に就いていた佐藤千夜子の尽力で日本ビクターに紹介され、「文のかおり」など自作品を同社のスタジオで吹込んだ(佐藤千夜子・歌唱/明治大学マンドリン倶楽部・演奏)。このとき、「影を慕いて」はレコーディング曲目には含まれていなかった。「影を慕いて」は、まだ、歌曲として完成していなかったのである。

 昭和五年一〇月二〇日、「日本橋から」と「影を慕いて」が佐藤千夜子の歌唱によってビクターで吹込まれた。セゴビアの感動からおよそ一年が経っていた。レコードは昭和六年一月新譜で発売されたが、あまり売れなかった。「影を慕いて」のヒットは藤山一郎の登場を待たなければならなかったのである。

 

 《古賀メロディーの隆盛と黄金時代》

ビクターで吹込まれた古賀メロディーのレコードに注目したのが日本コロムビアだった。そして、藤山一郎との出会いが古賀政男の運命を大きく変えることになった。藤山一郎は本名増永丈夫(声楽家)。当時、東京音楽学校(現・東京芸術大学)に在籍する学生で将来をバリトンの声楽家として嘱望されていた。昭和恐慌で傾いた生家の借財返済のためにコロムビアで、流行歌の吹込みをしていたのである。

藤山一郎の卓越した声楽技術によるクルーン唱法(マイクロフォンの特性をいかした歌唱法)で「酒は涙か溜息か」がヒットし、古賀政男のギター曲の魅力が伝わった。そして、今度は、藤山一郎が声量豊かに昭和モダンの青春を高らかに歌った「丘を越えて」もヒットし、古賀メロディーは一世を風靡し全国に流れたのである。翌昭和七年、藤山一郎の再吹込みによる「影を慕いて」もヒットし、古賀メロディーは第一期黄金時代を迎えたのである。

その後、古賀政男はコロムアからテイチクへ、そして、コロムビアに復帰するが、ここでおもなヒット曲を並べておく。〈第二期黄金時代〉「二人は若い」「白い椿の唄」「緑の地平線」「東京ラプソディー」「男の純情」「愛の小窓」「女の階級」「ああそれなのに」「うちの女房にゃ髭がある」「人生の並木路」「青い背広で」「青春日記」〈第三期黄金時代〉「誰か故郷を想わざる」「目ン無い千鳥」「新妻鏡」「相呼ぶ歌」「熱砂の誓い」「なつかしの歌声」。また、昭和一三年から翌一四年にかけて、外務省の音楽親善使節として、ハワイ、アメリカ、南米を外遊した際には、NBC放送において「緑の月」「ああそれなのに」「男の純情」「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」が放送され、古賀メロディーが全米に流れるという快挙を成し遂げたのである(昭和一四年八月三一日)。

 

《永遠の古賀メロディー》

古賀政男は、戦後という新たな時代を迎え、つぎつぎと作品を生み出した。近江俊郎が熱唱した「湯の町エレジー」は戦後の古賀メロディーの最大のヒットとなった。そして、戦後の復興を背景に、戦前のコミック・ソングの系譜を継ぐ「トンコ節」「芸者ワルツ」などのヒットによって、第四期黄金時代を形成したのである。しかし、昭和三〇年代、都会派ムード歌謡・吉田正、演歌系歌謡曲・船村徹と遠藤実、ジャズ・中村八大など戦後派の作曲家が歌謡界を席巻すると、古賀政男も新たなスタンスを構築しなければならなくなった。そこで、古賀政男は美空ひばりに接近したのである。古賀政男は、戦後の歌謡界の女王である美空ひばりを得て、「柔」「悲しい酒」をヒットさせるなど五度目の黄金時代を形成し、歌謡界の父として君臨したのである。殊に美空ひばりが歌う「悲しい酒」は、古賀政男のギター演歌の完成でもあった。

 豊饒な音楽である古賀メロディーの生命は永く、世代を越えて人々に感銘を与えつづけてきた。それは、庶民の心を慰安し哀調を帯びた感傷のメロディーのみならず、初期の洋楽調の作品に見られるようにモダンライフのムードを楽想にした都会調の青春のメロディーやユーモラスなコミック・ソングも創作しているからである。戦争への不安を敏感に感じる社会心理を捉えながらも、昭和モダンの状況を明るく軽快に表現し、その明るさと希望を失うことがなかったのである。古賀政男は激動の昭和という時代を生き抜いた日本人そのものであり、苦悩と挫折を乗り越えた姿があった。古賀メロディーが永遠に愛され人々を感動し続けた秘密はこの辺にあるのではないだろうか。


 表現がささやかであっても、未知と既知を連結するためには比喩表現は重要である。人間の生活は複雑多岐にわたるとはいえ、日常の何気なくつつましく発せられたささやかな言葉のなかには人を深く揺り動かす新鮮な発見と創造をもつからである。ささやかなの日常の言葉こそ人を揺り動かし感動をもたらすと言える。これが表現者の初歩的で困難な状況を解決してくれるキーワードである。物事の始まりは、その草創期において、発想はすべて比喩的な性格を有していたのだ。言語自体の発達展開においても比喩は重要である。言葉は比喩的能力適応力があるので、言葉という有限性をもつ記号で無限の可能性を持つ事象を表現することができるのである。現代は「個」を全体化する連合作用が低下・衰弱している。発見的、創造的思考の方法としての比喩の意義は再認識され新たな生命が付与されなければならないのである。あらゆるものを記号化する情報化社会の時代において、人間と人間の直接的関係すら記号的なものによって媒介的にしか捉える事の出来ない状況、情報化社会における言語の解体状況においては、そのような思考が必要といえる。
 己の未来の生を具体的に構成しようとするとき、自己の過去に流れた時間を一定の具体的な歴史として構成し自己のアイデンティティを志向することが可能となるのである。これからの人生をどうするかという問いを発生する条件が己の未来の生についての「節目』の意識なのだ。過去からの連綿とした由来と未来への可能性の不断の出会いが現在の場なのである。己の過去とは思い出だ。鮮明な記憶の再生装置を稼働することなのだ。また、それは音楽の魂が刷り込まれた時期への甘美な回想でもある。純粋と猥雑、色彩と陰翳、行きつ戻りながらその豊富性を彷徨するそれでもあった。だが、繰り返し想起できることが過去を育て現在に再現できるといえよう。
 小学校の低学年の頃、朝の日曜日の九時、「時事放談」終わった後、番組のテーマ曲としてあのメロディーが流れていたのを覚えている。空を走る銀河のように滾々と溢れ出る感動の記憶は価値基準を生みだす。己の内部に座標軸を構築するのである。記憶の成長はインフラ=社会の基本的な設備が脳のなかに張り巡らされるような現象であり、発見の基盤となる感受性を磨くのである。此の積み重ねが創造的な人間を生みだすのである。昭和モダンの都市文化の光と疲弊する農村・下層社会の翳が交差し繁栄から戦争、そして、近代日本の崩壊、昭和という激動の時代を彩った歌手たち、藤山一郎、東海林太郎、伊藤久男、灰田勝彦、ディック・ミネ、淡谷のり子、渡辺はま子 二葉あき子らが歌った。歌いだしが<星に輝き 思い出のを歌を>だったような気がする。番組の最後のコロムビアトップ・ライトの口上もよかった。番組は懐かしのメロディーという要素が濃く、クラシック音楽と同質の古典的な価値づけが希薄だったような気がする。
 私の小学校時代は、アイドル歌手時代全盛となつかしの歌声が共存していたのである。そして、フォークブームからニューミュージックへ。フォーリズムを中心にしたバック演奏が奏でる8ビートのサウンドにのって、天地真理、南沙織、小柳ルミ子、山口百恵らアイドルが登場し、藤山一郎、東海林太郎,淡谷のり子らなつかしの名歌手、吉田拓郎,井上陽水らフォークの旗手がニューフォークを切り開き、当時の中年は、北島三郎、森進一、五木ひろしを歌い、また、美空ひばりが演歌の女王として君臨していた。これが一九七〇年代である。八〇年代、ロックバンド&マンドリンオーケストラ(明治大学マンドリン倶楽部)でこれらの曲を演奏するとは夢にも思わなかった。明治大学マンドリン倶楽部での四年間はもしかしたら8ビートに苦しんだそれなのかもしれない。ビートを優先させればマンドリンの生命である旋律、メロディーラインが崩れる。あくまでも、旋律楽器であるマンドリンの主体性を維持するかどうかで、相当内部での対立があった。ロックバンドオーケストラを志向するフォーリズム派とオーソドックスなマンドリンオーケストラの本質をあくまでも追求する派との対立は相当の軋轢を生んだのである。明治大学マンドリン倶楽部におけるこの体験が『日本流行歌変遷史』を書かせた動機といっても過言ではない。昭和流行歌の黎明から8ビート全盛の日本ポップスの全盛という日本流行歌の歴史的変遷を体験できたことは貴重だった。そして、僅か6ヶ月とはいえ、日本政治思想史の橋川文三に教えを受けたことも己の方向性を決定するうえでも貴重なそれだったといえる。
 

[60年代昭和歌謡からの遡及・菊池清麿]


 私が生まれた一九六〇年、岸内閣の安保改定をめぐり「安保闘争」として日本を揺るがした。東京の中心部では連日のデモの群集でうずまり、国会議事堂をデモ隊が取り囲んだ。だが、このような空前の国民運動の展開にもかかわらず、安保闘争は挫折した。この国民運動は、左翼的側面もさることながら、反米というナショナリムの反映でもあったように思われる。民主化・平和国家と言いながら、日本がアメリカの軍事戦略に位置づけられることに対して、国民の憤りは当然であろう。《アカシアの雨がやむ時》は安保闘争の挫折感を深く感じた若者の内面を癒した。国民の眼は政治批判から経済的繁栄へと移って行った。日本は高度経済成長を迎え、その象徴が「三種の神器」だった。技術革新と設備投資に支えられた日本は高度経済成長をまっしぐらに走った。年平均10%を越える成長率を示したのだ。IMF8条国に移行するよって貿易の自由化、OECDに加盟し資本の自由化を達成し先進国の体裁を整えた。このような開放経済体制下の国際競争激化に対応し、六大都市銀行が系列企業への融資を通じて企業集団が形成されたのである。その押せ押せムードの風潮は植木等の《スーダラ節》に象徴されていた。
 人間の本質は記憶で成り立っている。人生は時が刻む記憶の集積なのだ。私は、六〇年代の歌は完全ではないが、微かに記憶している。小学校に入る前に、近くの映画館のポスターや写真で加山雄三、橋幸夫、舟木一夫らの青春映画を見たことがある。映画もおばさんに連れられて実際に見た。加山はスキー、エレキなどで音楽とスポーツに万能な姿をスクリーンいっぱいに見せていた。加山雄三は歌とスポーツに魅力があるが、その原型は戦前にすでに灰田勝彦によって作られている。当時、コロムビアのヒット街道のさなか、ビクターも映画主題歌でヒットを放った。『秀子の応援団長』の主題歌・《燦めく星座》(昭和一五年)がそれである。高峰秀子と灰田勝彦の共演は話題を呼んだ。太宰治はこの《燦めく星座》を酔うと、〈思いこんだら命がけ〉と何度も繰り返し歌っていたそうだ。太宰治の文学がは自己否定、自己破壊、デガダンス、頽廃に象徴される不健康なそれと言うイメージが強いが、都会的な灰田勝彦の歌を好むと言う事は、モダニズムヘ憧憬への一端なのだろうか。
 映画のシーンで灰田勝彦が誰もいない後楽園球場で塀にもたれながら暮れゆく夕空をながめながら、歌った。これが人気を呼んだのである。灰田勝彦の人気も都会偏重から全国的なものになったのである。当時のプロ野球は川上、千葉、吉原、スタルヒンらを主力に水原、中島のベテランで固めた巨人の第一期黄金時代だった。花の「昭和一三年組」が一気に花が咲いたといえよう。昭和一五年は沢村が復帰して戦列に加わったが、全盛期の球威は見られなかった。
 太平洋戦争直前、最も人気のあった歌手は、灰田勝彦と言われている。このように灰田の全国的な人気によって、藤山一郎、松平晃のアメリカニズムの影響を受けた昭和モダンの青春から始まった青春歌謡の系譜が確立したといえる。アコーディオンを華麗に演奏し青春を高らかに歌い上げる藤山一郎、スポーツと流行歌を結び付けた灰田勝彦など、まさにビルディング、アパートメント、ネオン、シネマ、カフェー、ジャズ、レヴュー、ラジオ、文化住宅、円本に象徴される昭和モダンの都市空間の欲求が生みだした昭和青春ノスタルジアだった。それは、欲望の商品化によるキャナライズを風刺まで押し上げた音楽産業がモダニズムを満喫する若者に応えた現象でもある。その一方で、対極にあるのが演歌系歌謡曲の岡晴夫、田端義夫。そして、永井荷風が温かい眼差しを向ける場末・裏町の門付・演歌師たちの庶民の呻き声。井田照夫らの浪花節歌謡もレコードが関西で売れた時代だ。それらが、古賀政男、服部良一らの作品が描く昭和モダンの都市空間の中に混在したのである。したがって、川本三郎が指摘するように、都市の浮遊者・永井荷風の鋭いリアリズムから生まれた観察力を発揮したまさに昭和初期のモダン都市東京の裏面史の描写といえよう。
 都市の現代化が進行すると、メインストリートは広がる。その一方で、路地裏・裏町というアンダーワールドが培養される。そこに群れる人間社会には生命の逞しい生きるためのエキスが充満している。歪められた猥雑・雑多な世界だが人間の生命エネルギーが溢れている。暗部の「の情念が蔽う都市の周辺にはそのような空間が必ず存在するのである。俗臭を好む荷風が魅せられた空間でもある。
 《裏町人生》がレコードされた年、荷風の『濹東綺譚』が木村荘八の挿絵で『東京朝日新聞』の夕刊に連載された時でもある。荷風の資性・趣味・教養が集大成された叙情小説としての評価が高い。玉の井の私娼街を舞台に夏から秋にかけての季節の移ろいの描写は見事である。風物誌的な力点が置かれた作品だった。モダン都市のネオン輝く表通りは、藤山一郎の《東京ラプソディー》(古賀政男・作曲)《青い背広》(古賀政男・作曲)が流れ、猥雑・雑多な裏町では迷宮の風情を描きながら、《裏町人生》を口ずさんだのである。荷風の小説に戦争臭が感じられないのは、娼婦・お雪とのはかないえにしを季節感あふれる風景描写と情緒が際立っているからといよう。哀しみをどこかに浮かべ湛えている隅田川の情景が印象的である。ということは、荷風文学の対極にあるモダン都市文化の華やかな綺麗な世界の隆盛が存在したとことが浮き彫りになってくるのである。『裏町人生』対『東京ラプソディー』の相貌がそれを象徴している。また、男女の情欲を盛り込んだ『妻恋道中』対ジャズ感覚と異国の情愛が渦巻く『別れのブルース』もしかり。光と翳が交差しているのである。
 そして、昭和モダンの輝きの最期を飾ったのが灰田勝彦である。灰田勝彦は実際に見たことがある。それは、明治大学マンドリン倶楽部時代に浅草国際劇場で、灰田のリハーサル風景を見たのである。ウクレレを持ちながら、あたかもスキップの如く軽快に走ってきたのである。灰田はニットーレコードから《モアナ麗し》を歌ってデビュー。ポリドールでは藤田稔の変名で《浅草ブルース》を吹込んだ。テイチクでもハワイアンを吹込んでいる。その後ビクターに入社した。藤山一郎が古賀政男との縁でビクターを抜けテイチクに移籍した後だから、灰田にはそれなりの期待があったようだ。その灰田勝彦が昭和十五年に人気絶頂を迎えるのである。軍国歌謡の隆盛を吹き飛ばす勢いだった。昭和十五年は、『暁に祈る』(伊藤久男・歌唱)という軍国歌謡の傑作、『誰か故郷を想わざる』(霧島昇・歌唱)『なつかしの歌声』(藤山一郎・二葉あき子・共唱)『目ン無い千鳥』(霧島昇・松原操・共唱)に代表される第三期古賀メロディー黄金時代、 服部良一の『蘇州夜曲』(渡辺はま子・霧島昇・共唱)『湖畔の宿』(高峰三枝子・歌唱)の流行、国民歌謡では藤山一郎が放送した『燃ゆる大空』など、その隆盛ぶりは戦前の歌謡曲の絶頂だった。また、伊藤久男は『お島千太郎旅唄』『高原の旅愁』を歌い軍国歌謡のみならず、叙情歌謡でも歌唱力を存分に発揮した。そして、翌年ついにローズベルトによって演出された大東亜戦争と言われた
大平洋戦争へ突入する。
 昭和三十四年にデビューした橋幸夫は、着流し姿で日本調やリズム歌謡を歌い、舟木は学生服というイメージが残っている。橋は演歌歌手のイメージを変えた歌手である。演歌といえば、当時、三橋美智也、春日八郎、島倉千代子など大人が歌う歌というイメージが強かった時代、一〇代歌手が歌うなどその固定観念を覆したのである。もっとも、一〇代歌手は既に戦前、田端義夫、北廉太郎などが活躍していたが。二〇〇〇年に入り、氷川きよしがアイドル化する。アイドル演歌歌手の登場はすでにそのパターンがあったからなのである。
 

