菊池清麿-SP歌謡の世界・なつかしの歌声

SPレコード歌謡の代表的名歌手(戦前の洋楽系歌手)

 選考基準は、1クラシック歌手であり流行歌にも一応ヒットがある歌手。 2 大晦日の『なつかしの歌声』で最終部のステージに登場した歌手,藤山一郎(声楽家増永丈夫)、淡谷のり子、東海林太郎などの大スター。3 二村定一、佐藤千夜子、藤原義江など創世紀の功労者。これらの歌手の歌唱芸術(殊に声楽技術を正統に解釈した藤山一郎のクルーン唱法)は、近代日本流行歌史はおろか、日本音楽史、日本ポピュラー音楽史においても燦然と輝く。これらの歌唱芸術家の足跡をたどれば、それがそのまま日本の近代音楽、近代日本音楽史の概略となる。昭和モダンを豊饒にした名歌手辞典。近代日本流行歌の変遷がわかる。

『日本流行歌変遷史』(菊池清麿・論創社)
昭和初期、アメリカから電気吹込みを完備した外国レコード産業の到来によって、日本の歌謡曲は誕生した。そして、日本流行歌の変遷の歴史がはじまるのだ。外資系レコード会社も誕生し、近代詩壇で鍛えた作詞家、クラシック・ジャズ系作曲家、藤山一郎、淡谷のり子ら音楽学校出身の洋楽演奏家によって作られた歌謡曲の世界が戦後、ビートルズの来日によって、大きく変貌し消滅しJ・ポップが誕生した。日本流行歌の波乱に満ちた変遷史の決定版。



藤原義江
 
明治三十一年、山口県の生まれ。新国劇時代に田谷力三の歌を聴いてオペラ歌手を志す。当時の芸名は戸山英二郎。大正九年、伊庭孝の進言で渡欧する。欧州各地で好評を博し、「我らのテナー」として凱旋し人気を得た。昭和三年、米国ビクターの赤盤に吹込んだ《荒城の月》《出船》《ふるさと》等のレコードは、一流の外国人演奏家と並んで売り出されたもので国内の名盤愛好家を喜ばせた。声量のあるリリコテノールの美声は日本はおろか欧米の舞台でも数多くのオペラをこなし、愁いのある音色をいかした独特のフレージングは、「藤原ブシ」と言われ、多くのファンを魅了した。世界を舞台に活躍したオペラ歌手である。だが、藤山一郎、小唄勝太郎、淡谷のり子らが登場すると流行歌とは一線を画す。昭和九年藤原歌劇団を創立する。戦前・戦後を一貫して日本オペラの興隆に尽力した。



佐藤千夜子
 
明治三十年、三月十三日、山形天童市の生まれ。天童教会で賛美歌を聴いて洋楽に目覚める。普連土学園から青山学院を経て女子音楽学校で声楽を学ぶ。ペッツォールド、サルコリーに師事する。東京音楽学校(現東京芸術大学音楽部)に入学するが中山晋平の新民謡運動に共鳴し同校を中退。深いソプラノの音色は、日本情緒の表現に適していた。昭和三年、《浮波の港》がヒットし,続いて昭和四年、昭和モダン現象を取り入れた《東京行進曲》が大ヒットして初代歌謡界の女王になる。また、当時、プレクトラム音楽の新進気鋭の活躍をしていた古賀政男(当時古賀正男)のギター・マンドリンの魅力を評価し古賀メロディーの創唱者としての功績がある。昭和五年十月、声楽修行のためにアメリカ経由でイタリアに行く。ロジーナストルキオに声楽を師事する。ミラノ・スカラ座管弦楽団の演奏で中山晋平作品を吹込む。帰国後は、プリマドンナの夢は果たせなかったが、声楽家として地味な活動をした。



二村定一
 
明治三十三年、六月十三日、山口県下関の生まれ。大阪薬学校を中退し、一時下関に帰省するが、その後上京して浅草オペラの高田雅夫に弟子入りをする。大正九年、根岸歌劇団に参加し金竜館で初舞台を踏む(『嫁の取引』)。芸名、二村貞一。大正十一年、『カルメン』に伍長のモラレス役で出演。大正十四年頃から、ニッポノホンでジャズ・ソングを吹込む。昭和に入ると、放送オペラにも出演したが、昭和三年、ニッポノホンやビクター、で吹込んだ《青空》《アラビアの唄》などのジャズ・ソングがヒットし、翌年にはビクターから発売された《君恋し》《浪花小唄》がヒットし、一躍レコード界の寵児となった。昭和モダンにステップをあたえたジャズのリズムと日本情緒を融合させた佐々紅華とのコンビによるものだった。佐藤千夜子と共にビクター躍進の立役者の一人である。その後、浅草でエノケンとコンビを組み活躍した。鼻が長いので「シラノ・ド・ベルジュラック」の「ベー」をとって「ベーちゃん」という愛称で親しまれた。日本語の明瞭な歌唱は、ベルカントの美しい響きで歌う藤山一郎に影響をあたえた。