演歌

 藩閥専制への怒り演歌のメロディーには、「怒り」の心情がこめられていた。それは、民衆の自己変革の論理を圧殺した権力政治、有司専制、藩閥への怨嗟である。言論抑圧への抵抗の精神と国会開設という政治参加の欲求をメロディーに託して、政治運動への参加を鼓舞する役割を果たした。演歌は、もともとは政治批判、政治宣伝の歌であり、讒謗律、新聞紙条例、集会条例、保安条例などの言論弾圧への抵抗の産物だったのである。 


 六〇年代は洋楽カヴァー曲ブームは、その流れのなかに青春歌謡の時代が誕生した。昭和三十年代の青春歌謡は北原謙二の《若い二人》に始まる。北原の声は民謡調で渋みのある声で、青春歌謡のテーマである若者の希望と夢を歌った。
 橋幸夫は着流し姿だが、それに対して学生服姿で青春歌謡を歌ったのが舟木一夫だった。舟木が歌う《高校三年生》は青春歌謡の全盛期を到来させた。そして、南国の情熱をもって登場したのが、西郷輝彦だった。西郷輝彦は実際に私が通っていた小学校の体育館で見たが、ほとんど何を歌ったか覚えていない。小学校入る前だから仕方が無い。三田明は玉置宏の『ロッテ歌のアルバム』のイメージが強い。三田明から歌手のルックスを基調にしたアイドル性が求められた。それから、絶妙のコンビネーションで歌ったザ・ピーナッツは,モスラ映画でもお馴染みだからよく知っていた。《モスラの歌》は古関裕而の民族音楽の個性が主体となった歌だ。近くの「エビアン」という喫茶店から、ザ・ピーナッツの《情熱の花》《恋のバカンス》がよく流れていた。また、映画俳優のレコードヒットも微かに覚えている。橋幸夫と吉永小百合が共演しレコード大賞も受賞した《いつでも夢を》、倍償千恵子の《下町の太陽》、赤い夕陽のイメージがした小林旭の日本俗謡シリーズ、石原裕次郎の《赤いハンカチ》などが向かいの「おばら」というレコード店から流れていた。
 六〇年代は、「裕次郎」・「ひばり」・「長嶋」に象徴されるが、そのイメージは私の記憶にはない。一九六〇年生まれの者にとっては当然であろう。あくまでも、歴史物語としての事実認識がないのだ。だが、その時代の残滓が色濃くあった宮古市の末広町の空気が己の歴史遡及の感性を育んでくれたのだ。この街は人間エネルギーが溢れた「情」が情報・記号と交錯し、裏通りの安息地の路地からのエキスを常に供給され、無機質・殺風景なフラットな表通りではなかった。そして、いつも歌謡曲が流れていた。
 清純派歌謡の傑作・《いつでも夢を》は昭和三七年のレコード大賞を受賞した。この歌が私の生まれ育った商店街でよく流れていたのを微かに覚えている。また、倍賞千恵子が歌う《下町の太陽》も微かに記憶がある。哀愁のメロディーとして記憶に刻まれているのだ。日活・ビクターの吉永小百合に対して東映・コロムビアの本間千代子が60年代随分と騒がれていたが、家の近くの酒屋に大きなポスターが貼られていた。映画館も近かったので、西郷輝彦、舟木一夫と共演した映画のポスターや写真もよく見た.。六〇年代後半になると小学校に入学する頃で、記憶は確かになる。一九六六年のビートルズの来日は記憶がある。小学校に入る前だが、斜め向へのレコード店からビートルズサウンドが流れていた。ドラムスのリンゴスターが8ビートをタイトな形で演奏し、日本のポップスを大きく変えることになったのである。GSは、七・三分けでスーツにネクタイ姿の「ブルーコメッツ」はよく覚えている。レコード大賞を受賞した《ブルーシャトウ》は随分流行した。替え歌を覚えたものだった。タイガースは近所の中学生がEPレコードをよく見せびらかせていた。《花の首飾り》のレコードだったような気がする。エレキギターは向かいの「おばら」の店頭に飾ってあった。ドラムの三点セットも側にあった。大太鼓と小太鼓にシンバルがごっちゃになった程度の認識しかなかった。後は、《フリフリ》の変な格好や歌謡曲の色が強かったスパイダース、アイドルのテンプターズが流行していた。だが、これらのグループは8ビートにはまっているとは思えなかった。
 GSブームの凋落は早かった。音楽よりもルックス・アクションを求めたことや、長髪スタイルが不良イメージをもたらしたことなども原因になっていた。だが、評価されるべき点もある。歌謡曲に電気系楽器を中心にした小編成バンド時代を到来させ、テレビ時代を象徴するアイドル性の重視を認識させたことである。GS最後の頃、フォーリーブスが登場したのもそれを予感させるものだった。   
 小学校の低学年の頃、ポップス歌謡が流行していた。美空ひばりがエレキブームにのって《真っ赤な太陽》を歌っていた。ミニスカートをはいていたのを覚えている。美空ひばりは8ビートに乗れない歌手である。これを黛ジュンが歌っていたらどうなっていたか。美空ひばりとは明治大学マンドリン倶楽部時代に共演したことがある。《悲しい酒》を歌うときリハーサルのときから大粒の涙を流すのには芸人根性の凄さを実感した。美空ひばりの専門編曲家が明大マンドリン倶楽部のOBで、この人も8ビートがまったくだめだった。
 昭和三〇年代後半になると、古賀政男は、美空ひばりに接近することによって、昭和演歌の源流になろうとしたが、それは、藤山一郎によって確立した洋楽調古賀メロディーの音楽財産を捨てることを意味していた。中山晋平の手法は型にはまり独創性や新鮮さを失っていた。そこに古賀政男は外国リズム、ワルツ、ハバネラタンゴを使用してそのマンネリズムを打破し新生面を切り開いた。マンドリンオーケストラ(明治大学マンドリン倶楽部)が演奏する佐藤千夜子が歌う《日本橋から》、初期の淡谷のり子が歌う《私此頃憂欝よ》がその代表である。そして、その古賀政男のギター曲、マンドリン歌曲は藤山一郎の歌唱芸術によって、開花したのである。クラシックの正統派・藤山一郎との乖離は古賀メロディーの変質である。初期の古賀政男は芸術家としてのスタンスが石川啄木と相い通じるところがあった。啄木の詩想には細やかな情感が流れている。浪漫主義の叙情詩人時代の青春の感傷からは脱し、生活の重さに根差した生活と文学が一体となった新しい抒情精神が宿っていた。生活の実相をリアルに芸術化したという点においては、古賀政男も共通する。古賀はギターの詩人となり、審美感を知り脅威を感じ恍惚となりながら、音楽と生活のつながりが新しい創作精神を生み出したのである。古賀政男は演歌のスタンスをとることによって、そのような知性や情緒に宿った荘厳な美、精神すらも捨て去ったのである。芸術芸術における美の形成は創作者の内部の力、その深さにある。己自身の精神の対話にある。だが、古賀政男はモード(流行)を優先した。この規範に縛られ、芸術作品と語り会うという孤独な魂を失ったのである。世俗的な成功がそれを意味していた。古賀は音楽の魂との対話を等閑視することによって、己の音楽の本質を封印しなければならなくなったのである。
 昭和三〇年代、大正街頭演歌の精神を受け継ぎ、昭和一〇年代・豪華絢爛な道中・股旅歌謡でヒットを飛ばした阿部武雄が銀座界隈で流しをやっており、路上・街頭ライブという演出を考えれば、昭和演歌の源流はむしろ「アベタケ・メロディー」の方であろう。裏町の猥雑な生命のエキスを肌で感じながらの流し演歌だった。裏街道で涙を流す人々の共感を求めての流離流しといえた。体内から発した情念をそのまま旋律化した《妻恋道中》《流転》などは今も歌われている。
 阿部武雄の作品は「アベタケ・メロディー」という名称がつけられている。そのなかでも《裏町人生》は、多くの演歌歌手の愛唱歌だった。あの石原裕次郎もレコードに入れているのには驚く。永井荷風は、電気吹込み時代の流行歌・レコード歌謡には、辛辣な批評を加えたが、アベタケ・メロディーの傑作・《裏町人生》を浅草の盛り場に姿を見せよく酩酊すると口ずさんでいたそうである。そして、《葛飾情話》の上演後、荷風は浅草の六区のレヴュー小屋の楽屋やオペラ館に入り浸ることになる。《葛飾情話》は、昭和十三年五月十七日から十日間、浅草オペラ館で上演された歌劇である。大正年間のいわゆる浅草オペラとは区別しなければならない。荷風は大正時代の浅草オペラにはまったく足を向けなかった。荷風の浅草来訪は、昭和十年代に入ってからである。すでに、エノケンが去り、ロッパが去り、大衆娯楽の尖端からは取り残されていた。荷風は、趨勢から置き去りされた浅草に一抹の哀愁を感じたと言えよう。
 荷風は無常を愛していた。無常とは生あるものはすべて生滅・転変、定まりのなものという意味であるが、日本人はこのような感情に「はかなさ」という王朝情緒の時代から親しみを感じる民族である。無常の風景を眺めその心情に甘えることによって、苦しむことよりもそれを受け入れ諦めることによって、安堵感を享受するのである。荷風にとって、坩堝の街、浅草は滅びゆく都市空間に映ったのだろうか。演歌が仏教的無常感にささえられているとするならば、荷風が《裏町人生》に感じたことは、無常を直視して苦しむよりもそれを否定した諦観と安堵感だったといえよう。荷風が酩酊しながら口ずさむ《裏町人生》の明るさもそこにあったのではないだろうか。このような世界は古賀政男にはない。
 都市空間は人間の身体感覚と密接に結びつきながら、構成されている。しかも、人間の深層の欲望と内密な関係とリンクした臓腑的な都市空間は、その裏側の安息地でもある。そして、混沌とした深層の世界から常にエネルギーに溢れた生命のエキスを供給しているのである。それによって、生きている人間集団の知・情がバランスと均衡を巧に取っている。猥雑と賑やかな空間こそ生命感が漲っているといえよう。岩手県宮古市末広町の隙間としての路地にはいろいろな猥雑・雑多な生活空間がひしめいていた。そこからは、得体のしれない人間のが放つエネルギーのエキスが充満していた。晦冥な混沌とした深層世界から常にこのエキスが表通りに供給されていたのである。
 複雑系は混沌ではない。コスモス=秩序が存在するのだ。複雑系の振る舞いは混沌ではなく、予測できるコントロールが可能である。だが、新たに現出するひとつひとつの事象や環境を容易に予見できない困難性もある。複雑系の特徴は非線形であり、出力と入力の比例関係ではないのだ。だが、我々は非線形を手際よく扱う方法・手段をもちあわせてはいない。複雑系のもう一つの特徴は一般に成分から構成されており、複雑な相互作用の重なり合い、重層化が思いがけない予想外な効果を及ぼすこともある。それは受験勉強によって鍛え上げた効率性至上主義の頭脳筋肉では把握困難なことである。社会や経済は、利害が背反する集団が多成分系であり、規則性に導かれる法則通りに動かない人間が相互作用のに担い手だから、カオスが生じても何ら不思議ではない。だが、カオスは完全な混沌ではない。一見無秩序に見えるが、視点を変えて見れば、整然とした規則性が見えて来る。ここで、複雑系の視点・方法が重要となるのだ。つまり、二項原理から三項原理へ発想を転換することで、別の世界が見えてくるのである。デカルトの二元論に代表されるような二つの対立概念ではなく、三つの要素がお互いに円環を作る様な関係から、お互いに長所と短所を補完し合う世界を構想できるのである。明と暗、富者と貧者というように対立・葛藤・構想などの言葉で世界全体を解釈するのではなく、力や富だけに価値を置く発想から、人間を多用な側面からとらえ直す価値観を芽生えさせることが重要である。複雑系は「偶然」や「ゆらぎ」の積み重ねによって構築された柔らかいシステムであり、人間の傲慢さ=「硬」を反省させるものである。だから、精神は単純・貧相であり、身体の言葉は色彩豊かな信号を送ってくれる。感受性豊かな身体こそ思考の母胎であり、その言葉は自己矛盾を平然と行う深いものであり、豊富で複雑なのである。
 二十世紀はデカルト的な身体疎外(精神意識による疎外形態)に加えて別な意味での身体の疎外が始まった。コンピューター社会が人間の身体性を置き去りにして神経系のみを拡張して、「電脳的身体疎外」を生みだした。だが、二十一世紀は、新たなテクノロジーの発達によって、デカルト的心と身体、電脳的な神経系な身体という枠組みに更に複雑な奇妙な次元の問題、身体が私という意識の主体を疎外し始めたのである。「私」の存在を身体が決定するという事態、身体の復権が逆に身体に意識が支配されるという事態が生じ始めたのである。脳は身体の一部である。脳という身体は感覚によって集められた情報をベースに行動を決定する。意識の主体である私の行動様式を決定する重要なそれなのである。まさに逆転である。私の意識が身体を支配する時代は終焉した。デジタルをの眼を通した身体が主語となり、身体がデジタルの眼と結合し主導権を握り、主体である「私」を支配し疎外する時代の到来なのである。

 社交は芝居と似ている。社交には一定のルールがある。それは芝居の台本と同じである。その枠組みの中で付かず離れずの関係を保持し、ひとつの役割を演じるのである。身体のリズムが重要となるのだ。これができない役者は芝居では存在価値がないのである。現代社会はグローバル時代を迎えて久しい。グローバル化とはグローバリゼーションの略の略で、政治経済文化が国境を越えて拡大することである。それは極端な表現を使えば一種の共産主義とも捉えることもできる。国境が消滅すると云う点においては同質である。現代の危機は近代的な組織の概念の崩壊にあり、新たな人間関係を構築しなければならない。その新しい人間関係こそ身体のリズムを活性化させる社交である。国家のアイデンティティを喪失させる現代において、あらたな多くの現代人の精神的な支柱となるであろう。
 文化とは創造的対話である。相互作用によって複合体を構築する。複数の下位文化、その中に関わる部内者、外にいる部外者、多様なグループ、集団なの垣根や制限がないのだ。文化は多様な複数のグループで構成され、それらがぶつかり、さながら「カーニヴァル的格闘技場」のごとく対峙しながら、闘争と複合が繰り返され、価値観の複合体を形成しているのである。さまざまな階級、性質によって分類される人々の相互作用によって創造される多様な差異化された価値観の複合体である。文化はさまざまな制度や日常の行動において何らかの意味と多様化された価値観を表現する。文化を分析することは特定の日常の生活において現れる行動様式、思考を規定する生活の在り方、それらの事象に内在している意味や価値観を析出し明らかにすることである。
 伊東ゆかりが歌った《小指の想い出》がヒットしたのもGS全盛の年だった。伊東ゆかりは、確か、宮古小学校の体育館で見たと思う。この頃は、中尾ミエ、伊東ゆかり、園まり・「ナベプロ三人娘」はそれぞれ独立して歌うようになっていた。微かではあるが、水原弘のドスの効いたブルース調の《君こそわが命》が流行していたのも覚えている。水原は宮古に来て歌ったと思う。やはり、宮古小学校の体育館である。《帰って来たヨッパライ》はよく覚えている。生家の向かいの「おばら」からよく流れていた。この歌はフォークグループを一躍歌謡界で注目させた。レコード会社は、作り手であるアーティストの自己表現を最大限に尊重したのである。
 小学校二年になると、大分、鮮明に記憶が残っている。黛ジュン・《天使の誘惑》、ピンキーとキラーズ・《恋の季節》等々。ヴォーカルのピンキーのパンタロンは流行していた。ピンキーとバックコーラスのヒゲ面男四人は黒のコスチュームでダービーハットをかぶっていた。また、この年はいしだあゆみ・《ブルーライトヨコハマ》が大ヒットしていた。いしだあゆみは美人で綺麗だった。昭和四十三年は、日本はいざなぎ景気によって、GNP世界第2位。三C時代を迎えていた。家にカラーテレビが入ったのは昭和四十四年の暮れ。日立のキドカラーだった。その年の紅白は、少々オーバーな表現になるが、色彩豊かな画像はまるで映画をみているようで、今までの白黒テレビとはまったく違っていた。
 

[70年代歌謡曲
 ニーチェは音楽を「それは世界のディオソニック的な鏡」といったが、それは社会の楽譜と言っても過言ではない。70年代の歌謡曲は多極化の時代を迎えていた。政治色の強かったフォークが商業べースにのり歌謡界に進出した。60年代の一〇代歌手を中心にした青春歌謡は、ルックス重視のアイドル全盛を迎えた。これはあきらかにテレビの影響である。われわれの時代のアイドルといえば、小柳ルミ子・南沙織・天地真理である。小柳ルミ子は、《わたしの城下町》《瀬戸の花嫁》《漁火恋歌》など演歌ではないが、日本的な心象風景を感じさせる歌い方だった。南沙織は、沖縄南国の太陽の輝き放ち、黒髪をなびかせながら歌う《17才》は衝撃的だった。宮古の三陸の寒々とした寂しい海からは想像もできなかった。それは、70年代後半に湘南の海を舞台に登場したサザンオールスターズに対しても違和感を感じたことと同じだった。
 私が見た宮古の海は静寂で起伏が穏やかだった。3月11日の大津波が襲うなど信じられないほど、海の表面は輝く雲母色の光が美しかった。悠久の昔から色が動く影と交錯し静かな光景を描いていたのである。海岸から寂しい海を眺めれば、太陽の光を反射しそのような光景に見える。だが、実際は、舟に乗って沖に出て見ると、舟から見る海は色が違うのだ。黒々とした群青色に見え、身体ごと吸い込まれそうな暗黒の底なし沼のようである。恐る恐る掌で海水を掬ってみる。ひんやりと冷たい感覚が身体に感じる。海岸に打ち寄せる波の海水とは感触が違っていた。手触りと重量感が違う。海は生きていると思った。
 海岸の砂浜から、眺める海には風いっぱいに孕んだ帆を美しく曲線を描いたヨットが遠くに見える。ピーンと張りつめた帆なのになぜか微笑みに似た柔和な余裕が感じられた。悠々と懐に風を招いているからなのだろうか。素直に受け流しているのだ。帆は微妙に表情を変化させている。風も変化するが、帆はふくよかな素顔を決して失うことがなかった。だが、笑みさえ浮かべて頬を膨らませているが、マストと帆桁が共同してつくる直線のなかでしなやかに優雅が身をしならせながらも、前に進む意志は強かった。
 海は広大である。深淵でもある。昼夜の交代、四季の移り変わり、年月の推移は、海自身もこの変化を気づいていない。時間が果てしなく流れ、その悠久の中に消えてしまっている。だが、海の表面、海面は異なっている。絶えず変化しているのだ。光彩と動く影が交錯する。海面は太陽が放つ日光を浴び輝いている。黄昏時の海は寂しい微笑みを浮かべるが神秘的である。その表情と情緒は時間の経過とともに刻々と変化する。服部良一の『波に揺られて』『風は海から』はそのようなイメージを与えてくれる。海面の水は潮の流れとともに動き、風の息吹によって揺らぎ、その起伏は季節の歩みに並行し、慌ただしく変化する波の形状によって果てしなく続くのである。
 湾の向こうに月山が見える。御殿山ともいわれた。末広町の「べにや」の屋上(ここには小規模な遊園地という日常性を越えた別世界空間が存在した)から見る月山とは違っていた。昔の津波は御殿山を越えて襲ってきた伝説化されていたが、おそらく、宮古湾の波がうねりながら襲ってくる恐怖の津波となり、山を背にしていることから、そう見えたのであろう。
 黄昏時の海は神秘的である。海面は潮の流れと共に動き、風の息吹によって揺らぐ。波は果てしなく動く。波の形状は慌ただしく変化し、悠久の姿を回想しながら起伏するのだ。宮古の海は寂しいが美しかった。荒れがちな北の海も穏やかになる瞬間も海風と陸風との変わり目の瞬間に訪れる。それが津波によって生じた荒れ狂う波が悪魔の化身の如く阿修羅となり全てを奪ったのである。
 今は、もう見ることがないが磯鶏の浜から岩礁を経て続く藤の川,金浜の海岸線の砂浜は美しかった。藤原洲かも海鳥の群れが白い翼の羽音を立てて風を切りながら飛んでゆく光景が美しかった。まるで、東の空に輝く黎明のような光だった。だが、その光は運命の物凄さを持って海上に飛来しながら消えて行った。
 蒼い海は生きている。空から日光が恵ぐみ花のような模様を描き、海原の生命が悠久の歴史を伝えながら流れている。休むことを知らない。絶えず海は流動し動き回っているのだ。小学校の頃、砂浜で褐色の外国貨幣を拾ったことがあった。湿った砂で強く数分こすると輝かしい光沢を放った。詩も湿った砂が貨幣に与えた同じ効果を言葉にもたらしてくれる。詩は平凡に思える言葉を配列することに由って、そのコスモス(秩序)の中に光沢をあたえることができるのである。詩は常に言葉の再創造なのである。
 美意識はもの作りの不断の資源である。作り手・受けてに共有される感受性があってこそもの作りの創造は文化の中で育まれ成長するのだ。美意識がもの作りのに必要な資源である理由はここにあるのだ。繊細・丁寧・緻密・簡素にもの作りを遂行する技術は美意識があるからこそ可能なのである。高度な生産技術やハイテクノロジーにはこの美意識が根底に流れていると言えよう。
 

〈自然と科学〉

科学は自然の仕組みとその機能を客観的に捉えて分析し記述する方法である。技術は、科学の成果を人間社会の生活に応用し、実用化する術である。この場合の「科学」はヨーロッパで生まれた近代科学である。近代科学の考え方の特徴は人間と自然を別個の存在と捉えことにある。自然は分解できる要素から成り立っており、それらの要素は自然の法則にしたがって機械的に運動するという性質がある。このように西洋人の自然観は自然を客観的な対象物とし、その一定の秩序、合理性、法則を客体として取り上げ近代科学を成立させたのである。

もともと西洋の伝統的な自然観は神を基本にしていた。この神は絶対の権威であると同時に、首尾一貫した合理性をもつ人格的な神なのである。秩序と合理性を自然に内部に発見することは、神のわざを明らかにし、神の深い智恵を知ることであった。人間が神の創造物=被造物である自然を理解しその構造を読み取ることは、人間をある種の傲慢性を植え付け、人間による自然の支配を意味した。  

このように人間は自然のなから一貫した秩序(コスモス=整然としたまとまり)と合理性を見出しながら客観的な自然法則を発見し自然を理解しその法則を利用し科学を成立させ、支配した。近代科学の根底に自然のコントロール・支配という思考が存在する理由でもある。それに対して、東洋的な自然観は、違っていた。自然と人間を個別にした捉え方ではなく、一体のものとして見るという自然かである。自然の伴侶であり、自然の一部としてその中に没入し、自然と一つとなろうとする自然観なのである。これが自然の美を基調とする日本の伝統工芸を成立させた要因でもある。

日本はそのような自然観を有しており、近代科学技術を生みだした西洋のアプローチとは程遠い方法によって、あくまでも自然との共生関係を尊重し独特の美しい文化や生活様式を生み出した。たとえば、日本の住まいにおける仕切りが自然環境との遮断による人工的なものではなく、その機能性を主張するものでなく、自然に没入しその環境と調和するように取りこまれているのである。また、技術・技法と自然から適度に提供された材質と見事な調和・完成度の高い美の世界を感嘆させ、国際的評価を得ている伝統工芸も地域が育んだ歴史をベースに自然との一体化・共生関係を体現したものである。だが、西洋においては、技術という道具で自然を支配し征服する近代は原理的に自然との共生は成立しないのである。したがって、自然征服労働=技術体制(科学の結果を実用)のおかげで実現した物質的な豊かさを満喫しながら、自然との共生やエコロジーが可能であると信じるのは途方もない幻想といえよう。

日本人は一個の人間を実体としてではなく、機能として捉え世間において他の大勢の人たちと様々な人間関係に中で共棲し生きてきた。それは自然と同化・一体化することであり、世間と自分とを等価値に表像してきたことにも現れている。日本語にはなぜ、こんなにたくさんの「自分」をあらわす言葉があるのかという回答にもつながる。複雑な人間関係をもつ世間で、相手によって自己の立場を使い分ける必要があったからである。

日本人はヨーロッパ人のように自然と対決するのではなく、自然に親しみ、自然に同化することによって、安らぎを得てきた。それが社会においても同じことが言える。日本人は欧米人のように個人を社会に対置するのではなく、「渡る世間に鬼はなし」という諺からもわかるように、心安い社会を形成してきたのである。

日本の自然は優しい山河である。日本は同質社会である。自然の厳しさ、社会の厳しさも、他の国々に比べれば気楽だったのではなかろうか。日本人の人間観や「自分」の意識は、このような風土の産物である。このような社会では、自分を主張し、世間と対決して生きるよりも、自分を顧み、世間という複雑な人間関係のなかで自分の立場を常に意識して、社会に協調して生きようとするのである。