徳山l
 
明治三十六年、七月二十六日、神奈川県藤沢の生まれ。昭和三年、東京音楽学校(東京芸術大学音楽部)を卒業。昭和四年から六年まで武蔵野音楽学校で講師を務める。昭和五年、《ブロードウエイ・メロディー》で流行歌手としてデビューした。昭和六年、ビクターで吹込んだ《侍ニッポン》がヒットして一躍、人気歌手になる。「ニイロ」を「シンノウ」と間違って歌ったことは夙に有名。つづいて、翌七年、「坂田山心中」をテーマにした《天国に結ぶ恋》がヒットすると流行歌手としての地位を確立した。一方、バリトン歌手としても《第九》のバリトンソロ、《カルメン》のエスカミリオの役を堂々と演じ、その実力をしめした。殊に《第九》のソリスト(矢田部勁吉)が病気で倒れ、その代役を急遽務め新響の危機を救ったことは有名な話である。声量豊かなユーモラスなバリトンは、内外の歌曲、外国民謡、ジャズ・ソングなど幅広くレコードに残されている。古川ロッパとの共演も多く、クラシックと流行歌に活躍した。



四家文子
 
明治三十九年、一月二十日、東京の生まれ。昭和三年東京音楽学校(現東京芸術大学音楽部)を卒業。皇后陛下の御前演奏の栄誉に浴した。昭和四年、《きもちのよい雨》でコロムビアからデビュー。同年には、歌舞伎座で楽劇《堕ちたる天女》に出演し好評を得た。声楽家としての将来を期待された。その後ビクター専属となる。藤野豊子の変名でエロ歌謡を歌っていたが、昭和七年、四家文子の名前で《銀座の柳》がヒットし流行歌手の地位を確立した。また、クラシックではアルト歌手でオペラ、ステージ、放送に活躍したが、流行歌でのヒットが出なくなると声楽家の活動が中心となり、その一方で母校で教鞭をとり後進の指導に励んだ。



関種子
 
明治四十年、九月十八日岡山の生まれ。昭和四年、東京音楽学校卒業。同年の《堕ちたる天女》 では主役を演じ将来を声楽家として期待される。SPレコード歌謡においては、初期の古賀メロディー,《窓に凭れる「て》《嘆きの夜曲》などを吹き込み、昭和十年には池田不二男作曲の《雨に咲く花》をヒットさせた。後にコロムビアからポリドールに転じ、国民歌謡を多く吹込んでいる。また、クラシックでも活躍し、美貌のソプラノ歌手として人気を博した。オペラでは、《カルメン》のミカエラ役、《ファスト》のマルガレータ役を演じている。戦後、藤原歌劇団公演《ラ・ボエーム》のミミ役を演じ好評を得た。後年は、国立音楽大学の教授となり後進の育成に励んだ。



淡谷のり子
 
明治四十年、八月十二日青森の生まれ。昭和四年、東洋音楽学校を卒業。在学中は、リリーレーマンの弟子だった久保田稲子に声楽の基礎を仕込まれた。新人演奏会で《魔弾の射手》のアリアを歌い「十年に一人のソプラノ」と山田耕筰から絶賛される。学校の期待もあり、クラシックの声楽家として歩み始めたが、経済的事情から流行歌の世界に入った。ポリドールから、昭和四年《久慈浜音頭》でデビュー。コロムビアに移り、外国のポピュラー曲を本格的に吹込むようになると、妖艶なソプラノで哀愁を込めジャズ、タンゴ、ラテン、シャンソンを歌う。殊にシャンソンの大人の魅力を最初に表現した歌手でもある。《巴里祭》《暗い日曜日》などの名唱がある。昭和十二年、《別れのブルース》、昭和十三年、《雨のブルース》がヒットし歌謡界の女王に君臨した。クラシックを基調にした繊細かつ豊饒な歌唱は、昭和モダンの哀愁を妖艶に表現した。戦争中は、軍国歌謡の風潮に合わず、苦労したが、戦後、歌謡界の女王としての威厳をしめした。