 宮古市はジャズの街だった。美学のマスターとジャズピアニストの本田竹広が同級生ということもあり、本田はたびたび美学に遊びに来ていた。お盆の頃の暑い夏の日のことだった。備え付けてあったアップライトの古いピアノを突然弾き出した。当時、本田はジャズの発展形態であるフュージョンにどっぷりとつかっていたので、此の時聴いたピアノは、ジャズというイメージが程遠かった。本田がジャズの世界に入った頃はモダンジャズの黄金時代である。六〇年代の日本ジャズは新時代の要請を受けていた。機能和声にもとづく即興演奏から断絶しスケール(音階)を求めたモード・ジャズ、オーネット・コールマン、セシル・テイラー、アルバート・アイラーらによって始められたフリー・ジャズ(既成の形式、コード、リズム、フォービートすべての否定)、エリック・ドルフィー、ハービー・ハンコック、ジャッキー・マクリーンらの新主流派、スピリチュアリティ(精神世界)に接近するジョン・コルトレーンなどともに六〇年代の新時代のジャズの方向性を示唆したのである。そして、昭和四〇年一一月一五日、渡辺貞夫がバークリーでの留学を終えて帰国した。渡辺の自信に溢れた自由奔放なサックス演奏は沈滞していた日本ジャズに衝撃をもたらしたのである。このモダン派の活躍によって甦った日本ジャズの姿は宮古のジャズ喫茶にも響いていたのである。
 宮古市の教育は最大限効率的に生きることを叩きこむそれであった。一生、自分が効率的であるかどうかを常にチェックすることが創造的であると教えていたのだ。成績という数値に表されるような指標によって自分の成長を狡猾に計測すると言う教育だったのである。そこには生きると言う意味を発見する創造性や内的成長というものはない。また、エネルギーが溢れる情念に正しい方向性を示す理性を鍛える教育すらもない。理性を支え強靭主体的な個を確立させる情念を否定し、理性を軽んじた教育にスポイルされた人材は数知れずあった。宮古市の内的成長を否定する原因はこれである。宮古の教育は自立的な成長をもたらす完成・感受性を否定するものであった。日常生活の知覚的生活のリアリティや重みはかけがいのないものであるが、宮古市の教育は、プラグマテッィクな表現によって知覚的を伝達する日常言語の様式を否定していた。しかし、このような「閉ざされた意味」を問い直さなければならない。己の内面の病理を癒す力を停滞させてはならないのだ。自我を覚醒させる興奮」=「情熱」と内面を凝視する「苦悩」に出うことが内的成長の契機である。そこにコミュニケーションが生まれる。嫉み嫉妬からつぶしにかかる様な人間に囲まれても、悪意に満ちた言葉こそ真実がある。その毒牙を浴びたとしても、「苦悩」と「違和感」への感性があれば、かなりの生命力を養い生きる意味の成長、すなわち、内的成長を遂げることができる。美学にはそれを求めて来る人間が多かったような気がした。「知」と「情」が交流し、「苦悩」と「ワクワクする昂奮」の磁場である美学の空間が無くなって久しい。
 喧騒はコミュニケーションである。論争は喧騒のなかにあるのだ。論争ができるということはコミュニケーションが成立していることを意味し、論争の相手に対する一種の敬意がが必要となる。それがないと「喧嘩の効用=相互の教化的な効用・効果」である論争の構図が成り立たない。コミュニケーションの不成立となり、人間関係も無機質な透明な存在となってしまうのである。美学では、、哲学、政治、文学、音楽、美術、映画、友情、恋愛、と青年期に遭遇するあらとあらゆるモチーフ、トピック、テーマがあった。60年代からの教養主義の時代の残影があった。個人の嗜好を越えた良い悪いの一般的な当否をどうしても価値づけしたくて理屈をこねる喧々諤々の空間があった。独断的な独りよがりの考え、ドグマ=教条主義は否定された。アヴァンギャルド芸術の革命的な視点から権威主義も糾弾された。だが、寛容だった。評価の基軸が一般的な認識から権威主義であっても、一望俯瞰的な視座からの包括的な評価というそれがしっかりとしたものであれば受け入れられた。己の価値基軸、座標がしっかりとしていればそれでよかったのだ。
 美学のマスターは宮古市の岩船の山中に芸術の村という自己啓発と創造の空間を作った。なぜ、宮古市の行政はここを公共の内的成長の「場」にしなかったのだろうか。自然と共生し魂を没入させ、陶器の造詣美に触れ、絵を描き、音楽美を奏で、読書に沈潜し、「苦悩」と「昂奮」がぶつかり、人生の輝きと夢を求める内的成長への自己創出のエネルギーの充満する空間スポットを構築するべきだった。陰湿な環境や日常の平凡な倦怠に由って曇らされた審美眼も甦る場として必要だったはずだ。文化は多様性のカーニヴァル的闘争場である。絶えず大小強弱の対立を生起させ、内面の情念がぶつかることによって文化は創造される。文化は均質化するものではなく、安定状態を目指すものではなく、差異化している価値観の複合体としての視点において捉えられなければならないのだ。美学はまさに複数の対話的の相互作用の空間であった。
 芸術や学問が日常の中に生まれつつあるものをとらえきれず、日々の生活する人々の感性を奪ってしまう文化的惰性態になってしまってはならない。確かに常識の束縛された日常はマンネリズムによって象徴される。変化のない同じことの繰り返しは精神の停滞をもたらす。しかし、日常空間の中には精神を浄化し新たな啓示とインスピレーションを与える非日常が存在し、精神を活性化するのである。生活者が日常生活の中で培った感性と理性によって、芸術・学問との共同的な交信、総合的な連帯・結合を回復すべきである。そのためには理性(物事を筋道立てて考える能力)ー悟性(認識能力)-感性(刺激によって感じる感受性)の経路がスムーズでなければならないのである。
 人間は集団を形成をすることによって、生き延びてきた。その生き方に沿って遺伝プログラムが組み込まれている。人間の遺伝プログラムは集団の中で育まれる。起こりうる状況は、多様で複雑である。状況の観察能力、思考を学習する遺伝プログラムは有効な方法である。人間の特徴は、集団で育つがそれと同時に、集団を構成する一人一人は、異なっているということである。ところが、自然に集団の中から自然に学んでいたことが、ほとんど学習できない状況を迎えている。遺伝プログラムが文明が高度に発達した現在において具体化できなくなってしまっている。物事が多様に複雑になっているにもかかわらず、学習すべきことが増加している状況において、集団における人々を見る機会が減少している。どのように生きて行くかということを学ぶことが困難になっている。遺伝プログラムの具体化するために不都合な状況を改善しなければならないのである。
 宮古の末広町はモードに支配されている街だった。モードは流行のスタイルという意味である。モードの規範に合わせて、内在されたセンサー(感知器)が反応し、衣服や身体を変形させる街だった。ある種の強制力をもって感知器が動きだし、その動きに抗いようもなく巻き込まれ、唆され、翻弄され、身体の改造に取りかかるのである。モードを運ぶ東京の風は常に吹く。キャリーカートを押して東京からやって来る問屋の威勢よく話す標準語は地方都市の少年にとっては新鮮だった。なにしろ、リズムが良い。彼らはこの街が見えない規範にむかって身体を変形させる意志を持続させていることを確認し、新たなモードを持ってくるのである。
 見えない規範に合わせて身体を変形させることは衣服だけではなく、すべてがそうだった。音楽もそうだ。主導権を握るモードという鋳型によって、宮古市末広町は情報と記号に右往左往しながら、金縛りにされていたのだ。しかも、モードはめまぐるしく変化する。見えない規則を遵守するが、規範自体が目に見えないので、変化する身体には常に不安がつきまとう。この透明なモードの主導権(イニシアティブ)を奪い返すためには、論理を意味するロゴスを鍛え、感情のエネルギーを発するパトスのエキスを吸い、緊張感のある生を求め、総合的な身体の感受性を磨くことである。人間の厚みを増すような知的教養、己の内面を支える価値基準となるような座標軸を構築し、トータルな身体的な感情性が備われば、十分に可能と思われる。だが、広告という媒介を通じてはじめて商品を比較する時代においては、広告の生み出す過剰なる差異性が商品の価値に帰着しえない、あるいは商品自体はないイメージの価値を付加することになると事情が異なるのだ。
 差異こそ価値を生みだす。本来商品を語るための媒介にすぎない広告がそれ自体過剰な差異を生みだす商品となって、他の商品と共に売り買いされるために、有名タレントを使って印象付け、価値を付加するのである。過剰な差異はイメージの世界に由来する虚像をもたらす場合もある。天地真理は過剰な差異を生みだす一人だった。マス・メディアによって、人気の人工的生産と流通が中心となり、虚像がイメージ化される。多種多様な心理的需要を充足させることによって、万人共通のアイドルが誕生する。
  天地真理は、白雪姫のようなルックスで60年代から続いた清純派アイドルの系譜を継承していた。宮古にも反日常性の天地真理というモードに反応した。天地真理には都市空間におけるさわやかな季節感が感じられた。このモードは宮古まで及んだ。だが、宮古には都市空間の郊外メルヘンの広がりはなかった。若干、五月町の岩手銀行の社宅周辺がそれを思わせる空間があったが、自分には若葉、小鳥の囀りなどのメルヘン空間は想像でしかなかったのだ。光りが淡く和らぎ、どこからともなく花の匂いが香り、穏やかな陽射しが注ぐ空間は幻想世界だった。 天地真理は、オイルショック以後人気が凋落した。まるで、高度経済瀬長を終えた日本経済の低迷と歩調を合わすかのようだった。短い栄光と慌ただしい没落のはずなのに、なぜか、天地真理時代が長く感じられたのはなぜだろうか。
 低成長時代の暗さに合わせるかのように山口百恵の人気が急上昇した。だが、山口百恵のブルーなイメージは好感がもてなかった。性的挑発は刺激的だったが、あのブルーな暗さは好きになれなかったのである。ポップス調とはいえ、俗謡・流行り唄に見られる演歌的な退嬰的哀調趣味が顔を覗かしているようで嫌悪の対象でもあった。もっとも、大胆な大股開きのピンクレディーが登場する頃は、もう高校生であり、興味はまったくなかった。
 
 都会派ムード歌謡は、ポップス的なムード演歌に移行した。五木ひろしのムード演歌が人気を呼んでいた。五木とは後に明治大学マンドリン倶楽部で共演するが、宮古小学校の体育館で五木ひろしを見た時、まさか五木の演奏するとは夢も思わなかった。ましてや、五木ひろしのCDの解説に彼の栄光の軌跡を書くなど夢にも思わなかった。さて、複雑な70年代の歌謡曲だが、まったく、唱法が違う戦前の往年の歌手たちがアイドル歌手並みにテレビのブラウン管に登場した。いわゆる、これが「なつかしの歌声・名曲」のブームである。今にして思えば、これに洋楽を音楽空間にした昭和モダンの風景がテーマになっていれば、よかったような気がする。何しろ、このブームは日本調の東海林太郎が絶対的な人気を誇っていたから、そのような趣向は十分な期待できなかったのかもしれない。晋平節の亜流と揶揄された東海林太郎がそのまま演歌の源流のようなイメージをあたえていた。この東海林太郎のリバイバル隆盛時代、クラシックの正統派藤山一郎の存在は全く世界が違うという印象をあたえていた。クラシックの名盤が流れる家庭にも流行歌というキャッチフレーズで、藤山一郎一郎の登場があったのである。

 このような70年代の歌謡曲はカテゴリーのなかで多極化を迎えたのである。そして、70年代の後半になると、演歌とフォークが結合した。しかも、歌謡曲とますます結びつきを強めるフォークは、ポップス系ロックとともにニューミュージックという新しい名称になり若者文化のとして歌謡曲の主流となった。アイドル歌謡はロックバンドの8ビートに乗ってリズムのみが強調され、歌謡的な情緒が消えてしまったのである。繰り返しになるが、この明大マンドリン倶楽部での四年間は、8ビートに苦しんだそれなのかもしれない。
 
 幼いころに心に刻まれた事象・体験に潜む重要な意味はある程度の人生の年輪を経てから言語化できるが、その当時は咀嚼能力は乏しく美しく配列された数式のように記号化をできなかった。連続体としてある世界、多用にして変化にみちた特有の相貌、のっぺらぼうな対象物に切れ目を入れ分節化し相互に分離することによって名称を与え、事物を生成することができなかったのである。名づけるとは一種の創造行為であり、所与性への正統な無視である。あたらえられた物事をそのまま受け取らず、既存の社会が与える名称の体系から離脱して自由自在に変形し組みかえながら一の世界命名者と事物(対象)の生きた関係を創り上げることが重要である。だが、いくら言語機能が貧困でも、少年期の感覚は、その時点で言語化不能であっても、確かな感覚として根を張り心に深い刻印を記すのである。これが情動反応の原型となるといえよう。鮮明な記憶はやがて難事・辛苦を打ち砕く価値基準の座標軸となるのである。
 価値とは物ごとの値うちである。価値判断ははそれを決めることであり、どれ程有益であるのか、重要であるのかをはかる意味であり。基準・尺度である。事実判断は客観的だが、価値判断は主観的なものに陥りやすい。価値の基準は西洋近代においては、自我を出発点にした人間の理性に置かれていた。価値判断の唯一の根拠だった。だが、このような理性信仰主義への反省、西洋的な思考への反省も価値判断の妥当性をめぐる議論をもたらしたといえよう。
 小学校に入る前の音楽体験に欠かせないのは、やはり、テレビのマンガ主題歌である。《エイトマン》《鉄腕アトム》《鉄人28号》《風のフジ丸》《オオカミ少年ケン》、幼稚園に入る頃になると、《スーパージェッター》《ウルトラQ》《ウルトラマン》《オバケのQ太郎》などは幼なかった私の心に刻まれている。そして、小学校に入ると《宇宙少年ソラン》《黄金バット》《ウルトラセブン》《巨人の星》といったところである。高学年になると、《あしたのジョー》《マジンガーZ》《仮面ライダー》《ガッチャマン》あたりだろうか。高が漫画のアニメ主題歌と言う人もいるが、60年代から70年代は、明らかに8ビートのリズムへの進化の過程でもあった。
 こどもの歌といえば、童謡がその代表である。唱歌は道徳性が強く、国家主義的教育が反映されているが、童謡には、西條八十、北原白秋らの近代市民感覚と野口雨情の民俗社会(わらべ唄の世界)がある。後者は多くの共同体の境界的領域、いわゆる、土俗の世界であり、暗い負のマイナーなメロディーのそれなのである。己の民俗世界・境界領域の入り口は、横町にあった「おしん山」だったような気がする。神社の入り口に続く苔の緑色に歴史の重みを感じさせる石の階段の踏み入れた時、得体のしれない不思議な霊性を感じた。少年時代の神秘体験は今思い出しても不思議である。
 「おしん山」は遊びの場だった。遊びは非日常世界の空間である。日常の連続性とは無縁なのだ。日常生活からふっと浮かび上がり、完結する。完結性を失い、気分の昂揚がひたすら感情的に継続すると、それは単なる無秩序な痴乱騒動にすぎないのである。遊びの内実は、合理性や効率性に拘束されることなく、各自の自由な主体性、創意工夫によって気分を昂揚させ、日常世界とは違った華やかさを帯びるのである。しかも、神秘への畏怖の念を忘れたかのようにである。探検,基地作りなどは、ルール・作法・段取り・仕掛けの存在によって創造されるものである。
 子ども同士の遊びは集団を形成する。子どもは集団の中で育つ。キャラクター、年齢の違う人々とどのように付き合うか、非常に重要である。人間社会は多様で複雑である。子ども同士の遊びの中で集団の中で様々な人々の多様な行動様式を観察し、その意図やいろいろな発想、やり方を学習し、社会生活の様々なルールを学ぶのである。
 気分の昂揚の終焉を迎えたとき、言いようもない、夕暮れの寂しさを感じたものである。冒険心から攻撃性が失われた時でもある。センチメンタルな心情を自覚した瞬間だった。常安寺から聞こえてくる鐘の音は、民俗的領界へ誘う哀しいわらべ唄のメロディーのようだった。音の陰影を聴きとる能力をこれに由って養ったように思われる。己の野口雨情―中山晋平における民俗領域・童の世界への原初はここにあるといえよう。近代リアリティ世界の感覚と概念では捉えきれないできない領域だったのである。

リアリティとは人が感覚を通じて認識する世界のあり方である。視覚で捉える三次元の空間、物理現象の経過として感じられる一次元の時間がリアリティーを構成している。つまり、人間の現世的な感情を忠実に表現した世界なのである。だが、それは近代の固有の概念と感覚にすぎない。近代固有のリアリティは目に見える世界、現世に限定される。人間の人智を越えた超自然、怪奇・神秘な神霊世界、宇宙などに畏怖の念、恐怖の情念はその範疇には入らないのである。近代固有のリアリティ概念や感覚が成立したのは、マックス・ウェーバーが指摘した意味での近代社会の大規模な世俗化である。合理的態度・思考を明示する理性が言葉に依拠することによって、登場することがそれを意味していた。超越的世界から具象性が喪失することによって、此の見える世界がひとびとにとって唯一の具象的世界となる。例えば、近代絵画では、すべての現世に存在する諸影像を忠実に再現し、構成するのみである、これがいわゆるリアリズム(写実主義)である。

 冒険は攻撃性から生まれる。山、海、極地、密林など人間の居住が不可能な空間に敢えて挑むことは自分を試す或る種の行為である。攻撃性は冒険へ駆り立てる。心理学の言葉を拝借すれば、若者の通過儀礼としての試練と言えよう。それは子供の冒険心も同様である。だが、目的地に入ると、その環境は子供の自惚れ・錯覚を解毒する。自然との調和・共生のなかに己の存在があり、自分の無力、一人ではなにもできないということを気づかせてくれる。だが、子供の冒険は遊びであり、人間のバランスのとれた身体感受性を育んでくれる。「おしん山」では、よく「かくれんぼ」をやって遊んだ。この遊びを通じて、鬼の心性、恐怖、不安、羨望、敵意、いわゆる「邪念」を察知・感知し、微弱な身体信号を敏感に感知するセンサーを体得したような気がする。鬼が近づいてくる。それは「邪念」の接近だ。自分を発見しようとする一瞬悪意に満ちた気配。こちらも息を殺して、見つからないように気配を消す。だが、神経を研ぎ澄ましているので緊張する。心臓の心拍数が上がる。発汗する。このとき、初めて体臭の変化というものに気づいた。隠れている場所によっても微妙に変化する。これは、非常にすぐれた身体信号を敏感に感知する能力を開発することにつながる。自分を攻撃してくるものからの悪意、気配を察知する総合的な身体感受性を磨く訓練になるといえる。そう考えれば、「かくれんぼ」という遊びの起源は狩猟のために敵の企図を見やぶる感覚訓練だったのではなかろうか。
 原始の時代、遠き遙か時代の人間の祖先は鬱蒼とした暗い森の中で、生き延びるためのスキルが必要だった。凶暴な肉食獣、敵対関係にいる異族らから発せられる身体信号を感知し生存競争に勝ち抜くために感覚を統御し、錬磨する為の訓練である。これが「かくれんぼ」の起源に違いない。こどもは「かくれんぼ」という遊びによって感知する能力を高めて行ったのである。
 身体は思考の母胎である。精神は貧相だが、身体の言葉は複雑であり豊富である。身体こそ一寸の休みなくさまざまに感受し、多種多様な信号を送っている。身体はリズム感に溢れ複雑であり豊富である。しかも、自己矛盾を無意識に平気で行う深い海なのだ。
 街で生活していると、街路に溢れる大量の音楽、おしつけがましい広告などの視覚や聴覚において刺激が多すぎることは確かだ。だが、知覚の回路を停止する必要はない。身体のバランスを乱す表通りのノイズから身を守るために感受性の感知機能を遮断する必要はどこにもない。必要な知覚情報をあえてとりこぼすことはないのである。表通りから通り二本隔てれば、総合的な感知機能、身体的感受性はいくらでも磨く身体能力開発の空間は存在していたのである。
 直観とは、物ごとの本質を理性の作用を経ず、推理や知識をなどにたよらず、直接に物ごとの本質を捉えること、一瞬にして真理を感じ取ることである。遊びを通じて、情緒的な知的直観を磨くことができる。だが、直観力は思考の複雑なメカニズムが構築されていないと意味がない。一見、矛盾のように思われるが、直観が鋭くても、感情体系が複雑で深層心理、情念に陥りやすい人は真理への到達が遅いので、高性能な事務的処理能力を高める思考のトレーニングが必要である。直観が理性と関係があると言えるのはそのような意味からである。
 音楽は世界を知覚させる一の手段である。そして、認識の有効な道具でもある。それは啓示でもある。天啓は神が自然現象を通じて、人間に意思を伝えるという意味だが、知性や情緒に潜在し今まで意識しなかったその潜在的な力をを覚醒させ、新しい生命力をもたらし、己自身の可能性を広げるそれでもある。そのような開眼の体験は誰にでもあるといえる。大晦日の深夜は異常な感情世界だった。また、それは事実と仮構という新たな問題を提示してくれた。人に伝えたい強烈なイメージは記憶の不鮮明によって、現実的対応物を失い非実在の事柄や人物のイメージが先行する場合がある。そうなると、後追いの資料の裏付けによる記述は別にしても、少年時代の不鮮明な記憶に材料を求めた表現は、一種の極端化の思念によって、一方的な想像的表現に振り子が傾むいてしまう危険性があるのである。これは極力避けたい。だが、鮮明な記憶の繰り返しの作業は過去を現在に育てる創造である。
 子供が出会う事実や現象は知識や知恵を育む種子である。多種な情緒や豊かな感受性はその肥沃な豊饒な土壌である。美しいものを美として感じる感覚、未知なるものと遭遇した時の感激、このような感情が呼び覚まされると、知識欲は高まり、対象へのしっかりとした知識が主体的に身に着くのである。人間は様々な変化に富んだ事態に遭遇する。その困難に対峙しなければならない。生まれながらにして銀のスプーンをくわえて生まれてきたとしても、どんな風光明媚な環境で生活してきたとしても、難事の連続である人生の本質や辛苦から逃げることはできないのである。だが、絶対的な己のものさしともいうべき座標軸=「喜びや美の基準」があれば日々の難事や辛苦を軽減し消し去ることができるのである。なぜなら、自分の体験によって得た価値基準は他者によって惑わされることなく、自分の内面から支えてくれるのである。自己の体験から生まれた独自の軸、いわゆる、絶対的な座標軸の存在が、その人の苦しみを緩和し生きることへの決め手・秘訣になるといえる。
 感動は自己の価値基準を生みだす。「生きる」とは、現実を現実として自分のものにすることである。感動を知悉してる人は強い。音楽の感動は自己の価値基準の座標軸になりうる。音楽の体験の記憶は一生残る。鮮烈な記憶は再創造されるのである。記憶の成長は感受性を磨く最大の手段である。過去は繰り返し再生されることによって、過去を育てるのである。或る種の生々しい質感となり、抽象的な感覚として現在に再現されるうるものに生まれ変わるのだ。
 大晦日の「年忘れ大行進」は、私の地方では夜中放送していた。当時は、録画放送ということを知らなかったので、随分、昔の歌手は体力があるのだと思っていた。あの頃は、大晦日といえば、レコード大賞、紅白歌合戦、深夜のなつかしの歌声の総集編「年忘れ大行進」が音楽番組の三大イベントだった。大晦日の「年忘れ大行進」で印象的だったのは、昭和四十七年である。この年、東海林太郎が逝去。なつかしの歌声の世界は藤山一郎が先頭に立つことになる。これを妬ましくおもっている「なつメロ」愛好家が多い。一般に藤山一郎のファンは多いが、この名曲を「なつメロ」という蔑称をつけて愛好する人々には藤山一郎を忌み嫌い誹謗中傷する輩が非常に多いのである。零落の美に耽溺に耽溺するもの、猥雑世界を遠くから優越感を持って眺めている者、音楽コンプレックスから、唸り節西洋演歌といわれる日本の声楽家を礼賛する輩など、「異常ななつメロ愛好者」の九九パーセントは,優秀な音楽技術に裏付けられた藤山一郎の格調と正統派的模範歌唱が嫌いらしい。確かに音楽は好き嫌いが横行し、その選好が最優先される。だから、仕方がないが、だが、もし、藤山一郎が先頭に立たなかったならば、このブームは東海林太郎の死と共に終焉していたであろう。
 さて、昭和四七年の年忘れ大行進のステージだが、ステージには、円形のテーブルがあって、そこに座っている歌手たちが出番になると、立ち上がり中央の舞台のマイクロフォンに向かって歌唱するのである。だが、伊藤久男の《暁に祈る》、ディック・ミネと美ち奴の共演で《二人は若い》、藤山一郎が《ラバウル小唄》、灰田勝彦が歌った《ブルームーン》などこのくらいしか、記憶がない。後の番組資料で分かったが、この部は、田端義夫・《別れ船》、松島詩子・《上海の花売娘》、小畑実・《急げ幌馬車》、林伊佐緒・《サーカスの唄》、田谷力三・羽衣歌子・《天然の美》、ディック・ミネ・美ち奴・《二人は若い》、霧島昇・菊池章子・《旅の夜風》、灰田勝彦・《ブルームーン》、渡辺はま子・《ブンガワン・ソロ》、淡谷のり子・《アイ・ラブ・パリ》、田端義夫・《梅と兵隊》、二葉あき子・《めんこい仔馬》、伊藤久男・《暁に祈る》、藤山一郎・《ラバウル小唄》だった。
 暮れの大晦日の番組ではないが、昭和四十九年の「郷愁の歌まつり」でも同じようなセッティングがあった。すでに、中学生であり流行歌関係の本を読み漁っていた時期だったから、記憶ははっきりしている。この第二部のステージのオープニングは、東京混声合唱団による《隣組》だったと記憶している。この歌のオリジナル歌手の徳山璉はすでに没していた。徳山璉は希代のユーモラスなバリトン歌手である。藤山一郎が美しいテノールの音色をもつバリトンに対して、徳山は重厚なバスバリトンでオペラ向きの声だった。《カルメン》のエスカミリオなどは彼のはまり役であり、名演を見せた。ベートーヴェンの《第九》の独唱でも活躍した。レコード歌謡では《侍ニッポン》《天国に結ぶ恋》がある。
 「なつかしの歌声・名曲」ブームは、悲惨な戦争の体験と戦後の混乱を乗り切った世代(明治・大正生まれ)から、高度経済成長の経済的繁栄で安定した老境を向かえた中高年層が、ノスタルジアに浸り歌に郷愁を求めたことにある。それは「明治百年」という歴史的区切りも影響している。それは愛国心の自覚である。愛国心は自分が所属する国を愛する心、郷土愛に根ざしている。郷土愛はもともと、愛国心と切り離されたものであるが、政治によって強固な結びつきを持つのである。戦後の日本は愛国心を持つことはタブーとされてきた。戦後、愛国心は、民族自己中心主義が強調され、過去の戦争や軍国主義復活につながるものとして、それに抵抗を・批判を持つことが正常な思考とされてきた。だが、ナショナルな心情や郷愁、日本精神、伝統を求めることは戦争・軍国主義に連結するわけではない。また、戦前の音楽を軍歌一辺倒にしてしまい、都市文化を象徴するモダンな洋楽系流行歌を無視する音楽業界やそのブレーンであるクラシック音楽の研究者に対して抵抗もあった。戦前の日本が農村を犠牲にした側面があたとはいえ、明治大正期にヨーロッパモダニズムを咀嚼し、昭和初期アメリカモダニズムを謳歌した異文化交流による文化国家であったことを認めるべきである。

[愛国心について]
 教育基本法改正に関連して、ある朝にテレビから何気なしに聴こえてきた「愛国心」という言葉が非常に気になった。「愛国心」という響きにはなぜか緊張感が走る。今、大型連休前後に教育基本法改正案の国会提出を目指す政府は、教育に愛国心の色を濃くするかどうかを論議している。そこで、私なりに愛国心について考えてみたいと思うのである。

 愛国心は「自分が所属している国を愛する心」と定義できる。自分の育った郷土を愛する心情に根ざしているが、国家体制や政治形態に感情的な関心を持つものでもない。つまり、愛国心は郷土愛・感情が根源にあるが、政治統合によるナショナリズムにいきなり結ぶつくものではないのだ。

 愛国心の根底にある郷土愛とは、幼き日に遊んだ菜の花畑、田園、山川野原の風景、夕暮れまで遊びほけた路地、町から郊外への路地、兄弟と口ずさんだ童のメロディー、家族で食卓を囲んだ日々、味噌汁の湯気やご飯が炊けたときの仄かな香り、薪や炭の匂い、希望に満ちながら未来を思い描いた思い出、というような郷愁を誘う感情や情緒である。

 このように郷土愛は祖国よりも狭い地域で育まれ、自然に形成された根源的な感情であり、自国を愛する心・愛情の源泉なのである。郷土愛が自然に形成される感情に対して、愛国心は、ナショナリズムを喚起するために政治的作為・人為的に形成されるものである。つまり、教育、世論、文学作品、音楽、歌、歴史的な風景を通して、国民の情緒に訴え、郷土感情の魂にふれ、郷土・家族を思う感情を祖国愛という自分の所属する国家を愛する心に高めることによって形成されるのである。郷土愛→愛国心の間に政治統合という目的で国家権力の作為が介在するのだ。郷土愛と愛国心は政治の作為によってリンクする。そして、故郷と祖国が一体化するプロセスにおいてナショナリズムが作られるのである。

 自民党は公明党と意見を対立させながら、愛国心は、国家形態や政治体制・統治機構とは切り離されたものであり、民統合の機能をもつナショナリズムとは違うことを強調している。だが、愛国心の健全な側面だけをのべ、危険な罠については話題を避けているような気がした。それは、私の勘違いだろうか。

 愛国心を持つことは悪いことではないが、政治形態によっては、エスノセントリズム(ethnocentrism)、つまり、自民族の文化を最高と考え、他民族を劣等・劣ったものとみなす自民族中心主義に陥る危険性がある。毎回そうだが、日本において愛国心という言葉がでると必ず、郷土愛→愛国心→極端なナショナリズム→独善的国家・悪しき軍国主義の侵略という過去の暗いイメージがどうしても拭いきれないのである。

 確かに過去の歴史において、国家主義的愛国教育を通して、人間の内奥にある感情・情緒に訴え、郷土愛を賛美し愛国心を喚起しながら、それをあたかも自立的な行為・行動であるように見せかけ、支配への自発的な服従を形成した忌まわしき歴史事実があった。だが、現代は戦前とは国家社会のあり方が違う。国民主権、国際紛争を武力で解決しないという戦争放棄(自衛隊という矛盾があるが)、法の下の男女平等など内容の是非はどうあれ、一応は民主主義である。民主主義国家としての日本が、愛国心を欧米の国々と同じように持つことはいけないことなのだろか。

 過去の戦争の反省が足りないという問題と、民主主義の日本が愛国心を持つことは別問題である。なぜなら、心情的に国を愛することは良いことでも、国家体制・政治体制によって、愛国心の意味が違ってくるからである。今一度、愛国心の「正と負」を考える議論が必要であるといえよう.。そして、正常な感覚で愛国心を持てる国としての自覚を持つことによって、輝ける日本の未来を構築すべきである。