藤山一郎
 
明治四十四年、四月八日東京の生まれ。慶応幼稚舎時代に童謡を吹込む。昭和八年東京音楽学校(現東京芸術大学音楽部)卒業。上野では、声楽を船橋栄吉、ヴーハーペーニッヒ、指揮・音楽理論をクラウスプリングスハイムに師事。すでに在学中にコロムビアから、藤山一郎としてデビュー。豊かな声量をメッツァヴォーチェにしてマイクロフォンに効果的に吹込むクルーン唱法で《影を慕いて》《酒は涙か溜息か》等の古賀メロディーの魅力を表現し、その一方では、スピントの効いた張りのある美声で《丘を越えて》に代表される青春を高らかに歌唱した。共鳴の響きで歌うというベルカントの美しさを流行歌に初めて実践した歌手でもある。卒業後は、日本ビクター専属となる。流行歌のみならず、内外の歌曲、外国民謡、ジャズ、ポピュラー歌曲等にわたり幅広くレコードを吹込む。その後、テイチク、そして、コロムビアへと移り、戦前・戦後を通じて不世出の国民的歌手として活躍した。《東京ラプソディー》《青い山脈》《長崎の鐘》等のヒットに恵まれた。また、クラシックでは、本名の増永丈夫で《ローエングリーン》《第九》《レクイエム》等を独唱し柔らかいテノールの美しい音色を持つバリトン歌手としても活躍した。豊かな声量と確実な歌唱は、正格歌手としての評価を得て国民栄誉賞に輝いた。



松平晃、
 
明治四十四年、六月二十六日佐賀県の生まれ。武蔵野音楽学校に学んだが、東京音楽学校師範科に編入した。在学中に実家が傾き、藤山一郎の紹介もありニットレコードから、大川静夫の名前でデビューする。その後、タイヘイ、テイチク、キング、ポリドールなどで、多種の変名を使ってレコードを吹込んだ。そのうち、池上利夫で吹込んだポリドールの《忘れられぬ花》がヒットした。昭和八年、コロムビアに日本ビクター専属になっていた藤山一郎の対抗馬として迎えられた。同年、《サーカスの唄》がヒットしてコロムビアの看板歌手になる。コロムビアでは、江口夜詩とのコンビによって満州を舞台にした「曠野もの」でヒットを飛ばした。《急げ幌馬車》《夕日は落ちて》等の代表曲がある。昭和十一年には、《花言葉の唄》《人妻椿》がヒットし、日本調歌謡のポリドールや古賀メロディーのテイチクなどの新興勢力に対してコロムビアの看板歌手のプライドを保った。だが、その後は、ヒット曲が出ずコロムビアの「黄金時代には主役の座を降りなければならなかった。「佐賀っぽ」と言われるように情熱的な青春歌手として多くのファンを魅了した。



松原操
 
明治四十四年、三月二十八日北海道の生まれ。昭和七年東京音楽学校(現東京芸術大学音楽部)卒業。同校の研究科在籍中にコロムビアから、《浮き草の唄》でデビューした。まだ、上野の研究科に在籍していることもあり、ミス・コロムビアの芸名を使った。同年、《十九の春》がヒット。人気流行歌手となる。昭和十四年、《旅の夜風》で共演した霧島昇と華燭の祭典を挙げた後は、本名の松原操でレコードを吹込むようになった。メゾ・ソプラノの澄んだ響きは、流行歌に適していた。



渡辺はま子
 
明治四十三年、十月二十七日、神奈川の生まれ。昭和八年武蔵野音楽学校を卒業。新人演奏会では、好評を得る。この年は、上野は、バリトンの増永丈夫(藤山一郎)とソプラノの長門美保、武蔵野は、井崎加代子と渡辺はま子が登場し注目された。昭和八年ビクターから、《海鳴る空》でデビューする。藤原歌劇団にも所属していたが、美貌と音色をいかして流行歌に意欲的に取り組んだ。昭和十一年、《忘れちゃいやよ》があまりにも官能的歌唱ということになり、話題になった。その後、コロムビアに移り、国民歌謡の《愛国の花》を格調高く歌い、異国ムード溢れる《支那の夜》をヒットさせた。チャイナメロディーの第一人者となり、《いとしあの星》など数々のヒットを飛ばした。美貌と可憐なソプラノの音色は、SPレコード歌謡を華やかなものにし、大スターの貫禄十分であった。戦後も《雨のオランダ坂》をヒットさせ、ビクターに移っては、《桑港のチャイナタウン》や、社会派歌謡としての《モンテンルパの夜は更けて》などのヒット曲がある。



東海林太郎

 
明治三十一年、十二月十一日、秋田県の生まれ。秋田中学から早稲田大学に進む。在学中は、マルクス経済学者佐野学に師事。早稲田を卒業後、南満州鉄道株式会社庶務部調査課に入る。音楽への夢がやみ難く、職を辞して帰国。声楽を下八川圭祐に師事し、時事新報社主催の第二回音楽コンクールで入賞する。昭和八年、ニットーレコードから《遠き日の夢》でデビューする。昭和九年、ポリドールで吹込んだ《赤城の子守唄》が空前のヒットとなり、流行歌手の地位を築く。放送オペラにもバリトンで出演していたが、同年暮れの《国境の町》も大ヒットし東海林太郎時代が到来した。愁いのある澄んだバリトンと直立不動の歌唱スタイルは、反モダニズムともいうべき国粋主義の風潮とマッチし、《旅笠道中》などの「道中物」や《すみだ川》に代表される日本調歌謡において名唱を残した。また、その一方では、《谷間の灯》などの外国民謡も定評があった。戦後は、レコードのヒットはなかったが、男性歌手のなかで人気は他の追随を許さず、昭和四十七年逝去するまで、直立不動の精神と共に東海林太郎時代は続いた。



灰田勝彦

 明治四十四年、八月二十日ハワイ生まれ。立教大学在学中にハワイアンの「モアナ・グリークラブ」に参加。昭和八年、《モアナうるわし》でニットーから、デビューする。翌九年には、テイチクでもハワイアンを中心にレコードの吹込みを行った。また、ポリドールでは、藤田稔の名前で《浅草ブルース》を吹込んでいる。昭和十一年、ビクター専属になる。ハワイアン、ジャズを中心にポピュラー曲を数多く吹込む。昭和十五年、映画『秀子の応援団長』の主題歌である《燦めく星座》が大ヒットして、都市偏重だった灰田勝彦の人気が全国的な広がりを見せた。ヨーデルを交えた裏声と渋いバリトンは多くの女性ファンを魅了した。戦争中は、ハワイアンは敵性音楽であるとして歌うことができず、苦労したが《新雪》《鈴懸の径》などのヒットを飛ばした。戦後は、服部良一とのコンビで《東京の屋根の下》、灰田のヨーデルが多くの歌謡ファンを魅了した《アルプスの牧場》、《野球小僧》などのヒットにも恵まれた。



ディック・ミネ
 
明治四十一年、十月五日徳島の生まれ。昭和七年立教大学を卒業。逓信省に勤めていたが、バンドで身を立てようと、ドラマーとして和泉橋、フロリダ等のダンスホールで演奏した。レコード吹込みの伴奏でも活躍し、ミス・コロムビアが歌った《十九の春》のスチールギターは、彼の演奏である。昭和九年、テイチクから《ロマンチィック》を吹込みデビューした。その後《ダイナ》がヒットしジャズシンガーとして活躍する。日本最高の男性ジャズシンガーであり、今後、彼を越える歌手はでないであろう。一方、レコード歌謡(流行歌)においても、昭和十年、昭和モダンライフを歌った《二人は若い》のヒットを皮切りに昭和十二年《人生の並木路》がヒットし人気流行歌手の仲間入りをはたした。古賀メロディー以外にも外国ソングのフィーリングをいかした《上海ブルース》、昭和モダンの余韻を残した《或る雨の午後》などヒットが多い。また、外国のポピュラー曲も数多く吹込んでおり、戦前の日本の軽音楽のレベルの高さをしめしている。



楠木繁夫
 
明治三十七年、一月二十日高知の生まれ。昭和三年、東京音楽学校を退学。その後、関西のオリエント、名古屋のツルレコードなど流行歌を吹込む。当時、街頭演歌師から作曲家に転じた鳥取春陽とコンビを組んだ。昭和五年、六年頃、本名の黒田進、秋田登の変名でコロムビアでも流行歌を吹込んだ。昭和六年、古賀政男の《キャンプ小唄》の吹込み候補になったが、後輩の増永丈夫が藤山一郎の芸名で吹込み、チャンスを逃した。その後、再び関西に流れて行った。本名の黒田進以外に実に五十五種類の変名で、ニット、タイヘイ等のマイナーレーベルで流行歌を吹込んだ。昭和九年、テイチクがコロムビアから古賀政男を招き東京進出をはたすと、早速、同社に専属歌手として招かれ、楠木繁夫として再生する。昭和十年、古賀メロディーの《緑の地平線》がヒットし、不遇の身が転じてスターダムにのし上がった。歌唱力にも定評がありソフトな美声で多くの歌謡ファンを魅了した。戦後は、ヒットが出ず、昭和三十一年、自ら命を絶った。