 
 なつかしの歌声が系統的にテレビに登場したのは、昭和四十年十月から放送された『歌謡の百年』という番組からである。それが発展解消したのが、『なつかしの歌声』だった。少し遅れて、NHKでも同様な性質の『思い出のメロディー』が放送された。
 さて、話は昭和四十九年の「郷愁の歌まつり」に戻るが、戦時歌謡の《暁に祈る》(伊藤久男)《愛国の花》(渡辺はま子)《出征兵士を送る歌》と続き、戦地から故郷を偲ぶ歌として霧島昇の《誰か故郷を想わざる》、余韻を残す昭和モダンをテーマに松島詩子が《マロニエの木蔭》、藤山一郎が《青い背広で》を美しく澄んだ響きで歌った。昭和モダンの風景の哀歓が感じられた。大陸メロディーということで、渡辺はまこ子が《いとしあの星》と伊藤久男が《熱砂の誓い》を、南国メロディーとして灰田勝彦の《ジャワのマンゴ売り》が続いた。そして、南方の前線で戦う戦う勇士を歌った歌謡として、藤山一郎、灰田勝彦、霧島昇がマイクロフォンに立ち、それぞれが《燃ゆる大空》、《ラバウル海軍航空隊》、《若鷲の歌》を歌い、《同期の桜》を合唱した。そして、次が淡谷のり子の《別れのブルース》。この番組の最後は、藤山一郎の《夢淡き東京》だった。声量の豊かさ、正確無比の歌唱、卓越した表現力、素晴らしいの一言である。この《夢淡き東京》は敗戦後の瓦礫の山となった廃墟化した東京の空間に潤いとさわやかな印象をあたえてくれた。その年暮れの「年忘れ大行進」は、買ったばかりのカセットデッキをテレビの前において録音した思い出がある。だが、コロンビアトップ・ライトの司会によるなつかしの歌声の総集編だった「年忘れ大行進」は、これが最後となった。翌年からは「燦めく日本の歌」に変わって司会も宮田輝になった。番組の雰囲気もすっかり変わり、ふつうの歌謡番組風になったのである。これには、SPレコード歌謡ファンはがっかりしたにちがいない。中学生の私でもそう思ったぐらいだから。 
 私が最初に名前を覚えたSPレコード歌謡の歌手は誰かと言えば、東海林太郎と上原敏である。私の小学校時代の同級生の父親が元ポリドールの専属歌手だったということで、彼の家に遊びに行くと東海林太郎の写真が飾ってあった。だが、その歌唱に魅了されることはなかった。今して思えば、東海林太郎には失礼だが音楽の美を感じなかったのである。だが、やがて、東海林太郎が歌手になる以前の経歴を知るにおよんで、そのドラマティックな生き方に興味を持つようになったのである。大正デモクラシーと学生運動黎明の時代、佐野学の教えを乞い、マルクス経済学の学徒から満鉄へ、昭和モダンの翳が蔽う時代に歌手デビューするという劇的な生き方が東海林太郎への大きな関心だった。国粋的な心情を満足させる道中・股旅歌謡で一世を風靡した姿しか知らないファンには東海林太郎の生きざまが意外に映るにちがいない。
 上原敏は、野球選手から歌手になったと聞かされて興味があった。王・長島対江夏・村山の対決に血肉躍らせていたのだから無理もない。上原敏は専修大学で活躍し、わかもと製薬会社の野球部でも鳴らした。「ノン・プロ」という言葉もこのとき知った。上原敏がまだ、青年松本力治の頃の昭和初期、当時は東京六大学の全盛時代。まだ、プロ野球がなかった時代である。早稲田の小川正太郎(早稲田)対宮武三郎(慶応)の対決は神宮を揺るがした。そして、昭和モダンの華やかさとともに日米野球もスタートした。
 昭和六年、ルーゲーリッグ、大リーグの速球王・グローブら全米オールターチームが来日したとき、対戦したのが、東京六大学のチームだった。初戦の立教大学は七-〇で敗れた。大リーグ選抜スター軍団に一大学チームが七-〇とは凄いことである。早稲田は途中まで五-〇でリード、あわや金星かといというところまで追い詰めたが、結局,八ー五で敗れた。早稲田の伊達正男の好投が光った試合だった。また、明治の田部武雄の俊敏隼のごとく走る走塁も大リーガーたちを驚かした。ちなみに明大は四-〇で敗れたが、これもまた大健闘の試合である。このとき作られた日米野球応援歌・《日米野球行進曲》は古関裕而の作曲によるものだった。昭和モダンと日米野球の時代である。また、昭和六年は《紺碧の空》が古関裕而によって作曲され、神宮を揺るがしたときである。昭和九年にベーブルース一行を相手にするために結成された全日本チームが母体になって巨人軍が結成されている。
 昭和六年の大リーグのチームも錚々たるメンバーだったが、コニー・マック率いるこのチームも凄かった。ベーブルース、ルー・ゲーリッグ、前年の三冠王・ジミー・フォックス、タイガースの猛将・ゲーリンジャー、アメリカンリーグの速球王・ゴーメッツらがやってきたのだ。銀座通りの人並みは世紀のホームラン王ベーブ・ルースを見ようと殺到した群衆である。手に手に日米の小さい旗を持ち熱烈な歓迎ぶりだった。帝国ホテルの前で群衆にこたえるベーブ・ルースの写真は有名である。日本チームはこのオールスター軍団に圧倒的な力の差を見せ付けられたが、沢村栄治、伊達正男の好投は野球ファンを熱狂させた。この年は、東海林太郎の《赤城の子守唄》が大ヒット。翌年には、大阪タイガースも結成〔昭和10年12月10日)。《六甲おろし》も古関裕而に作曲され、ジャズシンガーの中野忠晴がレコードに吹込んだ。中野忠晴は《小さな喫茶店》のヒットで知られている。
 昭和11年7月1日、プロ野球がスタートした。その年は皇道派の青年将校たちが国家改造し軍部内閣樹立のクーデターを敢行した「二・二六事件」が起きている。東京・大阪・名古屋で敗者復活制のトーナメント大会が行われた。藤山一郎のモダン都市の讃歌・《東京ラプソディー》が職業野球といわれたプロ野球の創成期を祝うかのように流れた。また、淡谷のり子が歌うシャンソンも妖艶に流れ、松平晃が歌う《花言葉の唄》もモダンの香りがした。また、洋風演歌師・楠木繁夫の《女の階級》もヒットした。
 大阪大会では宮武三郎、山下実らのホームランが飛び出した。だが、この職業野球と言われたプロ野球の開幕を迎えたが、全米を盗塁で度肝を抜いた田部武雄が職業野球の世界にいなかったことは惜しまれる。プロ野球の公式戦でのプレーは一度もないが、田部武雄の天才的なプレーは野球殿堂入りを記念した銅版のリレーフ二しっかりと刻まれている。俊敏無比のきらびやかな走塁、ストライドが広く、ピッチが速く、中間速度が減速せず、スライディングに結び付く盗塁、鋭い打撃、スピード感溢れるアクティブなフィールディング、すべてのプレーに及ぶ心理的な読み、判断、大胆な決断、この銅像に記憶されているのだ。広陵中学時代の春の選抜準優勝、大連実業時代の満洲球界の華々しい活躍、東京6大学野球にスリルと流線形時代のスピード感をもたらした明大時代、大東京巨人軍の二度に渡るアメリカ遠征においてアメリカの広大な大地を疾風の如く駆け巡ぐり、アメリカの野球ファンの度肝を抜いた盗塁は輝かしいメモリアルであった

 田部武雄は、巨人を去った後第二の故郷満洲に渡った。清浄な空間を求めていたとはいえ、大連港で下船する田部の姿には寂しさが漂っていた。田部はしばらく野球から離れていたが、ふたたたび満洲の広大な大地でのびのびとプレーを再開した。大連実業団で活躍し、都市対抗野球に再び出場しファンを懐かしがらせた。太平洋戦争が勃発すると、満洲で応召され、沖縄戦で戦死し生涯を終えている。巨人を去り、プロ野球に登場し中たことが、彼の第一の非運ならば、第二のそれは、家族を残し故郷に殉じた満州を離れ激戦の戦地・沖縄に赴いたことである。同地では明大で一緒にプレーした松木謙治郎(阪神)が従軍していた。アメリカの青い空を駆け巡った天才韋駄天・田部武雄も悲劇の選手の一人だった。『天才野球人 田部武雄』(彩流社)に彼の非運に満ちた生涯を記した。
 太平洋戦争では、日本の野球史に残る多くの名選手が散華した。フィリピンへ向かう途中、アメリカ潜水艦の攻撃を受け輸送船が沈み戦死した沢村栄治、フィリピン戦線で亡くなった沢村のライバル景浦将、豪雨と炎熱の地獄の戦場、ビルマ戦線で亡くなった巨人の炎の如く闘志満々のプレーで野球ファンを湧かせた吉原正喜、沖縄の南海の海に散った神風特別攻撃隊の石丸進一(名古屋軍)、サイパンで玉砕した村松幸雄、鬼頭数雄など、戦後も活躍してほしかった人たちが祖国日本のために命を捧げたのである。
 歌手の上原敏は地獄の島と云われたニューギニアで戦死した。上原は、野球がらみで秩父文芸部長の知遇を受け、ポリドールへ入社することになった。

「秋田県・大衆音楽の先駆者―東海林太郎と上原敏 

 
秋田県は、日本の近代音楽の人材の宝庫である。小松耕輔、成田為三、斉藤佳三、深井史郎らがその歴史を彩っていた。また、ヴァイオリンが伝統的に非常にさかんな地域でもある。そのような音楽風土を持つ秋田県において、大衆音楽の分野といえば、東海林太郎と上原敏を挙げなければならないであろう。 
 東海林太郎は、明治年、秋田市の生まれ。秋田中学卒業後、早稲田に学び同大学の研究科ではマルクス経済学の佐野学に師事した。その後満鉄(南満州鉄道株式会社)に入社したが、音楽の情熱を抑えることができず、同社を退社した。時事新報社主催の音楽コンクール・声楽部門で入賞をし、歌手になったのである。昭和9年、「赤城の子守唄」「国境の町」をヒットさせ一世を風靡し、その後、東京芸大出身のクラシックの正統派・藤山一郎と歌謡界の「団菊時代」を形成した。 
 藤山一郎が昭和モダン・都市文化の讃歌を高らかに歌ったことに対して、東海林太郎は股旅・ヤクザ小唄・道中歌謡を中心に江戸情緒溢れる日本調歌謡で人気を博した。この二人はクラシック愛好者に流行歌を認識させた功績がある。 
 東海林太郎はポリドールレコードの看板歌手として君臨した。だが、ポリドールは、コロムビア、ビクター、テイチクなど各レコード会社とヒット競争を展開するさなか、東海林太郎の一枚看板では不安があった。 
 ポリドールは東海林太郎の登場によって、ヤクザ小唄・股旅歌謡の分野を確立したが、もっと広く庶民層を流行歌にひきつけるために、浪花節系の道中歌謡をさらに泥臭く歌える歌手を求めだしていた。しかも、東海林太郎とは違った個性の歌手をである。そこに上原敏が登場したのである。 

 
上原敏は、本名松本力治、明治年、大館市の生まれである。大館中学時代は野球で活躍し、専修大学でもプレーした。「わかもと製薬会社」の宣伝部に就職したが、大館中・専大を通じて先輩にあたる秩父重剛(浪曲作家・ポリドール)との縁でポリドール専属歌手になった。 
 昭和一二年、上原敏は、「妻恋道中」「裏町人生」「流転」とつぎつぎとヒットさせ、東海林太郎と並ぶ活躍を見せ、ポリドールの期待に応えたのである。澄んだテナーの響きと独特の艶歌唱法は、東海林太郎とはまた一味違った魅力でもあった。
 東海林太郎は、凛とした直立不動の姿勢で生涯現役を貫いた。紫綬褒章、叙勲など数々の栄光に浴した。享年歳で波瀾の生涯を終えている。一方、上原敏は、昭和年、ニューギニア戦線で戦死し、歳の生涯だった。歌手生活も昭和年から年までの7年間と短かった。 
 東海林太郎と上原敏はともに人気歌手でありながら、二人の人生は違っていた。とはいえ、ともに秋田の地に生まれ、自らの感性を育んだ。東海林太郎と上原敏の歌声はいつまでも人々の心から消ることはないであろう



 上原敏については拙著『流行歌手たちの戦争』(光人社/発行者・高城直一)を参照して頂きたい。野球と流行歌は灰田勝彦が最初に人気を高めた。昭和十一年、二度目のアメリカ遠征中の巨人不在のままプロ野球が開幕するが、同年、灰田勝彦はビクターに入社した。奇しくも野球の申し子長嶋茂雄も同年二月に生を受けている。また、巨人軍の第二回アメリカ遠征が行われたのもちょうどその頃である。昭和十五年映画・『秀子の応援団長』では、灰田勝彦がグランドで《燦めく星座》を夜空を見上げながら歌い、これによって、全国的な人気歌手になったのである。歌と映画がヒットした頃、水原、スタルヒン、川上、千葉、吉原らの活躍で巨人は第一期黄金時代を驀進していた。巨人軍の歌、《野球の王者》がそれを象徴している。
 さて、『秀子の応援団長』だが、このモダン感覚にに溢れた映画にも巨人の選手が出演した。また、太宰治はこの《燦めく星座》が好きで酔えば酔うほどにこの歌を歌ったそうだ。永井荷風がこよなく愛した《裏町人生》の作詞者・島田磬也は酒場でよく太宰治をみかけた。戦後、太宰はこの《燦めく星座》の〈思い込んだら命懸け〉の件を酔うほどに何度も繰り返して歌っていたそうだ。昭和二十二年六月十三日、愛人山崎富栄とともに玉川上水に入水する直前の頃である。
 長嶋茂雄は灰田勝彦の立教大学の後輩になる。長嶋は灰田勝彦の《鈴懸の径》が好きだった。この歌がヒットした頃は、太平洋戦争の戦火が激しく熾烈を極めた時代である。また、灰田が歌う《新雪》も戦時色を感じさせないタンゴ調の歌だった。
 長嶋茂雄には立教大学の青春があった。長嶋が最初に憧れた選手は阪神の藤村富美男である。藤村は昭和九年の夏の甲子園の優勝投手。決勝で対戦した熊本工業のメンバーには、当時二年生の川上哲治がいた。川上はまったく藤村の剛球を撃てず,3打席3三振だった。藤村は大阪タイガースに入団。戦前タイガースの中心選手として活躍するが、その活躍はむしろ、戦後からだった。その藤村に野球におけるショー的重要性を教えたのが、《東京ブギウギ》を歌う笠置シズ子のステージだった。笠置は戦前ジャズ歌手である。三笠静子が最初の芸名。そして、笠置シズ子から、「シヅ子」へ。服部良一とは戦前の松竹少女歌劇時代からである。ちなみに笠置シヅ子のデビュー曲《恋のステップ》の作曲者、服部ヘンリーは服部良一である。
 藤村は笠置の歌から、体を張ったショーマンとしての意義を感じた。別当に激しいライバル意識をむき出しにする藤村は物干し竿バットーをひっさげてホームランバッターへ転身するのである。藤村富美男といえばミスタータイガースの称号を持ち、巨人の川上哲治と東西の花形スターとして実力人気を誇った。昭和二四年のシーズン、藤村は、四六本のホームランを打ったのである。前年が一三本だから、飛躍的なホームラン増産といえた。翌二五年には首位打者に輝いた。191安打はシーズン最高安打で、しばらく破られなかった。また、この年、巨人の藤本英雄はスライダーを駆使して完全試合を達成した。藤本は下関商業から明大を経て巨人に入団し、早くも剛腕ぶりを発揮してエースとして活躍した。昭和二五年はセパ両リーグ分裂の年。セリーグは、前年の46本のホームラン記録を更新し52本を歌った小鶴誠、神主打法の岩本義行、大岡虎雄らで形成した「水爆打線」を擁した松竹が優勝した。パリーグは、ホームラン王と打点王の別当薫、若林ら阪神からの移籍組の活躍や「和製ボブフェラ-」といわれた荒巻淳の活躍で日本シリーズも制覇した。
 とにかく、長嶋茂雄はこの藤村富美男に憧れたのだ。灰田勝彦は戦後は《野球小僧》を歌い、当時昭和二六年から始まった巨人第二期黄金時代の開幕を呼ぶかのようにヒットした。当時、明日のプロ野球選手を夢見た野球小僧がどれほどいたことか。灰田勝彦の歌声は野球小僧たちの希望の歌だったのだ。同年の《アルプスの牧場》も灰田勝彦のヨーデルが存分にいかされヒットし、灰田勝彦の復活だった。この年は美空ひばりが本格的に売れ始めた。また、タンゴのリズムにのせた津村謙が歌う《上海帰りのリル》も好評だった。
 川上は.377の高打率、青田が三二本のホームランを打ちホームラン王になった。当時灰田勝彦が巨人のエース別所毅彦と義兄弟の盃を交わしたのもこの頃ではなかろうか。また、与那嶺が鮮烈なデビューしたのもこの年。六月一九日の中日戦で三塁線にセーフティーバントを決めたのだ。与那嶺はアメリカフットボール出身であり、猛烈なスライディングを披露するなど新しい野球を日本に持ち込んだ。日本シリーズでは南村不可止が打ちまくった。この年、長嶋は佐倉一高へ入学。三年の夏の甲子園の予選、埼玉県の大宮球場で放ったセンターバックスクリーンへの本ームランは長嶋茂雄の素質の凄さを証明していた。巨人が長嶋のスカウトに動いたが、父親の希望で長嶋は大学進学を選んだ。もし、この時点(昭和二九年)で、長嶋が巨人に入団していたらどうなっていたか。ともあれ、昭和二九年春、長嶋茂雄は立教大学へと進学したのである。昭和二九年といえば、レコード歌謡は戦前の系譜が最後の年である。歌舞伎ソングの《お富さん》、戦争の悲劇を伝える《岩壁の母》、健康的なクラシック歌謡最後の作品・《高原列車は行く》がヒット。翌年からは、レコード会社の歌謡曲の作り方が大幅に変わった。昭和三〇年という年は歌謡界の流れが大きく変化したときだったのだ。人気歌謡曲歌手は津村謙、小畑実、近江俊郎ら美声系歌手から、春日八郎・三橋美智也らの演歌系歌手ヘ歌唱スタイルの主流が変わった。作曲家も古賀政男・服部良一・古関裕而から船村徹・遠藤実・吉田正へ、ヒットメーカーの主流が移行した。また、演歌系歌手では戦前派の岡晴夫、田端義夫の凋落が著しかった。戦前の「団菊」の足取りは次の通り。、藤山一郎はNHK専属へ、クラシックの小品を歌いながら、東京放送管弦楽団の指揮者として紅白にも関わり、東海林太郎は、民間情報教育局によって苦しめられた一時期のスランプを脱し地方公演で、戦前の人気を思わすような千両役者ぶりだった。
 昭和三三年、長嶋茂雄がプロ野球に登場した。巨人ー国鉄戦のデビュー戦で金田と対決し、4打席4三振は語り草になっているが、マウンド上の金田は長嶋が空振りするたびにバットが空を切る風圧を感じ、戦慄が走ったそうだ。オールスターでは西鉄の稲尾と対決、稲尾は長嶋の凄さを知る。日本シリーズでも長嶋は稲尾と対決した。西鉄の3連敗の後の4連勝で日本シリーズ3連覇で終わったが、長嶋時代の到来は確かだった。
 私がテレビで長嶋茂雄を見たというよりは、テレビでプロ野球を見たのは小学校二年の時である。巨人-大洋戦だった。「巨人の星」が野球漫画の王座を占めていた頃だ。その前の王座は、SF的な魔球野球漫画『黒い秘密兵器』。ちばてつやの『ちかいの魔球』より面白かった。
 初めて見たその時の巨人のオーダーは、1高田(左)2土井(二)3王(一)4長嶋(三)5黒江(遊)6国松(右)7柴田(中)8森(捕)9高橋明(投)。広岡は川上との確執が原因ですでに巨人を退団していた。大洋のオーダーは覚えていない。桑田武、長田幸雄、近藤昭仁、近藤和彦、松原誠らがメンバーにいた記憶がある。捕手は伊藤勲だったような気がする。監督は別当薫だった。私の年代では、阪神のショートは牛若丸吉田義男ではなく、藤田平である。藤田は好走守三拍子揃った選手だった。サード後藤、ファースト遠井、外人の助っ人では、カークランド、強打には児玉がいた。すでに、昭和三〇年代活躍した選手は消えており、当然、並木は知らない。昭和四三年の巨人阪神戦では、やはり、記憶に残っているのは、バッキーの王へのビンボールに端を発した乱闘事件である。王がバッキーに注意をしようとマウンドに駆け寄るたびに、両軍入り乱れ阪神ファンも観客席からなだれ込み騒然とした場面が展開した。乱闘中に王の師匠である荒川コーチが負傷、乱闘もおさまり試合再開。ところが、バッキーに代わった権藤が初球、いきなり王の頭部を直撃するデットボール。再び乱闘になった。その時、乱闘に加わらずバッティングサークルにいて動静をじっと見つめ、試合再開後の初球をレフトスタンドへたたき込んだのが長嶋茂雄だった。巨人軍魂を見せた一打だったといえよう。
 翌年オールスターを初めて見た(テレビ)。セリーグのオーダーは覚えている。6藤田(阪神)8中(中日)3王(巨人)7江藤(中日)5長嶋(巨人)9山内(広島)2田淵(阪神)4武上(アトムズ)1。投手は誰だか覚えていない。新人の田淵幸一(阪神)が金田留広から豪甲斐ホームランを打ったことは覚えている。ホームランと言えば、張本(東映)の弾丸ライナーのライトスタンドへ突き刺さったホームランは凄かった。
 話を上原敏に戻そう。秩父は、松本青年(上原敏)の専大の先輩で、しかも大の野球ファン。彼は、松本青年の声に魅せられた。声楽家の大和田愛羅に声楽を学ばせた。芸名は『山のあなた』の名薬で知られる上田敏からヒントを得た。《恋の絵日傘》を歌い好評を得るとポリドールは上原敏の売り出しにかかったのである。ポリドールは、東海林太郎の日本調歌謡よりももっと泥臭く歌える歌手を必要としていた。浪花節ファンを流行歌にひきつけたかったのである。上原敏は澄んだ響きだが、艶歌唱法で道中・股旅歌謡を歌い、浪花節ファン層を流行歌に取り込んだのである。東京芸大首席卒業の本名ではバリトンの声楽家であるクラシックの正統派・藤山一郎と早稲田―満鉄のエリート・日本調で絶大な人気を誇る東海林太郎という「団菊時代」において、新たな個性が生まれたといえる。
 上原敏の登場によって、やがて、庶民層から岡晴夫、田端義夫が艶歌唱法で人気を得るようになったのである。岡晴夫は演歌師の出身。松坂屋の店員をしながら、阿部徳治,坂田義一らに師事した。田端義夫は貧困層のなから出てきた歌手。名古屋で旋盤工の仕事をしながら、新人歌手コンクール三位に入選した。そして、《島の船唄》を歌ってポリドールからデビューした。田端義夫は裏声と地声を交差させながら、うらぶれた農村・漁村で人気があった。岡晴夫は宮古に来たことがあるそうだが、当時、市内で一番大きい「東映」という映画館で歌った。港町ということもあり、岡のその人気たるや、凄まじかったという逸話が残されている。宮古駅から東映の映画館までお客が並んだそうだが、この伝説は未だに風化していない。《東京の花売娘》《青春のパラダイス》《啼くな小鳩よ》《憧れのハワイ航路》を歌いまくり、市民の熱狂ぶりは凄かった。
 宮古は一攫千金を狙って,無頼漢や荒くれどもが集う港町ということもあり、田端義夫の人気も凄かった。岡は外国航路のマドロスを気取ったが、田端はヤクザなあんちゃんマドロスだった。そのアンチャン節をさらに強めたのが藤島桓夫である。マキューリーに移籍した岡晴夫復活をかけて企画した《初めて来た港》を岡自身が蹴ってしまい、藤島にお鉢が回ってきて、藤島でヒットしてしまった。
 田端義夫の歌い方は、地声と裏声を交錯させながら、揺れるの波の如く味のあるバイブレーションは、うらぶれた農村、漁村においても人気があった。戦後の戦地から復員する人々の心を癒した《かえり船》は田端節の傑作といえる。復員船が着く舞鶴の港では田端義夫の《かえり船》のレコードが流れていたそうだ。原詩の「祖国」が「故国」へ変更されたのは、GHQの検閲の圧力だった。
 また、あの浅草オペラの大スター田谷力三も宮古に来たことがあったそうだ。田谷力三はロシーによって見出された。デビューは《燃える水》で初舞台を踏んだ。大正ロマンを彩る浅草オペラの大スターとして活躍した。田谷力三の歌を聴いてオペラへの途を志したのが藤原義江であることは有名な話だ。
 田谷は宮古館という大映の常設館で歌った。マイクロフォン無しの歌だったとか。私が生まれる前のことである。まだ、その頃は、中央通りは道路ではなく、宮古湾へ注ぐ山口川であった。宮古館の前には橋が掛けられていた。我々の年代は、田谷力三はレコード大賞特別賞を受賞し、その姿を大みそかのテレビで見ているから認知度が高い。田谷力三も戦前流行歌をレコードに吹込んでいるが、オペラ調の唸り節のため、ヒットしていない。これは藤山一郎、淡谷のり子の登場以前の声楽家・音楽学校出身者によく見られる現象であり、、美しく歌うというベルカントの意味をはき違え(現在でも同じだが)「唸り節」で日本語が不明瞭なうえに歌唱レベルも低かった。藤山一郎と淡谷のり子の歌唱技術・芸術は卓越している。
 宮古館ではよく怪獣映画『ガメラ』を見た。私の小学校の頃、宮古市には映画館が六つあった。第一常盤座、第二常盤座、洋画を上映していた国際劇場、東映、宮古館、太陽。東映が規模が最大で映画館としては大きく、劇場のような感じだった。宮古市に映画館は大正時代からあったそうだが、映画館楽士がかなり流れてきた歴史があった。宮古市出身でジプシーヴァイオリンニストがいるそうだが、流しヴァイオリンの土地柄の影響だろうか。また、明治三六年の浅草電気館の設立から活動写真の全国巡業が始まっているが、当然、宮古市にも映画文化が伝えられたと思われる。
 東映マンガ祭りは思い出がある。東宝の「ゴジラシリーズ」はなつかしいが「サンダ対ガイラ」は今でも忘れられないほどに怖かった。人間の健康的な理性の色彩と残虐な獣性をサンダとガイラに投影しているようだった。東映また、「ゴジラ映画」・テーマミュージックの伊福部昭音楽はしっかりと刷りこまれ、同級生で自衛隊に入る者も多かった。《モスラの歌》は古関メロディー。小美人を演じたザピーナッツ・のモスラを呼ぶ歌でお馴染である。
 私は小学校時代、上原敏の歌を知らなかった。今なら、《裏町人生》をマンドリンで弾くことがあるが。おそらく、小学校の低学年では東海林太郎の歌と判別できなかったのだろう。 『流行歌たちの戦争』(光人社)で上原敏を取り上げたことはこれも縁なのであろう。《裏町人生》は永井荷風の愛唱歌として有名。よく口ずさんだそうだ。永井荷風は『断腸亭日乗』で「東京行進曲などいふ俗謡この春頃より流行して今に至るものなほすたらず。歌詞の拙劣なるは言ふに及ばず」と流行歌に対して辛辣な批評を述べたが、荷風本人は流行歌に関心がなかったわけではなかったのである。また、昭和モダニズムの堕落ともいえる「エロ・グロ・ナンセンス」の源流である「パンタライ社」にも言及がある。
 「パンタライ」とは「万物流転」がその日本語訳であり、ダダイストの辻潤が命名した。黒瀬春吉が主宰する「性の探求の実験室」でもあった。大正時代の浅草オペラの盛んな時分に観音裏の馬道にあって、「女優派出」の看板を掲げていた怪しげな団体である。それは、ヌードショーを兼ねたお座敷ダンスの元祖である。宮古市出身の大正期において天才街頭演歌師として名をはせた鳥取春陽もまだ、無名の頃、この「パンタライ社」に関わっていたらしい。鳥取春陽といえば、大正流行り唄の名曲・《籠の鳥》の作曲で知られている。昭和初期には演歌とジャズを融合させ、服部良一に影響をあたえた。大正後期から昭和モダンにかけて、ジャズ・ソングの二村定一と並び鳥取春陽の書生節ジャズは関西方面ではかなりのかなりの人気があった。服部が無名の頃、大阪コロムビアで鳥取春陽の編曲をやっていたのは歌謡史の一断片である。また、『ツルレコード昭和流行歌物語』でも、再び、鳥取春陽を書けたことは幸運だった。
 私は、東海林太郎の直立不動という歌唱スタイルには、反モダニズムとしての国粋主義の投影をどうしても感じてしまう。無論、子供の頃はそんなことなど到底考えたこともないが。
 東海林太郎は、大正デモクラシーに燃え上がる早稲田で佐野学にマルクス経済学を学び、満鉄では、庶務部調査課に勤務し「満州に於ける産業組合」という論文を書いた。私も明治大学大学院で柳田国男の産業組合思想について論文を執筆したことがあるので、東海林太郎の論稿には関心があった。農業の企業経営化を円滑に推進するための資金調達機関としての産業組合としての産業組合の位置付だった。したがって、柳田の産業組合観には明治農政の思想を特徴づける農本主義の色彩がなかった。あくまでも、柳田の場合は、合理的な社会現実・農村実態への科学的認識が根ざしており、観察・実測に立脚した帰納性を帯びていたのである。
 東海林は己の論稿それをめぐって上司と対立。鉄嶺の図書館長になるが、音楽への情熱を抑えることができず、ついに退社して荒波の航海に船出するのである。東海林太郎の帰国は昭和五年。昭和モダンの翳が日本を蔽っていた。そして、流行歌は「流行り唄」から「歌謡曲」の時代になっていた。電気吹込みという新しい録音システムを完備した外資系レコード産業の成立によって、歌づくりの方法が大きく変化していた。巷で流行っている「唄」をレコードにするのではなく、レコード会社が企画・製作し誇大宣伝(メディアの利用)によって、都市空間に浮遊する大衆に選択させる仕組みに移ったのである。満州の鉄嶺でクラシックレコード三昧に明け暮れていた東海林は昭和モダンの急速なテンポに戸惑った。
 東海林太郎の人生は波瀾万丈といえる。詳細には、拙著『国境の町 東海林太郎とその時代』(北方新社)を読んで頂きたい。東海林太郎は、昭和八年四・五月、時事新報主催の音楽コンクールで入賞し念願の声楽家への途が開けたかに見えたが、そう甘くはなかった。当時、楽壇の注目は、読売新聞主催の日本新人演奏会だった。上野の東京音楽学校は、声楽に期待の増永丈夫(ビクター専属テナー藤山一郎)と長門美保、武蔵野からは、井崎加代子と渡辺はま子が出演した。増永丈夫は、同年六月のベートーヴェンの《第九》で堂々とバリトンを響かせた。日比谷公会堂の聴衆に感銘をあたえたのである。クラシックの声楽家が流行歌手にもなる。それがモダニズムであり、昭和モダンなのである。
 なぜ、増永丈夫がコンクールに出場しなかったと言えば、すでにプロ歌手として活躍していたからである。クラシック・楽壇、レコード歌謡、どちらも、音楽学校在学中である。昭和六年、昭和恐慌で傾いた生家の借金返済のために、藤山一郎という芸名で古賀政男のギター曲の魅力を表現し一世を風靡したことは歴史が伝えるところである。また、本名の増永丈夫では、昭和七年の暮れ、日比谷公会堂でクラウス.・プリングスハイム指揮の《ローエングリン》でバリトン独唱を演じ、外国人歌手と伍しての独唱は、りっぱなものであった。私は、小学校の低学年の頃に藤山一郎の存在を知っていた。だが、彼が「なつかしの歌声」の番組に出て歌うことに違和感を感じたものである。あきらかに、東海林太郎とは違っていた。音楽と声楽技術おいて、藤山一郎は、卓越していた力をもっていたのである。
 藤山一郎を初めてテレビでみたのは、小学校二年生ぐらいだったと思う。NHKと記憶している。だが、このとき歌った歌が《〇〇の小鳩》という曲だった。テロップには、(昭和二十八年)とあった。だが、そのような歌は、藤山一郎の持ち歌にはないのである。《嘆きの小鳩》という歌があるが、曲想と年代が違う。小鳩といえば、《啼くな小鳩》は岡晴夫のヒット曲である。小学校の低学年の頃だから、記憶違いと思うが、いったいどういう歌だったのだろうか。未だに謎である。私が最初に好きになった歌手は、実は藤山一郎ではなかった。伊藤久男という歌手である。小学校の四年生だか、五年生だったかよく覚えていないが、西郷輝彦を見た同じ小学校の体育館で伊藤久男の熱唱を聴いた。《イヨマンテの夜》《あざみの歌》《暁に祈る》の歌唱は凄かった。男性的な叙情豊かな歌唱は当時の歌謡曲歌手には見られなかったものであり、オペラのベルカントを流行歌に付した点は評価が高い。オペラ歌手の藤原義江にその叙情豊かなバリトンを流行歌に生かせとアドバイスを受け、流行歌の途に進んだそうだ。
 この体育館は私が通っていた宮古小学校の講堂である。まだ、文化会館がなかった頃で、スポーツ競技、歌手の歌唱ショー、テレビの公開番組などの催しに使われることが多かった。そこで、いろいろな歌手を見た。青江美奈、都はるみ、森進一、五木ひろし、小柳ルミ子、藤圭子、クールファイブ、ちあきなおみ、和田アキ子。前川清とは校庭でキャッチボールをしたことがある。さて、伊藤久男の歌唱だが、凄かったの一言。体育館の屋根が飛んでいくかと思った。最後、確か《熱砂の誓い》を歌ったと思う。サビの〈建設の歌〉と張り上げるところを覚えていたから間違いはない。《暁に祈る》はよく覚えていた。軍国歌謡に魅了されていたことから、伊藤久男の叙情・抒情的な歌唱が好きになったのである。これが戦前の歌への関心の原初である。『日本流行歌変遷史』への離陸でもあるのだ。
 昭和四十五年、世を怒り国を憂い、戦後民主主義の偽善を暴き果たせないまま運命の設計図を実行した三島由紀夫の割腹自決事件、70年安保、フォークソングブーム、アイドル歌手時代のはじまり、戦争という意味もわからず精神を奮い立たせるような凛としたものを軍国歌謡からから感じたものであった。三島由紀夫の東京市ヶ谷の自衛隊駐屯地内での割腹自殺はさまざまな話題を提供した。
 ノーベル文学賞候補だった作家三島由紀夫が突然、奇異な行動に出た。久留米陸上自衛隊幹部候補生学校、習志野第一空挺隊、北海道の東千歳駐屯地第七師団に体験入隊したのだ。そして、国際反戦デーから二週間後、「楯の会」が正式結成された。『葉隠』を自分なりに整理し、三島の急速な死へ向かう舞台が設計され始めたかのようだった。三島は昭和四〇年の自作自演の映画『憂国』を制作したあたりから、この死に向かう運命を予測していたかのように思われた。
 昭和四五年一一月二五日、その日は快晴だった。三島由紀夫は、森田必勝ら「楯の会」の同志数名と東京市ヶ谷の自衛隊駐屯地に乱入し、総監を猿ぐつわを嵌めさせ、縛り上げ、椅子やソファーでバリケードを作り占拠した。三島の脚本による活劇の幕が上がったのだ。三島らの要求書は「十一時三十分までに全市ヶ谷駐屯地の自衛官を本館前に集合せしめること」と記されていた。要求を拒否すれば、総監を殺害し自決するということが付け加えられていた。三島は吉松防衛副長に「十二時までに自衛隊をバルコニー前に集めろ」と要求。ちょうど正午、「七生報国」の鉢巻き姿の三島の檄が漫然と立ち尽くしている自衛隊に飛んだ。