松島詩子
 
明治三十八年、五月十二日、山口県柳井市の生まれ。広島で女学校の先生をしていたが、文部省の検定試験に合格しその才能をいかすため上京して声楽を浅野千鶴子に師事した。昭和七年、《ラッキーセブンの唄》でコロムビアからデビューする。そのときは柳井はるみの名前だった。その後、ニットー、リーガル、テイチク、キングなどで吹込み、千早淑子、東貴美子などの変名を多数使用した。昭和十二年、昭和モダンの余韻をもたらした《マロニエの木陰》がヒットしてようやく人気歌手となった。流行歌で活動する一方で、声楽の修行も怠らず声楽家としての独唱会も開いている。戦後は、田谷力三とオペラに出演するなど精力的な活動を行った。



伊藤久男
 
明治四十三年、七月七日、福島の生まれ。東京農大に進学したが、音楽の魅力にとりつかれ帝国音楽学校に学んだ。同県出身のオペラ歌手平間文寿に仕込まれたバリトンは、ドラマテック抒情性に溢れそれが流行歌に生かされ、歌手として成功する途が約束されていた。昭和八年、リーガルレコードから、《今宵の雨》でデビュー。その後、コロムビアで吹込むようになる。軍国歌謡が台頭すると、声量豊かなバリトンで熱唱し《暁に祈る》などをヒットさせた。悲壮感溢れるメロディーに伊藤久男の抒情性がマッチしていた。流行歌では、《白蘭の歌》《高原の旅愁》がヒットし流行歌手の地位を確立した。戦後になると、抒情的なバリトンでラジオ歌謡において美声を響かせた。《たそがれの夢》《あざみの歌》《山のけむり》等の名唱は人々に大きな感銘をあたえている。また、《イヨマンテの夜》は一世を風靡し、その豪快な歌唱は、伊藤久男の名声をゆるぎないものにした。藤山一郎が古関メロディーの美しさを表現したことに対して、伊藤久男は、古関メロディーの抒情性を表現したといえる。



霧島昇
 
大正三年、六月福島の生まれ。流行歌手を目指し東洋音楽学校に学ぶ。昭和十一年、エジソンレコードか坂本英明の名前で《僕の思ひ出》を吹込み、レコード歌謡に登場した。その後、コロムビアの目に止まり、《思い出の江の島》《月の夜舟》を吹込み、霧島昇として同社から、デビューした。昭和十三年、映画『愛染かつら』の主題歌、《旅の夜風》が大ヒットし一躍、人気歌手になった。共演者のミス・コロムビアとはこれが縁となり、ゴールインした。昭和十五年、古賀政男作曲の《誰か故郷を想わざる》がヒット。これを皮切りに《新妻鏡》《目ン無い千鳥》などの古賀メロディーのヒット作品に恵まれる。また、渡辺はま子と共演した服部メロディーの《蘇州夜曲》もヒットした。彼の甘い歌声は、多くのレコード歌謡ファンの期待を満足するものであった。戦後も、《三百六十五夜》《麗人の歌》などの古賀メロディーをはじめ、《胸の振り子》などのヒットがある。



二葉あき子
 
大正四年,二月二日、広島の生まれ。昭和十年、東京音楽学校師範科卒業。在学中、奏楽堂で同校期待の増永丈夫のバリトンを聴いて感銘し、しかも、すでに流行歌手藤山一郎としての声価を得ていたことを知るにおよんで流行歌への途を意識する。レコードデビューは、在学中にコロムビアから教育レコードを吹込んでいる。卒業後、地元の広島の三次高女で教鞭をとる。教師時代も上京して学校用教材のレコードを吹込んだ。昭和十一年、春コロムビアの専属となる。《愛の揺り籃》が最初のレコードだった。昭和十四年、《古き花園》ヒットすると人気歌手としての声価を得る。戦後になると、《別れても》《夜のプラットホーム》《恋の曼珠沙華》《さよならルンバ》等のヒット曲を放った。昭和二十五年の《水色のワルツ》は、綺麗なメロディーに二葉あき子の歌唱が合い、人々に潤いをあたえた。