 「戦後の日本が、経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失い、本を正さずして末に走り、 その場しのぎと偽善に陥り、自らの魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力欲、偽善のみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を瀆;してゆくのを 歯嚙みをしながらみていなければならなかった」  

 三島の檄文は自衛隊の存在における欺瞞を鋭く衝いた。日本政府と国民のファジーな認知を許さなかったのだ。自衛隊の軍事行動の決起を促したが目的を果たせず、総監室で割腹自決をした。三島の凄まじい気合が外の廊下まで谺したのである。 この事件は小学生だった私にとっても衝撃的な事件だった。
 三島由紀夫の命日は「憂国忌」である。右翼の大物児玉誉士夫は三島由紀夫の弔魂歌として自ら詩想を深め練り上げ、《憂国》を作詞した。偽善を暴き、国を憂い散る運命を感受する尊き者への畏怖の念があった。三島の一周忌にあわせて、完成させ古賀政男が作曲した。古賀政男の旋律は英魂が明日の日本の光となり、未来に輝くことを切望し楽想が深められた。三島への鎮魂のメロディーであり、戦後民主主義の偽善を訴えながら、死の設計図を実行した三島由紀夫へのまさにレクイエムだった。リリクな叙情的歌唱でダイナミックに歌う伊藤久男がレコーディングした。
 伊藤久男は戦前、国民歌謡の名曲に数えられる「暁に祈る」という軍国歌謡の傑作を歌い、戦後は「イヨマンテの夜」「あざみの歌」「山のけむり」などのクラシック系歌謡曲や抒情歌の傑作を歌い昭和を彩った名歌手である。作詞の児玉誉士夫と歌唱の伊藤久男は福島県本宮市出身で故郷を同じくし同級生である。若い頃の児玉は、政治家だった伊藤の父の選挙運動を手伝ったことがある。笹川鎮江の朗詠が入り、船川利夫の尺八を交え、コロムビア・オーケストラが奏でた。伊藤久男の歌唱には三島の闇をつらぬく稲妻の谺、命を捧げた雄叫び、世を怒り国を憂う心情が見事に表現されていた。

  鶴田浩二の軍歌特集をテレビで見て感動したのもその頃である。雑誌『丸』を読み出したもの同時期である。これが、中学一年まで続いたと思う。だが、戦争という意味がわかってくると、軍国歌謡というものを素直に受け入れることができなくなった。
 軍国歌謡は、主として略奪、殺戮、強姦という残酷な非日常的な行為によって弱者から抹消されていく戦争を遂行するために国民精神を昂揚させる目的で作られている。軍国歌謡は、音楽メディアによる一種の修辞学であり、その意味を理解できる年代になると、とても愛好する気にはなれなかった。今にして、思えば、反日・自虐主義的教育の中で育てば当然なのであろう。欧米のアジア侵略を端を発したあの広義の大東亜戦争、狭義の太平洋戦争における日本を批判し反省することは良いことである。だが、心のどこかでは、戦史を捏造してまで針小棒大に正義感を振るいながら批判することは間違っていると思っていた。日本人の誇りを捨てることと反省・批判は別次元である。戦争賛美と誤解されるかもしれないが、日本はアメリカとの戦争において勇敢に戦ったことは歴史として正しく記すべきである。『流行歌手たちの戦争』はあの太平洋戦争で歌手たちがどのように生きたかということと、戦争賛美という曲解の誹りをあえて覚悟していかに我々の祖先が立派に戦ったかを記した一冊でもある。
  当時、流行していたフォークソングは、あのスタイルから 無責任なアナーキーな生活、ひとりよがりな我侭を感じ好きになれなかった。中学生になった頃《神田川》が大変流行していたが、あの無責任さが嫌だった。大人の世界がよくわからない純朴な少年だったのだ。70年代のフォークは大手のレコード会社と結びついた。一気に政治性を帯びたメッセージフォーク、ボブ・デュランの思想を色濃く持つアングラから社会の表面に登場することになったのである。商業フォークの旅たちは吉田拓郎というプリンスを生み出した。 また、当時のアイドル歌手は、愛玩系の郷ひろみ、演歌デビューの野口五郎、激しい肉体から発散する情熱のアクション西城秀樹らの新御三家、ギラギラした真夏の太陽のような南沙織、日本的な情緒を持った小柳ルミ子、清純派アイドルの天地真理に加えて、麻丘めぐみ、アグネスチャン、そして、桜田淳子らが登場していた。山口百恵はデビューの頃は今ひとつの感があった。やがて、山口百恵は爆発的なブームを呼ぶがその成功の要因として、レコード・テレビドラマ・銀幕というそれぞれ異なるメディアから百恵像の個性をアピールしたことにあるのではないか。現代演歌では、森進一、都はるみ、五木ひろし、ちあきなおみなど多士済々だった。そうした時に、藤山一郎の歌唱に魅せられるのである。 
 藤山一郎は、紫綬褒章授章記念ということで昭和四十八年の『紅白歌合戦』に特別出演をして《長崎の鐘》を歌った。至極、感動した。だが、これだけでは、単なるファンで終わっていたであろう。昭和四十九年、三月、藤山一郎のワンマンショー「人生の丘を越えて」がNHKから放送された。私は、テレビで予告番組放送を見て驚いた。藤山一郎の歌唱が私の今までのイメージしていた姿と異なっていたからである。あの頃は、藤山一郎と言えば、明るく健全な歌を格調高く、さわやかに歌う歌手というイメージがあった。私は、この画面を見て、藤山一郎がこんなセンチメンタルな歌を歌うとは実に不思議だった。今にして思えば、この感傷的な歌が《影を慕いて》だったのである。しかも、このシーンしか予告放送されなかったので、よけい印象が強かった。《影を慕いて》の作曲者は古賀政男である。ベルカントの美しい響きで正確無比に歌う藤山一郎と日本歌謡界の大御所古賀政男は、当時の私には結びつかなかった。私の眼には、古賀政男という作曲家は、演歌の作曲家というイメージしかなく、藤山一郎が歌唱する古賀政男作品を聴けば聴くほど、古賀政男という作曲家のそれが遠くなっていくような気がした。後、古賀政男によって名声を博した明治大学マンドリン倶楽部で、古賀政男の音楽を演奏しようとは、夢にも思わなかったが、実際にマンドリンオーケストラで古賀政男のメロディーを演奏してみて、藤山一郎の歌唱芸術がいかに古賀メロディーの魅力を伝えていたかがわかったのである。そして、『評伝古賀政男 青春よ永遠に』(アテネ書房)を上梓するうえで、この音楽体験が役立った。
 さて、この放送では、前年の『紅白歌合戦』で聴いて感動した《長崎の鐘》は歌われなかったが、最後の《青い山脈》は、躍動感に溢れ素晴しかった。また、《丘を越えて》もさわやかでよかった。だが、《影を慕いて》だけは、藤山一郎の奥深い何かを表現していた。歌謡曲には稀有なクラシックの香りをもった格調に秘められた何かがあったのだ。藤山一郎、芸術家としての人生が嘱望されていたが、紫綬褒章受章、勲三等瑞宝章授与、国民栄誉賞受賞と国民的名歌手としての大衆に人気を博すという稀有な人生である。
 一般に不世出の歌手藤山一郎の人生は、栄洸に満ちた直線的推移の歴史認識で捉えがちであるが、実は彼の音楽人生における転轍点で排除されてきたのではないかと思われた。小松耕輔の『我が思いでの楽檀』という著書で藤山一郎は声楽家増永丈夫であることを知ったのも、この頃だった。藤山一郎の根源的問いを示唆したのである。藤山一郎の歌唱芸術は種々の色彩と陰翳を擁した豊富性がある。この豊富性の裡を彷徨し、その底に流れる宿命の「主調低音」を聞くために藤山一郎の歌唱芸術を解析する眩量に誘われたのである。これが、私の『藤山一郎 歌唱の精神』への原初だったように思われる。

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